皆様こんにちはorこんばんは。
今回もキャラクター編を引き続きお送りして参ります。
このキャラ特化篇もそろそろクライマックス。残り3名となってきました。
今回は2期における「もう一人の主人公」と呼んで差支えない人物、松浦果南編です。
1期では物語に絡むタイミングが遅く、彼女のパーソナリティが語られる回数は決して多くありませんでした。それは総じて果南が物語に絡むということは「旧Aqours」の物語と無関係ではいられなくなるから...という理由もあったわけですが。
反面2期では「旧Aqours」(3年生組)の物語が積極的に語られていく中で、「過去」と「今」が交錯していく物語が語られました。その中で果南という人の「パーソナリティ」も部分的にではありますが、描かれていきました。
今回は2期における果南を巡る「過去」の物語を紐解きながら、彼女にとっての「2期の物語」の「意味」みたいなものを考えてみたいなと思います。
毎度の如く私個人の思考に過ぎませんが、ぜひお時間が許せばお付き合い頂ければ幸いです。
■松浦果南と「カセ」
旧Aqoursの発起人の一人である果南。
(AqoursはAqoursでしか無いのですが、同じ名前で表記すると混乱するので、果南たちが作ったAqoursを「旧」、千歌が結成したAqoursを「新」と呼びます。他意はございません。)
本質的な発起人はダイヤなのかもしれませんが、実質的な「スクールアイドル活動」においては、果南が「センター」を務め、パフォーマンスやフォーメーションの立案なども行っていた事実を踏まえると、活動の中心にいたのは果南である...と考えて問題ないでしょう。
残念ながら「旧Aqours」がどのような楽曲を披露し、どのようなパフォーマンスを見せていたのか...に関しては、最後まで具体的なシーンは描写されませんでした。
ただし、2期6話ではかつての「フォーメーションノート」が登場。その「難解」なパフォーマンスを達成するために、鞠莉が「ケガをしてしまった」という事実も明らかになったように、「旧Aqours」は相当「意識の高いグループ」であったことは想定できます。
反面果南はそんな「意識の高さ」と「ハイパフォーマンス」を誇った「旧Aqours」という「過去」をあまり快くは感じていません。
1期12話ではライバルグループである「Saint snow」を「1年の頃の私みたい」と評して軽い嫌悪感を示し、2期6話でも同グループの話題が出ると苦い表情をして練習部屋を出て行ってしまいます。
また同じく2期6話では、予選突破に有効となるはずのフォーメーションノートを忌み嫌い、最終的には海に投げ込んでしまいます。
こういった一連の彼女の反応や行動から感じるのは、果南が「過去」を「疎んじていて」「今から切り離したい」と思っているという事実です。
ここから分かるのは、彼女の物語にとっての「カセ」とは、この「疎ましく感じている過去」であること。
そして彼女個人の「達成」とは、果南がいかにしてこの「過去」を「受け入れて」「前へ進んでいくか」という事である...ということが分かります。
つまり、この道筋を辿っていけば、自ずと2期における「果南の物語」の「本質」も見えてくるということになります。
となると、まずは「何故果南が過去を疎ましいもの」と感じるようになったのか。その理由を紐解かねばならないかもしれません。
■松浦果南と「過去」
元々「竹を割ったような性格」で「細かいことを気にしない」はずの果南。幼少期の描写からもその片鱗が伺えます。
裏表の無い性格...というだけでなく、人見知りせず、誰とでも仲良くなろうとする。身体能力が高く人望もあるが、それをひけらかさず、ダイヤとは違う意味で人を導いていけるリーダー。それが果南です。
細かいことは気にせず、「楽しいと思う」ことには積極的に飛び込んでいく。ダイヤが発想した「スクールアイドル」に挑戦したのも、深い意図はなく「楽しそうだったから」というだけなのでしょう。
親友3人で取り組む「楽しいこと」の延長線にあった「スクールアイドル」。初めは興味を示さなかった鞠莉を半ば強引に加入させたように、果南は「スクールアイドル」の「楽しい面」だけを見つめていました。
しかし「スクールアイドル」全体のレベルが上がったことで、思うようにいかない活動の中、徐々にAqoursは「果南の身体能力に合わせた」「ハイパフォーマンス」を志向する、「意識の高いグループ」へと変化。それを追求する中で、いつしか「楽しいこと」という要素は消え失せて行ったのではないでしょうか。
そんな中パフォーマンス途中で鞠莉がケガ。更に鞠莉が「スクールアイドル」としての活動を優先するあまり「留学」という「自分の可能性」をも捨て去ろうとしていたことを知ってしまいます。
