Love Live!Aftertalk!

妄想をただ書き連ねる覚書。更新情報等はTwitterにてお知らせしております。

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第12話「はばたきのとき」

おはヨーソロー!(現在午前1時)

もはや土曜日はサンシャインの日だったので、

「サンシャインロス」略して「サロス」に蝕まれている皆様、こんにちは。

「・・・うちもや...。」(関西っぽいイントネーションで脳内変換してください)

 

2期があるとしても恐らく1stLIVE後でしょうからね。。

早くとも来年夏。。

・・・遠いなぁ。。

そんな「サロス」を吹き飛ばすには、他のアニメなど一切見ず「サンシャインを10周くらいする」のが一番!(暴言)

とはいえ8週目くらいで飽きてくる懸念があるので、その際に当blogをキメることで、ちょっとアッパーなテンションで作品を見られること請け合い!

という「ダメ、絶対」系blogがこちらとなっております(ギリギリアウトな文章)。

前回が難産中の難産だったのに比べれば、今回は余裕。

・・・のはず・・・。

このあとには難物13話が待ち構えてますしね(ガクガク)。

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今回も項目毎に参りますね。

 ※注:私の考察はあくまでも「物語の構造を読み解く」類のものなので、読んでカタルシスが得られるタイプの文章ではありません。予めご了承願います。。

 

通過儀礼としての「ピアノコンクール」と「予選突破」、そして新たな通過儀礼としての「音乃木坂」「東京」

前回考察でお話した「通過儀礼」という概念。

7話で梨子が「音ノ木坂に行けなかった」理由。

それは梨子がピアノコンクールでの「失敗」を克服できていないから。

その失敗の要因となった「海に還るもの」を弾けるようになり「ピアノコンクール」そのものを克服できない限り、梨子は「次のステップ」に進めません。

それはこの一連の事柄そのものが、梨子にとっての通過儀礼となっているからです。

島田裕巳先生の名著「映画は父を殺すためにあるー通過儀礼という見方」では、

”名作と呼ばれる映画のほとんどで、主人公は「父(あるいはそれに準ずるもの)を殺し、成長を果たす」というシーンがある。即ちそれは成長するための「通過儀礼」である(要約)”

と書かれています。

 この「父」というのは便宜上の表現で、実際には「父親」でなくてもかまいません。

自分の「道筋」ひいては「可能性」を阻害する存在(映画骨法でいう「カセ=枷」)を示し、これを「越えるか」「越えられないか」で「映画作品」としての物語に変化が出てくるわけです。

ただし「ラブライブ!」が「娯楽作品」として作劇されている以上、こういった「カセ」は「越えなくてはならないもの」となってきます。

そのため、梨子もまた自らの「カセ」である「海に還るもの」そして「ピアノコンクール」ひいては「音乃木坂」を「クリア」していかねばならないわけですね。

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第10話「シャイ煮はじめました」&第11話「友情ヨーソロー」 - Love Live!Aftertalk

 これだけでは少しわかり辛いので、今回はRPGに例えてみましょう。

RPG」はロールプレイングゲームの略称。

RPGはマップを移動しながら敵を倒し、経験値をため、レベルアップしていくことが目的の一つ。

しかし物語を進めるには、レベルを上げるだけではダメで、その途中途中に課せられる課題をクリアしていく必要があります。

その課題はゲームによって様々あるわけですが、なんにせよそれをクリアしない限りは「次に進めない」ように出来ているのが「RPG」です。

ではこれを梨子に応用してみましょう。

梨子は①「自分自身へのプレッシャー」から②「音楽(ピアノ)を楽しめなくなり」結果として

③「ピアノコンクールで1音も弾けずに敗退」というトラウマを抱えました。

梨子の物語をRPGとすれば、梨子が「次の物語」に進むためには、これらの「課題」を一つひとつクリアしていく必要があるわけです。

①を「プレッシャーを与えた要因=音乃木坂」と設定すれば、

①「音ノ木坂」②「音楽(ピアノ)」③「ピアノコンクール」の3つが「梨子にとっての課題=カセ」であることが分かります。

さてこれまでの物語を振り返りつつ当てはめてみると…

まず②に関しては、千歌と共にスクールアイドルを始め、そこで「作曲」をすることで克服することに成功しました。

②を克服することで③「ピアノコンクール」の攻略が可能に。

 ③をクリアする面でカセとなったのは「ラブライブ地区予選」でしたが、これも千歌を筆頭とする仲間の助けを得てクリア。

③を克服した梨子は、「彼女にとっての最後の難関」①「音ノ木坂」に挑むことが可能となりました。

そしてその挑戦が、今回のストーリーで語られる内容となっているわけです。

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ここで面白いのは、①「音ノ木坂」に行く、という目標が「梨子の物語」内での重要なイベントとして存在するだけでなく、Aqoursメンバー」にとっても「重要なイベント」として存在している点。

梨子はあくまでも「元音ノ木坂」の生徒として、「自分を苦しめていた(と思い込んでしまった)」「音ノ木坂」に決着をつけに行く、という文脈がありますが、

Aqoursにとっての「音ノ木坂」は「μ's」の母校です。

「μ's」に憧れ、「μ's」を追いかけて「スクールアイドル」を始めた千歌とAqoursにとっては、「音ノ木坂」という場所は梨子の文脈とは「違う意味」を持つ存在でもあるわけです。

そしてひとつの作品として考えた場合。

ラブライブ!サンシャイン」が「ラブライブ!」の後継作である以上、必ず「クリアせねばならないポイント」。それが「μ's」でもあります。

Aqoursが「μ's」から「何を引き継ぐのか?」

それが12話のメインテーマにもなっているわけです。

 

Aqoursが「グループ」である以上、メンバーの一人である梨子が②、③をクリアしない限りは、「Aqours」も①「音ノ木坂」にたどり着くことが出来ません(これは第7話で実際にシーンとして登場しますね)。

結果として「梨子個人の物語」と思われていたものが、「Aqours全体の物語」として収束していく作りになっているわけですね。

 

さて、「音ノ木坂」をクリアするためには、必ず行かねばならない場所もあります。

それは6人時代のAqoursが屈辱にまみれた場所=「東京」です。

「東京での敗戦」はAqours大きな傷を与えました。

しかし、その反面Aqours大きく成長するきっかけを与えてもくれました。

この敗戦をきっかけとして「9人」となり、成長を果たしたAqoursが、「6人時代に敗れた場所=東京」を克服する。

これも「次の物語」へ行くための「通過儀礼」として設定されているわけです。

つまり「音ノ木坂」をクリアするのと、「東京」をクリアするという「Aqours全体としての通過儀礼」を同時並行的に物語内に収めようとしているんですね。

このあたり非常にロジカルな作りになっていると思いました。

 

■「東京」で待ち受けるもの。SaintSnowとぶつかり合う「イデオロギー」。

予選突破を果たしたものの、学校説明会への応募希望者は「0」。

「学校を廃校から救う」という目標も持つAqoursにとって、「入学希望者を増やす」という課題も切実なものです。

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思い悩む千歌に曜が告げる一言。

「この時期μ'sは学校の廃校を阻止してたんだよね」

(という言葉に、何故か一緒に見た人の多くが「えっ?そうだっけ??」と答えるんですが…何故なのか。。

それ1期のプロットの中でめちゃくちゃ大事なところやねんぞ!!!

・・・・いかん脱線しました。話を元に戻しましょうw)

思い悩む千歌に果南は

「ここは東京じゃないから仕方ない。簡単に人が集まる場所じゃないんだよ」

と語り、慰めます。

しかし、まぁこれもまた真理ですよね。

実際に地方の過疎化は進む一方で、内浦もまさしくその対象地域でしょうし。

ただし千歌は「そんな理由であきらめちゃダメだ」思い直し、案を練ろうと、かき氷を文字通り掻きこみ家路を急ぎます。

このシーンどうしても劇場版「ラブライブ!」での、熱い紅茶を飲み干す穂乃果を思い出します。

あの時穂乃果は「平然」と飲み干し、ツバサを驚愕させましたが…。

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千歌にはやはり反動が。。

こういったどうでもいい描写にも「μ's」との比較が入れ込まれていて、面白いところですね。

 

家で案を練る千歌。

しかし良い案は浮かばず、自ずとμ'sのポスターを見上げます。

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「私たちと同じような普通の子たちが頑張っていると思ってたんだけど、何が違うのかな」。

「μ's」と「Aqours」の違いを知りたい千歌。

「悩んでいてもしょうがない!行ってみよう」

Aqoursを再び「東京」へと誘うことになります。

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7・8話以降、初めて「東京」に挑むAqoursの面々。

前回と違うのは、「9人」になったこと。

その「9人」で様々な課題を克服したこと。

そして「地方予選」を「突破」し、「ピアノコンクール」も「突破」したことで、前回未達成だった「カセ」をクリアしていることです。

前回はイベントに呼ばれたとはいえ、半ば「物見遊山」で「東京」を訪れた千歌。

しかし今回は明確な「目的」を以て東京にやってきたので、鞠莉の「観光要望」にも応えません。

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このあたりにも千歌の成長が伺えます。

また前回から一回り成長したAqoursは、8話で「辛酸を舐めさせられた相手」にも対等に立ち向かえます。

その相手とはもちろんSaint snowです。

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(北海道地区じゃなかったっけこの人たち・・・フットワーク軽いな。)

前回邂逅時には「圧倒的なパフォーマンス」で「6人Aqours」を叩きのめしたSaint snow

あの時には立ち位置に差がありましたが、

共に「予備予選を突破し」、「動画の再生回数でSaint snowに勝っていること」もあり、少しだけ関係に「変化」が出ているようにも見えます。

「結果」を残したAqoursに対して、一定の敬意を示すSaint snow

しかし、それはSaint snow「実力至上主義者」だからでもあります。

同じ目標を目指し、ある種のライバルとして敬意を示す千歌は、自身の悩みを率直にSaint snowに伝えます。

「自分たちと、μ'sは何が違うのか」

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「私たちはA-RISEに憧れてスクールアイドルになった」と語る鹿角姉。

そして自分たちもまた「同じ疑問を持っていた」と語ります。

しかし「その答えは出なかった。だからまずは勝って、A-RISEやμ'sと同じ景色を見てみたい」

「そうすれば自ずと答えが出るはず」と答えます。

その鹿角姉の言葉に千歌は「勝ちたいですか?ラブライブと疑問を重ねます。

この質問は鹿角姉妹には想定外のもの。

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思わず赤いプラグスーツ着た人ばりの「姉さま、この子バカなの?」が飛び出します。

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姉さまもこの質問は「愚の骨頂」と言わんばかりの反応。

「勝ちたくないのなら、何故A-RISEやμ'sはスクールアイドルをやっていたのです?」と質問の意図自体が理解できません。

ここで決定的になるのは「両者のイデオロギーの対立」です。

千歌は「A-RISEやμ'sが何故勝てたのか」を知りたくて、その「理由」を求めて「東京」に来ました。

しかしSaint snow「勝利すること」に「理由」など求めておらず「努力することで自ずと結果はついてくる」ものと信じています(それはSaint snowの楽曲SELF CONTROL!からも明らかですね)。

