Love Live!Aftertalk!

妄想をただ書き連ねる覚書。更新情報等はTwitterにてお知らせしております。

ラブライブ!サンシャイン!!  1stライブの前に総括してみましょう企画 【キャラクター編 其の二 桜内梨子】

キャラクター編その2は、サクラウッチーさんです。

桜内梨子

「"想いよひとつになれ。”浦の星に舞い降りた”奇跡”の担い手」

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μ'sの母校=音ノ木坂からやってきた「作曲の出来る」転校生。

 「きみの心は輝いてるかい?」のPV内では、なかなか「音ノ木坂の制服を脱げない」様子が描かれたりして、そこもTVアニメにおけるドラマのハイライトになるのかな?と思っていました。

しかし、いざ本編が始まるや、あっさり浦の星の制服に袖を通してしまい、「おや、これはどうなるのかしら」と思ったものです。

とはいえそれもアニメのストーリーを追えば、納得。

なにせ梨子は「音ノ木坂」から「逃れる」ために、この内浦へとたどり着いたのですから。

 「音楽特待生」として入学した音乃木坂で思ったような実績を上げられず、いつしか「作曲すること」も、「ピアノを弾くこと」も嫌になってしまった梨子。

そしてそんな梨子に追い打ちをかけるように、「ピアノコンクールで1音も弾くことが出来ず敗退」という事件が起き、それが彼女に決定的な「トラウマ」を与えてしまいます。

...そんな梨子が「トラウマ」を乗り越え、「音楽への情熱を取り戻す過程」は、「サンシャイン」の「裏メインストーリー」ともいえるのでは?と考えています。

「音楽」が唯一の「楽しみ」で、音乃木坂に所属しながら「μ's」の存在すら知らなかった梨子。

それだけ彼女にとっては「音楽こそが全て」だったともいえます。

そんな彼女が「音楽」に対する希望を失い、「音ノ木坂」から逃れるように内浦へとやって来たことから、「サンシャイン」の物語は動き始めます。

はじめは千歌の「作曲」要望に頑として応えなかった梨子。

いや、どちらかといえば「応えられなかった」と言う方が正確かもしれません。

何故なら内浦にやってきたばかりの梨子はすっかり「音楽への渇望」を失ってしまっていたからです。

しかし、千歌に出会い、μ'sの楽曲「ユメノトビラ」を知ることに。

それは今まで梨子が特に「意識もしなかった」ようなジャンルの音楽。

しかし、そこには「明るく」、「音」を「楽しむ」文字通りの「音楽」がありました。

それは梨子が「初めて音楽に触れた原体験」をも刺激するもの。

その刺激をきっかけに「音楽」への喜びを取り戻した梨子は、やがて未完の楽曲「海に還るもの」をも完成させるに至ります。

はじめ、「ラブライブ地方予選」と、ピアノコンクールの日程が重なることで、発表の機会を失いそうだったこの「海に還るもの」は、千歌の機転により無事披露され、梨子は自らを呪縛していた「トラウマ」から解放されます。

「トラウマ」から解放された梨子は、7話では立ち寄ることの出来なかった元・母校「音ノ木坂」へも再び足を運ぶ事が出来るようになりました。

「大好き」だったはずの「音楽」を「嫌い」にさせた「原因」のように思えて、知らず知らず「嫌い」になっていた「音乃木坂」。

しかしその呪縛から解放された梨子は、「私、この学校のこと好きだったんだな」と思い直すことが出来るようになったのです。

また、この梨子の成長をきっかけに、Aqoursも「音乃木坂=μ's」と正面から向き合うことが出来るようになりました。

その結果「μ'sが何故輝いていたのか」という真理に気づき、「Aqoursがμ'sの思いを引き継ぐ正統な後継者になっていく」...という意味で、梨子の成長物語はAqoursの成長物語にも直結している...ということになるわけです。

そんなわけで「梨子の物語」は「Aqoursの裏メインストーリー」になっていると感じたんですね。

...さて、数々のトラウマを克服した梨子。

反面思うのは、「彼女はもはや内浦にいる意味がなくなった」ということです。

そう考えると、梨子が「自らを救ってくれたAqours」への感謝を込めて、曲名を変えてAqoursへと捧げた楽曲「想いよひとつになれ」。

その2番の歌詞が意味深に聞こえてくるような気がします。

 

『だいじな夢追うとき だいじなひとがわかる

想いはひとつだよと

違う場所へ 向かうとしても

信じてる』

 

果たして梨子がどのような「選択」を下すのか。

この辺りも、今後の注目点のような気がしています。

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!  1stライブの前に総括してみましょう企画 【キャラクター編 其の一 高海千歌】

明けましておめでとうございます!

昨年は「ラブライブ!サンシャイン!!」ひいては「ラブライブシリーズ」という素晴らしい作品を通じて、多くの方と意見を交わすことが出来、非常に有意義(?)な一年となりました。

今年果たして「ラブライブ!サンシャイン!!」2期の放送があるのか...は今もって謎ではありますが...。

ひとまず「劇場版ラブライブ」の地上波初放送(しかもNHK)という快挙を以て「ラブライブ」の2017年もスタートしましたので、こちらのブログも変わらず継続していく所存でございます。

今年も変わらぬご贔屓を頂ければ幸いですm(__)m

 

・・・さて、本稿では、2017年のAqours1stライブその前に...ということで、

ラブライブ!サンシャイン!!」1期(仮)の総括をしていこうかなと思います。

 

とはいえ、テーマを決めないと散漫になってしまうので、

①キャラクター編(アニメ準拠)各メンバー毎

②楽曲編

③物語編

と3つに分けてお送りできればなと思います。

本blogは「ラブライブ」の物語構造をこまっしゃくれた視点で、ねちっこく読み解く、小癪なブログですのでw これまで物語構造以外にはそれほど触れてきませんでした。

ですので、今回はいつもよりはライトな感覚で書いてみようかなと思っております。

今回からはその①ということで、各キャラクターに触れてみたいなと思います。

一人ずつなので、いつもよりは分量少な目ですが、その分更新頻度を上げられたらいいなぁと思っております。

 

■高海千歌

「全ての”普通星人”に捧ぐ=”平凡で崇高な挑戦者”」

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ラブライブ!」における「高坂穂乃果」枠としての活躍が期待された千歌。

しかし作品内での役割は、期待されたものとは少し違ったかもしれません。

もちろん、いい意味で。

ポジティブパワー全開でなりふり構わず突き進み、最終的には天候まで操作する、いわば「神的」な存在にまで上り詰めた穂乃果。

そんな穂乃果に比べれば、千歌は「普通の人」(そりゃだれだって穂乃果に比べりゃ普通でしょうが)

端的に言えば、

穂乃果は熱い紅茶を一気に飲み干してしまいますが、千歌はかき氷を掻きこんだら、”頭がキンキン”してしまうのです。

その程度には「普通」な主人公。それが千歌です。

しかし、そんな「普通」な主人公である千歌が、「サンシャイン」の物語に「厚み」を与えたようにも思えます。

千歌が「スクールアイドル」を始めたのは「普通星人」になりたくなかったから。

「いつか年をとって、この街に住む大人と同じになる」のが嫌だった。

そんなこと、中高生なら誰しもが一度は考える「普通の悩み」です。

そんな「普通の悩み」から始めた「スクールアイドル活動」によって、様々な個性を持つ同年代の少女たちと出会い、彼女達の視点を共有し、共に悩む。

悩みながら相手を受け入れ、共に歩き出す。そして「仲間」になる。

スクールアイドル活動の中で、自分が「つまらない」と思いこんでいた「住んでいる街」や「人」の別の一面を見つけ、その価値を理解する。

「やりたいからやる」だけでは突き抜けられない壁にぶつかり、それでも苦笑いで誤魔化す。

けれども、「悔しくて」やっぱり泣いてしまう...。

全13話の物語を通して描かれる千歌の成長は、とても身近な物語です。

誰もが断片的に「経験したことのある物語」だったり、あるいは「体験してみたい」物語でもあるはず。

「サンシャイン」は「ラブライブ」に比べて、どこか「愛おしい」物語だなぁと感じることが多々ありました。

そんな「愛おしい」物語になり得たのは、千歌という「僕たちと感覚の近い人物」が主人公だったからなのでは、と思うのです。

「輝きたい」

そう願いながら「どうすれば輝けるのか」が分からなかった千歌。

そんな彼女が13話を通して見つけた「輝く」方法とは、「楽しむ」こと。

今までどんな習い事も趣味も長続きしなかった千歌が、「スクールアイドル」を「辞めない」のは「楽しい」から。

本当に、心の底から楽しめる「何か」を手に入れられれば、人は今いる場所で「輝く」ことが出来る。

「自分には取り立てて特徴が無いと思い悩んでいる人」に、千歌は常に寄り添い、励ましてくれる存在です。

だからこそ彼女は13話で「輝こう!」と、我々に呼びかけてくれるのです。

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第13話「サンシャイン!」

「私たちがゼロから作り上げたものってなんだろう」

「形の無いものを追いかけて」

「迷って 怖くて 泣いて」

「そんなゼロから逃げ出したいって」

「でも 何も無いはずなのに いつも心に灯る光」

「この9人でしかできないことが必ずあるって 信じさせてくれる光」

「私たちAqoursは そこから生まれたんだ」

 

....Aqoursの物語もこの第13話をもって、ひとまず「終焉」となります。

そんな「ラブライブ!サンシャイン」の最終回として設定されたこの13話は、

各所で賛否両論を呼ぶ内容となりました。

今回この考察も、どのように結ぶか。

書き始めの今も悩んでいるような状態なのですがw

ともあれ「ラブライブ!サンシャイン!!」を愛し、語ってきた一個人として、その思いを綴らせていただければと思います。

それでは参りましょう。13話「サンシャイン!!」です。

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■はじめに

個人的には、12話をもってサンシャインは「第一部:完」となっているように思います。

それだけ12話が非常によく出来た回だともいえます。

とすれば、この13話は「ボーナストラック」ないしは、「第2部へのブリッジ」的な扱いになると思います。

どうしても「最終回」と考えると、消化不良なポイントも出てきてしまうと思うのですが、この考察ではあくまでも「ボーナストラック」としてこの13話を考察してみようと思います。

■「水」越しの「太陽」

物語冒頭。

屋上で練習を続けるAqours

季節はすっかり夏真っ盛り。

冷房施設の無い貧乏学校な浦の星では、室内で練習するよりも、よっぽど屋上が恵まれた環境のようです。

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とはいえ、地区予選決勝突破を目指しての厳しい練習。

この環境はやや過酷に映ります。

しかし、メンバーの表情は晴れやか。

前回、これまで抱えてきたカセを乗り越え、自分たちの「スローガン」を手に入れたことで、明確に「一歩踏み出した」Aqoursは充実一途。

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割と最強と呼べる状態です。

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「私、夏好きだな。なんか、熱くなれる」

そうひとりごちる千歌は、梨子から受け取った飲料水越しに太陽を見つめます。

前回劇場版考察でお話した通り、太陽=サンシャインは「希望」を象徴するもの。

これまで何度か太陽を「掴もう」とするも、掴めずにいた千歌。

しかし今は太陽を無理に「掴もう」とはしません。

その代わり、水を通して、太陽を見つめます。

水=Aqours(自分たち)を通すことで、より太陽を身近に感じ、その「熱」をも愛せるようになった千歌。

今は「自分たちのやり方」で、「希望」を手中に収めようとしています。

このちょっとした描写から、そんな千歌の変化を感じ取れる、良いシーンだなぁと感じました。

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すぐさま練習を再開しようとする千歌を制す、ダイヤ。

「オーバーワークは禁物!」

この助言は「No brand Girls」披露において、穂乃果が犯した「失敗」を知るダイヤだからこその助言でしょう。

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 「μ's」の辿った道。

その中で起きた「失敗」を「糧」として、自分たちにフィードバックする姿勢。

それはまさしく「正しいフォロワー」としての姿勢です。

またこういった「μ'sのフォロワー」としての姿勢の強調は、

「どう足掻いてもμ'sからは逃れられない」「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品において、彼女達が示したある種の「開き直り」に近い結論にも強く関係していきます。

■0を1にする方法。

練習を続けつつも気になるのは、浦の星の入学希望者動向。

Aqoursが地域予選を突破することで、少しは注目度も増しているはずですが...

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希望者は0のまま。

もはやAqoursが大会で活躍することでしか、学校をアピールする方法を見いだせない状況にも関わらず結果は芳しくありません。

彼女達が「スクールアイドル」である以上、その活動の基盤となるのは「学校」です。

その「学校」が無くなってしまっては、「スクールアイドル」としての活動も継続できません。

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果たしてどうすれば良いのか。

千歌たちに新たな「カセ」が立ちはだかります。

...前作「ラブライブ!」では、いわば「デウスエクスマキナ」的な作劇で「サクッと」解決してしまった感もある「廃校問題」。

前作で「サクッと」解決させた理由は、あくまでも「廃校問題」がマクガフィンに過ぎず、「本当のテーマ」が「別にあったから」というのは、以前の考察で書かせていただいた通り。

しかしμ'sとは違い、「0を1にする」というテーマを自らに課すAqoursにとっては、この問題を適当に解決させるわけにはいきません。

「アイドルとして人気が出る」ことと「学校の入学希望者が増える」ことは、現実的に考えて単純に=(イコール)とはなり得ません。

もっと他に「この学校に入りたい!」と思わせる理由が必要なはず。

しかし以前「PVを作ろう!」の回で、Aqoursは自らの学校のアピールに失敗しています。

それは彼女達自身が「自らの学校」ならび「自らの地域」の良さを把握しきれていなかったから。

結果的に「夢で夜空を照らしたい」のPVに、彼女達自身の「気づき」を加えることで、感動的な視覚的表現を作り上げる事に成功しましたが、そのPVを見ただけでは、内浦の魅力を感じるには「十分」ではありません。

相手に「想いを伝える」ためには、もっと分かりやすく「伝えようとする」意志が必要なのです。

OPテーマ「青空Jumpin Heart」の

「Open Mind 伝えなきゃ 伝わらない」

という歌詞。

これは作品内でも何度となく描かれたテーマです。

曜と千歌、ルビィとダイヤ、ルビィと花丸、善子と他メンバー、鞠莉とダイヤと果南。

彼女たちは「相手に自分の気持ちをしっかりと伝える」ということを怠った結果、ギクシャクしてしまいました。

それを改めてしっかりと行うことで、再構築され、強固になる「人間関係」。

それがAqoursのドラマの主軸となってきました。

だからこそ、ここでも「Aqoursの気持ち」を、しっかりと他者へ「伝える」努力を、改めて行う必要があるはずです。

この意図が終盤の「ミュージカルシーン」へと繋がっていくわけですが、それは後程触れることにしましょう。

また、「廃校問題」に関して。

前作ではそれほどピックアップしなかったこの問題を、作劇上重要視するのは、

やがてこの問題が「物語全体」に関わるものとしてピックアップされるからでしょう。

原作となるG'sマガジンの連載では、既に浦の星は「廃校が決定した」状態にある、という設定もあるそうなので、2期以降はそこに焦点が当たるのかもしれません。

 

 ■「通過儀礼」としての「母親」

本考察ではたびたび「通過儀礼」という概念のお話をしてきました。

詳しくは10話11話考察をご一読頂ければ、と思いますが

7話で梨子が「音乃木坂に行けなかった」理由。

それは梨子がピアノコンクールでの「失敗」を克服できていないから。

その失敗の要因となった「海に還るもの」を弾けるようになり、「ピアノコンクール」そのものを克服できない限り、梨子は「次のステップ」に進めません。

それはこの一連の事柄そのものが、梨子にとっての「通過儀礼」となっているからです。

島田裕巳先生の名著

「映画は父を殺すためにあるー通過儀礼という見方」では、

”名作と呼ばれる映画のほとんどで、主人公は「父(あるいはそれに準ずるもの)を殺し、成長を果たす」というシーンがある。即ちそれは成長するための「通過儀礼」である(要約)” と書かれています。

この「父」というのは便宜上の表現で、実際には「父親」でなくてもかまいません。

自分の「道筋」ひいては「可能性」を阻害する存在(映画骨法でいう「カセ=枷」)を示し、これを「越えるか」「越えられないか」で「映画作品」としての物語に変化が出てくるわけです。

ただし「ラブライブ!」が「娯楽作品」として作劇されている以上、こういった「カセ」は「越えなくてはならないもの」となってきます。

そのため、梨子もまた自らの「カセ」である「海に還るもの」そして「ピアノコンクール」ひいては「音乃木坂」を「クリア」していかねばならないわけですね。

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第10話「シャイ煮はじめました」&第11話「友情ヨーソロー」 - Love Live!Aftertalk

これまでも(上記の通り)梨子や、Aqours全体で何回か「通過儀礼」をクリアし、その度に成長してきました。

そして今回「通過儀礼」のクリアに挑むのは、主人公の千歌です。

彼女が「飽きっぽい性格」で「今まで様々なことに中途半端に熱中し、辞めてきたこと」は、二人の姉や曜の証言から伝えられてきました。

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そんな千歌が、「過去の自分」から決別するために越えなければならない最後の壁として登場するのが「母親」です。

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(貴様のような母親(CV釘宮さん)がいるか!!!!という野暮な突っ込みは置いておいて)

旅館(というか民宿?)を経営していて、母親は東京に出張?というちょっとよく分からない家庭環境の高海家でがありますが...。

ほとんどディストピア社会のごとく「男性」が登場しない「ラブライブ世界線」においては、この「母親」こそが越えなければならない「父親代わり」としての存在。

千歌はこの「母親」に、自分の成長を見せ、これまでの「高海千歌」の評価を更新し、「新しい自分」を示す必要があります。

それは「ラブライブ!」というシリーズが「ハリウッド的な作劇」に乗っ取って作られているからです。

「物語を通じて、登場人物が成長する」というのは、「ハリウッド的な作劇」での王道。

とってつけたように登場した高海母ですが、全ては「千歌の成長を描くための装置」として機能しているわけです。

もちろん、毎度の「母親ボイスは大物!」というファンサービスも込みですけども。

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 ■13話中、唯一のノイズとは。

図書室で思い悩む千歌たちに来訪者が。

それはよしみ、いつき、むつの3人。

偶然この日、図書室に本を返しに来たのでした。

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前作の「神モブ」ひでこ、ふみこ、みか(123)に倣って、シ・ゴ・ロ(456)と名付けられた3人。

しかし、前作の3名に比べれば活躍の回数はそれほど多くありません。

Aqoursのファーストライブ成立に貢献するも、その後は「夢で夜空を照らしたい」のPV作りに関わったり、東京に行ったAqoursを送り迎えしたくらいで、それほどAqoursの活動に関わっているわけではありません。

彼女達は「Aqoursの活動を支援する」というよりも「友人である千歌が頑張っているので応援している友達」というスタンスで、そこがヒフミの3人との違いなのかもしれません。

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地区予選決勝に向けて千歌たちが「毎日練習していた」ことに驚きを隠せない456の3人。

心のどこかで「廃校は仕方ない」と諦めていた彼女たちにとって、それを「本気で覆そう」とし、努力を怠らない千歌は「輝いて」見えます。

そんな千歌が無意識に発した「輝き」が、彼女達の心にも火を灯します。

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夕方遅くまで練習していたAqoursを気遣ってか、練習終わりに声をかける3人。

彼女達は「自分たちも一緒にスクールアイドルをできないか?」と提案します。

「自分たち以外にも、学校のためになにかできないかと考えている子が結構いる」

「皆で学校のために何かできないか?」と。

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曜と二人ではじめた当初、誰にも相手にされなかった「スクールアイドル」部。

しかし、それは千歌に「明確な目標が無かったから」でもあります。

「自分が輝きたい」から。

「μ'sみたいになりたい」から。

そんな理由で始めたスクールアイドルには、周囲は興味を感じてくれませんでした。

しかし、今の千歌には「学校を廃校から救いたい」という明確な目標があります。

「0を1にしたい」という目標込みの願いではありますが、その「想い」は同校の生徒である456の3人も同じ目線で共有できる「目標」です。

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Aqoursメンバー以外に、明確に自分たちの活動への「賛同」を表してくれた生徒はこの3人が始めて。

いわばこの一連の会話も、千歌が目標とする「0から1」が叶った瞬間でもあるわけです。

故に千歌の中にその想いを拒否する、という選択肢はあり得ません。

快諾する千歌。

しかし、なんとなく梨子は不安な表情を浮かべます。

 

...予選当日、集合場所に集まったのは、456の3人だけでなく、なんと浦の星の全校生徒でした。

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しかし、ここで梨子から残念なお知らせが...。

それは「歌えるのは事前にエントリーしたメンバーのみ」という「大会規約」。

結果として集まった全校生徒は、客席から応援することしかできなくなります。

 

...さて、13話で課題になるのは、ここを発端とする一連のストーリーラインです。

私自身13話への不満はほとんどありませんが、唯一この構成には疑問を抱かざるを得ませんでした。

問題となるのは、「ストーリー」ではなく、あくまでも「構成」です。

この「大会規約」をわざわざ全校生徒が集まった段階で梨子に伝えさせることで、どうしても梨子への印象が悪くなってしまいます。

もっと早く調べて、伝えることが出来たはずだから、と視聴者は考えるからです。

また、せっかく「歌うつもり」でわざわざ現地に集まった全校生徒も「可哀そう」に見えてしまいます。

素人考えで大変恐縮ですが(恐らくこの程度のリライトは製作者が考えているはずですが)...

