「普通」の私の日常に
突然舞い降りたキセキ
何かに夢中になりたくて...
何かに全力になりたくて...
脇目もふらずに走りたくて...
でも何をやっていいか分からなくて...
燻っていた私の全てを吹き飛ばし
舞い降りた
それは...
その「輝き」は____
...皆様こんにちは、こんばんは。
ちょっと前回から間が空いてしまいました。すみません。
さて、本シリーズもこれが一応のラスト。
TVアニメにおける主人公・高海千歌編をお届けします。
千歌は物語においても主軸となる人物。
彼女を総括するということは、物語そのものを総括することにもなると思います。
ただし、そうなると脱線し続けてしまう危険性があるので、こと千歌に関してはいつもとは少し違って、一つの「キーワード」を巡る彼女の「変遷」から紐解いてみたいなと考えています。
その「キーワード」とはもちろん「輝き」です。
千歌が度々発する言葉でありながら、その「意図」が明確にされなかった言葉。
しかし高海千歌を語る上では、決して外すことの出来ない言葉でもあります。
というわけで、本シリーズとしては珍しいスタイルになってしまいますが、今回は千歌と「輝き」に関しての一点突破で考えてみようと思います。
正直私自身かなり思い入れの強いキャラクターなのでどう転んでいくか未知数でもあるわけですが。。暖かい気持ちでお付き合い頂ければ幸いです(笑)。
それでは参りましょう、高海千歌編です。
毎度毎度ではございますが、本稿は筆者の妄想に近いものであり、公式の設定等の裏付けが無いものがほとんどです。予めご了承の上でお楽しみ頂ければと思います。
■高海千歌と「自己評価」
千歌と「輝き」。その関係性を考えるにあたって、まずは「スクールアイドル」と「出会う前」の千歌を想定しつつ、TVアニメ1期開始段階における千歌にとっての「輝き」とは何だったのかを考えてみたいところです。
自らを「普通星の普通星人」と自称する彼女。何をやっても突き抜けず平均点。特段夢中になれるものもない。けれども「自分の全てをかけて夢中になれるものを見つけたい」そんな思いだけはある。
「夢中になれるもの」を探して様々な物事に挑戦するものの、結局は「特別」にはなれなくて。それが本当は悔しいのだけど「悔しくない」フリをして。そうやって興味の対象を移していく中で与えられた「飽きっぽい子」というレッテル。
けれども本当はそうではなくて、「本気で夢中になれるもの」を探しているだけ。「それ」と出会うことが出来れば、自分は「普通星人」を脱して、「特別な輝きを手にした人」に変われるのだと本気で信じているから。
「普通の自分」を「特別な存在」へと変えてくれる力。
それこそが1期開始当初の千歌にとっての「輝き」と言えるかもしれません。
さて、この千歌の状況を逆説的に考えると、千歌は「輝き」を常に「手に入れるもの」ないしは「外的要素によって与えられるもの」だと認識していた...という事実も見えてきます。
「自分が夢中になれるもの」を見つけて、それに全力で打ち込むことでやがて手に入れられるもの。それこそが千歌にとっての「輝き」である。
なぜ千歌がこのような発想に至っているのか...。それは千歌が自分を「普通」で「魅力のない人間である」と考えている...という前提があります。
一見分かり辛いのですが、千歌という子はとても「自己評価の低い」女の子です。彼女は自分を「普通」と呼称しますが、千歌の使うこの「普通」は、我々の考える意図よりも更に「低い」意味で使用されている節があります。
千歌は自分自身を「何のとりえもない、何の面白みもない人間」であると考えている。だからこそ自分自身の中にはそもそもとして「輝き」は存在しないと考えている。だからこそ外的な要素によって「輝き」を手に入れなくてはいけないと考えている...ということが理解できます。
なぜ千歌がここまで「自己評価の低い人間」になってしまったのか...に関しては裏付けが難しい部分です。
限られた情報から想像するのであれば、その要因の一つには「挑戦と失敗」というものがあるように思えます。
元々「自己評価が高くない」子であった千歌。そんな千歌に「挑戦することの意味」を教えたのは幼馴染の果南でした。
