Love Live!Aftertalk!

妄想をただ書き連ねる覚書。更新情報等はTwitterにてお知らせしております。

「夢」が持つ二面性に関して。~「勇気はどこに?君の胸に!」に関するぼんやりとした雑談~

考察とかではない雑談を。

今後はこういうフワっとした記事も書いていこうかなと思う。あくまでも当ブログでは「ラブライブ!」のお話に限るけども。

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!楽曲ソート」というのが公開された。

どんなものかといえば、要するに楽曲が2択で登場し、連続で選択していくと、最終的に個人的な「楽曲ランキング」が完成するという代物だ。

ラブライブ! サンシャイン!! 楽曲ソート

(ちょいと時間がかかるので、もしやる場合には時間のある時をおススメする)

じっくり考えて選択もしていけるのだけど、無意識下での率直なランキングを知りたくて、ほぼノータイムで選択してみた。

その結果はこれ↓

ノータイムチョイスしても、自然と上位曲が予想通りになるのが面白い。

上位曲に関して、それぞれのインプレッションを吐露しても面白いのかもしれないけども、それはまたの機会として。

今回は結果1位となった曲、勇気はどこに?君の胸に!に関するお話なんかをしてみたいと思う。

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「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター番外編 Saint Snow(鹿角聖良・鹿角理亞)】

皆様こんにちは、こんばんは。

前回大団円を迎えたキャラクター編なのですが(?)今回は番外編。

Saint Snowをお届けします。

1期ではAqoursの「ライバル」として登場。

2期では「もう一人の主人公」とも呼べる存在にもなった彼女達。

ラブライブ!サンシャイン!!」のキャラクターを総括する...という意味ではやはり彼女達の物語も総括する必要があるように思えます。

前回函館UCの感想と重複する部分もあるかと思いますが、これまでの物よりライトな内容になると思いますので、是非肩の力を抜いてお付き合い頂ければと思います。それでは参りましょう「Saint Snow」篇です。

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ラブライブ!サンシャイン!!無駄話 〇.5話(サブストーリー)としての函館UCのお話(という無駄話)

 皆様こんにちは。こんばんは。

キャラ編にひと段落ついた(まだ番外編があるんですけど)ので、ちょいと息抜きをしたいなと思い久々に無駄話を書いております。

たまにね。こういうのやらないと、脳がオーバーヒートしちゃうので。

さて、何について書こうか考えたんですけど、折角なので先日行われた函館ユニットカーニバルに関して思ったことをダラダラと書いておこうかなぁというテンションです。

現地には当然行けてないですし、LVも二日目のみの参加というヌルさですので濃い~話には当然ならないのですけど、こういう備忘録的な記事もたまに書いておくと後から見直す材料になったりますので。

ということで完全に自己満足でございますのでお気楽にお読み頂ければと思います。

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■函館ユニットカーニバルの役割のお話

これは指摘されている方も沢山いましたけど、恐らく「Saint Snow」を正式に「Aqoursのライブ」に登場して問題ない「存在」として「紹介」するためのライブ...だったという認識ですね。

2期楽曲を中心に披露することになる3rdLIVE。そこでは当然ながら2期9話挿入歌である「Awaken the power」が披露される。となると「Saint Aqours Snow」として11人が舞台に立つことになる。

もちろんアニメの文脈上ではなんら違和感のない登場なのですけど、とはいえ「中の人達のライブ」という要素もあるAqoursのライブにおいて、人によってはAqoursSaint Snowとが急に肩を並べることに違和感を感じるファンも少なからずいるかもしれない。そういう人に「違和感」を感じずにSaint Snowを受け入れてもらい、3rdライブを楽しんでもらえるための配慮。それがこのタイミングでのSaint Snow二人の投入だったと考えるのが自然かと思います。

(てくてくAqours 函館編も完全にそのプロジェクトの一環という印象です。)

あくまでも3rdで「Awaken the power」を披露するための「準備運動」と考えると、このライブで「Awken the power」を披露しないという判断も、まぁ当然なのかなぁとは思うんですよね。

(もちろん本編中に函館で披露した曲なのだからやって欲しいという思いも分かるので、個人的にはなんとも言えないんすけど。)

「ユニットカーニバル」という試みになったのは、もちろんSaint Snowの曲数が3曲しかなくって、Aqoursとでは平等なセトリにならないから...という非常に現実的な理由なのでしょうけど、結果的にこの判断が新しい可能性を示してくれたなぁと思います。

ある種アニメと完全に離れた存在である「ユニット」を全面に押し出したライブを組むことでどうしても本ライブでは印象が薄くなりがちなユニット楽曲にもしっかり焦点があたる。そうすることで「あぁ、ちゃんと聞いてなかっけどこのユニットの曲好きだなぁ」と気づくファンがいるかもしれない。そうすると今まで「ユニット曲はいいや...」と思っていたファンを、新たな購買層として取り込めるかもしれない。そういう「既存ユニット曲」の品評会としても機能している感じがしたんですよね。

とか言うと「またファンを金ヅルにして!」と怒られちゃうかもしれないですけど。まぁでもこのプロジェクト、「趣味」ではなくて、きちんとした「商売」なんでね。こればっかりは。

あと同様の理由でA-RISEは本ライブには登場する余地が無かったんですけど、こういう形であればもしかしたら今後彼女達も「僕たちの前に姿を見せてくれる」可能性が広がったわけじゃないですか。

これってめちゃくちゃワクワクしますよね♪

μ'sはもちろん、A-RISEの楽曲が好きだった人も沢山いるわけで(当然僕もそうです)。でも彼女達のライブはそういう諸々の事情で見られなかった。けれどそれを受け入れる「枠」がこうして生まれた。

それは「プロジェクト ライブライブ!」という視点で見ても、とても有意義なことなんじゃないかなぁと思うのですよね。

 

■ライブ本編の感想のお話

いやぁライブは当然むちゃくちゃ楽しかったです。

それぞれのユニットの個性と、それの更なる発展がしっかり表現されていて、その進化を楽しめたのも良かった。

3曲構成という縛りのために発生するMCタイムも、ユニットそれぞれの個性が出ていて良かったです。普段のライブでも同じようなことはやっていますけど、それが更に発展した形を見せてもらえたというか。

あと、通常ユニットにありがちな「台車での移動」が会場の都合上なかったので、今まできちんとダンスをみたことない曲のダンスとかをしっかり見られたのも良かったです。

個人的に面白かったのは「海岸通りで待ってるよ」ですかね。

この曲初めて聞いたときはまるで刺さらなかったのですけど、2ndライブで見て「悪くないな」と思った曲で。

今回は前述のような事情で全て舞台上で完結させる流れだったわけですけど、楽曲に併せてコロコロ変わる3人の表情が楽しめて、とても良かったです。こういう時やっぱり彼女たちの「役者魂」みたいなものを感じちゃって感心しちゃうんですよね。

 

あとはなんといってもSaint Snowなんすよね。

この二人のパフォーマンスの素晴らしさは、公演終了直後に散々Twitterで話散らかしたので、もうここに書く事は無いんですけど(おい)。

当たり前ながら凄まじい緊張とプレッシャーに晒されながらだったと思うんですけど(とはいえ僕が見たのは二日目でしたので、一日目よりはリラックス出来ていたと思うのですが)、そんなプレッシャーを敢えて「受け入れて」、自分の力に変えながらパフォーマンスしていたことに強烈に感動してしまいました。

もちろんお二人とも芸歴でいえばとても長くって、舞台というものには慣れているのでしょうけども、とはいえ「ラブライブ」というコンテンツのライブに挑むのは当然初めて。しかも「Saint Snow」というユニット自体にも相応の思い入れがある。自分達の思う「Saint Snow」を全力で表現する。その中で「どんなもんじゃい」と思っている観客を「納得」させなくてはいけない。ただ無難にライブをすれば良いのではなくて、観客の目の前に「Saint Snow」の二人を「現実」として「登場」させなければいけない。

そういう2.5次元のライブ故の難しさは当然僕らには分からない。だからこそ、お二人が1曲目である「DROP OUT!?」からバッチリとそれを表現してくれたので、僕は思わずウルウルしてしまいました。

「あぁ、Saint Snowがいる...。」と思ったら、ジワっと目頭が熱くなりましたよ。普段ライブで滅多に泣かないので、自分でもびっくりしましたけど(笑)。

もちろん、アニメ内の二人がそこにいるだけではなくて、当然中の人である田野アサミさんと佐藤日向さんが時折キャラクターを超えて「顔を出す」瞬間がある。

田野さんが聖良がやらないであろうレベルのシャウトを聞かせてくれたり、ラップパートでは佐藤さんがきっちりライムを刻みそうな理亞とは違って、気持ちをぶつけるようなライミングを聞かせてくれた時には、明確に「中の人」である二人の、このライブにかける「気持ち」が放出させている感じがして、ここでも不覚にも感動してしまいました。

あぁ、こうやって「中の人」が意図せずオーバーラップして、作品とキャラクターに新たな可能性を与えていく。そうやって相乗効果のように作品そのものの価値を高めてくれるのが僕が「ラブライブ!」を好きな所なんだよなぁ...と改めて思ってしまったんですよね。

だからまぁ「Awaken the power」をやろうがやるまいが、僕にはあんまり関係無いというか。しっかり想像以上に「最高なライブ」を彼女たちが見せてくれたので、本編だけで十分おなかいっぱいでした。

アンコール有る無しの話もありましたけど、ここまできっちり完成されたライブ本編を見せてもらえたら、別にアンコールは無くても良いと思いました。

ま、そもそもアンコールというのは「演者のサービス」に過ぎないものなので、それを求めるのが当たり前になってしまっているのは、僕たち自身もちょっと考えなければいけない現状なのかもしれませんけども。

 

Saint Snowのサブストーリーとしてのお話

これはまぁ完全に余談なんですけど、本ライブを見ていて思ったのは、このライブが「アニメ本編のサブストーリー」としても機能しているんではないかな?という感覚で。

特にSaint Snowの物語を考えるうえでは重要だと思うのですよね。

Saint Snowは2期では地方予選決勝の舞台で「DROP OUT!?」を披露するも理亞の転倒によってパフォーマンス失敗。それが原因となって敗退してしまった。そしてそれ以降はSaint Snowとしてライブはやっていなかった。

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すなわちSaint Snowの時間というのは、あの「DROP OUT!?」で止まってしまっているわけです。

ここで本ライブのセトリなのですけど、Saint Snowはトップバッターで出演し、「DROP OUT!?」を披露しているんです。即ち止まっていたSaint Snowの時間がこのライブからまた「動き出した」という風にも取れるんですよね。