例えば、初めにに456の3人が「参加」を表明した段階で、梨子は「不安そうな表情」を浮かべているのだから、その時点で「大会規約」を梨子か、或いは「大会規約」に詳しそうなメンバー(ダイヤや鞠莉)に告げさせても良かったはず。

敢えてこの構成にした意図としては、プールのシーンから連なる千歌と梨子の会話に登場する「0を1にする方法」という会話を引き出すため。

このテーマをわざわざ「分かりやすく」千歌に話させたのは、13話のテーマがそこにあるから、でしょう。

とはいえ、わざわざこの会話シーンを用意しなくとも、今回のテーマ自体は把握できるようなシナリオ作りが出来ているように思えますし、バランスを崩してまで入れるべき会話だったのか?と考えると疑問が残ります。

色々と試行錯誤したうえでの落としどころだったことは理解はできるのですが、どうしてもこの構成だけは「ノイズ」になってしまっているように感じてなりませんでした。

  

■なぜむっちゃんは「Aqours」になれないのか。

「私たちもスクールアイドルになれないかな?」というむつの思いは、「大会規約」の前にあえなく頓挫してしまいました。

作劇、という面で考えれば当然「大会規約」など取ってつけた理由。

では、そこにはどんな意図があるのか。

あえて説明するまでも無い気もしていますが、一応考察してみましょう。

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それまで友人である「千歌を応援する」以上には、Aqoursとは関わってこなかったむつ達。

そんな彼女たちが「スクールアイドル」に興味を持ったのは、千歌自身が「スクールアイドル活動」を全力で楽しみ、「キラキラ輝いている」ことを感じたから。

また、それに付随して彼女たちが真剣に「スクールアイドル活動によって学校の廃校を阻止しよう」と考えていることを知ったからでもあります。

しかし反面、むつ達が「Aqours」に対して持っている認識や知識は「それだけ」ともいえます。

これまでAqoursが経験してきた「苦しみ」・「悲しみ」、そして「もがき」。

その葛藤や戦いの末に手にした「気づき」。

それによって、ようやく「Aqours」としての「アイデンティティ」を手にした事実を、その過程を、彼女たちは知りません。

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実はこれは最初に「スクールアイドルをはじめよう」と思い立った時の千歌と同じ状況です。

千歌はアキバで偶然見かけた「μ's」の輝きに魅了され、「彼女達のようにキラキラしたい」という一念から「スクールアイドル活動」を思いつきました。

しかしそれは「μ's」の「一面」だけをみつめた「憧れ」に過ぎませんでした。

「μ'sと同じように活動すれば、μ's(のよう)になれるはず」。

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そう無邪気に信じた千歌。

しかしそんな彼女に、「人気投票」での「得票0」という非情な結果が突きつけられます。

あの日を境に、千歌にとっての「スクールアイドル活動」におけるテーマが生まれました。

「なぜ自分たちは0票だったのか」

「どうすれば0を1にできるのか」

「0を1にしたい!」

いつしかそれは千歌だけでなく「Aqours」というグループのテーマへも変化していきます。

その答えを求め、迷い、自問自答し、

その探究のなかでやっと「μ'sがなぜ輝けたのか」、その真理に気づくことができました。

Aqours」が今ようやく「自ら輝ける」ようになったのは、その一連の苦悩があったからこそ、なわけです。

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この「苦悩」は結果としてAqoursを「スクールアイドル」として「独り立ち」させるに至りました。

「μ'sになりたかった」千歌は、逆に「μ'sから離れる」ことで「自分のなりたかったもの=自らキラキラ輝くもの」になる、第一歩を踏み出せたのです。

またAqoursが「Aqoursとしてのアイデンティティ」を手に入れることができたのは、「同じ痛み」を「テーマ」として共有し、その課題克服に向けて9人全員で努力してきたからでもあります。

だからこそ、Aqoursには残念ながらむつ達が加入する余地はありません。

これは「彼女達(千歌たち)の物語」だからです。

しかし、むつ達は「スクールアイドルになれない」わけではありません。

千歌がμ'sとの出会いをきっかけにAqoursを生み出したように、今度はむつ達がAqoursとの出会いをきっかけに「新たなスクールアイドル」を作ればよいのです。

「誰かに憧れてその人になろうとする」のではなく、「自らが光を放つ存在になる」。

それはまさに、穂乃果が後身に託した想いであり、千歌が受け取った願いでもあります。

その思いは最後の楽曲「MIRAI TICKT」、そしてラストの千歌のモノローグへと引き継がれていきます。

■今こそが「リアル」

いよいよ東海地区予選。

ここを勝ち抜けば、憧れの「ラブライブ!本選」へとコマを進めることになります。

まさしく「正念場」。

嫌が応にも緊張感は高まります。

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学年毎に大会への想いを確認しあうメンバー。

その中でも1年生のやりとりが印象的でした。

自分たちが今いる場所に対しての現実感の無さと、それ故の「不安」を隠せない花丸とルビィ。

そんな二人を鼓舞するのは、なんと善子。

「今こそがリアル、リアルこそ正義」

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メンバー中最も「リアル」から逃げ続けてきた善子が発するからこそ、この言葉には重みが宿ります。

しかし善子自身、そんな言葉を言えるようになったのは、「ヨハネ」というもう一人の「自分」もひっくるめて「認めてくれた」仲間がいたからこそ。

だからこそ善子は「ありがとね」と、感謝をルビィと花丸に告げるわけです。

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またその感謝は、

一度は「Aqoursから逃げた自分」を、諦めずに追いかけてくれた仲間に対しての感謝の言葉でもあります。

彼女たちがいてくれたからこそ、「今というリアルがある」。

善子の言葉に、「黄昏の理解者ずら」と「ヨハネ流」で返す花丸。

このシーンに込められた複数の要素は、非常に感動的でした。

 

■始めたい「My Story

いよいよ始まるAqoursの出番。

そこで千歌が語るのは、自分の住む地域のこと。

そして自分の学校のこと。

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13話において不満点に上がることの多いこのプロット。

確かに当初は面食らいましたがw

何故ここで改めて「今までのストーリー」を振り返る意味があったのか。

ここではその意図を考察してみましょう。

 まず、千歌個人にとっては「通過儀礼」を終える...という意図があります。

今までどれだけ悔しいことがあっても笑ってごまかし、「途中で辞めてしまうこと」で自分を守ろうとする「弱い子」だったはずの千歌。

そんな彼女が初めて「悔しさ」を露わにし、それでもその事実に「負けずに進む」と決めた瞬間を見たのは、「Aqoursのメンバー」と「我々視聴者」だけです。

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舞台上で再現される「くやしくないの?」での1シーン。

その意図は我々に見せるためではなく、千歌が「カセ」を乗り越える瞬間を現場にいなかった母親にも「体験させる」ためです。

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千歌と母親との関係は分かりませんが、千歌はこの一連の「再現行動」によって、明確に「母親超え」を成し遂げ、成長を果たしました。

ラブライブ!サンシャイン!!」は第1話から千歌、という「自称普通星人」な少女の葛藤と成長に焦点を当ててきた物語でもあります。

そんな彼女が「普通星人」と名乗ることで、自らに課していた「限界」という名の「カセ」を脱することも、本作品での大事なポイントなのです。

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また、ここまで何度か書かせていただいた通り、Aqoursは「自分たちの物語」を作中で「全く語らず」にここまで来ました。

反面それは、これまでAqoursには「語るべき物語」が無かったから、とも捉えられます。

「μ'sに憧れ、μ'sを追いかけて始めたスクールアイドル」。

そこには大義名分もなければ、Saint snowのような「向上心」もありませんでした。

「憧れ」と「気持ち」だけ。

しかし、そんな「ある種不純な動機」で始めたからこそ、Aqoursは躓き、挫折してきました。

今、その経験が彼女達を強くし、同時に「彼女達だけの物語」を生み出したのです。

確かにこれまで物語を追いかけてきた我々(視聴者)にとっては「全て知っている話」ではあります。

「退屈」であることは否めないかもしれません。

しかし、画面の中の世界の人たちにとっては、「初めて聞く物語」なのです。

「0を1にしたい」

そう願うAqoursにとっては、「自分たちの気持ち」と「自分たちの現状」を知ってもらうために「自分たちの物語」を語る必要があるのです。

それは「伝えなきゃ 伝わらない」情報だからです。

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また、「自分たちの物語」を語る事ができるようになったからこそ、彼女達はいよいよ「Aqours」としてのスタートラインに立つことができたともいえます。

「はじめたい!My Story」と願っていた彼女たちが、

その「My Story」を遂に語ることが出来るようになった今こそ、

「見たことない夢の軌道」を「追いかける」「航海」を始める事ができるのです。

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■やっと手にした「未来チケット」

いよいよグランドフィナーレ。

「輝くこと」の意味を理解したAqoursが披露する楽曲は「MIRAI TICKET」です。

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「ヒカリになろう 未来を照らしたい 輝きはこころから 溢れ出すよ」

そんな力強いフレーズでスタートするこの楽曲は、「SUNNY DAY SONG」へのアンサーソングとして作られているように思えます。

ちょっと変則的ですが、この項ではそんな「MIRAI TICKET」を分解してみましょう。

 

ラブライブ!サンシャイン!!」が「劇場版ラブライブ!」の強い影響下のもと作劇されているのは、前回の「劇場版ラブライブ考察」で触れた通り。

特に主題歌である「SUNNY DAY SONG」の歌詞は、その世界観にも強く影響を与えています

SUNNY DAY SONG」の歌詞には「輝きになろう」というフレーズがあります。

自ら「輝きになろう」などと言ってしまうような「全能感」と、それに伴い湧き上がってくる途方の無い「希望」。

それを肯定するのが「SUNNY DAY SONG」でした。

とはいえ「SUNNY DAY SONG」では「輝きになろう」に続いて「なんて言える そんな気分を分け合えば」と照れ隠しが入ります。

しかし「MIRAI TICKET」では「ヒカリになろう」と更に明確に自らを鼓舞します。

「青い空 笑ってる(何がしたい?)」とある通り、その意思を確認するのは「青い空」。

青空に必須なもの、それは「太陽」です。

SUNNY DAY SONG」はその名の通り「太陽が出ている日=晴れの日の歌」。

すなわち、この曲を作詞している人の耳にはハッキリと「晴れの日の歌=SUNNY DAY SONG」が流れているわけです。

この歌詞の仕掛けから、同曲が「SUNNY DAY SONG」のアンサーソングであることがより明快になると思います。

 そして「ヒカリになろう」に続く歌詞は「未来を照らしたい」。

これは明確に、この曲が「SUNNY DAY SONG」の意志を引き継いだものであることを示しています。

何故なら「SUNNY DAY SONG」とは、μ'sが自分たちの後継となる「スクールアイドルたち」の為に作った、「スクールアイドルのアンセム」だからです。

そこに込められた願いは「SUNNY DAY SONG」自体が「希望」となり「何年・何十年先」にも残ることで、仮に皆が「μ'sやA-RISEを忘れてしまったとしても」楽曲そのものが意志を受け継ぎ「今後のスクールアイドル全体」を照らし続けること。

即ち「未来を照らすこと」だったわけです。

ことほどさように「MIRAI TICKET」は「SUNNY DAY SONG」のテーマを引き継ぎ、作られている楽曲なのです。

だからこそ、この曲は聞いた人に「変化」を促します。

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「輝きはこころから 溢れ出す」

Aqours」の物語を知ったことで、むつの心にも「Aqoursへの憧れ」とは別の、ポジティブな感情が溢れだします。

「自ら輝こうとする意志」を得た彼女は、居てもたってもいられず駆け出します。

そのどうしようもない気持ちは制御のできないもの。

そして、その気持ちは周りの人々にも伝播していきます。

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むつ達が今後どのような活動をしていくのか、現時点では分かりません。

ただし「SUNNY DAY SONG」の意志を継いだ「MIRAITICKET」が、正しく同曲のメッセージを伝えたことで、「情熱は伝播」されていきました。

同時に入学説明会の希望者も「0から1」に。

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Aqoursの発したメッセージが「正しく伝播」され、遂に目に見える「結果」として現れました。

それは彼女達の「メッセージ」が、初めてはっきりと結果を出した証明でもあります。

その結果を以てAqours自身も「未来へ進む」ことが出来るようになりました。

それは彼女達自身が求め続けた「結果」だからです。

「やっと手にした未来チケット」とは、「0を1にした」証明でもあるのです。

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■「君のこころは輝いてるかい?

千歌が会場内から見つけた「輝き」。

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それはAqoursのパフォーマンスによって生まれた「新たな希望」を象徴するものでしょう。

そのことに気付いたからこそ、千歌は瞳を潤ませ宣言します。

「みんな輝こう!」と。

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「私たちがゼロから作り上げたものってなんだろう」

「形の無いものを追いかけて」

「迷って 怖くて 泣いて」

「そんなゼロから逃げ出したいって」

「でも 何も無いはずなのに いつも心に灯る光」

「この9人でしかできないことが必ずあるって 信じさせてくれる光」

「私たちAqoursは そこから生まれたんだ」

 

千歌がエンディングで投げかけるメッセージ。

実際Aqoursが「ゼロから作ったもの」とは何なのでしょうか。

「スクールアイドル」も、その「人気」も、彼女達の登場以前から存在したものです。

楽曲やメッセージはオリジナル?

でもそこにはμ'sやA-RISEや、その他様々なアーティストの影響があるはずです。

要するに彼女たちが「ゼロから作ったもの」というのは、ほとんど「無い」わけです。

しかし、そんな彼女達にも、絶対的な「オリジナル要素」が存在します。

それは「彼女達自身」です。

世界中に「一人しかいない」「自分」という個性。

そしてその個性X9人が揃った「Aqours」というユニットは、他の何者でも無い、彼女達だけにしか作れない「ユニット」です。

そしてそんな彼女達が「紡ぐ物語」もまた、「誰にも真似できない」「彼女達だけの物語」。

それは間違いなく「Aqours」にしか作れないものでしょう。

また、この千歌のラストメッセージは「自分には何もない」と思っている、全ての人へのメッセージでもあります。

「自分にはなにもない」と嘆き、悲しむ人の心にも、何故か「胸に灯る光」があるはず。

何も始めずに諦めてしまう前に、「まずはやってみればいいじゃない?」と。

その「光」が消えないうちは、何度だって挑戦できるはずだ、と。

だからこそこのメッセージは、

「叶えてみせるよ 私たちの物語を」

「この輝きで」

「君のこころは 輝いてるかい?」

 という言葉で結ばれるのです。

 

■おまけのメタ話

ここは本文には加えづらかったので、別枠で。

ちょっとメタ的な話をしましょう。

ラブライブ!サンシャイン!!」は放送開始から(というかプロジェクト開始から)常に「ラブライブ!」と、ひいてはμ'sと比較され続けているプロジェクトです。

視聴者の多くは「ラブライブ!」との思い出を抱えながら、「サンシャイン」を視聴しています。

しかし、「思い出」とは美化されてしまうもの。

しかも約5年間にわたる長期プロジェクトに対し、発足してたった1年の「サンシャイン」が立ち向かうのはあまりにも分が悪い闘いです。

となると、「サンシャイン=Aqours」に必要なのは「私たちは私たち」とある種開き直る事。

確かに「μ's」の人気があって「ラブライブ」があり、「サンシャイン」はその市場にまるまる乗っていることは否定しようのない事実。

しかし、本作が「ラブライブ!」の冠を背負い続ける限り、そこから逃れるのは不可能なのです。

だからどれだけそのプレッシャーが「怖くて」「逃げ出したい」と思ったところで、それは無理。

そのプレッシャーを受け入れたうえで、逃げずに戦うしかないのです。

千歌のラストメッセージは、そんな「中の人たち」の覚悟をしたためたもの、という印象も受けました。

 

....さて、というわけで長々と続いた「サンシャイン考察」もこれで一旦終了となります。

長々とおつきあい頂きありがとうございますm(__)m

正直、なるべく多くの要素に触れようとした結果、少しとっ散らかっている部分も多々あるので、そのあたりはちょこまかと加筆修正すると思います。

あるいは、「この解釈はおかしくね?」とか「ここ触れてないけどどう思う?」などは個別にご質問頂けると嬉しいです。

自分でも把握しきれていないポイントが多分あるはずなので、そのあたりは議論できたら楽しいなと思います。

 

それと今後の更新予定ですが、一回サンシャイン全体の総括を行った後、ラブライブ1期、2期の考察。

あとは「各キャラクター論」とかもやってみようかしら。

或いはちょっと変化球で「ラブライブ好きに見てほしいおすすめ映画」とかも書いてみようかな?と考え中です。

まま、2期開始までは鬼のように時間あるので、色々考えます。。

とりあえずは一旦おつかれさまでございましたー!

 

 

細かくて長い...。「ラブライブ!The school idol MOVIE!」考察

※2017年5月5日、一部文章修正、画像追加しました。

ようやくできたー!!!

でもほぼテキストだけなのに、26000字もあるんだって~ こわ~い。。(自分が)

・・・すみません、読む前に「長い」ということだけ含み置きくださいませ。。

 

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■はじめに

TVアニメ「ラブライブ!」の劇場版作品である「LoveLive! The School idol movie」は難解な作品です。起きている「出来事」。そこから派生した「物語」。至る「結末」。全て見ていれば「物語自体」は確かに分かります。

反面細かな事象や出来事に対しての説明は全て省略されています。

それはこの作品が「TVアニメ」ではなく「映画」として作られているから、でもあります。

 「ベキ論」として捉えて頂きたくはないのですが....。

「映画」というのは、視聴者に「疑問」を与え、「テーマ」を「考えさせ」自ら「答え」を導き出すための作劇が好まれます。

作品の中で作り手側が「全ての答えを示さない」或いは「答えを説明しない」ことは、作品を見た側にそれぞれ違う「受け取り方」を与える事になります。

またそれが、「映画ならでは」の「余韻」を与え、濃厚な「映画体験」に繋がると考えるから、でもあります。

(もちろん全ての映画がそういった文法に乗っ取って作劇されているわけではありません。あくまでも一面的なお話です)

 実のところ、「ラブライブ!」はTVアニメ時代からこの「映画的」な手法に乗っ取って作劇されてきました。劇場版となる本作も当然その流れを汲んで作られています。

とはいえ私自身、初めてこの映画を見た際には、頭にはてなマーク」が10個以上浮かんでいました(笑)。

その疑問点をまるで解決できずにいたこともあって、最初の段階では「80点くらいの映画」という過小評価を下しました。しかし疑問点の解決をする為、劇場に通ううち、段々とこの「映画」の本質が分かってきました。

 

「シナリオの意図は?」「NYに行く意味って?」
「穂乃果が一人迷子になるのはなぜ?」「穂乃果が出会う女性の正体は?」
「女性シンガーが歌っている曲の意味は?」「劇中曲の役割とは?」
「穂乃果が渡されるマイクって何?」「SUNNY DAY SONGってなんなの?」

 

それらの疑問は劇場に通うたびに解消され、その度にドンドン映画の評価が上がっていきました。気が付くと2015年に見た全ての映画の中で年間ベストに選ぶくらいの入れ込みっぷりでした(笑)。

 

...とはいえ、本稿での「劇場版」解説は、あくまでも「私個人」の考察です。つまり「これが正解」というわけではありません

(正解となるはずの、劇場版のファンブックは発売延期になったまま…)

→※追記:2017年無事発売されましたね!なんでこのタイミングだったのかは分からないですが。映画の内容とかシナリオの狙いに関する正解は残念ながら記載されていませんが、「ラブライブプロジェクト」を知る上でのサブテキストとしては非常に良く出来た書籍でした!花田さんのインタビューは特に必読かと!

 

本稿の役割とは「正解を探す」というよりは、「劇場版」を「違う視点」で捉えて頂くことで、「劇場版」の見方、ひいては「サンシャイン13話」の見方に少しでも変化を与えられれば…というもの。なにも本稿の解説を盲信いただく必要などありません。まずは構えず「ほー、こいつ色々考えるな。暇なんだなー。(鼻ホジー)」程度に読んでいただければ幸いです。

 

...さて、前回2015年時点での劇場版解説のあとがきには、

「ディティールを中心に解説していく」

 と書きましたが、

それでは散漫になってしまうので、物語を追いながらその都度分かりづらいポイントを解説していこうと思います。

※注意
本項はテキストベースの長文です。
また、多々読みづらい、分かりづらい表現もあると思います。
都度更新し、変化させては参りますが、何卒ご了承のうえお読みください。

※注意②
当然ですが、本稿は劇場版「ラブライブ」のネタバレを多分に含みます。
既に映画をご覧になっているか「ネタバレしてもいいや」という寛大な心をお持ちの方のみお読みください。

※注意③
先ほども書きました通り本文は筆者の「妄想」がメインです。
解釈の違いなど、当然あると思いますがどれもこれも「妄想」に過ぎませんので、
こちらも寛大な心で許容して頂ければ幸いですm(__)m

 

■大前提に関する注意書き

そういえば大切なことを書き忘れていました....。「ラブライブ!」という作品を咀嚼する上での「大前提」のお話。まず「ラブライブ!」という作品が「虚実」入り混じる作品である、ということを忘れてはいけません。

突然校舎の真ん前で唄い出す。その勢いで交差点に飛び出す。誰が準備したのか分からないセットの中で踊りだす!

