Love Live!Aftertalk!

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~優しい「断絶」~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第21話(2期8話)「HAKODATE」

皆様こんにちは、こんばんは。

今回も私の「妄想」をお届けします。

 

さて、今回はサンシャインでは久々となる前後編(1期7話8話以来?)。本来は9話も含めてオーガナイズするのが正しいのかもしれませんが、この8話だけでも様々な情報が含まれており、非常に興味深い内容でしたので、8話のみで記事を構成してみようと思います。

とはいえ、今回も物語の全容を掴むことは難しいので、全体を追うというよりも、概要をメインに気になるポイントに触れていくスタイルで参ります。

また、今回の記事内容が9話においてひっくり返される可能性は十分にございます。そこは含みおきくださると幸いです。

しつこいようですが、本記事は私の「妄想」です。決して「正解」ではございませんので、ご了承願います(笑)。

それでは参りましょう。#8「HAKODATE」です。

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■「ラブライブ!」ならではの「物語構造」

今回の物語の構造を読み解くうえで、まず最初に頭に入れておきたいのが、「今回の主役が誰なのか」という点です。

ラブライブ!」では、これまでも回によって「主役」が入れ替わり、その「主役」をメインに据えた「物語」が描かれてきました。

度々「ラブライブ!」を巡る不満点として語られがちなのは「回によってキャラクターが死んでしまう(活躍しないの意)こと」なのですが、これはあくまでも「キャラクターのために物語を紡ぐ」のではなく、「物語のためにキャラクターが存在する」という「アニメ版ラブライブ!」ならではのバランス感覚に要因があります。

とはいえ、このバランス構造自体に「アニメ版ラブライブ!」という作品の「魅力そのもの」も凝縮されており、ここを根拠に作品としての「良し悪し」を語るのは難しいところでもあります。要はここが合わない方は「アニメ版ラブライブ!」自体を受け付けられないと思うくらいで。もう「好き嫌い」のレベルになってしてしまうポイントでもあるわけです。

今回「黒澤ルビィ」がメインの登場人物であるにも関わらず、親友であるところの「国木田花丸」がその感情の機微にまったく「無頓着」であることが、突っ込みどころとしてよく指摘されているようです。

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ただし、ここにも「物語のためにキャラクターが存在している」というバランス感覚が背景にあるのです。

今回の物語を描くうえで、ルビィの物語に花丸が絡んでいってしまうと、かえってその要素が「伝えたい物語を描く」上での「邪魔な要素=ノイズ」になりかねない。だからこそ花丸を今回は「本線には絡ませていかない」。そこには物語をよりスムーズに進行させ、テーマを散漫にさせないための「アニメ版ラブライブ!」ならではの工夫を感じるのです。

とはいえ物語そのものを全面的に「軽く」するために、花丸をコメディリリーフとして起用するのまでは、いささかやりすぎなのかもしれませんが。

「物語のためにキャラクターが存在している」即ち「物語の持つテーマを伝えるためにその時にあったキャラクターを起用する」のが「ラブライブ!」だとすれば、今回黒澤ルビィと共に「主役」としての任を与えられた人物にも、それ相応の「理由」があっての「起用」であることが理解できます。

ルビィと共に物語の主軸に立つのは、鹿角理亞

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彼女が今回の物語において、どのような「役割」を背負って登場しているのか。それに関する私の考え方は後述することといたしましょう。


■空白を描く

本選出場を目指すSaint snow。そんな彼女達のおひざ元である「北海道地区予選」のゲストとしてお呼ばれしたAqours。彼女達と写真を撮りたがる予選出場者が現れるように、今や拡大化した「ラブライブ!」においては「本選出場」自体が一種の「ステータス」と化していることが伺えます。

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反面この事実が伝えるのは「敗者には何も与えられない」という事。この残酷なまでに現実的なシステムを直接的でなく視聴者に伝えることで、「敗北」の持つ「重み」や「痛み」も伝えようとする。このシーンにはそんな意図も感じます。

Saint snowの楽屋に挨拶に向かうAqours。出迎えた聖良は自信に満ち溢れています。

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Aqoursと雌雄を決する場所は本選」。そう言って憚らない聖良。反面その大きな自信が我々視聴者の心を揺さぶります。

「果たして大丈夫なのか」「何か起きてしまうのではないか」

悪い予感であってほしいと願った瞬間、それは現実のものに。

ブツリと途絶える場面。直後映し出される予選突破者の名前。そこにSaint snowの名前はありません。

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千歌や曜のモノローグで語られる「事件のあらまし」。挨拶に向かった楽屋に、既にSaint snowの姿はありません。

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自信に満ち溢れた聖良が、ほんの数時間前まで座っていた場所。しかしそこに彼女達はいない。

「何が起きたのかを描かないこと」「不在であること」といった「空白」を敢えて描写することは、起きた出来事を「直接的」に描くよりも、より強烈な「印象」を視聴者に与えることがあります。事件の「空白」。楽屋の「空白」。それらを見ることで、我々はその「空白」を想像力によって埋めようとする。その行為がより強烈な「空白の持つ残酷性」を脳内で強調させる。実に良く出来たシーン構成でした。

※それ故、後々Saint snowの「失敗シーン」を「見せてしまう」ことが蛇足に感じられましたが。恐らくそこを見せないことで起きる「クレーム」を考慮してなのでしょうが、少しもったいなかったですね。


■合わせ鏡の二人

予選開始前から落ち着かない理亞の様子を見て、何かを感じ取った様子だったルビィ。

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ルビィが理亞に不思議なシンパシーを感じる理由は、誰しも分かること。それは二人が「とても良く似た存在だから」にほかありません。

「性格」こそ違えど、「髪型」「姉を慕っている」「姉と共にスクールアイドルをしている」という形式上の共通点が多い二人。そして二人が決定的に「同じ」である要素は「姉と自分とをつなぎとめる要素」として「スクールアイドルを見ている」という部分でしょうか。

ルビィも理亞も「何故スクールアイドルを好きになったのか」に関しての動機が語られたことがありません。ですので想像に過ぎないのですが、その根底には「姉の影響」というものが色濃くあるように思えます。

ルビィが元々は姉ダイヤと共に「スクールアイドルの真似事」をしていたのは、1期4話で語られた通り。

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また初期Aqours結成時においては、活動開始に向けて率先して動いていたのはダイヤと果南だったように、

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元々はダイヤこそが「スクールアイドル好き」であったことは、ハッキリと描かれていること。とすると、ルビィの「スクールアイドル好き」も彼女の影響故なのでは?というのは容易に想像ができます。

理亞に関しては根拠自体が無いため、想像すら難しいのですが、ここで重要になってくるのはルビィと理亞に共通している「姉を病的なまでに崇拝している」という要素ではないでしょうか。

物語終盤繰り広げられる「姉自慢合戦」。お互いが譲り合うことなく続く「私の姉が凄い」合戦は、一種の微笑ましいシーンでもあるのですが(笑)。

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いかに肉親とはいえここまで姉を「崇拝できる」二人は、少し「普通ではない」のかもしれません。

そしてこの過剰なまでの「崇拝」からは、同時に「追いつく、並び立つことの出来ない存在」への「畏怖」のような感情も感じてしまうのです。

「大好き」で「尊敬」している対象に「置いていかれる」感覚というのはどのようなものなのか、私には計り知れません。ただ、すぐ隣にいる人が「自分とは違う世界の住人になってしまう」ような感覚が恐ろしいものであることは、なんとなく想像できます。

ルビィにとってのダイヤ、理亞にとっての聖良はもしかしたら、そんな存在なのかもしれません。自分にとっての「崇拝する」対象故に、並び立てない「ジレンマ」も抱えている。

ただしそれを「フラットにする」方法がある。それが「スクールアイドル」です。実生活において自分から必然的に「遠く離れて行ってしまう」存在を、自分と同じ「土俵」に繋ぎとめておくことが出来る「舞台」。「スクールアイドル」には、そういった利用価値もあるのです。

二人がその「利用価値」を知った上で「スクールアイドル」をやっているとまでは思いません。二人とも「スクールアイドル」そのものに「価値」を感じている。しかし、無意識に「スクールアイドル」が持つそういった「機能性」を「利用」している部分もある。故に二人は「スクールアイドル活動に執着するのでは?」と考えられるわけです。「スクールアイドル」である限り、彼女達は「姉と並び立っていられる」のですから。

反面それ故に、二人は「スクールアイドル活動」が「終わってしまう」ことに同じような「恐怖感」を覚えているのでは?とも理解できるのです。

今回予選で敗退してしまったことによって「姉と共に活動する」という意味においての「スクールアイドル活動」が「終了」してしまった理亞。ルビィがその姿を見てショックを受けるのは、自分にもやがて訪れる「終わり」を「実感」してしまったからではないでしょうか。

ルビィが語った理亞の心境。「お姉ちゃんと一緒に出来ないのなら、やる意味がない」。そこには彼女達にしかわからない複雑な感情が渦巻いているのです。

とはいえ、果たして「スクールアイドル」というのは、そのようなある種の「後ろ向きな満足感」を充足させるためのツールであるべきなのか。

もっと「未来」に向けて、有効な存在なのではないか。そういった気づきを似た者同士の二人が、お互いを「補完」しながら得ていく。今回の物語にはそんなテーマが隠されているように思えるのです。

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■函館という場所~夢の行く末~

これまでも北海道のスクールアイドルであることが語られてきたSaint snow。しかし彼女達の地元が函館であることは今回初めて明らかになった情報でした。

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Aqoursが偶然立ち寄った古風なお茶屋さん。そこを営んでいたのが、なんと鹿角姉妹というご都合主義的展開ではありましたが(笑)。

聖良は、「将来姉妹二人でこのお店を経営していくことが夢」だと語ります。

その言葉に「そうなんだ」と敏感に反応するのはルビィ。彼女は「スクールアイドルでなくなった」としても「姉との関係が継続されていく理亞」に明確に「嫉妬心」を抱いているようです。

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一見可愛らしく、慎ましやかで平凡な聖良の「夢」。

梨子が絶賛するように、美しい街で、ゆっくりと人生を送るのも、悪くない選択のように思えます。

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ただし、「函館」という舞台設定を考慮した場合、それはなかなかに難しい「夢」であるように思えてもきます。

Saint snowを訪ねるべきAqoursが立ち寄った彼女達の「母校」。そのモデルとなった函館西高校は、平成29年に「統廃合」が決定している学校でもあります。

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また「函館市」は平成26年4月1日を以て、「全市域」が「過疎地域」として指定された市でもあります。

 函館市は,「過疎地域自立促進特別措置法」の規定により過疎地域の指定を受けていた戸井町,恵山町椴法華村南茅部町の4町村と平成16年12月1日に合併し,合併後も引き続き過疎地域とみなされる旧4町村地域の振興発展に努めてきましたが,平成26年4月1日に「過疎地域自立促進特別措置法の一部を改正する法律」が施行され,旧函館市域を含めた全市域が過疎地域に指定されました。

函館市過疎地域自立促進市町村計画(平成28年度~平成32年度)関連 | 函館市

 過疎とは...

人口が急激かつ大幅に減少したため、地域社会の機能が低下し、住民が一定の生活水準を維持することが困難になった状態をいう。

即ち、このままではやがて「誰も住まない地域になってしまう」ことを確定づけられている場所でもあるわけです。

そんな地域で、姉妹二人が慎ましやかな喫茶店を経営しながら暮らしていくことは、果たして現実的なのか。

一見ルビィが羨ましがる鹿角姉妹の「夢」ですが、背景にはとんでもない「難しさ」と「厳しさ」が潜んでいる。

そして少なくとも理亞は、そんな現実を実感としては「感じ取っている」。だからこそ「スクールアイドル」として「姉と過ごす時間」を大事に思っているのでは?とも思えてくるのです。

鹿角姉妹の本拠地として、敢えて札幌などではなく「函館」という地域を選んだのには、そんな視点をこちらにも共有させるためなのかな?と思えるわけです。


■優しい「断絶」

理亞の気持ちを代弁するうちに「自分のこと」を話していることに気付いてしまったルビィ。いつもの如くその場所から逃げ出してしまいます。

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海辺で黄昏るルビィ。そんな彼女に声をかけるのは、やはり姉のダイヤです。

理亞と自分とを近づけることで「終わり」とそれが持つ「意味」を実感してしまったルビィ。その思いをダイヤに直接ぶつけます。

「あんなにスクールアイドルを目指していたのに、もう終わっちゃうなんて」

そんなルビィの感情的で真っ直ぐな言葉を「私は満足していますわ」とドッシリと受け止めるダイヤ。しかしそんな物わかりの良い言葉を言いながら、スカートの裾を握りしめる。行動と言葉にどことなくギャップを感じさせるダイヤ。

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彼女がどんな「感情」を抱いているのか。それは我々には分かりません。あらゆる「自己矛盾」を抱えながら、それでも「見据えた未来」に対して、「真っ直ぐに進んでしまうことを選んでしまう」ダイヤ。そんなダイヤの「性質」は2期4話においていよいよ明らかになったわけですが、ダイヤはその「性質」を2期4話では「肯定」されてしまいました。それゆえにこの後にも恐らくダイヤ自信のそういった「性質」自体は「変化していかない」と思われます。

今回もルビィの言葉に感情を揺さぶられながらも、「感情には決して左右されない」ダイヤ。自分自身が自分自身の「立ち位置」において紡ぐべき言葉を、妹であるルビィにも語りかけようとするのです。

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「果南さんと鞠莉さん。2年生や1年生の皆さん。そしてなによりルビィと一緒にスクールアイドルをやることが出来た」

「それでラブライブの決勝です。アキバドームです。夢のようですわ...。」

それは濁ること無き、ダイヤにとっての真実の声。でももしかしたらそれはルビィが聴きたい「答え」ではないのかもしれません。

「でも、ルビィはお姉ちゃんともっと歌いたい...。」

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ルビィの願いはもっと単純で、ある種幼稚なもの。お姉ちゃんともっと「一緒にいたい」。それだけです。

「ルビィを...置いていかないで。」

シンプルで純粋な願い。それは常に「姉に置いていかれてしまう」ことを恐れ続けた彼女の必死の「嘆願」。流石のダイヤも、この言葉には感情が揺れそうになる。でもすぐに持ち直す。

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「大きくなりましたわね。」

「それに一段と美人になりました。」

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ダイヤの言葉に「そんなこと...」と返すルビィ。それに続く言葉は何だったのか。謙遜でしょうか。いえ、恐らくは「そんなこと言わないで」なのではないでしょうか。

ダイヤの言葉は、ルビィの「願い」に対する明確な「拒絶」です。

自分をいつまでも「妹」でいさせてほしい。ずっと一緒にいてほしい。そんな思いをこめての「置いてかないで」。しかし、ダイヤはルビィが「成長」したことを、しっかりとした言葉で伝える。

「大きくなった」「美人になった」。

それはルビィが「一人の女性」として「自立していくこと」を認めると同時に、ルビィに対して「自立すること」を「求める」行為でもあるのです。

1人の「個の女性」としての存在価値を認めるが故に、自分の庇護から「可愛くて仕方ないはず」の「妹」を「切り離していく」。とても胸が苦しくなるような「断絶」ですが、反面そこには「深い愛情」が背景にある。

一見すると「厳しい断絶」が描かれたシーンながら、そうではない「愛情」だけを感じ取れるのは、原点にある「愛情」がしっかりと描写されているからこそ。この「優しい断絶」にこそ、2期8話のキモがあるのだと思います。


■「独立」すること。

ルビィとダイヤの会話から千歌と曜の会話へと切り替わるシーン。

なぜ千歌がピックアップされたのかと言えば、彼女が黒澤姉妹以外のAqoursメンバーでは唯一の「姉持ち」のキャラクターだからでしょう。

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黒澤姉妹とは少し関係性の異なる高海姉妹。

母親が不在の事が多い高海家では、少し歳の離れた長女の志満が母親代わり。故に千歌にとって「姉」として実感できる存在は、歳の近い美渡なのでしょうか。

曜の「お姉ちゃんってどうなの」という問いに「良く分からない」と答える千歌。

千歌にとっての姉は、ルビィにとってのダイヤとは少し違う存在。「尊敬」や「畏怖」とは違って「安心感」を与えてくれる存在です。

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とはいえそれはとても「自然」な受け止め方なのかもしれません。いかに「姉」とはいえ、結局は「他人」である。しかし「他人」とはいえ「家族」としての「絆」は、どのような状況にあっても、どれだけ遠く離れても「消えない」もの。

千歌の言葉は、「姉」という物に対する「別の概念」を気付かせるために存在しているようにも思えます。

「姉」というよりも「家族」として捉える。そうすることで、より「消えない絆」を実感できる。千歌はもしかしたら、ルビィや理亞よりも早く「独立」出来ている人なのかもしれません。

千歌の言葉から再びダイヤの言葉へと物語は戻り...。

ダイヤがルビィに関して「嬉しく感じたこと」。それは「ルビィが自分なりの判断を以て、自分の夢へと足を進めた瞬間」。即ち1期4話での出来事のことでした。

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それまでは「姉が嫌がるから」と「スクールアイドルをやりたい」という夢を封じ込めていたルビィ。そんな彼女が初めて「姉」に対して、一人の「人間」として立ち向かったあの日。確かにルビィにとって、大きな一歩でもありましたが、それはダイヤにとっても大きな印象を与える一歩だったのです。

そしてダイヤからその「事実」を「嬉しかった」と伝えられることで、ルビィもまた一歩、歩みを進めることが出来る。

仮に自分と姉とが物理的に離れて行ったとしても、姉は自分のことをいつでも「見ていてくれる」。そしてその「成長」を「喜んでくれる」。だとすれば、自分が姉から離れ「独立」していくことこそが、大好きな姉に報いる一番の「方法」なのではないか。

そんな「気づき」を伝えるために、ルビィは理亞のもとに足を運ぶのです。


■「終わり」の先へ

「スクールアイドル」でなくなった瞬間に「終わってしまう」と思っていた「自分と姉との関係性」。しかし、「姉」はそうは思っていない。もっと深い「家族の愛情」で「自分自身を見つめてくれている」。

「自分の力無しで、妹が何かを成し遂げたら嬉しい」「自分から離れても、一人でも何かを叶えてくれたら嬉しい」

「終わり」と思っていたものの「先」にあるものに気付いたルビィ。

そしてこれまでは「姉と自分とを結びつける」といういわば「過去」の為に存在していた「スクールアイドル」や「歌」という要素を、その先にある「未来」のためのツールとして使おうと視点転換をしはじめたルビィ。

それだけでも大きな「成長」を感じさせるシーンです。

 また、その「未来」を、自分にとっての「合わせ鏡」である理亞と一緒に「作ろう」とするということ。

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それは、似た者同士でありながら、違う立ち位置にいる二人が、同じ「未来」を見つめて一緒に行動していくということです。

これはどこか2期5話「犬を拾う。」とも近い性質を持った物語とも思えます。

そういった意味では、この「違う立ち位置や方法でも、同じ目標にたどり着く方法がある」というような「多様性の許容」みたいなものが、「サンシャイン!!」2期では、裏テーマとして存在しているのかしら?とも思えてきますね。

さて、果たして彼女達の「気づき」の形とは、どのようなものなのか。そしてそこからどんなインプレッションを得るのか。それは次回のお楽しみですね♪

 

というわけで2期8話「HAKODATE」でした。前後編だから、コンパクトに纏まって良かったです。

来週はヨハネと花丸も活躍するのでしょうか。楽しみです!

