Love Live!Aftertalk!

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μ'sの話をしようじゃないか。~青春を呼び起こす「神話」或いは「寓話」としての「ラブライブ!」~

今年の4月1日で「μ's Final LoveLive!〜μ’sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪〜」開催から丸二年になる。

ということで、トリスさん(a.k.a生春さん)主催の企画が勃発したので、僕も乗っからさせてもらう。

 

 

ちょっとした昔話をしよう。

ハッキリ言って自分語りだ。

自分で後から読み返しても、恐らく「こりゃどうなんだ?」と思う内容だ。

だから興味の無い方はそっとブラウザのバックボタンを押してもらって構わない。

何の話かと言えば、主にμ'sと僕とのとても個人的なお話。

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今から3~4年前。

僕は転職の結果、某ゲームメーカーの営業マンをやっていた。

子供の頃から大好きだったメーカーで仕事をする。

やる気とやり甲斐に満ち溢れた時期。

反面大学時代にアニメ・マンガから縁遠くなっていた自分には、難しい局面もあった。

特にアニメを見なくなって久しく。

「この作品はこのアニメの声優さんを起用しているんです!」というセールストークが理解は出来ても、自分の体に染みこんでいかない。

それ故に営業トークを上手く展開出来ない悩みも抱えていた。

そんなまんじりともしない時期、僕の会社が関わる作品の声優に「ラブライブ!でお馴染みの声優さん」が起用される...というプレゼンがあった。

正直なところ、その頃まで「ラブライブ!」という作品の存在は知っていても、なんの興味も持っていなかった。

持っていたのは「女児向けのアイドルアニメ?」くらいのヌルっとした印象だけ(本当にスミマセン)。

しかし同時に「ラブライブ!」が「人気のある作品」であることも理解していた。

それはなぜかと言うと、当時商品会議の為に秋葉原に通う機会が多く、街中には「ラブライブ!」と「μ's」が溢れていたからだ。

「オタク世界の潮流を知るのならまずアキバの街を見るべし」というのは、その頃からの座右の銘だけども、この時期のアキバは間違いなく「ラブライブ!」と「μ's」に支配されていた。

お客さんに説明するには、まず自分に情報を落とし込まなければ納得のいくレベルの話は出来ない。

そんな仕事上の使命やら前段のモヤモヤ込みで、僕はまず「ラブライブ!」を勉強しようと心に決めたわけだ。

いや....もちろん...それだけではなくて、単純な興味もあって。

というのも「その時流行っているものには、必ずなんらかの理由がある。だとすればそれは探るべき価値がある」と思っていたから(これは今でもそう思っている)。

なにはともあれ、僕が「ラブライブ!」を見るきっかけは、そんな些細な出来事だった。

 

「見るのならしっかり見よう」ということで、DVD(1期)を全巻レンタルし、夜10時くらいからボンヤリと見始めた。

第1話の軽妙な語り口、シンプルな設定説明、キャラクター紹介に引き込まれた。

キャラクターデザインが極めて美麗だったり、特徴的なわけでもない。

その性格にも特殊性があるわけでもないけれど、それ故に生まれる彼女たちの「身近さ」が心地よかった。

そして、第1話の「終わり方」。

唐突に始まる「ミュージカル」。道路に飛び出して歌い踊る穂乃果たち。その表現の爆発力。

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「ミュージカル作品」では度々見かけるものの、「アニメ」ではあまり見た記憶の無いもの。

「理解しなくても良い!感じてくれ!!」と言わんばかりの大胆な手法。

その表現に、グっと心を掴まれた。

「この作品。まだよく分からないけど、只者ではないな...。そして単純に好きだな。」

そう感じた。

 

そして第3話だ。

それまでなんだかんだ「まぁ、このリアリティラインのアニメですよねー」くらいの軽い気持ちで見ていた自分をグッと「現実」へと引き戻した「観客0」。

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あんまりだ。

10代の少女たちがこんな仕打ちを受けて良いのか。

確かに「廃校」がささやかれるような現状で、生徒数も減っている。それは分かる。

それにしたって、もう少しなんとかなったって良いじゃないか。いくらなんでも「0」は無いだろうよ...と。

もちろん現実的に考えれば「0」という局面は想像しづらい。

普通だったらパラパラとでも人はいて良いはずだ。

だとすれば、これは「作劇」において、局面を際立たせる為の演出である。

もちろん、そんなことは初見でも分かっていた。それでも感情が納得しない。

穂乃果、ことり、海未の3人にすっかり入れ込んでいた自分には、あまりにも彼女たちに突き付けられた「現実」が残酷すぎた。

そして残酷過ぎるが故に「なんて素晴らしい作品なのだ」とも感じてしまった。

おためごかしの「甘やかし」はなく。

ただただ「厳しい現実」そのものをダイレクトに突きつけて、その上で「それを超えていこうとする」「勇気ある人々」の物語を描こうとしている。

その「妥協の無い物語作り」を前に、僕はいよいよ「ラブライブ!」を舐めるのを止めた。

僕と「ラブライブ!」の日々が、こうして始まった。

 

