皆様こんにちはorこんばんは。
今回も皆様の暇つぶしにお読み頂ければと思います。
今回は「ラブライブ!サンシャイン!!」2期における折り返し地点。それだけに物語におけるかなり重要な要素を占める内容になりました。
とはいえ物語自体はシンプルなもの。ですので、物語の流れを追うのではなく、全体の概要を掴んだうえで、僕自身がこの回から得たインプレッションのようなものを書いていければ良いなと思いました。
なので、今回は考察というよりも「インプレッション」に近いものとしてご一読頂ければ幸いです。
では参りましょう#7「残された時間」です。
■人の力で超えられる「運命」と越えられない「運命」
「MIRACLE WAVE」を携えて挑んだ東海地方予選はまさかの1位通過。圧勝でした。
自らの力で一つの「奇跡」を達成したAqours。
しかしながら一つの達成が雪崩式に次の達成を生む...ことは「サンシャイン!!」ではついぞ描かれません。
それは善子が抽選会会場において、「じゃんけんには勝てた」としても、「抽選には勝てない」ことと同じ。
「人の力が介在し得る勝利」と、「それが叶わぬ運命」とがある。
それを躊躇なく描く。なぜならそれが「現実」だからです。
「ラブライブ!サンシャイン!!」は「ラブライブ!」とは違い「神話」でも「寓話」でもない。その「神話」を信じる「人間たち」の「現実との戦い」の物語である。
だからこそ、「神話」や「寓話」のような出来事は起きえない。
「努力の量と結果は比例しない」。
これは鞠莉の言葉でもありますが、願っても、努力しても、必ず「叶う」とは限らない。
そんな極めて「現実的」な「世界」の物語が「ラブライブ!サンシャイン!!」なのです。
予選大会で圧勝したAqours。そこには勝利に至る彼女たちなりのロジックがありました。
「MIRAI TICKET」のような「受け取ったものをそのまま表現する楽曲」ではなく、「Aqoursでしか放てない輝き」を放つこと。
それはSaint snowの聖良のアドバイスからたどり着いた必勝法であり、与えられたミッションでもあります。
「MIRACLE WAVE」によって、そのミッションを達成したからこそ、Aqoursには勝利がもたらされた。そこには「過程」と「結果」における「必然」があります。
しかし、反面これはある種の「人」の力が介在し得る勝利でもあるのです。
では「人」の力だけでは得られない勝利とはなんなのか。
度々作品内で描かれてきたこの「人の力が介在しえない運命」。その決定打がいよいよAqoursに襲い掛かります。
■為し得ている「奇跡」と、届かない「奇跡」
「投票」というファクターが勝敗に大きく関係する「ラブライブ」において、「生徒数が少ない」浦の星が圧倒的に「不利」であるということは、以前語られた通り。
しかしそのハンデを物ともせず、この東海地区予選ではAqoursはトップで勝利を収めました。
ダイヤが語るようにこの勝利の裏側には「Web投票」の力が大きく関係していると思われます。
浦の星の生徒ではなく、もしかしたら沼津でも、静岡でも無い場所から送られた「票」が、Aqoursに「勝利」をもたらせた。
「地元」とは関係ない「マジョリティ」が、Aqoursの「楽曲」と「パフォーマンス」を評価し、票を投じたわけです。
それは実はとても凄い「奇跡」なのですが、彼女たちはその事実にはまだ気付いていないようです。
それは目の前の掴みたい「奇跡」=「学校の廃校阻止」がその事実を覆い隠しているからなのでしょう。
予選結果のVTRを見ながらも、気になるのは入学希望者が増えているかどうか。しかし、鞠莉の表情は思わしくなく、数字にはほとんど変動がありません。
ラブライブの東海地方予選の勝利は、生徒数増には「ほとんど影響しない」。