~光る風になろう~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第20話(2期7話)「残された時間」

皆様こんにちはorこんばんは。

今回も皆様の暇つぶしにお読み頂ければと思います。

今回は「ラブライブ!サンシャイン!!」2期における折り返し地点。それだけに物語におけるかなり重要な要素を占める内容になりました。

とはいえ物語自体はシンプルなもの。ですので、物語の流れを追うのではなく、全体の概要を掴んだうえで、僕自身がこの回から得たインプレッションのようなものを書いていければ良いなと思いました。

なので、今回は考察というよりも「インプレッション」に近いものとしてご一読頂ければ幸いです。

では参りましょう#7「残された時間」です。

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■人の力で超えられる「運命」と越えられない「運命」

「MIRACLE WAVE」を携えて挑んだ東海地方予選はまさかの1位通過。圧勝でした。

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自らの力で一つの「奇跡」を達成したAqours

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しかしながら一つの達成が雪崩式に次の達成を生む...ことは「サンシャイン!!」ではついぞ描かれません。

それは善子が抽選会会場において、「じゃんけんには勝てた」としても、「抽選には勝てない」ことと同じ。

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「人の力が介在し得る勝利」と、「それが叶わぬ運命」とがある。

それを躊躇なく描く。なぜならそれが「現実」だからです。

ラブライブ!サンシャイン!!」は「ラブライブ!」とは違い「神話」でも「寓話」でもない。その「神話」を信じる「人間たち」の「現実との戦い」の物語である。

だからこそ、「神話」や「寓話」のような出来事は起きえない。

「努力の量と結果は比例しない」。

これは鞠莉の言葉でもありますが、願っても、努力しても、必ず「叶う」とは限らない。

そんな極めて「現実的」な「世界」の物語が「ラブライブ!サンシャイン!!」なのです。

予選大会で圧勝したAqours。そこには勝利に至る彼女たちなりのロジックがありました。

MIRAI TICKET」のような「受け取ったものをそのまま表現する楽曲」ではなく、Aqoursでしか放てない輝き」を放つこと。

それはSaint snowの聖良のアドバイスからたどり着いた必勝法であり、与えられたミッションでもあります。

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「MIRACLE WAVE」によって、そのミッションを達成したからこそ、Aqoursには勝利がもたらされた。そこには「過程」と「結果」における「必然」があります。

しかし、反面これはある種の「人」の力が介在し得る勝利でもあるのです。

では「人」の力だけでは得られない勝利とはなんなのか。

度々作品内で描かれてきたこの「人の力が介在しえない運命」。その決定打がいよいよAqoursに襲い掛かります。

 

■為し得ている「奇跡」と、届かない「奇跡」

「投票」というファクターが勝敗に大きく関係する「ラブライブ」において、「生徒数が少ない」浦の星が圧倒的に「不利」であるということは、以前語られた通り。

しかしそのハンデを物ともせず、この東海地区予選ではAqoursはトップで勝利を収めました。

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ダイヤが語るようにこの勝利の裏側には「Web投票」の力が大きく関係していると思われます。

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浦の星の生徒ではなく、もしかしたら沼津でも、静岡でも無い場所から送られた「票」が、Aqoursに「勝利」をもたらせた。

「地元」とは関係ない「マジョリティ」が、Aqoursの「楽曲」と「パフォーマンス」を評価し、票を投じたわけです。

それは実はとても凄い「奇跡」なのですが、彼女たちはその事実にはまだ気付いていないようです。

それは目の前の掴みたい「奇跡」=「学校の廃校阻止」がその事実を覆い隠しているからなのでしょう。

予選結果のVTRを見ながらも、気になるのは入学希望者が増えているかどうか。しかし、鞠莉の表情は思わしくなく、数字にはほとんど変動がありません。

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ラブライブの東海地方予選の勝利は、生徒数増には「ほとんど影響しない」。

でも、それはよく考えれば当然のことでもあります。

Aqoursが好き」であったとしても、「沼津の内浦の女子高」に通おうとは思わない。仮に思ったとしても、中学生が一人で下せる判断でもない。

そもそもとして、この二つに因果関係を持たせること自体に無理があるのです。

それは果南が語ることと同じ。「いかにこの町が良い街でも、そこに通おうとは思わない」。これもとっても「現実的」な意見です。

これに関しては、根本的な問題が一つあります。

それは、そもそもなぜAqoursはこの「因果関係」を「信じてしまうのか」ということです。

「スクールアイドル活動」と「学校の入学希望者増」とは現実的に考えて因果関係は薄い。それは果南を含めたAqoursのメンバーの何人かも理解していることです。

にも関わらずその「達成」に意味を見出してしまうのは「何故なのか」と問われれば、その背景には、「μ'sの神話」があるから...と考えられます。

 

■「廃校阻止」という「嘘」

アニメ版「ラブライブ」世界線で最大の「嘘」と言って良いのは「μ'sが学校を廃校から救った」というお話です。これは以前にもさせていただいこと。

「サンシャイン!!」の世界においても信じられている「μ'sの神話」。その根底にある「伝説」。それが「μ'sの活動が学校を廃校から救った」という「伝説」です。

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しかし少なくともアニメにおいては「μ'sの活動」と「廃校阻止」にどの程度の因果関係があるのかは、全く分かりません。

理事長はμ'sの活動の成果もあって、学校の注目度が増している,,,と発言していましたが、それが入学希望者の増に繋がっているとは明言しませんでした。

そもそもとして、理事長はμ'sの活動を「生徒数増の為の施策」とは考えておらず「生徒の自主性の尊守」のために許していた。即ち学校としてμ'sの活動が「生徒増に因果性を持つ」とは微塵も考えていなかったわけです。

ただしμ'sが学校の「廃校阻止」を目的として結成されたことは事実。

そして結果的に「廃校阻止」が「達成されてしまった」ことも事実。

この二つの事実が成立してしまった以上、他者が「結びつけない」方が無理がある、というのも理解はできます。

とはいえ「μ'sが学校を廃校から救った」という概念だけが一人歩きしている感も否めなません。

では、何故このような事態になったのかを少し「メタ的」に考えると、こういった背景があった方が「μ's」や「ラブライブ!」という物を「一般化」させやすかったからなのでは?とも思えます。

ラブライブ!」って何?「μ's」って何?

それを一言で説明するのは難しいです。

しかし「ラブライブ!」とは「学校の廃校を阻止するために結成されたアイドルグループが頑張ったお話なのだ」と表現できれば、知らない人に対しても簡単に「説明=一般化」出来ます。

「μ's」は「廃校を阻止するために結成されたアイドルグループで、実際にその夢をかなえた奇跡の担い手」としてしまえば、こちらも一言で説明出来てしまう。

つまり「便利」のための「一般化」とも言えるわけです。

で、実はこれ、本質的な部分での「メタ」的な視点でもあります。
 
僕が「劇場版ラブライブ!」をテレビで再放送で見た際に感じた違和感の一つが、テレビの説明欄でした。

そこには「学校を廃校から救ったμ'sが~」と書かれていて、強烈な違和感を感じたものです。

「μ'sって学校を廃校から救ったのか??」という疑問があったからです。

しかしテレビの説明欄では、分かりやすい「一般化」が必要で、その際には平気でこういった「要約」は行われるわけです。

この要素を大きく解釈すれば、いわゆる「神話」や「寓話」の類も、こういった「一般化」の連続によって成り立っていたりするのではないでしょうか。

例えば三国志諸葛孔明が実際には天気予報をしただけにも関わらず、後々には「天候を操作する祈祷師」になってしまったり。こういうのも「事実」の「一般化」に近いのかもしれません。

本質的なものがどんどん「かいつままれていく」度に「要約化」され「一般化」されていく。何故ならその方が伝達が「楽」だから。そして面白おかしくした方が「伝わりやすいから」でもあります。

個人的には、こういった「要約化」「一般化」は一概に「悪いこと」ではないとも思います。

ただし、もしかしたらその「一般化」されたものを本気で「追随しよう」とする人が現れるかもしれない。

そして時にはその「追随」が「悲劇」を生む可能性もある。

もしかしたら、Aqoursは図らずもその「悲劇」を担わされる結果になってしまったのかもしれません。

12話において「μ'sを追うことを止め」「自らの道を進むこと」を宣言した千歌。その晴れやかな表情からは「μ'sからの独立」をハッキリと感じました。

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しかし実は彼女はまだ無意識化で「μ's神話」の支配下にあるのかもしれません。

そしてそんな千歌を中心に据えるAqoursもまた、気付かぬうちに「μ's神話」の庇護下に置かれてしまっている。

となると、真の意味でそこから「解放される」必要があるようにも思えます。

そう考えると、今回の物語はAqoursを本当の意味で解き放つためのファクターとして用意されているようにも思えてくるのです。

 

■「統廃合」を「阻止できない」ということ

なぜ2期において「廃校問題」がピックアップされたのか

といえば、それはもちろんこの「問題」と、その「帰結」が物語において重要だったからと思えます。

Aqours「μ's神話」の呪縛から「真の意味」で解放されなければいけない。それは先ほど書かせて頂いた通り。

だとすれば、彼女たちを本質的に縛り付ける「カセ」からも彼女たちを解放しなければいけない。

それは何なのかといえば、もちろん「廃校阻止とスクールアイドル活動の因果性」なのでしょう。

μ'sの物語を「神話」たらしめているものが「廃校阻止」なのだとしたらAqoursはその物語を追随してはいけない。それではAqoursは独立できない。

だからこそAqoursは「スクールアイドル活動」によって「廃校阻止」を達成できない。

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酷い話だとは思いますが、物語構造を読み解くとこんな風に理解できます。

またマクロな視点で考えれば、「統廃合阻止」を「達成できない」ことによって、初めて「Aqoursは成長できるのだ」とも考えられます。

事実としてこの瞬間は「悲劇」なのですが、「Aqours」にとってはようやく「μ's神話」という「カセ」から逃れた瞬間でもあるわけです。

無意識に「μ's神話」の庇護下に置かれていたAqoursが、ようやく「自分達自身」で「方向性」を見出していかざるを得なくなる

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この「奇跡の不成立」によって、千歌たちが立たされる「岐路」にこそ、2期の前半戦が描きたかった要素の大部分が集約されているようにも思えます。

そしてこの「岐路」にこそ「サンシャイン!!」だけでなく、「ラブライブ!」というシリーズが示したい「テーマ」が隠されているようにも思えるのです。

 

■「マクガフィン」としての「廃校阻止」に関して

「廃校阻止」に関しては、神話という観点だけでなく「マクガフィン」としての観点も大事なのでは?と思います。

ラブライブ」において「廃校阻止」はマクガフィンである。これは私だけでなく、多くの人が指摘している通りのこと。

マクガフィン」とは「物語を進めるために必要となるニセの目的のこと」。大概の場合にはそれとは別の「本当の目的」というものがある。その目くらましのために用意されるものです。

ルパン3世 カリオストロの城」でいえば「王家の宝」と「指輪」はマクガフィンで、本当のお宝は「クラリスの心」となります。

ラブライブ!」無印において「廃校阻止」は動機であったけれど、途中であっけなく「達成されてしまう」ものでした。これはどう考えてもマクガフィンです。

では本当の「お宝」は何か。

「廃校阻止」の「あっけない達成」と「ラブライブ出場辞退」という状況をもってスクールアイドル活動への動機を失った穂乃果が、「ことり留学」という意図しない事態に直面し、自暴自棄となり、そこから本当の「スクールアイドル」をやる「意味」を見出すのが、「ラブライブ!」1期終盤の物語でした。

一度はスクールアイドル活動を止めてしまった穂乃果。彼女が悩みの中で気付いたのは、自分は「歌うことが大好き」であること。そしてそれを気付かせてくれたμ'sが大好きであること。そんなμ'sでいられる時間=「今」がなによりも大切であることという事実でした。

それに気付いたからこそ、「μ's」と「今」を形作る大切な一員であることりを無理やりにでも引きとめに行く。

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穂乃果が気付いた「今」の価値は、その後物語の「テーマ」として息づいていきました。
ここから分かるのは、すなわちμ'sにとっての「お宝」=大切な「真のテーマ」とは「今」という概念だったということです。

穂乃果がこの「真のテーマ」にたどり着くために必要なファクターとなったのは「廃校阻止」という「マクガフィン」が「終わること」。

極端な話をしてしまえば、実は「廃校を阻止しよう」が「廃校阻止に失敗しよう」がその「結果」と「気づき」にはなんら関係性はありません。

ただ「廃校阻止」は「マクガフィン」として存在し、「動機」としての「意義」を失ったら、今度は「消失する」ことに「意義」を持つ存在になる。

要はそれが「消失した」後に「何に気付き」「何のためにスクールアイドルをするのか」という「新しい動機」を見つけることこそが、真に必要なものであり、「廃校阻止」という問題自体はそれ以上の存在ではない、ということです。

この構造自体は「ラブライブ!」にせよ「ラブライブ!サンシャイン!!」にせよ、全く同じで、差はありません。

 

■何故千歌は「統廃合阻止」に燃えなくてはならないのか。

2期当初から思っている方もいるとは思うけれども、千歌がなぜここまで「統廃合阻止」に燃えるのか...ということにピンと来ていない方は多数いらっしゃるように思います。

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この理由も少し考えてみましょう。

まず前提として、1期の物語を通じて、千歌にとっての「学校」や「地元」への「目線」が変化している、というのは大事な視点だと思います。

最初に「統廃合のニュース」が飛び込んだ瞬間には「自分達の状況」と「μ'sの状況」とを重ねて喜び、第1話では「ここには何もない」とひとりごちていた千歌。

そんな彼女が現在「学校のみんな、地元のみんながいて初めて私たちがいる」と語るまでになった心の変遷は、物語を追いかけていれば、誰しも理解できるものと思います。

3話におけるまばらな集客のライブで、体育館を埋めてくれたのは地元の人々でした。

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6話では「地元のことを何も理解していない!」と鞠莉に激怒され、その後梨子の視点を通じて地元の素晴らしさに気づくことができました。

空に舞い上がる無数の行燈の一つ一つに「地元に住む人々」「一人ひとり」を重ねたAqours。その行燈で「Aqours」の文字を作ったあの日。

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「この場所から始めよう」と誓ったあの日を境に、千歌の視点と心境は大きく変化しているのです。

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「学校のみんな」の存在価値を理解しているからこそ、13話では一切の迷いもなく456の3人をメンバーに迎え入れようとする。

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そんな視点の変化があるからこそ、「統廃合阻止」にも真剣に取り組むようになっている。その変化に関しては、まずは理解してあげなければなと思います。
 
この前提ありきで更に考えてみますと...
さきほどAqoursが知らず知らずに「μ's神話」に「引きずられている」と書かせて頂きましたが、その最たる被害者が千歌だとも言えます。

1期12話において千歌は「μ'sの軌跡」を追体験する中で「μ'sを追うこと」でなく、「μ'sのように進むこと」こそが「輝く方法」なのだと会得しました。

その会得を証明するように降ってきたのが、空から舞い降りた「白い羽根」。千歌はその獲得をもってようやく「輝くこと」の『答えを得た」と思ったはずなのです。

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そしてその思いをぶつけるようにして作った楽曲が「MIRAITICKET」。

ここにはこの時点での千歌の「気づき」が歌詞に存分に散りばめられています。

「光になろう。未来を照らしたい。」

「追う」のではなく自らが「光になる」。

「μ's」が追いつけない「光」なのだとしたら、自分たちも同じような「光」になる。

それが千歌の考えた「答え」でした。

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しかしその思いは結実しなかった。

当初の目標通り、0を1にすることは出来た。けれどもラブライブに出場することは叶わなかった。

ここでの「課題」は恐らくこの「光になる」という「願い」なのだと思えます。

「光になる」「輝く」方法は「まっすぐに自分たちの道を進むことなのだ」と千歌は12話で語りました。

それを信じて進めば、自ずと「結果が付いてくる」のだと。

「自分を信じて進むこと」で「願い」は「結果」として「成就される」。

しかしこれはやはり「μ'sの思考」を真似ただけに過ぎないのです。

「μ'sを追う」ことを止めたはずが、「μ'sのように進んでいる」ために、結果として「μ'sを追随する形になってしまっている」ということに千歌は気づいていません。

千歌の頭の中で「統廃合阻止」が大きな存在となってしまっているのも、「μ's神話」の影響下にあるからというのも、決して無関係では無いはずです。

2期1話において「ラブライブ出場」を逃した千歌が、「輝くため」の「手段」として「統廃合阻止」を主張したのは、それを達成することで、「μ'sの在り方」に「追随」できるからでしょう。

「0を1にして、1を10にして、10を100にして。学校を救って。そうしたら、私たちだけの輝きがきっと見つかる!」

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希望に満ち溢れた宣言のように見えて、実はこれは意図せず「μ's神話」の支配下にいることの表明でもあります。

「自分たちの道」を信じて「まっすぐ進めば」「入学希望者も増えて」「学校の統廃合を阻止できる」。

「μ'sを追いかけない」と誓ったはずなのに、この道のりは「μ's神話」そのもの。やはりこれではダメなのです。

千歌が「統廃合阻止」に「必死」だったのは、この思考に支配されているから、とも思えるのです。

だからこそ今回も「統廃合を阻止しなければ輝けない」とひとりごちるのではないでしょうか。

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彼女がなりたいものは「μ's」ではなく、「光」になった。

でもその「光」になる方法も、所詮は「μ's神話」の支配下にあった。

抜け出したはずの「μ'sの影響下」に未だに千歌はいた...ということになります。

なんだか、孫悟空と大仏様のお話みたいですけども(笑)。

故にそのレールから外れてしまった千歌は「輝く方法」を見出せなくなります。

ラブライブなんてどうでもいい」とまでいうのは、恐らく「ラブライブ」は「廃校阻止」の先にある目標だからでしょうか。

手前でレールが外れてしまったら、千歌にとってそれはどうでもいいものになってしまう。

極端なようですけども、千歌という人はそういう人なのだと思います。

優しくて、素直で、普通で。そしてとんでもなく「不器用」な女の子なのです。

そしてそんな子だからこそ、Aqoursの「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語の中心に、この子が据えられているのだとも思うのです。

 

■与えられる「輝く」方法

「光」になれないのだとしたら、何になれば良いのか。それが7話後半の物語でしょうか。

風に吹かれて飛んでいく「白い羽根」。

かつては千歌が確かに掴んだ「羽根」。それは「希望」を象徴するものでした。

それを現在のAqoursメンバーのだれもが目視できないのは、その「希望」をメンバーのだれもが「失ってしまっている」ことのメタファーなのでしょうね。

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酒井監督もファンブックでこの「羽根」についてコメントされていました。

「羽根」は誰の周りにでも常に飛んでいて、でもそれは「胸に希望を感じた」人にしか見えないもの。だとすればAqoursがこの「羽根」を目視できるようになるためには、何が必要なのでしょうか。

「光」になる方法を見失ったAqours

ラブライブを辞退しようとまで考えたAqours

「学校を救いたい」と叫びながらも絶望している千歌。

そんな千歌に「じゃあ救ってよ!」と呼びかけるのは、浦の星の生徒たちでした。

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「学校の統廃合が決まった」にも関わらず、「ラブライブに出てほしい」「それで学校を救ってほしい」と願う彼女たちの意図を、千歌ははじめは理解できません。

千歌にとっては、「統廃合を阻止」して「学校を救う」ことが「輝くこと」の大前提なのです。それが達成できないのであれば、その先には進めない。その思考パターンは「μ's神話の支配下」にあるからでもあります。

「統廃合を阻止」出来ないのならば、「ラブライブ」にも出場しない。自分達の「輝き」は追い求められない。

千歌の「願い」である「光」になることは、そのもっと先にある目標。

μ'sが叶えた道程。

しかしその大前提で止まってしまった千歌とAqours

これ以上なにをすれば良いのか。どんな道を進めば良いのか。千歌にはそれが見出せないのです。

しかし456を中心とした浦の星の生徒たちは「それとは違う道」を知っています。

「それだけが救う方法なの?」

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Aqoursラブライブで優勝し、ラブライブの歴史に「永遠」に「浦の星女学院」の名前を刻みつけること。

それは彼女たちが「ここにいたこと」を「証明する」最大の「救い」となるものです。

そして実はこれは初めて「μ's神話」というレールを外れた、Aqoursにしか作れない「輝き」なのです。

「統廃合が阻止できなかった」からこそ、作れる「輝き」。そこに456は真っ先に「意味」を見出していたわけです。そしてそれを達成できるのは、Aqoursだけなのです。