そういった「虚」が平然と「日常シーン」に入り込んでくるのが「ラブライブ」という作品です。
なぜ「ラブライブ」がそのような作劇を採用しているのか、に関しては後程嫌でも触れなくてはならないので、その時に。

兎にも角にも、まずは「ラブライブ」という作品のリアリティラインのレベルを、「上記のようなレベル」とご理解いただいた上で、読み進めて頂けると嬉しいです。

 

■冒頭

・繰り返される「水たまりチャレンジ」

本作は幼少時の穂乃果が「大きな水たまり」を飛び越すべく「チャレンジ」を繰り返すシーンから始まります。何度も「チャレンジ」し、失敗を繰り返す穂乃果。しかし彼女は諦めません。

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その行動を止めようとすることり。ただ見ている事しかできない海未

これまで、それほど描かれなかった「幼少時の3人」が描かれます。

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失敗を続ける穂乃果は跳べないことで、少し「ムキ」になっていきます。「負」の感情に支配されかけた穂乃果...。

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その時彼女の耳に「あるメロディー」が聞こえてきます。心地よいメロディーに身を任せた穂乃果は、見事水たまりを飛び越えます。

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...さて、「2期」ラストシーンでは「とある連絡」を受けた花陽が穂乃果を再び部室へと引っ張っていく…という「思わせぶり」なシーンで終了しました。ただし、それを入れている以上、そのシーンから映画本編を始めても良いはず。

....にも関わらず、TVアニメには「無い」、しかもそれほど語られなかった「幼少時代の穂乃果」たちを冒頭で見せた理由とは何なのでしょうか。それはもちろん、このシーン自体が「映画のテーマ」に関係しているからです。

映画の劇中何度も登場する「跳べる」というフレーズ。穂乃果はTVシリーズに限らず、事あるごとに「跳んで」きたキャラクターです。

デビューシングル「僕らのLIVE 君とのLIFE」は、穂乃果のジャンプシーンを冒頭印象的に見せます。TVアニメ第1話冒頭シーンも、それに倣うかのように「穂乃果のジャンプ」から物語が始まります。

あるいは「穂乃果」という人物そのものを考えた場合にはどうでしょう。

彼女の特性とは「考える前に物事に取り組む(飛び込む)積極性」にあります。即ち、この「幼少時」のシーンは、いかにして穂乃果が「跳べる」人物になったのか。その「あらまし」を示すために存在しているのでしょう。

また彼女が他人に「無理」と言われても決して諦めない、「不屈の人」であることもここで示されます。そんな穂乃果の「姿勢」そのものが、本作と「ラブライブ!」そのものの「メインテーマ」にも重なってくるのです。

つまり、このファーストシークエンスは「ラブライブ!」シリーズの「総括」を目的とした本映画では、非常に「重要なシーン」となっているわけです。

...さて、では物語を振り返りつつ、各パートのディティールに触れていきましょう

 

■第1章 NYプロットを読み解く

・・・部室に戻った穂乃果たちを待ち構えていたのは「NY」からの招待状。「NY」は穂乃果たちにとって「異国」にして「異郷」。いまだ足をふみいれたことのない「未知」の場所です。

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☆謎①「なぜNYに行くのか?」

「自分たちが知らない場所(領域)」に踏み込んでいく…という描写は、これまで作品内で何度も描かれてきました。

「スクールアイドル」という未知に挑み、「無観客」のライブに挑み、ラブライブ大会」に挑み、「廃校阻止」に挑み、「A-RISE」に挑み・・・。μ'sの歴史は「挑戦」の歴史。そしてそれはラブライブ!」という作品の「歴史」でもあります。

「NY」からの「招待状」もその「延長線上」にあるもの。このプロットはそんな「μ'sの歴史」「作品のテーマ」に倣って作られているわけです

「未知」に挑戦し、それを「克服」してきたのが「μ'sの歴史」。となれば、ここでもその歴史がなぞられます

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~第1章 NYプロットを読み解く~

ポイント①「NYでの洗礼」と「視点の変化」という観点。

「NY」という「未知の場所」でその洗礼を受けるμ's。海未は元々不信感を抱いていたタクシーに、宿泊予定のホテルとは別のホテルへ案内され、恐怖を覚えます。その結果、街に出ること自体を恐れるようにもなってしまいます。

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一方、花陽は「NY」という場所に「遠いところに来ちゃった」と寂しさを滲ませます。また「白米ロス」が彼女に過剰なストレスを与えます。

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これらの描写は「和み描写」や「ギャグ描写」として消化されがちですが、「NY」という「未知の場所」での彼女たちの「困惑」を示すシーンでもあります。

彼女達がなぜ「NY」に来たのか。

それは彼女達が「スクールアイドルの代表として認められたから」です。

かつては追う存在だったA-RISEが「NY」には呼ばれないように、もはや「μ'sのみ」がこの「領域」にたどり着いてしまいました。スクールアイドルを始めた時には想像もつかなかった場所=領域に来てしまったμ's。しかし彼女たち自身はその領域に自分たちがいる、という事実を受け入れきれていません

「NY」という場所はそんな彼女たちの「困惑」を象徴する「場所」でもあるのです。

 

そんな中、NYでのライブに備え、またライブ場所の下見も兼ねてジョギングに繰り出すμ's。そこで「目にし」「触れる」ものが、彼女達の認識を変えていきます

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「大都会」のど真ん中にある「自然あふれる公園」(=セントラルパーク)。μ'sと同じようにジョギングをしている人たち。朝から公園で和む人たち。商売をしている人たち。そこには「異界」の住人に過ぎなかった「NY市民」の「日常」があります。

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ジョギングをしながら気さくに話しかけてくるニューヨーカー。ステージに上がったμ'sに興味を持ち話しかけてくる女性3人組。彼ら・彼女らは「言葉が通じない」にも関わらず、自分たちを「好意的に受け入れてくれる人々」です。彼らはμ'sが「NY」という「未知」に対して勝手に持っていた「一面的な印象」(ないしはある種の偏見)を「覆す存在」でもあります

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「異界」だと思うことで、自然とバイアスをかけていた「NY」という街。

しかしその対象の「日常」を見る事、あるいは恐れていた対象から「好意的に受け入れられること」によって、彼女達は「視点を変化」させ、対象の「本質」を見つめることができるようになります。

この「視点の変化」は、「ラブライブ!」という作品では度々登場するモチーフ

「対象を恐れて避ける」のではなく「対象に触れ、理解を深めること」で「自分の内面」に「ポジティブな変化」を起こす。その変化こそ「大切なものである」という考え方です。「視点が変化」することによって、「NY」という「未知の場所」を恐れていた海未の心境にも変化が生じます。

「せっかく来たんだから、色んなところを観て、楽しんでほしい」そんな外国人女性の言葉を肯定する希と絵里へ、「そうかもしれませんね」と同意できるようにもなるわけです。

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ここで登場する「新しい場所を楽しむ」という言葉も、映画の中で大きな意味を持つ言葉ですね。

 

~第1章 NYプロットを読み解く~
ポイント②凛が語る「NYとアキバは似ている」という言葉の真意。

「視点が変化」したことで「NY」を満喫できるようになったμ's。「NY巡り」を一通り終えたメンバーたちは、感想を語り合います。その中で凛は「NYはアキバに似ている」と話します。

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ここを「突っ込みどころ」とする方も少なくありませんでした。「NYとアキバは全然違う」など。

しかし「視点の変化」という観点と、凛のセリフを「きちんと聞く」という2点に留意すれば、その発言の真意が分かると思います。

凛が告げる「NY」と「アキバ」の似ているところ。それは「日々新しいものを吸収」し「変化していく所」です。決して「街の見た目」ではありません

街そのものの「見た目」ではなく、「精神性」に類似点を見出した凛。それは「見た目」に囚われず「中身」を理解することによって「本質」を知ることが出来る、という「視点の変化」から生まれた発想です。

その視点に真っ先に「同意」を示すのは、ことり

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彼女は「アキバ」という「日々新しいものを吸収し、変化していく場所」=「ワンダーゾーン」において救われた人物でもあります

南ことり」にとっての「もう一つの人格」といえる「ミナリンスキー」をメンバーへは頑なに隠していたことり。そんな「ミナリンスキー」もまた「南ことりの一部である」と、「ことり自身の持つ多様性を認めてくれた」場所こそが「アキバ」でした。

そんな事情から、ことりは「アキバ」の「精神性」を理解し信奉している人物でもあるわけです。

翻って「NY」は、多民族国家でありながら「差別意識が根強い」アメリカという国の中でも最も「都会」であり、「多様性を認める」街でもあります。
(ゲイへの偏見などは未だに根強いようですが…。南部に比べれば俄然薄いようです)

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そんな「NY」の「精神性」「多様な価値観を認める」という部分において、確かに「アキバ」と「類似点がある」ように思えます。

このプロットでは、そんな「NYとアキバ」の類似性を、凛とことりの気づきを通して示しています。そしてもう一つ、忘れてはいけない視点。

μ'sにとっての「日常」もまた「アキバ」にあるということです。

彼女たちの通う音ノ木坂は秋葉原近くにある学校ですし、彼女達が放課後を過ごす憩の場もアキバです。

すなわち彼女たちにとってのアキバは「日々進化していく場所」であり、「日常」を表す場所でもあるわけです。その2面性は、まさしく「NY」と同じ。だからこそ彼女たちは「NY」を身近な存在として捉えるに至るわけです。

 

~第1章 NYプロットを読み解く~

ポイント③「Angelic Angel

「日々変化していく都会」としての「NY」を代表する場所であるタイムズスクエア
その「タイムズスクエア」の近郊にあり、ニューヨーカーの「日常」を代表する場所である「セントラルパーク」

「NYのどこを舞台に歌うか」で悩んでいたμ'sですが、彼女たちの結論はその両方を「クロスオーバー」させ「それをバックに歌う」というものでした。

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ではこのPVの意図も分析してみましょう。

前述した通り「タイムズスクエア」は「日々変化するもの」の象徴。となるとこれは文字通り「変化」のメタファーと考えられます。

反対にセントラルパークは「変化とは関係のないもの」の象徴。すなわち「常態」のメタファーともとれます。

「変化」と「常態」、それはそれぞれ「時間(時代)」と「日常」という置き換え方もできます。

「時間」は誰にでも共通に存在し、常に「止まらず流れていくもの」です。それと共に「時代」も移り変わっていきます

反面そこに根差す「日常」は、どんな「時代」においても大きく変化しません

例えば「誰かを愛し、子を為し、家族を築いていく」ことは、人間にとっての「根源的な欲求であり、そこに根差した「日常」があります。それは「時代」に影響を受けるものではありません

それと同じく「自分の未来を信じ」「希望を持って生きる」ことも「人間の根源的な欲求でしょう。このように理解すればPVの意味や「AngelicAngel」の歌詞の意図も自然と見えてきます。

二つの風景がオーバーラップしながら進むPVは「進んでいく時間」「変化しない日常」を交互に移すことによって、「流れていく時代」を表現しています

その中で「踊り続ける」μ'sは、「日常に根差す」「人間の根源的な欲求」を表現する存在です。

それはたとえ「時代が流れても変化しないもの」

だからこそ、μ'sは「背景の映像」「なんの影響も受けない」わけです。そしてこの曲ではそんなμ'sのあり方を「肯定」しています。

そんな観点を以てPVの意味を理解できれば、一見「意味不明」なこの曲の歌詞も理解できるはずです

”Ah!「もしも」は欲しくないのさ
 「もっと」が好きAngel
 翼をただの飾りにはしない
 Ah!「もしも」は欲しくないけど
 「もっと」は好きAngel
 明日じゃない
 大事なときは今なんだと気がついて
 こころの羽ばたきはとまらない”

たとえば1番のサビとなるこの部分。
「もしも」を否定し、「もっと」を肯定しています。
「もしも」は現状に対する「否定」ないしは「仮定」です。
主にもはや「覆らない決定」を振り返る、あるいは「叶っていない未来」を想定する場合に使います。
この二つに共通しているのは「今を見ようとしていない」ということ。

反面「もっと」は現状を肯定し、さらに求める言葉

それは「今」を肯定する言葉でもあります。

これらの表現から分かるのは

"「流れていく時間」を受け入れずに「もしも」を願うのではなく、
「今ある現状を」認めた上で「もっと」と願う事の方が大事。"

ということです。

そしてその「今」を追い求める欲求は、

「人間の中にある根源的な欲望」に即して発生するものだ

ということを「こころの羽ばたきはとまらない」という歌詞で表現しているわけです。

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ここでの歌詞が持つ意味や「考え方」は映画のテーマにも深く根ざしています

それはこの映画の主題歌であるSUNNY DAY SONGと裏主題歌である「As time goes byにも共通して含まれるテーマだからです。

このあたりに関しては、後述するようにいたします。


☆謎②「Hello,星を数えて」の持つ意味とシーンの意図とは。

凛の「NY=アキバ論」をμ'sが共有するのと同時に降り始める「雨」。それを打ち破るように唐突に始まる「Hello,星を数えて」という楽曲。それまで割と平坦だった物語を大きく「動かす」のがHello,星を数えてです。

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「日常」描写の延長に唐突に挟み込まれる「ミュージカルシーン」。それは見る人を一番最初に驚かせる「仕掛け」にもなっています。とはいえ、この楽曲が持つ役割も何も解説をされていません。本項ではその役割を考察してみましょう。

 

~第1章 NYプロットを読み解く~
ハロ星の意図①「映画ジャンルの確定」

「ミュージカルシーン」が「映画」に登場する意図。

それは説明するまでもなくこの映画が「ミュージカル映画」であることを示すものです。すなわち製作者側から「これはミュージカル映画なので、そのつもりで見てね~」という合図でもあるわけです。

ところでこれはラブライブ!」シリーズ全体が常に使用してきた技法でもあります。

第1話で穂乃果が「ススメ→トゥモロウ」を唐突に歌い始めるのも、
2期第1話で「これまでのラブライブ!」をミュージカル調に説明するのも、
2期最終話で「HAPPY MAKER」を歌って「大団円」するのも、
全て「ミュージカル作品」だからです。

その方式は続編である「サンシャイン」にも当然ながら引き継がれています
第1話で千歌たち2年生が「決めたよHandinHand」を唐突に歌い始めるのも、明確にシリーズの影響下にあるからです。

 

この「Hello,星を数えて」という楽曲は、その狙いをより明確に見せるために、PV内にもさまざまな仕掛けを施しています。

例えば凛が早着替えする衣装は、往年の名作ミュージカル映画フレッド・アステアジーン・ケリーなどが着ていた衣装を彷彿とさせます。

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真姫が乗っているタクシーはこちらも往年のミュージカル作品踊る大紐育(ニューヨーク)」を意識させますし、凛がポールをくるっと回るシーンなどは雨に唄えばを思い起こさせます。

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舞台装置として登場する「傘」ももちろん「雨に唄えば」を思い出させますし、その傘の多様性は同じくミュージカル映画であるシェルブールの雨傘も想定させますね(こちらはハリウッド映画ではありませんが)。

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ことほどさように、様々な「ミュージカル映画」の「シーン」や「衣装」「舞台装置」を使用して、「この映画はミュージカル映画です」ということを表現しようとしているわけです。

 

~第1章 NYプロットを読み解く~
ハロ星の意図②凛が雨の中に「大丈夫」と飛び出す理由。

唐突に降り始めた雨に、表情が陰るμ'sのメンバー。NY巡りを途中で止めてホテルへ戻る、という選択肢に穂乃果は「寂しいな」と告げます。

その言葉に対して凛が「ダイジョブにゃ~」と飛び出すのが「Hello,星を数えて」への転換地点となります。

ところでこの「大丈夫」は、何に対しての「大丈夫」なのか説明がありません。意味を考えてみましょう。

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先ほど触れた「視点の変化」という観点。この楽曲もまた、それを「強調」する役割を持っています。

この曲は「雨」が降り出し、それを穂乃果が「寂しい=ネガティブな感情」として受け止めることが始まりの「きっかけ」となります。

こちらも度々blogなどで触れている通り、「雨」は「停滞」を象徴するもの。それはハリウッドを中心とした「映画」の文法で長らく使用されてきた表現技法でもありました。

(悲しいシーンになると雨が降り出すという表現。登場人物を泣かせるのではなく、雨を降らすことで心象風景としての悲しみを示す、映画的な表現です)

故に穂乃果の反応も「至極当然」な反応と言えます。

しかし、その「表現」を「真っ向から否定したミュージカル映画があります。それこそ先ほど登場した雨に唄えばです。

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 「雨に唄えば」では、恋をした主人公(=ジーン・ケリー)が、「雨の中」傘もささず「楽しげに歌い踊ります」。

「雨=悲しいシーン」という文脈が今よりもはっきりと共有されていた時代。この「逆転の表現」は「新しいもの」として驚きを与えました

「雨」という「停滞」すら「楽しく感じさせる」もの。それは「恋をした」時に感じるような「嬉しい」「楽しい」といった「自分の内面におこる」「感情」です。

「自分の見方」や「感じ方」次第で、人は「困難」を「喜び」に変化させることができる。これはまさしく先ほどお話した「視点の変化」でもありますね。

雨に唄えば」が採用した、この「逆説的な話法」は当時のハリウッドの中でも「革新的」なものでした。

経営学者のジョーン・マルケス
「困難な時期をすばらしい経験に変えることが人生での大切な技術かもしれない。雨を嫌うか、雨の中で踊るか、私たちは選択することができる」
と「雨に唄えば」を解説しています。


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ついでですがGleeにおける、

リアーナの「Umbrella」とのマッシュアップパフォーマンスも素敵なので、是非。


GLEE - Singing In The Rain/Umbrella (Full Performance) (Official Music Video)

 

Hello,星を数えて」では、

「流れるひとの波」や「知らない言葉のメロディー」という

「知らない物事」=「ネガティブ要素」

「応えてみたら きっと一歩ずつ世界広がるよ」と

自分」の視点を変えることで「ポジティブ」に捉えなおす歌詞構造になっています。

これはまさしく「NYでμ'sが経験したこと」を総括している内容でもあるわけです。

一見なんの役割を持っているのか分からない楽曲「Hello、星を数えて」は

①映画ジャンルの説明
②NYパート前半部分でのシナリオの意味

の2つを説明していた、ということが分かるわけです。

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ここまで読んでいただけば分かる通り、

μ'sが登場するパートでは「徹頭徹尾」同じテーマを表現していることがお分かり頂けたと思います。

それはすなわち「視点の変化の重要性」という「テーマ」です。

一見「ネガティブ」としか取れない要素を「視点を変化」させることで「ポジティブ」な要素に変えていく

それは、この後μ'sが実際に「行う」ことでもあります。

また、それはTVシリーズ「2期」の段階では「表現しきれなかった部分」でもあるのです。

TVシリーズ「2期」は、「卒業」を大きなテーマとして扱いました。「スクールアイドル」であるμ'sは3年生の卒業という、大きな転換点に差し掛かります。

そこで彼女達が思い悩み、下す結論に「2期全体」の「ドラマ性」を集約させました。彼女たちが全員で決めた「解散」という結論。それは作品内ではなんとなく「ポジティブ」なものとして収束されてはいますが、決して「前向き」な結論とはいえません

「9人」でなければμ'sではない。だからこそ3人が抜けるタイミングでμ'sは解散しなければならない。

それは「9人」でいる「今」を「固定」するためには必要な判断ではあります。しかし、一度「今」に「固定」されてしまったものに「未来」は存在しません。すなわち2期終了時点のμ'sは「未来に何も託さずに終了する存在」になってしまっていたわけです

しかし現実的にμ'sは「未来に何も託さずに終了する存在」でいて良いのでしょうか。

彼女たちが残したメッセージ。

伝えたかった思い。

それらは「未来へ引き継がれるに値する」物なはずです。

2期最終回は「卒業」を以て感傷的に終了することを選ばず、「新たなスタート=Happy maker」で終わりました。

それは「ミュージカル作品ならではの大団円を演出するため」と同時に、「表現しきれなかった部分」としての「μ's解散後の未来」に対しての「未練」でもあるわけです。

故に本映画はその「未練」を晴らす舞台にもなっているわけですね。

だからこそ本映画が「2期と同じ話を繰り返している」という意見には、賛同いたしかねる、というのが私の見解です。


さて、μ'sが積極的に関わるNYプロットはここまで。これまでを便宜上「NYパート前半部」と呼ぶことにします。となればご推察のとおり、この後は「NYパート後半部」へと入っていきます。

ここから先はμ'sではなく穂乃果にとっての「NYプロット」へ変化します。この転換点も非常にあいまいなので分かりづらいのですが、具体的には「地下鉄に乗る」ところからが転換点となります

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■ブロードウェイに迷い込む穂乃果。

NYパートにおける難問の一つ。それが「ブロードウェイに迷い込む穂乃果」のくだりです。

多くの憶測を呼んだこの一連のシーンですが、一つの観点を以て見れば、実はそれほど難しくないかもしれません。

その観点とは「地下鉄に乗り、μ'sメンバーの元へ戻ってくるまでの一連の物語」は「全て穂乃果の心象風景」を「メタ的に表現したもの」である、ということです。

ここも順序立てて考察してみましょう。

「GOHAN-YA」での食事を終えた帰り道、穂乃果だけが地下鉄で他のメンバーとはぐれ、逆方面の電車に乗ってしまいます。

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たどり着いた駅をあてもなく出ていく穂乃果。
冷静に考えればまずこの行動自体が現実的ではありません。

普通であれば駅にとどまり対処法を考えるでしょう。

にも関わらず穂乃果がトボトボと街に出て行ってしまうのは、「彼女が街をさまよう」こと自体に「意味がある」からでしょう。

NYに放り出された穂乃果は様々な人種、年代の人々が集う街中で埋もれてしまいます。
ラブライブ!」という作品の中では、ほとんど「神様」のような存在感を発揮する穂乃果ですが、この街では「一介の少女」に過ぎません。

その姿は意図して「弱弱しく」描かれているようにも見えます。
(通り過ぎる外国人少女とは体格に違いがありません。こういった描写も敢えて穂乃果を弱弱しく見せるための描写のように見えます)

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あてもなく街をさまよう穂乃果の耳に「ある歌」が聞こえてきます。
その「歌」に導かれるようにたどり着いた場所は「ブロードウェイ」の路地裏。
そこには古いヒット曲「as time goes byを歌う女性シンガーの姿があります。

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見事な歌唱に魅せられた穂乃果は彼女に精いっぱいの拍手を送り、結果として彼女との出会いが穂乃果を「ホテル(μ'sの元)へと戻す」要因となるわけです。

 

☆謎③なぜ穂乃果ひとりが迷い込むのか。

さて、まずは何故「穂乃果だけ」が迷い込むのかを考えてみましょう。

「NYに来る」という行動自体が、「未知の存在に挑んできたμ'sの行動」に倣ったもの、というのは前述した通り。

つまり、そもそも「NYに行く」という行為自体が「メタ構造」を含んだ行動なわけです。

となると、ここで「穂乃果だけ」が「未知の場所に迷い込む」という表現も、この後「穂乃果がなんらかの迷いに直面する」というストーリーをメタ的に再現している、と考えられます。

とはいえ、ここは作劇的にはあまり「上手くない」部類に入るものだと思います...。
というのも、メタ構造の作劇内に更にメタ構造を重ねる、というのは一般的には「悪手」と認識されているからです。

例えば、夢の中で夢を見る…といったメタにメタを重ねる作劇をしたとします。
すると視聴者は「じゃあどこまでが本当なんだよ!」と混乱し、やがて「物語そのもの」への「興味を失っていく」危険性を秘めているからです。
(これをやってしまった映画で有名なのはプレステージという映画ですね。)

とはいえこの独特な作劇が「どこまでが現実で、どこまでが夢なのか」を曖昧にさせ、映画になんともいえない深みをもたらせているので、個人的には嫌いではないのですが。。

☆謎④穂乃果が「謎の女性」と出会い、帰ってくるというプロットの持つ意図。

穂乃果が迷い、その先で「謎の女性シンガー」と出会い、ホテルに戻ってくる…というプロットは何を意味しているのか。それは、分析するまでもなく「そのまま」の意味です。

上の流れをもう少し大枠にしてみれば分かりやすくなるかもしれません。

『穂乃果が迷い、「何か」と出会うことで、「μ's」のもとに戻ってくる。』

どうでしょう。こうすると少し分かり易くなります。

ここから分かるのは、このプロット自体が「帰国後の穂乃果の行動」と一致しているということです。

即ち

「周りの反応に戸惑った穂乃果がμ'sの今後の活動に迷う」も、

「迷いの中で得た答え」を胸に、

「改めてμ'sはスクールアイドルとして終了する」ことを決断する、というお話になりますよ!