3話を境に歯止めがきかなくなった。

最終回13話までを夜中の内にぶっ続けで見た。

花陽の決意に涙し、にこの苦悶に涙し、希の思いに涙し、絵里のやるせなさに涙した。

No brand girls」の熱さに狂喜し、「僕らのLIVE 君とのLIFE」の登場に歓喜した。

9人で歌う「START=DASH!」に号泣した。

ことりの決意と穂乃果の激情に戸惑いつつも、それでも見事に「ほんのちょっとの達成と進歩」を描き切った物語に感動した。

気付くと空は白み、朝になりつつあった。

アニメを見て徹夜するなんて、本当に久々だったけども、後悔はなく、ただただ達成感しかなかった。

時計は早朝5時を指していた。

僕はアイドル好きの友人数名にこの興奮をLINEした。

「おい!ラブライブ!が凄いぞ!!」と。

「とりあえず騙されたと思って3話まで見てくれと!」と。

そんな内容の長文LINEを送りつけた。

とんだ迷惑だっただろう。しかし情熱とは大概ほとばしるもので、頭の中は冷静でも、行動を止めるリミットが働かなくなるものだ。

とはいえ、結果的にその時連絡したうちの1名が「ラブライブ沼」にどっぷり浸かり、今でも一緒にライブに行ったり、沼津に行ったりしている。僕のあの時の「間違った情熱」は伝播されてしまった。恐らく似たケースが日本中の、あるいは世界中のそこらかしこにあったのではないか。時空も時間も飛び越えて。

 

そこから間もなく2期を見終え。

そのタイミングでようやく「プロジェクトラブライブ!」の現行タイムラインに追いついた。

「劇場版」の公開日には初回上映を予約し、IMAX2D版をほぼ最前で鑑賞した。

正直に言うと期待していた内容とは少し違った。

初っ端の映画に対する自分の評価は「80点」だった。

とはいえ、どことなく真価を理解出来ていない気がして、その不明点を解明しなくてはいけない気になった。(これは映画好き故かもしれない)

結局、それを解明するために劇場に9回も通った。見れば見るほど分かってくる内容に興奮し、初めはピンとこなかった物語が自分なりに理解できた。

それにつれて「SUNNY DAY SONG」が大好きになっていった。

本格的にラブライブ!に魅了されたのは、この「劇場版」があったからこそなのかもしれない。

だからこそ僕にとってはこの「劇場版Love Live! The school idol movie」はとても思い入れのある作品と言える。

気付くとその年の年間ベスト映画に選ぶ入れ込みようだったけれども、反面ネット上での評判の悪さが気になって仕方なかった。「いつかラブライブ!専用のブログを作ってそこで反証してやる」そんな暗い野望が、このブログの出発点にもなっていたりする。

 そんなこんなで今に至り、僕は今でもラブライブ!について、あーでもない、こーでもないと妄想を垂れ流している。

その原点はもちろん「μ's」であり彼女達の物語である「ラブライブ!」という作品にある。

 

                 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪

 

