皆様、こんにちは。或いはこんばんは。
今回も妄想にお付き合いいただきます。
読んでも一銭の得にもなりませんが、どうぞおヒマつぶしにでもご利用ください。
さて、今回は「犬を拾う。」というシュールなタイトルから、事前にはその内容を丸で予想出来なかった回。
善子と梨子の二人がフィーチャーされたことで「よしりこ回!」と一定の層をざわつかせましたが、結果としては「そうでもある」し「そうでもない」独特な回となりました。
また、あまりにも物語構成への説明がないため、この回が「一体なんの為の回なのか?」が波紋を呼んでいたりもします。
今回も私の考察そのものは決して「正解」ではありません。なにせ「製作者」ではないので。ただし「こうかもなぁ」というボンヤリとした予想を書き連ねていきますので、それが物語を読み解く上でのなんらかのヒントになれば良いなぁ...とは思っています。
個人的にこの回は「ラブライブ!サンシャイン!!」のこれまでのエピソードの中でも屈指のエピソードだと認識しており、少なくともその思いだけでも伝われば満足でございます。
...また前置きが長くなってしまいました。早速参りましょう。#5「犬を拾う。」です。
■「雨」と「出会い」
季節は秋。どうやら台風が上陸しているのか天候が優れません。あまりのんびり練習していては、帰れなくなるメンバーも出てしまう。このあたりは静岡の内浦を拠点とするアイドルならではの悩みどころかもしれません。
沼津を拠点としたことで、家が近くなった善子。メンバーのほとんどが車の送り迎えを利用して帰る中、一人「徒歩」での帰宅を選択します。
とはいえ雨足も風も強くなる一方。意地になって歩いて帰る必要など無いはず。それでも善子は「自分の脚」で帰ることに拘ります。
「胸騒ぎがするこの空。最終決戦的な何かが始まりそうな気がする!」
毎度のことながら、起こる事態を「自分の世界観」に照らし合わせて語る善子。しかし雨風はそんな善子に容赦なく襲い掛かり、傘も飛ばされてしまいます。必死に傘を追いかける善子。植垣に引っかかったそれを回収し、ホッと一息。しかしその陰で善子は「運命的」な出会いをすることになります。
またしても登場した「雨」。しかし今回はそのものズバリ主要キャラクターに襲い掛かる「障害」として登場しました。しかし、そんな「雨風」の中でもめげずに、むしろ「好んで」進もうとする善子。
このシーンには「逆風の中でも自らのやり方で進もうとする」善子という人そのものの「キャラクター性」が表現されているように思えます。
今回は彼女のそんな「あり方」が、物語の「鍵」にもなっていきます。
■千歌と善子 必要となる「異なる視点」
地区予選を突破したAqours。しかし次のステージは東海地方予選。前回惜しくも突破を阻まれた場所です。ここを通過するには既存のやり方ではダメ。新たなる「視点」を模索するAqours。しかしなかなか良い案は浮かびません。
そんな中ライバルであり盟友でもあるSaint snowは、新たなる曲を披露。
今回詳しく聞くことが出来ませんでしたが、新曲となる「CLASH MIND」は、恐らく彼女達の「経験」が元になって作られた楽曲のよう。
「自分達の現状」や「今の気持ち」を即物的に楽曲へと落とし込んでいく感じは、Aqoursとは異なる彼女達なりの「個性」で、これはこれでとても魅力的です。
「壊れた心を拾い集めて それで芸術を作るのよ」とは、故キャリー・フィッシャーの言葉ですが、Saint snowの表現はその言葉を想起させます。
ライバルが示した「新たな方向性」に、やる気を喚起させられるメンバー。
では、自分達の「これまで」とは違う「視点」とは何か。「新たなテーマ」を考えていくのですが...。
「かといって暗黒というのは、あり得ませんけどね...。」
ダイヤが否定する「テーマ」。それを提案したのはもちろん善子です。
そんなダイヤの冷たい言葉にもめげず「暗黒」の価値を説明する善子。しかしその説明は千歌によってあっさりと遮られてしまいます...。
「やっぱり輝きだよ!」
千歌にとって常に重要なテーマである「輝き」。それは彼女が作詞を担当している13話挿入歌「MIRAI TICKET」や「きみの心は輝いてるかい?」でも重要なモチーフとなっているもの。いわばこれまでのAqoursを象徴する「テーマ」といえるもの。それが「輝き」です。