でも、それはよく考えれば当然のことでもあります。
「Aqoursが好き」であったとしても、「沼津の内浦の女子高」に通おうとは思わない。仮に思ったとしても、中学生が一人で下せる判断でもない。
そもそもとして、この二つに因果関係を持たせること自体に無理があるのです。
それは果南が語ることと同じ。「いかにこの町が良い街でも、そこに通おうとは思わない」。これもとっても「現実的」な意見です。
これに関しては、根本的な問題が一つあります。
それは、そもそもなぜAqoursはこの「因果関係」を「信じてしまうのか」ということです。
「スクールアイドル活動」と「学校の入学希望者増」とは現実的に考えて因果関係は薄い。それは果南を含めたAqoursのメンバーの何人かも理解していることです。
にも関わらずその「達成」に意味を見出してしまうのは「何故なのか」と問われれば、その背景には、「μ'sの神話」があるから...と考えられます。
■「廃校阻止」という「嘘」
アニメ版「ラブライブ」世界線で最大の「嘘」と言って良いのは「μ'sが学校を廃校から救った」というお話です。これは以前にもさせていただいこと。
「サンシャイン!!」の世界においても信じられている「μ'sの神話」。その根底にある「伝説」。それが「μ'sの活動が学校を廃校から救った」という「伝説」です。
しかし少なくともアニメにおいては「μ'sの活動」と「廃校阻止」にどの程度の因果関係があるのかは、全く分かりません。
理事長はμ'sの活動の成果もあって、学校の注目度が増している,,,と発言していましたが、それが入学希望者の増に繋がっているとは明言しませんでした。
そもそもとして、理事長はμ'sの活動を「生徒数増の為の施策」とは考えておらず「生徒の自主性の尊守」のために許していた。即ち学校としてμ'sの活動が「生徒増に因果性を持つ」とは微塵も考えていなかったわけです。
ただしμ'sが学校の「廃校阻止」を目的として結成されたことは事実。
そして結果的に「廃校阻止」が「達成されてしまった」ことも事実。
この二つの事実が成立してしまった以上、他者が「結びつけない」方が無理がある、というのも理解はできます。
とはいえ「μ'sが学校を廃校から救った」という概念だけが一人歩きしている感も否めなません。
では、何故このような事態になったのかを少し「メタ的」に考えると、こういった背景があった方が「μ's」や「ラブライブ!」という物を「一般化」させやすかったからなのでは?とも思えます。
「ラブライブ!」って何?「μ's」って何?
それを一言で説明するのは難しいです。
しかし「ラブライブ!」とは「学校の廃校を阻止するために結成されたアイドルグループが頑張ったお話なのだ」と表現できれば、知らない人に対しても簡単に「説明=一般化」出来ます。
「μ's」は「廃校を阻止するために結成されたアイドルグループで、実際にその夢をかなえた奇跡の担い手」としてしまえば、こちらも一言で説明出来てしまう。
つまり「便利」のための「一般化」とも言えるわけです。
で、実はこれ、本質的な部分での「メタ」的な視点でもあります。
僕が「劇場版ラブライブ!」をテレビで再放送で見た際に感じた違和感の一つが、テレビの説明欄でした。
そこには「学校を廃校から救ったμ'sが~」と書かれていて、強烈な違和感を感じたものです。
「μ'sって学校を廃校から救ったのか??」という疑問があったからです。
しかしテレビの説明欄では、分かりやすい「一般化」が必要で、その際には平気でこういった「要約」は行われるわけです。
この要素を大きく解釈すれば、いわゆる「神話」や「寓話」の類も、こういった「一般化」の連続によって成り立っていたりするのではないでしょうか。
