Love Live!Aftertalk!

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~みんなで歌う消えない「夢」~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第24話(2期11話)「浦の星女学院」

 皆様こんにちは、そしてこんばんは。

前書き面倒くさいのと、本文長くなるので、今日は挨拶にとどめたいと思いますw

早速参りましょう。

#11「浦の星女学院」です。

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閉校祭 変化するモチーフの使用法

2期11話という話数。これは無印「ラブライブ!」において酒井監督が演出を担当された、「私たちが決めたこと」と同じ話数。同監督の名声を高めた回だけに、恐らく監督にとっても思い入れのある回。それだけになんらかの「仕掛け」があるのでは?と考えた方も多かったかもしれません。

結果的に、その思惑は部分的にではありますが当たったのかもしれません。今回のお話と「ラブライブ!」2期11話には共通したモチーフがあります。

それは言わずもがな「終わり」というモチーフです。どちらの回でも「終わり」が描かれ、それが物語内で重要な「要素」となりました。しかし注目したいのは、その「使い方」です。

#11「私たちが決めたこと」で穂乃果たちが決めた「μ'sのこれから」。この回では、それを告げるために用意された「ただの一日」が、「終わり」の「宣言」をきっかけに「特別な一日」へと「変化」していきます。そして結末に訪れる「爆発的なエモーション=悲しみ」に、物語最大の盛り上がりが集約されていく構成となっていました。いわば終盤に向けて「ただの一日」が「終わりを告げるため」のある種の「祭り」へと変わっていくのが「私たちが決めたこと」という物語の「キモ」だったように思えます。

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反面今回の#11「浦の星女学院」では、初めから「終わりを告げるための祭り」が舞台として「設定」されています。

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Aqoursのメンバーでなく、浦の星女学院の生徒たちが考えた「閉校祭」という名の「祭り」。それは「終わり」を「悲しむ」のではなくて、「バーッと盛り上げる!」即ち「盛大に祝う」ための「祭り」です。

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「終わり」をある種「悲劇的」に描いた「私たちが決めたこと」とは真逆の意味合いを持って設定された「閉校祭」。

今回は「私たちが決めたこと」をなぞる「構成」を使用しながらも、まるで違う結末へと物語を導いていく、両方の作品に携わる「酒井監督にしか出来ないリブート」が為されているように思えます。どのあたりが「リブート」なのかに関しては、おいおい触れていくことといたしましょう。


物語のモチーフ

「閉校祭」の目玉。それは、生徒それぞれが「学校でやりたいこと」をやること。それは理事長だろうと、生徒会長だろうと変わらない。あるいは在校生でなくても良い。卒業生でも良い。とにかく浦の星に関わる「全ての人」が、学校で「やりたいこと」をする。

それが「閉校祭」という祭りの「主な狙い」なのです。

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で、早速ここが「私たちが決めたこと」と共通するポイント

「私たちが決めた事」では、「何をするか」のあてもなく集まったμ'sの9人が、それぞれ「やりたいこと」を言う物のまとまらず、結論として「全員のやりたいこと」を「一日でやりきる」ということになります。

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このお話と今回の「浦の星女学院」とは外観こそ違えど共通するモチーフに彩られています。

「限られた1日」の中で、「やりたいこと」を「全部やる」。

その中で「限られた一日」の「価値を知る」。そんな物語だからです。

また、このように物語の骨組みを理解することで、物語同士の「比較」も容易になります。

「私たちが決めたこと」は、「μ's9人」を主役とし、彼女達9人がそれぞれの「やりたいこと」を「9人全員」で行う中で、「ただの一日」の「価値」を理解していくお話でした。

今回の物語をこの枠組みに当てはめてみましょう。

そうすることで、この二つの回を別ける「大きな要素」が見えてきます。

それは「私たちが決めたこと」での主役は、あくまでも「μ's」であったのに対し、今回の物語の主役が「主人公=Aqours」ではなく浦の星女学院の生徒」および「学院に関わる全ての人」へと置き換えられている...ということです。

今回の物語における主役は「Aqours」だけではなく、「Aqours」を含めた「浦の星女学院に関わる人々」全員である。

この前提を念頭に置いておくと、よりその後の物語全体の構成や意図も呑み込みやすくなるような気がします。

 

それぞれがやりたいこと

「私たちが決めたこと」に倣って構成されている今回のお話。だからこそAqoursのメンバーも「自分達がやりたいこと」をこの一日で目いっぱい「楽しもう」とします。

鞠莉の「やりたいこと」は「シャイ煮プレミアム」の完成とそれを振る舞うこと。

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ダイヤは「浦の星女学院の生徒会長」としては決して見せなかった彼女自身の「本質」=「スクールアイドルマニア」としての矜持を示す催し=「ラブライブクイズ」を...。

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ルビィは「姉と一緒に姉の大好きな事をする」という「願い」を叶えていきます。

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ルビィは人気者。衣装面では2年生の催しのお手伝い。

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和カフェの衣装に身を包んだ梨子。

函館でも鹿角姉妹の衣装にいたく感動していた梨子。彼女の「趣味の真相」は不明ですが(笑)、どうやらこれは「梨子がやりたいこと」なのかもしれませんね。

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(参考資料from梨子)

ルビィに振られた格好の善子。彼女がやりたいのは「占いの館」のようです。

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思えば一度「披露した」ものの、同級生に全力で「ひかれた」ために、あれ以降披露していない「占い」。彼女はこのタイミングで、あの時の「リベンジ」を期しているのかもしれません。やはりどこまで行っても「あきらめが悪い」のが善子。そこが彼女の魅力でもあるのですが。

そんな善子に付き合う花丸。彼女自身の「やりたいこと」は何なのか。その辺はまた後程という感じでしょうか。

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揉めつつも、淡々と準備を進める花丸と善子。もはや名コンビ感すらある二人。もう少しこの二人のサイドストーリーも見てみたかったですね~。

花丸が目線を上げた瞬間に見かけた「怪しい影」。

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廊下を疾走する二体の「まるふわな物体」。彼ら(彼女ら?)が向かう先へと導かれるメンバーたち。そこで出会う「者たち」にも、なんらかの意図があるような、無いような。そんな予感だけはします。

折角なので、ここに関してもちょっとこじつけてみましょうか(笑)。 

 

新旧うちっちーとしいたけと資料室と。

千歌たちが追いかける「まるふわな物体」。それは「初代うちっちー」と「現うちっちー」の着ぐるみ二人です。

 「うちっちー」といえば曜という位、結びつきの深い両者。

となれば「現うちっちー」の中身は曜?

だとすれば「初代うちっちー」の中身は一体誰??

そんな疑問をもとに二体を追いかける千歌たち。

しかし、千歌の呼びかけにも一向に答えない二体。「中の人」が分からないからこそ、ちょっぴり「不気味」でもあります。

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二体に導かれて千歌たちがやってきたのは、謎の部屋。

ダンボールだらけの様子から、どうやら「資料室」のようにも見えますが...。

そこに入っていった「白い影」。その正体を探るべく、千歌・梨子・花丸の3名が資料室内へと入っていきます。

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闇の中でうごめく「白い影」。その場所を突き止める梨子。

誰もが恐れるその「白い影」に勇猛果敢に立ち向かうのは、やはり千歌。

覆いかぶさった白い布をはぎ取ると!!!

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....まぁ、なんとなく分かっていましたけど「しいたけ」でした。

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何故だか学園にもぐりこんだしいたけ。「幽霊の正体みたり~」ではないですが、ホッとする一同。そんな一同の背景に佇む「まるふわ」な「アイツら」。

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ビックリして声を上げたルビィと善子に驚いたしいたけは、暴走。

なんと「閉校祭」のアーチを「押し倒してしまう」のでした。あらあら。

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アーチの倒壊によって元から押していた準備が、「決定的」に押すことになってしまいました。ということで「閉校祭」の準備は一夜がかりに。

...さて、こうしてシーンを振り返ってみるといよいよもって「このシーンなんの意味があんねん??」としか思えない一連のシーンなのですが(笑)。折角だから考えてみましょう。もちろん、僕の「妄想」です(笑)。

まず校内を走り回る「新旧うちっちー」は何なのか。

後々中身の正体が明らかになるわけですけども、この時点では「中の人の人格」が極力「見えない」ように描かれています。

これは、恐らく「中の人」と関係なく、「新旧うちっちー」がこのシーンにおいて、「何らかの意図」を持った「モチーフ」として起用されているためなのでは?と思えます。

じゃあ「なんのモチーフやねん?」と言われれば、恐らくそのままで。

「過去」と「現在」を象徴する「モチーフ」なのかしら、と思えます。

なんで学校の中を「過去」と「現在」を象徴する存在が「走り回っている」のかと言えば、それはまさしく「閉校祭」がそういった「催し」だからではないでしょうか。

浦の星女学院」の「過去」に携わった人々と、「現在」に携わっている生徒たちが、この1日の中で学校内外において動き、交錯する。その中で浦の星女学院の価値」を見つけていく。そしてこの催しを通して見つけた「価値」を「未来へと継承していく」。「閉校祭」という祭りには、そんな「願い」も込められています。

 校内を走り回る「新旧うちっちー」は、一つの学校の中で巡りあう「新旧の価値観」を視覚的に表現したもの...という風にも考えられるのです。

となるとこの2体が「資料室」へと千歌たちを誘い、そこで「白い影」と出会わせるのにも、なんらかの「意図」があるのかも?と思えてきます。

「現在」と「過去」というモチーフに当てはめれば、「千歌たち」は「現在」であり、「資料室」は「過去」である。

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(実際、資料室に迷い込む5人は1年生と2年生のみ。既に「未来」を見据えている3年生は含まれていません。)

即ち「資料室に迷い込む千歌たち」という状況は、「過去」と「現在」とか交錯している状態になっているわけです。

では、この「交錯」した状態から、彼女達が「出会うもの」とは何か。

それは先ほど考えた通り「未来へと継承していく価値観」なのではないでしょうか。

このブログではたびたび「犬」というモチーフを真剣に考えたきたわけですが(笑)、今回もしいたけには何らかの「役割」が課せられているように思えます。

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これまでも「運命」としての役割を託されてきた(と僕が勝手に考えている)しいたけ。今回もそれと近い役割を与えられているように思えます。

「過去」と「現在」とが巡りあう中で、千歌たちがつかまえたように思えた「未来」。あるいは「運命」。しかし「過去」と「現在」とが重なる刹那に、掴まえたかのように思えた”それ”は千歌たちの手をすり抜け、意図せぬ方向へと走り出します。

それは恐らくこの時点では、千歌たちが「未来」を手にする「準備」が整っていなかったからではないでしょうか。

それぞれが「やりたいこと」を見つける中で、その「やりたいこと」を表明できていない人がいる。だからこそこのタイミングでは「未来」は掴めない。

その代わり逃げ出した「運命」の思し召しによって、与えられた「追加の時間」。それによって「やりたいこと」を表明できていない人へ、それを「表明する」時間が与えられる。

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ここでしいたけが果たす役割とは、その「時間」を与えるための天使的な役割なのかな、とか妄想できるわけです。

 

みかんについて

 今回不思議と登場する回数の多かったものといえば「みかん」

しいたけ暴走の原因となった美渡から振舞われるのはみかん鍋

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(どうやら本当にある鍋のようですね。静岡ではなく九州エリアの名物のようですが)

そして閉校祭を訪れた志満と美渡によって振舞われている焼きみかん

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この二つがどういった意図を以て用意されているのか、というと恐らく「可能性」に関するモチーフなのかな?と感じました。

「みかん」そのものはアレンジする必要が無いほどに「確固たる価値観」を持っている存在です。もはや「進化する可能性」を考えづらいもの。そんなものでも「様々な可能性」を秘めている。その「可能性」を象徴するのが今回の「みかん鍋」であり「焼きみかん」なのかなと感じました。

また「みかん」は作品内では千歌を象徴するものです。

となれば、これらは「千歌の未来に対しての可能性」のメタファーであるようにも思えます。

「みかん」のように「固定化されて変化しようがないもの」は、千歌が語る「普通」に近しいものかもしれません。

しかし、そんな「みかん」にでも「無限の可能性がある」。そしてその「可能性」を目視化するのが、千歌にとっての親族である志満と美渡である...というのも象徴的です。

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二人が信じる「千歌の可能性」と「千歌が作り出す未来への期待」が、実は「みかん」に象徴されているのかも?という仮説はどうでしょうか?

空(カラ)のうちっちーと曜の「夢」

 深夜にまで及ぶ「閉校祭」の準備作業。しかし誰もが皆楽しそうに作業をこなしています。「終わり」のための祭りなのに、誰もがそこに「悲しみ」だけを感じているわけではなく、明日開催される「お祭り」への期待感を感じている。

「終わっていくこと」を「楽しむ」。これは今回の物語のキーになっていく考え方ですね。

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みかん鍋が振舞われる中で明らかになるうちっちーの「正体」。

やはり「初代うちっちー」の中身は果南でした。

海キ〇ガイである果南の「やりたいこと」は、自分が心の底から愛する「内浦の海」を校内で再現すること。実に果南らしい思惑でした。

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となれば当然「現うちっちー」の中身は曜...のはず。

しかし声をかけても「現うちっちー」は何も答えず。業を煮やした善子が手をかけるとグラッとふらつき、倒れてしまいました。

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中に誰もいませんよ...?状態)

中にいたはずの曜はここにはいない。ではどこに行ってしまったのでしょう。

さっきまでは「過去」と「現在」を象徴していた「新旧うちっちー」は、この時点でそのモチーフとしての役割を終え、このタイミングでは「果南の夢=内浦の海を浦の星に再現する」を象徴する存在へと変化したように思えます。

だからこそ果南は「うちっちーと同化した状態」でその「やりたいこと」を口にしている。しかし曜はうちっちーの「中にはいない」。

これは即ち、この「やりたいこと」は果南にとっての「やりたいこと」であって、曜はそれを「手伝っているだけ」に過ぎず、曜の「やりたいこと」はそれとは「別にあること」を示しているのかなと考えられます。

曜の不在に「何か」を感じ取った千歌。曜を探しに行きます。

かくいう曜は一人で入場アーチを修繕していました。

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アーチの倒壊によって引き伸ばされた「一日」。

であれば、それを修繕している人物こそがその「引き伸ばされた時間」によって「救い」を得る人物なのかもしれません。

校門近くに置かれた寿太郎みかんの箱。ラブライブ!サンシャイン!!を追いかけ続けた人であれば、誰もがピンと来るシチュエーション。

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キョロキョロと辺りを見回し、箱に乗っかる曜。彼女が「再現」するシーン。

それは「スクールアイドル部の募集」でした。

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「あなたも!あなたも!あなたも!!スクールアイドルはじめませんかー!!」

第1話。スクールアイドル部員募集を呼びかける千歌をただ横で見ていた曜が、この時初めて「千歌と同じ目線に立つ」。そこにどれだけの「意味」があるのでしょうか。

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第1話の千歌と同じ行動をとる。そこに曜が「託した思い」。この後のシーンで曜本人の口からも明言されますが、彼女の「願い」とは「千歌と同じ目線を手に入れる」ということでした。

曜と千歌の「これまで」の物語は、想像の域を出ないもの。故に具体的な明言は何もできません。ただ「曜が千歌と同じことをしたい」と思いながらも、その「願い」はなかなか「成就」してこなかった事実は、これまでも語られてきました。

けれどそんな曜が千歌と「同じ目線」を手に入れることが出来たのは「スクールアイドル」というフィルターを通したからこそ、でした。

「なんでもできる」曜が、唯一「想い通りにならないもの」を感じることが出来たのは「スクールアイドル」としての活動を通してのもの。

「勝てない悔しさ」も、「叶わぬ願い」も、そこから生まれる「新しい願い」も、そして全員で手にする「一つの得難い達成」も。全て「スクールアイドル」が曜に与えてくれたものです。

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そしてそんな「スクールアイドルとして過ごす日々」が結果として曜に「千歌と同じ目線」を与えるに至りました。

曜が「千歌の行動」を再現する。それはあの日「同じ目線に立ちたい」と願いながらも立てなかった自分自身を「救う」行為のように思えるのです。

 

二人の「やりたいこと」

曜の呼びかけに答えるようにして現れる千歌。二人が語るのは「閉校祭の準備に沸き立つ学校」に関して。

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「閉校祭」という「終わり」へと向かう準備をしているにも関わらず「活気に溢れている校内」。そこには「終わり」を見つめるからこそ生まれる「輝き」があります。

「外は普通なのに、学校の中はみんなの夢でわくわくしている。

 時が過ぎるのも忘れていて。好きだな、そういうの。

 ずっとこのままだったらいいのにね。明日も明後日もずーっと。

 そしたら...そしたら。」

 

「ずっと終わらないでほしい」。そう思えるくらいに「楽しい時間」。けれども時間は絶対的に有限で。必ず明日はやってくる。だからこそ人は「時の有限性」と「その時の大切さ」を知る。「二度とない時間」だからこそ、その日を「精いっぱい生きよう」とする。

一見「後ろ向き」にも聞こえる千歌の言葉ですが、その背景にはここまでの物語を通じた「彼女自身の気づき」が裏付けとしてあります。だからこそ「彼女自身が紡ぐ言葉」と「真意」とは「別である」ことが私達にも曜にも分かるのです。

もしかしたらこれは、これまでの曜だったら気づけなかったことなのかもしれません。けれど今の曜ならば気付ける。だからこそ笑顔を見せる。

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「私ね...千歌ちゃんに憧れてたんだ」

「千歌ちゃんが見ているものが見たいんだって」

「ずっと同じ景色を見てたいんだって」

「このまま皆で、お婆ちゃんになるまでやろっか?」

「千歌の見ている景色」が自分にも理解出来るようになったからこそ、曜から千歌へ告げられる曜自身の「やりたかったこと」。

曜の言葉をそのまま解釈すると「閉校祭をお婆ちゃんになるまで続ける」という意味不明な解釈になってしまいますが、これも一種のメタ的な表現で。

その真意とは「今日を最後の一日だと思って生きる」ということなのかなと思います。

「閉校祭」を前にして皆が活き活きとしているのは、それが予め「終わる」ことを運命づけられた「祭り」だからです。

即ち「終わる」ことが分かっているからこそ、「終わらないでほしい」という願いが生まれ、それが「祭り」そのものの「輝き」にもつながっていく。

これは実のところ人生にも繋がるのではないでしょうか。

「今日」をただ漠然と過ごすのではなくって、「二度とない今日」だと思って生きれば、その一日にも「輝き」が生まれる。自分の「毎日」を「愛する」ことで、生まれる「輝き」。それが連続していくことによって「人生」そのものが「輝き」だす。

曜が「お婆ちゃんになるまで続けよう」と言っているのは、即ちそんな「生き方」そのものに関してなのかもしれません。

「人生を愛せ」

それは「ラブライブ!」のタイトルそのものでもあります。無印「ラブライブ!」は確かにその名の通りの「人間賛歌」でもありました。

ただし「ラブライブ!サンシャイン!!」はその「先」のメッセージを描こうとしているのかもしれません。ただ「人生を愛す」だけではなくて、主体性をもって「人生を輝かせる」。

「輝きを待っていた」「ラブライブ!」と違って、「私たち輝きたい!」と願う人々の物語、それが「ラブライブ!サンシャイン!!」です。

二人が「終わり」を見つめる祭りの中で見出した「願い=やりたいこと」には、そんな「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語そのものの「テーマ性」すらも内包されているように感じられます。

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善子が「見通せるもの」

 いよいよ開催される「閉校祭」。賑わう催し物をよそに一向に盛り上がっていない催しが。

それは善子の「占い部屋」でした。

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花丸の必死の勧誘によって無理やり占われることになる千歌(笑)。

しかし、善子の占いは案の定「丸で」当たりません。だから閑古鳥が鳴いているのですね....。

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2期5話記事でも触れた通り善子...もといヨハネとは、「ヨハネであり続けるために、運命や見えない力を肯定し続けなければいけない運命を背負った」存在です。

ishidamashii.hatenablog.com

「自らの手によって必然を手繰り寄せる」。それは「占い」にも共通する要素かもしれません。ただしAqoursのメンバー内で誰よりも「現実的」な善子...もといヨハネには「不向き」なものでもあります。

そんなヨハネの「願い」を叶えようとするのは花丸。

2期3話でもヨハネに「じゃんけんでの勝利」をもたらせたように、ここでも「ヨハネの願い」を達成できるように見守っています。

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ここまで明らかにされていない花丸の「やりたいこと」。それはどうやら「善子の願いを叶えること」なのかもしれません。

2期3話記事でも触れた通り、「自らの物語」を描くことが不得手な花丸にとって、自分と似た存在ながら躊躇せずに「自らの物語」を描いていく善子は「応援の対象」。それは1期時点でのルビィと同じ。「自分の殻を破ろうともがいている存在」を「応援」することこそが「花丸がやりたいこと」なのでしょう。

以前は理解者が花丸しかいなかった善子...もといヨハネ

しかし2期5話を通して新たな「理解者」を得ました。それこそ梨子...もといリリーです。

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千歌の示す「夢へ向かう方法」をいま一つ理解しきれなかった梨子が、「自分のやり方でも良いのだ」と理解し、救われることとなったキッカケ。それは「犬を巡って」善子と過ごした数日間の物語でした。

「善子ちゃんの夢を叶えてあげたい」

そんな二人の願いは、そのまま自分にも跳ね返ってくる願いでもあります。

それを理解してか、千歌が善子に依頼する「占い」は「Aqoursの未来」に関して。

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「自らの手で掴み取る必然」を信じる彼女達に、千歌から与えられる「自らの手で掴み取り得る必然」の可能性。

違う方向から「夢」を追いかけた両者が、ここで重なり合い、同じ「未来」へと歩みを進めていく。

個人的に2期5話を深く思考した身として、その思いが結実したような気がしたシーンでした。

 

バルーンアート~空へとばらまかれる夢~

 456の3人によって用意された「サプライズ」。それは浦女の名前をあしらったバルーンアートでした。

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これは明確に「劇場版ラブライブ!」での「SDS」のシーンを想像させるものでした。

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劇場版では、空へと舞いあがる無数のバルーンに、μ'sがつなげた「スクールアイドルの未来」が重ねられていたように、この日浦の星女学院の屋上から舞い上がった無数のバルーンには「浦女から旅立つ生徒たち」の「未来」が重ねられているように感じられました。

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「終わり」に「希望」を乗せる描写。やはり「劇場版ラブライブ!」との強い関係性をここからも感じますね。

 

■終わりと始まり

 バルーンシーンに続いて始まるモノローグ。要はここを聞いてしまえば、今回の物語そのものが全て理解できる。そんな素晴らしいシーンでした。

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楽しい時間というのはいつもあっという間で。

そこにいるだれもが、この時間がずーっと続けばいいのにと思ってるのに。

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でもやっぱり終わりは来て。

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時が戻らない事、もう一度同じ時間を繰り返せないことが、とてもさみしく思えるけど。

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同時にどうなるのか分からない明日の方が、ちょっぴり楽しみでもあって。

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あぁ、これが時が進んでいく...ってことなんだなって、実感できるずら。

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そして気付く。きっと二度と同じ「時」は無いから。この時が楽しいって思えるのかな。

今こうしていることがたった一度きりだって分かっているから、全力になれる。

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いつか終わりが来ることを、皆が知っているから。終わりが来てもまた、明日が来ることを知っているから。

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未来に向けて、歩き出さなきゃいけないから...。

皆笑うのだろう...!

