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ラブライブ!サンシャインハイライト 第5話「ヨハネ堕天」

もはやリアルタイム放送に追いつく気迫すら見せない考察blogがこちらです(白目)。

というわけで5話「ヨハネ堕天」DEATH☆ZE!

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前回から引き続き「新メンバー加入回」...と見せかけて若干複雑なテーマにも取り組んだ意欲回なので、意外と難関なんです。

まぁどの程度そこに切り込むか、その深度によって書く量も変わるのですが。

とりあえず試し試しやってみましょう。

ラブライブ!2期6話「ハッピーハロウィン」との関係

前回4話が2期5話「新しい私」の新解釈だったように、今回は2期6話「ハッピーハロウィン」のリブートに近い内容になっています。

全体として「ワチャワチャのコメディ回」が多い(と思われている)ラブライブ2期の中でも特筆して「コメディに振り切った」という印象が強い「ハッピーハロウィン」。

確かに仮装をしまくったりメンバー同士がお互いになりきったりとやっていることは「コメディ」そのものなんですが、テーマ自体はラブライブ!」という作品が示すテーマの根底を為すものだったり、2期全体のテーマを握っていたりと、結構大切な回です。

というか、5話「新しい私」と6話「ハッピーハロウィン」は同じテーマを持っています。

※もっと言えば2話「優勝目指して」や7話「なんとかしなきゃ!」も同じテーマですね。

もったいぶってもしょうがないので、テーマとはなんぞや?と言いますと、

「自分を愛せ!」ということですね。

6話「ハッピーハロウィン」では「今までの自分たちのパフォーマンスではA-RISEに適わない!」と感じたμ'sのメンバーが「A-RISEに勝てるスタイル」を作る為試行錯誤する物語です。

その中で自分たちにそぐわない「スタイル」「キャラ付け」をしてみたり、「自分じゃない誰か」になってみたりするわけですが、どうにもシックリこない

結局色々と試した結果「自分たちはもともと個性的だった」と気づいたメンバーが「いつも通りのμ's」でLIVEに挑む...という物語でした。

これは物語の内容こそ違えど5話「新しい私」と同じテーマです。

「新しい私」では「周囲に期待される自分」「自分本来の理想としての自分」に思い悩む凛を「自分がなりたい自分になって良い」と肯定する物語でした。

どちらも共通しているのは「取ってつけたようなものや、押し付けられたもので自分を飾るよりも、まずは自分自身を信じて愛してみれば?」という事。

そしてこれ自体が「ラブライブ!」という作品全体が示しているテーマでもあります。

※だからこそ何度も「同じテーマ」で話を作る必要があるのです。

また、サンシャイン4話「ふたりのキモチ」も同様のテーマ設定ですね。

ルビィは姉ダイヤという「他者」の視線や気持ちを気にし過ぎて「自分本位」になれずにいるキャラクターでした。

花丸も「本の物語」「ルビィ」を気にし過ぎて「自分自身」の物語に無頓着な人物です。

そんな二人が「スクールアイドル」をきっかけにお互いの背中を押しあい、それぞれ「自分自身を信じることが出来るようになる」というお話でした。

こうして列挙していくと「全部同じ話」なのが良く分かりますね(笑)。

ことほど左様に「ラブライブ!」という作品は「一つのテーマ」を表現する為に作られている作品なのです。

※ただしこれは全く悪いことなどではありません。全ての「作家性が強い作品」が「同じテーマを繰り返し示す」ように、「ラブライブ」もまた「作家性の強い作品」ということです。その「作家性」をプロジェクト全員が共有しているのが、大変素晴らしいのですが。