実際僕はイントロを聞いた瞬間に、あの8話がフラッシュバックしましたし、故に本編中にあの曲が「止まった場所」を超えた瞬間に、「Saint Snowの時間が動き出した」と感じたのです。

本公演のセトリを「if」と表現する方もいらっしゃって、それはそれで面白い考え方だなと思うのですけど、僕がどちらかというと、このライブは2期の時間軸に沿って存在するもののような気がして。

完全に妄想ですけど、なし崩しで「解散状態」になってしまったSaint Snowがきっちりと「終わる」ために用意されたライブなのかなと。

理亞だけでなく、聖良が次へと進むために、きちんと「Saint Snow」という存在そのものを彼女達自身が「肯定」した上で進んでいってほしい。

2期9話で千歌たちが話していた「サプライズ」に、その内容も含まれていたら...?と考えたらちょっと暖かいなぁと思ってしまったのです。

もちろん妄想ですけども(笑)。

でもそう考えると、彼女達の3曲の並び順もとても意味のあるものに思えて。

DROP OUT!?」で再び動き出した時間は、歴史を辿るように過去の楽曲へと戻っていく。これはまるでAqoursにおける「WONDERFUL STORIES」にも共通する流れで。

自分達の「過去」を見つめながら、その時その時の気持ちをもう一度確認し、そうすることで自分達自身の「過去」を「肯定」していく。

そして最終的には「SELF CONTROL!!」へとたどり着く。

正直彼女達にとってまだ「青臭さ」を残すような、萌芽の楽曲なのかもしれない。

けれどもスクールアイドルを始める時に誓った気持ち、Saint Snowの「原点」といえる楽曲である「SELF CONTROL!!」を、Saint Snowが「終わる」最後の瞬間に歌う。

そうして自分達の「全て」を「肯定していく」。そう考えると、とても胸が熱くなって。

届かなかった願いという「現実」は、はっきりとあって。

けれどもそれを願ったこと、願って手を伸ばした事実は消えないし、その「思い」自体はとても大切なものなわけです。

もちろん叶わなかった今、そこにもう一度向き合うのは辛いかもしれない。けれど敢えて「今」そこに向き合って、あの日の「感情」そのものにも向き合う。歌詞を歌う。そうすることで当時の自分達をやはり「肯定」していく。

「特別」を目指した自分を。

「真剣」を誓った自分を。

「恐怖に打ち勝つ」と決めた自分を。

そのために「努力する」と決めた自分を。「努力した」自分を。

「最高」と言わせると決めた自分を。

その全てを「肯定」していく。

そうやってSaint Snowという存在そのものが、彼女達自身によって再度肯定され、その力強い肯定を経て、我々も彼女達の言葉に応える形で彼女達を「肯定」していく。

 

ラブライブ!サンシャイン!!」とは「肯定の物語」だと僕は思っています。

それはあらゆる「在り方」「考え方」を許容し、肯定していくということでもある。

正直前作「ラブライブ!」において、A-RISEは最終的にμ'sの思想に「同化」していく要素があって、もったいなさを感じていた部分もありました。

そういう意味では、Saint Snowは更にその先に進んだような気がしていて。

少なくとも彼女達はAqoursの考え方」を受け入れた上で、「自分達の在り方」を最後まで捨てないことを選んだ。その象徴が最後に「SELF CONTROL!!」を歌うということに象徴されているように思うんですよね。

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田野アサミさん、佐藤日向さん。お二人の熱く素晴らしいパフォーマンスも相まって、この「SELF CONTROL!!」をもって本当の意味で「Saint Snow」がしっかりと「終わり」を迎えることが出来たことが何よりも嬉しかったと言いますか...(まぁまだ3rdに登場するわけですけども笑)。

ちょっと綺麗にまとまらないのですけど、兎にも角にも僕はそこに一番感動してしまった...というお話なのでした。

 

 

ということで、函館UCの感想(というよりもSaint Snowをすこれ!という記事)でした。

いやはや、これを機会にぜひユニット楽曲を聞きこんでいただきたいですし、何よりもSaint Snowをもっと聴いていただきたいし、僕自身も更に聴きこみたいなと思っちゃいましたよね。。

特に「SELF CONTOROL!!」は1期OSTにしか収録されておりませんので「サントラまではちょっと...」と思っているそこのアナタ!ぜひご購入をご検討くださいませ♪(というダイマ)

なんとなく散漫としておりますが、こんなところで本稿を締めたいと思います。

ありがとうございました!!

Awaken the power (特典なし)

Awaken the power (特典なし)

 

 

「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター編⑨ 高海千歌】

 「普通」の私の日常に 

突然舞い降りたキセキ

何かに夢中になりたくて... 

何かに全力になりたくて...

脇目もふらずに走りたくて...

でも何をやっていいか分からなくて...

燻っていた私の全てを吹き飛ばし

舞い降りた

それは...

その「輝き」は____

 

...皆様こんにちは、こんばんは。

ちょっと前回から間が空いてしまいました。すみません。

さて、本シリーズもこれが一応のラスト。

TVアニメにおける主人公・高海千歌編をお届けします。

千歌は物語においても主軸となる人物。

彼女を総括するということは、物語そのものを総括することにもなると思います。

ただし、そうなると脱線し続けてしまう危険性があるので、こと千歌に関してはいつもとは少し違って、一つの「キーワード」を巡る彼女の「変遷」から紐解いてみたいなと考えています。

その「キーワード」とはもちろん「輝き」です。

千歌が度々発する言葉でありながら、その「意図」が明確にされなかった言葉。

しかし高海千歌を語る上では、決して外すことの出来ない言葉でもあります。

というわけで、本シリーズとしては珍しいスタイルになってしまいますが、今回は千歌と「輝き」に関しての一点突破で考えてみようと思います。

 正直私自身かなり思い入れの強いキャラクターなのでどう転んでいくか未知数でもあるわけですが。。暖かい気持ちでお付き合い頂ければ幸いです(笑)。

それでは参りましょう、高海千歌編です。

毎度毎度ではございますが、本稿は筆者の妄想に近いものであり、公式の設定等の裏付けが無いものがほとんどです。予めご了承の上でお楽しみ頂ければと思います。

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高海千歌と「自己評価」

千歌と「輝き」。その関係性を考えるにあたって、まずは「スクールアイドル」と「出会う前」の千歌を想定しつつ、TVアニメ1期開始段階における千歌にとっての「輝き」とは何だったのかを考えてみたいところです。

自らを「普通星の普通星人」と自称する彼女。何をやっても突き抜けず平均点。特段夢中になれるものもない。けれども「自分の全てをかけて夢中になれるものを見つけたい」そんな思いだけはある。

「夢中になれるもの」を探して様々な物事に挑戦するものの、結局は「特別」にはなれなくて。それが本当は悔しいのだけど「悔しくない」フリをして。そうやって興味の対象を移していく中で与えられた「飽きっぽい子」というレッテル。

けれども本当はそうではなくて、「本気で夢中になれるもの」を探しているだけ。「それ」と出会うことが出来れば、自分は「普通星人」を脱して、「特別な輝きを手にした人」に変われるのだと本気で信じているから。

「普通の自分」を「特別な存在」へと変えてくれる力。

それこそが1期開始当初の千歌にとっての「輝き」と言えるかもしれません。

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さて、この千歌の状況を逆説的に考えると、千歌は「輝き」を常に「手に入れるもの」ないしは「外的要素によって与えられるもの」だと認識していた...という事実も見えてきます。

「自分が夢中になれるもの」を見つけて、それに全力で打ち込むことでやがて手に入れられるもの。それこそが千歌にとっての「輝き」である。

なぜ千歌がこのような発想に至っているのか...。それは千歌が自分を「普通」で「魅力のない人間である」と考えている...という前提があります。

一見分かり辛いのですが、千歌という子はとても「自己評価の低い」女の子です。彼女は自分を「普通」と呼称しますが、千歌の使うこの「普通」は、我々の考える意図よりも更に「低い」意味で使用されている節があります。

千歌は自分自身を「何のとりえもない、何の面白みもない人間」であると考えている。だからこそ自分自身の中にはそもそもとして「輝き」は存在しないと考えている。だからこそ外的な要素によって「輝き」を手に入れなくてはいけないと考えている...ということが理解できます。

なぜ千歌がここまで「自己評価の低い人間」になってしまったのか...に関しては裏付けが難しい部分です。

限られた情報から想像するのであれば、その要因の一つには「挑戦と失敗」というものがあるように思えます。

元々「自己評価が高くない」子であった千歌。そんな千歌に「挑戦することの意味」を教えたのは幼馴染の果南でした。

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近所の浅瀬にすら飛び込めない消極的な少女だった千歌に「今やらないと後悔するよ」と語った果南。もちろん、そこまで大きな意味をもった言葉ではなかったかもしれません。しかし結果的に千歌は果南の言葉に背中を押される形で海に飛び込み、その後は「何にでも挑戦する」女の子へと変わっていきます。

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(完全に余談ですが、この時の千歌には”勇気”を象徴するアイテムである”リボン”がありません。そこからも”勇気”自体は千歌が後天的に手に入れた要素であることが象徴的に描かれているようにも思えます。)

しかしその「挑戦」がどのような「結果」を生んだのかは周知の通り。結果的に「数多の挑戦」は「数多の失敗」を生み。

千歌は「成功体験」を積めないまま「今」に至ってしまいました。

「挑戦」の末与えられた「数多の失敗」という「結果」。

これが千歌自身の「過度な自己評価の低さ」の原因にもなっているように思えます。

 

また、もう一つ千歌が自分を卑下する要素があるとすれば、それは幼馴染である果南と曜という「人的要素」にもあるのかもしれません。

果南は幼い頃から「やりたいこと」をしっかりと持っている子でしたし、曜は「なんでも器用にこなせる」子。

近くにいる二人と「同じようになりたい」と思いながら、「そうなれない」日々は、もしかしたら千歌に不必要な「劣等感」を与えてしまったのかもしれません。

もちろん、果南や曜には罪はないわけですが、そんな事情も高海千歌という人の「自己評価の低さ」に繋がっているようにも思えるのです。

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よく「ラブライブ!」シリーズという意味で前作の主人公「高坂穂乃果」と並んで比較されることも多い千歌。しかしその本質は穂乃果とは全く別物です。

穂乃果もまた「普通の子」ではありましたし、そのことに自覚的でもありましたが、彼女は自分が「普通」であることに劣等感は持っていませんでした。即ち「自己評価」に対しては、とてもフラットな状況で「スクールアイドル」を始めた。