例えば三国志の諸葛孔明が実際には天気予報をしただけにも関わらず、後々には「天候を操作する祈祷師」になってしまったり。こういうのも「事実」の「一般化」に近いのかもしれません。
本質的なものがどんどん「かいつままれていく」度に「要約化」され「一般化」されていく。何故ならその方が伝達が「楽」だから。そして面白おかしくした方が「伝わりやすいから」でもあります。
個人的には、こういった「要約化」「一般化」は一概に「悪いこと」ではないとも思います。
ただし、もしかしたらその「一般化」されたものを本気で「追随しよう」とする人が現れるかもしれない。
そして時にはその「追随」が「悲劇」を生む可能性もある。
もしかしたら、Aqoursは図らずもその「悲劇」を担わされる結果になってしまったのかもしれません。
12話において「μ'sを追うことを止め」「自らの道を進むこと」を宣言した千歌。その晴れやかな表情からは「μ'sからの独立」をハッキリと感じました。
しかし実は彼女はまだ無意識化で「μ's神話」の支配下にあるのかもしれません。
そしてそんな千歌を中心に据えるAqoursもまた、気付かぬうちに「μ's神話」の庇護下に置かれてしまっている。
となると、真の意味でそこから「解放される」必要があるようにも思えます。
そう考えると、今回の物語はAqoursを本当の意味で解き放つためのファクターとして用意されているようにも思えてくるのです。
■「統廃合」を「阻止できない」ということ
なぜ2期において「廃校問題」がピックアップされたのか。
といえば、それはもちろんこの「問題」と、その「帰結」が物語において重要だったからと思えます。
Aqoursは「μ's神話」の呪縛から「真の意味」で解放されなければいけない。それは先ほど書かせて頂いた通り。
だとすれば、彼女たちを本質的に縛り付ける「カセ」からも彼女たちを解放しなければいけない。
それは何なのかといえば、もちろん「廃校阻止とスクールアイドル活動の因果性」なのでしょう。
μ'sの物語を「神話」たらしめているものが「廃校阻止」なのだとしたらAqoursはその物語を追随してはいけない。それではAqoursは独立できない。
だからこそAqoursは「スクールアイドル活動」によって「廃校阻止」を達成できない。
酷い話だとは思いますが、物語構造を読み解くとこんな風に理解できます。
またマクロな視点で考えれば、「統廃合阻止」を「達成できない」ことによって、初めて「Aqoursは成長できるのだ」とも考えられます。
事実としてこの瞬間は「悲劇」なのですが、「Aqours」にとってはようやく「μ's神話」という「カセ」から逃れた瞬間でもあるわけです。
無意識に「μ's神話」の庇護下に置かれていたAqoursが、ようやく「自分達自身」で「方向性」を見出していかざるを得なくなる。
この「奇跡の不成立」によって、千歌たちが立たされる「岐路」にこそ、2期の前半戦が描きたかった要素の大部分が集約されているようにも思えます。
そしてこの「岐路」にこそ「サンシャイン!!」だけでなく、「ラブライブ!」というシリーズが示したい「テーマ」が隠されているようにも思えるのです。
■「マクガフィン」としての「廃校阻止」に関して
「廃校阻止」に関しては、神話という観点だけでなく「マクガフィン」としての観点も大事なのでは?と思います。
「ラブライブ」において「廃校阻止」はマクガフィンである。これは私だけでなく、多くの人が指摘している通りのこと。
「マクガフィン」とは「物語を進めるために必要となるニセの目的のこと」。大概の場合にはそれとは別の「本当の目的」というものがある。その目くらましのために用意されるものです。
「ルパン3世 カリオストロの城」でいえば「王家の宝」と「指輪」はマクガフィンで、本当のお宝は「クラリスの心」となります。