両者は同じ疑問を共有していないため、その答えを両者の協議から導き出すことはできません

これはAqoursSaint snowの二組が憧れた対象がそれぞれ「μ's」と「A-RISE」であることにも影響しています。

μ'sにとって、常に「畏敬」の対象であった「A-RISE」。

彼女たちもAqoursにとってのSaint snowと同じように「クオリティ」によって「μ's」と対峙する存在であり続けました。

だからこそ、「μ's」に憧れるAqoursと「A-RISE」に憧れるSaint snowには「イデオロギーの違い」が存在するわけです。

しかしながらAqoursSaint snowの2組が知らない物語が、ここにも潜んでいます。

それは「第2回LoveLive」での「東京地区予選決勝」後のこと。

圧倒的なクオリティを持つ楽曲で挑んだA-RISEは、μ'sがその精神の全てを刻み付けた楽曲「Snow halation」の前に敗れ去ります

その理由を知りたいツバサは、穂乃果に率直に質問をぶつけます。

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「何故A-RISEは敗れたのか」「μ'sをμ'sとして動かしている原動力とはなんなのか」

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その場では明確な答えを示せない穂乃果でしたが、自問自答する中でその答えを見つけます。

それこそが「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。

「クオリティ」のみに重点を置くのではなく、「皆に応援してもらい」「皆で一緒に進んでいく」という視線。

A-RISEは確かに素晴らしいクオリティをもったアーティストではありましたが、大衆にとっては「どこか遠い存在」で、身近な存在として捉えづらい部分があります。

反面μ'sは常に大衆側に目線を置くことで、「身近」で「応援しやすい」存在として受け入れられました。

またμ'sが楽曲に取り入れた「メッセージ」もそれを助長し、μ'sはまさしく「ピープルズヒーロー」としての立ち位置を得ていきました。

だからこそ「人気投票」によって勝者が決まる「スクールアイドルの大会」では、μ'sがA-RISEを「下す」わけです

そしてまた、そのキャッチフレーズをツバサも見ることで、穂乃果のメッセージを受け取り・・・

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自らも「スクールアイドル」であるうちには、その「精神を守りたい」と考えるようになります。

それが「劇場版LoveLive!」の物語にも繋がっていくわけです。

「アイドル」ないしは「アーティスト」としてはA-RISEの方が上かもしれない。

しかし「スクールアイドル」という立ち位置ではμ'sこそが理想像。

・・・という背景が前作で描かれた以上、Saint snowの考え方では「頂点に行けない」ことは明らか。Saint snowが今後どのように変化していくのか。それは2期以降に描かれるのでしょうね。

また、このように「我々視聴者が知っている情報」と「作品内のキャラクターが知らない情報」をクロスオーバーさせながら見る事ができるのも、この作品の楽しみ方の一つ。

この仕組みは、12話終盤にもう一度お目見えすることになります。

 

■音ノ木坂で出会うもの。そこで「得たもの」とは?

ここ数年ではお馴染みとなっているらしいUT-Xでの「決勝会場発表」。

なるほどSaint Snowもその発表をみるためにわざわざ東京に来たわけですな。

なんとも可愛らしいやつら。。

「決勝会場」は「AKIBA DOME」。

劇場版でμ'sが叶えたかった願い。

「スクールアイドル」がずっと続き、常に「AKIBA DOME」で決勝が行われる。

その夢が地続きになっていることが分かるシーンです。

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会場と、自分たちが挑む舞台の大きさに圧倒されるAqoursの面々。

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新たに設定された「カセ」である「AKIBA DOME」。

そこに挑むためには越えなければならない「カセ」があります。

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不安そうな仲間たちの表情を見て、いよいよ決断する梨子。

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「皆で行ってみない?音ノ木坂」

ほんの一瞬の決断ですが、梨子にとっては「ずっと言えなかった言葉」。

だからこその「重み」を感じるシーンでもあります。

そんな梨子の「トラウマ」を知っていたからこそ驚く面々。

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多くの「カセ」を乗り越えてきた彼女たちに与えられる一種の「ご褒美イベント」。

興味のないひとには「タダの学校」ですが、「μ'sのフォロワー」であるAqoursにとっては「チャーチ」とも呼べる聖地。

そんな彼女達が苦難の末にたどり着いた場所。

そこではやはり「赦し」が与えられます

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「こんな長かったっけ?この階段」と思うほど長い階段。

ようやくたどり着いた聖地に「救いを求める」ように、千歌は必死に駆け上がります。

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その表情は「登りきった先に答えがある」と「信じたい」という風にも見えます。

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やがてたどり着く校舎。

ラブライブ!」では何度となく登場した校舎が、どことなく「聖なる場所」に見えるのは、我々もAqoursの面々と同じ物語を共有してきたから。

そこでAqoursは一人の少女と出会います。

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名もなき「音ノ木坂の学院生」。

彼女は千歌の問いかけに答え、「μ'sについて」語りだします。

「ここには何も残ってなくて」

「μ'sのひとたち、なにも残していかなかったらしいです」

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「自分たちのものも、優勝の記念品も、記録も。」

彼女の言葉に重なるように映し出される音ノ木坂の校内。

それは、穂乃果やμ'sメンバーが何度も駆け抜けた廊下、アイドル研究部の部室、練習をこなした屋上と、視聴者には縁のある場所ばかり。

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(空には9羽の鳥…。というお約束もありつつ)

「物なんかなくても、心は繋がっているからって」

「それでいいんだよって」

その言葉に合わせるかのように、また一人少女が現れます。

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その姿は穂乃果にそっくり

彼女は母親の静止をふりきって、階段の手すりを滑り降りていきます。

その行為もまた、ラブライブ!第1話での穂乃果と同じ。

見事着地に成功した彼女は、ピースサイン

その表情には屈託がありません。

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このシーンの意図と意味を考えるには、まずμ'sが唯一残した「言葉」の意味を考える必要があります。

ここで語られる「物なんかなくても心は繋がっている」という言葉。

これはμ'sメンバー同士のことではなく、μ'sから見た「スクールアイドル」を示しています。

なぜμ'sがこの結論にたどり着いたのかは、「劇場版Love Live!」を見れば理解できます。

劇中μ'sは「自分たちの名前を残す」のではなく、

「スクールアイドルのアンセムSUNNY DAY SONG」を「スクールアイドル全員で作る」ことで、その楽曲を旗印として後継の「スクールアイドル」への道筋を照らすことを望みました。

それさえあればたとえ「μ'sが解散し」「μ'sの名前を人々が忘れ去ったとしても」その後には「希望」が残るから。

だからこそμ's自身は「μ'sがいた痕跡」をどこにも「残さない」わけです。

 しかしμ'sが残さなかったのは「物」だけで、たった一つ後継者たちに「残したもの」があります

それは前述した通り「希望」です。

μ'sがスクールアイドルと合作した曲(それこそA-RISEも一緒に)「SUNNY DAY SONG」は「自らの内に湧いてくる途方もない自信」を「希望」として「全肯定する」楽曲でした。

だからこそ、この楽曲を聴いた人には「希望」が宿り、周りの人々が「無理」ということも「成功」させることが出来る

「劇場版Love Live!」のファーストシークエンス。

海未にもことりにも止められながら、大きな水たまりを超えようと試みた穂乃果の耳に聞こえた曲はSUNNY DAY SONG

それを聞いた穂乃果は見事ジャンプに成功します。

そんな「ねじれ現象」が起きるのは、SUNNY DAY SONG」そのものが「希望」を象徴しているからです。

今回穂乃果似の少女が登場した理由とは、この「劇場版LoveLive!」のファーストシークエンスを再現するためでしょう。

しかし、今回彼女の耳に「SUNNY DAY SONG」は聞こえませんでした。

それなのに「手すり下り」に成功したのは何故なのでしょうか。

それは名もなき「音乃木坂の学院生」の正体が「μ'sが唯一音ノ木坂に残したもの=希望そのもの」だったからではないでしょうか。

(※それは劇場版Love Liveでの「謎の女性シンガー」にも通ずる存在だと思います。彼女も穂乃果の夢の中に登場し、穂乃果を鼓舞した存在です)

そう考えると穂乃果に似た少女も、現実ではなく、彼女がメッセージを伝えるために見せた幻影のようにも思えます(こう書くとオカルト!?と思われるかもしれませんが、そういうものではなく、映画的な表現です)。

手すり下りに挑み、達成した少女を見たことで「何かに気付いた千歌」

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それは彼女が求め続けたものの「答え」だったのかもしれません

それに気づかせてくれたからこそ千歌は音ノ木坂に「感謝」を告げるわけです。

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同じビジョンを共有したAqours。全員で音ノ木坂に感謝を告げます。

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それを満足気に眺める名もなき「音ノ木坂学院生」。

彼女の伝えたかったメッセージは、確かにAqoursに伝わりました。

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「μ's」を特別視し、「μ's」の母校に痕跡を求めた千歌。

しかしそこで得たのは「形のない気づき」でした。

彼女達の「感謝」は気づきを与えてくれたことだけでなく、自分たちを「スクールアイドルに導いてくれたμ's」への感謝でもあります。

そして、同時にそれは「μ'sからの羽ばたき」も意味することにもなります。

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お辞儀を終えると消えている少女。

それにどことなく納得する千歌。

非常に映画的な表現だと思います。

そしてここで受け取ったメッセージは13話へも引き継がれていきます。

 

■梨子の「トラウマ克服」と今後は?

