Love Live!Aftertalk!

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ラブライブ!サンシャイン!!深読みコーナー「Dig」① ~ラブライブ!サンシャイン!!と実存主義の冒険~

皆様こんにちは&こんばんは。

前日に引き続き、ラブライブ!サンシャイン!!の記事を投稿させていただきます。

今回は前回15話考察ではどうにも踏み込めなかった領域。

いわゆる「こいつホントおかしいんじゃねえのか?」系のヤツをお見舞いしようと思います(笑)。

予めお伝えしておくと、とても一般受けするとは思えない内容です。

 

ただ、ここは自分のブログですし、せっかく思いついちゃったのに書かないというのももったいないので、一応アーカイブとして残しておきます。

また、悪文乱文となっている可能性があると思います。事実認識が個人的見解のため間違っている可能性もございます。それらは適宜修正をさせていただきます。

誤字脱字に関しても適宜訂正させていただきます。

ただし、基本的な内容に関しては「仕様」でございますので、何卒ご了承願いますm(__)m

 

さて、前置きはこんなもんでよろしいでしょうか。

ではボチボチ行かせていただきます。。

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■神との対峙
前回14話考察で考えた通り、Aqoursにはデウスエクスマキナというものがありません。

デウスエクスマキナ」とは「機械仕掛けの神」という舞台用語。

どうしようもない悲劇に見舞われた主人公。にっちもさっちもいかない状況で、空から「神」が現れ「救い」を与えます。舞台に登場する「神」は、空からヒモでつりさげられています。この舞台上に登場する神の姿を「機械仕掛けの神」即ち「デウスエクスマキナ」と表現しました。(この言葉時代はギリシャ時代からあったそうです)

そして、その「神」の出現によって物語は「急激に」展開し...今まであった伏線や悲劇などを全て「まるっと」解決してしまう。つまり、総じてハッピーエンドを迎える。

そんな「大どんでん返し」が起きる演出そのものを転じて「デウスエクスマキナ」と呼ぶようになりました。(類する「夢オチ」なども、この「デウスエクスマキナ」に含まれます)

μ'sの物語では「廃校問題」を解決し、「雨止め~!」と叫んだ穂乃果の願いを叶え、「雪」を通じて「神曲」誕生への天啓を与えるなど、「デウスエクスマキナ」によって様々な問題を解決してみせた「神」。

ところが、そんな万能の「奇跡」を起こす「神」が、Aqoursの元には訪れません

「0」を突き付けられた際にも、「輝き」の意味を追い求めた際にも、彼女達を救う存在は現れませんでした。いわゆる「物言わぬ神」という状態。

それは彼女たちにとっての信仰の対象であり、もう一つの「神」ともいえる「μ's」に関しても同じ。

千歌が輝きを追い求める「きっかけ」となった「μ's」ですが、「輝くために何を為せば良いのか」という答えそのものに関しては、具体的な解答を示してはくれませんでした。

迷い悩む中、12話において遂に「神=μ's」の在り方を追うことを止め、「自分自身」を信じて進むことを決めたAqours

そして「輝きは心から溢れ出す」のだと、「輝く」ことの意味に対する「自分なりの解答」を得たAqours(13話)。その「輝き」に向かって走り出すのですが...。

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そんな矢先、今度は「神が救いを与えない世界=現実」が彼女たちの前に立ちはだかります(14話)。

「予選敗退」そして「学校の統廃合決定」。自分達の「願い」だけでは越えられない「現実」という「壁」が彼女達の前に立ちはだかるのです。

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「圧倒的な現実」の前に立ち止まりそうになるAqours

しかし、彼女たちはそんな「現実」を突き破るため。今一度「自分の意思」で「未来を選択していくこと」。そこから発生する「希望」によって「現実を乗り越えていくこと」を選択します。

それはいわば「神のいない世界」への挑戦です

また、それと同時に、「神が救いを与えてくれる世界」へのアンチテーゼの物語としてこの「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品の物語が描かれているのでは?という仮説が浮かび上がってくるのです。

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そんなわけでAqoursは、常に「自ら運命を切り開かなければならない」存在

常に「自分」と向き合い、「自分の意志」で「未来」を決め、「運命」を「自分の手で切り開く」。そうやって生きていく「必要性」が彼女達にはあるのです。

 この物語構成には、そんな「ラブライブ!サンシャイン!!」ならではの精神性が根底にあるのでは。そしてそれが「ラブライブ!サンシャイン!!」独自の「個性」なのでは。物語を追いかける中で、そんな風に感じるのです。