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「終わり」のモチーフとなるキャンプファイヤー。それを囲んでもなお、笑顔を絶やさない浦の星の生徒たち。

名もない生徒が全開の笑顔でキャンプファイヤーを廻るとき。その笑顔が屈託がないほど、こちらの胸が締め付けられるような切なさを感じます。

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「終わり」を「終わり」として受け止めるのではなくて、「新しい始まり」として受け取る。これは正しく「HAPPY PARTY TRAIN」と世界観を一致するものです。

楽曲PVで果南が座っていた「祭りの後」の教室。あれこそまさに「閉校祭」へと繋がるモチーフだったのだな、と今点と点が繋がる思いでいるファンも多いことでしょう。

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こうして空へと放たれたバルーンと同じく、彼女たちの「願い」もまた「HAPPY PARTY TRAIN」に載せられて、はるか未来へと運ばれていくのでしょうね。

 

■鞠莉の謝罪

 祭りの終わりを締めるのは、理事長の言葉。

今日1日を通して、鞠莉が実感したもの。それは「この学校がいかにこの地域に愛されていたか。そしてどれだけ大事な存在だったか」ということです。

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それはこの日参加した誰もが実感したこと。ただし理事長である鞠莉にとっては、また違う受け止め方をせざるを得ないものでもあります。

「ごめんなさい」

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深く頭を垂れる鞠莉。その謝罪は理事長として「学校を存続させられなかった」ことへの謝罪の言葉です。

もちろん、物語を通して見てきた我々にとって、鞠莉一人にその責任があるとは到底考えられません。

学校の財政状況だけでなく、地域の過疎、減り続ける子供、学校の所在地の通いづらさなど複合的な要素があるもの。その責任を鞠莉一人が背負いきれるものでもありません。

しかし、鞠莉はどうしても「謝罪」したかったのだと思います。

それは彼女がこの学校の「理事長」だからです。もちろん父親が管理している学校だから可能となった「ウルトラC人事」でもありますが、それでも彼女が自らの責任において、この職務を歴任することとなったのは、彼女自身の希望でもあります。

そこには当然「責任」も含まれる。彼女はそこの「重さ」をきちんと理解している。

だからこそ、鞠莉は「謝罪」するのだと思います。

確かにシナリオ上、彼女にここまでの「苦しみ」を与えるべきなのか。それは分かりません。ただ、小原鞠莉という人は、こういった問題を「しょうがないよね!」と済ませられない人なのです。

彼女は本気で「学校を救いたかった」。それは2期10話で語られた通り、この地域とそこで出会った人々が「小原鞠莉」という人格形成に大きく寄与しているから。

そしてなによりも彼女がこの場所を「愛しているから」にほかありません。

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「愛するもの」を守るため、誇りもなにもかも捨てて走り回り、その達成だけを目指しながら、その本質は常に他人には見せない。

「強い意地」と「プライド」を持ちながらも、その「努力の形跡」は人には決して見せたがらない。

そんな「矜持を持った人物」だからこそ、この場面では「謝りたかったのだろう」と考えれば、きっとこのシーンを介して、小原鞠莉というキャラクターがもっと好きになれるような気がするのです。

 

Aqoursに託されるもの

 鞠莉の謝罪。それは「皆にとって大事な思い出や夢の拠点」である「学校」を救えなかったことに対する謝罪。

即ち鞠莉の謝罪を受け入れるということは、「学校が無くなった時」には「夢や思い出」も「消えてしまう」ということを受け入れることにもなってしまいます。

だからこそ、生徒たちは鞠莉の謝罪を「受け入れない」。

その代わりに彼女達が挙げるシュプレヒコールは「Aqours」の名前です。

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なぜ「Aqours」の名前を叫ぶのか。それは「Aqours」こそが「浦の星女学院」の「名前」も、「歴史」も、「思い出」も、その他諸々全てを、次代へと「伝えていく」「可能性」だからです。

「学校」の建物も、名前も消えてしまったとしても、決して消えない「希望」。それを浦の星の生徒たちは「Aqours」へと既に託している。だからこそ「学校がなくなること」への「謝罪」は受け入れない。

代わりに「Aqours」の名前を叫ぶ。

Aqours」が叶えていく「未来」と、伝えていく「希望」に、自分達の「想い」をも乗せていく。

そしてその「声」が、鞠莉を救っていく。

「責任」を前に立ち止まっていた鞠莉。物理的にその背中を押したのはダイヤでしたが、彼女がそこから一歩踏み出すきっかけをあたえたのは、浦の星の生徒たちの声でした。

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「浦の星」に関わる全ての人々の後押しを受けて、鞠莉もまた、自らの「カセ」を一つ、乗り越えたのかもしれません。

 

■みんなで歌う「消えない夢」

このまま終わると見せかけて、視聴者を驚かせた最後の仕掛け。

波に流され消えていく「Aqours」の文字。

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そこに重なるのは、祭りに参加した全ての人で歌う「勇気はどこに?君の胸に!」でした。

「やりのこしたことなど ない 

 そう言いたいね いつの日にか

 そこまでは まだ遠いよ」

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「浦の星」の「想い」を救うのは、「Aqours」がラブライブで優勝すること。

だからこそ、その「願い」を込めて、「挑戦」することの意味を「全員」で歌う。

「だから僕らは 頑張って挑戦だよね」

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波にのまれて消えていくAqoursの文字と同じように、終わっていくものたち。

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閉校祭は終わり、歌も終わり、キャンプファイヤーも消えていく。

そしてやがてラブライブも終わり、Aqoursも活動を終え、学校そのものも無くなって行く。

それでも「消えない」ものもある。

それは、この日この場所で歌に託した「夢」であり、「願い」でしょう。

例えその「存在」が消えたとしても、それを信じた人たちの胸に残っていく「夢」や「願い」が、新たな「夢」を作り出す。

それが続く限り「夢は消えない」。

砂浜に書かれた「Aqours」の文字が消えてしまうのは、確かに悲しいことです。

しかし、「Aqours」に夢を託す人がいる限り、砂浜の文字はきっと何度でも蘇る。あの日砂浜に「Aqours」と書いて、千歌たちに「夢を託した」ダイヤがそうだったように。

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例え「Aqours」が終わってしまったとしても、その思いを受け継いだ人たちが、自分なりのやり方で新しい「輝き」を追い求める限り、「Aqours」は消えません。

何故ならその夢を受け継いだ人の「心の中」で、いつまでも「光り輝き続ける」からです。

つまり「消えない夢」というのは、そういうものなのかもしれません。

 

■千歌の「やりたいこと」

ここは余談ですが。

今回無印2期11話に沿った構成を取ったために、それぞれの「やりたいこと」を叶えていくのが、メインストーリーとして展開されていきましたが、千歌が「やりたかったこと」というのが、最後まで分かり辛かったように思います。

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2期1話から千歌が悔やみ続けたのは、「MIRAI TICKET」を「生徒全員で歌えなかったこと」でした。

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あと一歩届かなかった「輝き」。その要因の一つとして千歌が思っていた「無念」がそれだったように思えます。

Aqoursはあくまでも「9人」のアイドルグループなのだと捉えてしまう我々と違って、千歌は常にAqoursとは「浦の星女学院の生徒全員」なのだと考えてきた人です。

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そんな千歌が未だに叶えられていない「やりたいこと」。それは「生徒全員でAqoursの曲を歌うこと」だったのかなと思います。

あの日届かなかった「輝き」に対する「無念」。その「無念」を払しょくし、「ラブライブ」本選へと臨むこと。発端は生徒たちであり、鞠莉の呼びかけでもありましたが、結果的に今回のEDによって、千歌の「やりたいこと」も叶ったのかな?という風に感じました。

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「やりたいこと」を叶えた末に、「終了」というエモーションへとたどり着く「私たちが決めたこと」に対して、「終了」という発端から、「千歌のやりたいこと」へとたどり着くという構成になっていた「浦の星女学院」。

いわば逆回しで物語を紡いだ格好になります。

こんなところにも脚本上のテクニカルな面が見えて、対比させる意味でも面白い回でしたね。

 

と、いうことで#11「浦の星女学院」でした。

ちょっと触れなければいけない要素が多すぎて、書いてて頭痛くなってきたくらいなので、後々推敲して大幅に直すかもしれませんが、とりあえずはこれが精いっぱいです(笑)。

次回「光の海」!!どうなる!!!?

 

 

~9人だけの約束の場所~ラブライブ!2期 ハイライト #11「私たちが決めたこと」

前書き

※こちらは「ラブライブ!サンシャイン!!2期」第1話放送直後くらいに書かれた記事なので、現在の視点では整合性が取れない部分もあるとは思いますが、敢えてこのまま掲載することといたします。

本当であれば「ラブライブ!サンシャイン!!2期」放送終了後に更新を再開する予定でしたが、決して「繋がりが無い」ともいえない2期11話放送直後の今の方が、振り返る価値があるのかもしれない?と思い#11のみこのタイミングで更新することといたします。

2017年 12月20日

 

 

こんにちは、或いはこんばんは。

ラブライブ!サンシャイン!!2期の放送がはじまり、すっかり私もそちらにかかりっきりになりがちなのですが。同時並行的にこちらも進めて行こうと思います。

今回は2期において最重要回と見る人も多いであろう「私たちが決めたこと」です。こちらはラブライブ!サンシャイン!!で監督を務めていらっしゃる酒井和男監督が、総合演出をされている回ということで、サンシャインとも関係性の深い回。

実の所考察すべき要素もそれほど多くは無いのですが、このタイミングにぜひ「演出面」も含めて振り返って頂ければと思います♪

参りましょう#11「私たちが決めたこと」です。

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■#11あらすじ

季節は高校受験。廃校が阻止された音ノ木坂でも受験が行われ、雪穂と亜里沙も音ノ木坂を受験します。結果は見事合格。二人は来年より音ノ木坂の生徒になることに。合格を姉に報告する亜里沙。「μ'sに入る!」無邪気な亜里沙の希望は、μ'sメンバーが自然と見ないようにしていた「事実」を白日の下にさらすこととなる。「3年生が卒業したらμ'sはどうなるのか」。ラブライブが終わるまでは、結論を先延ばしにするはずの問題。しかし新しく生まれる後輩たちのために、そして自分達のために結論を出す必要がありますが...。

■#11の主要人物

・高坂雪穂、絢瀬亜里沙

お互いの姉が所属するグループ「μ's」。そのあり方を愛し、応援するファンでもある二人。音ノ木坂に入学することとなり、今度は自分達も「スクールアイドル部」の一員となる事が可能となる。その時自分達は「μ's」の一員になれるのか。なるべきなのか。二人の悩みはμ'sが自分達の行く末を決めるための引き金になり、二人もまた自分達の未来を決めなければならなくなる。二人の決めた崇高な願いは、Aqoursにも引き継がれていく。

 

■受験と卒業

無事継続の決まった音ノ木坂。来年度に向けて新入生を募集し、入学試験も行われたようです。UT-Xを受験するつもりだった雪穂も、元から音ノ木坂への入学を希望していた亜里沙も、音ノ木坂を受験。結果は見事に合格。二人は来年度から「音ノ木坂高校」の1年生になることとなります。

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合格に歓喜する亜里沙、どこか淡々とした様子の雪穂。二人のパーソナリティがここにも現れています。雪穂と亜里沙。μ'sメンバーである穂乃果と絵里の妹である二人。そんなμ'sにとって「身内」と呼べる二人が、今回の物語の起点となっていきます。

元生徒会長である姉=絵里を見つけ合格を報告する亜里沙

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「私μ'sだよ!μ'sに入る!!」

亜里沙にとって、合格=μ'sへと加入すること。もはや「姉の高校だから」とかではなく、「μ'sの母校だから」そして「μ'sの一員となる為」に音ノ木坂を受験したと言っても過言ではない亜里沙。そんな亜里沙の言葉にどこか困惑する様子の絵里。そんな二人を見つめ「一つの疑問」へとたどり着く雪穂。

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自宅に戻り、姉へとその疑問をぶつける雪穂。

「μ'sって3年生が卒業したらどうするの?」

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雪穂の質問は、秋口からメンバー全員が感じながらも、敢えて直視を避けてきた問題でした。しかし、「μ'sへの加入を夢見る下級生」がいる以上、それは本人たちだけの問題ではなくなります。「μ'sをどうするのか」。穂乃果たちは、その結論を求められることになるのです。

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■μ'sに対する視線

3年生が卒業したらどうするのか。メンバー間では「ラブライブが終了するまでは封印」とされていた話題。それは大会に集中するためでもありましたが、同時にそれぞれの考えが違い過ぎたからでもありました。

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アイドルファンであるにこにとって、アイドルは「卒業を積み重ねても新メンバーが加入し、その歴史を紡いでいくもの」という認識。故に「μ'sは解散しない」という考え方。これは現代のアイドル感的にはいたって「普通」の考え方ですね。

メンバーの卒業・引退と同時に「解散」するのが当たり前だった以前のアイドルと違って、メンバーを入れ替えながら継続していくのが現在のスタンダード。しかし、その考え方に疑問を呈すのは、同じアイドルファンの花陽。

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「本当にそれでいいのかな?」

彼女の中に結論があるわけではない。けれども、にこのようには割り切れない。アイドルファンであるという視点を除けば、「μ's」によって「自らの人生」を切り開き、救われた花陽にとってその存在は「アイドル」という枠組み「のみ」で語れる存在ではない。

そしてそれは他のメンバーにとっても同じ。とても「大切」な存在としての「μ's」。だからこそ、その「結末」に関しても、「全員の納得のいく」ものを、全員で決めていく必要があるはずです。

意見を求められる絵里。彼女の答えは「それは私達が決めるものではない」というもの。「卒業していく私達ではなく、残されたメンバーが決めるもの」だから「穂乃果たちに決めてほしい」。

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絵里の判断に従うにこと希。穂乃果たちは、6人で「μ'sの今後」に関して、決める必要性が出てきてしまいました。

 

■憧れ

答えに迷いながらの家路。自宅に着くとそこには亜里沙が。μ'sへの憧れを全くもって隠さない亜里沙。それと同時に「μ'sが続き」「自分がμ'sに加入すること」にもなんの疑いも抱いていません。

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「穂乃果さん、ちょっと見てもらって良いですか?」そう言って彼女が見せたのは、「μ'sミュージックスタート!」の掛け声。

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μ'sメンバーにとっては、とても大切にしている掛け声。穂乃果の中で燻る「何か」がチクチクと痛むもの。それは亜里沙に全くの邪気が無いから、より強調される痛みでもあります。

そんな姉の様子を気遣って、亜里沙を制する雪穂。姉がちょっと暢気な分、妹である雪穂はどこか大人びていて、こんな時にも繊細な配慮が出来る子です。

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繊細な分、μ'sメンバーである姉の「複雑な心境」をも、感覚的に理解している雪穂。「μ's」は姉たちの大切なもの。そして自分達にとっても「大切な存在」。だとすれば、ファンである自分達は、μ'sの「何を尊重すべき」なのか。雪穂は亜里沙に問いかけます。「亜里沙はさ、μ'sのどこが好き?」

二人にとっても大切な結論が、この回では導き出されることになるのです。

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二人がこの日決めた「大切な結論」は、μ'sの「結論」にも少なからず影響を与えることになります。

 

■雪穂と亜里沙の答え

 メンバー間で会話しながらも最適解を見出せないμ's。そんなメンバーを尻目に、雪穂と亜里沙は自分達なりの「答え」を見出します。

二人が決めた結論。それは自分達は「μ'sには加入しない」というものでした。

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 「自分の好きなμ's」。その姿を思い浮かべた時、その中には「自分」はいませんでした。

「憧れる」ことと「同化」することは別。「応援する」対象として自分達にとって大切な存在であるμ's。それ故にその中に「自分が入る」という画を、二人は描くことが出来ませんでした。

雪穂と亜里沙がたどり着いた結論。それは「私達は私達にしか出来ないはハラショーなアイドル」を目指すこと。「μ'sへの憧れ」を胸に残したまま、μ'sとは違う、「自分達にしか出来ないアイドル」を目指す。

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Aqoursも同じ悩みにぶち当たりながら、その迷いを振り払うまでに12話を要しましたが、この二人はその解答にほぼ一日でたどり着きました。

とはいえ、それはμ'sが「自分達にとってとても身近な存在だから」にほかありません。常に見守り、常に応援してきた。だからこそ、彼女達が大切にしている存在としての「μ'sの価値」もより理解している。それゆえの理解の速さなのだと、私は考えています。

二人が導き出した「解答」。これが穂乃果にも一つの「ヒント」を与えることになります。

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■遊びに行こう!

亜里沙と雪穂の言葉をヒントに、1・2年生だけで「μ'sのこれから」に関する考えをまとめた穂乃果たち。

結論を告げるのか...と思いきや、3年生を強引に連れ出し、遊びに行くことになります。

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どこで何をするのかはノープラン。それぞれの出した案もバラバラ。

だったら「全部に行けばいい!」。

オール・オア・ナッシングな穂乃果の案で、メンバー案の全てを「叶える」一日が始まります。

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なんてことないただメンバーみんなで「遊ぶだけ」の一日。

目標も、目的も無い「ただの一日」。

とはいえ、「ラブライブ!」優勝を目指し、日々練習に明け暮れるだけでなく、同時並行的に生徒会活動などをこなす彼女達にとっては、得難い「一日」でもあります。

今の視点でみれば、なんてことない「一日」も、後から振り返れば二度とない「大切な一日」に変わる。

だからこそ、その二度とない「大切な一日」を、この瞬間に刻み付ける。

2期全体で描かれてきたそんなテーマが、ある種象徴的に描かれることになるこのシーン。ここからもこの#11が2期全体のテーマを集約すべく作劇されていること。

そしてそれだけ「大事な回」であることが伝わってくるように思えます。

 

■海

一通り「遊び終えた」一行。

最後に穂乃果の行きたい場所へ。そこは「誰もいない海」。

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あてどもなく電車に飛び乗るメンバー。たどり着いたのは、冬の、誰もいない海。

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度々指摘される通り、本来は「東側」にあるこの国府津の海岸。だとすれば、ここは「日が昇る」方角であり、「日が沈む」方角ではありません。

けれどもμ'sは海に沈む太陽を見る。つまり「ありえない景色」を見ていることになります。

「9人しかいない海に行きたい」。そう願った穂乃果の思いはここに結実して「しまっている」。即ち彼女達は一種の「異世界」へと入り込んでしまっているわけです。

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そんな「異世界」で下す彼女達の「結論」。その「結論」が「歴史」の中に刻まれて「いない」のは、彼女達が「異世界」において下した「結論」だからにほかありません。

即ち完全に「μ'sだけ」の「閉じた世界」で「結論が示されようとしている」ということが、なんとなく暗喩されている、というように感じられるのです。

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穂乃果たちが決めたこと。それは「大会が終わったらμ'sはおしまいにする」ということ。

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彼女達が決めたのは「今」を「永遠に刻み付ける」こと。

本来ならば「μ's」の名前を引き継いで、新メンバーを募集して、穂乃果たちが最上級生となって新たな「μ's」を作っていけば良い。

けれども、それは出来ない。「μ's」はこの「9人」でなければいけない。

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誰よりもスクールアイドルを愛するが故に、最後までその結論に納得がいかないにこ。そんなにこを制するのは、真姫。

「にこちゃんのいない、μ'sはいやなの!私がいやなの」

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もはや「個人的な感情」に着地していくしかない慟哭。

ことほどさように、彼女達の結論には決して「理屈」があるわけではありません。

だからこそ、彼女達の出した結論を我々が「正しい」か「間違っている」かを結論付けることもできません。

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「普通のアイドル」ならばあり得ない「結論」でも、彼女達は「選びうる」。それは彼女達が「スクールアイドル」だからにほかありません。

徹頭徹尾「スクールアイドル」であろうとするμ's。彼女たちの目線の先に「プロ」としての視野はやはりない。だからこそ、μ'sは「スクールアイドル」における「神話」を築き上げることができたのだと、今振り返ると理解できる気もしてきます。

 

■μ's

μ'sとは、メンバーそれぞれにとっての、ごく個人的な「救い」として機能したグループでした。

μ'sの物語には、メンバーそれぞれの「個人的」な物語が深く関与しているように、やはりそこに「他人」が入る余地はない。

それぞれが、それぞれの「輝く方法」を見出すための「場所」として機能したのがμ's。

だからこそ、彼女達の物語は彼女達だけにしか「紡げない物語」である。

それをμ's自身はこの時強く「実感」したのではないでしょうか。

けれども、「μ'sに憧れる人々」は、彼女達の道程そのものを追いかけてしまう。それは何故かといえば、やはりこの結論が示された場所が「閉じられた異世界だったから」と言えるのかもしれません。