...ということを、この一連のプロットで表現しているわけです。

至ってシンプル!

また、上に当てはめることで散々議論された「謎の女性シンガー」の正体も、ぼんやりと分かるはずです。

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☆謎⑤謎の女性シンガーとは何者か?

まずはじめに私の考えを述べさせて頂けば、この「女性シンガー」の正体は「SF的ななにか」などでは無いと考えます

なんとなく正解のように語られがちな「未来の穂乃果が会いに来た」説ですが、その説には賛同しかねる...というのが、私の意見です。

では彼女の正体とはなんなのか。
先ほども触れたように、この一連のプロット自体が「穂乃果の心象風景」と考えれば、彼女の正体はもっと「概念的」なものだと思えてきます。

穂乃果が迷いの中で出会う概念...と考えれば、その正体の一つは「願い」とも考えられます。

それは穂乃果の深層心理の中にある「願い」

例えばμ'sを「解散せずに続けた場合の自分」であったり、「解散後にも歌を続けて、歌手となった自分」も「願い」の一部に含まれます。

とはいえそれはあくまでも「願望」。今の時点では「実現性の低い」「空想」に近いものです。

あるいはその「願い」に対する「真実」とも思えます。

TVシリーズ2期10話で、穂乃果は「スクールアイドル」の「真価」にいち早く気付き、μ'sがなぜA-RISEに勝てたのかも、最初に気付きました。

その穂乃果が、「スクールアイドルを続ける」という選択肢を現実的に持っているとは考えづらいのです。

そんな彼女の最も理性的で、聡い部分も「女性シンガー」は引き継いでいます。

だからこそ彼女はまだ穂乃果が気付かないふりをしている「答え」を知っていますし、その「答え」のヒントを与えるだけに留まるのでしょう。

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なんにせよ「女性シンガー」は穂乃果のうちに存在する様々な要素を触媒とした「概念」が、具現化された存在と思えるわけです。

ただ、こう考えれば「女性シンガー」が穂乃果に「そっくり」であることにも理由が付きます。理由はもちろん彼女が「穂乃果の内に存在する物」の影響を受けているからです。

こういった「もう一人の自分」と「対面する物語」が描かれる作品は数多あります。

それらは、一般的にドッペルゲンガー(もう一人の自分)もの」と呼ばれます

ここでそういった作品の具体名を挙げてしまうと、それだけで「ネタバレ」になってしまうので、具体例を出すのは避けます!ただ、それこそ過去から現在に至るまで、何度となく同じテーマで「映画」が作られているような「定番」の「テーマ設定」となっています。

一般的な「ドッペルゲンガーもの」では「自分の理想」「希望」「闇の部分」「もう一人の自分」として登場し、「主人公になんらかの影響を与える」という物語が描かれます。

大概の「ドッペルゲンガー」は「主人公の負の部分」を背負って登場し、主人公に害をもたらす存在として描かれるため、「ドッペルゲンガーもの」の映画はホラーやサスペンスとして作劇されることが多いのですが...。ただし、その根底には「自分と向き合うことの意味」という哲学的なテーマが内包されています。

そして「内面への気づき」によって「主人公が解放される」というのもドッペルゲンガーもの」の流れであり、よくある結末でもあるのです。

そう考えれば「女性シンガー」も「穂乃果が迷いの中で自分自身に問いかけた」中で現れた「もう一人の自分」と考えても良いのではないでしょうか。

※とはいえこの「女性シンガー」の場合には、「穂乃果に助言するために登場したもの」なので、従来の「ドッペルゲンガー」とは少し違う存在かもしれませんが。

さて「女性シンガー」を「穂乃果の内部にいるもう一人の穂乃果」として理解すれば、劇中での様々な謎も解けていきます

例えば、他のμ'sメンバーが「女性シンガー」を「認識できない」理由

それは「女性シンガー」が「穂乃果の内面にしか存在しない」からです。

道端を歩いて帰ってきた穂乃果が「実はもう一人」と告げるものの、誰もその存在を感知していません

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メンバーから見れば、穂乃果は一人で歩いて帰ってきたようにしか見えていません。穂乃果が「誰かと話しながら帰ってきた」ように表現されているシーンは、穂乃果が「自問自答」しながら歩いていることのメタ表現に過ぎないわけです。

だからこそ「女性シンガー」と出会えるのは(出会っているのは)、唯一「穂乃果だけ」なのです

或いは地下鉄で「マイク忘れた!?」と焦る姿。そのマイクを 実は脇に抱えていたという「ドジさ」。それをごまかす仕草なども「穂乃果にそっくり」です。これら「未来の穂乃果説」に信憑性をもたらす要素も、彼女が「穂乃果の一部」と考えれば納得できます。

またこの「謎の女性シンガー」は穂乃果にとっての「夢」を象徴する人物とも捉えられます。

1期最終回で海未に語った通り、スクールアイドルを始めるまで「何もなかった」穂乃果は、スクールアイドルを始めることで「歌う喜び」に出会いました
その思いは活動を続ける中で大きくなり、最終的には「歌」が「自分にとって一番大事な存在」にまで成長しました。
穂乃果にとっての「希望」は「歌」であり、「歌を歌い続ける自分」でもあるわけです。

「女性シンガー」が果たす役割をそのようにとらえる事が出来れば、クライマックスに至る結論の意味も分かってくるはずです。

そしてここで示される「結論」が「サンシャイン」の世界観に、とてつもなく大きな影響を与えているのです。

■第2章 帰国後のプロットを読み解く。

・・・NYから帰ったμ'sを待ち構えるのは「大ブレイク」とその余波。今まで「学校を救うため」「自分たちが楽しむため」にスクールアイドルをやってきた穂乃果たち。明確な「人気」を受け止める日が来るとは考えてもいませんでした

また「解散」をあくまでも「個人的な事柄」と捉えていたμ'sにとって、その「解散」が「個人的ではない」事柄に変貌する事も予想外でした。

理事長から告げられる「スクールアイドルの人気維持のためにμ'sを続けてほしい」という要請。「A-RISE」から受ける「共にプロになってほしい」との願い。

そして「解散」に関して意見が分かれるμ's内部

その結論を託される穂乃果

平穏な序盤に対比するかのように様々な問題が同時並行で発生します。

それを解決していくのが「帰国後プロット」の役割となります。

 

~第2章 帰国後のプロットを読み解く~

ポイント①「μ'sとはどのような存在か」

このパートではNYパートで準備してきた布石が活かされるように、穂乃果たちに様々な「課題=カセ」が襲い掛かります。しかし実のところ、ここで明らかになる「カセ」はTVアニメ2期で「敢えて無視してきた要素」でもあります。

「大ブレイク」を果たした先に当然ある「プロ」という視点
「スクールアイドル」である以上は3年生の引退をもって解散せざるを得ないμ's。
しかし「プロ」になってしまえばその限りではありません
真姫が言うように皆にとっては「μ'sがスクールアイドルかどうかはそれほど重要じゃない」のです。

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仮に「プロとして」μ'sが継続できれば、「解散」する理由の一つは消えます
「自分たちが決めたこと」の先にある「みんなからの要望」という観点。
とはいえ、いかに「みんなからの要望」があろうともTVシリーズ2期であれだけ揉めた末に「全員で下した結論」を覆す理由としては「弱い」ように感じます。
にも関わらず穂乃果が思い悩む理由とはなんなのでしょうか

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それは彼女たちが「みんなの支持」によって「成功」を納めてきたアイドルだから、という背景があります。

μ’sのライバルであるA-RISEはμ'sよりも「歌やダンスでは優れた存在」として作劇されてきました。故にμ'sはそんな「雲の上の存在」であるA-RISEを倒すため、思い悩み、試行錯誤を繰り返しました。

「変化」「CHANGE」インパクト」

そんなお題目をテーマに、メンバーが苦労する回がTVシリーズ2期では何度となく描かれました。反面、毎回その努力は徒労に終わります

その都度、テーマとして描かれたのは「外面を変えることではなく」「自分自身の内面を変化させていくこと」の重要性でした。

「外面」ではない「内面」の進化は楽曲にも反映され、
結果としてμ'sの楽曲はA-RISEにはない「思想性」を持ったものになりました。

「START=DASH!」「ススメ→トゥモロウ」「これからのSomeday」「No Brand Girls」「ユメノトビラ」「Snow halation」「KiRa KiRa sensation」「僕らは今のなかで...。
これらの楽曲は誰もが抱える普遍的な悩みをテーマにし、作詞されています

その歌詞がμ'sと同じ悩みを持ち、μ'sの思想に共感する「みんな」の支持を得る事になり、大きく受け入れられたのです。(これは現実ともリンクしていますね)

そしてそんな「みんな」の支持が、μ'sに「スクールアイドル」としての「栄光」をもたらし、結果としてA-RISEに対して「勝利」を納める原動力にもなったのです。

それを象徴するのが「皆で叶える物語」というキャッチコピーであり、「皆の思いが導いた場所なんだ」という「Kira Kira sensation」の歌詞でもあるわけです。

すなわちμ'sがA-RISEに勝てたのは「みんな」の力があったからこそなわけです。
それ故に「みんな」からの「辞めないでほしい」という要望に「揺れ動く」わけですね。

 

~第2章 帰国後のプロットを読み解く~
ポイント②どこからが穂乃果の「夢」なのか?

思い悩む穂乃果
様々な人の意見を聴き、その結論を託されたことで穂乃果は混乱の極致に陥ります
A-RISEとのドライブを終え、家に戻ってくる穂乃果。すると「雨」が降り出します
先ほども言ったとおり「雨」は「停滞」の象徴。
穂乃果が迷っているため、物語も「停滞」してしまっていることを表しています。

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雨の中、今度は制服姿で思い悩む穂乃果は、またしても「as time goes by」を耳にします。歌のする場所に行くと、なんとNYで出会ったあの「女性シンガー」がいるではありませんか。
しかし彼女は、穂乃果が預かったまま返しそびれていたはずの「マイクスタンド」を所持しています

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そのことには特に疑問を感じず「うちにも同じのあるので返します」と強引に自分の家に「女性シンガー」を連れて行く穂乃果。
しかし「女性シンガー」は家の目前まで行くものの、家に寄る事を拒みます。
「せっかく再開できたのに」と引き留める穂乃果に「答えは見つかった?」と全く別の問いかけをする「女性シンガー」。

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「答え?」と聞き返す穂乃果。
すると強風が吹き、傘が吹き飛ばされ、雨も「止みます」
穂乃果が目を開けると、目前には「大きな湖」が現れます。
それはどこか「この世」ではないような雰囲気を漂わす場所です。

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・・・さてここで視聴者を混乱させるのは、「どこまでが現実で、どこからが夢なの?」ということです。

どんな人でも「この世」ならぬ場所に穂乃果が誘われた瞬間「これは夢だな」と気づくもの。とはいえ、どこでそれが「切り替わっているのか」が分かりづらいと思うのです。

明確な転換地点は「雨」が降り出すところ。

途中でμ'sメンバーが映し出されるため混乱しますが、傘をさして制服で登場する穂乃果は、「彼女自身の夢の中にいる穂乃果」です。夢とは「深層心理」に影響されるものフロイト談)。

先ほど書いた通り「女性シンガー」は穂乃果の「深層心理」を触媒として登場する存在。だからこそ、夢の中で穂乃果は「女性シンガー」と「再開」するわけです。

 

☆謎⑥「マイクスタンド」の持つ意味とは?

さてここでまたしても謎が発生します。それは「マイクスタンド」です。

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NYの地下鉄でなし崩し的に穂乃果が持ち運び、途中で「女性シンガー」が消えてしまった為、穂乃果が持ったままになっていた「マイクスタンド」。

しかし、アキバでの再開時、返すべきそれを「女性シンガー」は所持しています

また「返す」という穂乃果の申し出を彼女はやんわりと拒否します。果たしてこの「マイクスタンド」は何を示しているのでしょうか。

先ほど考察した通り「女性シンガー」は穂乃果にとっての「夢」や「願い」を具現化した存在です。そう考えれば「女性シンガー」から託される「マイクスタンド」もまた「夢」や「希望」を象徴する存在と思えます。

彼女が「マイクスタンド」の回収を拒むのは、それは既に穂乃果に「託したもの」だから。そしてそれを彼女が「複数所持している」のは、彼女がそれ=(夢や願い)を様々な人に「渡す役割」をもった存在だからなのでしょう。

しつこいようですが「女性シンガー」は穂乃果の中で具現化した姿。

彼女は穂乃果の深層心理に触れる形で「女性シンガー」の姿で具現化していますが、本来は「その人の内面」によって「形を変えて」いきます。

それと同じように託される「希望」の形も受け取る人によって変わるはず。今回「マイクスタンド」としてその姿を具現化させたのは、穂乃果にとっての「希望」が「歌う」ことだからでしょう。その「希望」が「形になりそう」な結論に穂乃果が到達したからこそ、穂乃果の家にある「マイクスタンド」は消えずにいると考えられます。

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■第3章「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く。

さて、ストーリーに戻りましょう。
「この世」では無い場所で「女性シンガー」が告げる「跳べるよ」という言葉。その言葉に後押しされるように、穂乃果は目の前に現れた湖を飛び越そうと試みます。
すると同じタイミングで3年生を代表して絵里から「今後のμ'sに関しての3年生組の意見」が届きます。
その結論とは、「やはり卒業と同時にμ'sの活動は終了としたい」というもの。

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「μ'sはこの9人でなければいけない」しかし「μ'sはスクールアイドルだからこそ輝く」のだと告げる絵里。そして自分自身「スクールアイドルであるμ'sが好き」なのだと語ります。だからこそ「μ'sは解散しなければならない」という思い。

絵里たちが協議して得た結論は、穂乃果が出した結論と同じものでした。

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夢から目を覚ました穂乃果は、いよいよ結論を固めます。その結論とは、「NY」に行く前と同じく、「3月一杯」をもって「μ'sは活動を終える」というもの。

しかし自問自答の中、「スクールアイドルの魅力」に改めて気付いた穂乃果は、「μ'sの活動終了をネガティブな要素」にしないため再度「スクールアイドルの魅力」をアピールする方法を思いつきます

それは「活動休止」までの限られた時間の中で、もう一度「ライブ」をするというもの

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そしてそのライブを開催する場所は「アキバ」

ただし、その「ライブ」とは「μ's」の解散を伝えるライブではなく、「スクールアイドルの魅力を全国に伝える」ためのライブ

μ’sの活動休止をもって「スクールアイドルの火」が消えてしまわぬよう
「μ's」や「A-RISE」単体が凄いのではなく、「スクールアイドル」全体が素晴らしいのだと伝える「ライブ」をしたい。

そのためには「全国のスクールアイドルに参加してほしい」
そんな穂乃果の無茶な考えに騒然とするμ'sメンバーですが、彼女たちは常に「無茶」や「無謀」と戦ってきた人たち。
「もしそんなライブが実現できたら、それは今までで一番楽しいライブになる!」
俄然盛り上がるμ'sメンバー。

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とはいえ残された時間はわずか。
メールや電話ではレスポンスに時間がかかることを苦慮した穂乃果は、全国のスクールアイドルに直に「参加を要請する」ことを思いつきます。
「一番楽しいライブ」を作るため、μ'sの「新たな挑戦」が始まります。

 

~第3章「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く~
ポイント①穂乃果と絵里が共通に「気付いたこと」は、μ'sメンバー全員が「気づいたこと」。

映画の中盤以降、穂乃果の「自問自答」が中心に描かれます

結果としてその穂乃果の気づきによって、物語が展開していくように描かれていますが、この「自問自答」は、μ'sメンバー全員が各自行っていたものでもあります。

穂乃果が「夢」の中に入り込むきっかけとなる、「A-RISEと別れた後に降り出す雨のシーン」
この導入部分では、μ'sメンバーそれぞれの様子がカットバックとして入ります。
非常に分かりづらいですが、このシーンが現すのは、全員が穂乃果と同じような「自問自答の状態に入っています」という合図なわけです。

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だからこそ穂乃果が結論を出して向かった学校の屋上には、μ'sメンバーが勢ぞろいしています。

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そこで真姫が告げる「めんどくさいわよね。ずっと一緒にいると、何も言わなくても伝わるようになっちゃって」という言葉から、

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メンバー全員が穂乃果のような「自問自答」を通して、それぞれの結論に行き着き、その結論が同じであった…ということが示されているわけです。
う~ん、ここは分かりづらいですね...。(笑)

 

~第3章「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く~
ポイント②「限られた時間の中で輝く」ものとは?

さて、彼女達が共通して気付いたのは「μ'sはやはりスクールアイドルとして終わるべき」ということだけではありません。
なぜμ'sが「スクールアイドルでなくてはいけないのか」
それを問い直す中で気付いたのは「スクールアイドル」そのものが持つ「魅力」でした。

「高校3年間」という「限られた時間」の中でしかできない「もの」。
その「限られた時間」があるからこそ輝きを放つもの、というのは確かにあります。

たとえば「部活動」がそうです。
「甲子園」に出場できるのは「高校野球」のチームだけのように。
あるいは「全国高校サッカー選手権」に出場できるのが「高校サッカー」チームだけのように。
ここに出場し、輝いた選手が全員「プロ」になるわけではない。
しかしここで「輝いた」選手は、いつまでも人々の「記憶に残る」選手になる。
それはまさしく「限られた時間の中で輝く」ということです。

また「アイドル」というものも同じです。
主に10代前半~後半という「限られた年代」の「少年・少女」だけが名乗ることを許される「アイドル」という存在。(最近は50近くでもアイドルを名のる方もいますがw)

長い人生の中で考えれば「ほんの一瞬」の限られた時間に、全てをかけて「輝こう」とするからこそ、彼ら、彼女らは一際「輝く」わけです

ラブライブ」という作品が初めて持ち込んだ「スクールアイドル」という概念。
しかしてそれは「アイドル」「高校における部活動」という「10代の少年少女」だけが体験できる「限られた時間の中で輝く」ものの「縮図」になっているわけです。

 

~第3章「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く~
ポイント③穂乃果を「跳ばせる」要因とは何か。

夢の中で見事湖を飛び越せた(ように見える)穂乃果。
そのきっかけを作ったのは、「女性シンガー」の「跳べるよ!あの頃のように」という言葉でした。

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ここで彼女が言う「あの頃のように」とは、映画冒頭に映る幼少期の穂乃果のこと。
なぜ「女性シンガー」が幼少期の、しかも穂乃果含め3名しか目撃者がいない出来事を知っているのでしょうか
それはやはり彼女が「穂乃果の内面に存在しているもの」だからと思われます。

更に言うなれば「女性シンガー」が「希望」を象徴する存在だから、でもあります。

幼少機に穂乃果の耳に聞こえてきた「歌」

それを聞くことで穂乃果は「楽しい気持ち」になり、「跳ぶ」ことが出来ました。

その「歌」はまさに「希望」そのもの

「女性シンガー」が穂乃果が「跳べた」ことを知っているのは、水たまりを跳ぶため、穂乃果の耳に「歌」を届けたのも、彼女の「仕事だったから」とも取れます。

さて、ではその時聞こえてきた「歌」とはなんだったでしょうか

そこを頭の中でリンクさせることで、その「楽曲」がもつ「意味」や「メッセージ」もより深く理解できるはずです

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~第3章「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く~
ポイント④地方のスクールアイドルに「会いに行く」意味と、彼女達の存在意義。

ここは改めて説明するまでも無いですが、一応書いておきます(笑)。μ'sが「全国のスクールアイドルに会いに行く」のは、そのまま全国で実施した「ファンミーティングツアー」をなぞっていると考えて間違いないでしょう

とはいえ、このシーンはそんな「ファンサービス」だけのための描写ではありません。

μ'sが会いに行く「全国のスクールアイドル」とは、何を示しているのか。それは「日本全国にいるμ'sのファン」そのものです。すなわち「私たちそのもの」なわけです。

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ここから分かるのは、μ'sが招集しようとしている「全国のスクールアイドル」とは、ラブライブを愛し、その考えに賛同する我々ファン」のメタ表現である、ということです。

この認識をもって「SUNNY DAY SONG」を見れば、あのライブシーンが持つ意味合いの捉え方も少し変化するかと思います。

 

■第4章 「SUNNY DAY SONG」を読み解く。

着実に「一番楽しいライブ」実現に近づくμ's。
そんな中、3月一杯までは「スクールアイドル」である「A-RISE」にも協力を仰ぎます。穂乃果の要望に快く答えるツバサ
(彼女がなぜ穂乃果に賛同するのかは、私のblogでのサンシャイン第12話考察をご一読いただけると幸いです。)しかしツバサは「ある条件」を穂乃果に突きつけます。

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それは「μ'sにスクールアイドルのための曲を作ってほしい」という要望。

「アキバでのライブはスクールアイドル全員の可能性を讃えるライブになるはず」
「だとすれば、スクールアイドルの素晴らしさを伝える曲を、スクールアイドル全員で歌いたい」
「そしてそれをスクールアイドルの代表である、μ'sに作ってほしい」というもの。

その思いに賛同した穂乃果は、楽曲作りとそれに付随する歌詞づくり、衣装づくりに奔走します(というか海未とことりが奔走します笑)。

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いよいよ「アキバ」に集まった全国のスクールアイドルたち
彼女たちの助けを得て、初めて「スクールアイドル主催」のライブの準備が進みます。

「全国から集まった歌詞」「全員で作った衣装」「真姫とツバサが合作した曲」...。

それらが揃う楽曲を披露する場所は、まさしく「これまでのスクールアイドル」を総括する一大プロジェクトです。

なんとか間に合った準備。そこでμ'sは自分たちが解散することを告げます
ショッキングなニュースに落ち込む「スクールアイドル」たち。
しかし穂乃果は皆の前で、この「ライブ」を「自分たちのためのライブ」にはせず「スクールアイドルのためのライブ」にすることを宣言します