「まぁ”輝き”っていうのは千歌が始めた時から、ずっと追いかけてきている物だしね」
そんな事実は果南も、もちろん他のメンバーも認めるところ。
しかし千歌の示す「輝き」だけでは、「足りない」ことも事実。その「輝き」を象徴させた楽曲「MIRAITICKET」で「予選突破出来なかった」のですから。
となると千歌の視点とは異なる「輝き」へのたどり着き方を模索する必要がありそうです。
このパートでは「新しいテーマ」を求めてAqoursが意見を交わし、その結論が見つからないという状況に。
これは「ラブライブ!」2期6話「ハッピーハロウィン」と似た展開でもあります。「ハッピーハロウィン」では「個性」を追い求めたμ'sが試行錯誤という名の「暴走」を繰り広げた末に「自分達は元々個性的なのだ」という「発見」をし、それを「自らを再肯定する」という物語が描かれました。
後継作であるサンシャイン!!でも同様の物語が描かれてもいいはず。しかし「サンシャイン!!」では敢えて違う「切り口」で物語を再構成することになりました。
パート内で意図的に相反する千歌と善子の意見。
千歌がまっすぐに見つめる「輝き」。
13話エピローグでも語られた通り、千歌にとってのそれは「自らの心の内から自然と溢れ出すもの」。「輝き」は常に「自分と共にある」。それが千歌にとっては「自然」なことであり、そのこと自体に疑問そのものを抱きません。
しかし、それは「輝き」の根底となる自分自身を常に「肯定出来ている」からこその捉え方でもあります。
即ち「千歌だからこそ」の「輝きの捉え方」でもあるのです。
誰しもが千歌と「同じメンタリティ」を持てているわけではないし、持てるわけでもない。それはAqoursのメンバーとて同じ。
例えば、「輝き」が自分の中には存在しない人もいる。
そういった人は、千歌とは「別の方法」で「輝き」を追い求める必要があります。では、その人のそんな「あり方」は否定されるべきなのか??というのが今回のお話。
行き着く先となる「ゴール」が同じならば、「違う方法でそれを求めても良い」。
そんな「違う方法」で「輝き」を追い求める事と、その「視点」を巡る物語が、今回のテーマなのでは?と感じられるのです。
そしてそのテーマを表現するために選ばれた一人が津島善子なのではないでしょうか。
■津島善子の在り方
津島善子は「不運」である。
これは「ラブライブ!サンシャイン!!」開始当初から決められていた「キャラクター設定」でもあります。
普通であれば「不運」というだけで、「ネガティブ」な人格が形作られてしまいそうな要素。
しかし善子は「不運」という「自分の運命」を「否定」しませんでした。なんとそれを敢えて「肯定」する。その「肯定」の方法として「堕天使ヨハネ」を自称するのです。自分に「不運」が降りかかるのは「堕天使としての自分の在り方」が「運命」を「不運」へと変えてしまう為なのだ...と捉えなおすために。
自分が持って生まれた「運命」を、「自らに与えられたもの」ではなく、「自らの在り方」が原因として起こる「事象」として「捉えなおした」善子。結果、自分に起きる「良いこと」も「悪いこと」も全て「自分の解釈」で「意味を変化させて受け止める」という技術を手にしました。
例えば転んだとしても「これは堕天使としての自分に降りかかってしまう災難なのだ。そんな運命に見舞われている自分ってかっこいい」と「解決」できたり。
とにもかくにも「自分に降りかかる事態の全て」を「自分の解釈で解決できる人」に善子はなったのです。
仮に「嫌なこと」が起きたとしても「まぁ堕天使だし、しゃーないよね」と考えるのは、どう考えても「歪」です。反面とにかく「前向き」な姿勢でもある。
そんな「歪つに前向き」な人こそが、津島善子なのだと思うのです。
ただし善子が肯定しているのは、自らの「不運」という「運命」だけである..ということも見逃してはいけません。
彼女が「不運な自分」を受け入れるために作成した人格である「ヨハネ」。結果として彼女はこの「ヨハネ」を肯定するために、「津島善子」を「否定」しなくてはいけない...という「パラドックス」を抱えてもいるわけです。