結果的にAqoursは、「自分達独自の輝く方法」を「他者」によって「与えられる」ことになるわけです。

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本人が気付かなかった「自分の価値」を「他者が見出し」それを「肯定する」ことで「その人物」が「自分自身を肯定できるようになる」物語。これは1期~2期にかけて何度も描かれたものですが、特に2期ではこの要素が強調されて描かれてきました

これまでも「善子」「ルビィ」「花丸」「曜」「ダイヤ」がこの過程を通じて「自己肯定」を出来るになりました。

そして前回はこれまでその行程を経てこなかった「千歌」と「果南」が「肯定される」物語でした。

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何故ここまでその「テーマ」を描いてきたのかといえば、ここでAqoursそのものに、「他者」からの「肯定」を与えるための布石だったと考えるべきでしょう。

これまで「自分たち自身」を「肯定し続け」、それを原動力に「進んできた」Aqours。彼女達がその「原動力」を失った時、その姿を見て応援してきた人達に「肯定される」ことで、再度進むための「原動力」を手にする。

μ'sが無印2期9話で手にしたものを、μ'sとは全く異なるルートで手にしたとき、「Aqoursだけの道」が開かれたように思います。

ここには2期5話で語られた「ゴールにたどり着く方法は一つでなくて良い」という思想も反映されているのではないでしょうか。

故にここに「ラブライブ!サンシャイン!!」2期前半戦のハイライトが集約されていると言っても良いのでは?とも思えます。

「統廃合阻止」というレールから外れたことで「μ's神話」からも外れたAqours

彼女達は「自分達の輝き」をもって、「浦の星女学院」という学校全体の「輝き」を、「ラブライブ」という「歴史」に「刻む」という「新たなミッション」を得ました。

こうして彼女たちは、今明確に「自分達」の「ストーリー」を「始めた」のではないかなと思います。

「無慈悲な神」に抗う「人間」の物語だった「ラブライブ!サンシャイン!!」。

しかしその「無慈悲」を与える根底に「μ's神話」があったのだとすれば、Aqoursはその「運命」からは逃れられたのかもしれません。

だとすれば、ここから「無慈悲な神を蹂躙していく人間」の物語が始まる...という期待も出来ます。

「普通怪獣」が、本当の「怪獣」になってしまうかもと語った梨子。

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かつては「無慈悲な世界へ怒りを表明する」ことしか出来なかった「普通怪獣」が、本当の「怪獣」になってしまうということは、つまりそういうことなのではないでしょうか。

その言葉から、そんな力強い物語の始まりをも予感できるのです。

 

■光る風になろう。

OPテーマ「未来の僕らは知ってるよ」の歌詞内で意図が掴めなかったものが一つあります。それは最後意味ありげに叫ばれる「光る風になろう」という言葉です。

ググっても出てくるのは山上たつひこ先生のマンガと「ETERNAL WIND」くらい。

がきデカで有名な山上先生ですが、「光る風」は全編ハードボイルドな作品。「ファシスト政権に反抗する青年が革命に失敗する話」ってなんとも思わせぶりなんだけど、これじゃあラブライブにはならないところ。

ということで、あまり関係性を見出せていなかったのです。

しかし、「光」と「風」というものに関して考えるなかで、少しだけ意図が見えてきた。

Aqoursが「光」を目指していた..というのは先ほど書いた通り。

この「光」の原点にあるのは、もちろん「僕たちは一つの光」でしょうか。

μ'sが伝説を作り、「決して手の届かない輝き」になったことはファンであればだれでも知っていること。

事実、物理的にみても、「光」とは、どれだけ高速で移動する「物質」であっても、絶対に「追いつけないもの」。即ち「手の届かないもの」の象徴でもあるのです。

故にAqoursは「光に追いつく事」を止めて「光」そのものになろうとした。

しかし、それは「μ's」になろうとすることと同義であって、やはり「不可能なこと」なのでした。

だとすれば「何になればいいのか」。

そこで登場するのが「風」なのかもしれません。

「光」が「永遠に手の届かないもの」の象徴なのだとすれば、「風」は地球上のどこにでも絶えず「吹き続けるもの」の象徴です。

「手の届かないもの」とは逆に「常にそこにあるもの」。それが「風」なのです。

AKB48は2011年に「風は吹いている」という復興ソングを発表しました。

「それでも未来へ風は吹いている」と語ったこの楽曲は、「どんな状況・状態であれ風が吹き続けるように、未来への希望は絶えずあり続ける」というメッセージソングでした。


【MV full】 風は吹いている(DANCE! DANCE! DANCE! ver.)/AKB48[公式]

「光」は「希望」を象徴するものであるけども、「風」もまた「希望」を象徴するものになりうる。そして両者には「あり方」の違いがある。

「光」が「手の届かないもの」だとすれば、「風」は「常に隣にありつづける」もの。
Aqoursが目指すのは、この「風」なのかもしれません。

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決して手の届かない存在としての「光」になるのではなく、誰の隣にでもそっと寄り添う「風」になる

願った人の胸にそっと「希望」を届ける「風」。

これは「SKY JOURNEY」の世界観とも強い近似性を感じる感覚です。

ishidamashii.hatenablog.com

 いつの時代にもいて、その人に「希望」を与えて、去っていく。

なるほど、Aqoursの物語は、あらゆる部分で少しずつ繋がっているのだなと理解できます。

「光る風」に吹かれて、白から青へと色を変えた羽根。

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これまではμ'sから受け取った「希望」を象徴するものだった「白い羽根」が、Aqoursだけの「希望」を象徴する「青い羽根」に変わる。

そして色が変化したからこそ、千歌はこの羽根を認識することができる。

ここにはようやく「自分だけの願い」と「輝く方法」を手に入れた千歌の気づきが描かれているように思えます。

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そして、個人的には「羽根」にAqoursを象徴させているのではなく、「白い羽根」を「青い羽根」に「変化させ」、その「青い羽根」を遠くまで運んでいく「風」にこそ、Aqoursが「象徴されているのでは」と思えるのです。

「白い羽根」だけでは、人は輝けない。

そこに「自分だけの輝く方法」を重ねて、「自分だけの色」へと変えていく。

その気づきを与える「風」のような存在が、Aqoursの「在り方」であり、μ'sとの「違い」なのかなと思います。

故にAqoursの物語は「神話」ではなく、「人間の物語」として描かれているのかなとも思えるのです。

風に吹かれて、はるか遠くへと飛んでいく青い羽根。

そしてそれを見つめる千歌。

「光る風」によって、ずっと未来へと飛ばされていく「青い羽根」に「Aqours」がこれから進む物語の行く末も象徴されているように思えるのです。

 

...ということで、2期7話のインプレッションでした。

色々指摘したりない部分があるのは重々承知ですが、そこは他のブロガー様にお任せするといたします。

また気づきで思いついたものなどあれば、Twitter等で急に呟くかもしれません(笑)。

 

さて、次回は花丸回!なの?それともルビィ回なの??

どっちなの!!!

また、お会いいたしましょう♪

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

~「足掻き」が生み出す「キセキ」~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第19話(2期6話)「Aqours WAVE」

「神様。
 私に”変えることのできない物事を受け入れる落ち着き”と。
 ”変えることの出来る物事を変える勇気”と。
 ”その違いを見分ける知恵”を授けたまえ。」
                 カート・ヴォネガットJr「スローターハウス5

 

皆様こんにちは。そしてこんばんは。Lovelive aftertalk!です。

前回記事には多くの反響を頂戴しましてありがとうございました。今後も同じように「どうかしている部分」を掘り下げるスタイルは変わらないと思いますが(笑)、何卒ご贔屓にお願いいたしますm(__)m

さて、今回は語るのが野暮な回。「見てそこで感じたものが全て」と言える回でした。なので、なるべくシンプルに、自分のインプレッションのみを纏めていければ良いなと思います。

#6「Aqours WAVE」です。

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■3年生のラストチャンス

いよいよ迫ってくる東海地区予選。

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前回Aqoursが突破を阻まれた場所。嫌が応にも緊張感は高まります。

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別室にて生徒数の動向を確認している3年生=生徒会運営チーム。前回地区予選前に50名まで増えた入学希望者ですが、現在は57名。約1か月で微増と、思うように伸ばせていません。鞠莉の父が設定した期限まで約1か月。となるとこの東海地区予選が「入学希望者を増やす」ミッションにおいての「ラストチャンス」となります。

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また、年2回開催がベターとなっている「ラブライブ!」に関しても、3年生にとってはこの大会が「ラストチャンス」となるもの。

二つの「ラストチャンス」を同時に迎えることになったAqours。果たしてこのピンチをどのように乗り越えるのか。そこが今回の物語のメインストーリーとなっていきます。

超えられない壁を超えるために必要な「プラスワンモア」。そのヒントは果南の中にありそうですが...。

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■自らの力で叶える「必然」を信じる梨子

前回「犬を拾う。」において善子もといヨハネと行動を共にすることで、一つの壁を乗り越えた梨子。彼女の中であの体験はやはりとても大きいものになったようです。

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「自らの在り方」を変えることで、「自分の運命」を「偶然」から「必然」へと変えていく善子。そんな善子の影響は強く、思わずヨハネ流ムーブを同時に取ってしまうほどに。

そんな梨子を見て「とにかく楽しそうで良かった」と告げる千歌。千歌もまた梨子の「ポジティブな変化」にぼんやりとですが気付いているのかもしれません。

高海家では、しいたけに念を送ってこちらを向かせようとするなど、「必然」の実践に余念のない梨子。

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一つ一つの「自分の行動」によって「自分の運命」を切り開くことの「手応え」を感じている梨子。そんな梨子の視野の変化は、今回の物語のテーマにも関与していきます。

 

■「過去」の「失敗」

前回あと一歩まで迫りながら超えられなかった「東海地方予選」。足りないものは何なのか。果南が前回から意味ありげに見つめてきた「フォーメーションノート」。そこにその答えがあるようですが、果南はそれをメンバーには告げられず。

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その背景にあるのは、このダンスフォーメーションによって果南が犯した「失敗」に要因があるようです。

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Aqoursが予選大会で「失敗」を犯したことは1期において語られた通り。その理由とは「鞠莉の怪我を心配した果南が敢えて歌うのを止めた」というもの。

そして今回その「鞠莉の怪我」の原因となったのが、この「ダンスフォーメーション」にあったことが明らかとなりました。

Aqoursがどのような活動をしていたのか。

実はアニメにおいてその話はほとんど登場せず、謎に包まれています。しかし1期でSaint snowと出会った際に「昔の自分を見ているようで苦手」と果南が語ったように、旧Aqoursは果南を中心としてひたすらに「頂点」を目指して「ストイックに活動するグループ」だった...という風に考えられます。

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元々高い身体能力を持ち、ダンスにおいてもそれを発揮する果南。彼女のパフォーマンスレベルは恐らく当時のスクールアイドルの中でも抜きんでたものだったはず。とすればその特徴を生かした楽曲やパフォーマンスを作っていくのも必然。故にそのレベルに見合った「ダンスパフォーマンス」を見せていたとも想像できます。

しかしそれはあくまでも「果南のレベル」を基準としたもの。ダイヤや鞠莉が特別身体能力に優れているという描写がこれまでも無いように、旧Aqoursでは二人がそれに必死に食らいついていった。しかしただひたすらに「頂点」を目指していた果南は二人と自分とのギャップにも気づかず。遂にその「軋轢」が「目に見える形」として現れたのが「鞠莉の怪我」だったのでは?と想像できるのです。

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鞠莉の怪我をきっかけに自分の「過ち」を実感してしまった果南。その「罪」を購う最適な方法を見つけられず、結果「わざと棄権する」という最悪な形で、旧Aqoursの「軌跡」を「終わらせる」に至ったのです。

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彼女にとってこの「過去」と「ダンスフォーメーション」は、そんな「罪」を思い出させる存在。千歌の行動とダイヤの献身によって再開したAqoursではありましたが、果南はこの「過去」に関して、未だに「清算」が出来ていません。

今回の物語の裏側に潜むテーマの一つは、この「果南の過去」の「清算」とも捉えられるのです。

 

■過去の捉え方

果南の抱える「カセ」に薄々気づきながらも、「ダンスフォーメーション」採用を要求する鞠莉とダイヤ。しかし二人は果南にとっては「傷付けてしまった相手」であり「拭い去れない過去の失敗」を象徴する存在です。結果的に「棄権」の判断をきっかけに3人の関係はこじれ、修復までに2年の月日が必要になった。

失ってしまった2年。それを象徴する存在でもある「フォーメーションノート」を「傷つけた相手」から要求される。果南はそのパラドックスを受け入れられず、ノートを海へと投げ入れるという暴挙に出ます。

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果南が「過去」を「投げ捨てる」のはこれが2回目。一度目は9話「未熟DREAMER」において「参加しなかった花火大会」での衣装を手に鞠莉に詰め寄られ、その衣装を窓から外へと投げ捨てました。

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その際は制服マニアの曜が拾う...というギャグシーンに「旧Aqoursの分解を新Aqoursの3人が救う」というメタファーを重ねて表現していましたが...。

今回はそのノートを受け止めるために鞠莉が海へと躊躇なく飛び込みます。

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果南が「捨てたがっている過去」は、しかして鞠莉にとっては「捨てられない過去」でもある。それは果南と鞠莉の「過去」に対する捉え方の違いでもあります。

「否定しないで。あの頃のことを。」

「私にとっては、とても大切な思い出。だからこそやり遂げたい。」

「あの時夢見た”私達のAqours”を完成させたい」

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果南にとっては「自分の選択」によって「傷つけてしまった相手」である鞠莉。しかしその鞠莉は「ラブライブ棄権」も「失った2年」も「大切な思い出」として総括している。ここに二人のギャップが垣間見えます。

それと同時に果南は「傷つけたはずの相手」から「赦しを得ている」わけでもありますが、しかし果南の「カセ」は解消されません。それはこの問題の根底に「果南自身の自我」も関係しているから...なのですが、この辺りはまた後程触れることとしましょう。

 

■「私達の輝き」その「形」。

自分達の現状を聖良に相談する千歌。もはやメンバー以外では千歌が最も信頼している相手になっています。

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会場投票およびWeb投票によって決まる決勝進出チーム。会場投票の票は、そのまま生徒数にも比例するもので、生徒数の少ないAqoursにとっては最も「不利な要素」でもあります。故にAqoursには「学校の生徒以外の票」を手に入れる「明確な手段」が必要です。

スクールアイドル創生期よりも各アイドルは格段にレベルアップし、今や明確な実力差すら見えない時代。その実力は先輩たちにもひけを取らないものです。

しかし、どうしても「手の届かない」差がある。その「差」にこそ「ヒント」があると聖良は告げます。

その「差」とは、恐らく先輩たちが作り上げたそれぞれの「輝き」でしょうか。

ずっと「輝き」「光」という「概念」を信じて追いかけてきたAqours。1期13話ではその「輝き」は「心の中から溢れ出すものなのだ」と結論付けました。反面その「輝き」を「Aqoursだけの輝き」としては表現しきれませんでした。

13話で披露した楽曲「MIRAI TICKET」は「μ's」との出会い、比較、敗北を糧にして得た「スクールアイドルと自分達との関係性」と、そこから得た「答え」を「MIRAI TICKET=未来への切符」に例えて表現した楽曲。そこには「スクールアイドル」「μ's」から「受け取ったメッセージ」の自分達なりの解釈が表現されています。その反面「Aqours」の内面から溢れ出す「輝き」を表現しきれたとは言い難い楽曲でもありました。

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いよいよ「Aqoursだけ」が持つ「輝き」「光」を「具体的な形」として見せる必要が出てきた千歌。

「目に見えないものを追いかける」だけではなくて、それを「自分達の手で掴めるもの」として「具現化」する。その意味をメンバーにも伝える千歌。その時梨子の瞳が揺れるのは、前回梨子が掴み取った感覚がこのタイミングで千歌にも「共有された」からかもしれません。

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作詞者と作曲者の視点が一致した今。必要なのは「振り付け」です。

ダイヤは「丁度良いタイミング」と果南の「フォーメーションノート」を共有することに。しかし果南は千歌がその振り付けで踊ることに反対します。

「これはセンターを務める人の負担が大きいの。」

「あの時は私だったけど、千歌にそれが出来るの?」

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果南のセリフから感じるのは「過去」を「過ち」として捉え続けている事実。「自らの能力」に準拠した振り付けを作成したばかりに鞠莉を「傷つけてしまった」ことに対する後悔です。

反面そこには「自分だからこそ出来た」という「自負」や「矜持」ないしは「おごり」のようなものも垣間見えます。自分の身体能力があってこそ可能だった振り付けが「千歌に出来るとは思えない」。果南は無意識のうちに「自分」と「千歌」とを「分け隔てて」思考しています。ここに果南が「カセ」を超えられない根本的な理由があるのではないでしょうか。

自分が「特別」だから「特別ではない人」を「傷つけた」。故に「特別」な自分が作ったフォーメーションを「特別ではない人」に躍らせるわけにはいかない。何故なら「特別ではない人」には「実現不可能」なフォーメーションだから。また「踊ることが出来ず」に「傷付く」か「失敗というトラウマ」を負わせてしまう。

そう考えるからこそ果南は千歌がこのフォーメーションを踊ることにひたすらに反対し、このフォーメーションそのものを「捨て去ろう」とするのでは。そんな風に感じられるのです。

となると、この「カセ」を解決するために必要なのは、このフォーメーションそのものが「特別でない人」でも「踊れる」という「実績」でしょう。

「特別な自分」が「特別な自分のため」に作った「特別でなければ踊れない振り付け」。果南の「カセ」はここに集約されています。であれば、これを「瓦解」させればよい。「特別ではない人」が「特別な人でなければ踊れない振り付け」を踊り切れば、この理屈は崩れ去るのですから。

劇中のこの描写に関して「なぜ果南が踊らないのか」「なぜ曜が踊らないのか」などの疑問が噴出したと聞いていますが、その理由は明確です。

「それでは意味が無いから」です。

「元々踊れていた人」や「普通の人よりも身体能力が高い人」がこの振り付けを踊れたとしても、それでは元々の「意味」からの「変革」が無い。それではシナリオとしての意味が出てこないのです。

あくまでも「普通の人」が「普通では踊れない振り付け」に挑み、それを打開するからこそ「意味」も「価値」もある。そしてそれこそが「ラブライブ!サンシャイン!!」2期が第1話から提唱してきた「テーマ」でもある。故にこのダンスに挑むのは千歌でなくてはならないのだと、私は理解しています。

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ノートを受け取る千歌。その瞳には一点の曇りもありません。

今回通常の髪型ではなく、終始練習着Verで登場する千歌。そこにも「意図」があるように思えるのですが、それはまた後程。

 

■千歌の価値

とはいえやはりその振り付けはとても難しく。スタートから5日間経ってもなかなか完成には至りません。失敗を重ねてボロボロになっていく千歌。しかし彼女は周囲の心配をよそに一向に「諦めません」。

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彼女を駆り立てるのは、自分1人ではこれまで「何も成し遂げていない」という実感。Aqoursとしての活動も、メンバーや学校のみんなや、町の人々の助けがあってこそのもの。そこには「自分一人」で成し遂げた物が一つもない。だからこそ自分が引き受けたこの振り付けだけでもなんとか「形」にしたい。そんな自負が彼女にはあるのです。

千歌の気持ちが「分かる」という梨子と曜。反面その真意を「分かりかねている」果南。果南には無意識な「驕り」があるからこそ、千歌の「頑張り」とその「意図」を理解できない。

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それを知ってか知らずか「普通怪獣」の話題を持ち出す梨子。