Aqoursの物語とは別に、見事「音ノ木坂」への凱旋を果たした梨子。

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彼女を苦しめ続けた「音楽」。

その時期と同化することでいつしか「嫌い」になってしまっていた「音ノ木坂」。

しかし「通過儀礼」を乗り越えた彼女は、やはり「音ノ木坂」が「好き」だった思いを取り戻します。

しかし、ここから感じるのは、もはや彼女が「内浦にいる理由」が無くなってしまったということ。

いつか彼女が「音ノ木坂に戻る」という物語が描かれる日が来るのでしょうか。

 

■果南の視点。

帰り道。

結局東京遠征で何を得られたのか。

3年生組が話し合います。

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会話から分かるのは、彼女たちが1年生だった時の話。

1年生の頃の果南は、「学校の廃校阻止」を目標にし、自分を追い込むことで「スクールアイドル活動」をしていたようです。

反面本音では「楽しくしたい」と思っていました(未熟DREAMERの歌詞)。

今は自分が理想とする「スクールアイドル像」をAqoursに見ている果南にとって、Saint snowの姿は「未熟だった自分」を思い出させる苦々しい存在のようです。

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反面、そんな果南の視点が加わったからこそ、AqoursSaint snowに対して、以前のようなコンプレックスを持たなくて済むようになります。

このあたりは9人になったからこその視点の変化でしょう。

 

■「東に沈む夕日」。9人でしか見られない場所で得た「結論」。

同じく電車の中。

一人「音ノ木坂」での出来事を思い出す千歌は、「何か」に導かれるように「海を見に行こう」と提案します。

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彼女が目指すのは国府津の海岸。

ラブライブ!」を見ている人ならだれもが忘れられない場所。

2期11話でμ'sが「解散」を宣言した場所です。

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その際にも発生した異空間がここでも登場します。

本来西へ沈む夕日。

しかしここでは東に夕日が沈むというあり得ない風景が描かれます。

ある種の「異空間」へ迷い込んだ9人。

これは「閉じた世界」「9人しかいない」ことを示す為の表現ともいえます。

しかし前回とは大きく異なる部分があります。

「閉じた世界」の中で「終わる事」を宣言したμ's

反対にAqoursはこの場所で産声を上げるからです。

メンバー全員でみる「あり得ない風景」

そこでは「彼女達しか知らない」物語が描かれます

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・・・千歌が音ノ木坂で気付いた「μ'sの凄いところ」

それは「何もないところを 何もない場所を 思い切って走る」こと。

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ファーストペンギン、という言葉があります。

群れで行動するペンギンの中で、真っ先に外敵の多い海に飛び込み、自らが模範となって獲物を探しにいく、勇気あるペンギンを示す言葉です。

こと「スクールアイドル」においては、「μ's」がそれにあたります

「A-RISE」がはじめから「プロ」を意識したスクールアイドルとすれば、μ'sはその
「アプローチ」には当てはまりません。

なぜなら穂乃果をはじめ、μ'sのメンバー誰もが「プロ」になることを目標としていなかったから。

前述した通り、2期10話でμ'sに敗れたツバサは、穂乃果にその要因を訪ねますが、穂乃果は即答できません。

それは穂乃果も「戦略をもってスクールアイドルをやっている」わけでなく、

ただ「楽しみながら」スクールアイドルをやっていたから。

そしてそんな「自由」なμ'sの魅力に触れた人々がμ'sを「自分たちの分身」として応援したから、

「人気投票」によって勝者が決まる「ラブライブ」ではμ'sはA-RISEに勝利することができたわけです。

千歌は図らずとも、その一端に気付くことが出来ました。

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「μ’sの背中を追いかけるのではなく、自由に走る」

それはまさしくμ'sが後身に託した願いでもあります。

μ'sの「姿」や「人気」に憧れただけだった千歌が、

μ'sが本当に伝えたかった思いや願いに気付くことで、真の意味での「μ'sのフォロワーになる」こと。

それに千歌が気付く、という物語は制作陣からのメッセージにも映ります。

僕たちはひとつの光」の歌詞にある「今が最高!」とはまさしく

「今はその瞬間にしかないのだから、自由に自分の物語を生きろ」というメッセージのはず。

にも関わらずいつまでもμ'sの幻影に縛られ、先に進めない人がかなりの数いる現状を寂しく感じてしまいます。

もちろん思い出を大切にすることは大事ですが、

そこで立ち止まるのは「μ'sの物語を愛し、共有した人間」として正しい行動という風には私には思えません。

「僕たちの奇跡」を叶えた彼女たちは、次は「あなたたち」の奇跡=軌跡を描いてほしいと願っていたはず。

もしかしたら「サンシャイン」という物語は、未だ「μ'sの幻影に縛られる人々」の背中を押す物語なのかもしれません。

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そしてAqoursは「自分たちの軌跡」を走り始めることになります。

OPテーマ、「青空Jumping heart」の歌詞

「見たことない 夢の軌道」「追いかけて」いくように。

 

■モーメント。0を1にしようとする運動性。

千歌たちが作るリング。

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これは説明するまでもなく「モーメントリング」です。

モーメントリング=「Moment Ring」はこちらも説明するまでもなく、μ'sの「ファイナルシングル」のタイトルでもあります。

同曲の歌詞でμ'sが

「思い出だけじゃないからね 新しい夢が産まれてくると 僕たちは知ってるよ」

と言ったように、終わりは始まりの前兆

μ'sの終わり(0)Aqoursの誕生(1)を呼び、

Aqoursもまた自分たちの誕生を(0)とし、新たな目標(1)へと向かっていく。

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0から...

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1へ!

永遠に発生し続ける0→1への運動法則。

しかしそれはポジティブに広がっていく摂理にもなり、それこそがμ'sが望んだ願いでもあります。

「0から1へ進む」

それがAqoursの「テーマ」。

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この日、この海岸の「ありえない風景」の中で、「9人だけが知っている」「誓い」

この「誓い」も13話へ影響を与えていきます。

 

■舞い落ちる羽。「希望」の象徴。

ラストシークエンス。

本来は10Km以上離れているはずの「根府川」の駅に戻ってくるAqours

こんなねじれが発生するのも、「アニメだから」というよりは、彼女達が「異空間」に迷い込んでしまったことを表現するため、のように映ります。

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7話で「チラ見せ」しながら、ついぞAqoursメンバーが立ち寄らなかった「根府川」。

7話感想で書いたように、それはAqoursメンバーがこの場所がμ'sの思い出の地であることを「知らなかった」からでした。

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μ'sにとって「悲しみ」の場所となったここも、Aqoursにとっては「安楽」の地。

そんなギャップも素敵です。

そこで千歌は舞い落ちる羽に気付き、慌てて駆け寄ります。

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やがて羽を受け取る千歌。

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これは「ラブライブ!」2期EDを想起させるシーンです。

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1期OPで穂乃果がラッパを吹くことで屋上から飛び立つ鳥たち。

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これは「希望」を象徴するもの。

ノアの方舟から出たノアが、平和の訪れを告げる笛を吹いた時に、白いハトが飛んできたという神話から、鳩は「平和」や「希望」の象徴になった、なんて話もありますね)

穂乃果が発起人となって放たれた「希望」は

2期EDでは神田明神を抜けて、音乃木坂の屋上に戻ってきます。

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この「希望」を受け取るのはその回に「主役」となったμ'sのメンバー。

2期ではメンバー個人にスポットライトを当てながら、そのトラウマを克服する
という物語が何度も描かれました。

だからこそ主役になったキャラクターがEDでは「希望」を手にして終わる
という表現になっているわけです。

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千歌が羽を受け取ったのは、千歌もまた「希望」を得たから。

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そして同時に羽を受け取った表現は、Aqours自体も「μ'sとの決別=羽ばたきのとき」を迎えたということも示しています。

もはや「希望」を手にした千歌に、追いかけるべき対象はありません

自分の中に芽生えた「希望」を信じて進むのみ。

だからこそラストでμ'sのポスターが剥がされるわけです。

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自らが「希望」となることを誓ったAqours

今度は彼女達自身が「輝き」となって、誰かの「希望」にならなくてはいけません

そんな彼女達の「一旦の結末」を描く第13話。

巷ではなんだか評判が悪いようですが、今回の12話考察を読んでいただければ、13話が何を意味しているのかも自ずとご理解いただけるはずです。

とはいえ、13話を完全に理解するためには「劇場版LoveLive!」を理解する必要があります。

なので、若干イレギュラーではありますが、次回は「劇場版LoveLive!」のディティールおよび「そもそもこの映画ってなんなのか?」を解説し、その後13話の考察へと移っていきたいと思います(今回の解説でも一部書いちゃいましたけど)。

やや変則的ではありますが、何卒ご理解を頂けるとありがたいですm(__)m

といったあたりで12話考察もここまで。

結局12000字だって。アハハ…。長々とありがとうございましたm(__)m

 

 

【発掘】2015年9月当時の「ラブライブ!The School idol the MOVIE!」の感想。

【ご注意】

載せるか迷いましたが、改めて読んでみると当時のパトスが溢れていて、意外と悪くは無かったので、転載してみます。

この感想は、2015年9月公開当時のもの。

現在はこの時から更に10回以上見て、よりディティールを理解しているのですが、主なストーリーラインの理解はそれほど変化していません。

13話感想前に、劇場版の感想は再度まとめる予定ですが、ディティールでは無い私個人の評価を「前置き」として残しておきます。

※劇場版のネタバレを含みますので、予めご注意願います。

↓以下当時の文章となります。


ラブライブ!The School Idol Movie


解説
2013年1~3月にテレビシリーズ第1期、14年4~6月に第2期が放送されたアニメのほか、アイドルグループ「μ's(ミューズ)」によるCDリリース、ライブイベントなど、さまざまなメディアで展開し、大きな人気を集める「ラブライブ!」の劇場版。
廃校の危機にある国立音ノ木坂学院を救うため、2年生の高坂穂乃果をはじめとする9人の女子生徒たちで結成されたスクールアイドルグループ「μ's(ミューズ)」。
その活躍で廃校の危機を救い、スクールアイドルの祭典「ラブライブ!」第2回大会では決勝戦進出も果たした彼女たちは、3年生の卒業をもって「μ's」の活動を終了すると決めていた。しかし、卒業式直後に届いたある知らせをきっかけに、「μ's」は新たなライブをすることに。限られた時間の中で、9人はまた少し成長していく。

スタッフ
監督 京極尚彦
原作 矢立肇
原案 公野櫻子
脚本 花田十輝
キャラクターデザイン 室田雄平

キャスト(声の出演)
新田恵海  高坂穂乃果
南條愛乃  絢瀬絵里
内田彩   南ことり
三森すずこ 園田海未
飯田里穂  星空凛
Pile    西木野真姫
楠田亜衣奈 東條希
久保ユリカ 小泉花陽
徳井青空  矢澤にこ

予告はこちら↓



「感想」


や、まぁ結果からいえば現時点での得点は、大体5兆点くらいですが。
しょっぱなは「まぁ80点くらいだなぁ」なんて思っていましてね。ハハ(血反吐を吐きながらの笑い)
「でも、ラブライブ!は初見ではピンと来ない事多いからね(半笑い」とかTwitterに書いたら、予想通り2回目で150点くらいになり、後は留まることを知らないインフレ。
ホント、映画として優れている作品だと思います。

簡単にあらすじをまとめておきますね。

物語は2期最終回から。
卒業式を終え、3年生を送り出す感動的な段階で、すわ1年生メンバー小泉花陽(はなよ)の携帯に連絡が!
「タ、タイヘンデスッ!」との花陽の掛け声をきっかけに部室へと戻るメンバーたち。

彼女たちを待ち構えていたのは、「第3回ラブライブがアキバドーム(東○ドーム)で開催!?」の噂。
そして、理事長=南ことり母(a.k.a声担当がタ○チの南ちゃんというメタ)からの「NYでの公演への招待」。
なんでも前2回を盛況のもと終えた「ラブライブ」の評判を聞きつけたアメリカ側から、「スクールアイドルを紹介するため」に公演を実施して欲しいとの連絡があったとのこと。
NYへ飛んだ彼女たちは、初めての環境を楽しんだり、逆に見慣れぬ景色に戸惑ったりしながらも徐々に順応。

街中で歌って踊って雨を止ませたり、白米が食べられなくて発狂したり(?)穂乃果が道に迷ったり色々ありましたが・・・。
穂乃果はブロードウェイの真横で出会った謎の女性に導かれて、無事生還!
NYでのライブも無事成功したのです
「また来ようね♪ キャッキャ(´∀`*)ウフフ」などと和みながら帰国し、「μ'sの活動もこれで終わりですなぁ…」などと思っていたところ…。