「善子」と呼ばれるたびに「ヨハネ!」と否定するのは、この「パラドックス」ゆえ。彼女は「津島善子」という「名前」を受け入れた途端、「不運」という「運命」も「津島善子」の持つ「本質」として受け入れなくてはいけなくなる。しかしそれを認めてしまってはこれまでのように「前向きに生きていけない」。何故なら「津島善子」は「ヨハネ」と違ってただの「人」。ただの「人」が「不運」であることにはなんの「因果関係」も発生しないからです。彼女にとっては自分が「堕天使」だからこそ「不運」なのだ!という「因果関係」が必要なのです。
だからこそ命がけで「善子」を否定し「ヨハネ」を肯定し続けなくてはいけない。と、いうなんとも壮絶な生き方をしてもいるわけです。
しかし彼女にとってはそれが一番「生きやすい」「生き方」であり、言ってしまえば「楽しく生きること」すなわち「輝く」ことへの大切な「プロセス」でもあるわけです。
ただしその「プロセス」は「自らの本質」への「否定」でもあり、それは「自らの本質」を「肯定する」千歌とは「相反」する要素でもある。
だからこそ今回、千歌とは別の「輝き方」を提唱する存在として、善子がピックアップされたのでは?とも理解できるのです。
とはいえ、この善子の「生き方」「輝き方」に「ヒント」を与えられる人物もいる...というのがこの後のお話になっていきます。
■「犬」が象徴するものと桜内梨子の在り方
相も変わらず犬が苦手な梨子。機をみては苦手克服に挑むのですが、どうにも達成できません。
何故梨子は「犬が苦手なのか」という件に関しては未だに説明がないわけですが、個人的には「何故苦手なのか」というよりも「何故触れないのか」という部分にこそ意味があるように感じました。
今回主題として選ばれた「犬」。ここをフックにその理由も考えてみましょう。
第1話から象徴的に扱われてきた「犬」。第1話ではしいたけがことあるごとに千歌へと絡んでいきました。その意味を個人的に考察したのが下記。
この時には「与太話」に過ぎなかったものが、しかし今回「はっきりとしたモチーフ」として登場してしまったことで、一概に与太話とも言い切れなくなってきました。
上記考察では「犬=しいたけ」が千歌の「過去を改変したい」という要望を象徴する存在として登場しているのでは?と考えました。その際にタイムパラドックス理論としての「犬の尻尾理論」についてもご説明しました。
「犬の尻尾理論」とは、「過去を改変しても、それが永久に未来へと影響を与えない」というパラドックスのことを示すSF用語です。
「永久に叶わぬ結果を夢見て同じ場所を回り続ける」状態が「犬が自分の尻尾を追い続ける」ことと似ているために作られた言葉でもあります。
この理論を少し発展させて考えてみると、
「永久に届かぬ理想を追い求めて生きること」という風にも捉えなおせます。しかし実のところ大概の人間の生き方とは、そのようなものなのである...と語った人もいます。
哲学者であり科学者でもあったパスカルです。
「人間とは予めちょっぴり不幸な存在であり、それ故に幸せを希求し続けるが、どれだけその幸せを達成したとしても、常に不幸であり続ける」。しかし「それこそが人間なのだ」というのが、パスカルの考え方でした。
ここから結びつけると「ラブライブ!サンシャイン!!」において「犬」は、この思想を「表現」する「メタファー」として存在しているのでは?という仮説も立てられるのです。
そうすると、梨子がしいたけに「触れない=受け入れられない」のは、梨子がこの思想を「受け入れること」を恐れているからなのでは?と思えてくるのです。
これまで千歌に引っ張られる形でスクールアイドルとして活動してきた梨子。しかし2期開始以降は、そんな千歌に置いていかれている感も否めません。
2期1話で「結果がどうなろうとも、とにかく進む」「それが輝くことなのだ」と結論付けた千歌。それは「永久に届かないかもしれない理想を追い求める行為」とイコールでもあります。
しかし梨子はそのあり方を本質的には呑みこみきれていない。
それは恐らく、彼女にとって重要な要素となる「ピアノ」と無関係ではないでしょう。
「ピアノ」を上達していく上で必要となるのは「練習」「復習」「さらに練習」です。
常に「練習」をし、その中で「欠点」を見つけていく。「復習」することで「欠点」や「ミス」を消していく。そしてそれを絶え間なく繰り返すことで「完成度」を高めていく。
即ち「目の前の事柄一つ一つをしっかりと達成」し「目に見えた目標に向けて努力する」ことが必要になるわけです。
彼女にとって「ピアノ」は、弾けなくなった途端に「何をしても楽しくなくなってしまう」くらいに重要なものです。