余談が長くなりましたが、ここまで読めば明らかな通り、第5話も「同じテーマ」を描くために作られた物語となります。

では少し細かいディティールにも触れていきましょう。

■「仮装」の持つ意味。

「ハッピーハロウィン」と共通する要素としてメンバーの「仮装」があります。

とはいえその見た目には大分差がありますがw

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とはいえ、この「仮装」が孕む問題は共通です。

μ'sがK〇SSもどきの仮装をした理由は「見た目のインパクトが欲しかったから」という理由でした。

Aqoursが善子のゴスファッションと堕天使キャラを採用した理由は「他に堕天使アイドルがいないから目立てる」という理由。

どちらにも共通しているのは「対象に対しての誠実さが無い」ということです。

例えばK〇SSもどきをやるのならば、本家に対してのリスペクトが無ければなりません。

不誠実な理由から採用されたものは「パクリ」に過ぎず、本家にも失礼なだけでなく、本家のファンに対しても不誠実でだからです。

反面その対象に惚れ込んだ上で愛情表現としての「まね」であれば「オマージュ」として受け取られる可能性もあります。

しかしどちらにせよ「自分でない他人の個性を真似たもの」に過ぎない以上、限界があるように思えます。

Aqouesの場合にも同じで、「目立てる」という理由での採用には「対象に対しての誠実さ」が無いですし、その程度の認識で付けた「キャラ」など「すぐに見破られてしまう」でしょう。

実際のところスクールアイドルマニアのダイヤ会長にはその人気が「一時的なもの」であることを瞬時に指摘されましたし、実際に瞬間的に上がったランキングは一気に落ちていきました。

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何度聞いても「ohープリティボンバヘッ(ド)!」に聞こえる。(正解を教えて)

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ではどのように戦えば良いのか…という回等は次回「PVを作ろう」に引き継がれていきます。

このゴス衣装や堕天使キャラへの「不誠実な接し方」は、結果としてコンセプトの持ち主である善子をも傷つけてしまいます

津島善子

津島善子というキャラクターは、二次元世界には多いものの、ラブライブ世界線では非常に珍しいキャラクターです。

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オカルト的なものを愛し、自分自身を「堕天使」と信じ、痛々しい発言を繰り返す。

こういったいわゆる(本来の意味とは離れた)「厨二病的」なキャラクター造形は、個人的な体験では田中ロミオ氏の「AURA~魔竜院光牙最後の戦い~」(傑作!)を筆頭に「厨二病でも恋がしたい」などに引き継がれ、そののちは様々な作品に登場するようになりました。

ラブライブと何かと比較される「アイドルマスター シンデレラガールズ」にも同様のコンセプトキャラクターが登場しますね。

※僕はあちらのアニメに関しては....ですが(余談)。

言ってしまえば「流行り」の枠組みに入るキャラクターに当たるわけで、いわゆる「普通の女の子」を売りにしてきた(実際は普通のやつなど一人もいないけどw)ラブライブでは異質な存在になります。

今回のサンシャインではこの善子を筆頭に「ロリ枠のルビィ」や「金髪の明るい外人枠=マリー」など「コテコテ」なキャラクターを敢えて登場させているのが新しい取り組みですね。

※まぁこういったキャラクターを調理するのはお茶の子さいさいなのが花田十輝氏ですから、チーム内にもシナリオライターへのしっかりとした信頼感があるのが伺えます。

類型化された「厨二病的キャラクター」が共通して持っているのが「自分自身のあり方を客観的に見て、これで良いのか迷っている」というところ。

この「ブレ」がもたらす「おかしみ」や「かなしさ」がキャラクターの魅力を表現する際に有効かつ安易に働くため、「厨二病キャラ」が世の中に氾濫したともいえます。

そんな「分かりやすすぎるコンセプト」を背負ったキャラクターが「ラブライブ世界」でどのような役割を果たすのか、というのはアニメ放送開始前から興味深かったポイントの一つでした。

■「厨二病」の捉え方

元々は伊集院光氏が「ちょうど中学生二年生くらいの時期にある、自意識を持て余した結果起こしてしまいがちな失敗」をラジオ番組内で共有する際に定義として発明した「中二病」という言葉。

現在の認識では「オタク文化に埋没した結果、その境目を見失い、現実で痛々しい発言をしてしまう人物」というような扱われ方に変化しています。

それまでは「思春期」と同じように「大人になるとやがて卒業する病」として扱われてきたものでした。(だからこそ振り返って気恥ずかしい思いをしたりする)

しかし前述の「AURA~」以降「無理に卒業するのではなく、性質として取り入れ、周囲と共通理解のもと継続していくことも出来る」という回答を示す作品が増えていきました。

こういった結論が増えた要因の一つには「性別選択の自由」のように「多様な価値観を認めるべき」という機運が高まってきた時期だったから、と言えるのでしょう。

「AURA~」が発行されたのは2008年。

ラブライブにも深い影響を与え、「性別選択の自由」など10代の若者が抱える社会的な話題を積極的なテーマとして捉えて大ヒットしたドラマ「glee」が本国アメリカで放送開始したのは2009年。