戻った日本ではNYでのμ'sの公演映像がそこらかしこで流れている、大フィーバー状態
ゾンビと化した友人には「μ'sのライブやってくれよぉ グポォ」と言われたり、
理事長からも「南をアキバドームに連れてって...ゲフンゲフンッ!!
...もとい「人気沸騰に応える意味でのライブ開催」ラブライブを一つの文化として根付かせるためにも続けてほしい」なんて言われちゃいましてね(一部蛇足)。


「そういえば、私たち解散するって自分たちで決めただけでした ドウシヨウ(;´Д`)」という状況に。

ラブライブのために続けるべき?」「でも2期であんだけすったもんだして決めたのに覆せないでしょうよ」などと今更ながら意見は錯綜。
同じくスクールアイドルでありながら、プロデビューするA-RISEのメンバーにも「続けてほしい」なんて言われてしまい悩みは加速。

そんな中リーダーである穂乃果はNYで出会った謎の女性とアキバで再開。
彼女の助言を受け、やはり「3年生卒業と同時にμ'sとしての活動は終わりにする」という方針は曲げないことを決意。
時を同じくして卒業する3年生メンバーを代表して元生徒会長の絵里からも同じ内容のメールが来ましてね。
メンバー間で改めて「μ'sの終了」を決意するのです。


とはいえ、スクールアイドルへの愛着は隠せず。
「もし自分たちがライブを行わなかったせいでスクールアイドル活動の勢いが削がれ、今後のラブライブ開催に支障をきたすとしたら無念」との思いからライブ開催を決意。
しかしながらそれは「μ'sの解散ライブ」ではなく、世界に「スクールアイドルの可能性を示すライブにしたい」との思いから全国の「スクールアイドル」にライブへの参加を呼びかけ。
「まだ」スクールアイドルであるA-RISEにも協力を呼び掛けたところ、リーダー綺羅ツバサからは
「皆で一つの歌を歌う」
ことを条件に参加了承得まして。
「皆で歌うスクールアイドルの歌」を作るのです。

とはいえ開催まで残された時間はわずか。
一筋縄ではいかない、かと思われたライブ実現でしたが多くの賛同者の協力と「待つのではなく会いにいく」積極的な姿勢がメンバーを集めまして

スクールアイドルだけでなく、妹チャンズやメンバーのお母さん、等々脇役まで交えた秋葉原での大ライブ開催がハイライトになります!


その後μ'sメンバー全員が卒業した後の学院へと舞台を移し、3年生となった妹チャンズがμ'sの活動を「アイドル部の新入部員たち」に伝える場面からμ'sの解散ライブへと場面が展開し、大団円で映画は終わりましたよ。

 

①「ストーリーが良かった!!」
ストーリーに関しては、詳しくは別枠(ラブライブ論)で記載していきたいので、手短にまとめますね。
とはいえ、様々な角度から良さを語れるストーリーなので、総括は難しいのですが。。

本映画の優れている所はTVアニメ「ラブライブ」のテーマを継承しつつ、その先を示してみせた部分にほかありません。
TVアニメ1期のテーマソング「僕らは今の中で」の歌詞が示す通り、ラブライブとはニヒリズムに負けず挑戦する」ことの美しさ、「変わらないまま輝く」ことの大事さ、「今を大切にする」ことの尊さを説いた作品でした。

主人公:穂乃果は元々「アイドルになりたい」人ではありませんでした。
「自分自身の大切な学校を守るため」の手段として「スクールアイドル」を選んだに過ぎません(だからこそひるまず挑戦できたともいえますが)。
しかし「スクールアイドル」としての活動の中で、彼女は「自分が最高に楽しいと思う事=歌う事」であることを見つけ出します。

穂乃果の「挑戦」は自分自身だけでなく、周りへも波及していきます。

幼馴染である海未やことりも、本来であれば「アイドル」とは遠い環境にいた少女たちでした。
しかし穂乃果の「思いつき」に巻き込まれる形で始めた「スクールアイドル活動」が彼女たちの秘めていた個性をも引き出すのです(海未であれば決して表に出すことのなかったアイドル性や作詞を通した自己表現。ことりは服飾の才能が引き出されるだけでなく、自分自身を偽ること=ミナリンスキーからも解放されます。)

同じことは1年生組、3年生組にもいえます。
それぞれが穂乃果というトリガーを通して、自分自身を解放、輝かせていくのです。

TVアニメ2期ではさらにそのテーマを掘り下げていきました。
再三穂乃果たちが協議する「変化」「CHANGE」インパクト」という単語。
これらは「μ'sがA-RISEに勝利するために必要な要素」として彼女たちが挙げるものです。
しかしながら、これらの要素はことあるごとに物語内で「否定」されます。

インパクトある楽曲作りを目指して行った合宿では、カンヅメでの楽曲制作に失敗。
リラックスした環境の中で、それぞれの関係性を見つめなおす事で、「μ'sらしい楽曲とはなにか」を確認し「ユメノトビラ」を完成させます。

ハロウィン回では、A-RISEに勝つための「インパクト」を追い求めて迷走。
見た目を変化させたり、自分以外の誰かになってみたりする中で、「自分たちは元々個性的である」ことに気付き、オーソドックスなハロウィン曲で勝負するに至ります。

外面的ないしは建前的な「変化」や「インパクト」に頼ろうとするよりも、「自分自身を見つめることの方が大事」であることをしつこい程に繰り返し見せてくるのです。

そしてハイライトとなる「希回」からの「スノハレ回」。
希の過去にμ'sメンバーが触れることで、μ'sの成り立ち自体をメンバーが共有。
それぞれの内面に生まれた感情を「歌詞」へと変化させることで本来の意味での「ラブソング」=「Snow haration」を生み出します。
そしてこの楽曲が、アーティスティックに作り込まれたA-RISEの「Shocking party」を打ち負かすのです。

A-RISEがμ'sに敗れるに至った要因はもう一つあります。
それは「みんな」の存在。
穂乃果はμ'sのキャッチフレーズを作る際にこう言います。
「みんながいるから、私たちがいる」と。

完成された姿、美学を持つA-RISEは「憧れの対象」であれ、「自分自身の先」「応援する対象」としては見出し辛い存在。
反面μ'sは2期第10話で穂乃果自身が
「一生懸命頑張って、それをみんなが応援してくれて、一緒に成長していける。それが全てなんだよ。」
「皆が同じ気持ちで頑張って、前に進んで、少しずつ夢を叶えていく。それがスクールアイドル。それがμ'sなんだよ!」

と総括したように、「特別な存在」ではなく「みんなの先にある」存在なのです。
「民意の象徴」だからこそ、「人気投票で勝者を決める」ラブライブのシステムにおいては、A-RISEを打ち負かすことができたのです。
そしてμ'sは「スクールアイドルの象徴」へとなっていくわけです。

↓(ここからようやく映画の感想)
さて、その続編たる「劇場版」では、その「民意」とぶつかり合うこととなります。
「民意」とはダイレクトに「人気」へも置き換えられます。
第2回ラブライブ優勝だけでなく、アメリカで「スクールアイドルの象徴」として紹介された結果、μ'sは「圧倒的人気アイドル」としての地位を得ます。
しかしながら、これは彼女たちの本意ではありません(にこを除いて?)。
何故ならば彼女たちは「アイドルとしての成功」を夢見てスクールアイドルを始めたわけではないからです。
また「3年生の卒業をもってμ'sは活動を休止する」旨を決定してしまってもいます。

「アイドルとしての人気」に戸惑うメンバーと、「アイドルとしての活動継続を期待する」民意とがぶつかる中で、リーダーの穂乃果には決断が迫られます。
とはいえ先ほどの発言から分かる通り、穂乃果は「μ'sの正体」をいち早く悟った人物です。
だからこそ、揺れ動きます。
「3年生の卒業をもって解散することは自分たちのエゴなのでは?」「民意によって成り立ってきたμ'sは民意に従うべきではないのか?」と。

時を同じくして、A-RISEのリーダー綺羅ツバサからも「自分たちがプロとして活動を継続すること」と「μ'sにも同じようにプロになって欲しい」との言葉を受け取ります。
「スクールアイドル」という土俵に立ちながら、全く違うコンセプトを掲げて戦った二組。
しかし、いよいよ「プロ」として、お互いの「クオリティ」を競う舞台へと移る。
その分岐点にμ'sは立たされたわけです。

迷いを深める穂乃果。
しかし、その迷いを断ち切ったのは、意外なことに絵里の妹亜里沙でした。
思い悩む穂乃果に、亜里沙が告げた「楽しくないの?」の一言に穂乃果はハッとします。

周りからの期待、要望に振り回されるうちに見失っていた「楽しいから、スクールアイドルを続けてきた」という事実。
それを思い出すと同時に「自分たちが何故スクールアイドルを始めたのか」その原点に立ち返るのです。

きっかけは「廃校から学校を救う」ことでしたが、正直「きっかけはなんでも良かった」のです。
もちろん、「周囲の期待に応える」ために続けてきたことも事実ですし、その結果としてラブライブ優勝」という勲章も得ました。
しかしそれは「過程の中での功績」であり、「目標」ではありませんでした。

μ'sのメンバーたちは、もともと「特別な才能」を認められた(ないしは自覚した)人たちではなく、どこにでもいる「普通の女の子たち」でした。
そんな彼女たちが「スクールアイドル」としての活動を通じ、「自分の可能性を解放」させ「周囲の共感・応援」を受け、更に大きく「開花」していく。「アイドル」として成長する中で、「人間」としても成長していく。
そしてその原動力となるのは「完成度」や「創作性」といった「クオリティ」とは真逆の、「楽しい」「嬉しい」「悲しい」といった「エモーショナル」な感情。
だからこそ彼女たちが「スクールアイドルとしての活動」に対して下す結論は「エモーショナル」であって良い。
「9人が一緒に活動できないのであれば、辞める」その潔さすぎる結論も、彼女たちの物語を追いかけてきた人間であれば、誰もが理解できる結論と言えます。
そしてこの結論によってμ'sは「アイドル」とも「アーティスト」とも違う「スクールアイドル」の価値観を完成させるに至るわけです。

そして、それこそが「ラブライブ」という作品が伝えたい「願い・思い」なのではとも思います。


近年、世間的には「出来ない・やらない」理由をまず探す傾向が強いように感じます。
始める前から「でもどうせ上手くいかないし」と言ってみたり、夢を持つ前に「どうせ自分には出来ないし、才能もない」などとうそぶく人が多い。
「感情よりも理屈」が重んじられる、「ニヒリズムに征服された世界観」が一般化しつつあります。

物語に関しても、もはや「スポ根もの」はギャグのレベル、「青春もの」に関しても一種の「パロディ」としてしか成立しないようになってきています。
しかし、そんな時代に敢えてど直球の「青春ドラマ」として投げつけたからこそ、この「ラブライブ!」は熱烈な支持を集めた(主に若年層から)のではとも思うのです。


何者でも無かった少女たちが「可能性を感じた」というだけの理由で始めたスクールアイドル。
「好きなことを信じた」結果「今の中で輝く」ことを知り、
今度は「夢を叶えるのは 皆の勇気 負けない心で 明日へ駆けていこう」と、こちらへと問いかける。
何故なら「それは僕たちの奇跡」であり、「我々(受け取る側)の奇跡」ではないから。
そしてその問いかけに「私たち(日本中のスクールアイドルたち)」が応えることで「SUNNY DAY SONG」が生まれる。
SUNNY DAY SONG」は「一個のアイドルソング」を超越した「アンセム」となる。
同曲は「困難に挑む人・ニヒリズムに負けない人」を後押しする曲となり(だからこそ映画冒頭・穂乃果の耳にSUNNY DAY SONGが聞こえてくる)また1人、また1人とフォロワーを生んでいく。
そして、その循環がきっと世界をもっと素晴らしいものに変えてくれるはずだ、というのが制作陣の願いなのでは?と勝手に結論しております。


劇中、謎の女性シンガーが歌う「As Time Goes By
映画「カサブランカ」内で歌われたことでヒットした楽曲ですが、元々はブロードウェイミュージカルの大ヒットナンバーでした。
同曲が本作内で使われた理由は「ブロードウェイ楽曲」である、という以前に本作のテーマが同曲の歌詞によって表されているから、と私は考えています。
最後に「As Time Goes By」の英詩と和訳を載せて、本稿の結びとしたいと思います。
どう受け止めるかは、あなた次第。

As Time Goes By (1931)
Herman Hupfeld

<歌詞>
You must remember
this A kiss is just a kiss,
a sigh is just a sigh.
The fundamental things apply
As time goes by.