彼女の人生は常に「ピアノ」と共にあった。となると彼女の「人生観」も自然とそちらに引きずられる。これは決して大げさではなく、誰しもあり得ることです。
「目標に向けて努力する」ことと「叶うか分からない夢に向かって突き進む」ことは思考として「相反」します。
故に千歌の考えの「本質」を理解しきれない。
2期1話で千歌を慰めるために語った言葉や、3話での「目の前の目標をクリアしていくのが私達らしさ」といった発言など、2期ではやたらと「現実的」な発言をさせられることが多い梨子。とはいえそれは彼女自身が元々そういった性質をもった人物であるからに過ぎないのかもしれません。
そしてそれ故に「結果が見えないのに」「理想に殉じる」生き方を「呑み込み切れない」のかもしれません。
そしてその事実を証明するように「理想に殉じる生き方」を象徴する存在=「犬」を「触る事=受け入れる事」が出来ない。そんな風に思えてくるのです。
そう考えると一見「どうでもいい」結論に見えるラストシーンにも意味が見出せる気もしてきやしませんでしょうか。
さて、この「犬」が象徴するもの。当然「しいたけ」だけに課されたものではありません。
今回善子、そして梨子とそれこそ「運命的」な出会いを果たす「犬」。
拾い犬故に名前が分からず。そんな「犬」に二人はそれぞれ名前を付けます。
梨子が名づけたのは「ノクターン」。「ノクターン」とは夜想曲で、クラシックピアノの大家ショパンが得意としたジャンルでもあります。
クラシックピアノを専攻する梨子にとっても、馴染み深い存在ゆえに名付けたのかなと想像できます。
また、善子が名付けたのは「ライラプス」。こちらはギリシャ神話に登場する猟犬です。狙った獲物は決して逃さない猟犬であるライラプス。
ググれば分かることですが、ライラプスにはこんな逸話があります。
アムピトリュオーンはテーバイを苦しめるテウメーッソスの狐を退治しなければならなくなったが、この牝の狐は誰にも捕まらないという運命にあったため、アムピトリュオーンはライラプスを持つケパロスを頼った。そこでタポスとの戦争で得られるであろう戦利品と引き換えにライラプスをテーバイに連れて来て狐狩りを行ったが、牝狐は逃げきることができず、ライラプスも牝狐を捕まえることができず、延々と追いかけ続けた。あるいは牝狐を捕まえそうになった。これを見たゼウスは、ライラプスが獲物を取り逃がすことも、牝狐が捕まることも運命に反していたので両者を石に変えてしまったという。
もしかしたら、「おや?」と思われるかもしれません。そうなのです。この「ライラプス」は「永遠に掴まえられないキツネを追いかけ続ける犬」なのです。
これって先ほど触れた「永久に届かぬ理想を追い求めて生きること」と丸で同じモチーフを持った存在なわけです。
シナリオ上で考えれば、犬の名前などいくらでも選択肢がある中で、敢えてこの名前を付けさせたのは、どう考えても「意図的」に思えます。と、なるとここにもまた物語のメインテーマが象徴されていると考えてよいのではないでしょうか。
また、ここではそれぞれが「名付け親」となっていることも重要に思えます。
普段の我々も同じだと思いますが、ペットの名前には自分にとって「関わりあいの深い要素」を一部として入れがちです。当然この「ライラプス」と「ノクターン」という名前にも善子と梨子それぞれの「一部」が「象徴されている」と考えるべきではないでしょうか。
「ノクターン」が「ピアノ」を象徴するものだとすれば、それは梨子にとっての「関わりあいの深いもの」でありながら、上の項で触れたように「現実的」な「梨子」を象徴する「メタファー」でもあります。
そう考えると「ライラプス」は「届かぬ理想を追い続ける存在」の「メタファー」であると同時に「善子」を象徴する「メタファー」なのだと...と理解できます。
しかしちょっと待ってください。
この「届かぬ理想を追い続ける」というのは本来、千歌と同じです。即ち善子の本質もまた「千歌と同じである」ということがここから分かるわけです。
千歌と善子の違いとは「自らの本質」に対する「捉え方」と、「輝き」に向かっていく「プロセス」の違いです。しかし二人が見ている「ゴール」は同じ。
即ち「違う方法」でも「同じゴール」へと向かっていく「方法」はあるということです。それを梨子は善子と行動を共にすることで、理解していくことになります。