「ラブライブ!」無印において「廃校阻止」は動機であったけれど、途中であっけなく「達成されてしまう」ものでした。これはどう考えてもマクガフィンです。
では本当の「お宝」は何か。
「廃校阻止」の「あっけない達成」と「ラブライブ出場辞退」という状況をもってスクールアイドル活動への動機を失った穂乃果が、「ことり留学」という意図しない事態に直面し、自暴自棄となり、そこから本当の「スクールアイドル」をやる「意味」を見出すのが、「ラブライブ!」1期終盤の物語でした。
一度はスクールアイドル活動を止めてしまった穂乃果。彼女が悩みの中で気付いたのは、自分は「歌うことが大好き」であること。そしてそれを気付かせてくれたμ'sが大好きであること。そんなμ'sでいられる時間=「今」がなによりも大切であることという事実でした。
それに気付いたからこそ、「μ's」と「今」を形作る大切な一員であることりを無理やりにでも引きとめに行く。
穂乃果が気付いた「今」の価値は、その後物語の「テーマ」として息づいていきました。
ここから分かるのは、すなわちμ'sにとっての「お宝」=大切な「真のテーマ」とは「今」という概念だったということです。
穂乃果がこの「真のテーマ」にたどり着くために必要なファクターとなったのは「廃校阻止」という「マクガフィン」が「終わること」。
極端な話をしてしまえば、実は「廃校を阻止しよう」が「廃校阻止に失敗しよう」がその「結果」と「気づき」にはなんら関係性はありません。
ただ「廃校阻止」は「マクガフィン」として存在し、「動機」としての「意義」を失ったら、今度は「消失する」ことに「意義」を持つ存在になる。
要はそれが「消失した」後に「何に気付き」「何のためにスクールアイドルをするのか」という「新しい動機」を見つけることこそが、真に必要なものであり、「廃校阻止」という問題自体はそれ以上の存在ではない、ということです。
この構造自体は「ラブライブ!」にせよ「ラブライブ!サンシャイン!!」にせよ、全く同じで、差はありません。
■何故千歌は「統廃合阻止」に燃えなくてはならないのか。
2期当初から思っている方もいるとは思うけれども、千歌がなぜここまで「統廃合阻止」に燃えるのか...ということにピンと来ていない方は多数いらっしゃるように思います。
この理由も少し考えてみましょう。
まず前提として、1期の物語を通じて、千歌にとっての「学校」や「地元」への「目線」が変化している、というのは大事な視点だと思います。
最初に「統廃合のニュース」が飛び込んだ瞬間には「自分達の状況」と「μ'sの状況」とを重ねて喜び、第1話では「ここには何もない」とひとりごちていた千歌。
そんな彼女が現在「学校のみんな、地元のみんながいて初めて私たちがいる」と語るまでになった心の変遷は、物語を追いかけていれば、誰しも理解できるものと思います。
3話におけるまばらな集客のライブで、体育館を埋めてくれたのは地元の人々でした。
6話では「地元のことを何も理解していない!」と鞠莉に激怒され、その後梨子の視点を通じて地元の素晴らしさに気づくことができました。
空に舞い上がる無数の行燈の一つ一つに「地元に住む人々」「一人ひとり」を重ねたAqours。その行燈で「Aqours」の文字を作ったあの日。
「この場所から始めよう」と誓ったあの日を境に、千歌の視点と心境は大きく変化しているのです。
「学校のみんな」の存在価値を理解しているからこそ、13話では一切の迷いもなく456の3人をメンバーに迎え入れようとする。
そんな視点の変化があるからこそ、「統廃合阻止」にも真剣に取り組むようになっている。その変化に関しては、まずは理解してあげなければなと思います。
この前提ありきで更に考えてみますと...