けれども千歌は自己に対する圧倒的な「マイナス評価」を抱えた状態から「スクールアイドル」を始めている。

「面白そう」という理由だけではなくて、その活動を経て「輝きを手に入れたい」という「劣等感を背景にした切望」をもって「スクールアイドル」に挑んでいる。

しつこいようですが千歌にとっての「輝き」とは「手に入れるもの」である。

その前提を頭に入れて頂いた上で物語を再度読み解いていくと、千歌にとっての「物語」、そして「輝き」の「変遷」について、より理解が深まるように思うのです。

 

高海千歌と「成功体験」

千歌が抱える「自己評価」の低さ。その理由の一つは、前述した通り「成功体験の少なさ」によるものと考えられます。

「何かをやる」ことで得られる「達成感」。それに基づく「成長」。

それは「自己肯定」していくために「必須」のものです。しかし千歌には「成功体験そのもの」がほとんどない。

この「自己評価の低さ」は千歌というキャラクターにとっては明確な「カセ」となるもの。となれば千歌はこの「カセ」を超越していく必要があります。

上記を踏まえれば、千歌にとっての1期の物語とは、「成功体験を積むことにより、自己肯定することが出来るようになる」までを描いた物語なのでは?とも考えられるわけです。

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1期の物語をザックリと振り返ってみましょう。

1期において千歌がAqoursとしての活動を開始する動機は、彼女がこれまでの人生において繰り返してきたものと同じ。

「挑戦」をすることで、そこから派生する「輝き」を手に入れたいというもの。

千歌の中には明確な形として存在する「輝き」という概念。しかしそれはグループのメンバーにはフワっとした形でしか共有されていないもの。

そんな「曖昧な動機」を抱えた千歌が率いるグループ故に、Aqoursは「何かをやりたい」「何かになりたい」という「やる気」だけはあるものの、はっきりとした「活動の動機」が無いグループでした。

その「動機の無さ」が白日の下で明らかにされてしまうのが1期7話・8話。

夢で夜空を照らしたい」のPVが好評だったことを受けて参加した東京でのライブ。客席からの人気投票で順位が決まるイベントにおいて、Aqoursはなんとダントツの最下位。得票は驚くことに「0」。

惨敗を喫し、同年代のグループであるSaint Snowからも厳しい評価を突きつけられます。

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Aqoursの敗戦の理由は明確ではありません。ただしSaint Snowの言葉からは「スクールアイドルとしての動機の薄さ」が指摘されていたようにも思えます。

「μ'sのようになりたいのかもしれない」「けれどもそれだけでは厳しいと思う」

「憧れる」だけではなく「なぜ自分がスクールアイドルをやるのか?」その意思を見せてほしい。聖良の言葉にはそんなメッセージが込められているように思えます。

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千歌個人の切実な事情は置いておいても、前述のような「曖昧な動機」を抱えてスタートしたAqoursというグループ。個々人の思惑はあったとしても、グループとしての「動機」や「意思統一」が無いままここまで来ていたことも事実です。

その問題点を的確に見抜かれた上での「批判」と「結果」を、端的且つ残酷な形で与えられてしまった千歌。

その強烈な「敗北感」に打ちのめされてしまいます。

幼馴染の曜ですら想定していなかったレベルで傷付いた千歌でしたが、内省し、己の気持ちを梨子にぶつける中で「Aqoursの活動目標」を見出していきます。

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「なぜ自分たちは0という評価を受けたのか」

与えられた残酷なまでの「結果」への煩悶。

しかし、実のところそれは千歌自身の「これまで」にも跳ね返ってくる問いかけです。

「特別」になりたくて、「輝き」が欲しくて、これまで様々なものに挑戦してきた千歌。しかしその度に千歌に与えられたのは「何にもなれない」という「結果」。

即ち「0」でした。

けれど千歌はその「0」の理由を検証することはしてきませんでした。

なぜこれまで検証してこなかったのか。それは2期13話の母親の言葉を借りれば「本当は悔しいのに、周りの目を気にして、諦めたフリをしていた」から。だからこそ「0」に立ち向かう瞬間がついぞやってこなかった。

けれど今回は違った。これまでとはまるで違う感情が千歌に押し寄せたからです。

「頑張ったはずなのに。一生懸命やったはずなのに。なぜ自分たちは、いや自分には0しか与えられないのか。」

その事実を初めて「くやしい」と表現した千歌。

それはこれまで「周りの視線」を優先して「諦めてきた」どんなものとも違って「スクールアイドル」に真剣に取り組んできた矜持と、これからも続けたい気持ちがあるからこそ。

こうして今まで「0」から目を背け続けた千歌が、その「0」に真正面から「挑む時」。千歌は明確に「カセ」を乗り越えるきっかけを経て、成長を遂げます。

彼女自身が「0」に向き合う中でようやく見つけた「動機」。

それは「0を1にすること」。

その思いがこれ以降Aqoursを強くし、「0から1ヘ!」はAqoursそのもののスローガンにもなっていきます。

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「0」のものを「1」にする。それは何も自分達の得票に関わらず、自分達が関わる全てのものに関係していきます。当然「学校説明会への応募者」もその例に漏れないわけです。

そして1期ラストの13話では遂に「0を1」にしてみせる。

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放送直後には「学校の入学希望者を1名に増やしたからなんだっつーの?」などという心無い感想も見かけました。しかし、この数字はあくまでも「メタファー」に過ぎないわけです。大事なのは「学校の入学希望者が1名に増えた」事なのではなくて、千歌が「0」に立ち向かう中で見出した目標である「0を1にすること」がこの時遂に「達成された」という事実なわけです。

これまで一切の「成功体験」を経験したことがなかった千歌が、遂に手に入れた「成功体験」。それこそが「0を1にすること」なのです。

そしてその「成功体験」が「MIRAI TICKET」の世界観へと繋がっていく。

自分のことをまるで肯定できなかった1人の少女が、たった一つの「成功体験」を経て、自分の中から溢れ出す「願い」とその「価値」を「肯定することが出来るようになる」。

それが「ラブライブ!サンシャイン!!」1期のメインテーマでもあるのだと思うのです。

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こうして千歌が遂に手にした「成功体験」。これによって千歌は自分への「過小評価」を正し、以前よりも自分を「肯定」できるようになる...

わけなのですが、反面この「成功体験」が二期においては千歌にとっての「課題」へと変わってもいくのです。

この重層的なシナリオ構造もまた「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品の素敵な所ではあるのですが...同時に難解な部分でもあります。

 

高海千歌と「呪縛」

1期で遂に「0を1にする」という「成功体験」を手にした千歌。

千歌を「自己評価の低さ」という「カセ」から解放し、「自己肯定」へと導いた「成功体験」。

しかしこの「成功体験」を胸に生み出した「MIRAI TICKET」では予選突破を果たせず。その結果を受けて、千歌はまたしても「迷い」を胸に一つ抱えることになります。

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「輝きは心から溢れ出す」。

「自己肯定の中」から生み出した新たな「輝き」の解釈。その思いを乗せた楽曲が結果的には「否定」されてしまった。それ故に千歌は「輝き」の正体をまたしても見失ってしまう。

「輝きってどこから来るんだろう。」

再びその悩みへと迷い込む中で、千歌を支えることになるのが「成功体験」です。

ラブライブ」で勝利するための方程式はない。

けれども自分を「カセ」から解放した「成功体験」はある。それは学校の入学希望者を「0から1」に増やしたこと

千歌が欲しているのは「輝き」。「ラブライブで優勝する」ことも「学校の生徒数を増やして学校を統廃合から救う」ことも同じだけの「輝き」を与えてくれるのだとすれば、「成功体験のある方」を感覚的に重視してしまう。

2期において急激に「学校の統廃合問題解決」に向けて積極的になったように映る千歌。

もちろん2期1話においてその課題が急激に進展してしまった...という事情はあるのですが、千歌個人の背景を辿るとその裏には「成功体験」に基づく「数字への依存」もあるのではないか?とも想像出来てしまうのです。

これまで「成功体験」を得た事が無かったからこそ、今度はその「成功体験」に依存してしまうようになる。そしてそれが千歌にとっての「呪縛」になってしまう。

1期においてのメインテーマが、今度は主人公を縛り付ける「新たなカセ」へと反転していく。こう考えると素晴らしい構成だなと唸らされます。

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2期において千歌たちが常に気にし続ける「入学希望者数」。

現実的に考えれば内浦という地方の女子高の入学希望者が彼女たちの頑張りだけで爆発的に増えるわけがない。けれどもその「数字」を盲信し、そこに全てを賭けようとしてしまう。そこには「成功体験に基づく呪縛」の影響を感じてしまうのです。

 2期7話「残された時間」では最後の最後まで抵抗を見せるものの、入学希望者は「98」で止まり、浦の星女学院は正式に「統廃合」における「廃校」となることが決定してしまいます。

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この結果に最もダメージを受けたのは他ならぬ千歌でした。

すっかり沈んでしまった千歌は、自らが率先して進めてきた「ラブライブ優勝」への道筋も、「Aqoursとしての活動」すらも放棄しようとしてしまいます。

ラブライブなんてどうだっていい!学校を救いたい!!」

「学校を救えなかったら、輝きも手に入らない。」

千歌のこの台詞にショックを受けた人も少なくないと思います。

しかし、この言動は「数字」とそれに基づく「成功体験の呪縛」を強く受けているからこそのものだと考えれば、ほんの少しだけ納得がいくかもしれません。

もちろん「学校を救いたい」という純粋な気持ちもあっての発言ではあります。

けれども自分を支えてきた「成功体験」が「否定」される中で千歌は「輝き」への道筋をも閉ざされたように感じた。

だからこそ全てを投げ捨ててしまいたくなるほどに「絶望してしまう」のではないか?とも推測できるのです。

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「数字」に基づく「成功体験」を得られないのであれば、どうやって別の「成功体験」を作れば良いのか。唯一の「成功体験」が否定されたからこそ、千歌の思考もまた停止してしまうわけです。

(統廃合問題にスクールアイドルとしての成功を重ねてしまうのは、μ'sの呪縛でもあるのでは??とも考えているわけですが、それに関しては2期7話記事をお読みいただければと思います。)

しかしそんな千歌を「呪縛」から解き放つのが浦の星女学院の仲間たち」です。

「生徒数を増やして学校を統廃合から救う」だけが「学校を救う方法」ではない。

ラブライブで優勝」して、「学校の名前をラブライブの歴史に刻む」。

そうすることで「浦の星女学院の名前」を「永遠」にすることが出来る。

それもまた「学校を救うこと」なのだと語ります。

そして、それは「千歌たちにしか出来ないこと」なのだとも告げる。

浦の星女学院スクールアイドル=Aqours」にしか出来ないことなのだと告げる。

そして極め付けにこう言うのです。「輝いて!」と。

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盲信してきた「数字」に基づく「成功体験」と、それを達成することによって初めて「輝き」を得られるのだ...という千歌の思考。