一期そして、前回14話をもって、その考えはいよいよ確信へと変わったのですが、今回15話では千歌の「私の中の私に問いかけた」というような言葉や、花丸の「無」に対する考え方など、更なる「ヒント」が与えられました。

特に花丸が語る「無」に関する考え方は、「ラブライブ!サンシャイン!!」の精神性に大きな影響を与えている「ある存在」に対する気づきを、私に与えてくれました。

今回はそんな「ある存在」に関して、お話させて頂ければと思います。 

 

■花丸の「無」

歌詞の内容を決める際、花丸が持ち出した「無」に対する概念。その概念はなんとも「難解」なものではありました。

彼女はこのように語りました。

「すなわち『無』というのは、全てが無いのではなく『無』という状態がある、という事ずら。それこそまさに『無』!」

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僕がこれを聞いた瞬間に発想したのは「これって実存主義的思考かな?」というものでした。

 

となるとそもそも「実存主義的思考」とは。或いは「実存主義」とはなんぞや?というお話になっていくわけですが...。

少しややこしいのですが、まずはここについてお話せねばなりません。

(そんなもん常識だろ!という方は読み飛ばして頂いてかまいません)

 

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実存主義」とはフランスの哲学者兼文学者、ジャン・ポール=サルトルが「確立」した思想と言われています。

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ジャン・ポール=サルトル(1905年6月21日 - 1980年4月15日)


(元を正せばニーチェキルケゴールなども実存主義者に含まれるそうですが、ここでは必要のない情報なので、割愛します。)

実存主義」は、第2次世界大戦後「人間中心主義」すなわちヒューマニズム思想」を体現する「思想」として、広く愛されました。その影響力は日本にも波及し、一定の世代にとってサルトルの哲学とは「一般教養」であり「知らぬ人はいない」「哲学」でもありました。実存主義に関して書かれた著書「存在と無」は日本でも300万部のベストセラーとか)

 

実存主義」の基本的な概念として「実存は本質に先立つ」という言葉があります。

この概念を理解できれば、「実存主義」に関しては分かったような物。ちょっと頭が痛いかもしれませんが、お付き合いくださいませ(笑)。

サルトルはこの言葉の意味を「ペーパーナイフ」に例えて説明しました。

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「ペーパーナイフ」は、作られる段階で「紙を切る道具」として人間が作成するものです。

つまり作られる前に、まず「役割」がある。

この「役割」「本質」と呼びます。

その「本質」をもって「ペーパーナイフという物体」が作られます

この「ペーパーナイフという物体」そのものを「実存」と呼びます。「実存」とは「実体存在」の略と言われており、即ち「物体」そのもののことを示します。

まとめると、ペーパーナイフとは、作られる前から「紙を切る道具」としての「本質」を持って生まれてくる存在で、それは「実存」よりも「先にある概念」ということになります

つまり「本質が実存に先立っている」状態ですが、これがペーパーナイフという物の在り方です。

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対照的に「人間」は生まれてくる段階では「なにをすべき存在なのか」という「役割」即ち「本質」を持っていない(と、サルトルは定義しました)。

人間には生まれた瞬間には「本質」はなく、ただ「実存」だけがある。

何故なら「人間」には産まれる前段階で、そこに産まれる事の「目的」が無いのです。故に「本質」が無い状態。

即ち「本質」よりも前に「実存」がある状態なのです。

この状態をサルトル「実存は本質に先立つ」と表現し、「人間は生まれ持った本質が無い。だからこそ本質を自らの意志で作っていくのである」と主張したのです。

この「実存は本質に先立つ」という思想を根底とし、あらゆる事柄を考えていくこと(本来の意味では人間について考えていく主義)が実存主義であり実存主義的思考」と定義される。

まずはそういった理解を持っていただければ、この記事の意図も伝わるのかなと思います。

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さて、ここで話を15話に戻しましょう。

花丸が語った「無」に関する概念。

一応上の概念を念頭に置いてもう一度読んでみましょう。

「すなわち『無』というのは、『全てが無い』のではなく『無』という『状態がある』という事ずら。それこそまさに『無』!」

この考え方は非常に実存主義的思考」だなと思います。

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例えば「無」というものに「本質」があると定義すれば、その本質は「何も無い」という状態です。要するに「無」というものの性質は、本来は「本質」が先にあるもの