またここで一つの対象=「犬」に対して、それぞれの断片を「名前」として付け共有する...という行為は、それぞれの考え方が「犬」を介して交じり合っている。即ち梨子と善子との「相互理解」の象徴としても使われているように思えます。
それを示すように、「犬」との関わりが、梨子に「気づき」を与えていくのです。
■受け入れの萌芽
マンション住まいのため「犬」をあずかれない善子に代って「犬」のお世話をすることになった梨子。犬恐怖症の彼女にとっては荷の重い仕事ではありますが、犬とコミニケーションを取ることで次第に慣れていきます。
やがて名前を付けて可愛がるレベルに。しかし「犬」は「迷い犬」であったことが明らかになります。本名はなんと「あんこ」。
二人とはまるで関係の無い名前でした(笑)。
唐突に訪れた「出会い」と同じように、唐突に訪れた「別れ」。そんな別れを二人は簡単には受け入れきれません。別れ際梨子の指を「舐める」「あんこ」。普段の梨子であれば、驚き、跳ね上がってしまうでしょうが、これを梨子は平然と受け止めます。
出会いは唐突であり、別れも唐突である。そこには予め決められた「結論」があるわけではない。ある種「運命」そのものが「あんこ」に集約されて象徴されているようにも思えます。
これまでは「結論のないもの」を恐れ、触ることも触られることも「受け入れられなかった」梨子。しかし、今回はあんこから「触れられること」に「拒否反応」を示しませんでした。しばしボーッとあんこに舐められた指を見つめる梨子。
そこにはこれまでと違って「拒否反応」を示さなかった「自分自身」への驚きが多分に含まれているように思えます。
これまでは忌避してきたもの。または実感なく受け入れてきたもの。それをなし崩しではあるものの「自らの意志」で「受け入れた経験」が梨子を少しだけ成長させた。
このちょっとしたシーンには、そんな意図があるのかなと感じました。
■世界は「偶然」で満ちている。
白板を見つめる果南。彼女の手には「フォーメーションノート」が。
それはもしかしたら、初期Aqoursのフォーメーションアイデアノートなのかもしれません。どこからか見つけたそんなノートを手にぼんやりと白板を見つめる果南。これまでのAqoursの物語に思いを馳せていたようです。
「これが私達にとって最後のラブライブになる」「これまで偶然の積み重ねでここまで来た。だから後悔しないよう精いっぱいやりきりたい」
千歌に自らの思いを吐露する果南。
ここで果南が語る言葉は「真理」でしょう。実際すべての物事は「過程」と「結果」が一致しないことばかり。世界は「偶然」と「不条理」に満ちているのです。その「事実」を認識させるために、ここでは果南の口を借りて「世界」を語っている。そんな風に思えます。
なるほど世界は果南の言うように「偶然」で満ちています。それこそが真理です。とはいえ、誰もがそんな風に自分の存在や周りで起きる出来事を「偶然」として受け入れて生きていけるとは限らない。
その「偶然」が引き起こすあまりにも「無慈悲」な「現実」に耐えられない時もある。そんな時には「自分の視点」を変えるしかない。そしてそれが出来るのが「人間」であり、「人間の豊かさ」でもある。
ここを下敷きとすることで、後の善子の行動や梨子の言葉に「意味」が出てくるのだと思います。
■それでも世界は「必然」で満ちている。
「あんこ」を見送ったものの、「犬ロス」に陥る梨子と善子。「切り替えて練習に身を入れよう」とするも、どうにも上手くいきません。
とはいえ「あんこ」はよその家の犬。この想いはどうにも叶わないもの。しかし善子は諦めません。「取り返しに行く!」
よその家の犬をさらったら、それは立派な「誘拐」です。しかし善子は止まらない。いざあんこの家へと走り出します。
「冷静」で「現実的」な梨子は善子を引き留めようとするも、彼女の心にも同じく「しこり」がある。もう一度飼えるわけではないけれど、せめてもう一度会いたい。そんな思いに引き寄せられて善子と共に「あんこ」の家へと向かうことになります。
あんこ宅にたどり着く善子。「邪悪な気配が!!」
しかし、そこは隣の家でした。
早くも「堕天使としての力」のメッキがはがれかけている善子。本当の家の前にて「ライラプス」を呼び寄せます。「ライラプス」は善子こと「ヨハネ」と上級使い魔の契約を交わした間柄。「ヨハネ」が呼べば必ず姿を現すはずなのです!!