And when two lovers woo
They still say, "I love you."
On that you can rely
No matter what the future brings
As time goes by.

Moonlight and love songs
Never out of date.
Hearts full of passion Jealousy and hate.
Woman needs man And man must have his mate
That no one can deny.

It's still the same old story
A fight for love and glory
A case of do or die.

The world will always welcome lovers
As time goes by.


<和訳>
これだけは心に留めていて欲しい
キスはキスであり、ため息はため息
恋の基本はどの時代でもあてはまる
いくら時が流れようとも

恋人たちが恋をすると
やはり「愛してる」とささやく
これだけは間違いがない。
この先何があろうとも
いくら時が流れようとも

月の光とラブソング
すたれることなどない
人々はいつでも嫉妬と憎しみで激情に駆られる
女は男を求め
男は女を求める
誰も否定することの出来ない永遠の真理

いつの時代にも存在する物語
栄光と愛への戦い
生きるか死ぬかのせめぎあい

恋する者たちを世界は優しく受け入れる
いくら時が流れようとも

(ここまで)

細かいディテールに関しては、12話感想後、アップするようにいたします。

例えば誰もが謎解きしたがる「謎のシンガー」の正体と意味。

穂乃果に渡されたマイクスタンドってなんなの?

そもそもこのお話って、「何を示してるの?」

などなど。

一応自分なりの回答はあるので(SFではなく、あくまでも映画文法的な解釈で)、それは次回ということで。

最後までありがとうございました。

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第10話「シャイ煮はじめました」&第11話「友情ヨーソロー」

 こんばんは。

あなたの妄想のお供。「LoveLive After talk」でございます。

さて、いよいよ物語も佳境!

リアルタイムでは13話放送(最終回)が終わった…ということで、寂しい限りですね。。

とはいえ、2期があるはず!なので、まずはその発表を待ちましょう♪

 

本題に入る前に感謝とこのblogの姿勢をば。

まず、9話の考察発表以降、様々な方に応援のコメントを頂いております。

どれも暖かいお言葉ばかりで、駄文を書き散らしている自分には存外なお言葉ばかり。

「作品の見方が変わった」とまで言って頂けて嬉しい限りでございます。

とはいえ、このblogはあくまでも「妄想」の発展系

関係者様にコメントを取ったわけでもなく、脚本を読んだわけでもない私個人の「戯言」です。

ですので、私の見方・考えが「正解」というわけではございません。

大概が「深読み」の類でございますので、まずはご了承のうえご一読頂ければ幸いです<(_ _)>

それでも世間的には「舐められている」(笑)「ラブライブ!」が「なるほどこんな見方もあるんだね」程度に思って頂き、「見直してみようかな」と思って頂ければ、このblogを書いた甲斐があったかも、というところ。

今後ともへたっぴ考察&文章で恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

※注意

本稿はラブライブ!のネタバレだけでなく、「人魚姫」「アナと雪の女王」のネタバレも含みます。

どちらの「ネタバレも避けたい!」という方は、引き返して頂ければ幸いですm(__)m

 

それでは、通常通り項目ごとに振り返っていきましょう。

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■はじめに

項目ごとに始めると言ったのにw

なぜ「はじめに」などという項目を作ったのかと言いますと、今回10話と11話が難解だからです(特に11話)。

ふわっと見ていると、「起きていることは分かっても、なぜそうなったのか」が分からず、それを「違和感」として抱えていくことになります。

その「違和感」がやがて「この回はよくわからなかった」という結論になってしまい、「つまらなかったかも?」となってしまうのが怖いからでもあります。

ですので、まずは10話11話を「見直す場合」に「こうして見ると分かりよいかも?」という見方をお伝えしたいなと思います(上から目線ですみません)。

①「ディティール」を追わず「大枠」を見る。

ラブライブ!」という作品はキャラクター同士のわちゃわちゃとしたやり取り、会話を楽しむ萌えアニメの側面を持っています。

実際「そこが好き」という方も多いでしょうし、作り手もそれを意識して作ってはいます。

半面「ラブライブ!」という作品はシリーズ構成・脚本=花田十輝氏の「強い作家性」に支持された作品でもあります。

花田氏はアニメ化に際して、キャラクター原案の公野櫻子先生の「初期設定」を「大幅に無視」(笑)して作劇しています。

つまり、花田氏の中では「テーマ」が第一にあり、その「テーマ」を示すために「ストーリー」があり、「ストーリー」のために「キャラクター」がある、というバランス感覚のもと作劇されてるわけです。

ですので、もちろんキャラクター同士のやりとりを楽しむのはとても楽しいのですが、もし「ストーリー」を理解しようと思った場合には、一度「キャラクター」同士のやりとりから目線を外し「なぜこういうストーリーになっているのか」という「大枠」を見つめてみると、より理解が深まるかもしれません。

②10話と11話をセットで見る。

8話9話と同じく、この2話は「ニコイチ」として作られています。

2つはセットで見ることで、より理解が深まります。

また「2話はセット」と思いながら見ることで、見え方そのものが変わるかもしれません。

 それでは、参りましょう。

 

■「海の家」を建て直すという物語。そこに込められた意味とは。

10話は合宿回。

ということで、ダイヤさんが極秘に手に入れた「μ'sの練習メニュー」に従って合宿をこなそう!という話になって行きます。

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ってこれ、海未さんが作ったものの、メンバー誰一人まともに「こなしていない」練習メニューですやん。

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(・・・?海未は私ですが?のシーン よく見ると練習メニューパワーアップしている。。 ダイヤがゲットしたのは、劇場版の練習メニューかな?)

これをまともにこなせば、そりゃ「強靭な肉体」が手に入るだろうけども。

「地獄の合宿」を避けるため、曜は「海の家を手伝う仕事」を思い出します。

「海の家を手伝わないといけないので、この合宿メニューを全てこなすのは不可能!」という逃げ道。

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納得しないダイヤでしたが、鞠莉の助け舟もあって、「海の家」の仕事が終了した後に「練習をする」という結論に落ち着きました。

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さて、いざ手伝う「海の家」を見ると見た目はボロボロ。

お客も一人もいません。

隣に目を移すと…

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きらびやかな「都会式」の「海の家」があり、こちらは大繁盛。

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今回はこの「都会式」の「海の家」にいかに戦いを挑むか、という物語になります。

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(どうやって登った…)

「戦うべき相手をみつけた」ダイヤは早速戦いに備えます。

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次々と的確な指示を飛ばし、リーダーシップを発揮するダイヤ。

こんなシーンからも「ダイヤがAqours」に加わった意味が伝わってきます。

※余談ですけど、ダイヤ様、ここのところ「島本和彦先生」キャラに近づいていませんか。このシーンとか「東方不敗先生」のよう。。

果たして「何もない」「廃れた海の家」をどのように「変化」させることで、「勝利」を手にするのでしょうか。

また、この「テーマ設定」を理解すると一見「ただのギャグ回」に見える10話が、

「東京に戦いを挑むAqours「これまで」と「これから」を表現した「メタファー」という風に見えてきます。

 

■「料理」が示すもの

工夫の一つとして取り組む「オリジナルメニュー作り」。

料理部隊に抜擢されたのは「曜・鞠莉・善子」の3名でした。

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「シャイ煮」自体には元ネタがあるとはいえ…


第10話「シャイ煮始めました」のネタ元動画~

今回選ばれた3人は「無作為」ではなく、きちんと意味があるように思えます

 

曜が作ったのは「ヨキそば」

こちらは海の家安定アイテムの「オムソバ(焼きそば)」の「曜版」だから、「ヨキそば」。

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ケチャップの絵と旗以外はいたって「スタンダード」。

いわば「失敗のない」「バランスのとれた」実に「曜らしい」1品となっています。

 反面、「曜の個性」が際立っている品かと問われれば、そこまで個性的な品ではありません

鞠莉が作ったのは「シャイ煮」

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「豪華食材」を「そのままごった煮にする」という「大胆」かつ「ゴージャス」な料理は、これまた「鞠莉という人物」をよく表現できています。

 

善子の「堕天使の涙も同じ。

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「真っ黒な見た目」で、中の具は「タバスコのみ」という「刺激的」かつ「極端」な品は、グループ内でも最も「個性的」でいわば「劇薬」としての役割をもつ、善子そのものです。

「料理シーン」といえば、一般的なアニメでは主に「ギャグパート」を担う役割が多いです。

しかし「サンシャイン」ではそんな料理シーンも、抜け目なくストーリー構成に組み込んできます

すなわち、この料理を通して「各キャラクター」そのものを表現している描写に見えます。

新メニュー3品を以て、戦いに挑むAqours

しかし結果として「ヨキそば」は売れたものの、「シャイ煮」と「堕天使の涙」は大量に売れ残ってしまいました。

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(この謝罪シーン。とってもデジャビュー)

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・・・そんなわけで大量に余った在庫は、メンバー全員で食べることに。

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ここでのわちゃわちゃシーンは、もちろん視聴者に楽しんでもらうための「サービスシーン」でもあるのですが、それとは別の意味も含んでいます

先ほども触れた通り、それぞれの料理はそれぞれの「人物」そのものを表現した一品です。

さらに売れ残った2品は「個性的過ぎる」ために売れ残ってしまったものです。

その「個性」「全員で分け合って食べる」ということは、「個性」そのものを「咀嚼=理解する」ことでもあります。

いわばこのシーンは「合宿を通して、Aqoursの関係が深まっていく様子」をメンバー同士のやり取りだけでなく「動きを通しても表現しているシーン」というように理解できます。