さきほどAqoursが知らず知らずに「μ's神話」に「引きずられている」と書かせて頂きましたが、その最たる被害者が千歌だとも言えます。
1期12話において千歌は「μ'sの軌跡」を追体験する中で「μ'sを追うこと」でなく、「μ'sのように進むこと」こそが「輝く方法」なのだと会得しました。
その会得を証明するように降ってきたのが、空から舞い降りた「白い羽根」。千歌はその獲得をもってようやく「輝くこと」の『答えを得た」と思ったはずなのです。
そしてその思いをぶつけるようにして作った楽曲が「MIRAITICKET」。
ここにはこの時点での千歌の「気づき」が歌詞に存分に散りばめられています。
「光になろう。未来を照らしたい。」
「追う」のではなく自らが「光になる」。
「μ's」が追いつけない「光」なのだとしたら、自分たちも同じような「光」になる。
それが千歌の考えた「答え」でした。
しかしその思いは結実しなかった。
当初の目標通り、0を1にすることは出来た。けれどもラブライブに出場することは叶わなかった。
ここでの「課題」は恐らくこの「光になる」という「願い」なのだと思えます。
「光になる」「輝く」方法は「まっすぐに自分たちの道を進むことなのだ」と千歌は12話で語りました。
それを信じて進めば、自ずと「結果が付いてくる」のだと。
「自分を信じて進むこと」で「願い」は「結果」として「成就される」。
しかしこれはやはり「μ'sの思考」を真似ただけに過ぎないのです。
「μ'sを追う」ことを止めたはずが、「μ'sのように進んでいる」ために、結果として「μ'sを追随する形になってしまっている」ということに千歌は気づいていません。
千歌の頭の中で「統廃合阻止」が大きな存在となってしまっているのも、「μ's神話」の影響下にあるからというのも、決して無関係では無いはずです。
2期1話において「ラブライブ出場」を逃した千歌が、「輝くため」の「手段」として「統廃合阻止」を主張したのは、それを達成することで、「μ'sの在り方」に「追随」できるからでしょう。
「0を1にして、1を10にして、10を100にして。学校を救って。そうしたら、私たちだけの輝きがきっと見つかる!」
希望に満ち溢れた宣言のように見えて、実はこれは意図せず「μ's神話」の支配下にいることの表明でもあります。
「自分たちの道」を信じて「まっすぐ進めば」「入学希望者も増えて」「学校の統廃合を阻止できる」。
「μ'sを追いかけない」と誓ったはずなのに、この道のりは「μ's神話」そのもの。やはりこれではダメなのです。
千歌が「統廃合阻止」に「必死」だったのは、この思考に支配されているから、とも思えるのです。
だからこそ今回も「統廃合を阻止しなければ輝けない」とひとりごちるのではないでしょうか。
彼女がなりたいものは「μ's」ではなく、「光」になった。
でもその「光」になる方法も、所詮は「μ's神話」の支配下にあった。
抜け出したはずの「μ'sの影響下」に未だに千歌はいた...ということになります。
なんだか、孫悟空と大仏様のお話みたいですけども(笑)。
故にそのレールから外れてしまった千歌は「輝く方法」を見出せなくなります。
「ラブライブなんてどうでもいい」とまでいうのは、恐らく「ラブライブ」は「廃校阻止」の先にある目標だからでしょうか。
手前でレールが外れてしまったら、千歌にとってそれはどうでもいいものになってしまう。
極端なようですけども、千歌という人はそういう人なのだと思います。
優しくて、素直で、普通で。そしてとんでもなく「不器用」な女の子なのです。
そしてそんな子だからこそ、Aqoursの「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語の中心に、この子が据えられているのだとも思うのです。
■与えられる「輝く」方法
「光」になれないのだとしたら、何になれば良いのか。それが7話後半の物語でしょうか。
風に吹かれて飛んでいく「白い羽根」。
かつては千歌が確かに掴んだ「羽根」。それは「希望」を象徴するものでした。
それを現在のAqoursメンバーのだれもが目視できないのは、その「希望」をメンバーのだれもが「失ってしまっている」ことのメタファーなのでしょうね。
酒井監督もファンブックでこの「羽根」についてコメントされていました。
「羽根」は誰の周りにでも常に飛んでいて、でもそれは「胸に希望を感じた」人にしか見えないもの。だとすればAqoursがこの「羽根」を目視できるようになるためには、何が必要なのでしょうか。