だとすれば、それを「公に示す」必要もある。そんな「物語」は劇場版へと繋がっていくのですが、それはまた別のお話でしょうか。

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■「瞬間」を刻み付けるモチーフ

「泣きそうだった」からと慌てて駅に駆け戻る穂乃果。それに続いて走り出すメンバー。辿り着く駅は根府川ですが、国府津の海岸からは10Km以上かかる場所。

ここにも異世界が発生していますね。

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記念に写真を撮ろうと話すメンバー。携帯を出そうとする花陽を制す穂乃果。彼女が示すのは、駅の横にある「証明写真機」。

本来一人で撮影するために使う証明写真機に、ギュウギュウに押し込まれる9人。

どことなくユニークな絵面に、先ほどまでしんみりしていたメンバーも思わず笑い出してしまいます。

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携帯電話、ではなくこの証明写真機を使ったのは、この証明写真機が「ここにしかないもの」だから。

どこでも、いつでも撮れる携帯電話の写メではなく、この場所でしか撮れないもので写真を撮る。これもまた「今」を強烈に刻み付けるための行為なのだと思えます。

 

■「終わり」のモチーフ

笑い声が響く駅。ここにもどうやら9人しかいないようです。

楽しげに証明写真を見せ合うメンバー。その陰で映し出されるのは「終わりのモチーフ」たちです。

例えばそれは、駅の横にある「誰かのお墓」。

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例えばそれは、既に終わっている「受験」のポスター。

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「役割」を終え、ただそこに「佇むだけ」の存在たち。それらのモチーフは、やがては「終わっていく」すべての「物事」に対するメタファー表現として使用されているように思えます。

楽しく笑いながらも、涙がこみ上げてくる花陽。

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「楽しい」から。「今」が「楽しくて楽しくて仕方がない」から。

だからこそ、そんな「今」が「終わっていく」ことを強烈に実感する。

「今」が「楽しい」からこそ、それが終わってしまうことが「悲しくて」仕方なくなる。

「終わりのモチーフ」たちがかき乱すμ'sの心。いつの間にやら証明写真もまた、「終わりのモチーフ」として機能し、彼女達の心をかき乱していくのです。

自然とこぼれ出す涙と、それを抑えきれないメンバー。

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そんな中でも一人決して泣かないのは、にこ。

これまでどれだけ辛くても、苦しくても、決して弱音を吐かずに、一人「運命」と戦い続けてきたにこ。

彼女のそんな屈強なパーソナリティを支えるのは、決して「アイドル好き」だからというだけではありません。

家庭では、不在がちな母親に代って3人の姉妹の面倒を見て、バイトをしながら家計をも支えるにこ。夢見がちなμ'sメンバーの中では、極めて「現実」の「酸いも甘い」も知っているのが矢澤にこという存在です。

だからこそ、こんな時でも「泣けない」。

屈強すぎる彼女のメンタリティが、この場所では逆に彼女を「泣かせない」要素として機能してしまうのです。

そんなにこの心を優しく受け止めるのは、希。

これまでも、にこをそっと見守り、彼女の最大の理解者であり続けた希が、「語ることなく」差し伸べる手。

そこに包まれた時初めてにこは「号泣」する。

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それはたった一人、味方のいない世界で、ただ一人「アイドル」を夢見、その世界にだけ救いを求めて生きて来ざるを得なかった少女と、

そんな少女の「孤独な魂」を、「μ's」というグループを「生み出す」ことで救った「女神」との関係性が、メタ的に表現されているシーンなのだと感じました。

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それまで一度も、誰にも見せたことのないくらい、子供のように泣きじゃくる姿は、彼女の「孤独な魂」が「μ's=女神」との出会いによって、ようやく「救われた」ことの証でもあるように思えるのです。

最後まで「μ's継続」に拘り続けたにこ。

そんなにこにとっても「μ's」とは、極めて個人的な「存在」であることが、ここでは極めて明確に伝わるシーンとなっているように思えます。

かけがえのない「一日」と、その経験をもとに、更に強くなったμ's。

彼女達はただひたすらに「有終の美」、すなわち「ラブライブ優勝」へと駆け上がっていくことになります。

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というわけで、2期というだけでなく、「ラブライブ!」という作品内でも重要な回「私たちが決めたこと」でした。

徳井青空嬢の名演技はもちろん、酒井和男氏の繊細な演出が光った素晴らしい回だけに、「サンシャイン!!」を追いかける際には、是非再試聴していただきたい回でもありますので、もしお時間があれば、2期11話だけでも見てみてはいかがでしょうか??

物語はいよいよ佳境!

ラストスパートに向かう12話・13話は、恐らく「サンシャイン!!」2期放送終了後に更新することとなると思います。。今しばらくお待ちくださいませ。

それでは、今回もお付き合い頂きありがとうございました!

 

~星になれたら~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第23話(2期10話)「シャイニーを探して」

皆様こんにちは。或いはこんばんは。

今回もお時間があれば、お付き合い頂ければ幸いです。

さて、今回は第10話「シャイニーを探して」に関する妄想をお届けします。

一見分かりやすそうな回でありながら、物語終盤の展開とその意図を読み解くには、これまでの「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語そのものの構造を読み解く必要がありそうな回。

久々に酒井監督らしさが出ていて、変な意味で安心してしまいましたが。(笑)

正直、今回も考察するのは野暮であることは確か。それぞれが受け取ったものが正解で良いとは思いますが、一応「受け取った一人」として、そのワンダーを一旦形にさせていただきたく思います。

色々な切り取り方が存在すると思いますが、私は「旧Aqoursに焦点を置いて考えてみたいなと思います。

更にその中で重要な要素となる「流れ星」「星」「車」などの意図を「個人的な見解」で読み解きながら、全体の構成に関して考えていけたら良いなと思っております。

もちろん毎度おなじみですが、これは私個人の「妄想」にすぎません。「正解」ではないので、その辺はお含みおきのうえ、可能性の一つとして楽しんで頂けたら幸いです。

また、意図や意味に関しては、ぜひ皆様からもご意見を頂戴し一緒に考えていけたら楽しいなと思います。

それでは参りましょう。#10「シャイニーを探して」です。

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■必然の「流れ星」

物語の冒頭は幼少期の幼馴染3人組の回想から。

屋敷を抜け出した鞠莉を探す小原家の人々。その喧騒の最中、鞠莉・ダイヤ・果南の3人が目指すのは山頂。乗っているロープウェイは伊豆の国パノラマパークのもののようです。

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鞠莉の家のある淡島ホテルからはバスで約30分。徒歩では1時間弱。と決して遠くにある場所では無いですが、当時の彼女達にとってはそれなりの「冒険」でもあります。

3人が必死に「見たがっているもの」。それはどうやら「流星群」のように思えます。

「流れ星に祈れば願いが叶う」。

誰に教えられるというわけでもなく、自然に知ることになる「おまじない」の一種。しかしふと夜空を見上げて、流れ星をドンピシャで見つけるのは難しい。仮に見つけたとしても、瞬時にお祈りを捧げるのは更に難しい。

となれば、流れ星が大量に現れる「流星群」を狙って、願いをかければよいのでは?

想像ですが、この時の3人の思惑とはこれだったのでは?と思えます。

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彼女たちが星に願うのは「ずっと一緒にいられますように」という願い。しかし、その「願い」以前に「曇天」という「神様の思し召し」によって「星」も「空」も見えず、目論見は「阻止」されてしまいます。

親に内緒で家を飛び出す。それは子供にとっては大冒険です。それだけのリスクを背負ってまで祈りたかった「願い」。それを阻止されてしまったことで、鞠莉の心は折れかけます。

その時鞠莉を救ったのは果南でした。

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「泣かないで!」

「ほら!これで大丈夫!!」

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ラブライブ!」では何度となく登場する「雨」。自分たちで操作することの出来ない「天候」。それもまた「偶然」に支配された「世界」そのものの象徴でもあります。

そんな「偶然」が支配する世界に飲み込まれそうになった時。果南が鞠莉に与えたのは「手書きの流れ星」でした。

空から偶発的に降ってくる「本物の流れ星」ではなく、人の手によって「必然的」に生み出された「手書きの流れ星」。

この日、この「人の手によって必然的に生み出された流れ星」が、3人の願いをかける「対象」になりました。

3人の「願い」を叶えるために、必然的に生み出された「流れ星」。

今回はこの「流れ星」が持つ「意味」が物語終盤に至るまでに、幾たびも「更新」されていきます。

その意図とは「流れ星」の持つ本質的な意味と、その変遷に、今回の物語の持つ「意味」を反映させようとしているからなのでは?と私は感じました。

それだけに「流れ星」は、今回の物語において重要な「パーツ」であるように思えます。

であれば、まずはこの「流れ星」がどういった「存在」として配置されているのか。それを読み解いてみる必要があるように思います。

 

■流れ星の意図

一般的に「流れ星」が持つ意図とは何か。それは幼少期の鞠莉たちが信じたような「人の願いを叶える願望器」としての「おまじないの対象」でしょうか。

自らの「願い」や「夢」を「願掛けする」対象としての「存在」。

もちろん「願い」や「夢」の成就を保証する存在ではありませんが、そこに「願い」を「願掛けする」行為は、その人にとっての「願い」や「夢」を、その人自身の内面に「顕在化」させる行為でもあります。

仮に「流れ星」へのお祈りが「成功した」場合。それはその人個人にとって「夢」や「願い」が「かなうかもしれない」可能性を「得る」行為となる。

それは即ち「生きる希望」を生み出す行為にもなり得るのです。

 

反面「流れ星」には「死の象徴」という面もあります。

同じくサンライズ製作のアニメーション作品、カウボーイビバップ第13話では「流れ星」に関してこんなやり取りがあります。

既に荒廃した地球。そこで暮らすネイティブアメリカンの一族。ブルはその族長のような存在です。ある時ネイティブアメリカンの子供がブルに尋ねます。

「ブル?星が落ちたよ」

子供は流星を初めて見たのか、その物の持つ「意図」をブルに尋ねたのです。

するとブルはこう答えます。

「あれはただの星ではない。戦士の涙だ。この星のどこかで戦い、果てたもの。

 グレートスピリッツを信じられなかった、哀れな魂...。」

「グレートスピリッツ」とはネイティブアメリカンの文脈でいわば「自然の理」の意。ラブライブ文脈に落とし込めば「世界が持つ偶然性」と同意義のものです。

その摂理を信じず、曲げようとしたものが敗れ、戦い果てた末の「哀れな魂」。

ビバップの13話そのものの話でもあります。完全に余談ですが、筆者はビバップのエピソードではこの12話13話の前後編はたまに見返すくらい好きな回です。)

即ち「流れ星」は「死」の象徴でもあるのです。

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これと同じくヨーロッパの一部地域では、「流れ星」を「人がいなくなる瞬間に流れるもの」と定義することもあります。

「人それぞれの頭上に必ず一つ星があり、流れ星はその人が死んだ時に流れるその人の頭上の星である」という考え方です。

また、物理的には「流れ星」は宇宙に漂う石やチリが、地球の引力に引き寄せられ、その途中で燃え尽きる瞬間に生み出されるもの。

つまりおまじない的な意味を除けば総じて「流れ星」とは「死」することでもあるわけです。

ここから理解出来るのは、「流れ星」とは「生」と「死」両方の概念を併せ持った存在である、ということです。

「流れ星」が発生する瞬間。そこには厳然たる「死」の「現実」があります。

ただし人間はその「死」の瞬間に自らの「願いを託す」こともある。

すると「死」していくはずの「流れ星」に対して、人間は「希望=願い=生」という「概念」が与えることになる。

即ち「流れ星」が「死んでいった」としても、そこに託した人間の「願い」や「希望」というものは「生」として残っていくわけです。

 

では今回の物語では、この「流れ星」に対して、どんなメタファーを込めているのか。それを時系列的に考えていくことで、お話の構造自体も噛み砕くことが出来るのではないか。そんな風に考えています。

 

■果南・鞠莉・ダイヤにとっての「流れ星」

果南、鞠莉、ダイヤの3人が流れ星に託した「願い」。それは3人が「ずっと一緒にいられますように」というものでした。

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この時点でこの星座早見表に書かれた「流れ星」は「3人が一緒にいられること」を「実現する」為の「願望器」としての役割を与えられています。

現実的に考えれば、「友人3人でずっと一緒にいられること」は不可能に近い事でしょう。大人になるにつれ、それぞれにとっての新たな人間関係が生まれ、やがてこれまでよりはどことなく疎遠になっていく。幼少期の友人というのは総じてそういうもののように思えます。

しかし、彼女たちはそうならなかった。同じ小学校を卒業し、当たり前のように同じ高校に入学。もちろん内浦という狭いコミュニティで暮らすからこそなのかもしれませんが、ここまで彼女たちを「一緒にいさせた」のは「流れ星」が持つ不思議な「引力」とそこにかけた「願い」故なのかもとも思えてきます。

しかし、いよいよ高校を卒業してしまえば、その「願い」が反故にされる可能性も格段に高まる。となれば、3人が「ずっと一緒にいる」ための「新しい選択肢」が必要です。

そこで用意されたのが「スクールアイドル」だったのかもしれません。

本来「スクールアイドル」とは、学生だけがでなれる3年間限定の「魔法」のような存在。

ただし「人気者」であればその限りではない。

無印「ラブライブ!」において、A-RISEが「前例」を作ったように、「スクールアイドル」の頂点へと昇りつめれば、その先には「プロ」としての未来も見えてくる。

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即ち「プロ」の「アイドルグループ」として、高校卒業後に至っても「3人一緒にいられる」ということにもなるわけです。

もちろん、「未来への展望」としては、あまりにも「甘い考え」です。そんな「トップオブトップ」に登りつめられるアイドルなどほんの一握りであることも当然分かっていたでしょう。

それでもその「甘美な可能性」に鞠莉たちは「無意識に賭けてしまった」のでは?

そんな風に感じられるのです。

この時点で3人にとっての「流れ星」はAqours」という「スクールアイドル」に形を変化させました。即ち「Aqours」とは元来、彼女たちの願望を叶えるための「願望器」として誕生したグループなのでは、という推測も生まれてくるわけです。

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■1年生時の流れ星~一度途絶えた星~

かくしてスタートした「Aqours」の活動。μ'sに憧れスクールアイドルを目指した果南とダイヤにとっては学校の「統廃合危機」という状況も、彼女たちを燃えさせる一因となりました。

「スクールアイドルとして成功し、学校を廃校から救う」

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その願いは、千歌と同じく「μ's神話」の下敷きがあるからこその願い。

本来因果関係の無いものに因果を求めてしまう。だからこそ「傷ついて」しまう。

「スクールアイドルの難しさ」。

それは1期で果南やダイヤが何度となく語ったもの。

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1年生時の「初代Aqours」にどのような「困難」が襲いかかったのか。

それは断片的な情報でしか我々には分からない物ですが、恐らく千歌が後々経験する挫折や葛藤やジレンマは、この時の果南・鞠莉・ダイヤの3人が漏れなく「経験したもの」なのでは?と想像できます。

沼津の内浦という場所で「アイドル」をすることの難しさ。

その上での「地元の人々」の「暖かさ」。

それでも思うように上がらない全国的な「知名度」と「人気」。

一時的に人気が上がったとしても、飽きられてしまう要素。

多すぎる競技人口と差別化の難しさ。

「挫折」。

そして、自分たちがどれだけ頑張っても覆せない「統廃合」という現実。

そこから発生するいらだち。焦り。それを発端として起きる諍い。

彼女たちが笑顔で夢見た「ずっと一緒にいること」とは少し違った、厳しい現実。

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その果てで起きた鞠莉のケガ。

きっかけとしては些細なものだったかもしれません。

ただその「些細なきっかけ」はこの状況を「クリア」にするには十分なきっかけ。

もしかしたら、果南は当に限界を迎えていたのかもしれません。

あの日願った無邪気な「願い」とは重ならない日々。

このままでは根本的に「壊れてしまうかもしれない」自分たちの関係。

だとすれば、それは一回「捨てる」しかない。

もちろん、想像に過ぎませんが果南の唐突な「解散宣言」には、そんな思いも下敷きにあるのではと思えてきます。

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かくして第1次「Aqours」は瓦解しました。

「幼馴染3人」の根本的な「関係性」を守るために、その関係性から切り離された「Aqours」。

「関係性を守る」ために選ばれたその選択肢は、しかして果南の絶対的な「説明下手」が原因となって、本来守るべきその「関係性」すらも「破壊」してしまいました。

しかしそれは実のところ当然でもあるのかな?と思えます。

本来であればとっくに「疎遠」になっていたはずの彼女たちの「関係性」を繋ぐ要因となっていたのは、そのものズバリAqours」という存在だったわけですから。

「スクールアイドル」「Aqours」としてなんとか結びついていた彼女たちの関係性は、そのつながりが無くなったとたんにバラけていく。

海外に本拠地を持つ父に従って、海外へと転校していく鞠莉。

黒澤家という「網元の名家」を継ぐ者として、それに恥じぬ存在となるべく勉学はもとより習い事、生徒会活動に勤しむようになったダイヤ。

そして実家のダイビングショップを手伝うという「生活」部分に重点を置くようになった果南。

そもそもとして彼女たちは生活環境自体がバラバラでした。

子供自体には顕在化しなかったその違いは、もはや「高校生」という「大人」になった時点ではっきりと顕在化していた。けれどその顕在化によって「離れ離れになる」という要素を「スクールアイドル=Aqours」が繋ぎとめていた。

そんな風に感じられるのです。

 

「夢は呪いに似ている」という言葉があります。この文脈に照らせばAqoursという夢」もどこか「呪い」に似ているのかもしれません。

「3人がずっと一緒にいるため」の「願望器」として作動し続けた「Aqours」は、その「夢」が「成就しなかった」途端に、根底にある「願い」をも「破壊」してしまったわけですから。

しかし「ラブライブ!サンシャイン!!」では「夢」を「呪い」のままにして終わらせません。

 彼女達が「Aqours」から離れることで、必然的に生まれた「別離」。

それによってそれぞれが向き合うことになった「自分」という存在。

そして彼女達が客観的に見た「Aqours」というものの存在価値。

「別離」によって「変化」していくもの。そしてそこから得るもの。見えるもの。

その「得たもの」が「救うもの」。

そういった諸々に、「ラブライブ!サンシャイン!!」ならではの「テーマ性」のようなものも見えてくるのです。

 

■ダイヤが「新Aqours」に託した「願い」。

果南の判断によって「活動休止」となった「Aqours」。

いわば作り手たちから「切り離された」結果「空中浮遊」することになった「Aqours」という存在。

しかし、それは意外な人物によって「再始動」されることになります。

その存在とはもちろん千歌。

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東京への旅行中、偶然出会った「μ's」。

自分と同じような「普通の女の子たち」が「キラキラ輝いて見えた」。もしかしたら自分も彼女たちのように「キラキラ」できるかもしれない。

「"普通"の私の日常に舞い降りた奇跡。」

幼馴染である曜、作曲の出来る転校生=梨子。

二人の中に眠っていた「輝きたい」という願望を、自らが感じた「奇跡」を通じて呼び起こした千歌は「スクールアイドル」としての目標に「まっしぐら」に突き進んでいきます。

 始めは千歌たちの「スクールアイドルへの不理解」や「不誠実さ」(とダイヤが感じていたもの)に嫌悪感を感じていたダイヤ。しかし、3話では彼女達がまっすぐに語る「輝きたい」という願望に心打たれます。

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「スクールアイドル」として活動する中で「現実」に打ちのめされ、いつの間にかダイヤ自身が失ってしまったもの。

Aqours」を始めたときに胸に芽生えた根本的な「ワクワク」や「ときめき」。

それは、「統廃合を阻止しなければならない」とか「ラブライブで優勝しなくてはいけない」という「使命感」の陰でだんだんと薄れていってしまったもの。

はじまった時の ときめきずっと大事にね(青空Jumping Heart

その「ときめき」を、再び千歌たちの存在が呼び起こしていくのです。

 

...とはいえ、ダイヤは3話の物語以前に、ある種直感的に「千歌たちが自分達を救う存在になるのでは?」と気付いていた可能性もあります。

Aqours」が幼馴染3人にとっての「夢を叶える願望器」として誕生したのでは?という仮説は前段の通り。

しかしながらこの「願望器」は、3人の「願い」に対してのある種の「限界」を露呈させたうえで、一旦停止してしまいました。

しかし、千歌たちがスクールアイドル活動を開始する中で、再びその「願い」を繋げていく可能性が生まれた。

「3人がずっと一緒にいる」という「願い」に対する「ある一つの方法」は「行き詰ってしまった」。とはいえ、その「結論」に辿りつく方法は決して「一つ」だけではないはず。

離れて過ごす時間の中でダイヤが得た一つの「気づき」。ダイヤはその「気づき」を新たな「願い」に変えて「新Aqours」に託したのでは、と思えるのです。

「3人が現実的にずっと一緒にいる」ことは出来ない。

であれば、「3人が一緒にいた証」を「Aqours」というグループに刻み付ける。

そしてその活動の歴史をラブライブ」という大会の歴史に刻み付ける。

それを実現することが出来れば、「3人が一緒にいた証」は永遠に「Aqours」の名前と共に刻まれる。

即ち3人はAqours」と共に「永遠に一緒」に「存在し続ける」ことが可能になるわけです。

ダイヤにとって千歌たちは「流れ星」に等しい存在。

「行き詰る選択肢」を選んでしまった結果、一旦途絶えてしまった「夢」や「願い」。その「夢」や願い」を再度別の「方法」で「託す」ための存在にもなり得るもの。

だからこそ、ダイヤは敢えて千歌達のグループ名に「Aqours」の名前を受け継がせたのでは?とも推測できるのです。

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ダイヤが「新Aqours」に託した「新たな願い」。

それが叶えば、例え離れ離れになってしまったとしても、いつか「Aqours」の名のもとに3人が同じ場所に集う日が来る「未来の可能性」をも残せる。

それは「過去」や「今」を「固定するための存在」だった「Aqours」が、「未来」への「可能性」即ち「開かれた存在」へと「変化」したという事実にも繋がっていくのでは、と思えます。