それを根底から覆す仲間たちの「提案」。

それは「スクールアイドル=Aqours」の「輝き」を客観的に受け止めた彼女達だからこそ伝えられる言葉なのかもしれません。

学校を統廃合から救えないのだとしたら「スクールアイドルをやる意味がない」と語る千歌の言葉を否定し、「スクールアイドルである千歌」の存在を全力で「肯定」する。

それは「スクールアイドルである千歌」にしか作れない「輝き」があるから。

その「肯定」は千歌が「スクールアイドルとして過ごしてきた過去」を肯定することに繋がり...。

そして千歌が「スクールアイドルとして輝きを目指すこと」を肯定することにも繋がっていくのです。

その「肯定」によって千歌は「数字」という呪縛から解放される。

「スクールアイドル」として「輝き」を目指すこと。それが「学校を救う」ことにも繋がるのだとすれば、もはや「数字」は「輝き」を目指す上では絶対的な価値を持つ存在ではなくなる。

唯一の「成功体験」故に神格化されていたものの価値をリセットすることで、千歌はもう一度「フラット」な立ち位置へと戻っていく。

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こうして「成功体験」に紐付かない「輝き」への道程に再び挑むことになる千歌。それは図らずしも「1期の千歌の状態に戻ること」を示してもいます。

即ち、再び「0」へと歩みを戻し「1」へと挑む...ということ。

けれども彼女「戻ること」を恐れません。それは彼女が既に一度「成功体験」を経験し、それによって自分を「肯定できる」ようになっているからでもあります。

「起きること全てに意味がある」

それは2期におけるメインテーマでもあるわけですが、ここでは「過去の経験」が千歌の背中を強く押すことになる。例え状態が過去に戻ったとしても、「経験が息づく」限り人格そのものが過去に戻ってしまうわけではないからですここもまた千歌の物語を考える上では重要なポイントになっていく要素だと思います。

 

高海千歌と「手に入れたもの」

「起きること全てに意味がある」

「スクールアイドルとしての自分」を他者から肯定されることによって、「スクールアイドルとしての自分自身」を改めて「自己肯定」できるようになった千歌。

千歌はその「肯定」によって「スクールアイドル」としての自分にも絶対的な「自信」を持てるようになります。

その「自信」は「唯一の成功体験」の根底にあるもの=「得票0の結果用紙」を手放すきっかけをも与えていきます。

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「0を1」にすること。その「願い」を持つきっかけとなった「0の用紙」。

それは千歌にとっては、「数字に基づく成功体験」信仰の根底となる一種の「お守り」でもあり、「呪縛」の「根拠」でもありました。

千歌が「成功体験」を欲したのは「自分を肯定していく」為でした。

しかし「スクールアイドル活動」を通じて「他者からの肯定」を手に入れた千歌にとっては、今やこの「成功体験」も「過去のもの」となりました。

だからこそ千歌はこのタイミングで「0の用紙」とも「お別れ」が出来るのかもしれません。

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 自分に強烈な「痛み」を与えた用紙。それでもその「痛み」は「今」へと繋がる貴重な「痛み」でした。だからこそ、千歌は風へと運ばれていく用紙に「ありがとう」と呟くのでしょう。

自分を縛り付けていた「呪縛」から本当の意味で解き放たれる事で、千歌は遂に「スクールアイドル」として「唯一無二」の存在に変化していきます。

それを象徴するように、決勝の舞台に立つ千歌には、普通の象徴である「クローバー」も、勇気の象徴である「リボン」もありません。

真っさらな、ただの「スクールアイドル=高海千歌」として「スクールアイドル」にとっての一番大事な舞台に立つことが出来る。

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その姿からは「スクールアイドル=高海千歌」の完成形を見るのと同時に、彼女がハッキリとスクールアイドルとしての「輝き」を手にした事実を実感することができます。

彼女が手に入れたかった「スクールアイドルとしての輝き」。2期12話において千歌は遂にその「輝き」を手に入れたのです。

 

高海千歌と「輝き」

浜辺にたなびく優勝旗。

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「スクールアイドル」として目指した「輝き」も、浦の星の仲間から告げられた「輝き」も、その両方とも手に入れた千歌。

しかしその表情は優れません。

ラブライブ優勝と共に「輝き」は手に入った。しかし結果として浦の星女学院は無くなった。3年生は卒業と同時に内浦を離れ、Aqoursもまた自然解散となった。

手に入れたはずの「輝き」を象徴するものは「優勝旗」だけ。他には何も残らなかった。

その事実に漠然とした「空しさ」を感じているようにも見えます。

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千歌にとって「輝き」とは「手に入れるもの」だった。それは一度手にしたら自分と同化し、自分もまた「永遠に輝く人」になれるはずだった。

けれども、今優勝旗を目の前にした自分は、「スクールアイドル」を始める前の自分と何も変わっていない気がする。

輝きを確かに手に入れたはずなのに、何も変わらない「自分」。

だからこそ千歌はそんな現状にある種「絶望」しているのかもしれません。

 千歌にとって終始「手に入れるもの」であり「外的要素」だった「輝き」。

自分には無いものだからこそ「手に入れる」ことで、「自分を輝かせてくれる」はずだった「輝き」。

しかしそれを実際に手に入れてみたところで一向に「自分自身」が輝いていかない。

ここで分かるのは、千歌にとっての「スクールアイドルとしての輝き」は、あくまでも「手に入れた物」に過ぎず「自分自身の輝き」とは別物である...ということ。

また「学校の名前を永遠に刻む」という「輝き」もまた、「スクールアイドル」としての「輝き」の延長線上にあるものなので、「自分自身の輝き」とは認識できていない...ということも分かります。

 故にここで重要になるのは、家族による千歌への「評価」なのだと思います。

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千歌が「あそこにあったんだよね?私たちの輝き...。」と「優勝旗」に重ねる「自分の輝き」。それを家族は「否定」します。

千歌は元々「負けず嫌い」だった。けれども「周囲の目線を気にして」その「要素」を隠していた。

だから千歌は本質的には、昔から今に至って「特別変化していない」と評価する。

そして元来千歌は、「自分の可能性を捨てないで、何度でも挑戦し続ける特性」を持った人であり、それこそが千歌自身の「輝き」なのだとも「評価」する。

そうすることで千歌の「自分自身には輝きは無く、自分はスクールアイドルとして優勝することで輝きを得たのだ」という認識を「否定」する。

そうではなくて「千歌は本質的に輝きを持っていて、スクールアイドルとの出会いは千歌のその本質敵な輝きを開花させたに過ぎないのだ」という評価を千歌に与える。そしてその価値観を視聴者である「我々」にも共有する。

そうすることで、幼少時代を含めて千歌が「頑張ってきた過去」全てが「肯定」されていき、「スクールアイドルとなる以前」の千歌本人が「輝き」を持っていたこと自体も「肯定」されていくのです。

即ち千歌本人の中に元々あった「輝き」そのものが、この会話を経て「肯定」されていく。

そしてそれだけではなくて、千歌が本来持っているもう一つの「輝き」

「常に新しいものに挑戦していくこと」をも「肯定」されていくのです。

千歌が「自分には何もない」と思ったからこそ続けてきた「挑戦」。

それもまた千歌個人が持った「輝き」として「肯定」されていく。

何度飛ばしたとしてもやがては落ちてしまう紙飛行機。しかし、それは逆に考えれば「飛ばそうという意志」を以て「飛ばし続ける限り」は本当の意味では「落ちないもの」でもあります。

そしてそれは千歌という人そのものの「メタファー」でもあるわけです。

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飛んで行った先で「落ちる(0に戻る)」と分かっていたとしても飛び続ける。そして「0」になった先でまた「1」を目指して飛んでいく。

そうやって常に未来に向けて「希望を描いていく」こと、その行動をもって「輝いていく」こと。

夜空に留まって光り続ける「光」になるのではなくて、常に動き、その姿を以て誰かの心に「希望」を巻き起こす「光る風」になること。

それこそが高海千歌の「輝き方」なのだと思うのです。

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そんな辛い「輝き方」ってありなのか?と思われるかもしれません。

けれども僕らは大概千歌と同じ「輝き方」を目指すしかない。

「普通」の自分を受け入れた上で、それでも勇気を振り絞って「自分の可能性」を信じて、「未来」に向けて自分を「投げ続ける」。

その中から生まれるかもしれない「輝き」を。

その「輝き」を見た誰かが「次代」にその「輝き」を繋いでくれることを。

それだけを「信じて」、ひたすらに、真っ直ぐに、ガムシャラに生きていくしかない。

それだけが「普通」の僕たちに残された、唯一の「輝く方法」であり、「戦い方」なのだと思うのです。

そしてそんな「戦い方」を僕らに伝えてくれるからこそ、千歌は「無慈悲な現実に戦いを挑む勇気ある人々の物語」である「ラブライブ!サンシャイン!!」において、「主人公」といえる立ち位置を得ているのだろうとも思うのです。

 

...ということで高海千歌編でした。。

いやぁこれは難産でした。正直丸で納得はいっていませんけども、とりあえずなんとか形は整えられたかなぁとは思っています。。

うーん、書き足りなかった所は何かで補てんするか、2期総括で埋めるようにしますね。

さてキャラクター編はこれでお終い.........

 

 

 

って思いますよね?