近所の浅瀬にすら飛び込めない消極的な少女だった千歌に「今やらないと後悔するよ」と語った果南。もちろん、そこまで大きな意味をもった言葉ではなかったかもしれません。しかし結果的に千歌は果南の言葉に背中を押される形で海に飛び込み、その後は「何にでも挑戦する」女の子へと変わっていきます。
(完全に余談ですが、この時の千歌には”勇気”を象徴するアイテムである”リボン”がありません。そこからも”勇気”自体は千歌が後天的に手に入れた要素であることが象徴的に描かれているようにも思えます。)
しかしその「挑戦」がどのような「結果」を生んだのかは周知の通り。結果的に「数多の挑戦」は「数多の失敗」を生み。
千歌は「成功体験」を積めないまま「今」に至ってしまいました。
「挑戦」の末与えられた「数多の失敗」という「結果」。
これが千歌自身の「過度な自己評価の低さ」の原因にもなっているように思えます。
また、もう一つ千歌が自分を卑下する要素があるとすれば、それは幼馴染である果南と曜という「人的要素」にもあるのかもしれません。
果南は幼い頃から「やりたいこと」をしっかりと持っている子でしたし、曜は「なんでも器用にこなせる」子。
近くにいる二人と「同じようになりたい」と思いながら、「そうなれない」日々は、もしかしたら千歌に不必要な「劣等感」を与えてしまったのかもしれません。
もちろん、果南や曜には罪はないわけですが、そんな事情も高海千歌という人の「自己評価の低さ」に繋がっているようにも思えるのです。
よく「ラブライブ!」シリーズという意味で前作の主人公「高坂穂乃果」と並んで比較されることも多い千歌。しかしその本質は穂乃果とは全く別物です。
穂乃果もまた「普通の子」ではありましたし、そのことに自覚的でもありましたが、彼女は自分が「普通」であることに劣等感は持っていませんでした。即ち「自己評価」に対しては、とてもフラットな状況で「スクールアイドル」を始めた。
けれども千歌は自己に対する圧倒的な「マイナス評価」を抱えた状態から「スクールアイドル」を始めている。
「面白そう」という理由だけではなくて、その活動を経て「輝きを手に入れたい」という「劣等感を背景にした切望」をもって「スクールアイドル」に挑んでいる。
しつこいようですが千歌にとっての「輝き」とは「手に入れるもの」である。
その前提を頭に入れて頂いた上で物語を再度読み解いていくと、千歌にとっての「物語」、そして「輝き」の「変遷」について、より理解が深まるように思うのです。
■高海千歌と「成功体験」
千歌が抱える「自己評価」の低さ。その理由の一つは、前述した通り「成功体験の少なさ」によるものと考えられます。
「何かをやる」ことで得られる「達成感」。それに基づく「成長」。
それは「自己肯定」していくために「必須」のものです。しかし千歌には「成功体験そのもの」がほとんどない。
この「自己評価の低さ」は千歌というキャラクターにとっては明確な「カセ」となるもの。となれば千歌はこの「カセ」を超越していく必要があります。
上記を踏まえれば、千歌にとっての1期の物語とは、「成功体験を積むことにより、自己肯定することが出来るようになる」までを描いた物語なのでは?とも考えられるわけです。
1期の物語をザックリと振り返ってみましょう。
1期において千歌がAqoursとしての活動を開始する動機は、彼女がこれまでの人生において繰り返してきたものと同じ。
「挑戦」をすることで、そこから派生する「輝き」を手に入れたいというもの。
千歌の中には明確な形として存在する「輝き」という概念。しかしそれはグループのメンバーにはフワっとした形でしか共有されていないもの。
そんな「曖昧な動機」を抱えた千歌が率いるグループ故に、Aqoursは「何かをやりたい」「何かになりたい」という「やる気」だけはあるものの、はっきりとした「活動の動機」が無いグループでした。
その「動機の無さ」が白日の下で明らかにされてしまうのが1期7話・8話。
「夢で夜空を照らしたい」のPVが好評だったことを受けて参加した東京でのライブ。客席からの人気投票で順位が決まるイベントにおいて、Aqoursはなんとダントツの最下位。得票は驚くことに「0」。