しかし、現れたのは「あんこ」の家のお母さん。「あら、あの時はどうも」
そんな暢気な挨拶を前に「誘拐計画」などついぞ消え失せた二人。慌てて撤退していきます。
いよいよ「使い魔」としての「契約」に「現実味」がなくなってきた「ヨハネとライラプス」。
しかし、善子は諦めません。どうしても「ライラプス」とのつながりを確認する。そのための方法は「出てくるまで待つ」というものでした。
善子がなぜそこまで「ライラプス」に拘るのか。理由が分からない梨子。頑なに家の前の駐車場から離れない善子を置いて、一度は帰ろうとします。
降り出す雨。しかし「雨」の中でも「ヨハネ」の心は停滞しません。ただじっくりとライラプスと出会う瞬間を待ち構えています。
戻ってきた梨子。善子におにぎりを与えます。
実は今回何度か登場する「餌付け」シーン。梨子は「あんこ」「善子」「しいたけ」に餌付けをすることになります(笑)。
ここに象徴されているのは、恐らく「得ようと思ったらまず与えよ」というゲーテの格言でしょうか。「相手のことを知りたければ、まず自分から心を開け」という意味の格言ですが、梨子は結果的に「餌付け」をすることで、相手から「解答」を得ることに成功しました。
善子からは、どうしてそこまで「ライラプス」にこだわるのかについて。
「どうして運命なの?」「何が?」「...犬」
そんな直接的な質問を「堕天使っていると思う?」と、少し違う視点で切り返す善子。
善子が語るのは、なぜ善子が「ヨハネ」と名乗り始めたかのあらましでした。
そのあらましは先ほど書いた通り。それが善子の「生き様」にもなっていったもの。それでも最近は、「正直堕天使なんて無いと半々分かっている」のだと語る善子。
「それでも運命とか見えない力とか、そういうものってホントにないのかな?」と、「現実」と「自分の在り方」の狭間で佇んでいた。そんな時「運命的」に出会った存在。それが「犬」。この出会いは「運命」に違いない。その思いを信じさせてくれた存在が「ライラプス」なのです。だからこそ、「ヨハネ」はそれを「諦める」わけにはいかないのだと語ります。
「なぜ自分が不運なのか」。
そこに「堕天使」としての「必然」を見出し、それを糧に「前向きに生きてきた」「ヨハネ」。しかし、大人になるにつれ、そんなものは「妄想」に過ぎない。お前はただの「津島善子」に過ぎないのだと、いう思いが自分の中から溢れ出てもいる。
しかしそれを「認める」わけにはいかない。それを認めてしまったら、これまでの「ヨハネ」としての人生だけでなく、これからの「人生」も「否定」することになってしまうから。
だからこそ自分が「ヨハネ」であることを証明するための「必然」を欲していた。そんな中「運命的」にであった「ライラプス」。「ヨハネ」は「ライラプス」との出会いが「必然」であることを、なんとしても「証明」せねばならない。それを証明できれば、自分が「堕天使ヨハネ」であることを、まだほんの少しの間だけ「信じている」ことが出来るから。
善子の言葉に瞳を潤ませる梨子。それはきっと善子の考え方に強い共感を覚えたからなのかもしれません。
善子の言葉の背景から感じ取れるのは、善子もまた「現実」を前に佇み、悩む「現実的な人間」なのだという事実です。
普段は「堕天使」を名乗り、現実から「逃避」しているように見える善子。しかしその裏には誰よりも「現実の難しさ」と「世知辛さ」を理解する人間性が潜んでいるのです。しかしそれほどまでに「現実的」な人間であるにも関わらず「運命」を始めとした「非現実的なもの」を「信じたい」という思いがある。
それはまるで千歌のように「夢や希望をまっすぐに信じる人」に憧れながら、「現実性」という自分の殻がそれを「信じる気持ち」に蓋をしてしまっている梨子の在り方そのものに跳ね返ってくる生き方です。
梨子は善子の言葉から「自分自身」を見つめるきっかけを得たのではないでしょうか。
善子が語るのは「世界は偶然で満ちているかもしれない」けれども「必然によって引き寄せられる運命みたいなものを信じる気持ちがあっても良い」ということ。
それは自分自身に起こる出来事全てを「偶然」ではなく「必然」として「捉えなおすこと」で「強く生きている」「ヨハネ」ならではの言葉なのかもしれません。そしてそんな「ヨハネ」の言葉と行動が梨子に勇気を与えていくのです。
■「必然」を引き寄せる人間の「足掻き」
語り合ううちにあがる雨。もしかしたらこれは梨子の心が「晴れた」ことを示しているのかもしれません。
おにぎりのお返しとして渡されるドリンク。
「ほい、ライラプス」