「光」になる方法を見失ったAqours。
「学校を救いたい」と叫びながらも絶望している千歌。
そんな千歌に「じゃあ救ってよ!」と呼びかけるのは、浦の星の生徒たちでした。
「学校の統廃合が決まった」にも関わらず、「ラブライブに出てほしい」「それで学校を救ってほしい」と願う彼女たちの意図を、千歌ははじめは理解できません。
千歌にとっては、「統廃合を阻止」して「学校を救う」ことが「輝くこと」の大前提なのです。それが達成できないのであれば、その先には進めない。その思考パターンは「μ's神話の支配下」にあるからでもあります。
「統廃合を阻止」出来ないのならば、「ラブライブ」にも出場しない。自分達の「輝き」は追い求められない。
千歌の「願い」である「光」になることは、そのもっと先にある目標。
μ'sが叶えた道程。
しかしその大前提で止まってしまった千歌とAqours。
これ以上なにをすれば良いのか。どんな道を進めば良いのか。千歌にはそれが見出せないのです。
しかし456を中心とした浦の星の生徒たちは「それとは違う道」を知っています。
「それだけが救う方法なの?」
Aqoursがラブライブで優勝し、ラブライブの歴史に「永遠」に「浦の星女学院」の名前を刻みつけること。
それは彼女たちが「ここにいたこと」を「証明する」最大の「救い」となるものです。
そして実はこれは初めて「μ's神話」というレールを外れた、Aqoursにしか作れない「輝き」なのです。
「統廃合が阻止できなかった」からこそ、作れる「輝き」。そこに456は真っ先に「意味」を見出していたわけです。そしてそれを達成できるのは、Aqoursだけなのです。
結果的にAqoursは、「自分達独自の輝く方法」を「他者」によって「与えられる」ことになるわけです。
本人が気付かなかった「自分の価値」を「他者が見出し」それを「肯定する」ことで「その人物」が「自分自身を肯定できるようになる」物語。これは1期~2期にかけて何度も描かれたものですが、特に2期ではこの要素が強調されて描かれてきました。
これまでも「善子」「ルビィ」「花丸」「曜」「ダイヤ」がこの過程を通じて「自己肯定」を出来るになりました。
そして前回はこれまでその行程を経てこなかった「千歌」と「果南」が「肯定される」物語でした。
何故ここまでその「テーマ」を描いてきたのかといえば、ここでAqoursそのものに、「他者」からの「肯定」を与えるための布石だったと考えるべきでしょう。
これまで「自分たち自身」を「肯定し続け」、それを原動力に「進んできた」Aqours。彼女達がその「原動力」を失った時、その姿を見て応援してきた人達に「肯定される」ことで、再度進むための「原動力」を手にする。
μ'sが無印2期9話で手にしたものを、μ'sとは全く異なるルートで手にしたとき、「Aqoursだけの道」が開かれたように思います。
ここには2期5話で語られた「ゴールにたどり着く方法は一つでなくて良い」という思想も反映されているのではないでしょうか。
故にここに「ラブライブ!サンシャイン!!」2期前半戦のハイライトが集約されていると言っても良いのでは?とも思えます。
「統廃合阻止」というレールから外れたことで「μ's神話」からも外れたAqours。
彼女達は「自分達の輝き」をもって、「浦の星女学院」という学校全体の「輝き」を、「ラブライブ」という「歴史」に「刻む」という「新たなミッション」を得ました。
こうして彼女たちは、今明確に「自分達」の「ストーリー」を「始めた」のではないかなと思います。
「無慈悲な神」に抗う「人間」の物語だった「ラブライブ!サンシャイン!!」。
しかしその「無慈悲」を与える根底に「μ's神話」があったのだとすれば、Aqoursはその「運命」からは逃れられたのかもしれません。
だとすれば、ここから「無慈悲な神を蹂躙していく人間」の物語が始まる...という期待も出来ます。
「普通怪獣」が、本当の「怪獣」になってしまうかもと語った梨子。
かつては「無慈悲な世界へ怒りを表明する」ことしか出来なかった「普通怪獣」が、本当の「怪獣」になってしまうということは、つまりそういうことなのではないでしょうか。
その言葉から、そんな力強い物語の始まりをも予感できるのです。
■光る風になろう。
OPテーマ「未来の僕らは知ってるよ」の歌詞内で意図が掴めなかったものが一つあります。それは最後意味ありげに叫ばれる「光る風になろう」という言葉です。
ググっても出てくるのは山上たつひこ先生のマンガと「ETERNAL WIND」くらい。