「千歌ちゃん、普通怪獣だったんです」

「怪獣??」

初耳という感じの果南。どうやら普通怪獣は梨子や曜の前でしか登場したことが無いようです。

「普通怪獣チカチー...。」

「なんでも普通で、いつもキラキラ輝いてる光を遠くから眺めてて。」

「本当は凄い力があるのに。」

「自分は普通だって、いつも一歩引いて」

「だから自分の力でなんとかしたいって思ってる...。」

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「ただ見てるんじゃなくて自分の手で。」

その言葉から何かを「思い立った」果南。千歌の元へと歩みより、「振り付け」を「明日の朝まで」に「完成させる」ように伝えます。

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「良く頑張ったよ千歌。もう限界でしょ?」

そんな冷徹な言葉まで添えて。思わず悔しさに唇をかみしめる千歌。

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しかしこれは千歌を奮い立たせる為の「仕掛け」です。

思えば梨子よりも千歌との付き合いは長い果南。千歌の扱いに関しても心得ています。曜は千歌にわざと「やめる?」と聞くことでかえって千歌を奮い立たせてきました。「千歌ちゃん、こう言った方が燃えるから」と。

果南も恐らく同じことを知っているのでしょう。2期1話では「千歌は昔から負けず嫌いだから」と評価していました。

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元々千歌の性格と、その価値を良く知っていたはずの果南。しかしそこに「自分だけが踊れた振り付け」というフィルターがかかることで、彼女を自然と貶めていたことにも気づいたのでしょう。それを梨子と曜との会話から理解した。そして千歌が「挑み続けること」の「意味」にもようやく気が付いた。だからこそ彼女に発破をかけた。そんな風に感じられます。

鞠莉が言うように元々千歌を信頼している果南。千歌の「達成」によって自分もまた「カセ」から「解放される」。その意味と異議を自然と感じ取ったように思えます。この辺りの「直観の鋭さ」は果南の魅力の一つのような気がします。

「翌日の朝」というリミット。そして果南の言葉に発奮した千歌は深夜でも練習を続けます。梨子に言うと止められるからと曜に見守り役を依頼する千歌。現実的な判断で千歌を支える梨子と、無条件に千歌の在り方を肯定する曜。二人の千歌への接し方の違いが明確化すると同時に、その事実に千歌も気づいている。ちょっとしたシーンですが、そんな事実が表層化してくるシーンでもあります。

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ボロボロになりながら練習を続ける千歌。にも関わらず完成しない振り付け。心は折れかけますが、それを支える梨子と曜。更には3年生以外のメンバーも応援に駆け付けます。

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劇映画だったら「成功」するパターン。にも関わらず「失敗」してしまう千歌。どこまでも「普通」。

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「出来るパターンだろ!これ!!」

自分の「普通さ加減」に絶望してしまいそうになる千歌。しかしそんな千歌を励ますように「普通怪獣」たちが姿を現します。

「普通怪獣ヨーソローだぞ!」

「おっと!好きにはさせぬリコッピーもいるぞ!!」

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梨子も曜も我々視聴者からすれば「普通」ではない人々です。

梨子には抜群の作曲能力があるし、曜はなんでもできるスーパーウーマン。しかしそんな彼女達の中に元々いなかったものもあります。それは「普通怪獣」です。

千歌が「普通」な自分を象徴する存在として生み出した「普通怪獣」。しかし2期1話でこの「普通怪獣」は「無慈悲な世界」に戦いを挑む「人間」を象徴する存在へと姿を変えました。

あまりにも「無慈悲」で「冷徹」な世界。しかしそれに絶望せずに「挑む」「足掻く」ことを誓った時、普通怪獣は世界に向けて「雄叫び」を上げました。

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まったく無意味な行動。しかしそこには「普通怪獣」から「無慈悲な世界」への「挑戦表明」という意図があります。

そして、その瞬間「凡庸な自分を自虐する存在」から「決して負けを認めず戦い続ける存在」へと「普通怪獣」は生まれ変わったのです。

そしてその生誕の瞬間にAqoursの9人全員が立ち会っている。だからこそこの瞬間にAqoursのメンバーそれぞれの中にも「普通怪獣」が生まれた。そんな風に思えるのです。

「普通怪獣」は「負けを認めず戦い続ける象徴」。だからこそ梨子と曜は「自分の中にいる普通怪獣」を出現させて、千歌を励ますのでは?そう思えてきます。

そしてこの「普通怪獣」を梨子や曜の中に生み出してくれたのは、ほかでもない千歌なのです。

「普通の自分」を認めたうえで、それでも「諦めず」「戦い続ける」。「足掻き続ける」。その「不屈の精神」にこそ「千歌の価値」「素晴らしさ」がある。

しかし千歌はその事実に気付いていない。「普通怪獣」の持つ意味が変化したことにも気づいていない。だからこそ曜と梨子は行動と言葉をもってその「価値」を伝える。

「今のAqoursが出来たのは、誰のおかげ?最初にやろうと言ったのは誰?」

「千歌ちゃんがいたから私はスクールアイドルを始めた」

「私もそう。皆だってそう。」

「他の誰でも今のAqoursは作れなかった。千歌ちゃんがいたから、今があるんだよ」

「そのことは忘れないで」

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「自分のことを普通だと思っている人が、諦めず挑み続ける。それが出来るって凄いことよ!凄い勇気が必要だと思う...。」

「そんな千歌ちゃんだから、みんな頑張ろうと思える。Aqoursをやってみようって思えたんだよ。」

1期から再三描かれる「自己の価値に気付いていなかった人がその価値を他者に認められることで、自分の価値を再肯定する」物語。

実は千歌にはその肯定が為されていませんでした。

このとても大事な局面で、AqoursAqours足らしめている「千歌の価値」に「千歌本人が気付くこと」。

それこそが「Aqoursだけが持つ輝き」を「具現化する」方法である。

実に良く練られたシナリオ構成だと感じました。

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 「普通」の千歌が達成するちょっとした「奇跡」。その達成がメンバーを救い、ここまで来たのが「Aqoursの軌跡」です。

そしてこの日は「普通」の千歌によって、「特別な人でしか出来ない振り付け」が成し遂げられることで、果南の抱える「カセ」が解決されるのです。

「普通の人」が、その「意志」によって「普通ではない人たち」をも「救っていく」。ここに「ラブライブ!サンシャイン!!」ならではのメッセージも込められているように思えます。

 

■足掻きが生み出す「キセキ」

千歌だけでなく、メンバー全員の努力によって完成した新曲「MIRACLE WAVE」

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曲名の「MIRACLE」とはそのものずばり「奇跡」のことです。

千歌の足掻きが生み出した「キセキ」が一つの「奇跡」へと結実し、Aqoursの「軌跡」へと変わっていく。2期1話で語ったことの実践と結実が、この楽曲には表現されているのです。

またこの結実は旧Aqoursにとっての「軌跡」の「結実」でもあります。

あの日「棄権」によって、道半ばで終わった旧Aqoursの「軌跡」。果南が「消し去りたい」と願い、鞠莉が「大切な思い出」として残したがった「過去」。

千歌はそんな旧Aqoursの思いを「振り付けを引き継ぐ」ことで、今へと続く「軌跡」へと「変化」させてみせたのです。

果南が千歌に「ありがとう」と告げ、3年生が舞台上で涙を流すのは、自分達の「過去」が「今」へと「意味のあるもの」として引き継がれたからこそのように思えます。

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勇気はどこに?君の胸に!

冒頭のスローターハウス5の言葉に関して、映画評論家の町山智浩氏はこのように解説しています。

「確かに変える事のできない過去というものはある。それはジタバタ騒がないで、受け入れる。でもこれから起こることは変えられるんだからやっぱり変えようじゃないか。でもそれには「勇気」が必要なんだ。」

この言葉にはそんな思いが込められているのです。

町山智浩の映画ムダ話 一度は観ておけこの映画「スローターハウス5

町山智浩の「一度は観ておけこの映画」16 『スローターハウス5』(72年)。 主人公ビリーは、...

今回の物語は「MIRACLE WAVE」へと帰結していく物語でしたが、EDテーマ「勇気はどこに?君の胸に!」とのつながりをしっかりと意識させる物語でもありました。

「過去」も「失敗」も「消えない」。しかしそれと同じように「夢」もまた「消えない」。

「夢は呪いである」。これは仮面ライダー555の名台詞として、ライムスターの宇多丸師匠が度々引用する言葉でもあります。「夢」は人に「願い」や「希望」を与える反面、それが叶わなかった瞬間には「呪い」として人の心を縛り続ける。6話までの果南にとってはまさしく「フォーメーションノート」が「叶わなかった夢」として果南の心を縛り付けていました。これは正しく「呪い」でしょう。

しかし「ラブライブ!サンシャイン!!」は「夢」を「呪い」とは捉えない。「叶わなかった夢」があるのなら、それは「諦めなければ良い」のだとする。「消えない夢」があるのならそれを「何度だって追いかけよう」と語る。でもそれはとても「勇気」が必要なことでもあります。だからこそ自分達の胸の中に芽生える「勇気」を肯定する。そしてその勇気は「特別」なのではなく誰の胸にでもあるものなのだと、「君」の胸の中にもあるものなのだと「肯定」する。そしてそれを「持ち続けること」が「何よりも大切なのだ」と語り続けるのです。ここにこそ「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品が真に我々に伝えたいメッセージが込められているように思えるのです。

第6話においていよいよ明確化された「Aqoursだけの輝きの形」。それが明確になると同時に「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品独自の持つ「テーマ」をも物語とそれに連なる楽曲によって表現する。いよいよもってこの作品の恐ろしさを実感しつつあります。

 

■「普通」のクローバー。「勇気」のリボン。

さて、ここからは毎度おなじみ余談のコーナー。

今回千歌がずっと「練習着」で過ごしていて、髪型もそれに準拠していた...というのは先ほど書かせて頂いた通り。

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僕は1期1話の項で高海千歌の「髪型」に関して、こんな指摘をしました。

 

一見前作の主人公=穂乃果と同様の「能天気で元気なキャラ」として映りがちですが、その本質は少し違います。 もっと詳しく言うならば彼女は「半分:穂乃果」と言うべきでしょう。 では、もう半分は誰なのか?といえば、それは「花陽」なのでしょう。 これは彼女のルックスを見るだけで分かるように作られています。 彼女が左耳側につけている黄色いリボンは(言わずもがな)「穂乃果」を象徴するものです。 そして右耳側に着けているクローバーの髪飾りもまた「花陽」を象徴するものです。 これは分かりやすく演出されたキャラクターデザインなので、恐らく間違いでは無いと思います。

ラブライブ!サンシャイン 第1話「輝きたい!」ハイライト - Love Live!Aftertalk!

 この時には具体的なキャラクター名を挙げましたが、今となってはそれぞれのキャラクター「性」を象徴するモチーフなのかなとも思えます。

三つ葉の「クローバー」は「普通」を象徴するものとすれば、「リボン」は「勇気」や「希望」を象徴するもの。そんな風に捉えています。

幼少期の千歌には、「リボン」が無い。

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即ちただの「普通」の子だった。

しかしある時をきっかけに「勇気」や「希望」を持つようになった(ここのきっかけに関しては未だに描写は無いのでなんとも言えないのですが、その勇気のきっかけの一つがスクールアイドルとの出会いであることは間違いないでしょう)。

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1期ではそんな千歌の葛藤と挫折、復活を通してAqoursなりの「輝き」への「解釈」を手に入れる物語が描かれました。

その中で受け取った「輝き」と「勇気」を象徴させた楽曲が「MIRAI TICKET」。受け取った「勇気」は、13話では「リボン」という形で千歌の衣装内に残されました。

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これは「MIRAI TICKET」そのものが「μ's」から受け取った「TICKET」であることとも無関係ではありません。「μ's」から引き継がれたものを象徴する形で残された「リボン」。故にこの「MIRAI TICKET」には「Aqoursだけが放つ輝き」が象徴されていなかった...とも捉えられるのです。

それ故に「東海地方予選」を突破することが叶わなかったAqours。そこには「Aqoursだけの輝き」が表現され尽くしていなかったわけですから。

今回「Aqoursだけの輝き」「自分だけの輝き」を追い求めた千歌。その行動の中で「リボン」が千歌の要素から排除されたのは象徴的なように思えます。

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残された「クローバー」と共に髪を飾るのは「緑とオレンジのボンボン」。それは千歌を象徴するモチーフである「みかん」を想像させるものではありますが、それ以上の意味を持つモチーフではありません。即ちこの髪型の千歌は真っさらな「高海千歌」そのものを象徴する状態なわけです。

「普通」で「真っさら」な、ただの「高海千歌」が、外的な「勇気」ではなく、内面から溢れ出す「勇気」を振り絞って「振り付け」という「奇跡」に挑み、それを「達成」する。そこにこそ今回の物語の「キモ」がある。

「達成した後」のシーンとして、会場に向かうAqoursと千歌をクローズアップする。曜が語る千歌の「価値」。その曜の顔と「リボン」とを同時に映す。

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曜がリボンを見つめて、何か理解したように見えるのは、そのリボンがもはや「外付け」の「勇気」ではなく、千歌本人の「勇気」を象徴するものに「変化」したことを「理解した」からなのかもしれません。

「MIRACLE WAVE」衣装にも反映されている「リボン」。しかしその色は「黄色」から「白」へと変化しています。

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これは「リボン」がもはや「外側から受け取ったもの」ではなく「千歌本人のリボン」すなわち「千歌本人の勇気」を象徴するものへと「変化した」ことを象徴しているのでは?とも思えるのです。

もちろん、なんの確証もない「妄想」に過ぎないわけですが(笑)。そんな想像を膨らませることが出来るのも、この作品の「深さ」や「面白さ」の一端なのでは?と思えます。

 

と、いう事で遅ればせながら第6話の考察というよりも感想でした。

次回はもう見終えているわけですが、あまりにも重い一撃で何回も咀嚼するのが怖い回。故に書き始めるのに覚悟が必要なのですが、ボチボチやっていこうと思います。。

今回も長文をお読み頂きありがとうございました。

 

ラブライブ!サンシャイン!!無駄話 「光」と「闇」のDaydream~#5「犬を拾う。」から「Daydream Warrior」を考える。

お久しぶりのサンシャイン!!無駄話です。

今回は前回の#5考察から漏れてしまったものをちょっとだけ。

 

特典曲はどれも好きな曲ばかりなんですけど、その中でも特に好きなのが

「Daydream Warrior」で。


【試聴動画】TVアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」Blu-ray 第4巻特装限定版特典封入特典 録り下ろしAqoursオリジナルソングCD④「Daydream Warrior」

 

単純に音が好きということはもちろん、歌詞もとても好き。

ただし、反面この「歌詞」の「意図」みたいなものが掴めていなかったのも事実で。

他の特典曲はキャラクターがハッキリしているにも関わらず、この「Daydream Warrior」だけが少し浮いているような感じもしていたのです。

そんな中2ndLIVE TOURがスタートし、この楽曲も初お披露目されたわけですけど、その際に初めてこの楽曲のセンターが善子なのだということを知りました。

(ズラっと居並んだサイリウムが白に変わっていって知るという...。)

お恥ずかしい話、そういう楽曲における配列みたいなのにはてんで疎く、「なるほどこの楽曲ってヨハネ曲なんだー。」と感心すると同時に「そう考えると歌詞を読み解くのも面白そうだなぁ」と考え始めました。

 

...ただし、これがなんとも難解で。

特にアニメ1期終了時点での善子の情報からだけでは、この歌詞の意図がなんとも呑み込み切れなかったのです。

歌詞は下記の通り。

気配が消えた…? 私の呼吸が 
荒く激しく 辿るてがかり
探しながらも 見つけたくない
見つけたらすぐ 攻撃しなきゃ


どうしてあなたが敵なのか
(きっと誰にもわからない)
こんなに惹かれた訳さえも
(本当のことはわからない)
悪い夢なんだ


光と闇のDaydream  (Daydreamer)
黒いとびらの向こう
待ち受けるのは (運命に)
抱かれた私の Lost love
あの日知った優しさだけ 忘れないと
額伝う 汗をぬぐい 
自らの手で終わりにしよう


こころの声を 聞かないふりで
走る私の 矛盾がゆれる
愛しい気持ち 許せない気持ち
問い糾したい 弱さがつらい

どうしてあなたに出会ったのか
(熱く胸がときめいて)
確かな繋がり感じてたよ
(嘘じゃないと信じたいんだ)
だけど幻は 打ち砕かれたね


祈りも恋もDaydream  (Daydreamer)
夢は夢でしかないと
嘆きの果ての (運命は)
変わらずに今は Lost love
乗り越えるまで この涙を飲みこんだら
暗い壁に 背中よせて
戦いの意識とぎすましてる

でも帰りたい 
あの日、出会いの日…
たったひとつの願い

叶わぬ 悪い夢なんだ

光と闇のDaydream (Daydreamer)
黒いとびらの向こう
待ち受けるのは (運命に)
抱かれた私の Lost love
あの日知った優しさだけ 忘れないと
額伝う 汗をぬぐい 
自らの手で終わりにしよう

 

パッと読むと、まずこの楽曲は特定の誰かの「内面」の葛藤を描いた楽曲である。

そして、この楽曲の主人公は何かから「逃れよう」としているのだ、ということはなんとなく分かります。

ただし、その「何か」が分かり辛い。

「こんなに惹かれた」とか「確かな繋がり」という言葉と、主体となる善子を繋げて考えるとその「何か」はAqours「堕天使」という風に捉えられる。

しかし善子がその2つから「逃れたがっている」というのは、少し考えづらい。少なくとも1期の物語では善子が「Aqours」によって救われ、「堕天使」としての自分を「再肯定する」という物語が描かれたわけですから。

実は2ndLIVETOUR後には、他の思考が湧いてこず、ここまでで一旦思索が止まってしまっていたのです。しかし、今回2期5話「犬を拾う。」をきっかけに善子=ヨハネのプロフィールを読み解いていくなかで、少しだけこの曲のことが分かったような気がして、こんな記事を書いているわけです。

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■Daydream Believer

まずタイトルから連想できる楽曲のことを考慮に入れていませんでした。

それはもちろん、ザ・モンキーズ「Daydream Believer」です。

www.youtube.com

現代の日本人的にはセブンイレブンのCMでお馴染みの曲。

あるいは忌野清志郎氏の日本語カバー版が有名。ただしそちらは忌野氏自身の「母親」に充てて書かれた「意訳」なので、少し毛色が違っております。

ですので、この記事ではオリジナルとなるザ・モンキーズ版のみをピックアップすることとします。

「Daydream Believer」は幸せな結婚生活を送りながらも、どこか「現実」に追われて生きている男の歌。忙しない時間を過ごす毎日のやりきれなさと、それでも「夢見るように生きる」ことの「価値」が歌われています。

作詞作曲を務めたジョン・スチュワートはこの曲に関して「日々”生活”は僕らを追いかけてくるけど、それでも夢を見るように暮らす幸せな時間の方が大切なんだ」という気持ちを込めて作詞をしたのだそうな。

ただし注意しなければいけないのはその「夢」とは「Daydream」即ち「白昼夢」であるという点でしょう。

「白昼夢」とは...。

はくちゅうむ
【白昼夢】
 真昼に夢を見ているような、非現実的な空想。

 というもの。即ち「夢」と「現実」の最中で見る「空想」を指すということです。

この楽曲における「白昼夢」とはどんなものか。それはサビの歌詞を読めば理解できます。

Cheer up sleepy Jean  「起きろ」寝ぼすけジーン!
Oh, what can it mean to a それってどういう意味なんだろ?
Daydream believer and a 「夢見がち」な僕と
Homecoming queen?   キャンパスクイーンの(君)にとって。

彼は幸せな結婚生活を送っている。しかし「生活」を背景にした「現実」がその「幸せ」を覆い隠そうとしてくる。その「現実」の象徴が「起きろ寝ぼすけジーン!」と叫ぶ「誰か」なのでしょう。ただし彼はその「現実」を「どういう意味なんだろう?」ととぼけて、「過去(彼女をキャンパスクイーンと呼ぶことに象徴されている)」を含めた「現実逃避」へと入っていく。そして自分をその「現実逃避=Daydream」を「信じる人」なのだと定義するわけです。
つまりこの歌詞の世界観を読み解くと、この楽曲の主人公は「現実」を敢えて見ないふりをして「白昼夢」を肯定する人なのだとも思えてしまうわけです。

 