ところがあと少しだけ続くんじゃ。

 

次回

「キャラクター編は遊びじゃない!!」

お楽しみに。

 

 

 

「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター編⑧ 桜内梨子】

皆様こんにちは、こんばんは。

今回はキャラクターコラム「桜内梨子編」をお送りして参ります。

2期考察では梨子に触れる機会も多く、もはや「やりつくした感」もあるのですが...。

とはいえ、今一度これまでの記事の内容などを踏まえつつ、私なりに「桜内梨子というキャラクター」と「2期の物語」の「相関」を総括してみたいなと思います。

毎度毎度ではございますが、本稿は筆者の妄想に近いものであり、公式の設定等ではございません。予めご了承の上でお楽しみ頂ければと思います。

それでは参りましょう、桜内梨子編です。

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桜内梨子と1期

1期においては千歌と共に物語の「根幹」を担う存在だった梨子。

「スクールアイドルは自分でオリジナル楽曲を作曲しなくてはならない」

そんな高いハードルを突破するために舞い降りた「奇跡」。彼女の存在が無ければ、「新Aqours」の物語は動き出すことが出来ませんでした。

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しかし当時の彼女は「音楽を作り出すことが出来ない」状態。

音ノ木坂学院に「音楽特待生」として入学しながら、コンクールで良い結果を出すことが出来ず。その中で次第にスランプに陥り。課題曲「海に還るもの」の作曲が進まない中で、音楽コンクールでは「ピアノが弾けなくなる」という事態に。遂に決定的に「音楽が楽しめなくなった」彼女が逃げるようにしてやってきた場所が浦の星女学院。それが1期1話での彼女の現状。

つまり1期第1話の彼女は、正しくそのスランプの「まっ只中」にいたことになります。

千歌の執拗なスクールアイドルへの誘いにも応じず(というよりもスランプまっただ中の彼女には応じる余裕もなく)逃げ続ける日々。その中で千歌から教えられた楽曲「ユメノトビラ」が、彼女と「スクールアイドル」との「懸け橋」になります。

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音ノ木坂学院に在校しながら、μ'sのことを「丸で知らない」彼女。それだけ「ピアノ」へと真剣に打ち込んできた時間が長いことを示すと同時に、彼女が「新しい物事」に対して、ほんの少しだけ「臆病な人」であることを示すエピソードのように思えます。

そこで初めて触れた「スクールアイドルの音楽」が、彼女にとっての「音楽体験の原初」即ち「音を楽しむことが出来ていた日々」を思い起こさせます。

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いつしか「コンクールでの失敗」以降触れることの出来なかった鍵盤に向かう梨子。「ユメノトビラ」を弾くことで蘇る「音を楽しむ感覚」。「ユメノトビラ」を演奏する彼女はまさしく「音を楽しむ」ことが出来ていました。

それを聞いていた千歌から改めて送られる「スクールアイドル加入」への「ラブコール」。(「ピアノが弾けないこと」が彼女が「スクールアイドル入りを拒んでいた理由」の一つでもありました。)

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しかし彼女にとって一番大事なものはあくまでも「ピアノ」。そんな自分が軽い気持ちで「スクールアイドル」になって良いものか。真面目で臆病な梨子故の悩みを、千歌は「ピアノを捨てる必要はない」「またピアノを楽しめるようになった時には、ピアノに戻れば良い」と説き伏せ、手を差し伸べます。

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これまでの人生で「ピアノ」とだけ向き合い続けた梨子に与えられる「ピアノ以外の選択肢」という「可能性」。それは、これまで梨子が「考えもしなかった」事であるのと同時に、「臆病故に向き合えなかった」要素でもあるもの。

「少しでもやってみたいという気持ちがあるのなら、思い切って手を伸ばして良い。」

1期2話ラストシークエンスにおいて、千歌が梨子に向けて手を伸ばすのは、その「可能性」を肯定する為であり、梨子がその手に触れようと必死に腕を伸ばすのは「届かないであろうもの=千歌の手」に「触れようと試みて、実際に触れること」こそが「可能性の肯定」の「第一歩」だからでもあります。

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「可能性を信じるもの(千歌)」と「可能性を信じたいと願ったもの(梨子)」。

二人の指先が触れ合うことによって果たされた「可能性を願う事」と「願いが結実する事」の「肯定」によって、「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語は大きく動き始めます。

思えばこの時点で梨子というキャラクターの要素は確定しているようにも思えます。

千歌が「可能性を信じる人=未来を信じる人」であるのと対照的に、梨子は「可能性を信じたい」けれども「根本的には未来に対して臆病な人」である...ということです。

千歌がどれだけ傷付いたとしても、真っ直ぐに「未来」を信じて、突き進もうとする人であるのと対照的に、梨子は「信じた未来」に「手が届かない」場合には、ほんの少し「未来を懐疑的」に見てしまう、ある種「現実的な人」でもある。

この差異を念頭に置いた上で梨子の物語を読み解いてみると、彼女にとっての「2期の物語」がどういうものなのかが、更に見えてくるように思えるのです。

 

桜内梨子と1期終盤~2期序盤

Aqoursとして活動する中で、「ピアノコンクール」と「海に還るもの」という二つの「カセ」をクリアすることが出来た梨子。

それはAqoursとしての活動および千歌の後押しがあったからこそ。そんな感謝を伝えるために「海に還るもの」を編曲し「想いよひとつになれ」という楽曲へ変え、Aqoursへと渡した梨子。

Aqoursは8人でのパフォーマンスというハンデを抱えながら、本楽曲の力もあって見事地方予選を突破しました。

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更にそれまで行くことが出来なかった母校=音ノ木坂へ赴き、感謝を告げることで改めて「自分達だけの道」を走ることの意味に気付き、その思いを「MIRAI TICKET」へと託し、東海地区予選へと挑む。

しかしながら、東海地区予選では惜敗。Aqoursの「ラブライブ優勝」への道は一旦閉ざされてしまいます。

そんな中でも1期13話で願った「説明会応募生徒を0から1にする」ことは達成。「叶えたい未来」を小規模ながら叶えていく事で、自らが望む「未来」そしてその先にある「輝き」へとほんの少しだけ近づいている。そんな実感がAqoursの推進力にもなっていました。

しかし、そんな中明らかになる浦の星女学院の統廃合問題」

間もなく「学校が無くなってしまう」という事実。

1期で約半年をかけてようやく「0名」から「1名」に増やした新入学候補生。その努力と成果を一瞬で「ひっくり返してしまう」ような出来事。

東海地区予選敗北で「強く願ったとしても、必ずしも望んだ未来に手が届くとは限らない」ことを実感していたとはいえ、更に追い打ちをかけるようなこの一件。さしもの千歌が打ちのめされる中で、梨子は当然「未来に対して臆病」な一面を表出させます。

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「どうすればいいのか分からないの」

 

梨子の本質は「未来に対して臆病な人」である。けれども彼女は千歌のように「未来=可能性を信じる人」になりたいと思っている。しかしながら「現実」がその「意志」に「歯止め」をかけてくる。

梨子の内面に起きた「自問自答」。それは2期1話以降時折顔を出すようになります。

特に象徴的なのは2期3話。

「学校説明会と地方予選、どちらを取るべきか」という局面で、「チームを二手に分ける」ことを立案。「これで本当に良かったのかな?」と問う千歌と曜に対し...

「良くはない。けど最善の策を取るしかない。」

「私たちは奇跡は起こせないもの。」

「この前のラブライブの予備予選の時も、学校の統廃合の時も...」

「だからその時の一番いいと思う方法で精いっぱい頑張る。」

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「可能性を信じること」を「肯定したいから」こそ、「全ての可能性」が「達成されうる」「現実的な最善策」を取ろうとする。

しかし本当は「両方が大事」なのだから、「両方を成立させる」「理想的な方法」を取りたい、とも思っている。けれども梨子にはその「理想」を「追いかける」勇気がない。

そんなジレンマがこの一連のセリフから滲み出ているように思えます。

とはいえ、梨子自身はこの選択肢を「良くはない」と断言しており、そこからは梨子自身が本質的には「どのような考え方を理想としているのか」に関しての回答が示されているようにも思えます。

 結果的に梨子のこの「決定」の善し悪しは、「学校説明会組」が「地区予選組」に合流してしまったこと。更には「千歌の足掻き」によって「両ライブに9人で主演する」という「奇跡が達成されてしまった」ことによって、有耶無耶になってしまうわけですが...。

とはいえ、梨子自身はなんともいえない「モヤモヤ」を抱えたままこの後の日々を過ごしていくわけです。

しかしその「モヤモヤ」がとある「出会い」とそれを巡る「出来事」によって解決されていく。

その転換点となるのが2期5話「犬を拾う」なのだと思います。

 

 ■桜内梨子と「必然」

善子が拾った犬「ライラプス」a.k.a「ノクターン」。

ちょっとした「偶然」から、一時的にこの「犬」を預かることになる梨子。

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※犬が「苦手」な梨子。何故彼女が「犬を苦手なのか」に関しては具体的な説明は為されませんでした。

(梨子と犬に関する「ちょっとぶっ飛んだ考察」に関しては2期5話記事でかまさせて頂いたので、ここでは触れずに参ります。興味がおありの方は是非下記をご一読くださいませ。)

この回において「犬」と「梨子」の関係はとても重要なのですが、もう一つ重要なのは梨子が「善子の思考に触れた」事なのだと思います。

ライラプス」a.k.a「ノクターン」こと「あんこ」を巡る一連の出来事の中で梨子が知ったのは、善子の「過去」と「ヨハネ」という存在の持つ意味。そして善子自身の「人生観」でした。

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子供の頃から「不運」に見舞われ続けた善子。しかしその「不運」を「善子」という人が「不幸」だからこそ起きうる「運命」なのだと捉えたくない。

それでは「津島善子」という人物は「運命に翻弄される」「不運なだけの人間」になってしまう。それを受け入れることを善子は「拒絶」しました。

故に善子は「堕天使ヨハネ」という自分の「別人格」を設定し、その「人格」が「不運に愛された存在」だからこそ自分は「不運」なのだと捉えなおす。

即ち自らの身に起きる「偶然」を「偶然」として受け入れず、自らの在り方に基づく「必然」なのだと捉え直すことにしたわけです。

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こう捉えなおすことで、善子は「自分の身に起きる全て」を「必然」なのだと捉えなおすことが出来るようになる。それは「未来」に関しても同じで。

つまり仮に「今」は「失敗」に見える「結果」でも、「未来」においてなにかを「成功」へと導くための「必然」なのだ...と捉えなおせるようになったわけです。

「良いこと」も「悪いこと」も、全てに「意味」がある。だからそれらを全て「受け入れて」生きる

とてつもない「ポジティブ思考」ではありますが(笑)、とはいえこれが梨子にとっては福音となります。

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「可能性を信じる人になりたい」けれども根本的には「可能性を信じられない」梨子にとっては、「結果の決まっていない未来」を闇雲に信じることが出来ない

だからどうしても、目先の「過程」や「結果」が気になってしまう。また一度の失敗に深く落ち込んでしまったりもする。

けれどもそうではなくて、「トライした結果」は「良い結果」だろうと「悪い結果」だろうと、必ず「未来」へと繋がる「必然」になるのだと捉えなおす。

そうすることで自分の「行動」そのものを「肯定」出来るようにもなる。

仮に「悪い結果」が起きたとしても、それを「自分が信じて選んだ上での結果」なのだと考える。

すると「悪い結果」が「悪い結果」としての意味だけでなく、「自分が望んだ未来」へと繋がっていく「必然」としての意味を持つ存在に変わっていく

自分の「決定」をそう捉えなおすことが出来れば、自分が「叶えたい」「可能性」へと、真っ直ぐに向かって行ける。

憧れた「千歌の在り方」と、過程は違えど繋がっていく「思考方法」。

それを手に入れたことで、梨子は大きく成長を果たしていくことになります。

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2期5話において「それどういうオチやねん!」などと突っ込まれた「梨子が犬に触る」というラストシークエンス。