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ライブ当日A-RISEを含む「全国のスクールアイドル」はこの日のために用意した「衣装」を着こんでμ'sを待ち受けます。A-RISEが告げる「我々はひとつ」という言葉。

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それはμ'sの「願い」や「想い」を受け止め、同じ気持ちを共有した事を示す行為です。また「スクールアイドル」の中にはまだ入学していない「雪穂」亜里沙がいます。そして、μ'sのピンチを度々救った「神モブ」こと「ヒ・フ・ミ」の3人もいます。

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いわゆる「スクールアイドル」ではない人々も、自分の思いに賛同し、集まってくれている。その「思い」に気付いた穂乃果は目を潤ませます。

そこに「たとえ自分たちがいなくなったとしても、輝き続ける希望」を見出したからです。

穂乃果は力強く宣言します。

「これからもスクールアイドルは続いていく 今の私たちならどこへだって行ける どんなことだって乗り越えられる」と。

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いよいよクライマックス

スクールアイドルの「アンセムSUNNY DAY SONGが、世界中に向けて「鳴り響きます」

・・・本映画のハイライトになっているように「SUNNY DAY SONG」が映画内で果たす役割は非常に大きいものです。この項ではそんなSUNNY DAY SONG」を分解して読み解いてみましょう

 

~第4章「SUNNY DAY SONG」を読み解く~
ポイント①披露する舞台が持つ意味。

まずは「SUNNY DAY SONG」を披露する舞台。

映画をご覧になった方なら分かる通り、SUNNY DAY SONG」は「アキバ」で披露されました。その理由は何ででしょうか。

本項前半「Angelic Angel」の項で触れた通り、「アキバ」は「NY」と同じ要素を持った街です。そしてその街の風景をバックに披露された「Angelic Angel」が、映画の「根本的なテーマ」にも触れているとも書きました。

さらにここで披露するSUNNY DAY SONG」もまた「Angelic Angel」と「同じ精神性」を持った曲である、とも説明させていただきました。

となれば、「アキバ」で「SUNNY DAY SONG」を歌う意味は明らかです。
これは前半の「NY」でのライブを、劇中で「再現」しようとしているわけです。

しかしここには「NY」でのライブとは「決定的に違う」要素も含まれています。
それは「全国から集まったスクールアイドル」の存在です。

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~第4章「SUNNY DAY SONG」を読み解く~

ポイント②「Angelic Angel」と「SUNNY DAY SONG」の相違点

こちらも「Angelic Angel」の項で説明させていただいた通り、「Angelic Angel」と「SUNNY DAY SONG」が持つ「根本的」なテーマは同じです。しかし決定的に異なっているのは、「発信者の視点」です。

Angelic angel」の発信者は、ひたすらに「自分」のことを語っています
「もしも」を否定し、「もっと」を肯定するのも「自分の為」ですし、「心の羽ばたき」を止められないのも「自分」。徹頭徹尾「個人的な感情」を歌詞にしたのが「Angelic angelです。

ただし、これはNYから帰国する前の「μ's」の視点。

この時には「μ's」はあくまでもこの「9人」で終わる…という「閉じた世界観」の中にいたからです。しかし帰国後にμ'sを待っていたのは「大ブレイク」。そんなブレイクの最中、「解散する」というある種の「わがまま」を通したことで、μ'sは後に続く者への「メッセージ」を残す必要が出てきました。

だからこそ「SUNNY DAY SONG」では「後継者」へ「メッセージを呼びかける」ような歌詞が続きます。

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「受け止めてあげる ここで 最初は少しためらっても
 受け止める 場所があるって もっともっと知ってほしくなるよ」

「自分から 手を伸ばしたら もっともっと面白くなるよ」

など、その歌詞のほとんどが、

「希望」を胸に秘めながら、「第一歩を踏み出せない人」への「応援歌」に変化しているわけです。

またその相違点を視覚的にも表現しているのが、「全国から集まったスクールアイドル」です。彼女たちはμ'sの考えに賛同し、アキバに集った「フォロワー」でもあります。

その「フォロワー」たちと一緒に踊る、というシーンは「9人だけで踊った」「Angelic angel」とは大きく異なりますそこには大勢の賛同者がいるからです。

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「全国からスクールアイドルが集まる」というシーンは、こういった意図を視覚効果を通して伝えるためでもあるわけです。

 

~第4章「SUNNY DAY SONG」を読み解く~

ポイント③「SUNNY DAY SONG」とはなにか。

先ほども書いた通り、「SUNNY DAY SONG」には「応援歌」としての側面があります。
自分自身も「輝きたい」。でも「何の根拠もないし、自信もない。」

そんな人たちへ「最初の一歩を踏み出す勇気」を与える曲になっています。

「根拠も自信もなくていい。まずは胸に芽生えた希望に従って行動することが大切」

そんなテーマを教えてくれるのが「SUNNY DAY SONG」です。

1期第8話で「μ'sを生み出した女神」である希が言った通り。

「特に理由なんか必要ない。やりたいからやってみる。」
「本当にやりたいことって...そんな感じで始まるんやない?」

それを肯定し、後に続くものたちへその「メッセージを伝える」

それがSUNNY DAY SONG」に課された役割なわけです。

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どうでしょう。
こう書けばいかにこの劇場版ラブライブと「サンシャイン」が密接につながった作品かが分かるはずです。

ポイント④そして「SUNNY DAY SONG」は「希望」になる。

”・「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く。

 ポイント③穂乃果を「跳ばせる」要因とは何か。”

で触れた通り、映画冒頭「水たまり跳び」に挑む穂乃果の耳に聞こえてきた曲。
それはSUNNY DAY SONG」でした
映画終盤に生まれたはずの曲が、幼少期の主人公の耳に聞こえる。
明らかな「ねじれ」現象でありますが、それはこの「SUNNY DAY SONG」という曲が持つ「役割」に原因があります。

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先ほども説明した通り「SUNNY DAY SONG」は「最初の一歩を踏み出す勇気」を与える曲です。
それはまさしく「希望」を象徴するもの

ここから分かるのはSUNNY DAY SONG」そのものが「希望」を象徴するもの、になったという事です。「SUNNY DAY SONG」が「希望」そのものであれば、幼少期の穂乃果の耳にも聞こえてきた理由としても説明がつきます。

「歌」を超えてある種の「概念」となった「SUNNY DAY SONG

それはこの曲の持つ「哲学」が「人間の根源」に基づくものだからです。

「願えばどんな夢だって叶う」と「信じたい」という「欲求」。

それは誰の胸にもかならず宿る「願い」です。

そしてそんな「願い」や「欲求」は「時代」に左右されるものではないのです。

例えμ'sが解散し、その存在を人々が忘れてしまったとしても、

一つの「歌」が「彼女達が伝えたかった願い」を「思い出させてくれる」。

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「何もないはずなのに、いつも胸に宿る光」

「私たち、Aqoursはそこから生まれてきた」

「サンシャイン」13話のエピローグで千歌が語ったもの。

そんな「根拠のない希望」を思い起こさせる「願い」。

それこそがSUNNY DAY SONGであり、

だからこそ「サンシャイン」と「劇場版」は「一繋ぎの物語」になっているわけです。

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■追記①「SUNNY DAY SONG」と「ラブライブ!サンシャイン!!」の明確な接点。

すみません。

本稿読み直しつつ、「この表現はあかんな...。」などと余裕かましつつ修正していたところ、とても大事な解説を忘れておりました。。

それはSUNNY DAY SONGが「哲学」としてだけでなく、「直接的=物理表現」的にも「サンシャイン!!」に深く関与しているというお話。

 

ラブライブ!」において「雨は停滞を意味する」というのは本稿含め何度も触れている通り。

...雨が降ると...

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「物語」か「人物の心理状態」が「停滞する」予兆。

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(雪もあったり)

これはサンシャインにも引き継がれていて、

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「雨」が降るとなにか「良からぬこと」や「悲しい状況」が起きます。

そして、問題が解決した際には、「晴れ」の日がやってきます(必ずどのシーンにもある、というわけではないですけど)。

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SUNNY DAY SONG」とは「希望そのもの」である、と前項にて書かせて頂きましたが、逆もまた然り。

「希望」のあるところに「SUNNY DAY SONG」も現れる。

SUNNY DAY SONG」とは直訳すれば「晴れの日の歌」となります。

「雨」の中で「停滞していた」人の気持ちに、「希望」が宿った瞬間、空もまた「晴れ」になる。

そして「晴れの日」には「SUNNY DAY SONG」が聞こえてくる。

歌詞の中に

SUNNY DAY SONG

 SUNNY DAY SONG

口ずさむ時は 明日への 

期待がふくらんで いい気持ち"

と、ある通り、「晴れ」と「希望」が直接的な因果関係を以て語られているのが「SUNNY DAY SONG」なわけです。

...さて、では「晴れ」をもっと大枠に捉え直してみるとどうでしょうか。

「太陽」が出ている日を「晴れの日」と言う、と考えれば「晴れの日」=「太陽」とも捉えられます。

また「太陽の光=サンシャイン」でもあります。

つまり「ラブライブ!サンシャイン!!」が「SUNNY DAY SONG」に密接な関係があるということは、こんな部分からも明らかなわけです。

 

またAqoursのデビューシングル君のこころは輝いてるかい?についてはどうでしょう。

同曲はそのタイトルからも明らかな通り、「SUNNY DAY SONG」のアンサーソングとして作られています。

"SUNNY DAY LIFE

 SUNNY DAY LIFE

輝きになろう"

という「SUNNY DAY SONG」からのメッセージは、

"君のこころは輝いているかい?"

というAqoursへの「問いかけ」に変化しています。

また、「SUNNY DAY SONG」は自分自身の胸の内に起こる「希望」を体現するものでもあるので、その「問いかけ」は「自分自身への問いかけ」でもあります。

故にその「問いかけ」への答えを、

"胸に聞いたら YES!と答えるさ"

という歌詞にして表現しているわけです。

 

"この出会いがみんなを変えるかな”

における出会いとは、もちろん「Aqoursメンバー同士の出会い」を示してはいますが、それだけでなく「スクールアイドル」ひいては「SUNNY DAY SONG」との出会いも表現しています。

だからこそ、このフレーズ全体は

"今日も太陽は照らしてる 僕らの夢"

と結ばれるのでしょう。

...というわけで、ことほどさように「SUNNY DAY SONG」と「ラブライブ!サンシャイン!!」の結びつきが強いというお話でした。

ただ、ここが分かれば13話における千歌のモノローグ(ラストシーンでの独り言)の意味も分かるはずですし、あの言葉に感動できると思うのです。

ここはまた13話解説で触れることにします。

 

■裏主題歌としての「As time goes by

さて、ここからはおまけに近いお話。
映画内で唯一2回登場する楽曲。それが「As time goes by」です。
これほど意味深に登場する曲にも関わらず、この楽曲に関して触れる方は少ないです。
ここではこの楽曲がもつ意味も説明しましょう。

1942年の映画「カサブランカ」の主題歌として知られるこの曲。
しかし元々はそれ以前の1931年にブロードウェイミュージカル「エブリバディズ・ウェルカム」のために描き下ろされ、ヒットした曲でした。

すなわち、この曲自体1942年の段階で「過去のヒット曲」として使用されていたわけです。

この辺り「文脈と関係なく」「時代を超えて」愛されてきた楽曲であるという点で、映画のテーマとも関係していますね。

ちなみに「As time goes by」は2014年の映画「はじまりのうた(BEGIN AGAIN)」でも重要なシーンで引用されましたね。

(3:13秒ころから)


Headphone Splitter Scene

(この映画自体非常に優れた作品なので、超お勧めです)


...「As time goes by」とは「時がすぎゆくままに」などと訳されることが多いタイトルですが、実際には「時が過ぎたとしても」と訳すのが正しいとのこと。
ここでピンときた方はいらっしゃるでしょうが、まさしくこの映画の「テーマ」そのままの曲なわけです。

この曲のポイントはもちろん歌詞。
以前にも載せましたが、再度掲載しますね。

<歌詞>
You must remember
this A kiss is just a kiss,
a sigh is just a sigh.
The fundamental things apply
As time goes by.

And when two lovers woo
They still say, "I love you."
On that you can rely
No matter what the future brings
As time goes by.

Moonlight and love songs
Never out of date.
Hearts full of passion Jealousy and hate.
Woman needs man And man must have his mate
That no one can deny.

It's still the same old story
A fight for love and glory
A case of do or die.

The world will always welcome lovers
As time goes by.


<和訳>
これだけは心に留めていて欲しい
キスはキスであり、ため息はため息
恋の基本はどの時代でもあてはまる
いくら時が流れようとも

恋人たちが恋をすると
やはり「愛してる」とささやく
これだけは間違いがない。
この先何があろうとも
いくら時が流れようとも

月の光とラブソング
すたれることなどない
人々はいつでも嫉妬と憎しみで激情に駆られる
女は男を求め
男は女を求める
誰も否定することの出来ない永遠の真理

いつの時代にも存在する物語
栄光と愛への戦い
生きるか死ぬかのせめぎあい

恋する者たちを世界は優しく受け入れる
いくら時が流れようとも


Frank Sinatra - As Time Goes By (Casablanca)


・・・どうでしょうか。
和訳詞を読んでいただければ一目瞭然。
これまで私がダラダラと書き連ねてきたお話が、この歌詞に集約されています。

どれだけ時代が過ぎたとしても、人間の根源的な欲求に変わりはない。

そんなことを示した歌詞になっています。

「いつの時代にも存在する物語 栄光と愛への戦い」なんてまさしくラブライブ!」そのものですよね。

・・・というわけで、「劇場版ラブライブ」の考察でした。

いや、改めて解説するとエライ情報量に度肝抜かれます。。
長文をここまでお読みくださったあなたは凄い!と手前味噌ですが賞賛の言葉をお送りさせていただきますw

さて、これを理解できれば、「サンシャイン」13話など、赤子の手をひねるようなもの。

いざ、クライマックス「サンシャイン」13話考察に参りましょう!!!!

・・・・でもその前に少し休憩させてください。スミマセン。。

 

ラブライブ! The School Idol Movie (特装限定版) [Blu-ray]

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第12話「はばたきのとき」

おはヨーソロー!(現在午前1時)

もはや土曜日はサンシャインの日だったので、

「サンシャインロス」略して「サロス」に蝕まれている皆様、こんにちは。

「・・・うちもや...。」(関西っぽいイントネーションで脳内変換してください)

 

2期があるとしても恐らく1stLIVE後でしょうからね。。

早くとも来年夏。。

・・・遠いなぁ。。

そんな「サロス」を吹き飛ばすには、他のアニメなど一切見ず「サンシャインを10周くらいする」のが一番!(暴言)

とはいえ8週目くらいで飽きてくる懸念があるので、その際に当blogをキメることで、ちょっとアッパーなテンションで作品を見られること請け合い!

という「ダメ、絶対」系blogがこちらとなっております(ギリギリアウトな文章)。

前回が難産中の難産だったのに比べれば、今回は余裕。

・・・のはず・・・。

このあとには難物13話が待ち構えてますしね(ガクガク)。

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今回も項目毎に参りますね。

 ※注:私の考察はあくまでも「物語の構造を読み解く」類のものなので、読んでカタルシスが得られるタイプの文章ではありません。予めご了承願います。。

 

通過儀礼としての「ピアノコンクール」と「予選突破」、そして新たな通過儀礼としての「音乃木坂」「東京」

前回考察でお話した「通過儀礼」という概念。

7話で梨子が「音ノ木坂に行けなかった」理由。

それは梨子がピアノコンクールでの「失敗」を克服できていないから。

その失敗の要因となった「海に還るもの」を弾けるようになり「ピアノコンクール」そのものを克服できない限り、梨子は「次のステップ」に進めません。

それはこの一連の事柄そのものが、梨子にとっての通過儀礼となっているからです。

島田裕巳先生の名著「映画は父を殺すためにあるー通過儀礼という見方」では、

”名作と呼ばれる映画のほとんどで、主人公は「父(あるいはそれに準ずるもの)を殺し、成長を果たす」というシーンがある。即ちそれは成長するための「通過儀礼」である(要約)”

と書かれています。

 この「父」というのは便宜上の表現で、実際には「父親」でなくてもかまいません。

自分の「道筋」ひいては「可能性」を阻害する存在(映画骨法でいう「カセ=枷」)を示し、これを「越えるか」「越えられないか」で「映画作品」としての物語に変化が出てくるわけです。

ただし「ラブライブ!」が「娯楽作品」として作劇されている以上、こういった「カセ」は「越えなくてはならないもの」となってきます。

そのため、梨子もまた自らの「カセ」である「海に還るもの」そして「ピアノコンクール」ひいては「音乃木坂」を「クリア」していかねばならないわけですね。

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第10話「シャイ煮はじめました」&第11話「友情ヨーソロー」 - Love Live!Aftertalk

 これだけでは少しわかり辛いので、今回はRPGに例えてみましょう。

RPG」はロールプレイングゲームの略称。

RPGはマップを移動しながら敵を倒し、経験値をため、レベルアップしていくことが目的の一つ。

しかし物語を進めるには、レベルを上げるだけではダメで、その途中途中に課せられる課題をクリアしていく必要があります。

その課題はゲームによって様々あるわけですが、なんにせよそれをクリアしない限りは「次に進めない」ように出来ているのが「RPG」です。

ではこれを梨子に応用してみましょう。

梨子は①「自分自身へのプレッシャー」から②「音楽(ピアノ)を楽しめなくなり」結果として

③「ピアノコンクールで1音も弾けずに敗退」というトラウマを抱えました。

梨子の物語をRPGとすれば、梨子が「次の物語」に進むためには、これらの「課題」を一つひとつクリアしていく必要があるわけです。

①を「プレッシャーを与えた要因=音乃木坂」と設定すれば、

①「音ノ木坂」②「音楽(ピアノ)」③「ピアノコンクール」の3つが「梨子にとっての課題=カセ」であることが分かります。

さてこれまでの物語を振り返りつつ当てはめてみると…

まず②に関しては、千歌と共にスクールアイドルを始め、そこで「作曲」をすることで克服することに成功しました。

②を克服することで③「ピアノコンクール」の攻略が可能に。

 ③をクリアする面でカセとなったのは「ラブライブ地区予選」でしたが、これも千歌を筆頭とする仲間の助けを得てクリア。

③を克服した梨子は、「彼女にとっての最後の難関」①「音ノ木坂」に挑むことが可能となりました。

そしてその挑戦が、今回のストーリーで語られる内容となっているわけです。

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ここで面白いのは、①「音ノ木坂」に行く、という目標が「梨子の物語」内での重要なイベントとして存在するだけでなく、Aqoursメンバー」にとっても「重要なイベント」として存在している点。

梨子はあくまでも「元音ノ木坂」の生徒として、「自分を苦しめていた(と思い込んでしまった)」「音ノ木坂」に決着をつけに行く、という文脈がありますが、

Aqoursにとっての「音ノ木坂」は「μ's」の母校です。

「μ's」に憧れ、「μ's」を追いかけて「スクールアイドル」を始めた千歌とAqoursにとっては、「音ノ木坂」という場所は梨子の文脈とは「違う意味」を持つ存在でもあるわけです。

そしてひとつの作品として考えた場合。

ラブライブ!サンシャイン」が「ラブライブ!」の後継作である以上、必ず「クリアせねばならないポイント」。それが「μ's」でもあります。

Aqoursが「μ's」から「何を引き継ぐのか?」

それが12話のメインテーマにもなっているわけです。

 

Aqoursが「グループ」である以上、メンバーの一人である梨子が②、③をクリアしない限りは、「Aqours」も①「音ノ木坂」にたどり着くことが出来ません(これは第7話で実際にシーンとして登場しますね)。

結果として「梨子個人の物語」と思われていたものが、「Aqours全体の物語」として収束していく作りになっているわけですね。

 

さて、「音ノ木坂」をクリアするためには、必ず行かねばならない場所もあります。

それは6人時代のAqoursが屈辱にまみれた場所=「東京」です。

「東京での敗戦」はAqours大きな傷を与えました。

しかし、その反面Aqours大きく成長するきっかけを与えてもくれました。

この敗戦をきっかけとして「9人」となり、成長を果たしたAqoursが、「6人時代に敗れた場所=東京」を克服する。

これも「次の物語」へ行くための「通過儀礼」として設定されているわけです。

つまり「音ノ木坂」をクリアするのと、「東京」をクリアするという「Aqours全体としての通過儀礼」を同時並行的に物語内に収めようとしているんですね。

このあたり非常にロジカルな作りになっていると思いました。

 

■「東京」で待ち受けるもの。SaintSnowとぶつかり合う「イデオロギー」。

予選突破を果たしたものの、学校説明会への応募希望者は「0」。

「学校を廃校から救う」という目標も持つAqoursにとって、「入学希望者を増やす」という課題も切実なものです。

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思い悩む千歌に曜が告げる一言。

「この時期μ'sは学校の廃校を阻止してたんだよね」

(という言葉に、何故か一緒に見た人の多くが「えっ?そうだっけ??」と答えるんですが…何故なのか。。

それ1期のプロットの中でめちゃくちゃ大事なところやねんぞ!!!