惨敗を喫し、同年代のグループであるSaint Snowからも厳しい評価を突きつけられます。
Aqoursの敗戦の理由は明確ではありません。ただしSaint Snowの言葉からは「スクールアイドルとしての動機の薄さ」が指摘されていたようにも思えます。
「μ'sのようになりたいのかもしれない」「けれどもそれだけでは厳しいと思う」
「憧れる」だけではなく「なぜ自分がスクールアイドルをやるのか?」その意思を見せてほしい。聖良の言葉にはそんなメッセージが込められているように思えます。
千歌個人の切実な事情は置いておいても、前述のような「曖昧な動機」を抱えてスタートしたAqoursというグループ。個々人の思惑はあったとしても、グループとしての「動機」や「意思統一」が無いままここまで来ていたことも事実です。
その問題点を的確に見抜かれた上での「批判」と「結果」を、端的且つ残酷な形で与えられてしまった千歌。
その強烈な「敗北感」に打ちのめされてしまいます。
幼馴染の曜ですら想定していなかったレベルで傷付いた千歌でしたが、内省し、己の気持ちを梨子にぶつける中で「Aqoursの活動目標」を見出していきます。
「なぜ自分たちは0という評価を受けたのか」
与えられた残酷なまでの「結果」への煩悶。
しかし、実のところそれは千歌自身の「これまで」にも跳ね返ってくる問いかけです。
「特別」になりたくて、「輝き」が欲しくて、これまで様々なものに挑戦してきた千歌。しかしその度に千歌に与えられたのは「何にもなれない」という「結果」。
即ち「0」でした。
けれど千歌はその「0」の理由を検証することはしてきませんでした。
なぜこれまで検証してこなかったのか。それは2期13話の母親の言葉を借りれば「本当は悔しいのに、周りの目を気にして、諦めたフリをしていた」から。だからこそ「0」に立ち向かう瞬間がついぞやってこなかった。
けれど今回は違った。これまでとはまるで違う感情が千歌に押し寄せたからです。
「頑張ったはずなのに。一生懸命やったはずなのに。なぜ自分たちは、いや自分には0しか与えられないのか。」
その事実を初めて「くやしい」と表現した千歌。
それはこれまで「周りの視線」を優先して「諦めてきた」どんなものとも違って「スクールアイドル」に真剣に取り組んできた矜持と、これからも続けたい気持ちがあるからこそ。
こうして今まで「0」から目を背け続けた千歌が、その「0」に真正面から「挑む時」。千歌は明確に「カセ」を乗り越えるきっかけを経て、成長を遂げます。
彼女自身が「0」に向き合う中でようやく見つけた「動機」。
それは「0を1にすること」。
その思いがこれ以降Aqoursを強くし、「0から1ヘ!」はAqoursそのもののスローガンにもなっていきます。
「0」のものを「1」にする。それは何も自分達の得票に関わらず、自分達が関わる全てのものに関係していきます。当然「学校説明会への応募者」もその例に漏れないわけです。
そして1期ラストの13話では遂に「0を1」にしてみせる。
放送直後には「学校の入学希望者を1名に増やしたからなんだっつーの?」などという心無い感想も見かけました。しかし、この数字はあくまでも「メタファー」に過ぎないわけです。大事なのは「学校の入学希望者が1名に増えた」事なのではなくて、千歌が「0」に立ち向かう中で見出した目標である「0を1にすること」がこの時遂に「達成された」という事実なわけです。
これまで一切の「成功体験」を経験したことがなかった千歌が、遂に手に入れた「成功体験」。それこそが「0を1にすること」なのです。
そしてその「成功体験」が「MIRAI TICKET」の世界観へと繋がっていく。
自分のことをまるで肯定できなかった1人の少女が、たった一つの「成功体験」を経て、自分の中から溢れ出す「願い」とその「価値」を「肯定することが出来るようになる」。
それが「ラブライブ!サンシャイン!!」1期のメインテーマでもあるのだと思うのです。
こうして千歌が遂に手にした「成功体験」。これによって千歌は自分への「過小評価」を正し、以前よりも自分を「肯定」できるようになる...