がきデカで有名な山上先生ですが、「光る風」は全編ハードボイルドな作品。「ファシスト政権に反抗する青年が革命に失敗する話」ってなんとも思わせぶりなんだけど、これじゃあラブライブにはならないところ。
ということで、あまり関係性を見出せていなかったのです。
しかし、「光」と「風」というものに関して考えるなかで、少しだけ意図が見えてきた。
Aqoursが「光」を目指していた..というのは先ほど書いた通り。
この「光」の原点にあるのは、もちろん「僕たちは一つの光」でしょうか。
μ'sが伝説を作り、「決して手の届かない輝き」になったことはファンであればだれでも知っていること。
事実、物理的にみても、「光」とは、どれだけ高速で移動する「物質」であっても、絶対に「追いつけないもの」。即ち「手の届かないもの」の象徴でもあるのです。
故にAqoursは「光に追いつく事」を止めて「光」そのものになろうとした。
しかし、それは「μ's」になろうとすることと同義であって、やはり「不可能なこと」なのでした。
だとすれば「何になればいいのか」。
そこで登場するのが「風」なのかもしれません。
「光」が「永遠に手の届かないもの」の象徴なのだとすれば、「風」は地球上のどこにでも絶えず「吹き続けるもの」の象徴です。
「手の届かないもの」とは逆に「常にそこにあるもの」。それが「風」なのです。
AKB48は2011年に「風は吹いている」という復興ソングを発表しました。
「それでも未来へ風は吹いている」と語ったこの楽曲は、「どんな状況・状態であれ風が吹き続けるように、未来への希望は絶えずあり続ける」というメッセージソングでした。
【MV full】 風は吹いている(DANCE! DANCE! DANCE! ver.)/AKB48[公式]
「光」は「希望」を象徴するものであるけども、「風」もまた「希望」を象徴するものになりうる。そして両者には「あり方」の違いがある。
「光」が「手の届かないもの」だとすれば、「風」は「常に隣にありつづける」もの。
Aqoursが目指すのは、この「風」なのかもしれません。
決して手の届かない存在としての「光」になるのではなく、誰の隣にでもそっと寄り添う「風」になる。
願った人の胸にそっと「希望」を届ける「風」。
これは「SKY JOURNEY」の世界観とも強い近似性を感じる感覚です。
いつの時代にもいて、その人に「希望」を与えて、去っていく。
なるほど、Aqoursの物語は、あらゆる部分で少しずつ繋がっているのだなと理解できます。
「光る風」に吹かれて、白から青へと色を変えた羽根。
これまではμ'sから受け取った「希望」を象徴するものだった「白い羽根」が、Aqoursだけの「希望」を象徴する「青い羽根」に変わる。
そして色が変化したからこそ、千歌はこの羽根を認識することができる。
ここにはようやく「自分だけの願い」と「輝く方法」を手に入れた千歌の気づきが描かれているように思えます。
そして、個人的には「羽根」にAqoursを象徴させているのではなく、「白い羽根」を「青い羽根」に「変化させ」、その「青い羽根」を遠くまで運んでいく「風」にこそ、Aqoursが「象徴されているのでは」と思えるのです。
「白い羽根」だけでは、人は輝けない。
そこに「自分だけの輝く方法」を重ねて、「自分だけの色」へと変えていく。
その気づきを与える「風」のような存在が、Aqoursの「在り方」であり、μ'sとの「違い」なのかなと思います。
故にAqoursの物語は「神話」ではなく、「人間の物語」として描かれているのかなとも思えるのです。
風に吹かれて、はるか遠くへと飛んでいく青い羽根。
そしてそれを見つめる千歌。
「光る風」によって、ずっと未来へと飛ばされていく「青い羽根」に「Aqours」がこれから進む物語の行く末も象徴されているように思えるのです。
...ということで、2期7話のインプレッションでした。
色々指摘したりない部分があるのは重々承知ですが、そこは他のブロガー様にお任せするといたします。
また気づきで思いついたものなどあれば、Twitter等で急に呟くかもしれません(笑)。
さて、次回は花丸回!なの?それともルビィ回なの??
どっちなの!!!
また、お会いいたしましょう♪
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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