・・・とはいえメンバー間の「理解」が深まっただけでは、「売れるようになる」わけではなく。

2日目も「シャイ煮」「堕天使の涙」は惨敗という結果に。

(互いを「理解する」…だけでは「勝利できない」。これは7話のやり直しですね)

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ここで力を発揮するのが曜。

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父親直伝の「海軍カレー」に「シャイ煮」と「堕天使の涙」を加えます。

すると…

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「なんでもカレーに入れれば、おいしくなる」という暴論金言もあるように、見事な「調和」を生み出しました。

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「強烈で扱いづらい個性」「上手く調和」させることで「魅力」へと変化する。

「カレー」を通してAqours」そのものを表現している描写です。

そして、その「調和」をもたらせたのは「曜」

このシーンから伝わるもう一つの意味。

それは、「自分たちは普通」と言いながら、なかなかに「個性的」Aqoursを「調和」させる役割を「曜が担っている」ということ。

「チーム」を成立させるために非常に重要となる「かじ取り役」。

その役割に曜がいることを示す表現となっています。

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「チーム」においては大事な役割を担う曜。

しかし彼女自身はその立ち位置を「どのように捉えているのか」

それが11話へのブリッジとなります。

 

■梨子の「ピアノ」。梨子と千歌それぞれの「選択」。

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Aqours」での活動に充足感を感じる梨子。

そんな彼女に「ピアノコンクールからの参加申し込み」期限が迫ります。

しかしAqoursでの活動を優先したいと考える彼女は、メールを「消去」し、「ピアノへの道」を自ら断ちます

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一方千歌は、自宅での梨子の母と姉のやりとりから、「梨子がピアノコンクールの登録を済ませていない」ことを知ります。

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理由を探る千歌。

すると「ピアノコンクール」と「ラブライブ!地方予選」の日程が重なっていることが分かります。

梨子を一人夜中に起こし、真意を訪ねる千歌。

しかし梨子は澄んだ表情で「今はAqoursでの活動が大事」と告げます。

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その晴れやかな表情に更なる追求ができない千歌。

しかし、どこか腑には落ちません。

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翌日梨子宅で予選発表曲の構想を練る、梨子・果南・千歌。

新曲のテーマは「大切なもの」。

そのテーマを耳にした梨子は、ふと自分の机に置かれた五線譜に視線を移します。

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五線譜の正体は、梨子が「コンクール」で弾けなかった楽曲「海に還るもの」

Aqoursの作曲を担当するようになった今でも、梨子はこの曲を「弾けず」にいます。

7話で梨子が「音乃木坂に行けなかった」理由

それは梨子がピアノコンクールでの「失敗」を克服できていないから。

その失敗の要因となった「海に還るもの」を弾けるようになり、「ピアノコンクール」そのものを克服できない限り、梨子は「次のステップ」に進めません。

それはこの一連の事柄そのものが、梨子にとっての通過儀礼となっているからです。

 島田裕巳先生の名著「映画は父を殺すためにあるー通過儀礼という見方」では、

”名作と呼ばれる映画のほとんどで、主人公は「父(あるいはそれに準ずるもの)を殺し、成長を果たす」というシーンがある。即ちそれは成長するための「通過儀礼」である(要約)”

と書かれています。

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

 

 この「父」というのは便宜上の表現で、実際には「父親」でなくてもかまいません

自分の「道筋」ひいては「可能性」を阻害する存在(映画骨法でいう「カセ=枷」)を示し、これを「越えるか」「越えられないか」で「映画作品」としての物語に変化が出てくるわけです。

ただし「ラブライブ!」が「娯楽作品」として作劇されている以上、こういった「カセ」は「越えなくてはならないもの」となってきます。

そのため、梨子もまた自らの「カセ」である「海に還るもの」そして「ピアノコンクール」ひいては「音乃木坂」「クリア」していかねばならないわけですね。

※この「カセ」を「超えられなかった人」の物語もまた、「映画」にはなるのですが、ここではその話は止めておきましょう。

 

・・・その夜改めて梨子を起こした千歌が共に向かったのは浦の星。

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千歌は梨子にとっての「カセ」を取り除くため、

「海に還るもの」を聞かせてほしいとお願いします。

思えば傷付き「ピアノを触る事」すらできなくなっていた梨子に、再び「ピアノを弾かせた」のも千歌がきっかけでしたね。

一度はためらいながらも、たった一人の観客=千歌のため「海に還るもの」を弾き始める梨子。

その美しい旋律が内浦の海に響き渡ります。

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ずっと弾く事の出来なかった曲を「弾けた」梨子。となれば、次は「ピアノコンクール」を「クリア」する必要があります。

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千歌が梨子に告げたのは「ピアノコンクールに出てほしい」ということ。

その理由を「大切なもの=ピアノ」に「自分なりの決着をつけて欲しいから」と告げる千歌。

この、「選択肢を狭めず」梨子に「選択をゆだねる」、という描写もまた「ことり留学プロット」のやり直しのように見えます。

「ことり留学プロット」の問題の一つが「穂乃果によってことりの選択肢が捨てられてしまった(ように見える)こと」でした。

今回も結果として「千歌が梨子の決定を覆し」てはいるのですが、千歌は梨子の選択肢を「捨てさせる」のではなく「増やす」ことで、梨子に再度「選択をゆだねる」というプロットに変化させました。

結果としてプロットそのものの「テーマ性」は変化させずに、「ノイズ」を消すことに成功したわけです。

また、今回の選択「可能性を自分から取捨選択しない」というものが、11話にも通底する「ストーリー」となっていきます。

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■梨子不在が「表層化」するもの。

梨子が「ピアノコンクール」へ旅立つ、ということは物語開始以降はじめて「梨子が不在になる」ということ。

梨子の転入によって大きくうねり、変化してきた「内浦勢」の関係性。

しかし梨子が「いる時」にはその変化をはっきりとは目視できませんでした。

梨子の不在はその変化を「表層化」することにもつながります。

 

・・・梨子不在で「ラブライブ地区予選」に挑むこととなった「Aqours」。

プール掃除のあとに練習を試みるも、8人編成でのフォーメーションに変化させなければならないことに気が付きます。

今回は梨子と千歌がダブルセンターとして配置につく予定だった新曲。

しかし、梨子が不在のため「誰かが梨子のポジション」に入る必要が出てきました。

それに抜擢されたのは、でした。

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千歌の幼馴染で「息が合う」というだけでなく、なんでも「ソツなくこなす」と思われている曜。

また身体のサイズも千歌とほぼ同じ。

この抜擢は自然な流れかもしれません。

早速新編成での練習をスタートする二人。

しかし梨子とのコンビネーションしか練習してこなかった千歌は、曜との息がなかなか「合いません」。

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その責任は曜だけにあるわけではなく、千歌もそれを理解していますが、曜は「私が合わせられないから」と苦笑い。

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鞠莉はその様子を意味ありげな目線で見つめます。

放課後、千歌家近くのコンビニで練習を続ける千歌と曜。

曜は「梨子のリズム」で踊る事を提案し、結果として初めて息の合ったダンスをすることに成功しました。

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さすが「器用」な曜。

見事な「調和」を成功させます。

反面「梨子の代わり」を務める中で、自分の存在意義に悩み始める曜

結果として心のうちにもとからあった「不満」が、「梨子の不在」をきっかけに増殖していきます

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■「鞠莉との会話」「曜の妄想」それが持つ意味。

その「不満」に気付いていたのは鞠莉。

ちょっとした「すれ違い」から果南とダイヤとの「2年間」を失ってしまった鞠莉は、その「すれ違い」に敏感です。

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※さて、ここからがこの物語を難しくしているポイントです。

鞠莉が曜に告げる「曜は梨子に嫉妬ファイヤーを燃やしている」という情報。

そして曜もそれに同調する形で、「本音」を話し始めるわけですが、そこで曜が語る内容はけっして千歌だけに対して持っている「不満」ではありません

ではここで物語を整理するために曜が感じている「不満」を箇条書きで列記してみましょう。

①千歌と二人で始めた「スクールアイドル」だったが、梨子や他メンバーの加入によって、スクールアイドル内での「自分の存在意義」が分からなくなっている。

②千歌と二人で出来ることをようやく見つけたにも関わらず、千歌にとって「自分は必要ないのでは?」と思い悩んでいる。

③「要領がよい」と言われ、それに甘んじている自分自身に不満を感じている。

という3点です。

この3点は全て曜が鞠莉に対して語った「本音」の中に含まれている情報です。

すなわち台本上では「この3つが曜にとってのカセである」ということを示しているわけです。

ここから、この「3つのカセ」をクリアすることが「第11話のテーマ」であることが分かるのです。

しかし、視聴者が混乱してしまうのはこの後に鞠莉のセリフ、そして曜の妄想が挟まれるから。

鞠莉は「曜はチカッチが大好きなのだから、本音でぶつかるべき」と助言します。

そして曜はその言葉に引きずられるように「千歌に対して本音をぶつける妄想」をします。

この描写だけみると「曜は千歌に対してのみ不満を感じている」という風に見えてしまい、テーマも矮小化されて見えてしまいます

しかし、この「妄想シーン」は、「千歌に本音を話すべき」という言葉に引きずられた曜が「話すべき本音」を見つけようとして「混乱している」ということを示すためだけに用意されており、いわばあの「妄想シーン」自体にはそれ以上の「意味はない」のです

要するに徹頭徹尾「曜の一人相撲」であることを、一連のシーンで描こうとしているわけですが…。

結果として多くの視聴者が狙いを呑み込めず、「?」を浮かべるシーンになってしまいました。。

ちょっと長くなりましたが、要約するならば「曜の悩みや不満は全て曜の一人相撲である」という事を念頭に置くことができれば、この後の展開などがすんなり入ってくると思います。

 

■「そのままで変われば良い」という「ラブライブ!」に通底するメッセージ。

悩みそのものが「曜の一人相撲」である以上、その悩みを「千歌にぶつける」のは無意味です

なぜなら千歌にはその悩みが「共有されていない」から。

(それは妄想シーンでの千歌の反応からも分かりますね)

となると、彼女を迷宮から救い出すのは、彼女自身の「気づき」となります。

とはいえ、現在迷宮にいる曜は、他人から「気づき」を与えてもらわなければなりません

その「気づき」を与えるのは、図らずとも迷いの一端である梨子となります。

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梨子が告げる「曜ちゃんは曜ちゃんらしくやってほしい」という言葉に思わず反論してしまう曜。

その反応を受けた梨子が語る「千歌の言葉」によって、曜は「一人相撲」から脱する「気づき」を得ます。

梨子から聞いた「千歌による曜の話」(分かりづらいw)。

それは「千歌と同じことをやりたい」と思い続けてきた曜と同じく、千歌もまた「曜と同じことをやりたい」と願っていたという事実でした。

しかし千歌は「普通星人」である自分はどう頑張っても「曜と同じ位置にはたどり着けない」ことを幼少時に実感しており(おそらく幼少時には共に水泳をやっていたはずです)、曜の誘いを容易には受けられずにいました