わけなのですが、反面この「成功体験」が二期においては千歌にとっての「課題」へと変わってもいくのです。
この重層的なシナリオ構造もまた「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品の素敵な所ではあるのですが...同時に難解な部分でもあります。
■高海千歌と「呪縛」
1期で遂に「0を1にする」という「成功体験」を手にした千歌。
千歌を「自己評価の低さ」という「カセ」から解放し、「自己肯定」へと導いた「成功体験」。
しかしこの「成功体験」を胸に生み出した「MIRAI TICKET」では予選突破を果たせず。その結果を受けて、千歌はまたしても「迷い」を胸に一つ抱えることになります。
「輝きは心から溢れ出す」。
「自己肯定の中」から生み出した新たな「輝き」の解釈。その思いを乗せた楽曲が結果的には「否定」されてしまった。それ故に千歌は「輝き」の正体をまたしても見失ってしまう。
「輝きってどこから来るんだろう。」
再びその悩みへと迷い込む中で、千歌を支えることになるのが「成功体験」です。
「ラブライブ」で勝利するための方程式はない。
けれども自分を「カセ」から解放した「成功体験」はある。それは学校の入学希望者を「0から1」に増やしたこと。
千歌が欲しているのは「輝き」。「ラブライブで優勝する」ことも「学校の生徒数を増やして学校を統廃合から救う」ことも同じだけの「輝き」を与えてくれるのだとすれば、「成功体験のある方」を感覚的に重視してしまう。
2期において急激に「学校の統廃合問題解決」に向けて積極的になったように映る千歌。
もちろん2期1話においてその課題が急激に進展してしまった...という事情はあるのですが、千歌個人の背景を辿るとその裏には「成功体験」に基づく「数字への依存」もあるのではないか?とも想像出来てしまうのです。
これまで「成功体験」を得た事が無かったからこそ、今度はその「成功体験」に依存してしまうようになる。そしてそれが千歌にとっての「呪縛」になってしまう。
1期においてのメインテーマが、今度は主人公を縛り付ける「新たなカセ」へと反転していく。こう考えると素晴らしい構成だなと唸らされます。
2期において千歌たちが常に気にし続ける「入学希望者数」。
現実的に考えれば内浦という地方の女子高の入学希望者が彼女たちの頑張りだけで爆発的に増えるわけがない。けれどもその「数字」を盲信し、そこに全てを賭けようとしてしまう。そこには「成功体験に基づく呪縛」の影響を感じてしまうのです。
2期7話「残された時間」では最後の最後まで抵抗を見せるものの、入学希望者は「98」で止まり、浦の星女学院は正式に「統廃合」における「廃校」となることが決定してしまいます。
この結果に最もダメージを受けたのは他ならぬ千歌でした。
すっかり沈んでしまった千歌は、自らが率先して進めてきた「ラブライブ優勝」への道筋も、「Aqoursとしての活動」すらも放棄しようとしてしまいます。
「ラブライブなんてどうだっていい!学校を救いたい!!」
「学校を救えなかったら、輝きも手に入らない。」
千歌のこの台詞にショックを受けた人も少なくないと思います。
しかし、この言動は「数字」とそれに基づく「成功体験の呪縛」を強く受けているからこそのものだと考えれば、ほんの少しだけ納得がいくかもしれません。
もちろん「学校を救いたい」という純粋な気持ちもあっての発言ではあります。
けれども自分を支えてきた「成功体験」が「否定」される中で千歌は「輝き」への道筋をも閉ざされたように感じた。
だからこそ全てを投げ捨ててしまいたくなるほどに「絶望してしまう」のではないか?とも推測できるのです。
「数字」に基づく「成功体験」を得られないのであれば、どうやって別の「成功体験」を作れば良いのか。唯一の「成功体験」が否定されたからこそ、千歌の思考もまた停止してしまうわけです。
(統廃合問題にスクールアイドルとしての成功を重ねてしまうのは、μ'sの呪縛でもあるのでは??とも考えているわけですが、それに関しては2期7話記事をお読みいただければと思います。)
しかしそんな千歌を「呪縛」から解き放つのが「浦の星女学院の仲間たち」です。
「生徒数を増やして学校を統廃合から救う」だけが「学校を救う方法」ではない。
「ラブライブで優勝」して、「学校の名前をラブライブの歴史に刻む」。
そうすることで「浦の星女学院の名前」を「永遠」にすることが出来る。
それもまた「学校を救うこと」なのだと語ります。
そして、それは「千歌たちにしか出来ないこと」なのだとも告げる。
「浦の星女学院スクールアイドル=Aqours」にしか出来ないことなのだと告げる。
そして極め付けにこう言うのです。「輝いて!」と。