■Daydream Warrior

で、これを下敷きに今度は「Daydream Warrior」を考える。

まず単純に比較できるのは「Believer」と「Warrior」でしょうか。

前者は「信じる人」。「現実」を敢えて無視したうえで「白昼夢」を「肯定する人」である。それに対して後者は「戦う人」。これはどう捉えるべきか。

文字通り捉えれば「白昼夢と戦う人」でしょうか。

最初の歌詞。

気配が消えた…? 私の呼吸が 
荒く激しく 辿るてがかり
探しながらも 見つけたくない
見つけたらすぐ 攻撃しなきゃ

そのまま捉えれば「暗殺者」みたいな歌詞ですが(笑)

これはあくまでもメタファーで。この楽曲ではある人物の中に芽生えた「恋心」を「倒すべき敵」として象徴化させて描いているように思えます。

とはいえこの「恋心」自体もメタファー。本質的な意味としては、自らの心に巣食う「楽観的な空想」即ち「白昼夢」を、「恋心」と重ねて描いているとも考えられるわけです。

この楽曲の主人公は「白昼夢」と「戦う人」である。故にそれを「攻撃しなきゃ」いけない...となるわけですね。

さて、ではなぜこの楽曲の主人公は「白昼夢=楽観的な空想」と「戦わなければいけないのか」というところですが。

そこでファクターとなるのは、この楽曲のセンターである津島善子のパーソナリティでしょうか。

 前回#5で明らかになった「なぜ津島善子ヨハネと名乗り続けるのか」に関しての理由。前回考察記事ではそれをフックに「津島善子ヨハネの関係性」に関しても考察させていただきました。

ishidamashii.hatenablog.com

 そこでお話したのは津島善子という「人」について。

彼女は「不運」な「自らの運命」を「肯定する」ために、「堕天使ヨハネ」という「もう一人の自分」を創造した。それは「堕天使」であれば「不運」という運命に「魅入られている必然性」があるから。善子は「ヨハネ」としての「自分の存在」を「肯定」することで、「不運」という「自らの運命」も「肯定する」ことに成功しました。

反面、「ヨハネ」としての「人生」を「肯定し続ける」ことは、「津島善子」の「人生」を「否定し続けること」でもある。その内面に巣食う強烈な「パラドックス」が「津島善子ヨハネ」の人物像であり、「魅力」でもある。というお話でした。

またなぜ善子がそこまで「ヨハネ」を肯定し続けるのかと言えば、それは彼女が誰よりも「現実的な人間」だからである。「現実」のもつ「世知辛さ」や「辛さ」を身を以て実感しているからこそ、そうではないもの=「現実離れしたもの」を「肯定したい」という思いに駆られている。そこにもまた善子のパラドックスが象徴されている。ともお話しました。

この善子こと「ヨハネ」の「パラドックス」を理解すると、「Daydream  warrior」の歌詞世界に関しても、大分理解できるような気がします。

何故この楽曲の主体者が「恋心」に象徴された「楽観的な空想」と「闘わなければいけない」のか。それはこの楽曲の主体者となる善子が「自らの在り方=不運」を「肯定する」ために、「不運」と相反する「楽観的な空想」を「否定する」必要があるからと思えます。

反面、「堕天使」を信じるように、本来であれば「現実離れしたもの」を「肯定したい」気持ちもある。その大きな枠で捉えれば「楽観的な空想」も「現実離れしたもの」に含まれます。要するに「否定すべきもの」と「肯定したいもの」が自分の中で「ないまぜ」になってしまっている。故に歌詞内では「探しながらも 見つけたくない」というパラドックスが発生しているのだとも考えられます。

このパラドックスを象徴する言葉が「光と闇のDaydream」でしょうか。

「Daydream」とは大枠で捉えれば「現実離れしたもの」そのものでもある。そう考えれば「楽観的な空想」も「堕天使」も「同じ枠内」に納まるものでもあります。

反面その二つは「相反」もする。「楽観的な空想」を許容すれば「堕天使」を否定せざるを得なくなり、逆もまた然り。本来同じ枠内のものでありながら、共存し得ないもの。その両方を抱えた存在は、まさしく津島善子ヨハネその人のようでもあります。

そしてこの楽曲の主体者は「黒いとびら」を選ぶ。これは即ち「堕天使としての在り方」=「闇のDaydreamを選んだ」のだと捉えられます。

「楽観的な空想=恋」よりも「堕天使としての在り方」を「選んだ」。それ故に「Lost Love」が訪れる。それでもその決定に後悔はない。「恋」を通して一瞬得た「心の平穏=あの日知った優しさ」を胸に、再び「現実」へと立ち向かう。その「現実」を象徴するように「額を伝う汗を拭」って、「自らの手で」「恋」を終わらせる。

「自分の生き方は自分で決める」。

切ないながらも、どこかこの楽曲が「力強い」のは、そんな自らの運命を自らの手で選び取っていく「現代の女性」の在り方がしっかりと描かれているからなのだと思えます。そして津島善子こと「ヨハネ」は「厨二病キャラ」というよりも、(少し歪ではありますが)そんな「自立した女性」を象徴させたキャラクターなのかな?とも思えてくるのです。

 

ここからは余談ですが、

実はこの「Daydream Warrior」と姉妹関係にあるように思えるのが、同じくヨハネが所属するユニットGuilty Kissの「shadowgate to love」です。


【試聴動画】ラブライブ!サンシャイン!! Guilty Kiss「コワレヤスキ」「Shadow gate to love」

ユニットに関しては、未だに一度も書いた事が無く、その内書こうという位でいたのですが。個人的には各ユニットはそれぞれ「Aqours」では描けない「楽曲テーマ」を持っていると想像していまして。

Guiluty Kissのテーマはそれこそ「自立した女性」なのではと考えているのです。

Guiluty Kissの楽曲の特徴は「運命(主に恋愛)を自らの手で掴み取る女性像」が常に描かれているというところでしょうか。

そのあたりはまた別途記事にするつもりですが、「Shadowgate to love」はその楽曲タイトルが示す通り「闇の扉」がテーマになっています。

何かが足りない そう思った時は
暗い階段見てごらん
光射さない その場所でひらく
扉があるから
(You need me)

(中略)

誰でも見える訳じゃないのよ
選んだ貴方だけ
光拒んだその場所で開く
扉みつけたら
(You want me)

光ささない場所だけで開く闇の扉。それは「見つけた者だけがのぞける深淵」。そしてそれは「闇のDaydream」を「認められる者」だけが「のぞける扉」でもあります。

置き換えれば「堕天使としての在り方」を「認められる者だけ」が「のぞける扉」という風に捉えられます。すなわち決定権は「男性側」にはなく「女性側」のみにある。この視点はまさしく「女性の主体性」を重視した視点のように思えます。

また先ほど触れた「Daydream Warrior」にも繋がる視点。あの時「闇のDaydream」を選んだからこそ、ここでもそれを強気に「主張」できる。そんな風に感じられるのです。

私の影が 貴方の夢を
飲み込みたがる 恋してもいいよ
溜息の中 罠を仕掛けた
たぶん効いてるの しびれてきたでしょ?

ここでも「光のDaydream」を「闇のDaydream」が飲み込む。それは相手が何を望もうとも、「女性側の在り方」は「変わらない」という主張でもあります。その代り「恋してもいいよ」と「許容する」。この女性側の「強さ」にとても痺れると同時に、やはり「Daydream warrior」の「先」にある「自立した大人の女性」の視点をも感じ取れるのです。

というわけでとりとめもない「無駄話」でした。

こんな風に一見関係なさそうな楽曲を繋げて紐解いてみるのもとても楽しいので、今後も何かしらで考えてみたいところですね。

さて、そろそろ#6考察に取り組まないとなぁ。。

 

~辿り着く方法は「一つ」じゃなくていい。~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第18話(2期5話)「犬を拾う。」

皆様、こんにちは。或いはこんばんは。

今回も妄想にお付き合いいただきます。

読んでも一銭の得にもなりませんが、どうぞおヒマつぶしにでもご利用ください。

さて、今回は「犬を拾う。」というシュールなタイトルから、事前にはその内容を丸で予想出来なかった回。

善子と梨子の二人がフィーチャーされたことで「よしりこ回!」と一定の層をざわつかせましたが、結果としては「そうでもある」し「そうでもない」独特な回となりました。

また、あまりにも物語構成への説明がないため、この回が「一体なんの為の回なのか?」が波紋を呼んでいたりもします。

今回も私の考察そのものは決して「正解」ではありません。なにせ「製作者」ではないので。ただし「こうかもなぁ」というボンヤリとした予想を書き連ねていきますので、それが物語を読み解く上でのなんらかのヒントになれば良いなぁ...とは思っています。

個人的にこの回は「ラブライブ!サンシャイン!!」のこれまでのエピソードの中でも屈指のエピソードだと認識しており、少なくともその思いだけでも伝われば満足でございます。

...また前置きが長くなってしまいました。早速参りましょう。#5「犬を拾う。」です。

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■「雨」と「出会い」

季節は秋。どうやら台風が上陸しているのか天候が優れません。あまりのんびり練習していては、帰れなくなるメンバーも出てしまう。このあたりは静岡の内浦を拠点とするアイドルならではの悩みどころかもしれません。

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沼津を拠点としたことで、家が近くなった善子。メンバーのほとんどが車の送り迎えを利用して帰る中、一人「徒歩」での帰宅を選択します。

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とはいえ雨足も風も強くなる一方。意地になって歩いて帰る必要など無いはず。それでも善子は「自分の脚」で帰ることに拘ります。

「胸騒ぎがするこの空。最終決戦的な何かが始まりそうな気がする!」

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毎度のことながら、起こる事態を「自分の世界観」に照らし合わせて語る善子。しかし雨風はそんな善子に容赦なく襲い掛かり、傘も飛ばされてしまいます。必死に傘を追いかける善子。植垣に引っかかったそれを回収し、ホッと一息。しかしその陰で善子は「運命的」な出会いをすることになります。

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またしても登場した「雨」。しかし今回はそのものズバリ主要キャラクターに襲い掛かる「障害」として登場しました。しかし、そんな「雨風」の中でもめげずに、むしろ「好んで」進もうとする善子。

このシーンには「逆風の中でも自らのやり方で進もうとする」善子という人そのものの「キャラクター性」が表現されているように思えます。

今回は彼女のそんな「あり方」が、物語の「鍵」にもなっていきます。

 

■千歌と善子 必要となる「異なる視点」

地区予選を突破したAqours。しかし次のステージは東海地方予選。前回惜しくも突破を阻まれた場所です。ここを通過するには既存のやり方ではダメ。新たなる「視点」を模索するAqours。しかしなかなか良い案は浮かびません。

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そんな中ライバルであり盟友でもあるSaint snowは、新たなる曲を披露。

今回詳しく聞くことが出来ませんでしたが、新曲となる「CLASH MIND」は、恐らく彼女達の「経験」が元になって作られた楽曲のよう。

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「自分達の現状」や「今の気持ち」を即物的に楽曲へと落とし込んでいく感じは、Aqoursとは異なる彼女達なりの「個性」で、これはこれでとても魅力的です。

「壊れた心を拾い集めて それで芸術を作るのよ」とは、故キャリー・フィッシャーの言葉ですが、Saint snowの表現はその言葉を想起させます。

ライバルが示した「新たな方向性」に、やる気を喚起させられるメンバー。

では、自分達の「これまで」とは違う「視点」とは何か。「新たなテーマ」を考えていくのですが...。

「かといって暗黒というのは、あり得ませんけどね...。」

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ダイヤが否定する「テーマ」。それを提案したのはもちろん善子です。

そんなダイヤの冷たい言葉にもめげず「暗黒」の価値を説明する善子。しかしその説明は千歌によってあっさりと遮られてしまいます...。

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「やっぱり輝きだよ!」

千歌にとって常に重要なテーマである「輝き」。それは彼女が作詞を担当している13話挿入歌「MIRAI TICKET」や「きみの心は輝いてるかい?」でも重要なモチーフとなっているもの。いわばこれまでのAqoursを象徴する「テーマ」といえるもの。それが「輝き」です。

「まぁ”輝き”っていうのは千歌が始めた時から、ずっと追いかけてきている物だしね」

そんな事実は果南も、もちろん他のメンバーも認めるところ。

しかし千歌の示す「輝き」だけでは、「足りない」ことも事実。その「輝き」を象徴させた楽曲「MIRAITICKET」で「予選突破出来なかった」のですから。

となると千歌の視点とは異なる「輝き」へのたどり着き方を模索する必要がありそうです。

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このパートでは「新しいテーマ」を求めてAqoursが意見を交わし、その結論が見つからないという状況に。

これは「ラブライブ!」2期6話「ハッピーハロウィン」と似た展開でもあります。「ハッピーハロウィン」では「個性」を追い求めたμ'sが試行錯誤という名の「暴走」を繰り広げた末に「自分達は元々個性的なのだ」という「発見」をし、それを「自らを再肯定する」という物語が描かれました。

 後継作であるサンシャイン!!でも同様の物語が描かれてもいいはず。しかし「サンシャイン!!」では敢えて違う「切り口」で物語を再構成することになりました。

パート内で意図的に相反する千歌と善子の意見。

千歌がまっすぐに見つめる「輝き」。

13話エピローグでも語られた通り、千歌にとってのそれは「自らの心の内から自然と溢れ出すもの」。「輝き」は常に「自分と共にある」。それが千歌にとっては「自然」なことであり、そのこと自体に疑問そのものを抱きません

しかし、それは「輝き」の根底となる自分自身を常に「肯定出来ている」からこその捉え方でもあります。

即ち「千歌だからこそ」の「輝きの捉え方」でもあるのです。

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誰しもが千歌と「同じメンタリティ」を持てているわけではないし、持てるわけでもない。それはAqoursのメンバーとて同じ。

例えば、「輝き」が自分の中には存在しない人もいる。

そういった人は、千歌とは「別の方法」で「輝き」を追い求める必要があります。では、その人のそんな「あり方」は否定されるべきなのか??というのが今回のお話。

行き着く先となる「ゴール」が同じならば、「違う方法でそれを求めても良い」。

そんな「違う方法」で「輝き」を追い求める事と、その「視点」を巡る物語が、今回のテーマなのでは?と感じられるのです。

そしてそのテーマを表現するために選ばれた一人が津島善子なのではないでしょうか。

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津島善子の在り方

津島善子は「不運」である。

これは「ラブライブ!サンシャイン!!」開始当初から決められていた「キャラクター設定」でもあります。

普通であれば「不運」というだけで、「ネガティブ」な人格が形作られてしまいそうな要素。

しかし善子は「不運」という「自分の運命」を「否定」しませんでした。なんとそれを敢えて「肯定」する。その「肯定」の方法として「堕天使ヨハネ」を自称するのです。自分に「不運」が降りかかるのは「堕天使としての自分の在り方」が「運命」を「不運」へと変えてしまう為なのだ...と捉えなおすために。

自分が持って生まれた「運命」を、「自らに与えられたもの」ではなく、「自らの在り方」が原因として起こる「事象」として「捉えなおした」善子。結果、自分に起きる「良いこと」も「悪いこと」も全て「自分の解釈」で「意味を変化させて受け止める」という技術を手にしました。

例えば転んだとしても「これは堕天使としての自分に降りかかってしまう災難なのだ。そんな運命に見舞われている自分ってかっこいい」と「解決」できたり。

とにもかくにも「自分に降りかかる事態の全て」を「自分の解釈で解決できる人」に善子はなったのです。

仮に「嫌なこと」が起きたとしても「まぁ堕天使だし、しゃーないよね」と考えるのは、どう考えても「歪」です。反面とにかく「前向き」な姿勢でもある。

そんな「歪つに前向き」な人こそが、津島善子なのだと思うのです。

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 ただし善子が肯定しているのは、自らの「不運」という「運命」だけである..ということも見逃してはいけません。

彼女が「不運な自分」を受け入れるために作成した人格である「ヨハネ」。結果として彼女はこのヨハネ」を肯定するために、津島善子」を「否定」しなくてはいけない...という「パラドックス」を抱えてもいるわけです。

「善子」と呼ばれるたびに「ヨハネ!」と否定するのは、この「パラドックス」ゆえ。彼女は「津島善子」という「名前」を受け入れた途端、「不運」という「運命」も「津島善子」の持つ「本質」として受け入れなくてはいけなくなる。しかしそれを認めてしまってはこれまでのように「前向きに生きていけない」。何故なら「津島善子」は「ヨハネ」と違ってただの「人」。ただの「人」が「不運」であることにはなんの「因果関係」も発生しないからです。彼女にとっては自分が「堕天使」だからこそ「不運」なのだ!という「因果関係」が必要なのです。

だからこそ命がけで「善子」を否定し「ヨハネ」を肯定し続けなくてはいけない。と、いうなんとも壮絶な生き方をしてもいるわけです。

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しかし彼女にとってはそれが一番「生きやすい」「生き方」であり、言ってしまえば「楽しく生きること」すなわち「輝く」ことへの大切な「プロセス」でもあるわけです。

ただしその「プロセス」は「自らの本質」への「否定」でもあり、それは「自らの本質」を「肯定する」千歌とは「相反」する要素でもある。

だからこそ今回、千歌とは別の「輝き方」を提唱する存在として、善子がピックアップされたのでは?とも理解できるのです。

とはいえ、この善子の「生き方」「輝き方」に「ヒント」を与えられる人物もいる...というのがこの後のお話になっていきます。

 

■「犬」が象徴するものと桜内梨子の在り方

相も変わらず犬が苦手な梨子。機をみては苦手克服に挑むのですが、どうにも達成できません。

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何故梨子は「犬が苦手なのか」という件に関しては未だに説明がないわけですが、個人的には「何故苦手なのか」というよりも「何故触れないのか」という部分にこそ意味があるように感じました。

 今回主題として選ばれた「犬」。ここをフックにその理由も考えてみましょう。

 第1話から象徴的に扱われてきた「犬」。第1話ではしいたけがことあるごとに千歌へと絡んでいきました。その意味を個人的に考察したのが下記。

 この時には「与太話」に過ぎなかったものが、しかし今回「はっきりとしたモチーフ」として登場してしまったことで、一概に与太話とも言い切れなくなってきました。

上記考察では「犬=しいたけ」が千歌の「過去を改変したい」という要望を象徴する存在として登場しているのでは?と考えました。その際にタイムパラドックス理論としての「犬の尻尾理論」についてもご説明しました。

「犬の尻尾理論」とは、「過去を改変しても、それが永久に未来へと影響を与えない」というパラドックスのことを示すSF用語です。

「永久に叶わぬ結果を夢見て同じ場所を回り続ける」状態が「犬が自分の尻尾を追い続ける」ことと似ているために作られた言葉でもあります。

この理論を少し発展させて考えてみると、

「永久に届かぬ理想を追い求めて生きること」という風にも捉えなおせます。しかし実のところ大概の人間の生き方とは、そのようなものなのである...と語った人もいます。

哲学者であり科学者でもあったパスカルです。

「人間とは予めちょっぴり不幸な存在であり、それ故に幸せを希求し続けるが、どれだけその幸せを達成したとしても、常に不幸であり続ける」。しかし「それこそが人間なのだ」というのが、パスカルの考え方でした。

ここから結びつけると「ラブライブ!サンシャイン!!」において「犬」は、この思想を「表現」する「メタファー」として存在しているのでは?という仮説も立てられるのです。

そうすると、梨子がしいたけに「触れない=受け入れられない」のは、梨子がこの思想を「受け入れること」を恐れているからなのでは?と思えてくるのです。

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これまで千歌に引っ張られる形でスクールアイドルとして活動してきた梨子。しかし2期開始以降は、そんな千歌に置いていかれている感も否めません。

2期1話で「結果がどうなろうとも、とにかく進む」「それが輝くことなのだ」と結論付けた千歌。それは「永久に届かないかもしれない理想を追い求める行為」とイコールでもあります。