μ'sの物語が何のために存在するのか。

「夢は願えば実現する」「だから夢見ることを止めるな」

何故2013年という時期に、こんな「普遍的」で「今更感」すらあるテーマをもった作品が作られたのか。

そんなことをボンヤリ考えることもある。

個人的に感じるのは、恐らく僕らには(いや、僕らよりも若い人たちには)ある種の「神話」や「寓話」が必要だったのだ...ということだ。

何をしても褒められず、全てのイノベーションは終わり、夢を語れば「現実を見なさい」と言われる。

「現実的」という名の「ニヒリズム」が支配する世の中で「夢」を叫ぶことは、そして「夢は願えば叶う」と「叫ぶ」ことは、とても勇気がいるはずだ。

「夢」を声高に叫ぶやつは「バカ」だとさげすまれ、陰口をたたかれる。

特に2011年の震災以降、その風潮は更に増した体感がある。

とんでもない「現実」を突き付けられた時、人はどうしても「現実的」にならざるを得なくなる。それは分かる。僕もそうだった。

でも、そんな世の中じゃ、なんの「望み」も湧いてこないじゃないか。

だからこそ、現実を超越する為の、ちょっとした「うつつ」が必要だったのだ。

「夢は持つものだ」「夢は願うものだ」そして「夢は願わない限り叶わないのだ」。

そんな「当たり前」を「断言」し、「肯定」してくれる「うつつ」を時代が求めていたのではないか。

もちろん「大抵の夢は叶わない」し、「願いもかなわない」。

それでも「夢」を叫ばなければ、「夢を叶える」一歩目にも立てない。

「うつつ」を抜かすものは確かに愚かかもしれないが、彼らが「うつつ」を抜かす対象は「夢」だ。だとしたら「夢を見ない現実主義者」よりも「夢にうつつをぬかす愚か者」の方が、より多くの「可能性」を秘めているのではないか。

もちろん、それが「正解」かは分からない。

しかし、少なくともラブライブ!」はその「可能性」を「肯定」した。

そしてその「可能性」を信じる「勇気ある人々」を「肯定」した。

だからこそ、ここまで多くの「若者」に受け入れられたのではないか。

そう思える。

ラブライブ!」が続編である「サンシャイン!!」と比べると、どこか「教義的」なのは、この物語が「願いを肯定する神話ないしは寓話」として作劇されているからだ。

彼女達は等身大の我々と同じ「迷える人間」で、だからこそとても俗な悩みをもったり、行動をしたり、それによって過ちを犯してしまったりはする。

けれども最終的に彼女たちが「敗れる」物語は描かれない。

それは、彼女たちが「勝つ」ことでしか「可能性の肯定」は果たせないから。

「夢を願って」「夢に突き進んだ人」はかならず「夢を実現させる」。

その「あらまし」を、彼女達の物語は描く必要があったから。

そこが「μ'sの物語」の特徴であり、「μ'sの物語」である「ラブライブ!」が「神話的」ないしは「寓話的」であると僕が感じる所以だ。

もちろん、僕個人の感じ方なのだけど。

 

                ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

 

「終わらない青春はここにある」とμ'sは言った。

それはμ'sの物語が「青春」を呼び起こすトリガーとなり得るからなのだと僕は思う。

「今」夢見ることを、「今」夢を叫ぶことを恐れている若者だけではなくて。

「かつて」「夢を見ることを規制された人」や「夢を見る余地も無かった人」や「夢に一度敗れてしまった人」が、「ラブライブ!」と「μ's」の物語と出会うことで、今一度「青春」と出会うことが出来る。

 

「青春」とはつまり「無謀」であること。

ニヒリズム」に負けずに「夢に向かって、バカ正直に突っ走ること」。

彼女たちの「寓話」が、「神話」がそこにあり続ける限り、いつでも「誰か」の「青春=無謀」を喚起させることが出来る。だからこそ「終わらない青春はここにある」と彼女たちは言う。

高坂穂乃果を演じた、新田恵海ラブライブと出会った瞬間が、その人にとってのラブライブの始まりである」と語ったように。

 

 「大好き」なものがあることは、実人生においても「エネルギー」となり得る。

諸々の事情はありつつだが、より自分自身の人生を「豊か」にするために、僕はもう一度転職した。おかげさまで健康的な生活を送れるようになったし、趣味に使える時間が格段に増えた。僕には仕事のやりがいプラス、やはりこの「時間」が必要なのだった。

 

ちょっぴり余裕が出来たので「Love live!After talk!」というブログを始めた。

ただただ「ラブライブ!」のことを「好きだ」と言うだけの特化型ブログ。おかげさまでこのブログの更新は、僕の人生においてはちょっとした「生きがい」になっている。

「Love Live」即ち「人生を愛せ」とラブライブは語る。

だとすれば、僕は「ラブライブ!」と出会ったことでその価値を見つめ直せた。そしてブログを通して、その「願い」を実践できている。そんな気がする。

 

あの東京ドームから丁度2年の時が経ち、改めて自分と「ラブライブ!」との関係を見つめるなかで、とても当たり前のことを思い出した。

僕は「μ's」が、「ラブライブ!」が大好きであるということ。

彼女達の物語に胸を熱くし、思いを馳せた期間は決して「過去」なのではなくて、今なお息づいているという事実。

それを思い出すきっかけを与えてくれた本企画に心から感謝を。

そして、

ありがとうμ's。ありがとうラブライブ!

これからもずっとよろしく。

 

2018年 4月1日