注:本文には映画「ロッキー」の重要なネタバレが含まれます。とはいえ「ロッキー」を見ていないというのは、人生の大部分を損していると思いますので、今すぐ見てからご一読頂ければ幸いです(という暴言)。
「ラブライブはロッキーである」。
「トチ狂ったか?」と思われるかもしれないが、「ラブライブってどんな話?」と聞かれた際僕は大真面目な顔でこう答えている。「いや、概ねロッキーだよ」と。
「ロッキー」は1976年に公開されたボクシング映画。無名の3流ボクサー=ロッキー・バルボア(シルベスター・スタローン)が主人公。ボクシングで食う事をとっくに諦めているロッキー。今は地元のやくざに取り立て屋として雇われつつ、たまに試合をして細々と暮らしている。そんな彼にある日白羽の矢が立つ。黒人チャンピオンのアポロ・クリードの挑戦者として指名されたのだ。とはいえ実力を認められてではない。建国記念日の試合に黒人のチャンピオンとイタリア系の白人が試合する。アメリカを象徴する試合としてふさわしい。ただそれだけの理由で指名されたのである。もちろん実力には雲泥の差がある。始めは勝ち目など端から無いと諦めていたものの、老トレーナー=ミッキーにたきつけられたこともあり、本気でトレーニングを開始。過酷なトレーニングによって体力をつけ、冷凍庫で凍った生肉を殴ることで拳を鍛えたロッキー。いざ決戦の舞台に赴く。「俺はこの試合で死ぬかもしれない。だけどもしこの試合で最終ラウンドまで倒れずに立っていられたら、俺は初めて自分をただのゴロツキじゃないと証明できるんだ」そう恋人であるエイドリアンに告げ、ロッキーはリングへと上がる...。
いかに鍛えたとはいえ現役チャンピオンとの実力差は明確。それでも、どれだけ殴られようとも不屈の意志で立ち続けたロッキーは、いよいよ宣言を「現実」にする。試合には敗れたものの、もはやそんなことは関係ない。彼は試合での勝利よりももっと大きな物を手に入れた。それは「誇り」である。
「ラブライブ1期」はまさしく「ロッキー」的な物語だった。何者でもなかった少女たちが、「廃校阻止」という目標をきっかけに「スクールアイドル」として覚醒し、大きく成長していく。その中で「ラブライブ」という目標に出会い、そこでの優勝をガムシャラに目指す。しかし最終的には「廃校阻止」はなし崩しで成功し、「ラブライブ」には出場もかなわない。しかしμ'sの面々は「小さな勝利」と「大きな誇り」を手にする。
「ロッキー」には、常に「成功」を義務付けられてきた「白人層」のルサンチマンが込められている。「白人ならば強くあれ」「白人ならば勝利せよ」。そう育てられながらすべてにおいて「黒人」に敗れ続ける現実。この時代背景がルサンチマンを生んだ。「ロッキー」はそんな白人たちを救った。「別に強くなくてもいい」「勝てなくてもいい」ただ「大事なものを見失うな」。故にこの作品は白人だけでなく、多くの層から愛され、未だに語り継がれる物語になった。
「ラブライブ」もまた、「生まれながら何かを失っている人々」を救った。「夢を見るな」「現実だけ見ろ」。そう教えられ育った若者たちは、「ラブライブ」に「失った夢」を見た。「強く願えば夢はかなう」「恐れず挑戦することが大事」。そんな「イデオロギー」を示したからこそ、「ラブライブ」は一定の世代に「強く」「深く」愛される作品になった。
「ラブライブ」一期は、彼女達が「スタートライン」に立つまでの物語だ。彼女達はスクールアイドルとして具体的には何も成し遂げていない。それでも「願うこと」の価値を、「挑戦すること」の意味を、失敗と、挫折と、ちょっとした勝利から得た。だからこそこの物語は尊く、エバーグリーンな物語として成立しているのではないか。そんな風に思う。