自分の思いを優先させるあまり、それが誰かの可能性を「阻害」したり、大切な人を「傷つけてしまう」こと。それを知ったことで、果南は自らの「スクールアイドル」としての取り組みを「憎む」ようになっていき、その帰結として「旧Aqours」の活動は停止していく。
そしてその決断が結果として親友3人の「関係性」をも「破壊」していく。
1期では最終的に千歌、そしてダイヤの取り組みのおかげで、果南と鞠莉のすれ違いは解決。1年のブランクを経てAqoursは「再始動」したわけですが、果南にとって「旧Aqours」とそれに「関連するもの」は、「過去に鞠莉を傷つけた」存在として、二度と触れたくない「トラウマ」へと変化していったのではないでしょうか。そしてそれは2期開始後にも解決していない「シコリ」として果南の心には残っている。そしてそれこそが果南の「カセ」になっているのだと思えます。
また果南にとってはもう一つ「過去」と関連する「カセ」があります。
それは果南が過去に影響を与えた鞠莉以外の「もう一人の人物」に関して。
つまり千歌の「在り方」に関してです。
幼少期、何をするにも臆病だった千歌に、「挑戦すること」の「意味」と「価値」を伝えたのは果南でした。
浅瀬にすら飛び込むことを躊躇っていた千歌に、勇気を持って飛び込むべきだと語ったのは幼少期の果南。
「今やらないと後悔する」
その言葉に従うように、海へと飛び込んだ千歌。それ以降、千歌は「何事にも挑戦する人」へと変わっていきます。
そんな「普通」の千歌に「勇気」を与えたきっかけとなったのは、他ならぬ果南なのです。
とはいえ、その後の千歌がどうなったか。
家族や曜が証言するように「あらゆることに挑戦する」けども「上手くいかず」「途中であきらめる」という過程を経て、いつしか「飽きっぽい」というレッテルを張られるに至ってしまいました(曜はその認識を否定していましたが)。
また、「様々なこと」に挑戦しながらも、常に「敗れ去り」「傷付く」千歌を、恐らく果南も見つめてきたはず。故にそんな千歌の在り方を、どこか「痛々しく」感じていたのではないかなとも想像できるのです。
つまり2期において果南が抱えている「過去にまつわるカセ」とは「旧Aqours」であり「千歌の在り方」である...とも考えられるわけです。
■松浦果南の「罪」
上記二つの「過去にまつわるカセ」とは、言い換えれば果南にとっての「罪」でもある。
自らの配慮の足りなさ(と果南が感じている要素)が生み出した「カセ」であり、それが千歌、鞠莉にとっての「呪い」のようなものになってしまっている。そして結果的にそれを二人に与えてしまったことが果南にとっても「罪」になっている...という風に捉えられるからです。
しかし2期6話では、地方予選突破のために、「旧Aqours」のフォーメーションノートを「千歌」に渡す...というミッションが発生する。
これは即ち「旧Aqours」と「千歌」とが重なり合うことになる。
つまり果南が抱える「カセ」2つが重なり合うことにもなるわけです。
そうなると果南が抱える「罪」もまた重なり合い、果南はそれと「向き合う」必要が生まれてしまうわけです。
「新Aqours」加入後から、なるべく直視せず、避けようとしてきた「自らの罪」を、「直視」せざるを得なくなる。これはなかなかに「キツい」状況といえます。
Aqoursが勝利するために「必要」なものを、何故果南が「頑なに拒むのか」。
2期6話を見ただけでは掴めないその理由も、果南の「過去」を遡って考えてみることで、少し分かってくるように思えるのです。
物語において発生している「カセ」は、なんらかの行動をもって「回収」されていく。これはあらゆる「物語」の基本です。2期6話は、そんな果南の「カセ」を「回収」するために用意された回でもあるのです。
■松浦果南と「救い」
千歌の挑戦と数多の失敗を見つめる果南。その視線がどことなく冷やかなのは、やはり千歌の姿に自らの「罪」を重ねてしまうから...なのかもしれません。
自分が千歌の「在り方」を決定づけてしまったから、千歌は永遠に「挑戦」を止めようとしない。「出来ること」と「出来ないこと」の境目が分からず、「出来ないこと」の前に敗れて「傷付き」続ける。そんな千歌を形作ったのは少なくとも自分にも原因がある。そんな風に感じていたのかもしれません。
しかしここで初めて曜と梨子から「普通怪獣」という単語とその説明を聞くことで、果南に一つの「変化」が訪れます。
「普通怪獣」とは、「普通の自分」というものを十分に「理解」したうえで、それでも「挑戦すること」を止められない「怪獣」であり、千歌はそれを「自称」している。
即ち千歌は「出来ること」と「出来ないこと」をある程度理解しながらも、「出来ないであろうこと」にも「果敢に挑む人」なのである...ということをようやく「理解」するに至るわけです。