というよりも定義さえしなければ、「本質しか無いもの」とも考えられます。

そうなると本来であれば、我々はそれを「無」としてすら認識できないはずです。

 

しかし、我々人間は能動的に、何も無い場所を「無」として定義することが出来ます。

するとそこに俄かに「無」というものの「実存」が立ち上がります

 

本来は「何も無い」ので認知すら出来ない場所を、「無という状態(実存)がある場所」として認識できてしまう...というパラドックスが生じるのです。

またこの事実は、「本来は本質のみがある」ものに対して、「実存が本質に先立つ」状態を、意図して付与させる(あくまで概念としてですが)...ということが可能なのだ、という我々「人間」の持つ自在性をも証明する「事実」となり得るわけです。

 

こういった「自由な発想」を用いて物事を解釈する能力を含め、サルトル

「人間には予め決められた性質や未来などない」

「人間とは元来自由な存在である」

と定義しました。

ちょいとややこしいですが、それほど複雑な概念では無いと思います。

要するにサルトルは人間が持つ「自由意思」に「理屈」を付けて「証明」しただけに他ならないわけです。

ただしサルトルは、人間が持つこの「自由」について

「人間は自由の刑に処されている」

と少し変わった表現を使って、語りました。

「自由の刑」というのは、どういう意味なのでしょうか。


■「自由」とは

サルトルが何故「自由」を「刑」と表現したのか。

それは前段の通り、サルトルの考えでは人間だけが「実存が本質に先立つ」存在であり、その事実を「自覚できる」存在だから、です。

人間には「本質」が無い。すなわち生きていくうえでの「あり方」そのものが無い。故に人間には「定められた未来」が無い。

となると人間は生まれた瞬間から常に「自由」であり、「自由」の中で生きざるを得ない生き物なのだ...とサルトルは考えたのです。

本来「自由」とは、「何をしてもいい」と捉えられがちです。

しかし「何をしてもいい」という事実は、反面その生き方を難しくもします。

「自分が何をするのか」「何をしたいのか」「どのようにして生きていくのか」

我々は常に、そういった「未来」「自分の意志」で決めていく必要があるわけです。

ただ、もしもこれらが予め決まっていれば、確かに「楽」であることは否めません。

また何もせずに「ボーっと」していても、生きて行けるのであればそれもまた「楽」です。

しかし大概の人間においてはそんな状況はありえない。「不確定な未来」を背負い、その「未来」を自分で作っていかなければいけない。

即ち全てを「自分の意志」で決めて行かなくてはいけないわけです。

そのある種「不自由」な状態を、サルトルは「自由の刑」という言葉に現したわけですね。

元来「自由」な生き物、故に「自由に縛られる」人間の生き方。

不思議なパラドックスではあります。

とはいえ、これをなにも悲観的に捉える必要は無いのでは?と思います。

実際、サルトルもこの状況に関してはオプティミズム的に考えていました。

人間は常に「自由」である。

それ故に自らの「あり方」も「行く末」も「生き方」も、自分の「裁量」で選び、進むことが出来る

即ち「未来」とは常に「自分の手の中」にあり、その「可能性」は常に「開かれている」

そしてそのように、自分の「人生」を、自分の「意志」を持って能動的に作っていくことが出来る生物、それもまた我々人間だけなのです。

サルトルの提唱した「実存主義」が「ヒューマニズム思想」の中心として受け入れられた理由は、こういった「人間は本来自由である」という思考が、根底にあるからこそなわけです。

そして、この「自らの運命を自らの手で切り開く人間」という思考は、「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語が持つ姿勢ともぴったり合致すると思うのです。

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無神論実存主義

サルトルは「人間の成り立ち」において、「本質」を否定しました。これは結果としてキリスト教的な「神」そのものを「否定する」ことにも繋がりました。

キリスト教では、「神」が人間を作り、それぞれになんらかのメッセージすなわち「本質」を与えたと考えます(いわゆる原罪でしょうか)。そして人間はその「本質」を知り「原罪」を贖うために「神」への「忠誠」を誓い、「教え」と「救い」を請う。来世では救われることを願う。それが「キリスト教」的視点での「人間」の捉え方です。

即ち「人間」に関して、「実存」よりも先に「本質」があるのがキリスト教的な思考なわけです。

 しかしサルトル「人間が生まれることに理由も意味も無ければ、同じく死にもなんの意味も無い」と説きました。それはすなわち「神」の存在そのものが「無いのだ」と説くことと同じ意味を持ちました。