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反面、曜にはそんな千歌の気持ちは伝わっておらず誘う度に断られ寂しい思いをしていた。彼女にとっては「千歌と同じことをする」ということが一番で、その【成果」など関係が無かったからです。

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この二人もまた「花丸とルビィ」「果南と鞠莉」のように「お互いを思うあまりにすれ違ってしまっていた二人」だったことが明らかになります。

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しかし、だからこそ「スクールアイドル」だけは「一緒にやりとげたい」と千歌は考えていました。

それは「普通星人」の自分でも「キラキラ」できるもの千歌自身がようやく見つけたから。

「普通星人」の自分が頑張って輝けるものならば、千歌にとってのスーパーマンである曜なら余裕で一緒に出来ると千歌は考えたからです。

しかし、ただ「千歌がやりたい」といったから「スクールアイドル」を始めた曜にとっては、「スクールアイドルの中」に居場所を見つけるのは「容易ではない」難しさでした

それは曜自身は自分を「要領が良いだけ」の「普通の人」だと考えていたから。

この「曜の自分に対する評価」と「千歌からの曜に対する評価」のギャップも、ふたりの関係を複雑にさせた要因の一つでした。

さて、千歌の気持ちを知ることで、

カセ②千歌と二人で出来ることをようやく見つけたにも関わらず、千歌にとって「自分は必要ないのでは?」と思い悩んでいる。

は解決に向かいます。

そのタイミングで外から千歌の呼び声が。

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千歌の事を考えていたからの空耳かと思いますが、

なんと実際に千歌は来ていました。

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驚く曜に千歌が語りかけます。

「やっぱり曜ちゃん、自分のステップで練習した方が良い」

「合わせるんじゃなくて、1から作り直した方が良い」

「曜ちゃんと私の二人で!」

この千歌の言葉は「曜の全てを受け入れる」もの。

「誰かの代わりに曜がいる」のではなく「Aqoursには曜そのものが必要」「千歌もまたそのままの曜を欲している」ということ。

そして「曜は誰かに合わせて変化する必要などない」ということを千歌は言っているわけです。

この言葉によって、曜のカセ①~③が全て「一人相撲」だったことに曜は気づきます。

そして千歌もまた、そんな曜の不満を自然と感じていたわけです。

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そんな周囲に気づかず、「一人相撲」していた事に気付いたからこそ

曜は自分自身を

「バカ曜だ…」

と卑下するわけですね。

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かくして解決した「曜の問題」。

「千歌によって曜がほだされた」と思って見てしまうと、少し納得のいかない結末にみえるのですが、「全ては曜の一人相撲だった」と視点を変えると、物語が呑み込みやすくなるのでは?と思います。

というわけで曜が「自分自身と向き合う」ことで「新しい自分」へと生まれ変わった回となりました。

さて、この「自分のまま(そのままで)変わればいい」というのは、これもまたラブライブ!」シリーズに通底してあるテーマです。

それがとみに描かれたのはラブライブ!2期」で、毎回その話を「繰り返した」という印象すらあります。

例えば2話「優勝めざして」ではA-RISEに勝つための楽曲を作るため合宿に挑みますが、その動機では一向に曲が完成しません。結果的に「自分たち」を見つめなおしたμ'sのメンバーが「今の自分たち」を認めたうえで「ユメノトビラ」を作曲するのがこの回です。

あるいは5話「新しいわたし」では自分が「アイドルにふさわしくない」と思っていた凛が「自分自身を見つめなおし」それを周囲に承認してもらうことで「自分自身を愛せるようになる」という物語。

6話「ハッピーハロウィン」はA-RISEに勝つためのインパクトを求め「試行錯誤」を繰り返すμ'sが「見た目を次々」に変えたりしながらも、結果的には「自分たちは元々個性的である」ことに気付く話。

・・・とことさら全て「同じテーマ」のお話なのです。

そういう意味ではサンシャイン5話「ヨハネ堕天」と同じテーマを持っているわけでもあり、やはり花田さんにとってはこの「テーマ」がライフワークの一つなのだな…とも理解できますね。

 

■人魚姫の話

さてここからはちょっとした余談ですが、少し長いかもw

今回の物語はひとつの寓話を連想させる物語でした。

表題の通りアンデルセン原作の寓話「人魚姫」です。

この寓話を想像させる仕組みは第5話「ヨハネ堕天」にて曜自身が「人魚姫」に触れたことから来ていましたね。

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 人魚姫はディズニー映画「リトル・マーメイド」などにもなっている通り、日本人はもとい世界中でポピュラーな物語になっています。

とはいえ、原作はなんともアンデルセンらしい「暗い話」なので、ディズニー版では書き換えられていたりするわけですが。。

今回の10話11話では、この「人魚姫(主に原作版)」の寓話性を「否定する」物語になっていたのも印象的でした。

原作の「人魚姫」では

「王子を愛してしまった人魚姫が、人間になるために足を欲する。

→魔女によって秘薬を授けられる。

→その薬は飲むことで人間の足を手に入れることが出来るが、代わりに人魚本来の美しい声を失う

→人間になりたかった人魚は薬をのみ、足を手に入れるが、その代わりに声を失う(本来は舌を切られる)。また歩くたびに足には激痛が走るようになる

→人間になった場合には、王子からの愛を受けられない場合には海の泡になってしまうという条件もある。

→声を失った人魚姫は王子に対してアプローチが出来ず、結果王子は別の女性を人魚姫と思い込み、求婚してしまう。

→王子からの愛を受けられなかった人魚姫だが、ナイフで王子を刺し、その血を浴びる事で元の人魚に戻れることを魔女から告げられる。

→しかし人魚姫は王子を殺すことが出来ず、自ら海に入り、泡となって消えてしまう」

という画に書いたような「バッドエンド」でした。

そして今回10話11話で描かれた梨子、曜の物語も、このお話になぞらえつつ、その結末を「否定」する物語でした。

なぜなら「人魚姫」「何かを掴むことで 何かを諦める」物語だからです。

 

曜の場合には、王子(=千歌)が人魚姫(=曜)に、「君は君の姿のままで良い」と告げ、人魚の姿のままの人魚姫を「受け入れる」物語でした。

それは「泡となって消えた」原作も、「人間になることで結ばれた」ディズニー版とも別の結末です。

しかしこの「ありのまま」を周囲が受け入れる、という結末は近年ヒットしたアナと雪の女王の結末とも同じです。

あちらでは元来「氷を作り出せる」異端として生まれたエルザが、異端故に引きこもっていた自分自身の「ありのまま」を愛することから物語が動き出します。

最終的には彼女の能力の暴走が悲劇を巻き起こそうとするところを、妹アナの愛情によって止められ、エルザは自身の能力を制御できるようになります。

加えてエルザを「異端」としてではなく「個性」として国全体が受け入れることで、ハッピーエンドを迎えます。

図らずともこの「アナと雪の女王」の原作も、アンデルセンの「雪の女王」である、というのが面白いところですね(こちらも原作では全く違う物語です)。

米国では、このストーリーを「LGBT」の象徴として捉える流れがありましたが、「ラブライブ!」にも、もしかしたら似たテーマ性はあるのかもしれません。

 

■「海に還るもの」→「想いよひとつになれ」への変化。

梨子の物語もこの「人魚姫」の寓話性を否定する物語。

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「海に還るもの」を完成させるため、「東京での暮らし」を捨てた梨子。

しかしやってきた静岡でも「海に還るもの」は一向に弾けるようにならず、いつしか「ピアノへの渇望」も失われていきました。

「人魚姫」ではこのまま「音楽」への愛情を失った「人魚姫=梨子」が「泡となって消える=音楽を止める」という結末になりますが、「ラブライブ!」ではそれを否定します

「ピアノへの渇望」を失いかけていた梨子は、「千歌たち」と出会い、「スクールアイドル」と出会うことで「ピアノへの渇望」を取り戻し、ついに「海に還るもの」を「完成」させ「弾ける」ようにもなるのです

それは「音楽への愛情」を取り戻すことにもなるのです。

 

ところでこの「海に還るもの」というタイトル。

「泡となって海に還る」「人魚姫のバッドエンド」を想像させるタイトルです。

ラブライブ地区予選に臨むAqoursのために、この曲を「提供する」ことにした梨子。

しかしこの曲につけられた歌詞は、

「何かを掴むことで 何かをあきらめない」

という、「人魚姫のバッドエンド」を否定するもの。

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それはこの曲のタイトルが「海に還るもの」から「想いよひとつになれ」に変化したことからも明らか。

曲の持つ意味が変化したため、梨子は「元のタイトルを捨てた」という風に見えます。

(梨子がピアノコンクールでこの楽曲を弾く際、なんというタイトルで紹介されているのか、具体的な描写はありません。しかし演奏を聴き終えた梨子ママが涙を流すことで、恐らくタイトル自体が変化しているのではないか?と想像ができます)

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「自分を苦しめ続けた曲」Aqoursのための曲」に昇華させた梨子。

そしてその曲の歌詞に

「どこにいても 同じ明日を 信じてる」

と付け加えた千歌。

かくしてAqoursの絆はより深まり、いよいよラストスパートへと向かっていきます

・・・というわけで、なんとも難解かつテーマが多重な10話11話でした。

これを書いている段階で13話が終わっちゃっているわけですがw

その話はまた次回ということで。

今回も長々と(11000字…)ありがとうございました♪

 

 このシングルに「想いよひとつになれ」が入るはず!?