しかしここには、善子の「思考」に触れることで、「今」の自分の「在り方」を「変える」ことが出来た梨子の「変化」が象徴されています。

これまで逃げ続けた対象に、自ら「腕を伸ばす」。そこには「無謀な可能性」へと踏み込めなかった梨子の、彼女なりの「小規模ながら大きな成長」が示されているのだと思うのです。

 

桜内梨子と「全てに意味がある」

2期5話で印象的に語られた「全てに意味がある」という言葉。これは2期における梨子の「キーワード」へと変わっていきます。

自分が選ぶこと、選んだこと、その全てを「必然」なのだと捉えなおすことが出来るようになった梨子。彼女が「肯定」出来るようになったのは「可能性=未来」だけでなく、これまでの「結果=過去」でもあります

1期物語終盤において「海に還るもの」を完成させ、「ピアノコンクールでの優勝」も果たした梨子。私は2期予想記事において「もはや梨子が浦の星に居続ける必要性は無くなった」と書きました。

結果として2期で梨子が「音ノ木坂に復帰する」という物語は描かれませんでした。しかしながら梨子の内面には少なからず「このまま浦の星にいることが自分にとってプラスになるのか」という葛藤もあったのだと思うのです。

もちろん「Aqours」としての活動も、「浦の星女学院の仲間と過ごす時間」も尊い

けれども第1項で書かせて頂いた通り、彼女にとって最も大事なものは「ピアノ」である。これはいかに様々な出会いを経たとしても変わらないもの。

だとすればこの1年を浦の星で過ごす...ということが「ピアノを専攻する」うえで「マイナス」にはならずとも「プラス」にはならない。

冷静でリアリスティックな梨子であれば、頭の片隅でそんな風に感じてしまうのではないかな?とも思うのです。

しかし2期5話で「必然」の意味を知り、その中で「自分の過去」および「これから自分が選んでいく選択肢」全てに「意味がある」のだと悟った梨子は、自らの直観を信じて「スクールアイドル」として、「Aqours」として、「浦の星女学院の生徒」として過ごす「今」を「選ぶ」。

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これまでは選べなかった「自らが信じる理想」に殉じるという「選択」。

それは「過去」を肯定できるようになったからこそ選べる「今」でもあるように思えます。

「千歌」や「スクールアイドル」との出会いがあったからこそ、もう一度「ピアノ」と向き合えている「今」があること。

それだけでなく、「音ノ木坂での葛藤の時間」や「東京から内浦に逃げるようにやってきた時間」といった「辛い過去」があったからこそ、「千歌たちと出会えた」「今」があること。

「良い過去」も「辛い過去」も、その全てを「今に繋がる必然」なのだと捉える。そうすることで自分の「今」をも「全力で肯定する」ことが出来るようになる

その集大成が2期12話での独白なのだと思います。

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選んだ「今」を「必然」に変える為に。

「自分の選んだ道」が「間違いではなかったこと」を証明する為に。

「ピアニスト」を目指す上では回り道になったはずの「スクールアイドル」としての時間に「未来への必然」としての「意味」を与える為に。

全ての「過去」の着陸先としての「今」を、そして自らが選んだ「未来」を、全力で「肯定する」ために。

ラブライブ」で「勝つ事」。「スクールアイドル」を「全力で楽しむこと」を宣言する。

 

「だから勝ちたい...。」「ラブライブで勝ちたい!」

「この道で良かったんだって証明したい!」「”今”を、精いっぱい全力で!」

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「心から...スクールアイドルをやりたい!」

そう宣言する。

 

「理想の在り方」と「現実性」との間で悩み続けた梨子がたどり着いた「自らの今」に対する全力の「自己肯定」。

この台詞からは、2期における梨子の「成長」の全てを実感することが出来ます。

 

「過去」を見つめ、「今」を見つめることで、「未来」を描くことが出来る。

決戦の曲「WATER BLUE NEW WORLD」にも通底する世界観。

「イマを重ね そして 未来へ向かおう」

そんな楽曲のメッセージと、梨子の「進化」とは決して無関係では無いと思うのです。

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ということで、2期総括桜内梨子編でした。

正直網羅しきれていない部分もありますが、他の梨子に関する要素は下記に書かせていただきましたので、是非こちらにも目を通して頂ければと思います。

さて、長く続いてきたキャラクター編もいよいよ次回がラスト(?)。

大好きな高海千歌編です!

1期でも2期でも常に千歌が中心にいた「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語。2期では特に彼女の「人間味」が溢れ出て、結果的に千歌を「苦手」に感じる人も出てしまったようですが、僕は彼女の「そんな所」こそが魅力なのだと感じています。

その辺しっかりお話できればと思っておりますので、是非次回もお付き合い頂ければ幸いです。

今回も長々とおつきあい有難うございました!

 

 

 

 

μ'sの話をしようじゃないか。~青春を呼び起こす「神話」或いは「寓話」としての「ラブライブ!」~

今年の4月1日で「μ's Final LoveLive!〜μ’sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪〜」開催から丸二年になる。

ということで、トリスさん(a.k.a生春さん)主催の企画が勃発したので、僕も乗っからさせてもらう。

 

 

ちょっとした昔話をしよう。

ハッキリ言って自分語りだ。

自分で後から読み返しても、恐らく「こりゃどうなんだ?」と思う内容だ。

だから興味の無い方はそっとブラウザのバックボタンを押してもらって構わない。

何の話かと言えば、主にμ'sと僕とのとても個人的なお話。

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今から3~4年前。

僕は転職の結果、某ゲームメーカーの営業マンをやっていた。

子供の頃から大好きだったメーカーで仕事をする。

やる気とやり甲斐に満ち溢れた時期。

反面大学時代にアニメ・マンガから縁遠くなっていた自分には、難しい局面もあった。

特にアニメを見なくなって久しく。

「この作品はこのアニメの声優さんを起用しているんです!」というセールストークが理解は出来ても、自分の体に染みこんでいかない。

それ故に営業トークを上手く展開出来ない悩みも抱えていた。

そんなまんじりともしない時期、僕の会社が関わる作品の声優に「ラブライブ!でお馴染みの声優さん」が起用される...というプレゼンがあった。

正直なところ、その頃まで「ラブライブ!」という作品の存在は知っていても、なんの興味も持っていなかった。

持っていたのは「女児向けのアイドルアニメ?」くらいのヌルっとした印象だけ(本当にスミマセン)。

しかし同時に「ラブライブ!」が「人気のある作品」であることも理解していた。

それはなぜかと言うと、当時商品会議の為に秋葉原に通う機会が多く、街中には「ラブライブ!」と「μ's」が溢れていたからだ。

「オタク世界の潮流を知るのならまずアキバの街を見るべし」というのは、その頃からの座右の銘だけども、この時期のアキバは間違いなく「ラブライブ!」と「μ's」に支配されていた。

お客さんに説明するには、まず自分に情報を落とし込まなければ納得のいくレベルの話は出来ない。

そんな仕事上の使命やら前段のモヤモヤ込みで、僕はまず「ラブライブ!」を勉強しようと心に決めたわけだ。

いや....もちろん...それだけではなくて、単純な興味もあって。

というのも「その時流行っているものには、必ずなんらかの理由がある。だとすればそれは探るべき価値がある」と思っていたから(これは今でもそう思っている)。

なにはともあれ、僕が「ラブライブ!」を見るきっかけは、そんな些細な出来事だった。

 

「見るのならしっかり見よう」ということで、DVD(1期)を全巻レンタルし、夜10時くらいからボンヤリと見始めた。

第1話の軽妙な語り口、シンプルな設定説明、キャラクター紹介に引き込まれた。

キャラクターデザインが極めて美麗だったり、特徴的なわけでもない。

その性格にも特殊性があるわけでもないけれど、それ故に生まれる彼女たちの「身近さ」が心地よかった。

そして、第1話の「終わり方」。

唐突に始まる「ミュージカル」。道路に飛び出して歌い踊る穂乃果たち。その表現の爆発力。

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「ミュージカル作品」では度々見かけるものの、「アニメ」ではあまり見た記憶の無いもの。

「理解しなくても良い!感じてくれ!!」と言わんばかりの大胆な手法。

その表現に、グっと心を掴まれた。

「この作品。まだよく分からないけど、只者ではないな...。そして単純に好きだな。」

そう感じた。

 

そして第3話だ。

それまでなんだかんだ「まぁ、このリアリティラインのアニメですよねー」くらいの軽い気持ちで見ていた自分をグッと「現実」へと引き戻した「観客0」。

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あんまりだ。

10代の少女たちがこんな仕打ちを受けて良いのか。

確かに「廃校」がささやかれるような現状で、生徒数も減っている。それは分かる。

それにしたって、もう少しなんとかなったって良いじゃないか。いくらなんでも「0」は無いだろうよ...と。

もちろん現実的に考えれば「0」という局面は想像しづらい。

普通だったらパラパラとでも人はいて良いはずだ。

だとすれば、これは「作劇」において、局面を際立たせる為の演出である。

もちろん、そんなことは初見でも分かっていた。それでも感情が納得しない。

穂乃果、ことり、海未の3人にすっかり入れ込んでいた自分には、あまりにも彼女たちに突き付けられた「現実」が残酷すぎた。

そして残酷過ぎるが故に「なんて素晴らしい作品なのだ」とも感じてしまった。

おためごかしの「甘やかし」はなく。

ただただ「厳しい現実」そのものをダイレクトに突きつけて、その上で「それを超えていこうとする」「勇気ある人々」の物語を描こうとしている。

その「妥協の無い物語作り」を前に、僕はいよいよ「ラブライブ!」を舐めるのを止めた。

僕と「ラブライブ!」の日々が、こうして始まった。

 

3話を境に歯止めがきかなくなった。

最終回13話までを夜中の内にぶっ続けで見た。

花陽の決意に涙し、にこの苦悶に涙し、希の思いに涙し、絵里のやるせなさに涙した。

No brand girls」の熱さに狂喜し、「僕らのLIVE 君とのLIFE」の登場に歓喜した。

9人で歌う「START=DASH!」に号泣した。

ことりの決意と穂乃果の激情に戸惑いつつも、それでも見事に「ほんのちょっとの達成と進歩」を描き切った物語に感動した。

気付くと空は白み、朝になりつつあった。

アニメを見て徹夜するなんて、本当に久々だったけども、後悔はなく、ただただ達成感しかなかった。

時計は早朝5時を指していた。

僕はアイドル好きの友人数名にこの興奮をLINEした。

「おい!ラブライブ!が凄いぞ!!」と。

「とりあえず騙されたと思って3話まで見てくれと!」と。

そんな内容の長文LINEを送りつけた。

とんだ迷惑だっただろう。しかし情熱とは大概ほとばしるもので、頭の中は冷静でも、行動を止めるリミットが働かなくなるものだ。

とはいえ、結果的にその時連絡したうちの1名が「ラブライブ沼」にどっぷり浸かり、今でも一緒にライブに行ったり、沼津に行ったりしている。僕のあの時の「間違った情熱」は伝播されてしまった。恐らく似たケースが日本中の、あるいは世界中のそこらかしこにあったのではないか。時空も時間も飛び越えて。