どこまでも「人間」の可能性を希求し、その結果「神」をも否定したサルトル

彼は「人間が自らの手で行先を決め、道を切り開いていく」ことにこそ、「人間が人間として生まれてきた意味」があるのだと、信じていました。

図らずもその思想は「神の存在を否定」し、「真っ向から現実へと挑み」「自らの力と意志で、自分達の未来を切り開こうとする」Aqoursの姿にも重なります。

もっと言うなれば、ここまでの「2期」の物語そのものにも重なるのでは?と思えるのです。

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アンガージュマン

サルトルは、人間は生きる上で常に「自分を未来へ投企しなければならない」と語りました。

「投企する」とは、「project」すなわち「前に向かって投げる」ことを意味します。これはもちろん比喩で、本質的には「未来に向かって行動を起こせ」という意味を示します。

人間には「定められた本質」は無い。それ故に「自らの未来を自らの意志で決めていかねばならない」。これは前段において書かせていただいた通りです。

その為には、常に社会に対して自らの存在を「投げ入れ」、その「価値」を問う必要がある。社会とは「他者」に見られ「他者」に評価されることでもある。

サルトルは「他者」を「地獄」と評するほど、「他者との接触」を恐れた人物でもありました。それでも敢えてその「恐れるべき」「他者」の群れである「社会」に「自分を投げ入れること」の価値を説いた。

そうして「社会」と密接に関わり、繋がらなければ「人間は生きていけない」のだとサルトルは考えていたからです。

こういった「社会への参加」行動自体を、サルトルアンガージュマンと呼びました。「アンガージュ」とは「束縛」というような意味を持つフランス語です。「アンガージュマン」はそれを発展させ「束縛させる」というような意味を持つ言葉になります。「アンガージュ」は英語では「エンゲージ」、あの「エンゲージリング」の「エンゲージ」と同義の言葉です。

「束縛させる」とは何に対してか。というと「自分の未来」を「束縛させる」という意味になります。これまで書いてきた通り、サルトルの考えでは常に「未来は不確定」です。それゆえに「未来」を自分で「作っていく必要」があります。

故に「自分自身がどうしたいのか」という「意志」を、「社会」という場所に「投企」することで、「自分の在り方」を作り、行先を「自分の中において」確定させる。そして、その「道」に向かって歩みを進める、という行動が必要だと説いたのです。

「不確定な未来」を肯定するのに、なぜ自分主導で「自らの未来」を「束縛する」必要があるのか。そう思われるかもしれません。

前段の通り、人間は常に「自分の生き方」を「自分で決めなければならない」。しかし何の「希望」も無ければ進むべく「未来」すら描けない。だとすればその「未来」の図を自分で作る。そしてそこに進むべき「動機」を「希望」として作り続けなければならないサルトルにはそのような思いがあったようです。

サルトル「希望」を持つ事こそが、結果よりも重要なのだ、と晩年には説き続けました。

こういった「目的」よりも「過程」を重視する思想も、「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語との近似性を強く感じる部分です。

彼女達にとって「ラブライブで優勝する」ことも「学校の廃校を阻止すること」も「生きる上での目的」です。それは彼女達にとっての「希望」にほかなりません。

しかしその果ての「結果」は、実のところそこまで重要な物ではないのです。

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(もちろん過程の果てに目的を果たせれば、それに越したことはないですが)

 「ラブライブで優勝」を目指し、「学校の廃校阻止」を「希望」として標榜し、活動するなかで「どのような輝き」を残すことが出来るのか。

それが「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語の主軸になっていくのでは。そんな予感がするのです。

また「アンガージュマン」の思想の原点には「物言わぬ存在になるな」という物もあります。

「不満や不平を感じていても、行動せず、何も言わないのであればそれは何もしていないのと同じ。すなわち死んでいるのと同じ」
「成し遂げたいことがあるのなら、結果のことなど置いておいて、まずは行動せよ。参加せよ。」

サルトルは説きました。

「まずサイを投げよ。さすれば自ずと結果は示される」

とも言いました。

「輝きたい」

そう願いながら、何をすれば良いのか分からなかったAqours

そんな彼女達が「スクールアイドル」という「可能性」と「未来」へ「自らを投企」する。そうやってまず「サイを投げる」ことで、自らの「未来」を作って行こうとする。

そんな行動からは、やはりこの「アンガージュマン」の思想への近似性を感じざるを得ないのです。

 