時期的にも近いですね。

そんな観点から「厨二病」もまた不思議と「卒業するもの」では無くなっていきました。

今回の善子の物語にもそういった「新しい視点」が取り入れられていました。

■「卒業できること」と「できないこと」

Aqoursによってある種安易に「模倣」された「堕天使キャラ」と「ゴスファッション」は一時的にAqouesの人気上昇に貢献しますが、そのブーストも一瞬で終わり、あっという間に順位が落ちていきます。

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落ち込むメンバー。

そんな中で善子は「自分のキャラクターのせい」とメンバーに告げます。

「高校生にもなって堕天使はない」「ようやく普通の高校生になれる」と告げる彼女は、同時に「スクールアイドル部」にも別れを告げます。

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彼女がそれまで大切にしてきた「何か」を手放す、それを暗示するように「善子」を「ヨハネ」へと変えるカラスの羽根が空に飛んでいきます。

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幼稚園時代からの友人である花丸は「善子が幼稚園時代から自分は元々天使で、やがて空に還るのだ」と話していたことを仲間たちに教えます。

注)ここでの花丸の善子解釈が物語を考察する上でちょっとノイズとなってしまうので、個人的には「この回を難解にしている要因」だと思うのですが、

好意的に解釈すれば「物語を切実にさせ過ぎないために監督や脚本家がバランスを取った」ようにも思えます。

それを分かった上で、ここからは独自の解釈を書きますので、人によっては不快に感じられることもあるかもしれません。

予めご了承願います。

「普通の高校生になる」ということを「躊躇したうえで選択する」というのは、少し普通ではありません。

それは本来ならば「別にそこまで悩む必要がないこと」だからです。

自分が「大好きだったもの」を捨ててまで「普通」になることが、果たして「良い事」なのか。

すこし穿った見方をしているのは承知のうえですが、やはり自分にはこの描写は「セクシャルマイノリティ」を匂わす描写に見えました。

映画「ブロークバックマウンテン」で描かれたことをきっかけに、社会には自分の「性的志向」を隠して生きている人が多数いるのだ、という事実が明るみに出ました。

そうした悩みを抱えた人の多くが、一度は「普通になろう」と思い、「自分の性的志向を捨てたり」「隠したり」した結果、やはりその重圧に負けて自殺してしまったり、ということがアメリカではかなりの数起きていたそうです。

結果として「性別選択の自由」を巡る事象が社会問題として取り上げられる機会が増えた、とも聞きます。

glee」でもゲイの少年であるカートと、彼を巡る「セクシャルマイノリティ」の物語が軸として描かれました。

カートも同じように「普通」になろうとして、それまでの自分を封印しようと試みたことがあります。

しかし結論として、仲間や家族に「本来の自分」をカミングアウトし、「認めてもらう」ことで「自分のままでいる」ことを選びました。

カートと同じように

善子はこれまでの自分を形作っていたものを「封印する」ことを選びます。

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しかしそこに「堕天使ファッション」に身を包んだAqoursのメンバーが現れ、再び善子をスクールアイドルに誘います。

※ここでメンバーがゴス服を着てきたのは前回不誠実に「善子の世界」を利用しようとした贖罪としてなのでしょうが、自分のテーマ設定ではここも「ノイズ」になってしまいました。これは自分の見方のせいなので、製作者サイドに責任はありません。

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逃げる善子と追う千歌たち。

切実なテーマなのにもかかわらず、意図して「コメディ」的に仕上げているようにも見えます。

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追いかける千歌が語りかけます。

「私ね!μ'sがどうして伝説を作れたのか、考えてみて分かったんだ」

「ステージの上で自分の好きを迷わずに見せる事」

「お客さんにどう思われるかとか、人気がどうとかじゃない」

「自分が一番好きな姿を、輝いている姿を見せること」

「だから善子ちゃんは捨てちゃダメなんだよ!」

「自分が堕天使を好きな限り!」

そんな千歌の言葉に振り返った善子。

「リトルデーモンになれっ!っていうかも」

と問いかけます。

その問いかけに

「それは・・・でも嫌だったら嫌だって言う!」

と答える千歌。

 