そんな言葉とともに渡されるのは「あんこたっぷりぜんざい」。
ここで渡される缶に「犬」の「本名」が書かれていて、それを理解したうえで梨子に渡すというギャグを使うあたり、善子はやはり行動よりもだいぶ「冷静」だったりします。
雨が止むと同時に現れる「あんこ」。どうやら散歩に行くために「雨が止む」のを待っていたようです。
姿を見ただけで満足そうな梨子。
しかし善子は諦めません。「あんこ」との「繋がり」を証明できるように念じるのです。
善子が「ぜんざい」を買ったのは決してギャグのためではありません。
その缶に「あんこ」とデカデカと書かれているから。
文字が伝える言霊のような力。そんな確証の無い力でも、今の善子には必要なもの。缶を「あんこ」に向け念を送ります。
また、善子はもはや「ライラプス」という名前にもこだわっていない。相手が「あんこ」だろうと何であろうと、自分との間に「繋がり」があることを証明してみせる。そんな思いがこの「缶」に象徴されているように感じます。
「気付いて!!」
それだけでどの程度の効果が見込めるのかはさっぱり分からない行為。それでもそんな一見「無意味」な行動に「意味」や「意図」を見出す。それもまた「人間」なのです。それを「無意味」な「足掻き」とあざ笑うのも良い。でも、そのちょっとした「足掻き」が「未来」を変える力になる「可能性」もまた、決して「証明できる」ものではないのです。
なぜここが個人的に感動的で仕方ないのか。それは1話で千歌が語った「足掻き」が「実践」されているからなのだと思います。「無慈悲な神」に「挑戦する人間」の物語である「ラブライブ!サンシャイン!!」において、この「足掻き」は決して無駄な行動ではない。そしてその「足掻き」が「偶然」であれ「必然」であれ、「叶う瞬間」が迎えられるのだとしたら、それは「人間」が「神」に「勝利する」「決定的な瞬間」でもあるのです。
振り返る「あんこ」。それは決して「繋がり」の力などではなく、人の気配を感じたからというだけのものかもしれない。しかし、善子にとっては「必然」が形として「証明された」瞬間でもあるのです。そしてそれを共有した梨子にも「勇気」を与える瞬間でもあるのです。
■「ヨハネ」
一瞬振り返るも、すぐに興味を失い「ライラプス」から「あんこ」に戻ってしまった「犬」。
「やっぱり偶然だったようね」「この堕天使ヨハネに気付かないなんて」
しょんぼりとする善子。
そんな善子に「でも、気付いてくれた」と答える梨子。
「見えない力はあると思う。善子ちゃんの中だけでなく、どんな人にも」
「そうかな?」
「うん。だから信じている限り きっとその力は働いていると思うよ」
善子に語りかけるようでいて、自分自身にも語りかけているような言葉。
どうしても「自分自身の殻」を破れず、そのせいで千歌の在り方に同調できなかった梨子。それは梨子にとっては、千歌が遥か遠くだけを見つめているように感じられるからでもあります。
そんな梨子にとって、目の前の一つ一つの「出来事」を「必然」へと変えていく善子の在り方は、同じ「輝き」を求める方法でも、より「自分自身に近いやり方」として捉えられたのではないでしょうか。
「さすが私のリトルデーモン。ヨハネの名において上級リトルデーモンに認定してあげる!」
そんな梨子の言葉から「自分自身の理解者」を得られたと感じた善子。「ヨハネ流」で梨子を「仲間」として迎え入れます。
「ありがとう♪ ヨハネちゃん♪」
「善子!...あれ?」
思わずいつもの調子で切り返すも、入れ替わってしまっているというギャグ。
ですが、ここで重要なのは、梨子がジョークではなく、本当の意味での「ヨハネ」の在り方を理解し、受け入れたからこそ善子を「ヨハネ」と呼んでいる...ということでしょうか。
今回何度も「善子」を「ヨハネ」と訂正し続けた善子。そんな彼女がなぜ「ヨハネ」として生きることに拘りを持っているのか。それを理解すれば、誰もが彼女を「ヨハネ」と呼びたくなります。
自らを「ヨハネ」足らしめるために「見えない力」や「出会いの必然」を証明しようとした「ヨハネ」。結果としてその思いは半ば叶わなかったものの、自らの「ヨハネ」という名前を呼んでもらい、認めてもらうというミッションには成功したわけです。
ここにも「ヨハネ」の「小さな勝利」が記録されているのです。
■梨子なりの「答え」
時を同じく止んだ雨を見ている千歌。「偶然が重なってここまで来た...か」
それは果南と話していた内容です。
そんな千歌の目の前にふいに現れる梨子。彼女はしいたけに「触れよう」と格闘しています。