盲信してきた「数字」に基づく「成功体験」と、それを達成することによって初めて「輝き」を得られるのだ...という千歌の思考。
それを根底から覆す仲間たちの「提案」。
それは「スクールアイドル=Aqours」の「輝き」を客観的に受け止めた彼女達だからこそ伝えられる言葉なのかもしれません。
学校を統廃合から救えないのだとしたら「スクールアイドルをやる意味がない」と語る千歌の言葉を否定し、「スクールアイドルである千歌」の存在を全力で「肯定」する。
それは「スクールアイドルである千歌」にしか作れない「輝き」があるから。
その「肯定」は千歌が「スクールアイドルとして過ごしてきた過去」を肯定することに繋がり...。
そして千歌が「スクールアイドルとして輝きを目指すこと」を肯定することにも繋がっていくのです。
その「肯定」によって千歌は「数字」という呪縛から解放される。
「スクールアイドル」として「輝き」を目指すこと。それが「学校を救う」ことにも繋がるのだとすれば、もはや「数字」は「輝き」を目指す上では絶対的な価値を持つ存在ではなくなる。
唯一の「成功体験」故に神格化されていたものの価値をリセットすることで、千歌はもう一度「フラット」な立ち位置へと戻っていく。
こうして「成功体験」に紐付かない「輝き」への道程に再び挑むことになる千歌。それは図らずしも「1期の千歌の状態に戻ること」を示してもいます。
即ち、再び「0」へと歩みを戻し「1」へと挑む...ということ。
けれども彼女「戻ること」を恐れません。それは彼女が既に一度「成功体験」を経験し、それによって自分を「肯定できる」ようになっているからでもあります。
「起きること全てに意味がある」
それは2期におけるメインテーマでもあるわけですが、ここでは「過去の経験」が千歌の背中を強く押すことになる。例え状態が過去に戻ったとしても、「経験が息づく」限り人格そのものが過去に戻ってしまうわけではないからです。ここもまた千歌の物語を考える上では重要なポイントになっていく要素だと思います。
■高海千歌と「手に入れたもの」
「起きること全てに意味がある」
「スクールアイドルとしての自分」を他者から肯定されることによって、「スクールアイドルとしての自分自身」を改めて「自己肯定」できるようになった千歌。
千歌はその「肯定」によって「スクールアイドル」としての自分にも絶対的な「自信」を持てるようになります。
その「自信」は「唯一の成功体験」の根底にあるもの=「得票0の結果用紙」を手放すきっかけをも与えていきます。
「0を1」にすること。その「願い」を持つきっかけとなった「0の用紙」。
それは千歌にとっては、「数字に基づく成功体験」信仰の根底となる一種の「お守り」でもあり、「呪縛」の「根拠」でもありました。
千歌が「成功体験」を欲したのは「自分を肯定していく」為でした。
しかし「スクールアイドル活動」を通じて「他者からの肯定」を手に入れた千歌にとっては、今やこの「成功体験」も「過去のもの」となりました。
だからこそ千歌はこのタイミングで「0の用紙」とも「お別れ」が出来るのかもしれません。
自分に強烈な「痛み」を与えた用紙。それでもその「痛み」は「今」へと繋がる貴重な「痛み」でした。だからこそ、千歌は風へと運ばれていく用紙に「ありがとう」と呟くのでしょう。
自分を縛り付けていた「呪縛」から本当の意味で解き放たれる事で、千歌は遂に「スクールアイドル」として「唯一無二」の存在に変化していきます。
それを象徴するように、決勝の舞台に立つ千歌には、普通の象徴である「クローバー」も、勇気の象徴である「リボン」もありません。
真っさらな、ただの「スクールアイドル=高海千歌」として「スクールアイドル」にとっての一番大事な舞台に立つことが出来る。
その姿からは「スクールアイドル=高海千歌」の完成形を見るのと同時に、彼女がハッキリとスクールアイドルとしての「輝き」を手にした事実を実感することができます。
彼女が手に入れたかった「スクールアイドルとしての輝き」。2期12話において千歌は遂にその「輝き」を手に入れたのです。
■高海千歌と「輝き」
浜辺にたなびく優勝旗。
「スクールアイドル」として目指した「輝き」も、浦の星の仲間から告げられた「輝き」も、その両方とも手に入れた千歌。
しかしその表情は優れません。
ラブライブ優勝と共に「輝き」は手に入った。しかし結果として浦の星女学院は無くなった。3年生は卒業と同時に内浦を離れ、Aqoursもまた自然解散となった。
手に入れたはずの「輝き」を象徴するものは「優勝旗」だけ。他には何も残らなかった。
その事実に漠然とした「空しさ」を感じているようにも見えます。
千歌にとって「輝き」とは「手に入れるもの」だった。それは一度手にしたら自分と同化し、自分もまた「永遠に輝く人」になれるはずだった。