ここにはっきりと既視感を覚えました。

ここってちょっと会話の文脈として変なんですよね。

少なくとも、受け答えとして正解という風には思えないわけです。

今回散々出して恐縮なのですが、前述「glee」に全く同じようなやり取りのシーンがあります。

それはゲイの少年であるカートが、主人公のフィン(異性愛者)と友情を築くシーン。

元々フィンに惚れていたカートと、それを知っていたフィン。

カートの想いには答えられないが、友人になろうと提案するフィンに、カートが投げかけた問いに「時々襲おうとしちゃうかもしれないけどいい?」というものがありました(大分前に見たので、問いかけが違うかもしれませんが)。

それに対してのフィンの答えが

「それはアレだけど・・・でも、嫌だったら嫌だって言う」

というものだったんですよね。

性的志向」を乗り越えたうえでの友情関係の構築というシーンがあまりにも新しかったもので、そこは強烈に覚えていました。

今回のシナリオは、明確にこのシーンを意識して書かれているように見えました。

ただそれを「分かりやすく」描いているわけではなかったので、自分にとってはこの回は難解だったわけです。

正直この解釈は穿った見方過ぎるとも思いますしね。

ただし自分の解釈を信じるのならば、なんとなく批判の多いこの回のシナリオをはっきりと肯定することができます。

批判の中で多かったのは「せっかく善子が普通になろうとしているのを、千歌たちの勝手で引き留め、それにほだされているように見える」というものでした。

しかしシナリオの狙いから考えれば善子は「普通」になってはダメなのです。

最初に触れた通り「自分を愛す!」ことがシナリオのテーマなので、「善子」ではない「普通の人」になるのは、正解ではありません。

また、「善子」も「ヨハネ」もひっくるめた上での「可能性」としての善子を信じ、仲間として迎えてくれる存在が出来た以上、「善子」は「普通の高校生」になる必要はないわけです

ラブライブ」という作品上「性的志向」としての表現は出来ませんでしたが、「自分と違った世界観を持った人」と共存していく世界の大切さを語った、という意味で非常にエポックメイキングな回になったと個人的には思った次第です。

こうして「自分を丸ごと」認めてもらえたからこそ、善子はこの後のストーリーでも大きくは揺らがないのです。

彼女ほど自分に対して「自信」があるキャラクターはAqoursにはいないので、今後はμ'sにおける矢澤にこのような「精神的支柱」としての活躍が期待できるように思います。

なにはともあれ難解な回でしたが、これまた「ラブライブ!」の世界をより深くする見事な回だったと思います。

最後まで読んで下さった奇特な方。

ありがとうございました。

また次回お会いいたしましょう。

 

(最後にノイズになるので後述にした「ゴス」に関する諸々)

今回善子は「厨二病キャラ」として設定されていますが、厳密にはアメリカにおける「ゴス」に近いキャラクターだと思います。

※日本におけるゴスロリとはまた違う存在です。

アメリカでの「ゴス」はスクールカーストがハッキリとある学校内において、オタクを意味する「ギーク」の中に入り、その中でも「最下層」にあたる位置に入るそうです。

アメリカのスクールカースト最上位にあたるのは「アメフト部」などの「体育会系」に所属する「ジョック」で、女子はこのアメフト部を応援する「チアリーダー」が最上位に当たります。(このあたりに詳しくなりたい方は是非「glee」をご覧ください。日本では「仮面ライダー フォーゼ」がこの仕組みを取り組んだ物語作りをしています。こちらも是非!)

日本よりも「多様で自由」な印象があるアメリカですが、考え方が発展しているのはNYなどの都会だけで、地方(特に南部)に行けば行くほど「WASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタントの略)」が幅を利かせ、「自分と違う存在」を排除しようとしている…という現実があります。

そんな考え方を持つ人々からすれば「異様な黒づくめの恰好」をし「キリスト教を信仰」しない「ゴス」は異端に映り、排除の対象となりやすいのです。

実際「glee」にもアジア系(韓国系でしたが)でゴスファッションをしたティナというキャラクターが主役勢の一人として登場していました。

※こちらのティナは差別から逃れ「自分の居場所」を求めるため吃音のフリをしたり、ゴスファッションに身を包み「人との接触を避けてきた」キャラクターでした。そんな理由から「人との信頼関係を築けた」結果「ゴスファッションを卒業」しました。