「試してみようかなって...。」「これも出会いだから」
「私ね、もしかしてこの世界に偶然って無いのかもって思ったの」
唐突な梨子の言葉に千歌は聞き返します。「...偶然は無い?」
「いろんな人が色んな思いを抱いて、その思いが見えない力になって、引き寄せられて運命のように出会う。」
そんな梨子の言葉は「この世界は偶然に満ちている」という前提ありきのものです。
たとえ「偶然で満ちている」としても「この世界は必然で出来ている」と「捉えなおす」。そうすることで、今までよりも「前向き」に「生きていける」。千歌には必要なかったものですが、梨子には必要だった「気付き」。それを与えてくれたのは「犬」を巡って善子と過ごしたこの数日だったのです。
「全てに意味がある」「見えないだけで...きっと」
千歌とは違う、自分なりの「運命」との戦い方、「輝き」へのプロセスを手にした梨子。だからこそ、彼女は遂に「永久に届かぬ理想を追い求めて生きること」へ真っ向から立ち向かうことができるのではないかな?と思えます。
自ら伸ばした腕。これまでは吠えて牽制してきたしいたけも、その腕をゆっくりと「受け入れる」。それは覚悟を決めたものを受け入れる「運命」そのものを象徴しているように思えます。
「死を恐れるな。死はいつもお前の傍にいる。それは恐れた瞬間お前に牙をむく。しかし恐れなければ、それはただ悠然とお前の傍にあるだけだろう」
ネイティブアメリカンの言葉だそうですが、死を「運命」と捉えなおせば、すなわちそういう事なのだろうと理解できます。
千歌とは違う「方法」を見出した梨子は、遂に2期において千歌と同等の立ち位置に立ったのではないでしょうか。
それぞれ別々の方法で、同じ「目的」を目指して進む。それは決して悪いことではない。むしろその方が「生き方」としては「豊か」なのでは。そんな「ラブライブ!サンシャイン!!」ならではの視線を、この結論からは感じ取れるのです。
■道は決して一つじゃない。
ここからは余談。
「ラブライブ!」はこれまで、「一つの道」を信じて突き進む物語として作られてきました。故に僕は「ラブライブ!」を「神話」と呼ぶことがあります。
「神話」とは「寓話」である。それ故に登場人物は「迷わず」「やるべきこと」を「やるべき方法」に従って「よどみなく進んでいく」。それはそれを読んだ「人間」に一つの生きるべく「指針」を与えるために作られているからです。
「ラブライブ!」はシリーズにとっての原点。いわば「神話」であり「寓話」である。この物語の基本思考があって、初めて派生する物語が作られるという前置きにおいて考えれば、「ラブライブ!サンシャイン!!」はその亜流なのだと思います。
「輝き」を追い求めるAqours。しかしμ'sのやり方に従っても、その通りにはなりません。もっと「現実的」な難題に突き当たることもある。しかしそれを「人間」ならではの「工夫」や「努力」で突破しようとする。それでも見えない「壁」にぶち当たって、どうしようもないときもある。
けれどそんな「足掻き」や「迷い」そのものを「肯定」する。そこに「サンシャイン!!」ならではの「豊かさ」があると思うのです。
それと同じように「輝き」へと向かう方法も決して「一つ」でなくて良いと語る。それぞれがそれぞれの方法で「輝き」を追い求めて良い。そう伝えるのが今回の物語でした。だからこそ僕は今回が「サンシャイン!!」において屈指の回なのだと思ったのです。
この「豊かさ」は、今の社会に欠けているもの。だからこそとても大事な視点だと思うと同時に、「寓話」としての「サンシャイン!!」にも期待が持てるなと思った次第です。
ということで「犬を拾う。」でした。
短くしたいのに、長いよ!!!と自分でも反省していますが、この回の重要性を語る為には、これくらいはやはり必要だった気もします。
例によって誤字脱字、分かり辛い表現等は随時更新していきます。悪文で本当にごめんなさい!!!
また、本来は「Daydream Warrior」と「ヨハネ」に関しても触れる予定でしたが、長くなってしまうので、これは別枠にいたします。すみません。
さて、次回は「Aqours WAVE」。いよいよ重なり合う波長を示しているのか、あるいは波風立っちゃうのか、さっぱり見えてきませんが、楽しみ!!
それではここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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