こういった「たどり着く方法は一つではない」という考え方もまた、2期では繰り返し描かれたものですね。

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また、「流れ星」のはずの「Aqours」がなぜ再び蘇るのか?というのも同じように「繰り返し描かれたモチーフ」の再現でしょう。

普通の流れ星であれば、「生まれた瞬間に消えてしまう」ものですが、果南が書いた流れ星は「人の手によって生み出されたもの」。

そして「人の手によって生み出された流れ星」が象徴するものこそ「Aqours」でもある。故に決して「消えること」はなく、人の意志さえあればそれは「何度でも蘇る」のではないでしょうか。

このように、人の「意志」によって生み出される「必然」を信じる...というような「モチーフ」も「ラブライブ!サンシャイン!!」では度々登場するもの。

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前回もこれまでの物語を総括するようなモチーフが多数登場しましたが、今回も数多登場しているわけですね。

とはいえ、そんな事実はいよいよ物語が「佳境を迎えている」ということも実感させて、寂しく思えるわけですが。。

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■「夢の海」と「不滅の流れ星」

かくしてダイヤにとっての新たな「流れ星=願望器」となった「新Aqours」は、紆余曲折を経て第9話の物語へとたどり着き...。

その中心にいる千歌が、果南・鞠莉・ダイヤの「ほつれた糸」を半ば強引に「振りほどく」ことになります。

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そこで語られたのは、「旧Aqours」の挫折。鞠莉のケガによって途絶えた「ラブライブへの夢」。そして出場を前にして叶わなかった「花火大会でのライブ」。

神の采配なのか。或いはダイヤの思惑通りなのか。綺麗に結びついた「旧Aqours」の「停止の日」と、「新Aqours」による「再生の萌芽」。

ここぞとばかりにダイヤによって明かされる「鞠莉と果南のすれ違い」のあらまし。それによって再開する「幼馴染3人」の「物語」。

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こうしてダイヤによって託された「新たな願望」は、「新Aqours」という名の「願望器」によって「成就」されました。

ここにその「成就」の象徴として、9人の「Aqours」が誕生するのです。

9人の「Aqours」が一番最初に歌う曲は未熟DREAMER

それはかつて「旧Aqours」が「花火大会」に向けて準備しながらも歌うことが叶わなかった楽曲。果南・鞠莉・ダイヤが「スクールアイドル」「Aqours」に対して込めた「夢」や「願い」の全てが込められた楽曲でした。

「旧Aqours」の夢が途絶えた場所から、再スタートする「新Aqours」。

見事に時間を超えて、2つの「Aqours」が繋がっていくのです。

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 9話考察でも触れた通り、この楽曲の歌詞は1年生時の果南・鞠莉・ダイヤの気持ちを現1年生・2年生メンバーが「救っていく」歌詞構成になっています。

ishidamashii.hatenablog.com

 そこには「新Aqours」によって「旧Aquors」が「救われていく」過程が、メタ的に象徴されているわけですが...。

ただし、9話の時点ではその意図が100%分からない歌詞も数点存在していました。その一つはラストサビ前に3年生3人だけで歌う

このまま一緒に 夢の海を泳いで行こうよ

でしょうか。

ただし、この歌詞の意図も、今であればなんとなく理解できます。

彼女達が「Aqours」に託した「ずっと一緒にいる」という願い。それは「現実的」には厳しいものですが、「Aqours」という枠組みの中であれば「叶えられる」願いでもあります。

Aqours」とは、もとより彼女達が書いた「手書きの流れ星」を具現化させた存在です。

「流れ星」が存在する場所とは、無限に広がる「宇宙」。

よく「宇宙」は「星の海」などと例えられますが、ここで語られる「夢の海」とは、「流れ星」が存在する「宇宙」のことなのかな?と思えるのです。

現実世界で「ずっと一緒にいる」ことは出来ない。けれども「Aqours」としてならば、この広い宇宙の中で「永遠に輝く星」になることが出来る。そんな3人の「気づき」がこの歌詞には込められているのは?などと妄想することが出来るのです。

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「手書きで書かれた流れ星」は「普通の流れ星」と違って、決して「流れて行かない」。つまり「不滅」の存在である。

あの日「本物の流れ星」に出会えなかったからこそ生まれた「手書きの流れ星」。しかしその事実は、却って「不滅の流れ星=Aqours」を生み出すことになった。

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「全てに意味がある。」

これもまた、「ラブライブ!サンシャイン!!」2期において、非常に重要な考え方ですが、ここでもそれが反復される。

見られなかった「本物の流れ星」。泣きそうな鞠莉を慰めるために苦肉の策で産まれた「手書きの流れ星」。実らなかった最初の「願い」。その過程で瓦解した「旧Aqours」。

それらは一般的には「敗北」や「実らなかった願い」を象徴するものかもしれません。しかしそれらにも全て「意味があった」と考える。

「手書きの流れ星」が「Aqours」を生み出し、「旧Aqours」の「敗北」が「ダイヤの願い」を生み出し、それが「新Aqours」の「結実」に繋がっていく。

全部が全部思い通りになったわけではない。けれども、その「過程」が全て「今」に繋がって、「未来」にも繋がっていく。

その考え方が「正解」かどうかも分からない。けれども「全てに意味があった」と考えれば、どれだけ辛い「現実」があったとしても、常に「前向き」に生きていくことが出来る。その「在り方」を信じる。そこに「ラブライブ!サンシャイン!!」が持つ「普遍的なテーマ」を感じ取れるのです。

2期10話において千歌のセリフとして引用される「未熟DREAMER」ですが、千歌の語る「晴れるまで遊ぼう!」という言葉は、先ほどの「このまま一緒に~」に続く歌詞部分です。

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前後するシーンと併せて、ここは意識的にこの台詞を選んでいるのではないかなと、ここに関しては割と確信的に感じております。

 

■それぞれの「星」

ほとんど2期10話の話に触れないまま、ここまで来たわけですけども(笑)。

ここまでお話させて頂いた通りに果南・鞠莉・ダイヤの心境を整理すれば、淡島遊歩トンネルでの3人の会話シーンもより理解できる気がします。

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鞠莉が決めた「イタリア留学」。それは果南とダイヤには全く相談をせずに決めたものでした。

つまり「3人がずっと一緒にいる」という願いごとを反故する行為でもあるわけです。しかし果南もダイヤもその「決定」に対して何も反論をしません。

「1年前なら止めていたかも」という果南の言葉。これは「旧Aqours」が「停止せず」に活動していた場合に「if」と捉えられます。

即ち「停止期間」が無ければ、果南は鞠莉の「決定」を「尊重できなかった」かもしれないわけです。

では、なぜ今はその決定を尊重できるのか、といえば、彼女達には「停止期間」があったからでしょう。

Aqours」と離れて、「自分」と向き合う時間。それは物理的に親友二人とも「離れる」時間になりました。

その「孤独」に「自問自答」する時間の中で見えてきた「自分自身」。そして「自分がやりたいこと」「やるべきこと」。その「気づき」は、自分の「未来予想図」をも「明瞭」にする時間になったのです。

そして「停止期間」をそのように使用したのは決して鞠莉だけではなかった。果南もダイヤも「停止期間」に己の夢や目標に向き合った。そして自分の「在り方」を見出すに至った。二人からその事実が鞠莉に明かされるように、「停止期間」は決して「停滞期間」ではなかった。その事がこの場面ではハッキリと描かれます。

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幼少期に願った「ずっと一緒にいること」。それは確かに大切な「願い」でもあったかもしれない。けれどもそれはやはり「幼少時代」だからこその「願い」でもあるのです。

こんなことを言うと寂しいかもしれませんが、人間とは究極的には「一人」なのです。

いずれは、家族とも、友人とも離れ、自分自身の「生きる意味」や「生きがい」を自分一人で見出して、ただ一人で生きていく必要があるのです。

(これは2期8話でダイヤとルビィの関係に焦点を当てて描かれたものでもあります。)

けれどもそれは決して「悪いこと」ではない。

大人になるにつれ生まれる「自分自身の願い」。

「こうしたい」「こうなりたい」という「欲」が人生を豊かにしていきます。

そして大人は、その「自己実現」をするための「自由」が保証されている。かつてはちょっとした遠出をしただけで「探し回られ」、果南とダイヤと遊ぶことにも制限を設けられた鞠莉。

そんな「不自由」の最中に「自由」であることの価値と意味を知ったからこそ、今はその「自由」を謳歌することをためらわない。

そしてその「自由」の価値を教えてくれたことに対して、果南とダイヤへの感謝を口にする。

もはや、あの頃とは違う、自分1人の「星」を手に入れている3人。

だからこそ、あの頃の「ずっと一緒にいる」という願いは、もはや「過去」のものでしかないのです。

それがはっきり言わずとも、分かってしまえるくらいに「大人」になってしまった自分達。その事実に対して、寂しいような、嬉しいような、複雑な表情を浮かべる3人。その頭上にはそれぞれの「色」に縁どられた「星」が浮かんでいます。

それは彼女達が既に手にしている「自分の星」を象徴するものなのでしょう。

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「嬉しい」けど「寂しい」。「楽しい」けど「悲しい」。

そんなどうしようもない感情を整理するために、「ハグ」を申し入れる果南。

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かつて僕は果南の「ハグ」には「リセット」の意味が込められているのかな?と考えましたが、ここでもそういった意図で使われているように思います。

グチャグチャになった感情を「整理」し、一旦「落ち着かせる」ために。そしていつもの「3人」に戻るために。

そして過去の「願い=ずっと一緒にいよう」を「リセット」する。

ダイヤがルビィを送り出すために与えた「優しい断絶」。

このハグシーンにも、同じような意図を感じました。

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■自分達だけの「星」

トンネルでの会話の後、果南たちがもう一度探しに行こうと語る「私達だけの星」。

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ここから後のシーンは、いわゆる「メタ」演出になっているのだと思います。

「3人だけ」では見つけられなかった「流れ星」。そして手に入れられなかった「自分達だけの星」。それを「9人」で探しに行こうとする。

果南たちにとっての「Aqours」=「旧Aqours」は、「ラブライブ出場を果たせず」に「停止」してしまった存在。すなわち「星を見ようとする前段階で、曇天に邪魔された幼少期」と同じ状態でもあるわけです。

また幼少期に「流れ星」に託した「願い」は先ほどの「ハグ」を通して「リセット」されました。故に今は「新しい願い」を「流れ星=Aqours」に託すことが出来るのです。

だからこそ「3人では見られなかったけど、今は9人いる」と語る。

ダイヤが「新Aqours」にかけた「願い」とは、「Aqours」を再始動すること。本質的にはその先まで見据えていたかもしれませんが、まずはそこまででした。けれども果南はその先を見に行こうと語る。「3人」では手に入れられなかった「輝き」を、「9人」で「手に入れる」。

それは「ラブライブで優勝する」ことであり、その結果として「自分達の名前をAqoursと共に、永遠に刻み付ける」ことでもあります。

一度は挫折した「願い」。それを「新しい願い」として再生させる。ここに「ラブライブ!」シリーズならではの「不屈」の魂を感じました。

鞠莉が運転する車。その助手席に座る果南。

「まさか鞠莉の運転する車の助手席に座る日が来るなんてね」

「それは私のセリフ。まさか果南乗せて走る日が来るなんて」

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二人が語るのは「大人になった」ことに対する実感。

かつては手に入れられなかった「自由」。昔はバスで30分の場所に行くのでも大冒険でした。しかし今は自分の力だけで、好きな場所に行ける。どこまでだって走っていける。

「大人」になることによって、手に入る「自由」。

「車」が象徴するのは、そんな「自由」であることの「価値」と「意味」なのではないでしょうか。

「こうして時って進んでいく。」

そんな鞠莉のセリフを裏付けるようなシーンであり、じんわりと感動させる名シーンでもありました。

「3年生が運転する車」が象徴するものは、それはもちろん「旧Aqours」でしょう。

「本当は3人だけの予定だったんだけど」

「9人がいいって」

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最初は「3人」だった。それだけで良いはずだった。

けれども今は「9人」いて、そうじゃなくちゃいけない。

この「9人」でその先の「願い」を成就させたい。

かつては「3人」だけの閉じた「願い」を成就させるための「願望器」に過ぎなかった「Aqours」。今はその役割を変化させ、「9人」全員の「未来」を「照らすため」の「輝き」になろうとしている。

かつて「流れ星」だったそれは、今は「スクールアイドル」という宇宙で「永遠に輝く星」になろうとしている。

この会話シーンでは、そんな役割の「変化」が描かれているのではないでしょうか。

空へと飛び立つ車。

この回のリアリティラインを大きく超越したシーンで、見る人の多くをビックリさせたシーンでしょう。もちろん、これはメタファーでしょうが(笑)。

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「3人」では「曇天」に邪魔されて見られなかった「星」。その代わりに果南は星座早見表の上に「手書きの星」を書きました。

この時の「曇天」は「3人」の「Aqours」では越えられなかった「壁」を象徴するメタファーでもあります。

「9人」の「Aqours」ならば、そんな「曇天」などあっさり突き抜けて、星の海に辿りつける。

これは「9人」の「Aqours」が「ラブライブ出場」を果たしたことへの「メタファー」なのだと考えます。

輝きを放ちながら、広大な星空へと飛んでいく「車」。これは明確に「HAPPY PARTY TRAIN」と対になる表現です。

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HAPPY PARTY TRAIN」のPVにどのような意図が込められているのか。これに関しては以前書かせていただきましたので、そちらをご参考いただきたいのですが。

ishidamashii.hatenablog.com

 「過去」や「運命」に縛られず、「自由」に「空」へと飛んでいく電車に、「運命からの飛躍」を意味づけたのでは?というのが、私の「HPT」への考え方だったわけですが、今回の「車」にも似た印象を受けました。

果南・鞠莉・ダイヤにとって 「決して叶わない願い」や「思うようにいかなかった過去」を象徴する存在でもあった「Aqours」が、千歌たちによって引き継がれることでそれらの「運命」や「過去」を更新していく。

「3人だけの閉じた世界を叶えるための願望器」だった「Aqours」が、「9人」だけでなく、「浦の星や内浦の人々」「沼津の人々」そして多くの「Aqoursを応援する人々」を救うための「願望器」へと変化していく。

「失敗」や「思うようにいかない運命」を「そのままのもの」として捉えるのではなく、次に「跳ぶ」ための「バネ」へと捉え、意味を変化させていく。

そんな「運命からの飛躍」と「発展的な意味の変化」がこの「車」とその「飛躍シーン」には込められているように思えるのです。

 

■星になれたら

「9人のAqours」が目指すのは、「自分だけの輝き」を手に入れること。

ラブライブで優勝」して「浦の星女学院」の名前を、ラブライブの歴史に刻むこと。

「数多の星が輝く宇宙」=「スクールアイドル界」の中で、「一際輝く星」になる。

それが今の千歌たちの願いです。

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千歌が「今は考えないようにしている」と語ったAqoursの「未来」。しかしそれは3年生の卒業と共に、やはり「終わっていく」運命にあるように思えます。

「人の手によって描かれた流れ星」は消えないけれど、それでも「スクールアイドル」自体は「3年」という時間を以て終わっていく。

そして「浦の星女学院」も、3月いっぱいで無くなってしまう。

それらはやはり「流れ星」と同じく「消えゆくもの」であり、人の力では操作できない「運命」そのものでもある。

しかし、それでも人はそんな「どうしようもない」「運命」そのものを、「自分自身の意志」で乗りこなすこともできる。できるはずなのだと信じようとする。そんな「気持ち」。

それがあるからこそ人は「生きていける」。その「不屈」の価値と、それを信じる人の「意志」を尊重してきたのも、「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品の特長です。

だからこそ千歌は鞠莉が諦めかけた「もう一度に一緒になる」という願いも肯定するのではないでしょうか。

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また、千歌の視点そのものは「HPT」の世界とも強い近似性を持っていると思います。

「別れ」や「終わり」を後ろ向きに捉えるのではなく、それらを「新たな未来」への「始まり」なのだと考える。

そうすることで、人は「未来」への選択を「前向き」に選んでいくことが出来る。

さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束

 なんて歌がありますが、正しくその通りで。

別れを後ろ向きに捉えるのではなくて、自分が成長するための「バネ」なのだと考える。

Aqours」は「スクールアイドル」の歴史に名前を刻めるかもしれない。けれども物理的には「Aqours」は3年生の卒業と同時に終わっていく。だとしたら千歌たちは「Aqours」という「流れ星」が生み出した「願い」や「希望」を、自分だけの「星」を見つけるための「動機」へと変えていく必要があります。

Aqours」としての活動と、その「停止」を通して「自分達の星」を見つけた果南・鞠莉・ダイヤと同じように。

「見つかりますように。輝きが。私達だけの輝きが見つかりますように」

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早見表に書き足された「星」を、千歌たちがどのように手にするのか。

それはまた、別のお話...なのかもしれません。

さようなら 会えなくなるけど

さみしくなんかないよ

そのうちきっと 大きな声で

笑える日がくるから

動き出した 僕の夢

高い山超えて

星になれたらいいな

虹になれたらいいな 

 

『星になれたら』

 お後がよろしいようで。


Mr.children-星になれたら-

 

 

 

※今回は特に10話と関係ない記事になってしまったので、反省中ですw

恐らく拾っていない部分は分かり手ブロガーの皆様が書いてくださるはずなので、この記事はそういう「読み物」としてなんとかお納めくださいませ。。

また、「ここってどう思う??」とかのご質問はどうぞご随意に。

「妄想」でしかありませんが、自分なりの考えはお答えするようにいたしますので。

 

それでは次回!「浦の星女学院」でお会いしましょう!

この回キツそう....。

 

ラブライブ!が好きなアナタに見てほしいオススメ映画だいたい10!!(と、見せかけたAmazonプライムのステマ)

ラブライブばかり見ているみんなー!?こんにちはー!(コンニチワー)

って、それ俺のことやないかーい!!(AHAHAHAHA!:アメリカのショー番組で聞こえる笑い声)

 

 

 

 

.....いつになくハイテンションで始めてみましたけど、性に合わないのでここまでにします(あまりにも早すぎる諦め)。

今回はサンシャイン10話記事に取り掛かる前に、ちょっと小休止と言いますか、自分自身のメインブログ更新のリハビリを兼ねてと言いますか(おい)、やろうと思っていながらやってなかった小物企画をサラーっと書いてみたいと思います。

 

◆当ブログは「ラブライブ!」に関してあーだこーだと適当なことを抜かすブログですので、それに合わせて

ラブライブ!が好きなひとならきっと楽しめるであろう映画(洋画)」

を無作為に10個くらい選んで、フワっと紹介していきたいなと思います。

 

とはいえ、漠然と選んでもわざわざ借りに行くのは面倒でしょうし、一つ制限をかけてチョイスしてみました!

それは「Amazonプライム」会員の特典である「Azazonプライムビデオ」で見られる作品だけ!!ということ!!

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Amazonプライムビデオは、Amazon会員限定の優良オリジナル番組だけでなく、Amazonプライム対象映像作品であれば、個別の課金の必要なく、年会費(3,900円税込)だけで見放題という夢のようなサービスなのだ!!!!!!!!(宣伝)

https://www.amazon.co.jp/

 

...ということでもしこの文章を読まれているアナタがAmazonプライム会員であるのならば、今この瞬間、自宅からPCやTVで紹介した作品を観れてしまうのです。

おぉ!我ながらなんと冴えた企画なのでしょう...。

とはいえ、この記事を書いてもAmazon様からは一銭も振り込まれないので、完全に自己満足なんですけどね!!!(何故か怒りながら)

Amazonプライム対象作品は日々変化していきます。その為今回紹介した作品がタイミングによっては対象作品から外れてしまうこともありますので、その点だけはご了承願いますm(__)m

※また、作品のチョイスは完全に私の「独断と偏見」です。合わなかったらゴメンナサイm(__)m

 

①「世界にひとつのプレイブック

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あらすじ:妻の浮気が原因で心のバランスを崩しすべてを失くしたパッドは、近所に住むティファニーと出会う。過激な発言と突飛な行動を繰り返すティファニーに振り回されるパッドであったが、彼女も実は夫と死別し、心に傷を抱えていた。ティファニーは強引にパッドを誘い、ダンスコンテストへの出場を決意する。人生の希望の光を取り戻すためのふたりの挑戦がはじまった――。


世界にひとつのプレイブック 予告

 俺的オススメコメント:「ガーディアンズオブギャラクシー」の「アライグマ」こと「ロケット・ラクーン」の中の人でお馴染みブラッドリー・クーパーと、「X-MEN」シリーズの「肌の青い人」こと「ミスティーク」役でお馴染みのジェニファー・ローレンス主演のヒューマン・ラブ・コメディ(果たしてこの紹介で良いのだろうか)。

人生に絶望し立ち止まっている男女が、共に再生していく物語と言ってしまえばそれまでだけども、この作品の面白いところは主役の二人はもとより、登場する人物ほぼ全員が「ダメ人間」であるということだろう(クリス・タッカーを除き)。

ロバート・デニーロ演じる主人公の父親は一見まともそうだが、友人と賭けアメフトをして私財を溶かすダメおやじだし、母親はそんなおかしい家族から完全に目をそむけているという点でダメ女である。

ただし、この作品はそんな「ダメ」な連中を「見放さない」。彼らの「ダメ」さに厳しくも暖かい目線を送りながら、「ダメ」なら「ダメ」なりのやり方で、人生の「輝き」を見出すことの価値を伝えてくれる。その「豊かさ」こそがこの作品の重要なポイントだと思う。

登場人物への「共感」を重視して見る方には難しいかもしれないけれども、自分の「ダメ」さに思い悩む人には刺さるし、感動を与えてくれる作品。かくいう私にはしっかりと刺さったのでした。

 

②「カンフーパンダ」

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あらすじ:カンフーを愛する心は人一倍、でもカンフー・マスターなんて夢見るだけのポーは、師匠のシーフー老師、憧れのカンフーの達人「マスター・ファイブ」の力を借りながら、厳しい特訓を受け成長していく。


カンフー・パンダ - 予告編

 俺的オススメコメント:有名だけど意外と皆さん見てなくない!?ということでチョイスしてみました。DREAM WORKS製作の3DCGアニメ。細かい説明はいらない。メタファーとかも特にない。見れば全てが分かるという意味で超良作アニメ。

ダメなヤツの成長譚というだけでなく、成長するのは主人公だけではないというのがポイントです。仲間、敵、そして師匠までもが「成長」する。

笑って、泣けて、感動できて最高じゃないですか!という感じなので、是非軽い気持ちでご視聴を。

因みに主人公ポーの声を宛てたジャック・ブラック主演の傑作音楽映画「スクール・オブ・ロック」もプライム試聴対象です。こちらもオススメ!