・・・・いかん脱線しました。話を元に戻しましょうw)

思い悩む千歌に果南は

「ここは東京じゃないから仕方ない。簡単に人が集まる場所じゃないんだよ」

と語り、慰めます。

しかし、まぁこれもまた真理ですよね。

実際に地方の過疎化は進む一方で、内浦もまさしくその対象地域でしょうし。

ただし千歌は「そんな理由であきらめちゃダメだ」思い直し、案を練ろうと、かき氷を文字通り掻きこみ家路を急ぎます。

このシーンどうしても劇場版「ラブライブ!」での、熱い紅茶を飲み干す穂乃果を思い出します。

あの時穂乃果は「平然」と飲み干し、ツバサを驚愕させましたが…。

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千歌にはやはり反動が。。

こういったどうでもいい描写にも「μ's」との比較が入れ込まれていて、面白いところですね。

 

家で案を練る千歌。

しかし良い案は浮かばず、自ずとμ'sのポスターを見上げます。

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「私たちと同じような普通の子たちが頑張っていると思ってたんだけど、何が違うのかな」。

「μ's」と「Aqours」の違いを知りたい千歌。

「悩んでいてもしょうがない!行ってみよう」

Aqoursを再び「東京」へと誘うことになります。

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7・8話以降、初めて「東京」に挑むAqoursの面々。

前回と違うのは、「9人」になったこと。

その「9人」で様々な課題を克服したこと。

そして「地方予選」を「突破」し、「ピアノコンクール」も「突破」したことで、前回未達成だった「カセ」をクリアしていることです。

前回はイベントに呼ばれたとはいえ、半ば「物見遊山」で「東京」を訪れた千歌。

しかし今回は明確な「目的」を以て東京にやってきたので、鞠莉の「観光要望」にも応えません。

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このあたりにも千歌の成長が伺えます。

また前回から一回り成長したAqoursは、8話で「辛酸を舐めさせられた相手」にも対等に立ち向かえます。

その相手とはもちろんSaint snowです。

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(北海道地区じゃなかったっけこの人たち・・・フットワーク軽いな。)

前回邂逅時には「圧倒的なパフォーマンス」で「6人Aqours」を叩きのめしたSaint snow

あの時には立ち位置に差がありましたが、

共に「予備予選を突破し」、「動画の再生回数でSaint snowに勝っていること」もあり、少しだけ関係に「変化」が出ているようにも見えます。

「結果」を残したAqoursに対して、一定の敬意を示すSaint snow

しかし、それはSaint snow「実力至上主義者」だからでもあります。

同じ目標を目指し、ある種のライバルとして敬意を示す千歌は、自身の悩みを率直にSaint snowに伝えます。

「自分たちと、μ'sは何が違うのか」

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「私たちはA-RISEに憧れてスクールアイドルになった」と語る鹿角姉。

そして自分たちもまた「同じ疑問を持っていた」と語ります。

しかし「その答えは出なかった。だからまずは勝って、A-RISEやμ'sと同じ景色を見てみたい」

「そうすれば自ずと答えが出るはず」と答えます。

その鹿角姉の言葉に千歌は「勝ちたいですか?ラブライブと疑問を重ねます。

この質問は鹿角姉妹には想定外のもの。

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思わず赤いプラグスーツ着た人ばりの「姉さま、この子バカなの?」が飛び出します。

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姉さまもこの質問は「愚の骨頂」と言わんばかりの反応。

「勝ちたくないのなら、何故A-RISEやμ'sはスクールアイドルをやっていたのです?」と質問の意図自体が理解できません。

ここで決定的になるのは「両者のイデオロギーの対立」です。

千歌は「A-RISEやμ'sが何故勝てたのか」を知りたくて、その「理由」を求めて「東京」に来ました。

しかしSaint snow「勝利すること」に「理由」など求めておらず「努力することで自ずと結果はついてくる」ものと信じています(それはSaint snowの楽曲SELF CONTROL!からも明らかですね)。

両者は同じ疑問を共有していないため、その答えを両者の協議から導き出すことはできません

これはAqoursSaint snowの二組が憧れた対象がそれぞれ「μ's」と「A-RISE」であることにも影響しています。

μ'sにとって、常に「畏敬」の対象であった「A-RISE」。

彼女たちもAqoursにとってのSaint snowと同じように「クオリティ」によって「μ's」と対峙する存在であり続けました。

だからこそ、「μ's」に憧れるAqoursと「A-RISE」に憧れるSaint snowには「イデオロギーの違い」が存在するわけです。

しかしながらAqoursSaint snowの2組が知らない物語が、ここにも潜んでいます。

それは「第2回LoveLive」での「東京地区予選決勝」後のこと。

圧倒的なクオリティを持つ楽曲で挑んだA-RISEは、μ'sがその精神の全てを刻み付けた楽曲「Snow halation」の前に敗れ去ります

その理由を知りたいツバサは、穂乃果に率直に質問をぶつけます。

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「何故A-RISEは敗れたのか」「μ'sをμ'sとして動かしている原動力とはなんなのか」

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その場では明確な答えを示せない穂乃果でしたが、自問自答する中でその答えを見つけます。

それこそが「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。

「クオリティ」のみに重点を置くのではなく、「皆に応援してもらい」「皆で一緒に進んでいく」という視線。

A-RISEは確かに素晴らしいクオリティをもったアーティストではありましたが、大衆にとっては「どこか遠い存在」で、身近な存在として捉えづらい部分があります。

反面μ'sは常に大衆側に目線を置くことで、「身近」で「応援しやすい」存在として受け入れられました。

またμ'sが楽曲に取り入れた「メッセージ」もそれを助長し、μ'sはまさしく「ピープルズヒーロー」としての立ち位置を得ていきました。

だからこそ「人気投票」によって勝者が決まる「スクールアイドルの大会」では、μ'sがA-RISEを「下す」わけです

そしてまた、そのキャッチフレーズをツバサも見ることで、穂乃果のメッセージを受け取り・・・

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自らも「スクールアイドル」であるうちには、その「精神を守りたい」と考えるようになります。

それが「劇場版LoveLive!」の物語にも繋がっていくわけです。

「アイドル」ないしは「アーティスト」としてはA-RISEの方が上かもしれない。

しかし「スクールアイドル」という立ち位置ではμ'sこそが理想像。

・・・という背景が前作で描かれた以上、Saint snowの考え方では「頂点に行けない」ことは明らか。Saint snowが今後どのように変化していくのか。それは2期以降に描かれるのでしょうね。

また、このように「我々視聴者が知っている情報」と「作品内のキャラクターが知らない情報」をクロスオーバーさせながら見る事ができるのも、この作品の楽しみ方の一つ。

この仕組みは、12話終盤にもう一度お目見えすることになります。

 

■音ノ木坂で出会うもの。そこで「得たもの」とは?

ここ数年ではお馴染みとなっているらしいUT-Xでの「決勝会場発表」。

なるほどSaint Snowもその発表をみるためにわざわざ東京に来たわけですな。

なんとも可愛らしいやつら。。

「決勝会場」は「AKIBA DOME」。

劇場版でμ'sが叶えたかった願い。

「スクールアイドル」がずっと続き、常に「AKIBA DOME」で決勝が行われる。

その夢が地続きになっていることが分かるシーンです。

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会場と、自分たちが挑む舞台の大きさに圧倒されるAqoursの面々。

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新たに設定された「カセ」である「AKIBA DOME」。

そこに挑むためには越えなければならない「カセ」があります。

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不安そうな仲間たちの表情を見て、いよいよ決断する梨子。

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「皆で行ってみない?音ノ木坂」

ほんの一瞬の決断ですが、梨子にとっては「ずっと言えなかった言葉」。

だからこその「重み」を感じるシーンでもあります。

そんな梨子の「トラウマ」を知っていたからこそ驚く面々。

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多くの「カセ」を乗り越えてきた彼女たちに与えられる一種の「ご褒美イベント」。

興味のないひとには「タダの学校」ですが、「μ'sのフォロワー」であるAqoursにとっては「チャーチ」とも呼べる聖地。

そんな彼女達が苦難の末にたどり着いた場所。

そこではやはり「赦し」が与えられます

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「こんな長かったっけ?この階段」と思うほど長い階段。

ようやくたどり着いた聖地に「救いを求める」ように、千歌は必死に駆け上がります。

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その表情は「登りきった先に答えがある」と「信じたい」という風にも見えます。

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やがてたどり着く校舎。

ラブライブ!」では何度となく登場した校舎が、どことなく「聖なる場所」に見えるのは、我々もAqoursの面々と同じ物語を共有してきたから。

そこでAqoursは一人の少女と出会います。

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名もなき「音ノ木坂の学院生」。

彼女は千歌の問いかけに答え、「μ'sについて」語りだします。

「ここには何も残ってなくて」

「μ'sのひとたち、なにも残していかなかったらしいです」

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「自分たちのものも、優勝の記念品も、記録も。」

彼女の言葉に重なるように映し出される音ノ木坂の校内。

それは、穂乃果やμ'sメンバーが何度も駆け抜けた廊下、アイドル研究部の部室、練習をこなした屋上と、視聴者には縁のある場所ばかり。

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(空には9羽の鳥…。というお約束もありつつ)

「物なんかなくても、心は繋がっているからって」

「それでいいんだよって」

その言葉に合わせるかのように、また一人少女が現れます。

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その姿は穂乃果にそっくり

彼女は母親の静止をふりきって、階段の手すりを滑り降りていきます。

その行為もまた、ラブライブ!第1話での穂乃果と同じ。

見事着地に成功した彼女は、ピースサイン

その表情には屈託がありません。

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このシーンの意図と意味を考えるには、まずμ'sが唯一残した「言葉」の意味を考える必要があります。

ここで語られる「物なんかなくても心は繋がっている」という言葉。

これはμ'sメンバー同士のことではなく、μ'sから見た「スクールアイドル」を示しています。

なぜμ'sがこの結論にたどり着いたのかは、「劇場版Love Live!」を見れば理解できます。

劇中μ'sは「自分たちの名前を残す」のではなく、

「スクールアイドルのアンセムSUNNY DAY SONG」を「スクールアイドル全員で作る」ことで、その楽曲を旗印として後継の「スクールアイドル」への道筋を照らすことを望みました。

それさえあればたとえ「μ'sが解散し」「μ'sの名前を人々が忘れ去ったとしても」その後には「希望」が残るから。

だからこそμ's自身は「μ'sがいた痕跡」をどこにも「残さない」わけです。

 しかしμ'sが残さなかったのは「物」だけで、たった一つ後継者たちに「残したもの」があります

それは前述した通り「希望」です。

μ'sがスクールアイドルと合作した曲(それこそA-RISEも一緒に)「SUNNY DAY SONG」は「自らの内に湧いてくる途方もない自信」を「希望」として「全肯定する」楽曲でした。

だからこそ、この楽曲を聴いた人には「希望」が宿り、周りの人々が「無理」ということも「成功」させることが出来る

「劇場版Love Live!」のファーストシークエンス。

海未にもことりにも止められながら、大きな水たまりを超えようと試みた穂乃果の耳に聞こえた曲はSUNNY DAY SONG

それを聞いた穂乃果は見事ジャンプに成功します。

そんな「ねじれ現象」が起きるのは、SUNNY DAY SONG」そのものが「希望」を象徴しているからです。

今回穂乃果似の少女が登場した理由とは、この「劇場版LoveLive!」のファーストシークエンスを再現するためでしょう。

しかし、今回彼女の耳に「SUNNY DAY SONG」は聞こえませんでした。

それなのに「手すり下り」に成功したのは何故なのでしょうか。

それは名もなき「音乃木坂の学院生」の正体が「μ'sが唯一音ノ木坂に残したもの=希望そのもの」だったからではないでしょうか。

(※それは劇場版Love Liveでの「謎の女性シンガー」にも通ずる存在だと思います。彼女も穂乃果の夢の中に登場し、穂乃果を鼓舞した存在です)

そう考えると穂乃果に似た少女も、現実ではなく、彼女がメッセージを伝えるために見せた幻影のようにも思えます(こう書くとオカルト!?と思われるかもしれませんが、そういうものではなく、映画的な表現です)。

手すり下りに挑み、達成した少女を見たことで「何かに気付いた千歌」

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それは彼女が求め続けたものの「答え」だったのかもしれません

それに気づかせてくれたからこそ千歌は音ノ木坂に「感謝」を告げるわけです。

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同じビジョンを共有したAqours。全員で音ノ木坂に感謝を告げます。

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それを満足気に眺める名もなき「音ノ木坂学院生」。

彼女の伝えたかったメッセージは、確かにAqoursに伝わりました。

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「μ's」を特別視し、「μ's」の母校に痕跡を求めた千歌。

しかしそこで得たのは「形のない気づき」でした。

彼女達の「感謝」は気づきを与えてくれたことだけでなく、自分たちを「スクールアイドルに導いてくれたμ's」への感謝でもあります。

そして、同時にそれは「μ'sからの羽ばたき」も意味することにもなります。

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お辞儀を終えると消えている少女。

それにどことなく納得する千歌。

非常に映画的な表現だと思います。

そしてここで受け取ったメッセージは13話へも引き継がれていきます。

 

■梨子の「トラウマ克服」と今後は?

Aqoursの物語とは別に、見事「音ノ木坂」への凱旋を果たした梨子。

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彼女を苦しめ続けた「音楽」。

その時期と同化することでいつしか「嫌い」になってしまっていた「音ノ木坂」。

しかし「通過儀礼」を乗り越えた彼女は、やはり「音ノ木坂」が「好き」だった思いを取り戻します。

しかし、ここから感じるのは、もはや彼女が「内浦にいる理由」が無くなってしまったということ。

いつか彼女が「音ノ木坂に戻る」という物語が描かれる日が来るのでしょうか。

 

■果南の視点。

帰り道。

結局東京遠征で何を得られたのか。

3年生組が話し合います。

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会話から分かるのは、彼女たちが1年生だった時の話。

1年生の頃の果南は、「学校の廃校阻止」を目標にし、自分を追い込むことで「スクールアイドル活動」をしていたようです。

反面本音では「楽しくしたい」と思っていました(未熟DREAMERの歌詞)。

今は自分が理想とする「スクールアイドル像」をAqoursに見ている果南にとって、Saint snowの姿は「未熟だった自分」を思い出させる苦々しい存在のようです。

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反面、そんな果南の視点が加わったからこそ、AqoursSaint snowに対して、以前のようなコンプレックスを持たなくて済むようになります。

このあたりは9人になったからこその視点の変化でしょう。

 

■「東に沈む夕日」。9人でしか見られない場所で得た「結論」。

同じく電車の中。

一人「音ノ木坂」での出来事を思い出す千歌は、「何か」に導かれるように「海を見に行こう」と提案します。

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彼女が目指すのは国府津の海岸。

ラブライブ!」を見ている人ならだれもが忘れられない場所。

2期11話でμ'sが「解散」を宣言した場所です。

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その際にも発生した異空間がここでも登場します。

本来西へ沈む夕日。

しかしここでは東に夕日が沈むというあり得ない風景が描かれます。

ある種の「異空間」へ迷い込んだ9人。

これは「閉じた世界」「9人しかいない」ことを示す為の表現ともいえます。

しかし前回とは大きく異なる部分があります。

「閉じた世界」の中で「終わる事」を宣言したμ's

反対にAqoursはこの場所で産声を上げるからです。

メンバー全員でみる「あり得ない風景」

そこでは「彼女達しか知らない」物語が描かれます

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・・・千歌が音ノ木坂で気付いた「μ'sの凄いところ」

それは「何もないところを 何もない場所を 思い切って走る」こと。

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ファーストペンギン、という言葉があります。

群れで行動するペンギンの中で、真っ先に外敵の多い海に飛び込み、自らが模範となって獲物を探しにいく、勇気あるペンギンを示す言葉です。

こと「スクールアイドル」においては、「μ's」がそれにあたります

「A-RISE」がはじめから「プロ」を意識したスクールアイドルとすれば、μ'sはその
「アプローチ」には当てはまりません。

なぜなら穂乃果をはじめ、μ'sのメンバー誰もが「プロ」になることを目標としていなかったから。

前述した通り、2期10話でμ'sに敗れたツバサは、穂乃果にその要因を訪ねますが、穂乃果は即答できません。

それは穂乃果も「戦略をもってスクールアイドルをやっている」わけでなく、

ただ「楽しみながら」スクールアイドルをやっていたから。

そしてそんな「自由」なμ'sの魅力に触れた人々がμ'sを「自分たちの分身」として応援したから、

「人気投票」によって勝者が決まる「ラブライブ」ではμ'sはA-RISEに勝利することができたわけです。

千歌は図らずとも、その一端に気付くことが出来ました。

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「μ’sの背中を追いかけるのではなく、自由に走る」

それはまさしくμ'sが後身に託した願いでもあります。

μ'sの「姿」や「人気」に憧れただけだった千歌が、

μ'sが本当に伝えたかった思いや願いに気付くことで、真の意味での「μ'sのフォロワーになる」こと。

それに千歌が気付く、という物語は制作陣からのメッセージにも映ります。

僕たちはひとつの光」の歌詞にある「今が最高!」とはまさしく

「今はその瞬間にしかないのだから、自由に自分の物語を生きろ」というメッセージのはず。

にも関わらずいつまでもμ'sの幻影に縛られ、先に進めない人がかなりの数いる現状を寂しく感じてしまいます。

もちろん思い出を大切にすることは大事ですが、

そこで立ち止まるのは「μ'sの物語を愛し、共有した人間」として正しい行動という風には私には思えません。

「僕たちの奇跡」を叶えた彼女たちは、次は「あなたたち」の奇跡=軌跡を描いてほしいと願っていたはず。

もしかしたら「サンシャイン」という物語は、未だ「μ'sの幻影に縛られる人々」の背中を押す物語なのかもしれません。

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そしてAqoursは「自分たちの軌跡」を走り始めることになります。

OPテーマ、「青空Jumping heart」の歌詞

「見たことない 夢の軌道」「追いかけて」いくように。

 

■モーメント。0を1にしようとする運動性。

千歌たちが作るリング。

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これは説明するまでもなく「モーメントリング」です。

モーメントリング=「Moment Ring」はこちらも説明するまでもなく、μ'sの「ファイナルシングル」のタイトルでもあります。

同曲の歌詞でμ'sが

「思い出だけじゃないからね 新しい夢が産まれてくると 僕たちは知ってるよ」

と言ったように、終わりは始まりの前兆

μ'sの終わり(0)Aqoursの誕生(1)を呼び、

Aqoursもまた自分たちの誕生を(0)とし、新たな目標(1)へと向かっていく。

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0から...

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1へ!

永遠に発生し続ける0→1への運動法則。

しかしそれはポジティブに広がっていく摂理にもなり、それこそがμ'sが望んだ願いでもあります。

「0から1へ進む」

それがAqoursの「テーマ」。

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この日、この海岸の「ありえない風景」の中で、「9人だけが知っている」「誓い」

この「誓い」も13話へ影響を与えていきます。

 

■舞い落ちる羽。「希望」の象徴。

ラストシークエンス。

本来は10Km以上離れているはずの「根府川」の駅に戻ってくるAqours

こんなねじれが発生するのも、「アニメだから」というよりは、彼女達が「異空間」に迷い込んでしまったことを表現するため、のように映ります。

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7話で「チラ見せ」しながら、ついぞAqoursメンバーが立ち寄らなかった「根府川」。

7話感想で書いたように、それはAqoursメンバーがこの場所がμ'sの思い出の地であることを「知らなかった」からでした。

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μ'sにとって「悲しみ」の場所となったここも、Aqoursにとっては「安楽」の地。

そんなギャップも素敵です。

そこで千歌は舞い落ちる羽に気付き、慌てて駆け寄ります。

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やがて羽を受け取る千歌。

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これは「ラブライブ!」2期EDを想起させるシーンです。

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1期OPで穂乃果がラッパを吹くことで屋上から飛び立つ鳥たち。

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これは「希望」を象徴するもの。

ノアの方舟から出たノアが、平和の訪れを告げる笛を吹いた時に、白いハトが飛んできたという神話から、鳩は「平和」や「希望」の象徴になった、なんて話もありますね)

穂乃果が発起人となって放たれた「希望」は

2期EDでは神田明神を抜けて、音乃木坂の屋上に戻ってきます。

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この「希望」を受け取るのはその回に「主役」となったμ'sのメンバー。

2期ではメンバー個人にスポットライトを当てながら、そのトラウマを克服する
という物語が何度も描かれました。

だからこそ主役になったキャラクターがEDでは「希望」を手にして終わる
という表現になっているわけです。

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千歌が羽を受け取ったのは、千歌もまた「希望」を得たから。

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そして同時に羽を受け取った表現は、Aqours自体も「μ'sとの決別=羽ばたきのとき」を迎えたということも示しています。

もはや「希望」を手にした千歌に、追いかけるべき対象はありません

自分の中に芽生えた「希望」を信じて進むのみ。

だからこそラストでμ'sのポスターが剥がされるわけです。

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自らが「希望」となることを誓ったAqours

今度は彼女達自身が「輝き」となって、誰かの「希望」にならなくてはいけません

そんな彼女達の「一旦の結末」を描く第13話。

巷ではなんだか評判が悪いようですが、今回の12話考察を読んでいただければ、13話が何を意味しているのかも自ずとご理解いただけるはずです。

とはいえ、13話を完全に理解するためには「劇場版LoveLive!」を理解する必要があります。

なので、若干イレギュラーではありますが、次回は「劇場版LoveLive!」のディティールおよび「そもそもこの映画ってなんなのか?」を解説し、その後13話の考察へと移っていきたいと思います(今回の解説でも一部書いちゃいましたけど)。

やや変則的ではありますが、何卒ご理解を頂けるとありがたいですm(__)m

といったあたりで12話考察もここまで。

結局12000字だって。アハハ…。長々とありがとうございましたm(__)m

 

 

【発掘】2015年9月当時の「ラブライブ!The School idol the MOVIE!」の感想。

【ご注意】

載せるか迷いましたが、改めて読んでみると当時のパトスが溢れていて、意外と悪くは無かったので、転載してみます。

この感想は、2015年9月公開当時のもの。

現在はこの時から更に10回以上見て、よりディティールを理解しているのですが、主なストーリーラインの理解はそれほど変化していません。

13話感想前に、劇場版の感想は再度まとめる予定ですが、ディティールでは無い私個人の評価を「前置き」として残しておきます。

※劇場版のネタバレを含みますので、予めご注意願います。

↓以下当時の文章となります。


ラブライブ!The School Idol Movie


解説
2013年1~3月にテレビシリーズ第1期、14年4~6月に第2期が放送されたアニメのほか、アイドルグループ「μ's(ミューズ)」によるCDリリース、ライブイベントなど、さまざまなメディアで展開し、大きな人気を集める「ラブライブ!」の劇場版。
廃校の危機にある国立音ノ木坂学院を救うため、2年生の高坂穂乃果をはじめとする9人の女子生徒たちで結成されたスクールアイドルグループ「μ's(ミューズ)」。
その活躍で廃校の危機を救い、スクールアイドルの祭典「ラブライブ!」第2回大会では決勝戦進出も果たした彼女たちは、3年生の卒業をもって「μ's」の活動を終了すると決めていた。しかし、卒業式直後に届いたある知らせをきっかけに、「μ's」は新たなライブをすることに。限られた時間の中で、9人はまた少し成長していく。