 

そこから間もなく2期を見終え。

そのタイミングでようやく「プロジェクトラブライブ!」の現行タイムラインに追いついた。

「劇場版」の公開日には初回上映を予約し、IMAX2D版をほぼ最前で鑑賞した。

正直に言うと期待していた内容とは少し違った。

初っ端の映画に対する自分の評価は「80点」だった。

とはいえ、どことなく真価を理解出来ていない気がして、その不明点を解明しなくてはいけない気になった。(これは映画好き故かもしれない)

結局、それを解明するために劇場に9回も通った。見れば見るほど分かってくる内容に興奮し、初めはピンとこなかった物語が自分なりに理解できた。

それにつれて「SUNNY DAY SONG」が大好きになっていった。

本格的にラブライブ!に魅了されたのは、この「劇場版」があったからこそなのかもしれない。

だからこそ僕にとってはこの「劇場版Love Live! The school idol movie」はとても思い入れのある作品と言える。

気付くとその年の年間ベスト映画に選ぶ入れ込みようだったけれども、反面ネット上での評判の悪さが気になって仕方なかった。「いつかラブライブ!専用のブログを作ってそこで反証してやる」そんな暗い野望が、このブログの出発点にもなっていたりする。

 そんなこんなで今に至り、僕は今でもラブライブ!について、あーでもない、こーでもないと妄想を垂れ流している。

その原点はもちろん「μ's」であり彼女達の物語である「ラブライブ!」という作品にある。

 

                 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪

 

μ'sの物語が何のために存在するのか。

「夢は願えば実現する」「だから夢見ることを止めるな」

何故2013年という時期に、こんな「普遍的」で「今更感」すらあるテーマをもった作品が作られたのか。

そんなことをボンヤリ考えることもある。

個人的に感じるのは、恐らく僕らには(いや、僕らよりも若い人たちには)ある種の「神話」や「寓話」が必要だったのだ...ということだ。

何をしても褒められず、全てのイノベーションは終わり、夢を語れば「現実を見なさい」と言われる。

「現実的」という名の「ニヒリズム」が支配する世の中で「夢」を叫ぶことは、そして「夢は願えば叶う」と「叫ぶ」ことは、とても勇気がいるはずだ。

「夢」を声高に叫ぶやつは「バカ」だとさげすまれ、陰口をたたかれる。

特に2011年の震災以降、その風潮は更に増した体感がある。

とんでもない「現実」を突き付けられた時、人はどうしても「現実的」にならざるを得なくなる。それは分かる。僕もそうだった。

でも、そんな世の中じゃ、なんの「望み」も湧いてこないじゃないか。

だからこそ、現実を超越する為の、ちょっとした「うつつ」が必要だったのだ。

「夢は持つものだ」「夢は願うものだ」そして「夢は願わない限り叶わないのだ」。

そんな「当たり前」を「断言」し、「肯定」してくれる「うつつ」を時代が求めていたのではないか。

もちろん「大抵の夢は叶わない」し、「願いもかなわない」。

それでも「夢」を叫ばなければ、「夢を叶える」一歩目にも立てない。

「うつつ」を抜かすものは確かに愚かかもしれないが、彼らが「うつつ」を抜かす対象は「夢」だ。だとしたら「夢を見ない現実主義者」よりも「夢にうつつをぬかす愚か者」の方が、より多くの「可能性」を秘めているのではないか。

もちろん、それが「正解」かは分からない。

しかし、少なくともラブライブ!」はその「可能性」を「肯定」した。

そしてその「可能性」を信じる「勇気ある人々」を「肯定」した。

だからこそ、ここまで多くの「若者」に受け入れられたのではないか。

そう思える。

ラブライブ!」が続編である「サンシャイン!!」と比べると、どこか「教義的」なのは、この物語が「願いを肯定する神話ないしは寓話」として作劇されているからだ。

彼女達は等身大の我々と同じ「迷える人間」で、だからこそとても俗な悩みをもったり、行動をしたり、それによって過ちを犯してしまったりはする。

けれども最終的に彼女たちが「敗れる」物語は描かれない。

それは、彼女たちが「勝つ」ことでしか「可能性の肯定」は果たせないから。

「夢を願って」「夢に突き進んだ人」はかならず「夢を実現させる」。

その「あらまし」を、彼女達の物語は描く必要があったから。

そこが「μ'sの物語」の特徴であり、「μ'sの物語」である「ラブライブ!」が「神話的」ないしは「寓話的」であると僕が感じる所以だ。

もちろん、僕個人の感じ方なのだけど。

 

                ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

 

「終わらない青春はここにある」とμ'sは言った。

それはμ'sの物語が「青春」を呼び起こすトリガーとなり得るからなのだと僕は思う。

「今」夢見ることを、「今」夢を叫ぶことを恐れている若者だけではなくて。

「かつて」「夢を見ることを規制された人」や「夢を見る余地も無かった人」や「夢に一度敗れてしまった人」が、「ラブライブ!」と「μ's」の物語と出会うことで、今一度「青春」と出会うことが出来る。

 

「青春」とはつまり「無謀」であること。

ニヒリズム」に負けずに「夢に向かって、バカ正直に突っ走ること」。

彼女たちの「寓話」が、「神話」がそこにあり続ける限り、いつでも「誰か」の「青春=無謀」を喚起させることが出来る。だからこそ「終わらない青春はここにある」と彼女たちは言う。

高坂穂乃果を演じた、新田恵海ラブライブと出会った瞬間が、その人にとってのラブライブの始まりである」と語ったように。

 

 「大好き」なものがあることは、実人生においても「エネルギー」となり得る。

諸々の事情はありつつだが、より自分自身の人生を「豊か」にするために、僕はもう一度転職した。おかげさまで健康的な生活を送れるようになったし、趣味に使える時間が格段に増えた。僕には仕事のやりがいプラス、やはりこの「時間」が必要なのだった。

 

ちょっぴり余裕が出来たので「Love live!After talk!」というブログを始めた。

ただただ「ラブライブ!」のことを「好きだ」と言うだけの特化型ブログ。おかげさまでこのブログの更新は、僕の人生においてはちょっとした「生きがい」になっている。

「Love Live」即ち「人生を愛せ」とラブライブは語る。

だとすれば、僕は「ラブライブ!」と出会ったことでその価値を見つめ直せた。そしてブログを通して、その「願い」を実践できている。そんな気がする。

 

あの東京ドームから丁度2年の時が経ち、改めて自分と「ラブライブ!」との関係を見つめるなかで、とても当たり前のことを思い出した。

僕は「μ's」が、「ラブライブ!」が大好きであるということ。

彼女達の物語に胸を熱くし、思いを馳せた期間は決して「過去」なのではなくて、今なお息づいているという事実。

それを思い出すきっかけを与えてくれた本企画に心から感謝を。

そして、

ありがとうμ's。ありがとうラブライブ!

これからもずっとよろしく。

 

2018年 4月1日 

「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター編⑦ 松浦果南】

皆様こんにちはorこんばんは。

今回もキャラクター編を引き続きお送りして参ります。

このキャラ特化篇もそろそろクライマックス。残り3名となってきました。

今回は2期における「もう一人の主人公」と呼んで差支えない人物、松浦果南編です。

1期では物語に絡むタイミングが遅く、彼女のパーソナリティが語られる回数は決して多くありませんでした。それは総じて果南が物語に絡むということは「旧Aqours」の物語と無関係ではいられなくなるから...という理由もあったわけですが。

反面2期では「旧Aqours」(3年生組)の物語が積極的に語られていく中で、「過去」と「今」が交錯していく物語が語られました。その中で果南という人の「パーソナリティ」も部分的にではありますが、描かれていきました。

今回は2期における果南を巡る「過去」の物語を紐解きながら、彼女にとっての「2期の物語」の「意味」みたいなものを考えてみたいなと思います。

毎度の如く私個人の思考に過ぎませんが、ぜひお時間が許せばお付き合い頂ければ幸いです。

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松浦果南と「カセ」

Aqoursの発起人の一人である果南。

AqoursAqoursでしか無いのですが、同じ名前で表記すると混乱するので、果南たちが作ったAqoursを「旧」、千歌が結成したAqoursを「新」と呼びます。他意はございません。)

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本質的な発起人はダイヤなのかもしれませんが、実質的な「スクールアイドル活動」においては、果南が「センター」を務め、パフォーマンスやフォーメーションの立案なども行っていた事実を踏まえると、活動の中心にいたのは果南である...と考えて問題ないでしょう。

残念ながら「旧Aqours」がどのような楽曲を披露し、どのようなパフォーマンスを見せていたのか...に関しては、最後まで具体的なシーンは描写されませんでした。

ただし、2期6話ではかつての「フォーメーションノート」が登場。その「難解」なパフォーマンスを達成するために、鞠莉が「ケガをしてしまった」という事実も明らかになったように、「旧Aqours」は相当「意識の高いグループ」であったことは想定できます。

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反面果南はそんな「意識の高さ」と「ハイパフォーマンス」を誇った「旧Aqours」という「過去」をあまり快くは感じていません。

1期12話ではライバルグループである「Saint snow」を「1年の頃の私みたい」と評して軽い嫌悪感を示し、2期6話でも同グループの話題が出ると苦い表情をして練習部屋を出て行ってしまいます。

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また同じく2期6話では、予選突破に有効となるはずのフォーメーションノートを忌み嫌い、最終的には海に投げ込んでしまいます。

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こういった一連の彼女の反応や行動から感じるのは、果南が「過去」を「疎んじていて」「今から切り離したい」と思っているという事実です。

ここから分かるのは、彼女の物語にとっての「カセ」とは、この「疎ましく感じている過去」であること。

そして彼女個人の「達成」とは、果南がいかにしてこの「過去」を「受け入れて」「前へ進んでいくか」という事である...ということが分かります。

つまり、この道筋を辿っていけば、自ずと2期における「果南の物語」の「本質」も見えてくるということになります。

となると、まずは「何故果南が過去を疎ましいもの」と感じるようになったのか。その理由を紐解かねばならないかもしれません。

 