ここで果南に訪れる心的変化とは、自らが千歌にかけていた「バイアス」に関してのものでしょう。
果南は千歌が「出来る事と出来ない事が分からない」のに、「挑戦し続けて」「敗れて」「傷付いている」と思っていた。即ちそれは、千歌の「能力」を「下に見ていた」とも言えるわけです。
けれども本当は、千歌は「そんなことは理解したうえ」で、それでも「自分の可能性を信じて」「挑戦する人」であったことを理解する。
ここで果南は自らの千歌に対しての「不理解」を恥じると共に、自らが千歌に感じていた「罪」もまた「誤解」であったことを思い知るのではないかな?と思えます。
千歌に対する果南の「意識付け」は確かに作用しているけども、それが千歌自身の「思惑」を凌駕するようなものではないこと。
それはつまり、果南にとって「自意識過剰」を正す効果ももたらしたかもしれません。
果南から千歌に告げられる「タイムリミット」。何故急にそんな宣告が為されるのかと言えば、その方が「千歌が燃えるから」にほかありません。
これはかつて曜が言っていたことと同じ理屈。即ちこの時点で果南は千歌を「舐めていた」自分を改め、千歌の可能性を「信じる」方向へとシフトチェンジした。
その宣言こそが「タイムリミット」なのではないかなと思えるわけです。
翌朝。果南の前で見事にパフォーマンスを成功させる千歌。
その千歌に対して「ありがとう。千歌」と語りかけるのは、「千歌」の行動そのものが果南を救ってくれたから...にほかありません。
「旧Aqours」を崩壊させた原因だと果南が思っていた「難解なパフォーマンス」。しかし、それは「果南でなくては出来ない」パフォーマンスなのだと、果南自身が「思い込んでいた」から。それもまた「自らの能力」を過信したうえでの「思い上がり」でもあったわけです。
けれども、それを「普通」の存在である千歌が、「努力」と「意志」を以て達成していく。そしてその「努力」と「意志」の根底には、果南が与えた「きっかけ」がある。
即ち、千歌がこのパフォーマンスを「成立」させることは、果南を縛っている「カセ」から「解放」する行為であると同時に、果南が拒否していた「過去」を一部「肯定する」意味をももたらせるわけです。
要するにこの「成立」を以て、果南は明確に「救われていく」。だからこそ、その「救い」を与えてくれた千歌に、「ありがとう」と告げるわけです。
また、このパフォーマンスの成立は同時に、今まで分断されていた「旧Aqours」と「新Aqours」とが「繋がっていく」きっかけにもなる。
結果としてこのパフォーマンスが2つのAqoursを「繋げた」ことで、Aqoursは前回超えられなかった「地方予選」という大きな壁をも超えていくわけです。
果南の「カセ」が解決する...ということは、分断されていた2つの「Aqours」が繋がり、一つになることも意味する。
故に果南の物語とは、2期において非常に重要であり、だからこそ果南は2期での「もう一人の主人公」に相応しいと感じるわけですね。
■松浦果南と「今」
2期6話をきっかけに自らを縛っていた「過去」から解放された果南。
彼女にとっての「スクールアイドル」としての物語は、実のところここで一旦の「終了」を迎えているのかもしれません。
かつて「面白そう」という理由で始めたように、果南にとって「スクールアイドル」という存在は「友人と一緒に楽しむもの」であって、それ以上の存在ではない。
12話で千歌に「ようやく終わると思うとせいせいする」と語ったのは衝撃的ではありましたけども、それは果南にとっては偽らざる本音の「一つ」なのかもなと思います。
「友人と一緒に楽しんで」「学生時代にしか出来ないもの」。
「スクールアイドル」とはそういう存在であり、そこに「永遠」を見出さない。
もちろん「ずっとここにいたい」とは思う。けれど「終わっていくこと」を知っている。だからこそ「この今」を「全力で楽しみたい」と語る。
12話で果南が語る「スクールアイドル観」。
それはどこか達観したものではありますが、そんな「今」を「愛せるようになった」のは、「過去」を受け入れる2期の物語があったからこそなのだと思えるのです。
ということで、松浦果南編でした。
正直かなり僕独自の見方が入ってしまっているので異論はあるとは存じます。その辺はぜひTwitter等でぶつけて頂ければと思います。
とはいえ、僕も正解は持っていないので議論するほか無いのですけども(笑)。
残りは二人。
次回梨子はもはや語り尽くした感すらありますけど、もう少し考えてみようかなと思います。今回も長々とありがとうございました!
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