スタッフ
監督 京極尚彦
原作 矢立肇
原案 公野櫻子
脚本 花田十輝
キャラクターデザイン 室田雄平

キャスト(声の出演)
新田恵海  高坂穂乃果
南條愛乃  絢瀬絵里
内田彩   南ことり
三森すずこ 園田海未
飯田里穂  星空凛
Pile    西木野真姫
楠田亜衣奈 東條希
久保ユリカ 小泉花陽
徳井青空  矢澤にこ

予告はこちら↓



「感想」


や、まぁ結果からいえば現時点での得点は、大体5兆点くらいですが。
しょっぱなは「まぁ80点くらいだなぁ」なんて思っていましてね。ハハ(血反吐を吐きながらの笑い)
「でも、ラブライブ!は初見ではピンと来ない事多いからね(半笑い」とかTwitterに書いたら、予想通り2回目で150点くらいになり、後は留まることを知らないインフレ。
ホント、映画として優れている作品だと思います。

簡単にあらすじをまとめておきますね。

物語は2期最終回から。
卒業式を終え、3年生を送り出す感動的な段階で、すわ1年生メンバー小泉花陽(はなよ)の携帯に連絡が!
「タ、タイヘンデスッ!」との花陽の掛け声をきっかけに部室へと戻るメンバーたち。

彼女たちを待ち構えていたのは、「第3回ラブライブがアキバドーム(東○ドーム)で開催!?」の噂。
そして、理事長=南ことり母(a.k.a声担当がタ○チの南ちゃんというメタ)からの「NYでの公演への招待」。
なんでも前2回を盛況のもと終えた「ラブライブ」の評判を聞きつけたアメリカ側から、「スクールアイドルを紹介するため」に公演を実施して欲しいとの連絡があったとのこと。
NYへ飛んだ彼女たちは、初めての環境を楽しんだり、逆に見慣れぬ景色に戸惑ったりしながらも徐々に順応。

街中で歌って踊って雨を止ませたり、白米が食べられなくて発狂したり(?)穂乃果が道に迷ったり色々ありましたが・・・。
穂乃果はブロードウェイの真横で出会った謎の女性に導かれて、無事生還!
NYでのライブも無事成功したのです
「また来ようね♪ キャッキャ(´∀`*)ウフフ」などと和みながら帰国し、「μ'sの活動もこれで終わりですなぁ…」などと思っていたところ…。

戻った日本ではNYでのμ'sの公演映像がそこらかしこで流れている、大フィーバー状態
ゾンビと化した友人には「μ'sのライブやってくれよぉ グポォ」と言われたり、
理事長からも「南をアキバドームに連れてって...ゲフンゲフンッ!!
...もとい「人気沸騰に応える意味でのライブ開催」ラブライブを一つの文化として根付かせるためにも続けてほしい」なんて言われちゃいましてね(一部蛇足)。


「そういえば、私たち解散するって自分たちで決めただけでした ドウシヨウ(;´Д`)」という状況に。

ラブライブのために続けるべき?」「でも2期であんだけすったもんだして決めたのに覆せないでしょうよ」などと今更ながら意見は錯綜。
同じくスクールアイドルでありながら、プロデビューするA-RISEのメンバーにも「続けてほしい」なんて言われてしまい悩みは加速。

そんな中リーダーである穂乃果はNYで出会った謎の女性とアキバで再開。
彼女の助言を受け、やはり「3年生卒業と同時にμ'sとしての活動は終わりにする」という方針は曲げないことを決意。
時を同じくして卒業する3年生メンバーを代表して元生徒会長の絵里からも同じ内容のメールが来ましてね。
メンバー間で改めて「μ'sの終了」を決意するのです。


とはいえ、スクールアイドルへの愛着は隠せず。
「もし自分たちがライブを行わなかったせいでスクールアイドル活動の勢いが削がれ、今後のラブライブ開催に支障をきたすとしたら無念」との思いからライブ開催を決意。
しかしながらそれは「μ'sの解散ライブ」ではなく、世界に「スクールアイドルの可能性を示すライブにしたい」との思いから全国の「スクールアイドル」にライブへの参加を呼びかけ。
「まだ」スクールアイドルであるA-RISEにも協力を呼び掛けたところ、リーダー綺羅ツバサからは
「皆で一つの歌を歌う」
ことを条件に参加了承得まして。
「皆で歌うスクールアイドルの歌」を作るのです。

とはいえ開催まで残された時間はわずか。
一筋縄ではいかない、かと思われたライブ実現でしたが多くの賛同者の協力と「待つのではなく会いにいく」積極的な姿勢がメンバーを集めまして

スクールアイドルだけでなく、妹チャンズやメンバーのお母さん、等々脇役まで交えた秋葉原での大ライブ開催がハイライトになります!


その後μ'sメンバー全員が卒業した後の学院へと舞台を移し、3年生となった妹チャンズがμ'sの活動を「アイドル部の新入部員たち」に伝える場面からμ'sの解散ライブへと場面が展開し、大団円で映画は終わりましたよ。

 

①「ストーリーが良かった!!」
ストーリーに関しては、詳しくは別枠(ラブライブ論)で記載していきたいので、手短にまとめますね。
とはいえ、様々な角度から良さを語れるストーリーなので、総括は難しいのですが。。

本映画の優れている所はTVアニメ「ラブライブ」のテーマを継承しつつ、その先を示してみせた部分にほかありません。
TVアニメ1期のテーマソング「僕らは今の中で」の歌詞が示す通り、ラブライブとはニヒリズムに負けず挑戦する」ことの美しさ、「変わらないまま輝く」ことの大事さ、「今を大切にする」ことの尊さを説いた作品でした。

主人公:穂乃果は元々「アイドルになりたい」人ではありませんでした。
「自分自身の大切な学校を守るため」の手段として「スクールアイドル」を選んだに過ぎません(だからこそひるまず挑戦できたともいえますが)。
しかし「スクールアイドル」としての活動の中で、彼女は「自分が最高に楽しいと思う事=歌う事」であることを見つけ出します。

穂乃果の「挑戦」は自分自身だけでなく、周りへも波及していきます。

幼馴染である海未やことりも、本来であれば「アイドル」とは遠い環境にいた少女たちでした。
しかし穂乃果の「思いつき」に巻き込まれる形で始めた「スクールアイドル活動」が彼女たちの秘めていた個性をも引き出すのです(海未であれば決して表に出すことのなかったアイドル性や作詞を通した自己表現。ことりは服飾の才能が引き出されるだけでなく、自分自身を偽ること=ミナリンスキーからも解放されます。)

同じことは1年生組、3年生組にもいえます。
それぞれが穂乃果というトリガーを通して、自分自身を解放、輝かせていくのです。

TVアニメ2期ではさらにそのテーマを掘り下げていきました。
再三穂乃果たちが協議する「変化」「CHANGE」インパクト」という単語。
これらは「μ'sがA-RISEに勝利するために必要な要素」として彼女たちが挙げるものです。
しかしながら、これらの要素はことあるごとに物語内で「否定」されます。

インパクトある楽曲作りを目指して行った合宿では、カンヅメでの楽曲制作に失敗。
リラックスした環境の中で、それぞれの関係性を見つめなおす事で、「μ'sらしい楽曲とはなにか」を確認し「ユメノトビラ」を完成させます。

ハロウィン回では、A-RISEに勝つための「インパクト」を追い求めて迷走。
見た目を変化させたり、自分以外の誰かになってみたりする中で、「自分たちは元々個性的である」ことに気付き、オーソドックスなハロウィン曲で勝負するに至ります。

外面的ないしは建前的な「変化」や「インパクト」に頼ろうとするよりも、「自分自身を見つめることの方が大事」であることをしつこい程に繰り返し見せてくるのです。

そしてハイライトとなる「希回」からの「スノハレ回」。
希の過去にμ'sメンバーが触れることで、μ'sの成り立ち自体をメンバーが共有。
それぞれの内面に生まれた感情を「歌詞」へと変化させることで本来の意味での「ラブソング」=「Snow haration」を生み出します。
そしてこの楽曲が、アーティスティックに作り込まれたA-RISEの「Shocking party」を打ち負かすのです。

A-RISEがμ'sに敗れるに至った要因はもう一つあります。
それは「みんな」の存在。
穂乃果はμ'sのキャッチフレーズを作る際にこう言います。
「みんながいるから、私たちがいる」と。

完成された姿、美学を持つA-RISEは「憧れの対象」であれ、「自分自身の先」「応援する対象」としては見出し辛い存在。
反面μ'sは2期第10話で穂乃果自身が
「一生懸命頑張って、それをみんなが応援してくれて、一緒に成長していける。それが全てなんだよ。」
「皆が同じ気持ちで頑張って、前に進んで、少しずつ夢を叶えていく。それがスクールアイドル。それがμ'sなんだよ!」

と総括したように、「特別な存在」ではなく「みんなの先にある」存在なのです。
「民意の象徴」だからこそ、「人気投票で勝者を決める」ラブライブのシステムにおいては、A-RISEを打ち負かすことができたのです。
そしてμ'sは「スクールアイドルの象徴」へとなっていくわけです。

↓(ここからようやく映画の感想)
さて、その続編たる「劇場版」では、その「民意」とぶつかり合うこととなります。
「民意」とはダイレクトに「人気」へも置き換えられます。
第2回ラブライブ優勝だけでなく、アメリカで「スクールアイドルの象徴」として紹介された結果、μ'sは「圧倒的人気アイドル」としての地位を得ます。
しかしながら、これは彼女たちの本意ではありません(にこを除いて?)。
何故ならば彼女たちは「アイドルとしての成功」を夢見てスクールアイドルを始めたわけではないからです。
また「3年生の卒業をもってμ'sは活動を休止する」旨を決定してしまってもいます。

「アイドルとしての人気」に戸惑うメンバーと、「アイドルとしての活動継続を期待する」民意とがぶつかる中で、リーダーの穂乃果には決断が迫られます。
とはいえ先ほどの発言から分かる通り、穂乃果は「μ'sの正体」をいち早く悟った人物です。
だからこそ、揺れ動きます。
「3年生の卒業をもって解散することは自分たちのエゴなのでは?」「民意によって成り立ってきたμ'sは民意に従うべきではないのか?」と。

時を同じくして、A-RISEのリーダー綺羅ツバサからも「自分たちがプロとして活動を継続すること」と「μ'sにも同じようにプロになって欲しい」との言葉を受け取ります。
「スクールアイドル」という土俵に立ちながら、全く違うコンセプトを掲げて戦った二組。
しかし、いよいよ「プロ」として、お互いの「クオリティ」を競う舞台へと移る。
その分岐点にμ'sは立たされたわけです。

迷いを深める穂乃果。
しかし、その迷いを断ち切ったのは、意外なことに絵里の妹亜里沙でした。
思い悩む穂乃果に、亜里沙が告げた「楽しくないの?」の一言に穂乃果はハッとします。

周りからの期待、要望に振り回されるうちに見失っていた「楽しいから、スクールアイドルを続けてきた」という事実。
それを思い出すと同時に「自分たちが何故スクールアイドルを始めたのか」その原点に立ち返るのです。

きっかけは「廃校から学校を救う」ことでしたが、正直「きっかけはなんでも良かった」のです。
もちろん、「周囲の期待に応える」ために続けてきたことも事実ですし、その結果としてラブライブ優勝」という勲章も得ました。
しかしそれは「過程の中での功績」であり、「目標」ではありませんでした。

μ'sのメンバーたちは、もともと「特別な才能」を認められた(ないしは自覚した)人たちではなく、どこにでもいる「普通の女の子たち」でした。
そんな彼女たちが「スクールアイドル」としての活動を通じ、「自分の可能性を解放」させ「周囲の共感・応援」を受け、更に大きく「開花」していく。「アイドル」として成長する中で、「人間」としても成長していく。
そしてその原動力となるのは「完成度」や「創作性」といった「クオリティ」とは真逆の、「楽しい」「嬉しい」「悲しい」といった「エモーショナル」な感情。
だからこそ彼女たちが「スクールアイドルとしての活動」に対して下す結論は「エモーショナル」であって良い。
「9人が一緒に活動できないのであれば、辞める」その潔さすぎる結論も、彼女たちの物語を追いかけてきた人間であれば、誰もが理解できる結論と言えます。
そしてこの結論によってμ'sは「アイドル」とも「アーティスト」とも違う「スクールアイドル」の価値観を完成させるに至るわけです。

そして、それこそが「ラブライブ」という作品が伝えたい「願い・思い」なのではとも思います。


近年、世間的には「出来ない・やらない」理由をまず探す傾向が強いように感じます。
始める前から「でもどうせ上手くいかないし」と言ってみたり、夢を持つ前に「どうせ自分には出来ないし、才能もない」などとうそぶく人が多い。
「感情よりも理屈」が重んじられる、「ニヒリズムに征服された世界観」が一般化しつつあります。

物語に関しても、もはや「スポ根もの」はギャグのレベル、「青春もの」に関しても一種の「パロディ」としてしか成立しないようになってきています。
しかし、そんな時代に敢えてど直球の「青春ドラマ」として投げつけたからこそ、この「ラブライブ!」は熱烈な支持を集めた(主に若年層から)のではとも思うのです。


何者でも無かった少女たちが「可能性を感じた」というだけの理由で始めたスクールアイドル。
「好きなことを信じた」結果「今の中で輝く」ことを知り、
今度は「夢を叶えるのは 皆の勇気 負けない心で 明日へ駆けていこう」と、こちらへと問いかける。
何故なら「それは僕たちの奇跡」であり、「我々(受け取る側)の奇跡」ではないから。
そしてその問いかけに「私たち(日本中のスクールアイドルたち)」が応えることで「SUNNY DAY SONG」が生まれる。
SUNNY DAY SONG」は「一個のアイドルソング」を超越した「アンセム」となる。
同曲は「困難に挑む人・ニヒリズムに負けない人」を後押しする曲となり(だからこそ映画冒頭・穂乃果の耳にSUNNY DAY SONGが聞こえてくる)また1人、また1人とフォロワーを生んでいく。
そして、その循環がきっと世界をもっと素晴らしいものに変えてくれるはずだ、というのが制作陣の願いなのでは?と勝手に結論しております。


劇中、謎の女性シンガーが歌う「As Time Goes By
映画「カサブランカ」内で歌われたことでヒットした楽曲ですが、元々はブロードウェイミュージカルの大ヒットナンバーでした。
同曲が本作内で使われた理由は「ブロードウェイ楽曲」である、という以前に本作のテーマが同曲の歌詞によって表されているから、と私は考えています。
最後に「As Time Goes By」の英詩と和訳を載せて、本稿の結びとしたいと思います。
どう受け止めるかは、あなた次第。

As Time Goes By (1931)
Herman Hupfeld

<歌詞>
You must remember
this A kiss is just a kiss,
a sigh is just a sigh.
The fundamental things apply
As time goes by.

And when two lovers woo
They still say, "I love you."
On that you can rely
No matter what the future brings
As time goes by.

Moonlight and love songs
Never out of date.
Hearts full of passion Jealousy and hate.
Woman needs man And man must have his mate
That no one can deny.

It's still the same old story
A fight for love and glory
A case of do or die.

The world will always welcome lovers
As time goes by.


<和訳>
これだけは心に留めていて欲しい
キスはキスであり、ため息はため息
恋の基本はどの時代でもあてはまる
いくら時が流れようとも

恋人たちが恋をすると
やはり「愛してる」とささやく
これだけは間違いがない。
この先何があろうとも
いくら時が流れようとも

月の光とラブソング
すたれることなどない
人々はいつでも嫉妬と憎しみで激情に駆られる
女は男を求め
男は女を求める
誰も否定することの出来ない永遠の真理

いつの時代にも存在する物語
栄光と愛への戦い
生きるか死ぬかのせめぎあい

恋する者たちを世界は優しく受け入れる
いくら時が流れようとも

(ここまで)

細かいディテールに関しては、12話感想後、アップするようにいたします。

例えば誰もが謎解きしたがる「謎のシンガー」の正体と意味。

穂乃果に渡されたマイクスタンドってなんなの?

そもそもこのお話って、「何を示してるの?」

などなど。

一応自分なりの回答はあるので(SFではなく、あくまでも映画文法的な解釈で)、それは次回ということで。

最後までありがとうございました。

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第10話「シャイ煮はじめました」&第11話「友情ヨーソロー」

 こんばんは。

あなたの妄想のお供。「LoveLive After talk」でございます。

さて、いよいよ物語も佳境!

リアルタイムでは13話放送(最終回)が終わった…ということで、寂しい限りですね。。

とはいえ、2期があるはず!なので、まずはその発表を待ちましょう♪

 

本題に入る前に感謝とこのblogの姿勢をば。

まず、9話の考察発表以降、様々な方に応援のコメントを頂いております。

どれも暖かいお言葉ばかりで、駄文を書き散らしている自分には存外なお言葉ばかり。

「作品の見方が変わった」とまで言って頂けて嬉しい限りでございます。

とはいえ、このblogはあくまでも「妄想」の発展系

関係者様にコメントを取ったわけでもなく、脚本を読んだわけでもない私個人の「戯言」です。

ですので、私の見方・考えが「正解」というわけではございません。

大概が「深読み」の類でございますので、まずはご了承のうえご一読頂ければ幸いです<(_ _)>

それでも世間的には「舐められている」(笑)「ラブライブ!」が「なるほどこんな見方もあるんだね」程度に思って頂き、「見直してみようかな」と思って頂ければ、このblogを書いた甲斐があったかも、というところ。

今後ともへたっぴ考察&文章で恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

※注意

本稿はラブライブ!のネタバレだけでなく、「人魚姫」「アナと雪の女王」のネタバレも含みます。

どちらの「ネタバレも避けたい!」という方は、引き返して頂ければ幸いですm(__)m

 

それでは、通常通り項目ごとに振り返っていきましょう。

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■はじめに

項目ごとに始めると言ったのにw

なぜ「はじめに」などという項目を作ったのかと言いますと、今回10話と11話が難解だからです(特に11話)。

ふわっと見ていると、「起きていることは分かっても、なぜそうなったのか」が分からず、それを「違和感」として抱えていくことになります。

その「違和感」がやがて「この回はよくわからなかった」という結論になってしまい、「つまらなかったかも?」となってしまうのが怖いからでもあります。

ですので、まずは10話11話を「見直す場合」に「こうして見ると分かりよいかも?」という見方をお伝えしたいなと思います(上から目線ですみません)。

①「ディティール」を追わず「大枠」を見る。

ラブライブ!」という作品はキャラクター同士のわちゃわちゃとしたやり取り、会話を楽しむ萌えアニメの側面を持っています。

実際「そこが好き」という方も多いでしょうし、作り手もそれを意識して作ってはいます。

半面「ラブライブ!」という作品はシリーズ構成・脚本=花田十輝氏の「強い作家性」に支持された作品でもあります。

花田氏はアニメ化に際して、キャラクター原案の公野櫻子先生の「初期設定」を「大幅に無視」(笑)して作劇しています。

つまり、花田氏の中では「テーマ」が第一にあり、その「テーマ」を示すために「ストーリー」があり、「ストーリー」のために「キャラクター」がある、というバランス感覚のもと作劇されてるわけです。

ですので、もちろんキャラクター同士のやりとりを楽しむのはとても楽しいのですが、もし「ストーリー」を理解しようと思った場合には、一度「キャラクター」同士のやりとりから目線を外し「なぜこういうストーリーになっているのか」という「大枠」を見つめてみると、より理解が深まるかもしれません。

②10話と11話をセットで見る。

8話9話と同じく、この2話は「ニコイチ」として作られています。

2つはセットで見ることで、より理解が深まります。

また「2話はセット」と思いながら見ることで、見え方そのものが変わるかもしれません。

 それでは、参りましょう。

 

■「海の家」を建て直すという物語。そこに込められた意味とは。

10話は合宿回。

ということで、ダイヤさんが極秘に手に入れた「μ'sの練習メニュー」に従って合宿をこなそう!という話になって行きます。

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ってこれ、海未さんが作ったものの、メンバー誰一人まともに「こなしていない」練習メニューですやん。

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(・・・?海未は私ですが?のシーン よく見ると練習メニューパワーアップしている。。 ダイヤがゲットしたのは、劇場版の練習メニューかな?)