 

③「きっとうまくいく」

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あらすじ:日の出の勢いで躍進するインドの未来を担うエリート軍団を輩出する、超難関理系大学ICE。エンジニアを目指す天才が競い合うキャンパスで、型破りな自由人のランチョー、機械より動物好きなファルハーン、なんでも神頼みの苦学生ラジューの“三バカトリオ”が、鬼学長を激怒させ、珍騒動を巻き起こす。 抱腹絶倒の学園コメディに見せつつ、行方不明のランチョーを探すミステリー仕立ての“10年後”が同時進行。根底に流れるのは学歴競争。加熱するインドの教育問題に一石を投じ、真に“今を生きる”ことを問いかける万国普遍のテーマ。


『きっと、うまくいく』ボリウッド4予告

 俺的オススメコメント:映画大国インドが生み出した歌って踊るだけではない社会派コメディ(なお歌って踊るシーンももちろんある)。インドの大スター=アミール・カーンが40過ぎて10代の学生役を演じるという凄まじい芸当をやってのけているのだけど、不思議と違和感はない。

原題は「3idiots」すなわち「3人のバカ」ということなのだけど、この身もふたもないタイトルにどんな意味が隠されているのか、作品を見る中で次第に分かるように出来ている。

果たして「頭が良い」ってどういうことなのか。「勉強」ってなんのためにするのだろうか。という根源的な問いだけでなく、そういった普遍的な迷いや悩みの背景に横たわるどうしようもない「インドの現実」もしっかりと描く。

それでいて、その「どうしようもなさ」に決して打ち負けることなく、輝かんばかりの「希望」を描ききって見せる。人生は常に自分の力で開ける「可能性」に満ちているはずなのだ。

はっきりいってこの映画はゴチャゴチャ語る前にぜひ見てほしい。それなりに長いけれど(2時間51分)決して見て後悔はしない。見終わった時には深い感動と静かな幸福感が身体に沁み渡っているはず!そして自然と主題歌「All Izz Well」を口ずさんでいるでしょう(笑)。

 

④「宇宙人ポール

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あらすじ:ホット・ファズ』『ショーン・オブ・ザ・デッド』のサイモン・ペッグニック・フロストが再びタッグを組んだ最新作。アメリカのUFOスポット巡りの旅に出たSFオタクのグレアムとクライブは、ひょんなことから生意気な宇宙人・ポール(声:セス・ローゲン)と遭遇し、彼を故郷の星へと返す手助けをすることに。こうして始まった銀河を股にかけた3人の珍道中の行方は?!共演にジェイソン・ベイトマンクリステン・ウィグビル・ヘイダージェーン・リンチシガーニー・ウィーヴァーらを迎え、『スーパーバッド 童貞ウォーズ』のグレッグ・モットーラが監督を務める、必見のコメディ・アドベンチャー


【映画でリスニング】宇宙人ポール

俺的オススメコメント:「ホットファズ 俺たち スーパーポリスメン」「ショーンオブザデッド」でお馴染みサイモン・ペッグ&ニック・フロスト主演のコメディ作品。

監督は上2作品とは別だけれども、この二人主演のシリーズは軒並み「もしもハリウッド映画の舞台がイギリスだったらどうなる?」というパロディ的な目線から作られたもの。いつもはイギリスにいるはずの二人が今回はアメリカに乗り込み、そこで宇宙人と出会う。一応は「ET」やら「未知との遭遇」やらの英国人版パロディだったりもする。

いい大人なのに、コミックやSF作品に夢中で、男友達とばかり遊んでいる...という丸で「俺たち」としか言いようのないキャラクター二人が、野蛮で大胆な宇宙人=ポールと出会うことで、ほんのすこーーーーしだけ成長するという物語。

男同士の友情...といういわゆる「ブロマンス作品」でもあり、そういったものが好きな方にも刺さるのでは??(ホンマに??)

因みに上に出ている「ホットファズ」もプライム対象作品。こちらは今年話題になった「ベイビードライバー」のエドガー・ライト監督の代表作。

本作「宇宙人ポール」の監督であるグレッグ・モットーラの「スーパーバッド 童貞ウォーズ」も「ブロマンス映画」の傑作なのでおススメです。

なお主観ですけど、はじめて会った「映画好き」の人にどんな映画が好きなの?と言われた時に「宇宙人ポールとか」と言うと、何故か「ニヤッ」と笑われたあと仲良くなれる傾向にあります(笑)。ボンクラ御用達作品だからでしょうか。

 

⑤「ウォーリアー」

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あらすじ:アルコール中毒の父親を逃れ、母親とともに家を出たトミーが14年ぶりに実家に戻った。父の指導により、学生時代はレスリングの選手として名を馳せていた彼は、総合格闘技の大イベント“スパルタ”に出場するため、父にトレーナー役を依頼する。一方、トミーが家を出て以来、生き別れとなっている兄のブレンダンもまた、かつて格闘家だったが、今は教師として働いていた。しかし、娘の病気にかかる医療費のため家計は厳しく、銀行から自己破産をすすめられてしまう。愛する家族を守るため彼に残された道は、総合格闘技の試合で金を稼ぐことだった。奇しくも再び格闘技の世界へと足を踏み入れた兄弟が再会したのは、“スパルタ”の会場だった―。


町山智浩 ウォーリアー WARRIOR「日本公開して!泣ける,総合格闘技映画」20120612

(予告が出てこなかった!!!)

俺的オススメコメント:ムキムキの男二人が主役で、題材が総合格闘技というだけで引いてしまう人もいるでしょうが。このお話「兄弟」そして「家族」の物語であり、ヒューマンドラマでございます。

「マッドマックス 怒りのデスロード」でお馴染みトム・ハーディと、今や様々な映画に引っ張りだこな実力派ジョエル・エドガートンが主演。格闘技好きとしては、この兄弟二人のファイトスタイルの違いがとても楽しく、やがてぶつかり合う瞬間までのワクワクを掻き立ててくれる要素のひとつ。

そして、様々な要素によって離れ離れにならざるを得なかった「家族」が、それぞれの「都合」によってリングに立ち、そこで相まみえる。もはや拳でしか「言葉」を交わすことができないこの不器用な兄弟の在り方とその結末は、見る人多くの心を揺さぶると思います。

2期では「きょうだい」というものがピックアップされがちなラブライブ!サンシャイン!!なので、敢えてピックアップしてみました!(ホントだよ?)

日本では劇場公開されず、DVDスルーの作品だと思うので、見た方は少ないのでは?

 

⑥「ピッチ・パーフェクト

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あらすじ:ベカ(アナ・ケンドリック)は、人が歌うのを聴くよりヘッドホンで音楽を聴く方が好きな女の子。大学に入学したベカは何のクラブにも所属していなかったが、どういうわけか自分からは決して選ばないようなクラブに強引に入れられることに。意地悪な子、優しい子、変わった子。彼女たちに共通するのは、一緒に歌えば素晴らしいサウンドが生まれること。ベカの入部したアカペラ部は昔ながらのアレンジでハーモニーは完璧だったが、そこに彼女は新しさを取り入れる。


映画『ピッチ・パーフェクト』日本版予告

俺的オススメコメント:この映画以降「アナ・ケンドリックがなんとなく歌う映画」がジャンル化したくらいアナ・ケンドリックの存在感を高めるきっかけになった映画。というとなんだかしょうもなく聞こえるけども、女性アカペラグループの成長を描いた、とても分かりやすいジャンル映画だ。

当ブログでも触れた「ブレック・ファスト・クラブ」が物語上で重要な役割を果たしたりと、青春ものとしてもなかなかに優秀。素晴らしい音楽を楽しめて、笑えて、ほんのりジンと出来る「とりあえず見ておけば外れない」一本だと思います。

ちなみに日本では劇場公開が遅れて、「2」と同時に劇場公開されたというなんともトホホな事情があります。因み「3」もやるそうな。知らなかった。

 

⑦「インビクタス 負けざる者たち」

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あらすじ:ひとつの願いが、ほんとうに世界を変えた物語。


インビクタス 負けざる者たち(プレビュー)

俺的オススメコメント:あらすじ短っ!クリント・イーストウッド監督が描く南アフリカ大統領ネルソン・マンデララグビー南アフリカ代表の「実録物語」。

世界初の黒人大統領となったネルソン・マンデラの歩んだ困難な道のりを、ラグビーという「後ろにボールを投げながら前に進むスポーツ」に照らし合わせる語り口はいかにもイーストウッド節。

マンデラという人自身の過去を直接的に映すことをせずに、彼が抱える「怒り」も「願い」も「誇り」も全て描ききっているのは、流石の一言。

例えすぐに結果が出なかったとしても、その「歩み」が大きな一歩になる。

「進み続けること」の意味と、それがもたらす「矜持」を伝えてくれる大切な一本です。

 

⑧「グラン・トリノ

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あらすじ:朝鮮戦争の退役軍人で、自動車工として勤め上げたウォルト・コワルスキーには、引退後の日常も近所の変わり様も、すべてが面白くない。中でも気に食わないのが、東南アジアからの移民であるモン族の隣人たちだ。しかしある事件が起こり、ウォルトは図らずも暴力と脅しを生業とする地元のギャングから彼らを守ることになる。 


グラントリノ

俺的オススメコメント:えぇ、イーストウッド2本はどうかと思いますよ、僕も!

でも「グラン・トリノ」は外せない。これは人生においても大事な一本になる映画ですので。

僕涙腺が弱いので、大抵の映画で泣いてしまうのですが、エンディングで号泣して、目が取れそうになったのはこの映画くらいかもしれません(笑)。そのくらい人によっては心を揺さぶられる作品。

イーストウッド演じる孤独な老人は、古いアメリカの象徴。それは「栄光」だけでなく、多分に血にまみれた「アメリカ」という国の「暗部」そのものの象徴でもあります。それは「ダーティー・ハリー」や「荒野の用心棒」などで自らの手を他人の血で汚すキャラクターを演じてきた俳優=イーストウッドを象徴するものでもあるのです。

静かな絶望と共に人生の終わりを迎えようとしていた彼が出会うのは、モン族の少年。彼らはベトナム戦争というアメリカの汚点が招いた「被害者」でもあります。そんな「被害者」と直面する中で、頑なだった彼の心が次第に変わっていく。

彼が見つける一つの「落とし前」。そして「血なまぐささ」とは別の、「理想郷」としての「アメリカ」が静かに引き継がれていくラスト。そこに流れるBGM。何度見ても魂を揺さぶられます。

物語は常に「引き継がれて」続いていく。その尊さを理解できる作品だと思います。

 

⑨「ブルース・ブラザース

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あらすじ:コメディの大御所、ジョン・ベルーシダン・エイクロイドが共演する「ブルース・ブラザース」は、大爆笑満載のミュージカル・コメディ。ジェイク・ブルース(ジョン・ベルーシ)が出所し、弟のエルウッド(ダン・エイクロイド)と一緒に、世話になった孤児院の寄付金を集めるためにブルースバンドを再結成する。“神からの使命”を果たすために出発する兄弟には大混乱がつきもの。ジョン・ランディス監督(「アニマル・ハウス」)が描くソウル一杯のコメディは、ブルースの巨匠レイ・チャールズジェームズ・ブラウンアレサ・フランクリンキャブ・キャロウェイの素晴らしい演奏を組み込んだ作品だ。


Rawhide - The Blues Brothers (5/9) Movie CLIP (1980) HD

(予告はない!)

俺的オススメコメント:暗い映画のあとには、家族で楽しめる最上級の音楽コメディを!「人生における生涯ベストを1本だけ選べ」と言われたら僕はこの作品を選びます。そういう人は恐らく僕以外にも結構いるのでは?という位にカルト的な人気を誇る傑作映画です。

アメリカの人気コメディ番組「サタデーナイトライブ」の出演者ジョン・ベルーシとダン・エルクロイドによって組まれた「疑似兄弟ユニット」それが「ブルース・ブラザース」です。最高のバイブスを持つ二人の歌唱・演奏はもちろん、当代を代表するブルースやソウルミュージシャンが大挙して登場しているという奇跡の一作。だから音楽がかっこいいのは当たり前。

脚本は出演者であるダン・エルクロイドがメインで執筆したものですが、これもまた最高の面白さ。台詞や掛け合いのテンポのよさ、天丼ギャクの面白さ、今ではなかなか見られないレベルのとんでもないカーチェイスシーンなど、見ている人を飽きさせない展開の数々。

とにかく楽しい音楽映画が見たいのなら、これで決まりではないでしょうか。

アメリカのコメディ映画の基礎とも呼べる作品だけに、是非見ておいて損はないかと思います!

 

⑩「ロッキー」シリーズ+「クリード

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あらすじ:シルベスター・スタローン演じるロッキーを主役として描いたシリーズ作品。

www.youtube.com

(予告が無いから荻昌弘先生の伝説の予告貼っておきます!是非これを聞いてから見てください!)

俺的オススメコメント:こいつやりやがった...。

最後の最後に7本ぶちこむという荒業を使わせていただきました。1本目だけ選ぼうかな?とか思いましたけど、やはりロッキーは全部見てほしいのです。(そして全部プライムで見られる!)

「人生するかしないかの分かれ道で、する方を選んだ勇気ある人々の物語」。この荻先生の紹介だけでも、いかに「ラブライブ!」がロッキーの影響下にあるのかが理解できる気がします。

どうしようもない現実、現状を乗りこえるために、自分の勇気を信じて進むことを選ぶ。その選択を讃える永遠の神話。それが「ロッキー」なのだと思います。

「ロッキー」から、その戦いの最後を描く「ロッキー・ザ・ファイナル」までをμ'sの物語だとすれば、続編である「クリード」は正しくAqoursの物語でもあります。

「生まれてきた意味があること」を証明するために「戦う」。闘って、闘って「未来を手に入れる」。そんな物語は正しく「サンシャイン!!」でしょう。

是非ラブライブがお好きならば、「ロッキー」シリーズも見てほしい。

そんなありきたりなオチでこの記事を締めます!

見てみて良かった作品があったら、ぜひ感想をお聞かせくださいませ。

あと、Amazon様からの原稿料を熱い気持ちでお待ちしております!!!!!(当たり屋的発想)

 

※追記としてオマージュの元となったあきのさんの記事を貼らせていただきます。結果的にオマージュ失敗しましたけどw

akino-oniku.hatenablog.com

Fire TV Stick (New モデル)

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~「必然」の星~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第22話(2期9話)「Awaken the power」

2015年2月26日。

その物語は、1枚の扉絵とたった一言のキャッチフレーズから始まりました。

青く澄んだ海。突きぬけるような青空。

その青空の下、1人の少女が腕を伸ばし、何かをこちらへ訴えかけています。

その表情は景色と同じく、澄んだ笑顔。

ただし彼女の頭上に書かれたキャッチフレーズはそれとは正反対のもの。

悲痛で、切実で、それでいて明確な答えのない、「問いかけ」でした。

 

....さて、なんだかGガンダムの第1話みたいなはじまり方ですがw

今回は2期9話に関する「妄想」を皆様にお届けできればと思います。

説明不要なエモの塊。間違いなく「サンシャイン」だけでなく「ラブライブ!」シリーズにおいても「傑作回」と呼べる「神回」だっただけに語るのは野暮だとは思いますが。とはいえ、なんとかこの回から受けたインプレッションを言葉にしていければなと思います。

 前回8話が「きょうだい」そして「家族」に関する物語だとすれば、今回はそこから視点を更に発展させた「スクールアイドル」に関する物語なのでは?と私は考えます。上手く文章に出来るか自信はありませんが、何卒お付き合い頂ければと思います。よろしくお願いいたします<(_ _)>

それでは参りましょう。#9「Awaken the power」です。

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■花丸による「ルビィ観」

前回親友ルビィが主人公となる物語ながら、メインストーリーにはほとんど絡んでいかなかった花丸。

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私は前回考察において、花丸がメインストーリーに絡んでいかないのは、彼女が物語の主線に絡んでしまうことで起きる「ノイズ」を考慮してのものなのでは?と考えました。

8話は「ルビィとダイヤ」「理亞と聖良」という二組の「姉妹」の物語を通じて「家族のあり方」を描く回。ひいてはその視線の在り方や、変化を通じて「スクールアイドル」とは何か、それが「過去」および「未来」においてどのような「意味」を持つ存在なのか。そこへつなげていくための「ブリッジ」のような物語でもありました。

よって「姉妹」という枠組みに含まれないキャラクターは、メインストーリーから明確に「省かれた」のだと考えたわけです。

(実際8話ストーリーに二組の姉妹以外で絡んだのは、姉を持つ千歌だけだったのは象徴的だと思います。)

今回9話はその「制約」から外れ、新たなるテーマを描く回。それ故に花丸は物語冒頭からメインストーリーにがっつりと絡んで行くことになったのだと思います。

ルビィの申し出をあっさりと受け入れる花丸。彼女の姿勢からはルビィに対する絶対的な「信頼」と「理解」を感じます。

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 ルビィは元々頑ななまでの「引っ込み思案」。仮に親友の花丸が促したとしても、自分の真意をそう簡単には打ち明けてくれない子でもあります。それは1期4話での花丸の「ルビィ評」から明らかになった要素。即ち花丸はルビィが「そういう子」であることは重々理解しているわけです。

1期4話では、そんなルビィの特性を分かった上で、それでも「見過ごせない」事態が発生したため、花丸は半ば強引にルビィの「扉」をこじ開けたわけですが、普段はそんなルビィの在り方を「尊重」してもいるのです。

また、1期4話以降ルビィ自身も若干ではありますが、「変化」しています。これまではことさら自己主張してこなかった彼女が、2期においては自分の考えをはっきりと主張する機会が増えました。その「変化」を花丸も理解しています。

だからこそ、見守るべきタイミングではルビィを見守る。もしもルビィが助けを求めてきたら、細かい事情は置いておいて「助ける」。そんな二人の関係性は、以前にも増して強固なものになっている。8話から続く花丸の姿勢にそんな感想を抱きました。

 

■似た者同士の一年生

8話において、ルビィと自分自身の「似た所」を自覚し、彼女との間に不思議な「絆」を生み出した理亞。

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 とはいえ、彼女の本質はルビィと同じく「人見知り」。招かざる客の参戦に戸惑いを隠せません。

「私、もともと皆でワイワイとか好きじゃないし!」

そんな理亞の主張を受けた花丸は、

「それを言ったらマルもそうずら。善子ちゃんに至っては更に孤独ずら...。」

と自分たちの内面をさらけ出します。(善子は流れ弾食らった状態ですが)

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 極度の引っ込み思案と、姉への重度な依存が要因となって、友人を作れなかったルビィ。

祖父母と山奥の寺で暮らす...という独特な生活空間の中で養われた古臭い言葉使いと、どこか達観しがちな精神性で、これまた孤立してしまっていた花丸。

自分の「世界」を世に問うたものの、それが受け入れられず学校に行けなくなってしまっていた善子。

彼女達は等しく「孤独」な存在でした。

花丸の一言をきっかけに明かされるAqoursの1年生陣の「孤独」さ。

それが、同じく「孤独」な理亞の心を癒していきます。

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1年生ズに共通する「孤独」という要素。これは実は2年生や3年生には「無い」要素でもあります。そんな1年生たちを「救った」存在、「救う」存在とは何なのか。ここもまた9話のテーマの一つのように思えます。

 

■呼び覚まされる力

花丸の「告白」をきっかけに不思議な「連帯感」を得た1年生ズ。冬休みを利用し、北海道に滞在し、「クリスマスライブ」に向けての楽曲作成合宿を行うことになりました。

「クリスマスライブ」で披露する楽曲を合作すること。そしてその楽曲を以て、自分達の力だけで「クリスマスライブ」への参加権を勝ち得ること。そんな「自分達の力を示す」ことが「姉への恩返し」になるのだと理解したルビィと理亞。

それまでは姉達に任せきりだった楽曲作りに切磋琢磨しつつ挑んでいきます。

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悩みのタネは「楽曲のテーマ」。

これまで自分達で楽曲のネタを見出してきたわけではない1年生組にとっては難しい課題です。鹿角家に一時的に住まわせてもらうことで生まれる「交流」。

年長者の聖良に礼儀正しくお礼を告げる善子。

ムキになって理亞と「姉合戦」を行うルビィ。

そんなやりとりは、今まで無かった「交流」が呼び覚ますやりとりでもあります。

他者と「ぶつかり合う」ことによって生まれる「アイデンティティ」。掘り起こされる隠された「本質」。それは正しく「自らの中にある可能性」を「呼び覚ます」行為でもあります。

「ルビィ最近思うの。お姉ちゃんや上級生から見れば頼りなく見えるだろうけど。」

「隠された力が沢山あるんじゃないかな?って。」

そんなルビィの言葉から「曲のテーマ」を見出した花丸。

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「隠された力」を「呼び覚ますこと」。誰かに与えられたものではなく、自分の内側から溢れ出す「力」を信じること。

ラブライブ!サンシャイン!!」において、何度も登場している「モチーフ」。それが今回はAqoursSaint snowという「異なるイデオロギー」を持った存在(だったはず)の両者が「交流」することで表現されていく。