松浦果南と「過去」

元々「竹を割ったような性格」で「細かいことを気にしない」はずの果南。幼少期の描写からもその片鱗が伺えます。

裏表の無い性格...というだけでなく、人見知りせず、誰とでも仲良くなろうとする。身体能力が高く人望もあるが、それをひけらかさず、ダイヤとは違う意味で人を導いていけるリーダー。それが果南です。

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細かいことは気にせず、「楽しいと思う」ことには積極的に飛び込んでいく。ダイヤが発想した「スクールアイドル」に挑戦したのも、深い意図はなく「楽しそうだったから」というだけなのでしょう。

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親友3人で取り組む「楽しいこと」の延長線にあった「スクールアイドル」。初めは興味を示さなかった鞠莉を半ば強引に加入させたように、果南は「スクールアイドル」の「楽しい面」だけを見つめていました。

しかし「スクールアイドル」全体のレベルが上がったことで、思うようにいかない活動の中、徐々にAqoursは「果南の身体能力に合わせた」「ハイパフォーマンス」を志向する、「意識の高いグループ」へと変化。それを追求する中で、いつしか「楽しいこと」という要素は消え失せて行ったのではないでしょうか。

そんな中パフォーマンス途中で鞠莉がケガ。更に鞠莉が「スクールアイドル」としての活動を優先するあまり「留学」という「自分の可能性」をも捨て去ろうとしていたことを知ってしまいます。

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自分の思いを優先させるあまり、それが誰かの可能性を「阻害」したり、大切な人を「傷つけてしまう」こと。それを知ったことで、果南は自らの「スクールアイドル」としての取り組みを「憎む」ようになっていき、その帰結として「旧Aqours」の活動は停止していく。

そしてその決断が結果として親友3人の「関係性」をも「破壊」していく。

1期では最終的に千歌、そしてダイヤの取り組みのおかげで、果南と鞠莉のすれ違いは解決。1年のブランクを経てAqoursは「再始動」したわけですが、果南にとって「旧Aqours」とそれに「関連するもの」は、「過去に鞠莉を傷つけた」存在として、二度と触れたくない「トラウマ」へと変化していったのではないでしょうか。そしてそれは2期開始後にも解決していない「シコリ」として果南の心には残っている。そしてそれこそが果南の「カセ」になっているのだと思えます。

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また果南にとってはもう一つ「過去」と関連する「カセ」があります。

それは果南が過去に影響を与えた鞠莉以外の「もう一人の人物」に関して。

つまり千歌の「在り方」に関してです。

幼少期、何をするにも臆病だった千歌に、「挑戦すること」の「意味」と「価値」を伝えたのは果南でした。

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浅瀬にすら飛び込むことを躊躇っていた千歌に、勇気を持って飛び込むべきだと語ったのは幼少期の果南。

「今やらないと後悔する」

その言葉に従うように、海へと飛び込んだ千歌。それ以降、千歌は「何事にも挑戦する人」へと変わっていきます。

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そんな「普通」の千歌に「勇気」を与えたきっかけとなったのは、他ならぬ果南なのです。

とはいえ、その後の千歌がどうなったか。

家族や曜が証言するように「あらゆることに挑戦する」けども「上手くいかず」「途中であきらめる」という過程を経て、いつしか「飽きっぽい」というレッテルを張られるに至ってしまいました(曜はその認識を否定していましたが)。

また、「様々なこと」に挑戦しながらも、常に「敗れ去り」「傷付く」千歌を、恐らく果南も見つめてきたはず。故にそんな千歌の在り方を、どこか「痛々しく」感じていたのではないかなとも想像できるのです。

つまり2期において果南が抱えている「過去にまつわるカセ」とは「旧Aqoursであり「千歌の在り方」である...とも考えられるわけです。

 

松浦果南の「罪」

上記二つの「過去にまつわるカセ」とは、言い換えれば果南にとっての「罪」でもある。

自らの配慮の足りなさ(と果南が感じている要素)が生み出した「カセ」であり、それが千歌、鞠莉にとっての「呪い」のようなものになってしまっている。そして結果的にそれを二人に与えてしまったことが果南にとっても「罪」になっている...という風に捉えられるからです。

しかし2期6話では、地方予選突破のために、「旧Aqours」のフォーメーションノートを「千歌」に渡す...というミッションが発生する。

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これは即ち「旧Aqours」と「千歌」とが重なり合うことになる。

つまり果南が抱える「カセ」2つが重なり合うことにもなるわけです。

そうなると果南が抱える「罪」もまた重なり合い、果南はそれと「向き合う」必要が生まれてしまうわけです。

「新Aqours」加入後から、なるべく直視せず、避けようとしてきた「自らの罪」を、「直視」せざるを得なくなる。これはなかなかに「キツい」状況といえます。

Aqoursが勝利するために「必要」なものを、何故果南が「頑なに拒むのか」。

2期6話を見ただけでは掴めないその理由も、果南の「過去」を遡って考えてみることで、少し分かってくるように思えるのです。

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物語において発生している「カセ」は、なんらかの行動をもって「回収」されていく。これはあらゆる「物語」の基本です。2期6話は、そんな果南の「カセ」を「回収」するために用意された回でもあるのです。

 

松浦果南と「救い」

千歌の挑戦と数多の失敗を見つめる果南。その視線がどことなく冷やかなのは、やはり千歌の姿に自らの「罪」を重ねてしまうから...なのかもしれません。

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自分が千歌の「在り方」を決定づけてしまったから、千歌は永遠に「挑戦」を止めようとしない。「出来ること」と「出来ないこと」の境目が分からず、「出来ないこと」の前に敗れて「傷付き」続ける。そんな千歌を形作ったのは少なくとも自分にも原因がある。そんな風に感じていたのかもしれません。

しかしここで初めて曜と梨子から「普通怪獣」という単語とその説明を聞くことで、果南に一つの「変化」が訪れます。

「普通怪獣」とは、「普通の自分」というものを十分に「理解」したうえで、それでも「挑戦すること」を止められない「怪獣」であり、千歌はそれを「自称」している。

即ち千歌は「出来ること」と「出来ないこと」をある程度理解しながらも、「出来ないであろうこと」にも「果敢に挑む人」なのである...ということをようやく「理解」するに至るわけです。

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ここで果南に訪れる心的変化とは、自らが千歌にかけていた「バイアス」に関してのものでしょう。

果南は千歌が「出来る事と出来ない事が分からない」のに、「挑戦し続けて」「敗れて」「傷付いている」と思っていた。即ちそれは、千歌の「能力」を「下に見ていた」とも言えるわけです。

けれども本当は、千歌は「そんなことは理解したうえ」で、それでも「自分の可能性を信じて」「挑戦する人」であったことを理解する。

ここで果南は自らの千歌に対しての「不理解」を恥じると共に、自らが千歌に感じていた「罪」もまた「誤解」であったことを思い知るのではないかな?と思えます。

千歌に対する果南の「意識付け」は確かに作用しているけども、それが千歌自身の「思惑」を凌駕するようなものではないこと。

それはつまり、果南にとって「自意識過剰」を正す効果ももたらしたかもしれません。

果南から千歌に告げられる「タイムリミット」。何故急にそんな宣告が為されるのかと言えば、その方が「千歌が燃えるから」にほかありません。

これはかつて曜が言っていたことと同じ理屈。即ちこの時点で果南は千歌を「舐めていた」自分を改め、千歌の可能性を「信じる」方向へとシフトチェンジした。

その宣言こそが「タイムリミット」なのではないかなと思えるわけです。

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翌朝。果南の前で見事にパフォーマンスを成功させる千歌。

その千歌に対して「ありがとう。千歌」と語りかけるのは、「千歌」の行動そのものが果南を救ってくれたから...にほかありません。

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「旧Aqours」を崩壊させた原因だと果南が思っていた「難解なパフォーマンス」。しかし、それは「果南でなくては出来ない」パフォーマンスなのだと、果南自身が「思い込んでいた」から。それもまた「自らの能力」を過信したうえでの「思い上がり」でもあったわけです。

けれども、それを「普通」の存在である千歌が、「努力」と「意志」を以て達成していく。そしてその「努力」と「意志」の根底には、果南が与えた「きっかけ」がある。

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即ち、千歌がこのパフォーマンスを「成立」させることは、果南を縛っている「カセ」から「解放」する行為であると同時に、果南が拒否していた「過去」を一部「肯定する」意味をももたらせるわけです。

要するにこの「成立」を以て、果南は明確に「救われていく」。だからこそ、その「救い」を与えてくれた千歌に、「ありがとう」と告げるわけです。

また、このパフォーマンスの成立は同時に、今まで分断されていた「旧Aqours」と「新Aqours」とが「繋がっていく」きっかけにもなる。

結果としてこのパフォーマンスが2つのAqoursを「繋げた」ことで、Aqours前回超えられなかった「地方予選」という大きな壁をも超えていくわけです。

果南の「カセ」が解決する...ということは、分断されていた2つの「Aqours」が繋がり、一つになることも意味する。

故に果南の物語とは、2期において非常に重要であり、だからこそ果南は2期での「もう一人の主人公」に相応しいと感じるわけですね。

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松浦果南と「今」

2期6話をきっかけに自らを縛っていた「過去」から解放された果南。

彼女にとっての「スクールアイドル」としての物語は、実のところここで一旦の「終了」を迎えているのかもしれません。

かつて「面白そう」という理由で始めたように、果南にとって「スクールアイドル」という存在は「友人と一緒に楽しむもの」であって、それ以上の存在ではない。

12話で千歌に「ようやく終わると思うとせいせいする」と語ったのは衝撃的ではありましたけども、それは果南にとっては偽らざる本音の「一つ」なのかもなと思います。

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「友人と一緒に楽しんで」「学生時代にしか出来ないもの」。

「スクールアイドル」とはそういう存在であり、そこに「永遠」を見出さない。

もちろん「ずっとここにいたい」とは思う。けれど「終わっていくこと」を知っている。だからこそ「この今」を「全力で楽しみたい」と語る。

12話で果南が語る「スクールアイドル観」。

それはどこか達観したものではありますが、そんな「今」を「愛せるようになった」のは、「過去」を受け入れる2期の物語があったからこそなのだと思えるのです。

 

ということで、松浦果南編でした。

正直かなり僕独自の見方が入ってしまっているので異論はあるとは存じます。その辺はぜひTwitter等でぶつけて頂ければと思います。

とはいえ、僕も正解は持っていないので議論するほか無いのですけども(笑)。

 

残りは二人。

次回梨子はもはや語り尽くした感すらありますけど、もう少し考えてみようかなと思います。今回も長々とありがとうございました!