 ■「投企」と「未来の僕らは知ってるよ

上記の「投企」を頭の中に収めると、不思議とAqoursの楽曲との結びつきも感じられるようになります。

例えば2期OP「未来の僕らは知ってるよ」のAパート。

遠くへ遠くへ声が届くように

もっと大きくユメを叫ぼうか

 という歌詞が登場しますが、これは正しく「未来」へ向けて「希望」を「投企する」行為そのものに思えます。

(希望でいっぱいの)

今日が明日を引き寄せるんだと

という歌詞も「今行動を起こす」ことで「不確定の未来」を「自分のもの」として引き寄せる...という「投企」の概念に当てはまります。

サビの

未来をどうしようかな

と言う言葉からは「未来を自らの意志でどうとでも変えられる」という強い意志を感じます。これもまた「投企」の概念と同じものです。

主題歌とは、その物語全体のテーマを示すものです。そう考えれば「投企」もまた「ラブライブ!サンシャイン!!」のテーマを語る上で外せない概念であるように思えてきますね。

実はこの「投企」をテーマとして明確に持った楽曲がもう一つあるのですが。それは恐らく16話(2期3話)での「キー」となる楽曲のような気がするので、その際にお話するようにいたします。

 

■いま希望とは

サルトルが残した最後の言葉。

それは「人間の運命は、人間の手中にある」というものでした。

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人間は本来自由である。しかし自由であるということは同時に「刑」でもある。ただ傍観しているだけでは、人間は「自由」に「殺されている」のと同じ。だからこそ「戦って」「自由」を「自分のもの」にする。「未来」を自分手動で作り上げていく。

その「あり方」を決めるのは、常に「人間なのだ」と、最後まで「ヒューマニズム」を信じる言葉を残しました。

そして「戦うため」に「自由」を感じるためには、常に「希望」が必要だとも語りました。

どれだけひどい状況で、絶望しかなかったとしても、それでも人間は「未来」を生きていかざるを得ない。その為にはほんの少しの「希望」。まやかしでも、ごまかしでも構わないからちょっとした「希望」を常に主体的に「作りつづけなければならない」。

サルトルは最後まで「希望」という概念を大切にしていました。

ラブライブ!サンシャイン!!」は「人間たちの物語」なのではないか。以前僕はTwitterでそんな風に書きました。

「神」の救いがなくとも、「人」が「人の力」を信じ、「希望」を持って、「現実」と戦い続ける物語それが「ラブライブ!サンシャイン!!」なのではないかと。

そして、この記事を書く最中で、やはりその感覚は間違いでは無いのかなと感じています。

何故なら、サルトルが提唱したのは「人間中心主義」、即ち「人間が主役となる世界」のことであり、「ラブライブ!サンシャイン!!」はそんなサルトルの思想と強く共鳴し合った「人間が主役」の物語なのですから。

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最後に、死に際したサルトルのメッセージを書かせていただきます。サルトルはこの言葉を残した1週間後に亡くなった...と言われています。

「世界は醜く、不正で、希望が無いようにみえる」

といったことが、こうした世界で死のうとしている老人の静かな絶望だ。

だがまさしく、私はこれに抵抗し、

自分では分かっているのだが、希望の中で死んでいく。

ただ、この希望。これを作り出さねばならない。

現実に深く絶望しながらも、そしてその現実から間もなく自分が「いなくなる」ことを実感しながらも、それでも「希望」を信じ、「希望を作り出さねばならない」と、未来に「投企」し続ける。

そんな彼の姿勢は、とても美しく感じられます。

どうしようもない「現実」に打ちのめされても、とても覆せぬ「絶望」が待ち受けていようとも、その対象と「戦う」。「自由」を謳歌するために「戦い続ける」。

「戦った先」で「結果を残せなかった」としても、そこに「未来へと続く希望」を作り出す。「戦い続けるための「希望」を生み出す。

そんな「希望」を作り続ける「人々」の戦いを描いた「物語」

それがAqoursの、「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語なのかもしれない。今はそんな風に感じられるのです。

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 ということで、サンシャインとサルトル実存主義に関するお話なのでした。

長々とすみませんでした!

今後もこの「Dig」は続けていきたいなぁと思いますので、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

 ※説明不足多数のため加筆いたしました。(2017年10月21日)

実存主義とは何か

実存主義とは何か

 
サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)

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