このストーリーには2期において繰り返し描かれている「目標にたどり着く方法は一つでなくても良いのでは?」というテーマへの視点も感じさせます。

 

■震えている手を握って

AqoursSaint snowイデオロギーの異なる両者が、互いに言葉を出しあい、一つの「世界」を作り上げていく。

理亞とルビィの二人によって紡がれる「世界」。苦労の果てにいよいよその「世界」は完成に至ります。

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 とはいえ、目標となる「クリスマスライブ」で楽曲を披露するためには、いかに自分達のパフォーマンスが「ライブに相応しい」ものであるかを審査員の前でアピールする必要がある。即ち「他者」に対して「自分達の存在」を、「本気」を「ぶつける」必要があるということです。

これまでは「姉」という保護者の影に隠れて、その庇護を受けていれば良かったルビィと理亞。しかし今回は「姉」の力は借りられない。自分達の力だけでこの困難を突破しなければいけない。嫌が応にも高まる緊張感。手の震えが止まりません。

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「姉さまがいないのが、こんなにも不安だなんて...」

立ち向かうことで初めて分かる「孤独」の「辛さ」。それは丸で「人生」のメタファーのようでもあります。

どれだけ仲の良い家族がいたとしても、人間は結局は「一人」である。やがては「世界」に対して、自分1人の力で「立ち向かわなければならない瞬間」がやってきます。依るべきものが無い「世界」で、ただ「自分の中にある力」だけを信じて突き進まなければいけないということ。これは人間であれば「誰しも経験する」「道程」の一つです。

頼りない状況に、折れそうになる心。しかし、そんな時だからこそはっきりと認識できるものもあります。

それはこれまで無意識に享受してきた「愛情」の持つ意味と、その「暖かさ」です。

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自分を支えてくれる人の「言葉」や「気持ち」。その心強さは、孤独に立ち向かう時になってようやく気付く物です。そしてそれを「自覚」することが出来れば、今度はその「経験」が自分自身を支える「心の支え」や「自信」にもなっていく。

「ルビィは強い子でしょう。勇気をお出しなさい。」

再三自分の中に眠る力を肯定し続けてくれた姉。これまではその言葉の意味に気付くことが出来ませんでしたが、今ならばその言葉の意図も意味も理解できる。

理解できるからこそ、それを自分自身の「力」へも変換していける。

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今はっきりと「独り立ち」を果たしたルビィが紡ぐ言葉。まだたどたどしくもありますが、「自信」と「誇り」に満ちた語りは、どこか姉ダイヤを彷彿とさせるものでもあります。

同じく心の中で「思い出」を糧に立ち上がった理亞。彼女もまたルビィと同じように「独り立ち」をするに至りました。

そんな二人の「独り立ち」を見て感涙に咽ぶ善子と花丸。

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二人の表情は、視聴者である我々の気持ちを投影した表現のようでもあります(笑)。

 

さて、今回9話を見ていく中で、思い浮かんだ楽曲が一つだけあります。

それは、想いよひとつになれです。

ルビィと理亞の震える手を、花丸と善子が握る...というシーンは象徴的ではありますが。

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それ以外にも物語そのものが、「想いよひとつになれ」の歌詞にとても近似しているように思えるのです。

ふと気づくと 重なり合うよ
一途に 未来を呼ぶこころ
ふるえてる手を にぎって行くんだよ
すれ違ったあとで 同時に振り向いた
ほらね 本当は
一緒だったよ気持ちはね

 同じ目標を目指しながらも、イデオロギーの対立からすれ違っていたAqoursSaint snow。しかし、両者は運命的な引き合わせによって重なり合い、今一つの「世界」を生み出すに至りました。

しかしそれはある種「必然」でもあった。なぜなら両者において異なっていたのは「イデオロギー」だけであり、目指すべき「目標」や、「手に入れたい物」は「一緒」だったのですから。

だいじな夢追うとき だいじなひとがわかる

 大事な夢=「クリスマスライブで自分達だけの力で作り上げた楽曲を披露する」という目標を叶える過程において「だいじなひと」の持つ「価値」に気付く。それは8話から9話に至る物語そのものでもあります。

かけがえのない日々を
過ごしてたんだ
いまさらわかった 
ひとりじゃない
かけがえのない日々を(ここで)
積みかさねて(ひとつひとつ)
いまさらわかった (一緒だよね)
ひとりじゃない

 「独り立ち」するなかで、改めて気づく、過ごしてきた日々の「かけがえなさ」。そしていつでも自分は「ひとりぼっち」ではなかったのだという「事実」。その「事実」が「救う」もの。

紡がれる歌詞の一つ一つが、今回の一連の物語に重なっていくような、そんな感覚があるのです。

この「想いよひとつになれ」が繋ぐAqoursSaint snowの物語。それが具体的に描かれた話数とは1期12話でしょうか。

少しイレギュラーではありますが、ここで視点を少し過去に巻き戻してみたいと思います。そうすることで、この9話の持つ「価値」や「意味」などにより深みが感じられるような気がするからです。

 

AqoursSaint snow~本気がぶつかり合う日~

AqoursSaint snowが初めて相まみえたのは、1期7話「TOKYO」そして8話「くやしくないの」です。

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この時点でAqoursの全国知名度は皆無。Saint snow知名度抜群というわけではありませんでしたが、あくまで「ルーキー枠」で呼ばれたAqoursと、きちんとした出演者として迎えられたSaint snowとでは、実力・知名度ともに明確な差がありました。

初めてAqoursSaint snowが「並び立てた」のは、12話「はばたきのとき」。

想いよひとつになれ」は、PV再生数ではSaint snowよりも上。実力至上主義を掲げるSaint snowにとっては、初めてAqoursに「敗れた」ことにもなり、嫌が応にもAqoursの実力を認めざるを得なくなりました。

故にこここそがAqoursSaint snowが初めて「対等の存在として向き合った瞬間」なのでは?と思えるわけです。即ち両者を繋ぐ楽曲として想いよひとつになれ」は明確に機能している...とも考えられるわけですね。

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ここで初めてぶつかり合った両者の「イデオロギー」。

なぜ「μ'sやA-RISEは輝けたのか」。その理由を探す千歌は、聖良自身の考えを聞きます。

聖良は「自分も同じ疑問を持ったことがあること」そして、「考えても答えが出なかったこと」を千歌に告げます。そしてその答えを見出すためにまずは自分も両者と同じ「立ち位置まで上り詰めることを目指している」のだということを語るのです。

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紐解くと分かることですが、千歌と聖良は元から「同じ答えを求めている」ことがこの時点ではっきりと描写されていたのですね。

どうすれば「先人のように輝くことが出来るのか」。

聖良はそれを知るために、ひたすらに「勝利する」ことを目指しました。

反面千歌は、「勝利の先に答え」を見出せなかった。代わりに先人(μ's)そのものの輝きを追うのではなく、その「在り方」を追うことで、「輝く方法」を見出そうとしました。

それが両者の「イデオロギー」となり、「差異」として明文化されることで、「ライバル関係」成立の柱にもなっていきました。

「同じ目標」を目指しながら、ぶつかり合う「イデオロギー」。

ここからは2期主題歌「未来の僕らは知ってるよ!」冒頭の歌詞「本気をぶつけあって 手に入れよう未来を」という言葉が想起されます。

すなわちこの「イデオロギーのぶつかり合い」とそこから得る「結論」もまた、「ラブライブ!サンシャイン!!」2期における大切な「ストーリー」であること。

ひいてはこの「結論」を導き出す主軸となるAqoursSaint snow、両者が「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語における「主人公」なのである、という視点もぼんやりとながら見えてくる気がするのです。

だからこそその「結論」にたどり着く今回は、「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語においては、とても「大切な回」なのだとも思えるわけですが。

 

さて、このように二組のグループが「イデオロギー」を戦わせ、やがて一つの「答え」にたどり着く物語を、我々は一度見ています。それはもちろん、ラブライブ!」2期10話「μ's」でしょう。

 

■キャッチフレーズ

ラブライブ!」2期10話「μ's」。そこで描かれたのはμ'sのリーダー高坂穂乃果と、A-RISEのリーダー綺羅ツバサによる「イデオロギーの衝突」と、それに対する「回答」でした。

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東京予選においてμ'sに敗れたA-RISE。μ'sのパフォーマンスの優秀さを認めた上で、敗北を受け入れたはずのツバサ。しかし、どうしても胸の中に残る「しこり」を解決させるため、穂乃果にその「答え」を求めます。

確かにμ'sのパフォーマンスは素晴らしかった。しかし、自分達A-RISEも決して劣ったパフォーマンスをしたわけではない。常に最高を目指し、パフォーマンスの完成度に自信を持ってきたA-RISE。その「完成度」と「自信」こそがA-RISEを形作る「誇り」だった。そしてそれを東京予選でもしっかりと見せた。にも関わらず負けた。

ツバサにはその「敗因」が分からない。だからこそ当事者である穂乃果に、その「回答」を求めるのです。

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しかし当の穂乃果は、ツバサの問いへの明確な回答を示せない。思い悩む穂乃果。その悩みの中で見出した答えは「みんな」というキーワードでした。

μ'sは確かにA-RISEよりもパフォーマンスでは劣っている部分もあるかもしれない。けれどもその「未完成」な部分こそが、同じく「未完成な人々」の共感を呼び、その「民意」が「支持」となってμ'sを支えている。

足りない部分を「みんなの力」が補う余地があるからこそ、その「余地が無い」A-RISEに勝利することが出来たμ's。

穂乃果はその「回答」を一つの「キャッチフレーズ」としてツバサに示して見せました。

「みんなで叶える物語」

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その言葉は穂乃果の気づきであるという以前に、一つの大きな意味を持つ「キャッチフレーズ」でもありました。

プロジェクトラブライブの始まりとして掲載された広告。

そこに記された言葉。それは「みんなで叶える新しい物語」という文言でした。

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即ち、プロジェクト開始時に設定された「キャッチフレーズ」を、物語内の文脈に落とし込むことで、綺麗に「回収する」という要素があったのです。

それは多分にプロジェクトを初期から「応援してくれているファン」への「目配せ」でもありましたが、それだけでなく「ラブライブ!」という物語を形作る「テーマ」を「キャッチフレーズ」として綺麗に表現してみせたということでもありました。

この後「みんなで叶える物語」は、プロジェクトの一端の終焉となる「μ's Final Love live公演」後に展開された「みんなで叶えた物語」というキャッチに至るまで、「ラブライブ!」というプロジェクトを司る根幹テーマとして、しっかり機能していったわけですから。

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そう考えると、プロジェクトにおける「キャッチフレーズ」を、アニメ物語内においても重要な「テーマ」として落とし込んだ...という部分において、この2期10話は「大切な回」だったとも思えるわけです。

これまでも、大事な場面では「ラブライブ!」のストーリーラインや構成を「再構築」してきた「ラブライブ!サンシャイン!!」。

だとすれば、今回の物語にも、そういった「意図」があるのでは?と勘ぐれる部分もあるのです(完全な妄想ですが)。

すると浮かび上がってくるのは、プロジェクト発足当初から今に至るまで「回答」が示されていないあの「キャッチフレーズ」なのです。

 

■「ラブライブ」が救うものとは。

2015年2月26日。

その物語は、1枚の扉絵とたった一言のキャッチフレーズから始まりました。

青く澄んだ海。突きぬけるような青空。

その青空の下、1人の少女が腕を伸ばし、何かをこちらへ訴えかけています。

その表情は景色と同じく、澄んだ笑顔。

ただし彼女の頭上に書かれたキャッチフレーズはそれとは正反対のもの。

悲痛で、切実で、それでいて明確な答えのない、「問いかけ」でした。

「助けて、ラブライブ!

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あの日、彼女が救いを求めた「ラブライブ!」。しかし、彼女が「ラブライブ!」に対してどんな救いを求めたのかは、今なお明確な回答が示されていません。

2期において「学校を統廃合の危機から救う」ため、ラブライブ出場を目指した千歌たちAqours。しかしその願いは空しくも、途中で潰えることとなりました。

この「キャッチフレーズ」が「ラブライブ!サンシャイン!!」という「物語」全体を覆う「テーマ」なのだとすれば、「途中で潰えた目標」に掛かっているとは考えづらいもの。

だとすればこの「助けて」は何にかかっていくのでしょうか。

視点を1期にまで戻してみると、千歌は「ラブライブ!」との出会いによって「普通星人である状態に留まっている現状」からの「脱却」を試みることになります。

そんな千歌の熱は周囲に伝播していき、梨子は千歌を通じて「ラブライブ」と「スクールアイドル」に触れ、音楽に対する渇望を取り戻していきます。

曜は幼馴染である千歌と対等に取り組める物事を手に入れるだけでなく、心のどこかで抱えていた千歌に対する「コンプレックス」を「ラブライブ」というフィルターを通じて解消していくことになります。

ラブライブ」を通じて疎遠になっていたダイヤ、鞠莉、果南は、再び「ラブライブ」を通じて集い、その辛い過去を払しょくしていくに至ります。

そして今回も語られたように、「孤独」だった善子、花丸、ルビィは、「ラブライブ」と「スクールアイドル」に出会うことで「孤独」から抜け出していきます。

ことほどさように、「ラブライブ」ならびに「スクールアイドル」という存在そのものが、彼女達の「実人生」を「救っていく」のが「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語でした。

ここから分かるのは、「ラブライブ」が「救う」ものとは、「統廃合阻止」のような物理的なものではなく、「心」やそれに伴う「人生」なのだということが見えてくるように思えるのです。

そしてその対象とは、決して「スクールアイドル」そのものだけではない。「ラブライブ」というフィルターに触れた人、全ての「人生」に「救い」を与える。

そんな大きな「救い」を与える存在としての「ラブライブ」が浮かび上がってくるような気がするのです。

ラブライブ!サンシャイン!!」2期は、「スクールアイドル」と「ラブライブ」の持つ「厳しさ」を全面に押し出したシナリオ構成となっています。

なぜそういったシナリオ構成を取っているのかというと、恐らく「μ's以降」に「スクールアイドルをやろうとする」人たちの「苦悩」に、「既に全てが終わってしまった時代に産まれた我々の苦悩」を投影させるためなのではないでしょうか。

「既に全てのイノベーションが終わった時代」と呼ばれる現代。ここでは何を初めても「誰かの真似」だと揶揄されます。しかし、「真似」であろうが「二番煎じ」であろうが「誰かの作った土俵」だろうが、そこで「勝負するしかない」。なぜなら僕らはこの時代に生まれてしまったのですから。

サルトルは言いました。

「確かにもっといい時代はあるかもしれないが、これは我々の時代なのだ。我々はこの革命のただなかに、この生を生きるよりほかはないのである。

生まれてきてしまったのだから、今を生きるしかない。しかし悲観的なままでは生きていけない。だとすれば、今を「肯定する」しかない。そのためには「勇気」が必要なのです。だからこそ自らの心から湧き上がる「勇気」を、「願い」を、「夢」を「肯定する」物語が必要なのだと思います

ラブライブ!サンシャイン!!」という物語が「ラブライブ」というものに託した願いとは、この「肯定」を呼び起こす「力を目覚めさせる」「トリガー」としての要素なのではないでしょうか。

それは正しく「Awaken the power」という、今回のタイトルそのものに象徴されているのだと思えるのです。

 

■エメラルドグリーンと雪の結晶

いよいよクリスマスライブ。

ルビィと理亞の衣装には、それぞれの「想い」が閉じ込められているように感じます。

理亞の衣装はSaint snowの象徴である「雪の結晶」を思わせるデザイン。

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ルビィの衣装はエメラルドグリーンの配色。

それはダイヤとのつながりを示す「黒澤家の瞳の色」。

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自らを支えてくれた「姉」を象徴するものを衣装に取り入れつつ、その先にある場所を描く歌。

「Awaken the power」は「今を生きるスクールアイドルのアンセム」でありながら、二人にとっての「個人的な思いの集大成」でもある。

ほんのちょっとした衣装の要素からその事実を感じ取れるのも、9話の素敵なところですね。

 

■「必然」の星

AqoursSaint snow。「革命の只中」で「スクールアイドル」として同じ戦場を駆けてきた戦友。

片方は志半ばで戦場を去り、片方はラブライブに願いを託しながら、既にその願いは成就されない運命にある。

一般的には「敗者」と呼ばれてしまうのかもしれない両者が、今重なり合うことで、一つの大きな奇跡を実現しようとする。

だからこそこの楽曲は11人全員で歌われることに意味がある。そう思います。

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彼女達が「ラブライブ」に託した、一番大きな「願い」は叶わなかった。やはりどれだけ願っても容易には「星に手は届かない」し、「輝きをつかまえることもできない」。

それは「偶然が支配する」この世界では当たり前のことです。

けれども、彼女達自身で「星」を「作ること」は出来る。

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終わりかけていたSaint snowの夢。それを「終わらせない」という選択を選んだのは、ルビィという「一人の人間」の「意志」です。

そしてその「意志」に感化された理亞が、同じく感化された花丸と善子を巻き込んで、新しい「夢」へと挑み、それを実現していく。

彼女達の「意志」が「クリスマスライブ」への参加という「必然」を生み、「Saint Aqours snow」というユニットをも実現させた。

これらは全て「人の意志」と「力」がもたらす「必然」の「軌跡」なのです。

「偶然が支配する世界」における「星」は手に入らなくても、「人が作り出す必然の世界」の「星」は自分達の手で掴み取ることが出来る。

それはここまで2期の物語において、繰り返し描かれてきたテーマと同じです。

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だからこそ、函館の聖夜に、二組の「今を生きるスクールアイドル」が作り出した星は、「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語がここまで描いてきたテーマの、一旦の「集大成」を象徴するものでもあるように思えるのです。

 

■終わりの先へ

 ライブが終わり。理亞は改めてSaint snowの「終わり」を宣言します。やはりSaint snowは世界でただ一つ、理亞と聖良だけの「結晶」だから。

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ただしスクールアイドルは辞めない。

聖良とは違うメンバーと、もう一度「自分達だけの結晶」を作ることを宣言する理亞。

「姉との閉じた世界」を象徴するものだった「スクールアイドル」は、今理亞にとって明確にその意味合いを変化させました。

「未来」への「希望」を象徴するものに立ち戻った「スクールアイドル」。ルビィはその行動を通じて、似た者同士である理亞の「未来」を救って見せたのかもしれません。

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前向きな「別れ」。8話でダイヤがルビィを切り離したように、9話では理亞が聖良を切り離す。構成の反復を利用して、意味をより明確に視聴者に刻み付ける。大変素晴らしい構成だと思いました。

その別れを、どこか切ない視線で見つめるAqoursメンバー。(特に鞠莉)

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彼女達にとっても「別れ」はもはや他人事ではありません。

ラブライブ終了と同時に訪れる、必然的な「別れ」。果たしてAqoursはそれをどのように乗り越えるのか。それが次回からの物語になっていきそうですが...。

 

ということで、第9話の妄想でした!

実はマクロにとらえ過ぎて、書ききれなかった部分が出てしまったのですが、その辺は分かり手の他ブロガー様にお任せしたいなと思います。

今回も長々とわけのわからぬ記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回、恐らく3年生回「シャイニーを探して!」

楽しみ!!