これをまともにこなせば、そりゃ「強靭な肉体」が手に入るだろうけども。

「地獄の合宿」を避けるため、曜は「海の家を手伝う仕事」を思い出します。

「海の家を手伝わないといけないので、この合宿メニューを全てこなすのは不可能!」という逃げ道。

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納得しないダイヤでしたが、鞠莉の助け舟もあって、「海の家」の仕事が終了した後に「練習をする」という結論に落ち着きました。

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さて、いざ手伝う「海の家」を見ると見た目はボロボロ。

お客も一人もいません。

隣に目を移すと…

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きらびやかな「都会式」の「海の家」があり、こちらは大繁盛。

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今回はこの「都会式」の「海の家」にいかに戦いを挑むか、という物語になります。

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(どうやって登った…)

「戦うべき相手をみつけた」ダイヤは早速戦いに備えます。

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次々と的確な指示を飛ばし、リーダーシップを発揮するダイヤ。

こんなシーンからも「ダイヤがAqours」に加わった意味が伝わってきます。

※余談ですけど、ダイヤ様、ここのところ「島本和彦先生」キャラに近づいていませんか。このシーンとか「東方不敗先生」のよう。。

果たして「何もない」「廃れた海の家」をどのように「変化」させることで、「勝利」を手にするのでしょうか。

また、この「テーマ設定」を理解すると一見「ただのギャグ回」に見える10話が、

「東京に戦いを挑むAqours「これまで」と「これから」を表現した「メタファー」という風に見えてきます。

 

■「料理」が示すもの

工夫の一つとして取り組む「オリジナルメニュー作り」。

料理部隊に抜擢されたのは「曜・鞠莉・善子」の3名でした。

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「シャイ煮」自体には元ネタがあるとはいえ…


第10話「シャイ煮始めました」のネタ元動画~

今回選ばれた3人は「無作為」ではなく、きちんと意味があるように思えます

 

曜が作ったのは「ヨキそば」

こちらは海の家安定アイテムの「オムソバ(焼きそば)」の「曜版」だから、「ヨキそば」。

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ケチャップの絵と旗以外はいたって「スタンダード」。

いわば「失敗のない」「バランスのとれた」実に「曜らしい」1品となっています。

 反面、「曜の個性」が際立っている品かと問われれば、そこまで個性的な品ではありません

鞠莉が作ったのは「シャイ煮」

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「豪華食材」を「そのままごった煮にする」という「大胆」かつ「ゴージャス」な料理は、これまた「鞠莉という人物」をよく表現できています。

 

善子の「堕天使の涙も同じ。

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「真っ黒な見た目」で、中の具は「タバスコのみ」という「刺激的」かつ「極端」な品は、グループ内でも最も「個性的」でいわば「劇薬」としての役割をもつ、善子そのものです。

「料理シーン」といえば、一般的なアニメでは主に「ギャグパート」を担う役割が多いです。

しかし「サンシャイン」ではそんな料理シーンも、抜け目なくストーリー構成に組み込んできます

すなわち、この料理を通して「各キャラクター」そのものを表現している描写に見えます。

新メニュー3品を以て、戦いに挑むAqours

しかし結果として「ヨキそば」は売れたものの、「シャイ煮」と「堕天使の涙」は大量に売れ残ってしまいました。

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(この謝罪シーン。とってもデジャビュー)

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・・・そんなわけで大量に余った在庫は、メンバー全員で食べることに。

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ここでのわちゃわちゃシーンは、もちろん視聴者に楽しんでもらうための「サービスシーン」でもあるのですが、それとは別の意味も含んでいます

先ほども触れた通り、それぞれの料理はそれぞれの「人物」そのものを表現した一品です。

さらに売れ残った2品は「個性的過ぎる」ために売れ残ってしまったものです。

その「個性」「全員で分け合って食べる」ということは、「個性」そのものを「咀嚼=理解する」ことでもあります。

いわばこのシーンは「合宿を通して、Aqoursの関係が深まっていく様子」をメンバー同士のやり取りだけでなく「動きを通しても表現しているシーン」というように理解できます。

・・・とはいえメンバー間の「理解」が深まっただけでは、「売れるようになる」わけではなく。

2日目も「シャイ煮」「堕天使の涙」は惨敗という結果に。

(互いを「理解する」…だけでは「勝利できない」。これは7話のやり直しですね)

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ここで力を発揮するのが曜。

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父親直伝の「海軍カレー」に「シャイ煮」と「堕天使の涙」を加えます。

すると…

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「なんでもカレーに入れれば、おいしくなる」という暴論金言もあるように、見事な「調和」を生み出しました。

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「強烈で扱いづらい個性」「上手く調和」させることで「魅力」へと変化する。

「カレー」を通してAqours」そのものを表現している描写です。

そして、その「調和」をもたらせたのは「曜」

このシーンから伝わるもう一つの意味。

それは、「自分たちは普通」と言いながら、なかなかに「個性的」Aqoursを「調和」させる役割を「曜が担っている」ということ。

「チーム」を成立させるために非常に重要となる「かじ取り役」。

その役割に曜がいることを示す表現となっています。

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「チーム」においては大事な役割を担う曜。

しかし彼女自身はその立ち位置を「どのように捉えているのか」

それが11話へのブリッジとなります。

 

■梨子の「ピアノ」。梨子と千歌それぞれの「選択」。

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Aqours」での活動に充足感を感じる梨子。

そんな彼女に「ピアノコンクールからの参加申し込み」期限が迫ります。

しかしAqoursでの活動を優先したいと考える彼女は、メールを「消去」し、「ピアノへの道」を自ら断ちます

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一方千歌は、自宅での梨子の母と姉のやりとりから、「梨子がピアノコンクールの登録を済ませていない」ことを知ります。

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理由を探る千歌。

すると「ピアノコンクール」と「ラブライブ!地方予選」の日程が重なっていることが分かります。

梨子を一人夜中に起こし、真意を訪ねる千歌。

しかし梨子は澄んだ表情で「今はAqoursでの活動が大事」と告げます。

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その晴れやかな表情に更なる追求ができない千歌。

しかし、どこか腑には落ちません。

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翌日梨子宅で予選発表曲の構想を練る、梨子・果南・千歌。

新曲のテーマは「大切なもの」。

そのテーマを耳にした梨子は、ふと自分の机に置かれた五線譜に視線を移します。

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五線譜の正体は、梨子が「コンクール」で弾けなかった楽曲「海に還るもの」

Aqoursの作曲を担当するようになった今でも、梨子はこの曲を「弾けず」にいます。

7話で梨子が「音乃木坂に行けなかった」理由

それは梨子がピアノコンクールでの「失敗」を克服できていないから。

その失敗の要因となった「海に還るもの」を弾けるようになり、「ピアノコンクール」そのものを克服できない限り、梨子は「次のステップ」に進めません。

それはこの一連の事柄そのものが、梨子にとっての通過儀礼となっているからです。

 島田裕巳先生の名著「映画は父を殺すためにあるー通過儀礼という見方」では、

”名作と呼ばれる映画のほとんどで、主人公は「父(あるいはそれに準ずるもの)を殺し、成長を果たす」というシーンがある。即ちそれは成長するための「通過儀礼」である(要約)”

と書かれています。

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

 

 この「父」というのは便宜上の表現で、実際には「父親」でなくてもかまいません

自分の「道筋」ひいては「可能性」を阻害する存在(映画骨法でいう「カセ=枷」)を示し、これを「越えるか」「越えられないか」で「映画作品」としての物語に変化が出てくるわけです。

ただし「ラブライブ!」が「娯楽作品」として作劇されている以上、こういった「カセ」は「越えなくてはならないもの」となってきます。

そのため、梨子もまた自らの「カセ」である「海に還るもの」そして「ピアノコンクール」ひいては「音乃木坂」「クリア」していかねばならないわけですね。

※この「カセ」を「超えられなかった人」の物語もまた、「映画」にはなるのですが、ここではその話は止めておきましょう。

 

・・・その夜改めて梨子を起こした千歌が共に向かったのは浦の星。

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千歌は梨子にとっての「カセ」を取り除くため、

「海に還るもの」を聞かせてほしいとお願いします。

思えば傷付き「ピアノを触る事」すらできなくなっていた梨子に、再び「ピアノを弾かせた」のも千歌がきっかけでしたね。

一度はためらいながらも、たった一人の観客=千歌のため「海に還るもの」を弾き始める梨子。

その美しい旋律が内浦の海に響き渡ります。

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ずっと弾く事の出来なかった曲を「弾けた」梨子。となれば、次は「ピアノコンクール」を「クリア」する必要があります。

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千歌が梨子に告げたのは「ピアノコンクールに出てほしい」ということ。

その理由を「大切なもの=ピアノ」に「自分なりの決着をつけて欲しいから」と告げる千歌。

この、「選択肢を狭めず」梨子に「選択をゆだねる」、という描写もまた「ことり留学プロット」のやり直しのように見えます。

「ことり留学プロット」の問題の一つが「穂乃果によってことりの選択肢が捨てられてしまった(ように見える)こと」でした。

今回も結果として「千歌が梨子の決定を覆し」てはいるのですが、千歌は梨子の選択肢を「捨てさせる」のではなく「増やす」ことで、梨子に再度「選択をゆだねる」というプロットに変化させました。

結果としてプロットそのものの「テーマ性」は変化させずに、「ノイズ」を消すことに成功したわけです。

また、今回の選択「可能性を自分から取捨選択しない」というものが、11話にも通底する「ストーリー」となっていきます。

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■梨子不在が「表層化」するもの。

梨子が「ピアノコンクール」へ旅立つ、ということは物語開始以降はじめて「梨子が不在になる」ということ。

梨子の転入によって大きくうねり、変化してきた「内浦勢」の関係性。

しかし梨子が「いる時」にはその変化をはっきりとは目視できませんでした。

梨子の不在はその変化を「表層化」することにもつながります。

 

・・・梨子不在で「ラブライブ地区予選」に挑むこととなった「Aqours」。

プール掃除のあとに練習を試みるも、8人編成でのフォーメーションに変化させなければならないことに気が付きます。

今回は梨子と千歌がダブルセンターとして配置につく予定だった新曲。

しかし、梨子が不在のため「誰かが梨子のポジション」に入る必要が出てきました。

それに抜擢されたのは、でした。

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千歌の幼馴染で「息が合う」というだけでなく、なんでも「ソツなくこなす」と思われている曜。

また身体のサイズも千歌とほぼ同じ。

この抜擢は自然な流れかもしれません。

早速新編成での練習をスタートする二人。

しかし梨子とのコンビネーションしか練習してこなかった千歌は、曜との息がなかなか「合いません」。

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その責任は曜だけにあるわけではなく、千歌もそれを理解していますが、曜は「私が合わせられないから」と苦笑い。

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鞠莉はその様子を意味ありげな目線で見つめます。

放課後、千歌家近くのコンビニで練習を続ける千歌と曜。

曜は「梨子のリズム」で踊る事を提案し、結果として初めて息の合ったダンスをすることに成功しました。

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さすが「器用」な曜。

見事な「調和」を成功させます。

反面「梨子の代わり」を務める中で、自分の存在意義に悩み始める曜

結果として心のうちにもとからあった「不満」が、「梨子の不在」をきっかけに増殖していきます

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■「鞠莉との会話」「曜の妄想」それが持つ意味。

その「不満」に気付いていたのは鞠莉。

ちょっとした「すれ違い」から果南とダイヤとの「2年間」を失ってしまった鞠莉は、その「すれ違い」に敏感です。

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※さて、ここからがこの物語を難しくしているポイントです。

鞠莉が曜に告げる「曜は梨子に嫉妬ファイヤーを燃やしている」という情報。

そして曜もそれに同調する形で、「本音」を話し始めるわけですが、そこで曜が語る内容はけっして千歌だけに対して持っている「不満」ではありません

ではここで物語を整理するために曜が感じている「不満」を箇条書きで列記してみましょう。

①千歌と二人で始めた「スクールアイドル」だったが、梨子や他メンバーの加入によって、スクールアイドル内での「自分の存在意義」が分からなくなっている。

②千歌と二人で出来ることをようやく見つけたにも関わらず、千歌にとって「自分は必要ないのでは?」と思い悩んでいる。

③「要領がよい」と言われ、それに甘んじている自分自身に不満を感じている。

という3点です。

この3点は全て曜が鞠莉に対して語った「本音」の中に含まれている情報です。

すなわち台本上では「この3つが曜にとってのカセである」ということを示しているわけです。

ここから、この「3つのカセ」をクリアすることが「第11話のテーマ」であることが分かるのです。

しかし、視聴者が混乱してしまうのはこの後に鞠莉のセリフ、そして曜の妄想が挟まれるから。

鞠莉は「曜はチカッチが大好きなのだから、本音でぶつかるべき」と助言します。

そして曜はその言葉に引きずられるように「千歌に対して本音をぶつける妄想」をします。

この描写だけみると「曜は千歌に対してのみ不満を感じている」という風に見えてしまい、テーマも矮小化されて見えてしまいます

しかし、この「妄想シーン」は、「千歌に本音を話すべき」という言葉に引きずられた曜が「話すべき本音」を見つけようとして「混乱している」ということを示すためだけに用意されており、いわばあの「妄想シーン」自体にはそれ以上の「意味はない」のです

要するに徹頭徹尾「曜の一人相撲」であることを、一連のシーンで描こうとしているわけですが…。

結果として多くの視聴者が狙いを呑み込めず、「?」を浮かべるシーンになってしまいました。。

ちょっと長くなりましたが、要約するならば「曜の悩みや不満は全て曜の一人相撲である」という事を念頭に置くことができれば、この後の展開などがすんなり入ってくると思います。

 

■「そのままで変われば良い」という「ラブライブ!」に通底するメッセージ。

悩みそのものが「曜の一人相撲」である以上、その悩みを「千歌にぶつける」のは無意味です

なぜなら千歌にはその悩みが「共有されていない」から。

(それは妄想シーンでの千歌の反応からも分かりますね)

となると、彼女を迷宮から救い出すのは、彼女自身の「気づき」となります。

とはいえ、現在迷宮にいる曜は、他人から「気づき」を与えてもらわなければなりません

その「気づき」を与えるのは、図らずとも迷いの一端である梨子となります。

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梨子が告げる「曜ちゃんは曜ちゃんらしくやってほしい」という言葉に思わず反論してしまう曜。

その反応を受けた梨子が語る「千歌の言葉」によって、曜は「一人相撲」から脱する「気づき」を得ます。

梨子から聞いた「千歌による曜の話」(分かりづらいw)。

それは「千歌と同じことをやりたい」と思い続けてきた曜と同じく、千歌もまた「曜と同じことをやりたい」と願っていたという事実でした。

しかし千歌は「普通星人」である自分はどう頑張っても「曜と同じ位置にはたどり着けない」ことを幼少時に実感しており(おそらく幼少時には共に水泳をやっていたはずです)、曜の誘いを容易には受けられずにいました

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反面、曜にはそんな千歌の気持ちは伝わっておらず誘う度に断られ寂しい思いをしていた。彼女にとっては「千歌と同じことをする」ということが一番で、その【成果」など関係が無かったからです。

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この二人もまた「花丸とルビィ」「果南と鞠莉」のように「お互いを思うあまりにすれ違ってしまっていた二人」だったことが明らかになります。

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しかし、だからこそ「スクールアイドル」だけは「一緒にやりとげたい」と千歌は考えていました。

それは「普通星人」の自分でも「キラキラ」できるもの千歌自身がようやく見つけたから。

「普通星人」の自分が頑張って輝けるものならば、千歌にとってのスーパーマンである曜なら余裕で一緒に出来ると千歌は考えたからです。

しかし、ただ「千歌がやりたい」といったから「スクールアイドル」を始めた曜にとっては、「スクールアイドルの中」に居場所を見つけるのは「容易ではない」難しさでした

それは曜自身は自分を「要領が良いだけ」の「普通の人」だと考えていたから。

この「曜の自分に対する評価」と「千歌からの曜に対する評価」のギャップも、ふたりの関係を複雑にさせた要因の一つでした。

さて、千歌の気持ちを知ることで、

カセ②千歌と二人で出来ることをようやく見つけたにも関わらず、千歌にとって「自分は必要ないのでは?」と思い悩んでいる。

は解決に向かいます。

そのタイミングで外から千歌の呼び声が。

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千歌の事を考えていたからの空耳かと思いますが、

なんと実際に千歌は来ていました。

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驚く曜に千歌が語りかけます。

「やっぱり曜ちゃん、自分のステップで練習した方が良い」

「合わせるんじゃなくて、1から作り直した方が良い」

「曜ちゃんと私の二人で!」

この千歌の言葉は「曜の全てを受け入れる」もの。

「誰かの代わりに曜がいる」のではなく「Aqoursには曜そのものが必要」「千歌もまたそのままの曜を欲している」ということ。

そして「曜は誰かに合わせて変化する必要などない」ということを千歌は言っているわけです。

この言葉によって、曜のカセ①~③が全て「一人相撲」だったことに曜は気づきます。

そして千歌もまた、そんな曜の不満を自然と感じていたわけです。

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そんな周囲に気づかず、「一人相撲」していた事に気付いたからこそ

曜は自分自身を

「バカ曜だ…」

と卑下するわけですね。

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かくして解決した「曜の問題」。

「千歌によって曜がほだされた」と思って見てしまうと、少し納得のいかない結末にみえるのですが、「全ては曜の一人相撲だった」と視点を変えると、物語が呑み込みやすくなるのでは?と思います。

というわけで曜が「自分自身と向き合う」ことで「新しい自分」へと生まれ変わった回となりました。

さて、この「自分のまま(そのままで)変わればいい」というのは、これもまたラブライブ!」シリーズに通底してあるテーマです。

それがとみに描かれたのはラブライブ!2期」で、毎回その話を「繰り返した」という印象すらあります。

例えば2話「優勝めざして」ではA-RISEに勝つための楽曲を作るため合宿に挑みますが、その動機では一向に曲が完成しません。結果的に「自分たち」を見つめなおしたμ'sのメンバーが「今の自分たち」を認めたうえで「ユメノトビラ」を作曲するのがこの回です。

あるいは5話「新しいわたし」では自分が「アイドルにふさわしくない」と思っていた凛が「自分自身を見つめなおし」それを周囲に承認してもらうことで「自分自身を愛せるようになる」という物語。

6話「ハッピーハロウィン」はA-RISEに勝つためのインパクトを求め「試行錯誤」を繰り返すμ'sが「見た目を次々」に変えたりしながらも、結果的には「自分たちは元々個性的である」ことに気付く話。

・・・とことさら全て「同じテーマ」のお話なのです。

そういう意味ではサンシャイン5話「ヨハネ堕天」と同じテーマを持っているわけでもあり、やはり花田さんにとってはこの「テーマ」がライフワークの一つなのだな…とも理解できますね。

 

■人魚姫の話

さてここからはちょっとした余談ですが、少し長いかもw

今回の物語はひとつの寓話を連想させる物語でした。

表題の通りアンデルセン原作の寓話「人魚姫」です。

この寓話を想像させる仕組みは第5話「ヨハネ堕天」にて曜自身が「人魚姫」に触れたことから来ていましたね。

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 人魚姫はディズニー映画「リトル・マーメイド」などにもなっている通り、日本人はもとい世界中でポピュラーな物語になっています。

とはいえ、原作はなんともアンデルセンらしい「暗い話」なので、ディズニー版では書き換えられていたりするわけですが。。

今回の10話11話では、この「人魚姫(主に原作版)」の寓話性を「否定する」物語になっていたのも印象的でした。

原作の「人魚姫」では

「王子を愛してしまった人魚姫が、人間になるために足を欲する。

→魔女によって秘薬を授けられる。

→その薬は飲むことで人間の足を手に入れることが出来るが、代わりに人魚本来の美しい声を失う

→人間になりたかった人魚は薬をのみ、足を手に入れるが、その代わりに声を失う(本来は舌を切られる)。また歩くたびに足には激痛が走るようになる

→人間になった場合には、王子からの愛を受けられない場合には海の泡になってしまうという条件もある。

→声を失った人魚姫は王子に対してアプローチが出来ず、結果王子は別の女性を人魚姫と思い込み、求婚してしまう。

→王子からの愛を受けられなかった人魚姫だが、ナイフで王子を刺し、その血を浴びる事で元の人魚に戻れることを魔女から告げられる。

→しかし人魚姫は王子を殺すことが出来ず、自ら海に入り、泡となって消えてしまう」

という画に書いたような「バッドエンド」でした。

そして今回10話11話で描かれた梨子、曜の物語も、このお話になぞらえつつ、その結末を「否定」する物語でした。

なぜなら「人魚姫」「何かを掴むことで 何かを諦める」物語だからです。

 

曜の場合には、王子(=千歌)が人魚姫(=曜)に、「君は君の姿のままで良い」と告げ、人魚の姿のままの人魚姫を「受け入れる」物語でした。

それは「泡となって消えた」原作も、「人間になることで結ばれた」ディズニー版とも別の結末です。

しかしこの「ありのまま」を周囲が受け入れる、という結末は近年ヒットしたアナと雪の女王の結末とも同じです。

あちらでは元来「氷を作り出せる」異端として生まれたエルザが、異端故に引きこもっていた自分自身の「ありのまま」を愛することから物語が動き出します。

最終的には彼女の能力の暴走が悲劇を巻き起こそうとするところを、妹アナの愛情によって止められ、エルザは自身の能力を制御できるようになります。

加えてエルザを「異端」としてではなく「個性」として国全体が受け入れることで、ハッピーエンドを迎えます。

図らずともこの「アナと雪の女王」の原作も、アンデルセンの「雪の女王」である、というのが面白いところですね(こちらも原作では全く違う物語です)。

米国では、このストーリーを「LGBT」の象徴として捉える流れがありましたが、「ラブライブ!」にも、もしかしたら似たテーマ性はあるのかもしれません。

 

■「海に還るもの」→「想いよひとつになれ」への変化。

梨子の物語もこの「人魚姫」の寓話性を否定する物語。

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「海に還るもの」を完成させるため、「東京での暮らし」を捨てた梨子。

しかしやってきた静岡でも「海に還るもの」は一向に弾けるようにならず、いつしか「ピアノへの渇望」も失われていきました。

「人魚姫」ではこのまま「音楽」への愛情を失った「人魚姫=梨子」が「泡となって消える=音楽を止める」という結末になりますが、「ラブライブ!」ではそれを否定します

「ピアノへの渇望」を失いかけていた梨子は、「千歌たち」と出会い、「スクールアイドル」と出会うことで「ピアノへの渇望」を取り戻し、ついに「海に還るもの」を「完成」させ「弾ける」ようにもなるのです

それは「音楽への愛情」を取り戻すことにもなるのです。

 

ところでこの「海に還るもの」というタイトル。

「泡となって海に還る」「人魚姫のバッドエンド」を想像させるタイトルです。

ラブライブ地区予選に臨むAqoursのために、この曲を「提供する」ことにした梨子。

しかしこの曲につけられた歌詞は、

「何かを掴むことで 何かをあきらめない」

という、「人魚姫のバッドエンド」を否定するもの。

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それはこの曲のタイトルが「海に還るもの」から「想いよひとつになれ」に変化したことからも明らか。

曲の持つ意味が変化したため、梨子は「元のタイトルを捨てた」という風に見えます。

(梨子がピアノコンクールでこの楽曲を弾く際、なんというタイトルで紹介されているのか、具体的な描写はありません。しかし演奏を聴き終えた梨子ママが涙を流すことで、恐らくタイトル自体が変化しているのではないか?と想像ができます)

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「自分を苦しめ続けた曲」Aqoursのための曲」に昇華させた梨子。

そしてその曲の歌詞に

「どこにいても 同じ明日を 信じてる」

と付け加えた千歌。

かくしてAqoursの絆はより深まり、いよいよラストスパートへと向かっていきます

・・・というわけで、なんとも難解かつテーマが多重な10話11話でした。

これを書いている段階で13話が終わっちゃっているわけですがw

その話はまた次回ということで。

今回も長々と(11000字…)ありがとうございました♪

 

 このシングルに「想いよひとつになれ」が入るはず!?