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しかし梨子はそのあり方を本質的には呑みこみきれていない

それは恐らく、彼女にとって重要な要素となる「ピアノ」と無関係ではないでしょう。

「ピアノ」を上達していく上で必要となるのは「練習」「復習」「さらに練習」です。

常に「練習」をし、その中で「欠点」を見つけていく。「復習」することで「欠点」や「ミス」を消していく。そしてそれを絶え間なく繰り返すことで「完成度」を高めていく。

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即ち「目の前の事柄一つ一つをしっかりと達成」「目に見えた目標に向けて努力する」ことが必要になるわけです。

彼女にとって「ピアノ」は、弾けなくなった途端に「何をしても楽しくなくなってしまう」くらいに重要なものです。

彼女の人生は常に「ピアノ」と共にあった。となると彼女の「人生観」も自然とそちらに引きずられる。これは決して大げさではなく、誰しもあり得ることです。

「目標に向けて努力する」ことと「叶うか分からない夢に向かって突き進む」ことは思考として「相反」します。

故に千歌の考えの「本質」を理解しきれない。

2期1話で千歌を慰めるために語った言葉や、3話での「目の前の目標をクリアしていくのが私達らしさ」といった発言など、2期ではやたらと「現実的」な発言をさせられることが多い梨子。とはいえそれは彼女自身が元々そういった性質をもった人物であるからに過ぎないのかもしれません。

そしてそれ故に「結果が見えないのに」「理想に殉じる」生き方を「呑み込み切れない」のかもしれません。

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そしてその事実を証明するように「理想に殉じる生き方」を象徴する存在=「犬」を「触る事=受け入れる事」が出来ない。そんな風に思えてくるのです。

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そう考えると一見「どうでもいい」結論に見えるラストシーンにも意味が見出せる気もしてきやしませんでしょうか。

さて、この「犬」が象徴するもの。当然「しいたけ」だけに課されたものではありません。

ライラプスノクターン

 今回善子、そして梨子とそれこそ「運命的」な出会いを果たす「犬」。

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拾い犬故に名前が分からず。そんな「犬」に二人はそれぞれ名前を付けます。

梨子が名づけたのはノクターン。「ノクターン」とは夜想曲で、クラシックピアノの大家ショパンが得意としたジャンルでもあります。

クラシックピアノを専攻する梨子にとっても、馴染み深い存在ゆえに名付けたのかなと想像できます。

また、善子が名付けたのはライラプス。こちらはギリシャ神話に登場する猟犬です。狙った獲物は決して逃さない猟犬であるライラプス

ググれば分かることですが、ライラプスにはこんな逸話があります。

アムピトリュオーンテーバイを苦しめるテウメーッソスの狐を退治しなければならなくなったが、この牝の狐は誰にも捕まらないという運命にあったため、アムピトリュオーンはライラプスを持つケパロスを頼った。そこでタポスとの戦争で得られるであろう戦利品と引き換えにライラプスをテーバイに連れて来て狐狩りを行ったが牝狐は逃げきることができず、ライラプスも牝狐を捕まえることができず、延々と追いかけ続けたあるいは牝狐を捕まえそうになった。これを見たゼウスは、ライラプスが獲物を取り逃がすことも、牝狐が捕まることも運命に反していたので両者を石に変えてしまったという

ライラプス - Wikipedia

もしかしたら、「おや?」と思われるかもしれません。そうなのです。この「ライラプス」は「永遠に掴まえられないキツネを追いかけ続ける犬」なのです。

これって先ほど触れた「永久に届かぬ理想を追い求めて生きること」と丸で同じモチーフを持った存在なわけです。

シナリオ上で考えれば、犬の名前などいくらでも選択肢がある中で、敢えてこの名前を付けさせたのは、どう考えても「意図的」に思えます。と、なるとここにもまた物語のメインテーマが象徴されていると考えてよいのではないでしょうか。

また、ここではそれぞれが「名付け親」となっていることも重要に思えます。

普段の我々も同じだと思いますが、ペットの名前には自分にとって「関わりあいの深い要素」を一部として入れがちです。当然この「ライラプス」と「ノクターン」という名前にも善子と梨子それぞれの「一部」が「象徴されている」と考えるべきではないでしょうか。

ノクターン」が「ピアノ」を象徴するものだとすれば、それは梨子にとっての「関わりあいの深いもの」でありながら、上の項で触れたように「現実的」な「梨子」を象徴する「メタファー」でもあります。

そう考えると「ライラプス」は「届かぬ理想を追い続ける存在」の「メタファー」であると同時に「善子」を象徴する「メタファー」なのだと...と理解できます。

しかしちょっと待ってください。

この「届かぬ理想を追い続ける」というのは本来、千歌と同じです。即ち善子の本質もまた「千歌と同じである」ということがここから分かるわけです。

千歌と善子の違いとは「自らの本質」に対する「捉え方」と、「輝き」に向かっていく「プロセス」の違いです。しかし二人が見ている「ゴール」は同じ。

即ち「違う方法」でも「同じゴール」へと向かっていく「方法」はあるということです。それを梨子は善子と行動を共にすることで、理解していくことになります。

またここで一つの対象=「犬」に対して、それぞれの断片を「名前」として付け共有する...という行為は、それぞれの考え方が「犬」を介して交じり合っている。即ち梨子と善子との「相互理解」の象徴としても使われているように思えます。

それを示すように、「犬」との関わりが、梨子に「気づき」を与えていくのです。

 ■受け入れの萌芽

 マンション住まいのため「犬」をあずかれない善子に代って「犬」のお世話をすることになった梨子。犬恐怖症の彼女にとっては荷の重い仕事ではありますが、犬とコミニケーションを取ることで次第に慣れていきます。

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やがて名前を付けて可愛がるレベルに。しかし「犬」は「迷い犬」であったことが明らかになります。本名はなんと「あんこ」。

二人とはまるで関係の無い名前でした(笑)。

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唐突に訪れた「出会い」と同じように、唐突に訪れた「別れ」。そんな別れを二人は簡単には受け入れきれません。別れ際梨子の指を「舐める」「あんこ」。普段の梨子であれば、驚き、跳ね上がってしまうでしょうが、これを梨子は平然と受け止めます。

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出会いは唐突であり、別れも唐突である。そこには予め決められた「結論」があるわけではない。ある種「運命」そのものが「あんこ」に集約されて象徴されているようにも思えます。

これまでは「結論のないもの」を恐れ、触ることも触られることも「受け入れられなかった」梨子。しかし、今回はあんこから「触れられること」に「拒否反応」を示しませんでした。しばしボーッとあんこに舐められた指を見つめる梨子。

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そこにはこれまでと違って「拒否反応」を示さなかった「自分自身」への驚きが多分に含まれているように思えます。

これまでは忌避してきたもの。または実感なく受け入れてきたもの。それをなし崩しではあるものの「自らの意志」で「受け入れた経験」が梨子を少しだけ成長させた。

このちょっとしたシーンには、そんな意図があるのかなと感じました。

 

■世界は「偶然」で満ちている。

白板を見つめる果南。彼女の手には「フォーメーションノート」が。

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それはもしかしたら、初期Aqoursのフォーメーションアイデアノートなのかもしれません。どこからか見つけたそんなノートを手にぼんやりと白板を見つめる果南。これまでのAqoursの物語に思いを馳せていたようです。

「これが私達にとって最後のラブライブになる」「これまで偶然の積み重ねでここまで来た。だから後悔しないよう精いっぱいやりきりたい」

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千歌に自らの思いを吐露する果南。

ここで果南が語る言葉は「真理」でしょう。実際すべての物事は「過程」と「結果」が一致しないことばかり。世界は「偶然」と「不条理」に満ちているのです。その「事実」を認識させるために、ここでは果南の口を借りて「世界」を語っている。そんな風に思えます。

なるほど世界は果南の言うように「偶然」で満ちています。それこそが真理です。とはいえ、誰もがそんな風に自分の存在や周りで起きる出来事を「偶然」として受け入れて生きていけるとは限らない。

その「偶然」が引き起こすあまりにも「無慈悲」な「現実」に耐えられない時もある。そんな時には「自分の視点」を変えるしかない。そしてそれが出来るのが「人間」であり、「人間の豊かさ」でもある。

ここを下敷きとすることで、後の善子の行動や梨子の言葉に「意味」が出てくるのだと思います。

 

■それでも世界は「必然」で満ちている。

「あんこ」を見送ったものの、「犬ロス」に陥る梨子と善子。「切り替えて練習に身を入れよう」とするも、どうにも上手くいきません。

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とはいえ「あんこ」はよその家の犬。この想いはどうにも叶わないもの。しかし善子は諦めません。「取り返しに行く!」

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よその家の犬をさらったら、それは立派な「誘拐」です。しかし善子は止まらない。いざあんこの家へと走り出します。

「冷静」で「現実的」な梨子は善子を引き留めようとするも、彼女の心にも同じく「しこり」がある。もう一度飼えるわけではないけれど、せめてもう一度会いたい。そんな思いに引き寄せられて善子と共に「あんこ」の家へと向かうことになります。

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あんこ宅にたどり着く善子。「邪悪な気配が!!」

しかし、そこは隣の家でした。

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早くも「堕天使としての力」のメッキがはがれかけている善子。本当の家の前にて「ライラプス」を呼び寄せます。「ライラプス」は善子こと「ヨハネ」と上級使い魔の契約を交わした間柄。「ヨハネ」が呼べば必ず姿を現すはずなのです!!

しかし、現れたのは「あんこ」の家のお母さん。「あら、あの時はどうも」

そんな暢気な挨拶を前に「誘拐計画」などついぞ消え失せた二人。慌てて撤退していきます。

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いよいよ「使い魔」としての「契約」に「現実味」がなくなってきた「ヨハネライラプス」。

しかし、善子は諦めません。どうしてもライラプス」とのつながりを確認する。そのための方法は「出てくるまで待つ」というものでした。

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善子がなぜそこまで「ライラプス」に拘るのか。理由が分からない梨子。頑なに家の前の駐車場から離れない善子を置いて、一度は帰ろうとします。

降り出す雨。しかし「雨」の中でも「ヨハネ」の心は停滞しません。ただじっくりとライラプスと出会う瞬間を待ち構えています。

戻ってきた梨子。善子におにぎりを与えます。

実は今回何度か登場する「餌付け」シーン。梨子は「あんこ」「善子」「しいたけ」に餌付けをすることになります(笑)。

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ここに象徴されているのは、恐らく「得ようと思ったらまず与えよ」というゲーテの格言でしょうか。「相手のことを知りたければ、まず自分から心を開け」という意味の格言ですが、梨子は結果的に「餌付け」をすることで、相手から「解答」を得ることに成功しました。

善子からは、どうしてそこまで「ライラプス」にこだわるのかについて。

「どうして運命なの?」「何が?」「...犬」

そんな直接的な質問を「堕天使っていると思う?」と、少し違う視点で切り返す善子。

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善子が語るのは、なぜ善子が「ヨハネ」と名乗り始めたかのあらましでした。

そのあらましは先ほど書いた通り。それが善子の「生き様」にもなっていったもの。それでも最近は、「正直堕天使なんて無いと半々分かっている」のだと語る善子。

「それでも運命とか見えない力とか、そういうものってホントにないのかな?」と、「現実」と「自分の在り方」の狭間で佇んでいた。そんな時「運命的」に出会った存在。それが「犬」。この出会いは「運命」に違いない。その思いを信じさせてくれた存在が「ライラプス」なのです。だからこそ、「ヨハネ」はそれを「諦める」わけにはいかないのだと語ります。

「なぜ自分が不運なのか」。

そこに「堕天使」としての「必然」を見出し、それを糧に「前向きに生きてきた」「ヨハネ」。しかし、大人になるにつれ、そんなものは「妄想」に過ぎない。お前はただの「津島善子」に過ぎないのだと、いう思いが自分の中から溢れ出てもいる。

しかしそれを「認める」わけにはいかない。それを認めてしまったら、これまでの「ヨハネ」としての人生だけでなく、これからの「人生」も「否定」することになってしまうから。

だからこそ自分が「ヨハネ」であることを証明するための「必然」を欲していた。そんな中「運命的」にであった「ライラプス」。「ヨハネ」は「ライラプス」との出会いが「必然」であることを、なんとしても「証明」せねばならない。それを証明できれば、自分が「堕天使ヨハネ」であることを、まだほんの少しの間だけ「信じている」ことが出来るから。

善子の言葉に瞳を潤ませる梨子。それはきっと善子の考え方に強い共感を覚えたからなのかもしれません。

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善子の言葉の背景から感じ取れるのは、善子もまた「現実」を前に佇み、悩む「現実的な人間」なのだという事実です。

普段は「堕天使」を名乗り、現実から「逃避」しているように見える善子。しかしその裏には誰よりも「現実の難しさ」と「世知辛さ」を理解する人間性が潜んでいるのです。しかしそれほどまでに「現実的」な人間であるにも関わらず「運命」を始めとした「非現実的なもの」を「信じたい」という思いがある。

それはまるで千歌のように「夢や希望をまっすぐに信じる人」に憧れながら、「現実性」という自分の殻がそれを「信じる気持ち」に蓋をしてしまっている梨子の在り方そのものに跳ね返ってくる生き方です。

梨子は善子の言葉から「自分自身」を見つめるきっかけを得たのではないでしょうか。

善子が語るのは「世界は偶然で満ちているかもしれない」けれども「必然によって引き寄せられる運命みたいなものを信じる気持ちがあっても良い」ということ。

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それは自分自身に起こる出来事全てを「偶然」ではなく「必然」として「捉えなおすこと」で「強く生きている」「ヨハネ」ならではの言葉なのかもしれません。そしてそんな「ヨハネ」の言葉と行動が梨子に勇気を与えていくのです。

 

■「必然」を引き寄せる人間の「足掻き」

語り合ううちにあがる雨。もしかしたらこれは梨子の心が「晴れた」ことを示しているのかもしれません。

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おにぎりのお返しとして渡されるドリンク。

「ほい、ライラプス

そんな言葉とともに渡されるのは「あんこたっぷりぜんざい」。

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ここで渡される缶に「犬」の「本名」が書かれていて、それを理解したうえで梨子に渡すというギャグを使うあたり、善子はやはり行動よりもだいぶ「冷静」だったりします。

雨が止むと同時に現れる「あんこ」。どうやら散歩に行くために「雨が止む」のを待っていたようです。

姿を見ただけで満足そうな梨子。

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しかし善子は諦めません。「あんこ」との「繋がり」を証明できるように念じるのです。

善子が「ぜんざい」を買ったのは決してギャグのためではありません。

その缶に「あんこ」とデカデカと書かれているから。

文字が伝える言霊のような力。そんな確証の無い力でも、今の善子には必要なもの。缶を「あんこ」に向け念を送ります。

また、善子はもはや「ライラプス」という名前にもこだわっていない。相手が「あんこ」だろうと何であろうと、自分との間に「繋がり」があることを証明してみせる。そんな思いがこの「缶」に象徴されているように感じます。

「気付いて!!」

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それだけでどの程度の効果が見込めるのかはさっぱり分からない行為。それでもそんな一見「無意味」な行動に「意味」や「意図」を見出す。それもまた「人間」なのです。それを「無意味」な「足掻き」とあざ笑うのも良い。でも、そのちょっとした「足掻き」が「未来」を変える力になる「可能性」もまた、決して「証明できる」ものではないのです。

なぜここが個人的に感動的で仕方ないのか。それは1話で千歌が語った「足掻き」が「実践」されているからなのだと思います。「無慈悲な神」に「挑戦する人間」の物語である「ラブライブ!サンシャイン!!」において、この「足掻き」は決して無駄な行動ではない。そしてその「足掻き」が「偶然」であれ「必然」であれ、「叶う瞬間」が迎えられるのだとしたら、それは「人間」が「神」に「勝利する」「決定的な瞬間」でもあるのです。

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振り返る「あんこ」。それは決して「繋がり」の力などではなく、人の気配を感じたからというだけのものかもしれない。しかし、善子にとっては「必然」が形として「証明された」瞬間でもあるのです。そしてそれを共有した梨子にも「勇気」を与える瞬間でもあるのです。


■「ヨハネ

一瞬振り返るも、すぐに興味を失い「ライラプス」から「あんこ」に戻ってしまった「犬」。

「やっぱり偶然だったようね」「この堕天使ヨハネに気付かないなんて」

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しょんぼりとする善子。

そんな善子に「でも、気付いてくれた」と答える梨子。

「見えない力はあると思う。善子ちゃんの中だけでなく、どんな人にも」

「そうかな?」

「うん。だから信じている限り きっとその力は働いていると思うよ」

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善子に語りかけるようでいて、自分自身にも語りかけているような言葉。

どうしても「自分自身の殻」を破れず、そのせいで千歌の在り方に同調できなかった梨子。それは梨子にとっては、千歌が遥か遠くだけを見つめているように感じられるからでもあります。

そんな梨子にとって、目の前の一つ一つの「出来事」を「必然」へと変えていく善子の在り方は、同じ「輝き」を求める方法でも、より「自分自身に近いやり方」として捉えられたのではないでしょうか。

「さすが私のリトルデーモン。ヨハネの名において上級リトルデーモンに認定してあげる!」

そんな梨子の言葉から「自分自身の理解者」を得られたと感じた善子。「ヨハネ流」で梨子を「仲間」として迎え入れます。

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「ありがとう♪ ヨハネちゃん♪」

「善子!...あれ?」

思わずいつもの調子で切り返すも、入れ替わってしまっているというギャグ。

ですが、ここで重要なのは、梨子がジョークではなく、本当の意味での「ヨハネ」の在り方を理解し、受け入れたからこそ善子を「ヨハネ」と呼んでいる...ということでしょうか。

今回何度も「善子」を「ヨハネ」と訂正し続けた善子。そんな彼女がなぜ「ヨハネ」として生きることに拘りを持っているのか。それを理解すれば、誰もが彼女を「ヨハネ」と呼びたくなります。

自らを「ヨハネ」足らしめるために「見えない力」や「出会いの必然」を証明しようとした「ヨハネ」。結果としてその思いは半ば叶わなかったものの、自らの「ヨハネ」という名前を呼んでもらい、認めてもらうというミッションには成功したわけです。

ここにも「ヨハネ」の「小さな勝利」が記録されているのです。


■梨子なりの「答え」

時を同じく止んだ雨を見ている千歌。「偶然が重なってここまで来た...か」

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それは果南と話していた内容です。

そんな千歌の目の前にふいに現れる梨子。彼女はしいたけに「触れよう」と格闘しています。

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「試してみようかなって...。」「これも出会いだから」

「私ね、もしかしてこの世界に偶然って無いのかもって思ったの」

唐突な梨子の言葉に千歌は聞き返します。「...偶然は無い?」

「いろんな人が色んな思いを抱いて、その思いが見えない力になって、引き寄せられて運命のように出会う。」

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そんな梨子の言葉は「この世界は偶然に満ちている」という前提ありきのものです。

たとえ「偶然で満ちている」としても「この世界は必然で出来ている」と「捉えなおす」。そうすることで、今までよりも「前向き」に「生きていける」。千歌には必要なかったものですが、梨子には必要だった「気付き」。それを与えてくれたのは「犬」を巡って善子と過ごしたこの数日だったのです。

「全てに意味がある」「見えないだけで...きっと」

千歌とは違う、自分なりの「運命」との戦い方、「輝き」へのプロセスを手にした梨子。だからこそ、彼女は遂に「永久に届かぬ理想を追い求めて生きること」へ真っ向から立ち向かうことができるのではないかな?と思えます。

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自ら伸ばした腕。これまでは吠えて牽制してきたしいたけも、その腕をゆっくりと「受け入れる」。それは覚悟を決めたものを受け入れる「運命」そのものを象徴しているように思えます。

「死を恐れるな。死はいつもお前の傍にいる。それは恐れた瞬間お前に牙をむく。しかし恐れなければ、それはただ悠然とお前の傍にあるだけだろう」

ネイティブアメリカンの言葉だそうですが、死を「運命」と捉えなおせば、すなわちそういう事なのだろうと理解できます。

千歌とは違う「方法」を見出した梨子は、遂に2期において千歌と同等の立ち位置に立ったのではないでしょうか。

それぞれ別々の方法で、同じ「目的」を目指して進む。それは決して悪いことではない。むしろその方が「生き方」としては「豊か」なのでは。そんな「ラブライブ!サンシャイン!!」ならではの視線を、この結論からは感じ取れるのです。

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■道は決して一つじゃない。

ここからは余談。

ラブライブ!」はこれまで、「一つの道」を信じて突き進む物語として作られてきました。故に僕は「ラブライブ!」を「神話」と呼ぶことがあります。

「神話」とは「寓話」である。それ故に登場人物は「迷わず」「やるべきこと」を「やるべき方法」に従って「よどみなく進んでいく」。それはそれを読んだ「人間」に一つの生きるべく「指針」を与えるために作られているからです。

ラブライブ!」はシリーズにとっての原点。いわば「神話」であり「寓話」である。この物語の基本思考があって、初めて派生する物語が作られるという前置きにおいて考えれば、「ラブライブ!サンシャイン!!」はその亜流なのだと思います。

「輝き」を追い求めるAqours。しかしμ'sのやり方に従っても、その通りにはなりません。もっと「現実的」な難題に突き当たることもある。しかしそれを「人間」ならではの「工夫」や「努力」で突破しようとする。それでも見えない「壁」にぶち当たって、どうしようもないときもある。

けれどそんな「足掻き」や「迷い」そのものを「肯定」する。そこに「サンシャイン!!」ならではの「豊かさ」があると思うのです。

それと同じように「輝き」へと向かう方法も決して「一つ」でなくて良いと語る。それぞれがそれぞれの方法で「輝き」を追い求めて良い。そう伝えるのが今回の物語でした。だからこそ僕は今回が「サンシャイン!!」において屈指の回なのだと思ったのです。

この「豊かさ」は、今の社会に欠けているもの。だからこそとても大事な視点だと思うと同時に、「寓話」としての「サンシャイン!!」にも期待が持てるなと思った次第です。

 

ということで「犬を拾う。」でした。

短くしたいのに、長いよ!!!と自分でも反省していますが、この回の重要性を語る為には、これくらいはやはり必要だった気もします。

例によって誤字脱字、分かり辛い表現等は随時更新していきます。悪文で本当にごめんなさい!!!