Awaken the power (特典なし)

Awaken the power (特典なし)

 

 

~優しい「断絶」~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第21話(2期8話)「HAKODATE」

皆様こんにちは、こんばんは。

今回も私の「妄想」をお届けします。

 

さて、今回はサンシャインでは久々となる前後編(1期7話8話以来?)。本来は9話も含めてオーガナイズするのが正しいのかもしれませんが、この8話だけでも様々な情報が含まれており、非常に興味深い内容でしたので、8話のみで記事を構成してみようと思います。

とはいえ、今回も物語の全容を掴むことは難しいので、全体を追うというよりも、概要をメインに気になるポイントに触れていくスタイルで参ります。

また、今回の記事内容が9話においてひっくり返される可能性は十分にございます。そこは含みおきくださると幸いです。

しつこいようですが、本記事は私の「妄想」です。決して「正解」ではございませんので、ご了承願います(笑)。

それでは参りましょう。#8「HAKODATE」です。

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■「ラブライブ!」ならではの「物語構造」

今回の物語の構造を読み解くうえで、まず最初に頭に入れておきたいのが、「今回の主役が誰なのか」という点です。

ラブライブ!」では、これまでも回によって「主役」が入れ替わり、その「主役」をメインに据えた「物語」が描かれてきました。

度々「ラブライブ!」を巡る不満点として語られがちなのは「回によってキャラクターが死んでしまう(活躍しないの意)こと」なのですが、これはあくまでも「キャラクターのために物語を紡ぐ」のではなく、「物語のためにキャラクターが存在する」という「アニメ版ラブライブ!」ならではのバランス感覚に要因があります。

とはいえ、このバランス構造自体に「アニメ版ラブライブ!」という作品の「魅力そのもの」も凝縮されており、ここを根拠に作品としての「良し悪し」を語るのは難しいところでもあります。要はここが合わない方は「アニメ版ラブライブ!」自体を受け付けられないと思うくらいで。もう「好き嫌い」のレベルになってしてしまうポイントでもあるわけです。

今回「黒澤ルビィ」がメインの登場人物であるにも関わらず、親友であるところの「国木田花丸」がその感情の機微にまったく「無頓着」であることが、突っ込みどころとしてよく指摘されているようです。

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ただし、ここにも「物語のためにキャラクターが存在している」というバランス感覚が背景にあるのです。

今回の物語を描くうえで、ルビィの物語に花丸が絡んでいってしまうと、かえってその要素が「伝えたい物語を描く」上での「邪魔な要素=ノイズ」になりかねない。だからこそ花丸を今回は「本線には絡ませていかない」。そこには物語をよりスムーズに進行させ、テーマを散漫にさせないための「アニメ版ラブライブ!」ならではの工夫を感じるのです。

とはいえ物語そのものを全面的に「軽く」するために、花丸をコメディリリーフとして起用するのまでは、いささかやりすぎなのかもしれませんが。

「物語のためにキャラクターが存在している」即ち「物語の持つテーマを伝えるためにその時にあったキャラクターを起用する」のが「ラブライブ!」だとすれば、今回黒澤ルビィと共に「主役」としての任を与えられた人物にも、それ相応の「理由」があっての「起用」であることが理解できます。

ルビィと共に物語の主軸に立つのは、鹿角理亞

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彼女が今回の物語において、どのような「役割」を背負って登場しているのか。それに関する私の考え方は後述することといたしましょう。


■空白を描く

本選出場を目指すSaint snow。そんな彼女達のおひざ元である「北海道地区予選」のゲストとしてお呼ばれしたAqours。彼女達と写真を撮りたがる予選出場者が現れるように、今や拡大化した「ラブライブ!」においては「本選出場」自体が一種の「ステータス」と化していることが伺えます。

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反面この事実が伝えるのは「敗者には何も与えられない」という事。この残酷なまでに現実的なシステムを直接的でなく視聴者に伝えることで、「敗北」の持つ「重み」や「痛み」も伝えようとする。このシーンにはそんな意図も感じます。

Saint snowの楽屋に挨拶に向かうAqours。出迎えた聖良は自信に満ち溢れています。

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Aqoursと雌雄を決する場所は本選」。そう言って憚らない聖良。反面その大きな自信が我々視聴者の心を揺さぶります。

「果たして大丈夫なのか」「何か起きてしまうのではないか」

悪い予感であってほしいと願った瞬間、それは現実のものに。

ブツリと途絶える場面。直後映し出される予選突破者の名前。そこにSaint snowの名前はありません。

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千歌や曜のモノローグで語られる「事件のあらまし」。挨拶に向かった楽屋に、既にSaint snowの姿はありません。

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自信に満ち溢れた聖良が、ほんの数時間前まで座っていた場所。しかしそこに彼女達はいない。

「何が起きたのかを描かないこと」「不在であること」といった「空白」を敢えて描写することは、起きた出来事を「直接的」に描くよりも、より強烈な「印象」を視聴者に与えることがあります。事件の「空白」。楽屋の「空白」。それらを見ることで、我々はその「空白」を想像力によって埋めようとする。その行為がより強烈な「空白の持つ残酷性」を脳内で強調させる。実に良く出来たシーン構成でした。

※それ故、後々Saint snowの「失敗シーン」を「見せてしまう」ことが蛇足に感じられましたが。恐らくそこを見せないことで起きる「クレーム」を考慮してなのでしょうが、少しもったいなかったですね。


■合わせ鏡の二人

予選開始前から落ち着かない理亞の様子を見て、何かを感じ取った様子だったルビィ。

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ルビィが理亞に不思議なシンパシーを感じる理由は、誰しも分かること。それは二人が「とても良く似た存在だから」にほかありません。

「性格」こそ違えど、「髪型」「姉を慕っている」「姉と共にスクールアイドルをしている」という形式上の共通点が多い二人。そして二人が決定的に「同じ」である要素は「姉と自分とをつなぎとめる要素」として「スクールアイドルを見ている」という部分でしょうか。

ルビィも理亞も「何故スクールアイドルを好きになったのか」に関しての動機が語られたことがありません。ですので想像に過ぎないのですが、その根底には「姉の影響」というものが色濃くあるように思えます。

ルビィが元々は姉ダイヤと共に「スクールアイドルの真似事」をしていたのは、1期4話で語られた通り。

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また初期Aqours結成時においては、活動開始に向けて率先して動いていたのはダイヤと果南だったように、

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元々はダイヤこそが「スクールアイドル好き」であったことは、ハッキリと描かれていること。とすると、ルビィの「スクールアイドル好き」も彼女の影響故なのでは?というのは容易に想像ができます。

理亞に関しては根拠自体が無いため、想像すら難しいのですが、ここで重要になってくるのはルビィと理亞に共通している「姉を病的なまでに崇拝している」という要素ではないでしょうか。

物語終盤繰り広げられる「姉自慢合戦」。お互いが譲り合うことなく続く「私の姉が凄い」合戦は、一種の微笑ましいシーンでもあるのですが(笑)。

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いかに肉親とはいえここまで姉を「崇拝できる」二人は、少し「普通ではない」のかもしれません。

そしてこの過剰なまでの「崇拝」からは、同時に「追いつく、並び立つことの出来ない存在」への「畏怖」のような感情も感じてしまうのです。

「大好き」で「尊敬」している対象に「置いていかれる」感覚というのはどのようなものなのか、私には計り知れません。ただ、すぐ隣にいる人が「自分とは違う世界の住人になってしまう」ような感覚が恐ろしいものであることは、なんとなく想像できます。

ルビィにとってのダイヤ、理亞にとっての聖良はもしかしたら、そんな存在なのかもしれません。自分にとっての「崇拝する」対象故に、並び立てない「ジレンマ」も抱えている。

ただしそれを「フラットにする」方法がある。それが「スクールアイドル」です。実生活において自分から必然的に「遠く離れて行ってしまう」存在を、自分と同じ「土俵」に繋ぎとめておくことが出来る「舞台」。「スクールアイドル」には、そういった利用価値もあるのです。

二人がその「利用価値」を知った上で「スクールアイドル」をやっているとまでは思いません。二人とも「スクールアイドル」そのものに「価値」を感じている。しかし、無意識に「スクールアイドル」が持つそういった「機能性」を「利用」している部分もある。故に二人は「スクールアイドル活動に執着するのでは?」と考えられるわけです。「スクールアイドル」である限り、彼女達は「姉と並び立っていられる」のですから。

反面それ故に、二人は「スクールアイドル活動」が「終わってしまう」ことに同じような「恐怖感」を覚えているのでは?とも理解できるのです。

今回予選で敗退してしまったことによって「姉と共に活動する」という意味においての「スクールアイドル活動」が「終了」してしまった理亞。ルビィがその姿を見てショックを受けるのは、自分にもやがて訪れる「終わり」を「実感」してしまったからではないでしょうか。

ルビィが語った理亞の心境。「お姉ちゃんと一緒に出来ないのなら、やる意味がない」。そこには彼女達にしかわからない複雑な感情が渦巻いているのです。

とはいえ、果たして「スクールアイドル」というのは、そのようなある種の「後ろ向きな満足感」を充足させるためのツールであるべきなのか。

もっと「未来」に向けて、有効な存在なのではないか。そういった気づきを似た者同士の二人が、お互いを「補完」しながら得ていく。今回の物語にはそんなテーマが隠されているように思えるのです。

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■函館という場所~夢の行く末~

これまでも北海道のスクールアイドルであることが語られてきたSaint snow。しかし彼女達の地元が函館であることは今回初めて明らかになった情報でした。

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Aqoursが偶然立ち寄った古風なお茶屋さん。そこを営んでいたのが、なんと鹿角姉妹というご都合主義的展開ではありましたが(笑)。

聖良は、「将来姉妹二人でこのお店を経営していくことが夢」だと語ります。

その言葉に「そうなんだ」と敏感に反応するのはルビィ。彼女は「スクールアイドルでなくなった」としても「姉との関係が継続されていく理亞」に明確に「嫉妬心」を抱いているようです。

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一見可愛らしく、慎ましやかで平凡な聖良の「夢」。

梨子が絶賛するように、美しい街で、ゆっくりと人生を送るのも、悪くない選択のように思えます。

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ただし、「函館」という舞台設定を考慮した場合、それはなかなかに難しい「夢」であるように思えてもきます。

Saint snowを訪ねるべきAqoursが立ち寄った彼女達の「母校」。そのモデルとなった函館西高校は、平成29年に「統廃合」が決定している学校でもあります。

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また「函館市」は平成26年4月1日を以て、「全市域」が「過疎地域」として指定された市でもあります。

 函館市は,「過疎地域自立促進特別措置法」の規定により過疎地域の指定を受けていた戸井町,恵山町椴法華村南茅部町の4町村と平成16年12月1日に合併し,合併後も引き続き過疎地域とみなされる旧4町村地域の振興発展に努めてきましたが,平成26年4月1日に「過疎地域自立促進特別措置法の一部を改正する法律」が施行され,旧函館市域を含めた全市域が過疎地域に指定されました。

函館市過疎地域自立促進市町村計画(平成28年度~平成32年度)関連 | 函館市

 過疎とは...

人口が急激かつ大幅に減少したため、地域社会の機能が低下し、住民が一定の生活水準を維持することが困難になった状態をいう。

即ち、このままではやがて「誰も住まない地域になってしまう」ことを確定づけられている場所でもあるわけです。

そんな地域で、姉妹二人が慎ましやかな喫茶店を経営しながら暮らしていくことは、果たして現実的なのか。

一見ルビィが羨ましがる鹿角姉妹の「夢」ですが、背景にはとんでもない「難しさ」と「厳しさ」が潜んでいる。

そして少なくとも理亞は、そんな現実を実感としては「感じ取っている」。だからこそ「スクールアイドル」として「姉と過ごす時間」を大事に思っているのでは?とも思えてくるのです。

鹿角姉妹の本拠地として、敢えて札幌などではなく「函館」という地域を選んだのには、そんな視点をこちらにも共有させるためなのかな?と思えるわけです。


■優しい「断絶」

理亞の気持ちを代弁するうちに「自分のこと」を話していることに気付いてしまったルビィ。いつもの如くその場所から逃げ出してしまいます。

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海辺で黄昏るルビィ。そんな彼女に声をかけるのは、やはり姉のダイヤです。

理亞と自分とを近づけることで「終わり」とそれが持つ「意味」を実感してしまったルビィ。その思いをダイヤに直接ぶつけます。

「あんなにスクールアイドルを目指していたのに、もう終わっちゃうなんて」

そんなルビィの感情的で真っ直ぐな言葉を「私は満足していますわ」とドッシリと受け止めるダイヤ。しかしそんな物わかりの良い言葉を言いながら、スカートの裾を握りしめる。行動と言葉にどことなくギャップを感じさせるダイヤ。

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彼女がどんな「感情」を抱いているのか。それは我々には分かりません。あらゆる「自己矛盾」を抱えながら、それでも「見据えた未来」に対して、「真っ直ぐに進んでしまうことを選んでしまう」ダイヤ。そんなダイヤの「性質」は2期4話においていよいよ明らかになったわけですが、ダイヤはその「性質」を2期4話では「肯定」されてしまいました。それゆえにこの後にも恐らくダイヤ自信のそういった「性質」自体は「変化していかない」と思われます。

今回もルビィの言葉に感情を揺さぶられながらも、「感情には決して左右されない」ダイヤ。自分自身が自分自身の「立ち位置」において紡ぐべき言葉を、妹であるルビィにも語りかけようとするのです。

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「果南さんと鞠莉さん。2年生や1年生の皆さん。そしてなによりルビィと一緒にスクールアイドルをやることが出来た」

「それでラブライブの決勝です。アキバドームです。夢のようですわ...。」

それは濁ること無き、ダイヤにとっての真実の声。でももしかしたらそれはルビィが聴きたい「答え」ではないのかもしれません。

「でも、ルビィはお姉ちゃんともっと歌いたい...。」

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ルビィの願いはもっと単純で、ある種幼稚なもの。お姉ちゃんともっと「一緒にいたい」。それだけです。

「ルビィを...置いていかないで。」

シンプルで純粋な願い。それは常に「姉に置いていかれてしまう」ことを恐れ続けた彼女の必死の「嘆願」。流石のダイヤも、この言葉には感情が揺れそうになる。でもすぐに持ち直す。

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「大きくなりましたわね。」

「それに一段と美人になりました。」

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ダイヤの言葉に「そんなこと...」と返すルビィ。それに続く言葉は何だったのか。謙遜でしょうか。いえ、恐らくは「そんなこと言わないで」なのではないでしょうか。

ダイヤの言葉は、ルビィの「願い」に対する明確な「拒絶」です。

自分をいつまでも「妹」でいさせてほしい。ずっと一緒にいてほしい。そんな思いをこめての「置いてかないで」。しかし、ダイヤはルビィが「成長」したことを、しっかりとした言葉で伝える。

「大きくなった」「美人になった」。

それはルビィが「一人の女性」として「自立していくこと」を認めると同時に、ルビィに対して「自立すること」を「求める」行為でもあるのです。

1人の「個の女性」としての存在価値を認めるが故に、自分の庇護から「可愛くて仕方ないはず」の「妹」を「切り離していく」。とても胸が苦しくなるような「断絶」ですが、反面そこには「深い愛情」が背景にある。

一見すると「厳しい断絶」が描かれたシーンながら、そうではない「愛情」だけを感じ取れるのは、原点にある「愛情」がしっかりと描写されているからこそ。この「優しい断絶」にこそ、2期8話のキモがあるのだと思います。


■「独立」すること。

ルビィとダイヤの会話から千歌と曜の会話へと切り替わるシーン。

なぜ千歌がピックアップされたのかと言えば、彼女が黒澤姉妹以外のAqoursメンバーでは唯一の「姉持ち」のキャラクターだからでしょう。

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黒澤姉妹とは少し関係性の異なる高海姉妹。

母親が不在の事が多い高海家では、少し歳の離れた長女の志満が母親代わり。故に千歌にとって「姉」として実感できる存在は、歳の近い美渡なのでしょうか。

曜の「お姉ちゃんってどうなの」という問いに「良く分からない」と答える千歌。

千歌にとっての姉は、ルビィにとってのダイヤとは少し違う存在。「尊敬」や「畏怖」とは違って「安心感」を与えてくれる存在です。

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とはいえそれはとても「自然」な受け止め方なのかもしれません。いかに「姉」とはいえ、結局は「他人」である。しかし「他人」とはいえ「家族」としての「絆」は、どのような状況にあっても、どれだけ遠く離れても「消えない」もの。

千歌の言葉は、「姉」という物に対する「別の概念」を気付かせるために存在しているようにも思えます。

「姉」というよりも「家族」として捉える。そうすることで、より「消えない絆」を実感できる。千歌はもしかしたら、ルビィや理亞よりも早く「独立」出来ている人なのかもしれません。

千歌の言葉から再びダイヤの言葉へと物語は戻り...。

ダイヤがルビィに関して「嬉しく感じたこと」。それは「ルビィが自分なりの判断を以て、自分の夢へと足を進めた瞬間」。即ち1期4話での出来事のことでした。

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それまでは「姉が嫌がるから」と「スクールアイドルをやりたい」という夢を封じ込めていたルビィ。そんな彼女が初めて「姉」に対して、一人の「人間」として立ち向かったあの日。確かにルビィにとって、大きな一歩でもありましたが、それはダイヤにとっても大きな印象を与える一歩だったのです。

そしてダイヤからその「事実」を「嬉しかった」と伝えられることで、ルビィもまた一歩、歩みを進めることが出来る。

仮に自分と姉とが物理的に離れて行ったとしても、姉は自分のことをいつでも「見ていてくれる」。そしてその「成長」を「喜んでくれる」。だとすれば、自分が姉から離れ「独立」していくことこそが、大好きな姉に報いる一番の「方法」なのではないか。

そんな「気づき」を伝えるために、ルビィは理亞のもとに足を運ぶのです。


■「終わり」の先へ

「スクールアイドル」でなくなった瞬間に「終わってしまう」と思っていた「自分と姉との関係性」。しかし、「姉」はそうは思っていない。もっと深い「家族の愛情」で「自分自身を見つめてくれている」。

「自分の力無しで、妹が何かを成し遂げたら嬉しい」「自分から離れても、一人でも何かを叶えてくれたら嬉しい」

「終わり」と思っていたものの「先」にあるものに気付いたルビィ。

そしてこれまでは「姉と自分とを結びつける」といういわば「過去」の為に存在していた「スクールアイドル」や「歌」という要素を、その先にある「未来」のためのツールとして使おうと視点転換をしはじめたルビィ。

それだけでも大きな「成長」を感じさせるシーンです。

 また、その「未来」を、自分にとっての「合わせ鏡」である理亞と一緒に「作ろう」とするということ。

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それは、似た者同士でありながら、違う立ち位置にいる二人が、同じ「未来」を見つめて一緒に行動していくということです。

これはどこか2期5話「犬を拾う。」とも近い性質を持った物語とも思えます。

そういった意味では、この「違う立ち位置や方法でも、同じ目標にたどり着く方法がある」というような「多様性の許容」みたいなものが、「サンシャイン!!」2期では、裏テーマとして存在しているのかしら?とも思えてきますね。

さて、果たして彼女達の「気づき」の形とは、どのようなものなのか。そしてそこからどんなインプレッションを得るのか。それは次回のお楽しみですね♪

 

というわけで2期8話「HAKODATE」でした。前後編だから、コンパクトに纏まって良かったです。

来週はヨハネと花丸も活躍するのでしょうか。楽しみです!

~光る風になろう~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第20話(2期7話)「残された時間」

皆様こんにちはorこんばんは。

今回も皆様の暇つぶしにお読み頂ければと思います。

今回は「ラブライブ!サンシャイン!!」2期における折り返し地点。それだけに物語におけるかなり重要な要素を占める内容になりました。

とはいえ物語自体はシンプルなもの。ですので、物語の流れを追うのではなく、全体の概要を掴んだうえで、僕自身がこの回から得たインプレッションのようなものを書いていければ良いなと思いました。

なので、今回は考察というよりも「インプレッション」に近いものとしてご一読頂ければ幸いです。

では参りましょう#7「残された時間」です。

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■人の力で超えられる「運命」と越えられない「運命」

「MIRACLE WAVE」を携えて挑んだ東海地方予選はまさかの1位通過。圧勝でした。

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自らの力で一つの「奇跡」を達成したAqours

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しかしながら一つの達成が雪崩式に次の達成を生む...ことは「サンシャイン!!」ではついぞ描かれません。

それは善子が抽選会会場において、「じゃんけんには勝てた」としても、「抽選には勝てない」ことと同じ。

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「人の力が介在し得る勝利」と、「それが叶わぬ運命」とがある。

それを躊躇なく描く。なぜならそれが「現実」だからです。

ラブライブ!サンシャイン!!」は「ラブライブ!」とは違い「神話」でも「寓話」でもない。その「神話」を信じる「人間たち」の「現実との戦い」の物語である。

だからこそ、「神話」や「寓話」のような出来事は起きえない。

「努力の量と結果は比例しない」。

これは鞠莉の言葉でもありますが、願っても、努力しても、必ず「叶う」とは限らない。

そんな極めて「現実的」な「世界」の物語が「ラブライブ!サンシャイン!!」なのです。

予選大会で圧勝したAqours。そこには勝利に至る彼女たちなりのロジックがありました。

MIRAI TICKET」のような「受け取ったものをそのまま表現する楽曲」ではなく、Aqoursでしか放てない輝き」を放つこと。

それはSaint snowの聖良のアドバイスからたどり着いた必勝法であり、与えられたミッションでもあります。

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「MIRACLE WAVE」によって、そのミッションを達成したからこそ、Aqoursには勝利がもたらされた。そこには「過程」と「結果」における「必然」があります。

しかし、反面これはある種の「人」の力が介在し得る勝利でもあるのです。

では「人」の力だけでは得られない勝利とはなんなのか。

度々作品内で描かれてきたこの「人の力が介在しえない運命」。その決定打がいよいよAqoursに襲い掛かります。

 

■為し得ている「奇跡」と、届かない「奇跡」

「投票」というファクターが勝敗に大きく関係する「ラブライブ」において、「生徒数が少ない」浦の星が圧倒的に「不利」であるということは、以前語られた通り。

しかしそのハンデを物ともせず、この東海地区予選ではAqoursはトップで勝利を収めました。

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ダイヤが語るようにこの勝利の裏側には「Web投票」の力が大きく関係していると思われます。

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浦の星の生徒ではなく、もしかしたら沼津でも、静岡でも無い場所から送られた「票」が、Aqoursに「勝利」をもたらせた。

「地元」とは関係ない「マジョリティ」が、Aqoursの「楽曲」と「パフォーマンス」を評価し、票を投じたわけです。

それは実はとても凄い「奇跡」なのですが、彼女たちはその事実にはまだ気付いていないようです。

それは目の前の掴みたい「奇跡」=「学校の廃校阻止」がその事実を覆い隠しているからなのでしょう。

予選結果のVTRを見ながらも、気になるのは入学希望者が増えているかどうか。しかし、鞠莉の表情は思わしくなく、数字にはほとんど変動がありません。

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ラブライブの東海地方予選の勝利は、生徒数増には「ほとんど影響しない」。

でも、それはよく考えれば当然のことでもあります。

Aqoursが好き」であったとしても、「沼津の内浦の女子高」に通おうとは思わない。仮に思ったとしても、中学生が一人で下せる判断でもない。

そもそもとして、この二つに因果関係を持たせること自体に無理があるのです。

それは果南が語ることと同じ。「いかにこの町が良い街でも、そこに通おうとは思わない」。これもとっても「現実的」な意見です。

これに関しては、根本的な問題が一つあります。

それは、そもそもなぜAqoursはこの「因果関係」を「信じてしまうのか」ということです。

「スクールアイドル活動」と「学校の入学希望者増」とは現実的に考えて因果関係は薄い。それは果南を含めたAqoursのメンバーの何人かも理解していることです。

にも関わらずその「達成」に意味を見出してしまうのは「何故なのか」と問われれば、その背景には、「μ'sの神話」があるから...と考えられます。

 

■「廃校阻止」という「嘘」

アニメ版「ラブライブ」世界線で最大の「嘘」と言って良いのは「μ'sが学校を廃校から救った」というお話です。これは以前にもさせていただいこと。

「サンシャイン!!」の世界においても信じられている「μ'sの神話」。その根底にある「伝説」。それが「μ'sの活動が学校を廃校から救った」という「伝説」です。

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しかし少なくともアニメにおいては「μ'sの活動」と「廃校阻止」にどの程度の因果関係があるのかは、全く分かりません。

理事長はμ'sの活動の成果もあって、学校の注目度が増している,,,と発言していましたが、それが入学希望者の増に繋がっているとは明言しませんでした。

そもそもとして、理事長はμ'sの活動を「生徒数増の為の施策」とは考えておらず「生徒の自主性の尊守」のために許していた。即ち学校としてμ'sの活動が「生徒増に因果性を持つ」とは微塵も考えていなかったわけです。

ただしμ'sが学校の「廃校阻止」を目的として結成されたことは事実。

そして結果的に「廃校阻止」が「達成されてしまった」ことも事実。

この二つの事実が成立してしまった以上、他者が「結びつけない」方が無理がある、というのも理解はできます。

とはいえ「μ'sが学校を廃校から救った」という概念だけが一人歩きしている感も否めなません。

では、何故このような事態になったのかを少し「メタ的」に考えると、こういった背景があった方が「μ's」や「ラブライブ!」という物を「一般化」させやすかったからなのでは?とも思えます。

ラブライブ!」って何?「μ's」って何?