けれども、今優勝旗を目の前にした自分は、「スクールアイドル」を始める前の自分と何も変わっていない気がする。
輝きを確かに手に入れたはずなのに、何も変わらない「自分」。
だからこそ千歌はそんな現状にある種「絶望」しているのかもしれません。
千歌にとって終始「手に入れるもの」であり「外的要素」だった「輝き」。
自分には無いものだからこそ「手に入れる」ことで、「自分を輝かせてくれる」はずだった「輝き」。
しかしそれを実際に手に入れてみたところで一向に「自分自身」が輝いていかない。
ここで分かるのは、千歌にとっての「スクールアイドルとしての輝き」は、あくまでも「手に入れた物」に過ぎず「自分自身の輝き」とは別物である...ということ。
また「学校の名前を永遠に刻む」という「輝き」もまた、「スクールアイドル」としての「輝き」の延長線上にあるものなので、「自分自身の輝き」とは認識できていない...ということも分かります。
故にここで重要になるのは、家族による千歌への「評価」なのだと思います。
千歌が「あそこにあったんだよね?私たちの輝き...。」と「優勝旗」に重ねる「自分の輝き」。それを家族は「否定」します。
千歌は元々「負けず嫌い」だった。けれども「周囲の目線を気にして」その「要素」を隠していた。
だから千歌は本質的には、昔から今に至って「特別変化していない」と評価する。
そして元来千歌は、「自分の可能性を捨てないで、何度でも挑戦し続ける特性」を持った人であり、それこそが千歌自身の「輝き」なのだとも「評価」する。
そうすることで千歌の「自分自身には輝きは無く、自分はスクールアイドルとして優勝することで輝きを得たのだ」という認識を「否定」する。
そうではなくて「千歌は本質的に輝きを持っていて、スクールアイドルとの出会いは千歌のその本質敵な輝きを開花させたに過ぎないのだ」という評価を千歌に与える。そしてその価値観を視聴者である「我々」にも共有する。
そうすることで、幼少時代を含めて千歌が「頑張ってきた過去」全てが「肯定」されていき、「スクールアイドルとなる以前」の千歌本人が「輝き」を持っていたこと自体も「肯定」されていくのです。
即ち千歌本人の中に元々あった「輝き」そのものが、この会話を経て「肯定」されていく。
そしてそれだけではなくて、千歌が本来持っているもう一つの「輝き」。
「常に新しいものに挑戦していくこと」をも「肯定」されていくのです。
千歌が「自分には何もない」と思ったからこそ続けてきた「挑戦」。
それもまた千歌個人が持った「輝き」として「肯定」されていく。
何度飛ばしたとしてもやがては落ちてしまう紙飛行機。しかし、それは逆に考えれば「飛ばそうという意志」を以て「飛ばし続ける限り」は本当の意味では「落ちないもの」でもあります。
そしてそれは千歌という人そのものの「メタファー」でもあるわけです。
飛んで行った先で「落ちる(0に戻る)」と分かっていたとしても飛び続ける。そして「0」になった先でまた「1」を目指して飛んでいく。
そうやって常に未来に向けて「希望を描いていく」こと、その行動をもって「輝いていく」こと。
夜空に留まって光り続ける「光」になるのではなくて、常に動き、その姿を以て誰かの心に「希望」を巻き起こす「光る風」になること。
それこそが高海千歌の「輝き方」なのだと思うのです。
そんな辛い「輝き方」ってありなのか?と思われるかもしれません。
けれども僕らは大概千歌と同じ「輝き方」を目指すしかない。
「普通」の自分を受け入れた上で、それでも勇気を振り絞って「自分の可能性」を信じて、「未来」に向けて自分を「投げ続ける」。
その中から生まれるかもしれない「輝き」を。
その「輝き」を見た誰かが「次代」にその「輝き」を繋いでくれることを。
それだけを「信じて」、ひたすらに、真っ直ぐに、ガムシャラに生きていくしかない。
それだけが「普通」の僕たちに残された、唯一の「輝く方法」であり、「戦い方」なのだと思うのです。
そしてそんな「戦い方」を僕らに伝えてくれるからこそ、千歌は「無慈悲な現実に戦いを挑む勇気ある人々の物語」である「ラブライブ!サンシャイン!!」において、「主人公」といえる立ち位置を得ているのだろうとも思うのです。
...ということで高海千歌編でした。。
いやぁこれは難産でした。正直丸で納得はいっていませんけども、とりあえずなんとか形は整えられたかなぁとは思っています。。
うーん、書き足りなかった所は何かで補てんするか、2期総括で埋めるようにしますね。
さてキャラクター編はこれでお終い.........
って思いますよね?
ところがあと少しだけ続くんじゃ。
次回
「キャラクター編は遊びじゃない!!」
お楽しみに。
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