また、本来は「Daydream Warrior」と「ヨハネ」に関しても触れる予定でしたが、長くなってしまうので、これは別枠にいたします。すみません。

さて、次回は「Aqours WAVE」。いよいよ重なり合う波長を示しているのか、あるいは波風立っちゃうのか、さっぱり見えてきませんが、楽しみ!!

それではここまでお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

~ダイヤ「を」救うもの。ダイヤ「が」救うもの。~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第17話「ダイヤさんと呼ばないで」

皆様こんにちは。そしてこんばんは。

毎度おなじみLoveLive! Aftertalk!です。

今回は2期初のキャラクターピックアップ回。しかもその対象がダイヤということで、放送前から非常に盛り上がっておりました。

本放送はその期待に応えるかのような、楽しくワチャワチャした回で、1~3話の重苦しさに耐えかねたライバーたちにとっては一服の清涼剤となったようです。「ラブライブ!」を「萌えアニメ」として捉えた場合、そんな事態ってどうなんだ?というは問題もあるのでしょうが、それはこの際置いておきましょう。そもそもこの作品「萌えアニメ」ではなく「燃えアニメ」ですし。

さて、実は今回「物語の構造を分解していく」従来の流れとは少し変えて語っていこうと思います。というのも、歴史を辿ると今回のお話に似通った回が何話もあり、なおかつ物語の構造やテーマの概要に関しても、ほぼ同じ。狙いに関しても同じということで、改めて構造のお話をしてもどうなんだろう??と感じたからです。

故に書き始めるまでに少し時間がかかったわけですが...。

今回のお話を、ざっくりとまとめてしまえば、「他人の評価する自分」「自分自身が改めて認める」ことで、「自分自身の持つ価値を再認識する」という物語。

これは「ラブライブ!」2期5話の「新しいわたし」。「ラブライブ!サンシャイン!!」1期5話のヨハネ堕天」と共通するテーマ。

つまり「ラブライブ」というシリーズ全体を通じて語られてきた「普遍的なテーマ」の一つでもあります。

故に「物語構造」に関しては、過去の記事と大部分重複してしまうわけです。


ishidamashii.hatenablog.com

 では、今回の物語のどこが上記2話と違うのか。

と考えた場合出てくるトピックスは、やはり黒澤ダイヤ」という存在なのかなと思います。

ですので、今回は物語の全体像を追う...というよりも「黒澤ダイヤ」という人に焦点をあてつつ、彼女の存在がどのようなフックとなって、お話が展開されていったのか。それがどういった部分でこれまでの類似するお話との「違い」を生み出していったのか。

そういった部分を考えていければと思います。

※本考察はテレビアニメ版の黒澤ダイヤを下敷きとした考察です。

また、あくまでも私の主観が多分に入ったものですので、皆様との認識に齟齬は発生する可能性は十分にございます。もしかしたらダイヤが大好きな人にとっては拒絶反応を与える可能性もございます。その点も予め考慮のうえ、ご一読頂ければ幸いです。

さて、前置きが長くなりましたが、参りましょう。

第17話「ダイヤさんと呼ばないで」です。

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■千歌の自信と「自己の他有化」

物語の始まりは、「ラブライブ地区予選の結果発表」の場から。

緊張の面持ちのメンバーとは対照的にリラックスした様子の千歌。その背景には「聖良からのお墨付き」があるようです。

「私が見る限り、恐らくトップ通過ね」

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同世代のスクールアイドルであり、凌ぎを削るライバルでありながら、どこか縁のあるSaint snowAqours。そのリーダー同士である千歌と聖良は、自然とコミニケーションを取る機会が増えているようです。知らない間にスカイプ通話までしている(しかも初めてではなさそう)というのは驚きましたが。この辺りは千歌の人柄ゆえかもしれませんね。

また、この「聖良からのお墨付き」は、千歌が自ら彼女に提案し「引き出した解答」のように思えます。

東京であれだけボロクソに言われた相手に対して、改めて自分達の評価を確認する...というのはそれなりの覚悟が必要な行為。しかし今それが出来るのは、千歌にも千歌なりの自分達の活動に対しての「自負」が芽生えてきているからなのかもしれません。

※作劇的には「相手が誰であれ、率直な評価を相手に与える存在」として聖良が設定されていることが視聴者の頭には入っているため、逆説的に聖良の高評価が「正しい意見である」ことが伝わる構造になっています。この辺は上手いと思いました。

「あれだけのパフォーマンスが出来た」と千歌自身が評価する予選でのパフォーマンス。第8話「くやしくないの?」では「今の私達の精いっぱいが表現できただけで満足」と語っていた時代からすると(これは多分にやせ我慢込みの発言ではありましたが)大きな成長であると同時に、スクールアイドルとしての活動に彼女なりの「欲」も出てきているのかな?と感じられます。

また、このように「自分の価値」を、信頼できる「他者」に「評価してもらう」ことは、「自信を深める」という点においても重要なことだと思います。

こういった千歌の行動からも分かる通り、今回の物語のテーマは「自己の他有化」にあります。

「自分自身」を一旦「他人に受け渡す=他有化する」ことで、相手からの「評価」を得る。それを「自分自身の価値」として受け入れることで、「成長していく」

「自分とはいったい何者なのか」という「アイデンティティ」確立の過程においても、必ず入ってくる「自己の他有化」という要素。

人間は「自分のことは自分が一番よく知っている」はずなのに、時折その「自己評価」に疑問を持たざるを得なくなる瞬間があります。そんな時には「他者から見た自分」=「まなざし」というものが一つの目安になる時もあるのです。

また、「自己評価」が「自己に対する過剰な信頼=傲慢さ」に繋がったり、逆に「自己に対する過剰な低評価=卑下」にも繋がったりしてしまいがち。それゆえに他者からの「まなざし」というのは、「アイデンティティ」の確立という面だけでなく、生きていくうえでも結構重要なのです。

 

「予選通過」の結果をもって、盛り上がるAqoursメンバー。その中で1年生の花丸は「果南ちゃん!」と3年生の果南に飛びつき喜びを表現。

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同じく1年生の善子も「マリー!」と3年生の鞠莉を呼び捨てして、喜びのポーズを決めるなど、

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「学年」という垣根を越えた「アイドルチーム」としての関係の深さを感じさせる場面が続きます。

そんな様子に違和感を感じるのが、今回の主役となるダイヤ。

彼女は同級生であり、親友でもある鞠莉と果南以外からは「呼び捨て」で呼ばれることがありません。これまではさして気にも留めなかったそんな事実が、気付いた途端に気になって仕方なくなる。

「私ってもしかして、このグループの中で浮いてない??」

そんなダイヤの悩みが引き起こすドタバタが今回の物語のメインとなっていきます。

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 ダイヤはなぜ「呼び捨て」でも「ちゃん付け」でも呼ばれないのか。そこにこの物語のメインテーマが眠っているわけですが。

とはいえ、ここから彼女の「アイデンティティクライシス」と、その「解決」が描かれていきます。

今回のお話、先ほど語った通り、物語の構造や狙いに関しては「新しいわたし」や「ヨハネ堕天」とほぼ同じ要素をもったもの。

しかし、これらと少しだけ違う要素があるようにも思えます。

その要因がどこにあるのかといえば、それはもちろん「黒澤ダイヤ」という人のパーソナリティにあるのでしょう。

 

黒澤ダイヤの矛盾

 

個人的に...ですが、黒澤ダイヤという人は1期の物語を通してだと、掴みどころのない「謎の人物」という印象を受けました。

表面的には「生徒会長」という役職が示すところのステレオタイプなキャラクター(マジメ・融通が利かない・指導力がある)でありながら、時折それを「平然」と覆す要素がある。

特に「謎」なのは、行動言動の「矛盾」が多いところでしょうか。

1話・2話から「スクールアイドルを認めない」立場にも関わらず、「聞かれてもいないスクールアイドルの知識をベラベラしゃべる」という矛盾に満ちた行動をし...

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3話ではあれだけ反対していたAqoursのライブが、停電というアクシデントで中止に!?という事態に陥った時には、シレっと予備電源を持ってきてライブ継続への手助けをしました。

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かと思えばライブ成功直後のAqoursには、「この成功は、街の人や、これまでのスクールアイドルの努力があってこその成功なのだ」と「自分の協力」を排除した理論で釘を刺す。

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ルビィのAqours加入を反対していたにも関わらず、いざ加入が決まると喜びを隠せず、それを鞠莉に指摘されたり...

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東京で敗れ傷付いたAqoursのメンバーに、自分達の「過去」と「失敗」を語ることで癒しを与えた...

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と思いきや、その「失敗」の内容が後から「全く別の内容」にシレっと変わったり...

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とにもかくにも「矛盾」に満ち溢れた行動や言動を繰り広げたのが、1期での黒澤ダイヤという人物でした。

これを「シナリオにおける狂言回しとして使われた弊害」と捉えてしまうのも、確かに理解できるのですが、僕はもう少しこの現象を「豊か」に捉えてみたいと思いました。

もしかしたらこの「矛盾」にこそ、黒澤ダイヤという人物を読み解く上での大事な要素が詰め込まれているのかも?と思ったからです。

ここから先はなんの確信もない妄想なので、そのつもりでお読みください(笑)。

■惑わない人、黒澤ダイヤ

実のところ、ここまで矛盾ばかりが目立ったダイヤの行動ですが、一点「一貫している」部分もあるのです。それはこれらの言動や行動を選択する際の彼女の「姿勢」です。ダイヤはこれらの言動行動をする際に「惑い」というものが一切無いのです。

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 本来自分の行動や言動に「矛盾」があれば、自ずとそれに気づくもの。どうしてもそれを選択する前に動揺や逡巡が出てしまうこともあるはずです。

にも関わらず、彼女にはその気配がない。彼女の、行動や言動は「矛盾」して「一貫性を欠く」にも関わらず、こと「行動選択」には一貫して「惑い」が無い。とすれば彼女はこれらの言動行動を

①「ほぼ『無意識』に『自動的に』ないしは『本能的に』選択しているのではないか?」

または

②「非常に計画的に選んでいるのではないか?」

という二つの案が浮かび上がってくるのです。

しかし、1期で起きた物事の関連性を見ると、意図的には起こし得ない因果関係も含まれます。となると、①が正解のようにも思えるのです。

となると彼女の言動や行動が「矛盾」しているのにも納得がいきます。なぜなら「理屈」をもっての発言や行動ではないのですから。自ずと齟齬が生まれて当然です。しかしダイヤはそんな一つ一つの行動や言動が起こす「齟齬」など気にしない。

それは何故か?

恐らく彼女は「齟齬」のもっと先にある「未来」を、初めから見据えているからなのでは?と思えるのです。しかも「本能的」に。

 

彼女が1期における「矛盾に満ちた」言動や行動で成し遂げた「未来」とは何か。

それはAqours」の再結成です。

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彼女が願う最高の未来とは「果南・鞠莉と再びスクールアイドルをやる」ということ。そこに最大の願いでもある「ルビィも一緒にスクールアイドルをやる」を加えた、彼女が願う中では「最高の形」となった9話での「Aqours再結成」。

もちろん千歌たちの「スクールアイドル活動」が発端として無ければ成し遂げられなかった「未来」ではあります。しかし、結果的には「そこ」にたどり着いてしまった。そしてその成立の根幹には間違いなく黒澤ダイヤの言動と行動が影響を与えていました。

9話EDで果南はこう語りました。

「千歌たちも、私も鞠莉も、きっとまんまと乗せられたんだよ。誰かさんに。」

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このように果南が語り、鞠莉がそれに静かに頷くのは、やはりダイヤには昔からそういった「能力」があることを、二人は認識しているからなのではないでしょうか。

起きている現象や状況を巧みに操り、自らの理想とする「形」へと、自然にまとめてしまう能力。これはある種の「異能」でもあります。そしてこの「異能」にこそ黒澤ダイヤという人のパーソナリティが隠されているのでは?と思えるのです。


■神童としてのダイヤ

「真面目でちゃんとしてて、頭が良くてお嬢様で、頼り甲斐はあるけど、どこか雲の上の存在で、みんなそう思うからダイヤもそう振舞わなきゃって、どんどん距離を取っていって」

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17話において果南と鞠莉が語る幼少期からのダイヤの印象。この一遍からだけでは伝わらないですが、私は彼女がある種の「神童」なのでは?と感じました。

子供のころから様々なことをすぐに理解し、実践できる。人間としても良く出来た人物で、あらゆる人から尊敬を得る存在。それは、生まれついての「指導者」でもあります。

 おそらく幼少のころから、何か「簡単には解決できない問題」を、有耶無耶のうちに整理し、「あるべき形に収める」という行動を彼女が繰り返してきたのでは?ということがこの1幕から想像できます。

とはいえこういったある種の「天才」には「孤独」がつきもの。私がダイヤのパーソナリティを通して類似性を見出したのは、同じく「ラブライブ!」の登場人物である西木野真姫でした。

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彼女は「指導者」ではなく「芸術家」ではありますが、「天才」ゆえの「孤独」を常に抱えてきた人物でした。家柄・美貌・そして音楽家としての能力。それら「生まれついての能力」を持ったが故に「他人」と距離感が生まれ「孤独」を抱え続けていた真姫。「ラブライブ!」はそんな「孤独な魂」が「救われていく」物語でもありました。

「才能」を持ちながら、その才能自体が「孤独」によって消し去られそうになっていたところを、「孤独な魂」を繋げる存在である「穂乃果」や「μ's」や「アイドル」の存在によって救われた真姫。

しかし、もしもこれらの出会いがなければ、真姫も「孤独」から脱却できずに、「自らの存在価値」と「現実」との間に翻弄されるままだったかもしれません。現実の「神童たち」の多くが実際には「孤独」を拗らせて辛い人生を送っているように。

幼少のころから「孤独」であり続けたが故に、μ'sとの出会いまで「孤独」を拗らせてしまった真姫。

しかしダイヤは真姫とは少し違います。

彼女には果南と鞠莉という「親友」にして「理解者」がいるからです。

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二人はダイヤという人のパーソナリティを知った上で、それでも「一緒に居続けた」「無二の親友」です。彼女達はダイヤを「孤独」から救う存在であり、ダイヤの価値を「肯定する」存在でもあります。故にダイヤは「天才」でありながら、「孤独」に悩むことなく「まっすぐ」と育っていったのでは?と思えるのです。

ところが逆に、それ故に本人が見過ごしてしまった、「自分自身の本質」というものもあります。それは鞠莉と果南は理解しているのに、本人は「理解していない」もの。

果南が「本当は凄い寂しがり屋なのにね」と語るダイヤの本質。

しかしダイヤはそれを「自分の本質」として「把握できていない」のです。

その理由は彼女自身がその事実に「気づくタイミングがなかったから」でしょう。

自分の「あり方」を果南と鞠莉という存在を通して「肯定」されてきたダイヤ。反面そのありがたい存在が、ダイヤを「自分自身と向き合う」時間から「遠ざける要因」にもなってしまっていたわけです。

高校3年生の秋、人生において初めて「自分という存在」と向き合うことになった「異能」の「神童」。そんなある種の「歪さ」が黒澤ダイヤという人のパーソナリティであり、面白さなのかもしれません。

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■ダイヤの迷いとアイデンティティクライシス

ダイヤの迷いの根幹にあるのは「自分だけが果南や鞠莉と違って敬語で呼ばれる」ことであり、ひいては「自分だけがちゃん付けや呼び捨てされない」こと。それによって「メンバーと自分との間に距離感が生まれているのでは?」という悩みです。

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とはいえこういった「悩み」をなぜ今まで一度も感じたことがなかったのか。というとやはり彼女が「異能」の「天才」だったからなのでしょう。

これまでは鞠莉と果南以外には特に「親しい人間」を必要としてこなかった彼女にとって、「交友関係」は非常に「狭いもの」でした。3人だけで完結する関係が幼少期から現在に至るまで延々と続いてきたことで、その枠からはみ出すことがなかった。

初期Aqoursにしてもこの「幼馴染3人」で結成されたグループであり、いかに「アイドルグループ」という枠組みがあるとはいえ、「幼馴染」という関係性の延長線上に過ぎなかったわけです。

しかし「新Aqours」は年齢も育った環境も異なるメンバーが加わっています。するとその間では新たな交友関係が発生する。ダイヤもその「一員」である以上、いやでも新たな「枠」へと身を投じなくてはいけなくなる。故にこれまで感じたことの無かった「悩み」にぶつかることになった...と考えられます。

とはいえ、本当に「普通の人」であれば、学校のクラスなどで嫌でも実感せざるを得ない悩みともいえます。それだけに、それを今まで感じてこなかったダイヤが少し「異質」な存在にも思えるのです。

反面、そんな「異質」なダイヤが、ある種「普通の悩み」を感じることが出来るのも「Aqours」というグループに所属しているからでもあり、そういう意味では「Aqours」もまた果南や鞠莉と同じく、ダイヤを「救う存在」になっているのかもしれません。


■ダイヤが「持っているもの」と「欲しいもの」

ダイヤが欲しいもの。それは「親しみやすさ」です。故にAqoursメンバーに不可思議な接触を繰り返す。しかしAqoursメンバーはそんなダイヤの意図がついぞ理解できません。

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メンバーと同じ視線で会話しようと試みるダイヤ。しかしその度にメンバーのフワっとした解答や雰囲気に我慢がならず、「適切な指導」や「ツッコミ」を入れてしまいます。

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その見事な指摘に頷くばかりのメンバー。彼女達はより一層ダイヤへの「尊敬心」を高めていくわけですが、これはダイヤの本意ではない。彼女が欲しいのは「尊敬」ではなく「親しみやすさ」なのです。

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とはいえ「尊敬心」というのは決してネガティブなものではありません。「親しみやすさ」とは少し異なりますが、その人に対してのポジティブな心の動きに他ならないのですから。しかしダイヤにはその真意は伝わりません。

先ほど書いた通り「親しみやすさ」と「尊敬心」は本来同じ「ベクトル」にあるもの。

しかし究極の部分では交わらない要素でもあります。

「尊厳」という字の通り、「尊敬」を受ける人物には同じく「一定の厳しさ」もあります。人にも自分にも「厳しく」出来る人物でなくては「尊敬」を受けることが出来ない。そして「厳しさ」と「親しみやすさ」は相反する要素でもあります。故に両方を得ようとするのは無理がある。とすれば、どちらかに思いっきり振り切るしかないけれども、ダイヤはどうしても本来の「厳しさ」が顔を出してしまい、「親しみやすさ」に振り切れません。

ダイヤは既に持っている「尊厳」ではなく、「親しみやすさ」を得ようと画策している。しかしその両者は共有し辛い要素を持っている。しかも自分の「本質」がそれをことさら邪魔する。それ故にかなり無理な状況へと自分を追い込んでいる...ということが、なんとなく見えてきます。

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既に持っているものと、欲しているものが一致しない状況。そしてその状況に陥っている原因を把握できているのは「自分だけ」であり、メンバーはそんな状況をまるで理解できていないという所は、第11話「友情ヨーソロー」での曜を思い出させます。

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曜の場合にも、今回のダイヤの場合にも共通しているのは、彼女達の悩みが「一人相撲」であるという点でしょう。

周りのメンバーも彼女達の異変には気付くものの、その「真意」にはなかなか気づけないし、解決法を提示することもできない。あくまでも「本人の気づき」と「理解」だけが「問題解決の糸口になる」という点でも、この2つの回は似た回なのかもしれません。

曜が梨子によって気づきを与えられ、その気づきを千歌によって「承認」されることで悩みから脱却したように、ダイヤもまた似た手順でこの「悩み」を解決していくことになります。

 

■自分自身の可能性との邂逅。ダイヤだから救えるもの。

底を突き始めたAqoursの活動資金。親に頼ることが出来ないAqoursは自らの力で活動資金をねん出することに。この辺りは「真姫資金」に頼り続けたμ'sへのアンチテーゼとなっているのかもしれません(笑)。

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(神様に頼っても何ももらえないAqours。もちろん5円が500円にもなりません。。)

見つけたバイト先は伊豆三津シーパラダイス。「恋になりたいAQUARIUM」PVの舞台ともなった水族館ですね。

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千歌宅や千歌と梨子がよく語り合う海岸、松月さんなど「ラブライブ!サンシャイン!!」のロケ地は近接していますが、三津シーもそのすぐ近く。内浦に行かれた際にはぜひお立ち寄りください。

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うちっちーもいるよ!(実物の中身は渡辺曜さんではありませんが...えっ?中身などいない??その通り!!)