それを一言で説明するのは難しいです。

しかし「ラブライブ!」とは「学校の廃校を阻止するために結成されたアイドルグループが頑張ったお話なのだ」と表現できれば、知らない人に対しても簡単に「説明=一般化」出来ます。

「μ's」は「廃校を阻止するために結成されたアイドルグループで、実際にその夢をかなえた奇跡の担い手」としてしまえば、こちらも一言で説明出来てしまう。

つまり「便利」のための「一般化」とも言えるわけです。

で、実はこれ、本質的な部分での「メタ」的な視点でもあります。
 
僕が「劇場版ラブライブ!」をテレビで再放送で見た際に感じた違和感の一つが、テレビの説明欄でした。

そこには「学校を廃校から救ったμ'sが~」と書かれていて、強烈な違和感を感じたものです。

「μ'sって学校を廃校から救ったのか??」という疑問があったからです。

しかしテレビの説明欄では、分かりやすい「一般化」が必要で、その際には平気でこういった「要約」は行われるわけです。

この要素を大きく解釈すれば、いわゆる「神話」や「寓話」の類も、こういった「一般化」の連続によって成り立っていたりするのではないでしょうか。

例えば三国志諸葛孔明が実際には天気予報をしただけにも関わらず、後々には「天候を操作する祈祷師」になってしまったり。こういうのも「事実」の「一般化」に近いのかもしれません。

本質的なものがどんどん「かいつままれていく」度に「要約化」され「一般化」されていく。何故ならその方が伝達が「楽」だから。そして面白おかしくした方が「伝わりやすいから」でもあります。

個人的には、こういった「要約化」「一般化」は一概に「悪いこと」ではないとも思います。

ただし、もしかしたらその「一般化」されたものを本気で「追随しよう」とする人が現れるかもしれない。

そして時にはその「追随」が「悲劇」を生む可能性もある。

もしかしたら、Aqoursは図らずもその「悲劇」を担わされる結果になってしまったのかもしれません。

12話において「μ'sを追うことを止め」「自らの道を進むこと」を宣言した千歌。その晴れやかな表情からは「μ'sからの独立」をハッキリと感じました。

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しかし実は彼女はまだ無意識化で「μ's神話」の支配下にあるのかもしれません。

そしてそんな千歌を中心に据えるAqoursもまた、気付かぬうちに「μ's神話」の庇護下に置かれてしまっている。

となると、真の意味でそこから「解放される」必要があるようにも思えます。

そう考えると、今回の物語はAqoursを本当の意味で解き放つためのファクターとして用意されているようにも思えてくるのです。

 

■「統廃合」を「阻止できない」ということ

なぜ2期において「廃校問題」がピックアップされたのか

といえば、それはもちろんこの「問題」と、その「帰結」が物語において重要だったからと思えます。

Aqours「μ's神話」の呪縛から「真の意味」で解放されなければいけない。それは先ほど書かせて頂いた通り。

だとすれば、彼女たちを本質的に縛り付ける「カセ」からも彼女たちを解放しなければいけない。

それは何なのかといえば、もちろん「廃校阻止とスクールアイドル活動の因果性」なのでしょう。

μ'sの物語を「神話」たらしめているものが「廃校阻止」なのだとしたらAqoursはその物語を追随してはいけない。それではAqoursは独立できない。

だからこそAqoursは「スクールアイドル活動」によって「廃校阻止」を達成できない。

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酷い話だとは思いますが、物語構造を読み解くとこんな風に理解できます。

またマクロな視点で考えれば、「統廃合阻止」を「達成できない」ことによって、初めて「Aqoursは成長できるのだ」とも考えられます。

事実としてこの瞬間は「悲劇」なのですが、「Aqours」にとってはようやく「μ's神話」という「カセ」から逃れた瞬間でもあるわけです。

無意識に「μ's神話」の庇護下に置かれていたAqoursが、ようやく「自分達自身」で「方向性」を見出していかざるを得なくなる

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この「奇跡の不成立」によって、千歌たちが立たされる「岐路」にこそ、2期の前半戦が描きたかった要素の大部分が集約されているようにも思えます。

そしてこの「岐路」にこそ「サンシャイン!!」だけでなく、「ラブライブ!」というシリーズが示したい「テーマ」が隠されているようにも思えるのです。

 

■「マクガフィン」としての「廃校阻止」に関して

「廃校阻止」に関しては、神話という観点だけでなく「マクガフィン」としての観点も大事なのでは?と思います。

ラブライブ」において「廃校阻止」はマクガフィンである。これは私だけでなく、多くの人が指摘している通りのこと。

マクガフィン」とは「物語を進めるために必要となるニセの目的のこと」。大概の場合にはそれとは別の「本当の目的」というものがある。その目くらましのために用意されるものです。

ルパン3世 カリオストロの城」でいえば「王家の宝」と「指輪」はマクガフィンで、本当のお宝は「クラリスの心」となります。

ラブライブ!」無印において「廃校阻止」は動機であったけれど、途中であっけなく「達成されてしまう」ものでした。これはどう考えてもマクガフィンです。

では本当の「お宝」は何か。

「廃校阻止」の「あっけない達成」と「ラブライブ出場辞退」という状況をもってスクールアイドル活動への動機を失った穂乃果が、「ことり留学」という意図しない事態に直面し、自暴自棄となり、そこから本当の「スクールアイドル」をやる「意味」を見出すのが、「ラブライブ!」1期終盤の物語でした。

一度はスクールアイドル活動を止めてしまった穂乃果。彼女が悩みの中で気付いたのは、自分は「歌うことが大好き」であること。そしてそれを気付かせてくれたμ'sが大好きであること。そんなμ'sでいられる時間=「今」がなによりも大切であることという事実でした。

それに気付いたからこそ、「μ's」と「今」を形作る大切な一員であることりを無理やりにでも引きとめに行く。

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穂乃果が気付いた「今」の価値は、その後物語の「テーマ」として息づいていきました。
ここから分かるのは、すなわちμ'sにとっての「お宝」=大切な「真のテーマ」とは「今」という概念だったということです。

穂乃果がこの「真のテーマ」にたどり着くために必要なファクターとなったのは「廃校阻止」という「マクガフィン」が「終わること」。

極端な話をしてしまえば、実は「廃校を阻止しよう」が「廃校阻止に失敗しよう」がその「結果」と「気づき」にはなんら関係性はありません。

ただ「廃校阻止」は「マクガフィン」として存在し、「動機」としての「意義」を失ったら、今度は「消失する」ことに「意義」を持つ存在になる。

要はそれが「消失した」後に「何に気付き」「何のためにスクールアイドルをするのか」という「新しい動機」を見つけることこそが、真に必要なものであり、「廃校阻止」という問題自体はそれ以上の存在ではない、ということです。

この構造自体は「ラブライブ!」にせよ「ラブライブ!サンシャイン!!」にせよ、全く同じで、差はありません。

 

■何故千歌は「統廃合阻止」に燃えなくてはならないのか。

2期当初から思っている方もいるとは思うけれども、千歌がなぜここまで「統廃合阻止」に燃えるのか...ということにピンと来ていない方は多数いらっしゃるように思います。

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この理由も少し考えてみましょう。

まず前提として、1期の物語を通じて、千歌にとっての「学校」や「地元」への「目線」が変化している、というのは大事な視点だと思います。

最初に「統廃合のニュース」が飛び込んだ瞬間には「自分達の状況」と「μ'sの状況」とを重ねて喜び、第1話では「ここには何もない」とひとりごちていた千歌。

そんな彼女が現在「学校のみんな、地元のみんながいて初めて私たちがいる」と語るまでになった心の変遷は、物語を追いかけていれば、誰しも理解できるものと思います。

3話におけるまばらな集客のライブで、体育館を埋めてくれたのは地元の人々でした。

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6話では「地元のことを何も理解していない!」と鞠莉に激怒され、その後梨子の視点を通じて地元の素晴らしさに気づくことができました。

空に舞い上がる無数の行燈の一つ一つに「地元に住む人々」「一人ひとり」を重ねたAqours。その行燈で「Aqours」の文字を作ったあの日。

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「この場所から始めよう」と誓ったあの日を境に、千歌の視点と心境は大きく変化しているのです。

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「学校のみんな」の存在価値を理解しているからこそ、13話では一切の迷いもなく456の3人をメンバーに迎え入れようとする。

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そんな視点の変化があるからこそ、「統廃合阻止」にも真剣に取り組むようになっている。その変化に関しては、まずは理解してあげなければなと思います。
 
この前提ありきで更に考えてみますと...
さきほどAqoursが知らず知らずに「μ's神話」に「引きずられている」と書かせて頂きましたが、その最たる被害者が千歌だとも言えます。

1期12話において千歌は「μ'sの軌跡」を追体験する中で「μ'sを追うこと」でなく、「μ'sのように進むこと」こそが「輝く方法」なのだと会得しました。

その会得を証明するように降ってきたのが、空から舞い降りた「白い羽根」。千歌はその獲得をもってようやく「輝くこと」の『答えを得た」と思ったはずなのです。

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そしてその思いをぶつけるようにして作った楽曲が「MIRAITICKET」。

ここにはこの時点での千歌の「気づき」が歌詞に存分に散りばめられています。

「光になろう。未来を照らしたい。」

「追う」のではなく自らが「光になる」。

「μ's」が追いつけない「光」なのだとしたら、自分たちも同じような「光」になる。

それが千歌の考えた「答え」でした。

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しかしその思いは結実しなかった。

当初の目標通り、0を1にすることは出来た。けれどもラブライブに出場することは叶わなかった。

ここでの「課題」は恐らくこの「光になる」という「願い」なのだと思えます。

「光になる」「輝く」方法は「まっすぐに自分たちの道を進むことなのだ」と千歌は12話で語りました。

それを信じて進めば、自ずと「結果が付いてくる」のだと。

「自分を信じて進むこと」で「願い」は「結果」として「成就される」。

しかしこれはやはり「μ'sの思考」を真似ただけに過ぎないのです。

「μ'sを追う」ことを止めたはずが、「μ'sのように進んでいる」ために、結果として「μ'sを追随する形になってしまっている」ということに千歌は気づいていません。

千歌の頭の中で「統廃合阻止」が大きな存在となってしまっているのも、「μ's神話」の影響下にあるからというのも、決して無関係では無いはずです。

2期1話において「ラブライブ出場」を逃した千歌が、「輝くため」の「手段」として「統廃合阻止」を主張したのは、それを達成することで、「μ'sの在り方」に「追随」できるからでしょう。

「0を1にして、1を10にして、10を100にして。学校を救って。そうしたら、私たちだけの輝きがきっと見つかる!」

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希望に満ち溢れた宣言のように見えて、実はこれは意図せず「μ's神話」の支配下にいることの表明でもあります。

「自分たちの道」を信じて「まっすぐ進めば」「入学希望者も増えて」「学校の統廃合を阻止できる」。

「μ'sを追いかけない」と誓ったはずなのに、この道のりは「μ's神話」そのもの。やはりこれではダメなのです。

千歌が「統廃合阻止」に「必死」だったのは、この思考に支配されているから、とも思えるのです。

だからこそ今回も「統廃合を阻止しなければ輝けない」とひとりごちるのではないでしょうか。

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彼女がなりたいものは「μ's」ではなく、「光」になった。

でもその「光」になる方法も、所詮は「μ's神話」の支配下にあった。

抜け出したはずの「μ'sの影響下」に未だに千歌はいた...ということになります。

なんだか、孫悟空と大仏様のお話みたいですけども(笑)。

故にそのレールから外れてしまった千歌は「輝く方法」を見出せなくなります。

ラブライブなんてどうでもいい」とまでいうのは、恐らく「ラブライブ」は「廃校阻止」の先にある目標だからでしょうか。

手前でレールが外れてしまったら、千歌にとってそれはどうでもいいものになってしまう。

極端なようですけども、千歌という人はそういう人なのだと思います。

優しくて、素直で、普通で。そしてとんでもなく「不器用」な女の子なのです。

そしてそんな子だからこそ、Aqoursの「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語の中心に、この子が据えられているのだとも思うのです。

 

■与えられる「輝く」方法

「光」になれないのだとしたら、何になれば良いのか。それが7話後半の物語でしょうか。

風に吹かれて飛んでいく「白い羽根」。

かつては千歌が確かに掴んだ「羽根」。それは「希望」を象徴するものでした。

それを現在のAqoursメンバーのだれもが目視できないのは、その「希望」をメンバーのだれもが「失ってしまっている」ことのメタファーなのでしょうね。

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酒井監督もファンブックでこの「羽根」についてコメントされていました。

「羽根」は誰の周りにでも常に飛んでいて、でもそれは「胸に希望を感じた」人にしか見えないもの。だとすればAqoursがこの「羽根」を目視できるようになるためには、何が必要なのでしょうか。

「光」になる方法を見失ったAqours

ラブライブを辞退しようとまで考えたAqours

「学校を救いたい」と叫びながらも絶望している千歌。

そんな千歌に「じゃあ救ってよ!」と呼びかけるのは、浦の星の生徒たちでした。

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「学校の統廃合が決まった」にも関わらず、「ラブライブに出てほしい」「それで学校を救ってほしい」と願う彼女たちの意図を、千歌ははじめは理解できません。

千歌にとっては、「統廃合を阻止」して「学校を救う」ことが「輝くこと」の大前提なのです。それが達成できないのであれば、その先には進めない。その思考パターンは「μ's神話の支配下」にあるからでもあります。

「統廃合を阻止」出来ないのならば、「ラブライブ」にも出場しない。自分達の「輝き」は追い求められない。

千歌の「願い」である「光」になることは、そのもっと先にある目標。

μ'sが叶えた道程。

しかしその大前提で止まってしまった千歌とAqours

これ以上なにをすれば良いのか。どんな道を進めば良いのか。千歌にはそれが見出せないのです。

しかし456を中心とした浦の星の生徒たちは「それとは違う道」を知っています。

「それだけが救う方法なの?」

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Aqoursラブライブで優勝し、ラブライブの歴史に「永遠」に「浦の星女学院」の名前を刻みつけること。

それは彼女たちが「ここにいたこと」を「証明する」最大の「救い」となるものです。

そして実はこれは初めて「μ's神話」というレールを外れた、Aqoursにしか作れない「輝き」なのです。

「統廃合が阻止できなかった」からこそ、作れる「輝き」。そこに456は真っ先に「意味」を見出していたわけです。そしてそれを達成できるのは、Aqoursだけなのです。

結果的にAqoursは、「自分達独自の輝く方法」を「他者」によって「与えられる」ことになるわけです。

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本人が気付かなかった「自分の価値」を「他者が見出し」それを「肯定する」ことで「その人物」が「自分自身を肯定できるようになる」物語。これは1期~2期にかけて何度も描かれたものですが、特に2期ではこの要素が強調されて描かれてきました

これまでも「善子」「ルビィ」「花丸」「曜」「ダイヤ」がこの過程を通じて「自己肯定」を出来るになりました。

そして前回はこれまでその行程を経てこなかった「千歌」と「果南」が「肯定される」物語でした。

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何故ここまでその「テーマ」を描いてきたのかといえば、ここでAqoursそのものに、「他者」からの「肯定」を与えるための布石だったと考えるべきでしょう。

これまで「自分たち自身」を「肯定し続け」、それを原動力に「進んできた」Aqours。彼女達がその「原動力」を失った時、その姿を見て応援してきた人達に「肯定される」ことで、再度進むための「原動力」を手にする。

μ'sが無印2期9話で手にしたものを、μ'sとは全く異なるルートで手にしたとき、「Aqoursだけの道」が開かれたように思います。

ここには2期5話で語られた「ゴールにたどり着く方法は一つでなくて良い」という思想も反映されているのではないでしょうか。

故にここに「ラブライブ!サンシャイン!!」2期前半戦のハイライトが集約されていると言っても良いのでは?とも思えます。

「統廃合阻止」というレールから外れたことで「μ's神話」からも外れたAqours

彼女達は「自分達の輝き」をもって、「浦の星女学院」という学校全体の「輝き」を、「ラブライブ」という「歴史」に「刻む」という「新たなミッション」を得ました。

こうして彼女たちは、今明確に「自分達」の「ストーリー」を「始めた」のではないかなと思います。

「無慈悲な神」に抗う「人間」の物語だった「ラブライブ!サンシャイン!!」。

しかしその「無慈悲」を与える根底に「μ's神話」があったのだとすれば、Aqoursはその「運命」からは逃れられたのかもしれません。

だとすれば、ここから「無慈悲な神を蹂躙していく人間」の物語が始まる...という期待も出来ます。

「普通怪獣」が、本当の「怪獣」になってしまうかもと語った梨子。

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かつては「無慈悲な世界へ怒りを表明する」ことしか出来なかった「普通怪獣」が、本当の「怪獣」になってしまうということは、つまりそういうことなのではないでしょうか。

その言葉から、そんな力強い物語の始まりをも予感できるのです。

 

■光る風になろう。

OPテーマ「未来の僕らは知ってるよ」の歌詞内で意図が掴めなかったものが一つあります。それは最後意味ありげに叫ばれる「光る風になろう」という言葉です。

ググっても出てくるのは山上たつひこ先生のマンガと「ETERNAL WIND」くらい。

がきデカで有名な山上先生ですが、「光る風」は全編ハードボイルドな作品。「ファシスト政権に反抗する青年が革命に失敗する話」ってなんとも思わせぶりなんだけど、これじゃあラブライブにはならないところ。

ということで、あまり関係性を見出せていなかったのです。

しかし、「光」と「風」というものに関して考えるなかで、少しだけ意図が見えてきた。

Aqoursが「光」を目指していた..というのは先ほど書いた通り。

この「光」の原点にあるのは、もちろん「僕たちは一つの光」でしょうか。

μ'sが伝説を作り、「決して手の届かない輝き」になったことはファンであればだれでも知っていること。

事実、物理的にみても、「光」とは、どれだけ高速で移動する「物質」であっても、絶対に「追いつけないもの」。即ち「手の届かないもの」の象徴でもあるのです。

故にAqoursは「光に追いつく事」を止めて「光」そのものになろうとした。

しかし、それは「μ's」になろうとすることと同義であって、やはり「不可能なこと」なのでした。

だとすれば「何になればいいのか」。

そこで登場するのが「風」なのかもしれません。

「光」が「永遠に手の届かないもの」の象徴なのだとすれば、「風」は地球上のどこにでも絶えず「吹き続けるもの」の象徴です。

「手の届かないもの」とは逆に「常にそこにあるもの」。それが「風」なのです。

AKB48は2011年に「風は吹いている」という復興ソングを発表しました。

「それでも未来へ風は吹いている」と語ったこの楽曲は、「どんな状況・状態であれ風が吹き続けるように、未来への希望は絶えずあり続ける」というメッセージソングでした。


【MV full】 風は吹いている(DANCE! DANCE! DANCE! ver.)/AKB48[公式]

「光」は「希望」を象徴するものであるけども、「風」もまた「希望」を象徴するものになりうる。そして両者には「あり方」の違いがある。

「光」が「手の届かないもの」だとすれば、「風」は「常に隣にありつづける」もの。
Aqoursが目指すのは、この「風」なのかもしれません。

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決して手の届かない存在としての「光」になるのではなく、誰の隣にでもそっと寄り添う「風」になる

願った人の胸にそっと「希望」を届ける「風」。

これは「SKY JOURNEY」の世界観とも強い近似性を感じる感覚です。

ishidamashii.hatenablog.com

 いつの時代にもいて、その人に「希望」を与えて、去っていく。

なるほど、Aqoursの物語は、あらゆる部分で少しずつ繋がっているのだなと理解できます。

「光る風」に吹かれて、白から青へと色を変えた羽根。

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これまではμ'sから受け取った「希望」を象徴するものだった「白い羽根」が、Aqoursだけの「希望」を象徴する「青い羽根」に変わる。

そして色が変化したからこそ、千歌はこの羽根を認識することができる。

ここにはようやく「自分だけの願い」と「輝く方法」を手に入れた千歌の気づきが描かれているように思えます。

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そして、個人的には「羽根」にAqoursを象徴させているのではなく、「白い羽根」を「青い羽根」に「変化させ」、その「青い羽根」を遠くまで運んでいく「風」にこそ、Aqoursが「象徴されているのでは」と思えるのです。

「白い羽根」だけでは、人は輝けない。

そこに「自分だけの輝く方法」を重ねて、「自分だけの色」へと変えていく。

その気づきを与える「風」のような存在が、Aqoursの「在り方」であり、μ'sとの「違い」なのかなと思います。

故にAqoursの物語は「神話」ではなく、「人間の物語」として描かれているのかなとも思えるのです。

風に吹かれて、はるか遠くへと飛んでいく青い羽根。

そしてそれを見つめる千歌。

「光る風」によって、ずっと未来へと飛ばされていく「青い羽根」に「Aqours」がこれから進む物語の行く末も象徴されているように思えるのです。

 

...ということで、2期7話のインプレッションでした。

色々指摘したりない部分があるのは重々承知ですが、そこは他のブロガー様にお任せするといたします。

また気づきで思いついたものなどあれば、Twitter等で急に呟くかもしれません(笑)。

 

さて、次回は花丸回!なの?それともルビィ回なの??

どっちなの!!!

また、お会いいたしましょう♪

最後までお読みいただき、ありがとうございました。