バイトを通じてメンバーと仲良くなろうと画策するダイヤ。しかし先ほども書いた通り自分の本質と「相反するもの」を手に入れようと画策している以上、その目論みは上手くいきません。

アシカに襲われる(?)ルビィと梨子を救うなど、相変わらず意図せず、メンバー内での「尊敬」を高めていくダイヤ。

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思うようにいかない計画。そんなダイヤの「攻撃」を受けるメンバーもダイヤの様子に困惑。遂に唯一ダイヤの「真意」を聞いていた鞠莉と果南によってダイヤの行動の謎が種明かしされることになるのですが...。

対するダイヤは1人物思いに耽っています。「ただ仲良くなりたいだけなのに...。」

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この段になっても、ダイヤは物事の本質(一人相撲)に気付く様子を見せません。

そんな中、三津シーを訪れていた園児たちが制御できずに園内を暴れ回る事態に発展。

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ロス・インゴ・ベルナーブレス(制御不能)な事態にてんてこまいになるメンバーたち。そんな園児の中で一人、事態を納めようと試みる女の子がいました。

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前髪ぱっつん気味のちょっと吊目な彼女。どことなく幼少期のダイヤを思わせる風貌です。「みんな!ちゃんとしてよ!!」必死に制止しようとする彼女の声を、しかし誰も聞いていません。

そんな彼女の言葉から、何かを感じ取ったダイヤ。

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「みんなー!スタジアムにあつまれー!」

機転を利かし、飛び込み台の上で注目を集めるダイヤ。

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まるで子供番組の歌のお姉さんのような仕草で、子供たちを自分のもとに引き寄せます。

「園児のみんな 走ったり大声を出すのは、他の人の迷惑になるから ブッブーですわ♪」

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お馴染みのセリフを使いながら注意を促すダイヤ。

「みんな、ちゃんとしましょうね♪」

あの女の子が言っても、一向に聞く様子の無かった言葉に「はーい」と返事を返す園児たち。ダイヤは事態を収拾するだけでなく、事態収拾に女の子の言葉を用いることで、女の子のこともまた「救って」みせました。

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映画文法的に解釈すると、この小さな女の子は、ダイヤにとっての「ドッペルゲンガー」的な存在と思えます。

また、この女の子の周りには彼女の「理解者」がいないことを考えると、この少女は近くに果南と鞠莉が「いなかった場合」のダイヤの「if」としてのメタファーなのでは?とも想像できます。

「真面目でちゃんとしてて、頭が良くてお嬢様で、頼り甲斐はあるけど、どこか雲の上の存在」だったダイヤが、もしも自分の「あり方」を肯定してくれる存在と出会えなかったら。もしかしたらこの女の子のように「孤独」に打ち震えていたかもしれません。「正しさ」をひたすらに主張する事しかできず、それが受け入れられず泣いていたかもしれません。

しかし、ダイヤは違います。彼女には自分の価値を認めてくれる存在がいます。そしてそれに加えて彼女には「音楽」が「アイドル」が「心の支え」として存在しています。

1期ED曲「ユメ語るよりユメ歌おう」内の

「ユメを語る言葉より ユメを語る歌にしよう それならば今を 伝えられる気がするから」

という歌詞の通り、歌は本来「メッセージ」をより普遍的に多くの人に伝えるために発生したものです。

劇中では歌っているわけではありませんが、音楽に合わせ楽しげに踊りながら発せられる言葉は、正しく「歌」に等しい存在だと思います。

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ダイヤが「歌う」ことが出来るのは、彼女もまた歌を武器として生きる「アイドル」だからです。

「真面目でちゃんとしてて、頭が良くてお嬢様で、頼り甲斐はあるけど、どこか雲の上の存在」だけど「アイドル」でもある。

そんな黒澤ダイヤならではのアイデンティティを与えてくれているのは、鞠莉や果南であり、「Aqours」という居場所なのです。

そして、それこそが黒澤ダイヤという人の「アイデンティティ」でもあるのです。

ダイヤはこの女の子を通して、「過去の自分」や「自分の可能性」を疑似視し、改めて自分自身の在り方を再度発見するに至ったのでしょう。

そして「過去の自分」を「今の自分」が救うために、「ダイヤなりのやり方」で女の子を救うのではないでしょうか。このシーンにはそんな意図を感じてしまいました。

そして、ダイヤとの出会いは、この女の子にとっても大きな「出会い」となりました。

自分に良く似た存在であるダイヤの「あり方」が、彼女にとっても「自らが目指す指標」になっていくと思えるからです。

ダイヤがμ'sという「アイドル」の存在によって「救い」を得たように、この女の子も「Aqours黒澤ダイヤ」という「アイドル」との出会いが、人生における「大きな出会い」であり「救い」になったはず。

なんでもない人生の、なんでもない一瞬に「輝き」や「ワクワク」を与える。そしてそれがその人にとって「重要な要素になっていく」「生きる糧になっていく」。それは永遠にリンクしていく。「だからアイドルは最高なのよ」と語った矢澤パイセンの声が思い出されます。


■ダイヤらしさとは。

ドタバタの末(ほとんどが一人相撲でしたが)「結局私は私でしかないのですわね」と結論付けたダイヤ。

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そんなダイヤの独り言に千歌は「それでいいと思います」と答えます。

「確かに果南ちゃんや鞠莉ちゃんと違ってふざけたり冗談言ったりできないなって思うこともあるけど...」

ダイヤが望んできたことへの明確な「拒絶」を伝えられ、悲しげに顔をゆがめるダイヤ。

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「でもダイヤさんはいざとなった時には頼りになって、だらけている時には叱ってくれる。」

「ちゃんとしてるんです!」

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自らが少女を鼓舞するために使った言葉は、ここではダイヤの在り方そのものを「肯定する」言葉として自分に跳ね返ってくる。ここはシナリオ上の上手さだなと思いました。

「だからみんな安心できるし、そんなダイヤさんが大好きです

「だからこれからもずっと ダイヤさんでいてください!」

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ダイヤが「ダイヤさん」と呼ばれることを嫌ったのは、メンバーとの間に見えない壁があるように思えたから。それは「グループ内における自分の存在意義に対する疑問」でもあったのでしょう。そのあたりはやはり11話の曜に近いものがあります。

しかし、千歌はそんなダイヤの悩みの本質を見抜いたうえで、ダイヤが何故「Aqoursに必要なのか」「なぜダイヤさんと尊称で呼ぶのか」を本人にしっかりと伝えることに務めました。

「自分たちには無い要素をダイヤが持っていること」。「指導者としてのダイヤが自分達には必要なこと」。そんなダイヤを皆が「尊敬していること」。そして「みんなダイヤのことが大好きなこと」

その事実は「ちゃん付けで呼ぶとか呼ばないとか」という問題を大きく凌駕した「Aqoursにおけるダイヤの存在意義」を「肯定」する言葉でもあるのです。

「他人の評価する自分」「自分自身が改めて認める」ことで、「自分自身の持つ価値を再認識する」という物語として作劇されている今回。

ダイヤもまた「自分自身では理解しきれていなかった自分自身の価値」を「他者から肯定される」ことでその価値を「再認識」することができたのでした。

そして「ダイヤさん」と呼ばれることにも、「価値」を見出すことが出来るようになったのです。

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とはいえ、「ちゃん付け」で呼ばれてみたいことはそれとは別の意味で事実。だってダイヤは「寂しがり屋」なのですから。

そんな意図も汲み取っているからこそ、Aqoursは最後にダイヤを「ダイヤちゃん」と呼ぶ。それはAqoursによる「ダイヤの本質への受け入れ作業」でもあるのです。

ダイヤもその意図をなんとなく察しているから困ったような、嬉しいような笑顔で答える。

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どこかミステリアスだったダイヤをAqoursメンバーがより「身近な存在」として受け入れられた日。そしてダイヤもまた「自らの存在意義」をキチンと把握できたこの日。Aqoursはまた「チーム」としての結束力を高めたように思えるのです。

 

■余談「黒子から黒澤ダイヤを考える」

ここからは余談ですが、ダイヤの黒子(ホクロ)に関してのお話。

ダイヤのチャームポイントであり、今回も「本音をごまかす際に掻く場所」として登場したホクロ。

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多分気になって調べている方は多いと思いますが、この位置に存在する黒子がどんな意味を持つのかヤホーで調べてみました。

 

 

口の下の位置を、「地閣」といいます。
物質に関してあまり恵まれていないため、貪欲に働きます。働き者のほくろです。陰ひなたのない働き者ですので、人の信頼を受けます。特に年下から慕われるでしょう。部下の協力で繁栄します。中年期以降にいろいろなことが実を結びます。愛情深い面と、嫉妬深い面があります。

口元・口周りのほくろの意味と運勢[人相学占い] | Spicomi

 なるほど「物質面で恵まれない」という要素を除けば、ほぼダイヤのことを示しているような近似性です。キャラクターデザインの際には、こういった部分も見ているのでしょうね。

またダイヤと同じく口元にホクロを持つ「中の人」こと小宮有紗嬢ですが、ダイヤとは若干黒子の位置が異なります。

唇左端ですな。ここはどんな評価なのでしょうか。

 

 

口角の近くにほくろがある人は、おしゃべりな人が多いです。言葉巧みで、頭の回転も速くてセールスマンに向きます。しかし、余計な一言で人間関係を崩さないように注意してください。言葉にトゲのある人もいます。

俗にいう「おしゃべりほくろ」なのです。軽率なことを言ってしまい、秘密もすぐ他言してしまいがちです。

女性は、うわさ話を吹聴して、人間関係のトラブルを助長してしまいます。男性では、大事な仕事の機密をうっかりしゃべってしまうミスも考えられます。しゃべりすぎに注意が必要です。

口元・口周りのほくろの意味と運勢[人相学占い] | Spicomi

 ……えっと....こんなのなんの当てにもなりませんからね!!気にしなくてよし!!!

 

というオチもついたところで、第17話考察でございました。

ちょっと分かり辛い内容になっている自覚はあるので、適宜手直しをしていくと思います。乱文悪文で大変恐縮ですが、何卒よろしくお願いいたします。

次回はみなさん待望の犬主役回ですね。わたあめちゃんとしいたけの活躍が楽しみです(違う)。

それではまた次回お会いしましょう。長々とすみませんでした!!!

 

~I live I live Love Live! days!!~「未来の僕らは知ってるよ」インプレッションメモ

フルVer聞きました!

いや、凄かった!

凄かったので、考察とかではなくインプレッションのしかもメモ書きのようなものだけ上げておきます。(後で修正するかも)

【Amazon.co.jp限定】 『ラブライブ! サンシャイン!!』TVアニメ2期オープニング主題歌「未来の僕らは知ってるよ」 (オリジナル特典:デカジャケット付)

 

■「未来の僕らは知ってるよ」インプレッション的メモ

・1番の歌詞が楽曲における「取っ掛かり」とすれば、2番以降になんらかの「仕掛け」を用意してくるのがこれまでの定例。今回もその例に洩れず。やってくれた。

 

・実は今回は、10代リスナーの多いFMラジオ番組にて先に全貌を明らかにする(歌詞は未公開の上でのフルコーラス演奏)という離れ業を決めてはいた。

しかし、今回の「仕掛け」の凄いところは、「2期3話」を見る前と見た後とではまるで歌詞から受ける「インプレッションが変わる」という1点につきる。そしてこれがド級の「必殺パンチ」だった。

 

・とはいえ、いきなり核心に入るのは難なので、1番から考えてみよう。

ラブライブ文脈では、楽曲冒頭の入りは、常に「テーマ」を端的に現す言葉が入りがち。

青空jumping heartでは

「見たことない 夢の軌道 追いかけて」
 

それは僕たちの奇跡では

「さぁ夢を叶えるのは みんなの勇気 負けない(こころで) 明日へ駈けて行こう」

と、楽曲におけるテーマ性とパンチラインがバシっとここで表明されるのも、ラブライブ!楽曲の特徴。

 

・今回「未来の僕らは知ってるよ」では

「ホンキをぶつけ合って 手に入れよう 未来を!」。

 ここでピックアップしたいのは、「手に入れよう」という単語。ここがこの楽曲のキモであり、「サンシャイン!!」二期のテーマでもあるように思える。

「未来」を「夢」と置き換えれば、これは「夢を手に入れる」という宣言となり、「叶え!みんなの夢」と語ったμ'sとは少し趣が異なる。

Aqoursにとって夢は「叶える」ものではなく「手に入れるもの」である。これが、キーポイントだろう。

 

・個人的に1番の歌詞で気になるのは、サビ直前の(ずっと一緒にいこう)という所。

 これはメンバーに対しての問いかけか?個人的には、違うような気がする。

 この歌詞に入る直前の歌詞を読み解くと、この対象は「希望でいっぱいの今日」か。

 となると、ここは「希望を胸に抱いた今」という状態を、今後の人生においても「ずっと」持ち続けよう。そういう「意思」に捉えられる。

 そしてその「意思」を「共有しよう」という我々への問いかけにも感じられる。


・2番以降はより具体的な舞台設定が描かれる。

 「雨に濡れながら 『ぜったい晴れる!』と信じてるんだよ」

 という部分は、明確に3話でのラストシーンを想起させる。

 雨の中、それでも「奇跡」をかなえるために走り続けた姿が嫌が応にも浮かび上がる。

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「進化したいから すぐできないこと ひとつひとつ 乗り越えて」

 ここは、簡単に乗り越えられない困難にぶつかりながら、目の前の「出来ること」をしっかりとクリアしていこうとするAqoursの姿に重なる。

 そしてこの考え方はやはり3話で梨子が語った「私たちのやり方」と同じだ。

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「雲の間に間に あたらしい青空が 待ってるよ 待ってるよ!」

 天気雨の中、木陰の隙間から見える太陽の光に。

 そして雲の切れ間にかすかに見える青空に。

 そこにかかる大きな虹に。

 希望を託したAqoursの姿が、嫌でも瞼の裏によみがえる。

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 やはり、3話あってのこの歌詞なのである。

 「期待ではじけ飛ぼう!!」

 という歌詞は、「虹」を見つけて、空高く飛んだ千歌の姿を想起させる。

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・ここまでが3話の物語とすれば、これ以降は「その先の物語」なのだろうか。

「期待が僕たちへ たくさん合図くれるから 逃さないで チャンスをつかまえて」

 今は「小さな勝利」と「達成」をとにかく積み重ねているAqours。その姿は、まるでガードの固い相手にジャブを繰り返し放ちながら、チャンスを窺うボクサーのよう。

「小さな勝利」の積み重ねの中から、ほんの一瞬の隙間に現れる「チャンスの可能性」。それを逃さず「捕まえる」。そこには堅実でありながら、攻撃的な姿勢が垣間見える。

 Aqoursの戦い方は、着実でありながら、どこまでも「能動的」で「主体的」。そこが魅力。

 

「I live Ilive LoveLive! days!!」 ここにはとにかく喰らわされた。

 「私は生きる!」という強い宣言。その生きる対象はラブライブ!の日々」であるということ。

 Aqoursは決して「ラブライブ!」を生みだしたわけではない。

 彼女たちは予め「ラブライブ!」がある「世界」に生まれて、その物語の「続編」の「主役」となることを担わされた存在。

 だからこそ、強烈な重圧に晒されてきたし、今なお晒されている。

 しかし、Aqoursはここでその「重圧」を引き受けたうえで、それでもなおその「日々」を「生きる」のだと力強く宣言しているわけだ。

 その中でしか描けない「自分たちの物語」があることを、

 また、それが描けるのは「自分たちだけ」であることを正面切って主張しているわけだ。

 これってやはり「我々と同じ」だ。

 生まれた瞬間にはとっくに「全てのイノベーション」が終わっていて、

 考えたものも思いついたものも全てが「既にあるもののニセモノ」だったり「パクリ」だと言われる時代。

 それでも、そんな時代に生まれてしまったのだから、その中でなんとか生きていくしかない。

 例えどんな「誹り」や「嘲り」を受けようとも、正面切って立ち向かうしかない。

 それが「今」を「生きる」ということだから。

 Aqoursはやはり我々と視線を同じくして生きる存在なのだと、この歌詞から強烈なインプレッションを受けた。

 そしてより彼女たちの物語である「サンシャイン!!」が大好きになった。

 

・1番では「泣いたり 笑ったり」しながら進むと決めたAqours

 2番では「泣いても 笑っても」進むと語る。

 どんな「状況」になろうとも、「進む」という力強い「意思」をここでも感じる。

 

・「We got dream」に関して。

 指摘されている方もいるが、ここは「過去形」。

 すなわち歌の冒頭最初から後半にいたるまで「現在進行形」で「未来」を求め続けたAqoursが最後の最後でようやく「未来」に「到達」し、その「結果」を「過去形」であらわしている。とも捉えられる。

 あるいは、まだ手に入れていないけれども「確信」をもって「過去形」としているのか。

 そのどちらかは分からないけれども、一つはっきりしているのは、Aqours夢を「叶えた」のではなく「手にした」と表現していること。

2期3話ラストで千歌がギュッと拳を握りしめたのは、何かを具体的に「掴む」行為に見える。

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冒頭で「手に入れよう」と誓った「未来」を、最後には「手に入れた」と宣言する。

1曲の中で一つの物語が始まり、完結しているという面では「僕らは今の中で」と構造を同じくするのだけど、かの曲が「輝きを待っていた」のに対して、この曲は「輝きを掴まえる」という点で、やはりAqoursならではのメッセージソングとして完結しているように思える。

そして、その姿勢こそがAqoursの、「サンシャイン」の「物語」なのではと思える。