ラブライブ!サンシャイン ハイライト 第9話「未熟DREAMER」

いやぁ12話、良かったですねぇ(既視感)。

というわけで、もはや本放送にはどうあがいても追いつかない考察ブログがこちらです(白目)。

まま、13話で1期も終わってしまいますので、その後のロングスパンをこのブログと共に過ごしていただければ幸いでございます。。(という遅筆の言い訳)

 

さて、読んでいただけましたら

「ブッブッブー不正解ですわ!!(意訳:それは少し違いまして?)」

とか

「あんた良いこと言うじゃん」

など、ご意見ご感想も遠慮なく頂けるとありがたいです(あんまり過剰なDisは精神的に来るのでご勘弁頂きたいですが…)。

最近応援して頂ける方が増えているようで、非常に励みになります。

今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m

また、本ブログは著者の妄想がメインです。

関係者様の証言など何も取ってはおりません。

いわば戯言の類ですのでw 予めご了承の上読み流して頂ければ幸いでございますm(__)m

さて、というわけで「ラブライブ!」シリーズ屈指の神回となった第9話未熟DREAMERを振り返りましょう。

今回は一部Twitterで触れた内容と重複することもございます。

そちらも合わせてご了承願います。。

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前回6人での再出発を誓ったAqours

今回はいよいよ物語のキモ=3年生の加入回となりました。

今回も今までと同じく、項目に分けて振り返っていきますね。

 

■消えないホワイトボード

ファーストシークエンス。

果南がスクールアイドル解散を切り出すところから物語はスタートします。

この際、果南はホワイトボードに「歌詞」を書き連ねています。

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今回9話のキモとなるこの「歌詞」

千歌たちの「部室」としてあてがわれたこの部屋は、やはり果南たちの使用していた部室でした。

この部屋を割り当てたのは理事長である鞠莉なので、この采配は「意図的」だったと見て良いでしょう。

千歌たちが初めて部室に入った日にも、うっすらと残っていた「ホワイトボードの歌詞」。それは物語の進行上大きな役割を果たしていきます。

この辺りは「3年生の物語」部分、或いは「未熟DREAMER」の楽曲解説部分で、詳しく解説するようにしますね。

 

■果南と千歌

「上級生と下級生」あるいは「先輩と後輩」という関係ながら「幼馴染」でもある果南と千歌

こういった関係性のキャラクターは「ラブライブ!」シリーズには初登場となります。

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子供時代には臆病な千歌を後押ししていた果南

再び登場した幼少時の千歌。やはり左側の「黄色いリボン」が無いように見えます。

1話ハイライトで触れたように、千歌の「黄色いリボン」は彼女の中の「穂乃果=勇気」を象徴するもの、と考えられます。

とすれば、この時は千歌の「穂乃果性」を果南が「補てん」していた、という風にも見えますね。

一つ離れた年上の幼馴染である果南。

恐らく果南が中学に進学するタイミングで、それまでよりは「疎遠」になってしまったであろう二人。

千歌が「リボンを付けるようになった」のはそのタイミングなのか?というのも、気になるポイントの一つ。

そしてそこにも「ドラマ」があるのでしょうか。

まだまだ不明点ばかりの「二人」の関係ですが、なんにせよ千歌は果南という人の「本質」を下級生の中では「一番知っている」からこそ、彼女の行動や選択に「疑問」を感じます

そして、それが今回の物語を動かす「きっかけ」となっていきます。

 

松浦果南

今回のキーマンとなる果南。

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これまでは「台詞が全くない回」だけでなく「出番すら無い回」があるなど「冷遇の極み」を受けてきましたが、それは彼女こそが「物語のキーマン」だったから。

彼女が「動く」時、物語も急速に「動き出し」ます。

果南の性格をよく知る千歌は、「自分の一度の失敗で全てをあきらめてしまう」という選択が「果南らしくない」と思い、彼女を調査しようと試みます。

その方法とは、「ストーキング追跡」。

とりあえずは、毎朝「日課」として早朝ランニングをこなす果南を追いかけることで、何か「綻び」を見つけ出そうとします。

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(花丸…)

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内浦を軽快に、息も切らさず走り続ける果南。

追いかけるAqoursの面子がヘロヘロになる中、顔色一つ変えません。

その体力の充実は、今のAqoursに足りないものの一つ。

絵里の加入がμ'sのダンスクオリティを高めたように、果南もまたAqoursに足りないものをプラスする大事なピースであることが分かります。

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(体力自慢の曜でさえ、ついていくのが精いっぱいです。)

たどり着いたのは千歌たちも練習に使っている淡島神社階段

その先の祠の前で、果南は「水を得た魚」のように躍り始めます

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その動きの華麗さ、見事さは、思わず千歌たちも見惚れるほど。

同時にその晴れやかな表情からは「スクールアイドルが嫌になった」様子など微塵も感じ取れません

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思わず拍手しそうになった千歌よりも先に拍手が聞こえてきました。

その正体は鞠莉

「なんでいるねん!」などという野暮な突っ込みは止めましょう。

彼女は「果南のストーカー(自称)」ですからね。本職です。

思わず身を隠す千歌たちに気付かず会話を始める二人。

鞠莉の言葉から「果南が復学する」という事実が明らかになります。

しかし、その後のやりとりはここでも堂々巡り。

「スクールアイドルに戻れ」と言う鞠莉を頑なに拒む果南。

鞠莉は果南が「歌えなかったことを悔やんでスクールアイドルを止めた」と思っているので、半ば力づくに果南を呼び戻そうとします。

しかし、果南はその誘いを完全に拒絶。

ついには無二の親友だったはずの鞠莉に

「なんで帰ってきたの。私は帰ってきてほしくなかった。」

「あなたの顔、もう見たくないの。」

などという厳しい言葉を吐きかけてしまいます。

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これにはいつも「余裕」な表情の鞠莉も流石にショックを隠せず。。

(・・・このシーンはあまりにも胸が痛くなるシーンでした。)

とはいえ言った本人も苦渋の表情。

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しかしその表情を、鞠莉は見ることが出来ません

どうしてここまで「こんがらがってしまった」のか。

この時点では視聴者には理由が分かりません。

しかしこの頑なさ、個人的には「ラブライブ!」の某人物を思い出さずにはいられませんでした。

そう、「ラブライブ!」の主人公、高坂穂乃果です。

今でこそ「明るく能天気」なイメージが定着している穂乃果ですが、1期終盤に見せた「面倒くささ」「頑なさ」は相当なものでした。

その性質の根底は、彼女自信が持つ強烈な「自我」にあります

その特性が良い方向に働く場合、「強烈なリーダシップ」となって仲間をけん引する膨大なエネルギーとなるのですが、それが一度マイナス方向に振れた場合、「強烈な自我=責任感の強さ」となり、とんでもない「めんどくささ」に変化してしまうのです。

ラブライブ!」1期での穂乃果の場合、「猪突猛進に物事を進めた」結果、「周り(ことり)の変化や、自分自身の体調の変化に気付けず」「大きな失態」を犯してしまいます(注釈:風邪を押して出演したLIVE中に倒れ、μ'sは活動中止。ことの重大性を指摘された生徒会長=絵里の判断によって、μ'sはラブライブへのエントリーを取り消すことになりました)。

結果として「μ'sの活動休止」「ことり留学」という事態を招くことになり(ことり留学プロットに関しては後ほど触れますね)、それを「自分自身の責任」として1人で背負ってしまう事で、自分がけん引してきたはずの「スクールアイドル活動」を「辞める」とまで発言してしまいます。

これがひと時の感情に根ざした突発的な発言で、仲間の意志や説得によって覆るのなら良いのですが、「強い自我」の持ち主である穂乃果は「自分自身が決めたこと」を頑なに「守ろうとします」

結果海未に「最低呼ばわり」されたりするわけですが、それでも彼女は自分の「決定」を守り抜こうとします

・・・ちょっと話が脱線してしまいましたが

なにはともあれ、果南からはそんな穂乃果と同じ性質を持つ香りがします。

すなわち「自分自身の責任感」から「自縄自縛」になってしまっているわけです。

となれば、その果南を「自縄自縛から解放する作業」が必要になります。

 

■「歌えなかった本当の理由」。明かされる「視聴者が知らない情報」という問題。

一度は果南に手厳しく拒絶されながらも、鞠莉は粘り強く追いすがります。

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その手に握られているのは、かつて「スクールアイドルを結成していた」時期に使用していた「衣装」

しかし果南はそんな「大事な思い出のつまった衣装」外へ放り投げてしまいます。

(このあたりも果南の頑なさと、融通の利かなさをよく表しています)

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舞い落ちる衣装を「制服フェチ」である曜がとっさにキャッチ!

コミカルなシーンに見えますが、「衣装」を拾ったのが2年生3人であったように、「終わりかけたスクールアイドルの夢」を「2年生3人が救う事実」へのメタファーのようにも映ります。

拾った制服が「衣装」であることに気付く曜。

上の階が騒がしいので行ってみれば、そこではいよいよ「言葉では埒が明かない」ともみ合いが勃発していました。

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とはいえ、どれだけ「もみ合おう」と根本的な問題認識が「ずれている」現状では「解決」には至らず。

「いつまでこの押し合いへし合いを見せられるんやろ…」という視聴者の声を代弁するかのように、いよいよ千歌が「切れてしまいます」

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「いい加減に…しろーーーーー!!!!!!」

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「わけのわからない話をいつまでも!!」(ここも視聴者の代弁ですねw)

「感情をあらわにすること」が少なかった千歌の「爆発」に慄く人たち。

(一人ニヤリとしている花丸…。耳塞ぎ成功したから?)

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「放課後部室に全員集合!」と有無を言わせず3年生ズに承諾させる千歌。

3年生相手に、ここまでの強権を発動できたのは、相手の一人が幼馴染の果南だから。

「こう着」した物語を動かすのは、やはり千歌の「役割」となります。

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※完全な余談ですが…

3年生の教室にかけられた「日進月歩」という標語。

クラスの標語としては少しふさわしくない感じがします。

「日々、物事が急速に移ろう様」を示す4文字熟語。

この言葉を掲げたのは、「いつまでも立ち止まっていないで進むべき」という持論を持つ鞠莉なのでしょうか?

それともダイヤなのでしょうか。

どちらにせよ小物を使って「見えない誰かの感情」を説明するのも、映画的な手法ではあります。

 

・・・放課後アイドル研究部に集合した3年生ズ+Aqours

図らずもこのシーンが初めて9人が(面と向かって)一同に会すシーンとなりました。

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ここでも果南の態度は変わらず

鞠莉やルビィの証言や、ダイヤの裏切り(?)に憤慨しつつ、途中退席してしまいます。

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ここで事態を動かすのは、鞠莉も「知らない情報」を知っているはずのダイヤ。

追求を逃れるように脱出を図りますが、

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姉妹共々、ヨハネコブラツイストの餌食に

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コブラツイストは首・肩・腰を同時に極める複合関節技です…というどうでもいい知識)

いよいよ観念したダイヤ。

その彼女から明かされた「歌えなかった本当の理由」は、Aqoursだけでなく、鞠莉にとっても「初耳」でした。

ダイヤが明かした「果南が歌わなかった理由」

それは「鞠莉が本番直前に怪我をしていた→怪我をかばって無理をし、事故に発展することを恐れた→果南が緊張で歌えなかったことにして棄権した」という事実でした。

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※さて、ここで少し不満点を挙げます。

私が不満に感じたのは、この「鞠莉のけが」という情報が、今日・この日「唐突に、初めて示された情報である」という点です。

事前に匂わせるのが難しい情報なのは理解できます。

しかし我々が知らない情報が物語構造上の「大事なポイント」として登場してしまうのは、視聴者に対して「フェアではない」個人的には思います。

この手法が常態化してしまうと「実はこうでした!」後出しじゃんけんで全てが解決できる→伏線をいくらでも無効化できる…という事態になりかねないわけで、シナリオ構造としては悪手の一つのように思えてしまうのです。

ただし、私が悪手と思うのは「怪我」という情報を「後出し」で出した手法自体のことであって、プロット自体にはそれほど不満は感じていません。

多少強引に映るプロットではありますが、「幼馴染」ゆえに「鞠莉の立場」をよく知る果南が「自分のわがままに付き合ってくれている鞠莉に無理をさせられなかった」という構造はとてもよく理解できるからです。

(それを強調するように、鞠莉がスクールアイドルを始めたことを理由に、自分の進路設計をも変更させている事実を果南は聞いてしまう・・・・という描写もあります。)

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また「怪我」自体も「かねてから鞠莉にスクールアイドルを辞めさせるべきなのでは?」と考えていた果南が、それを「実行に移す」ための「引き金」になっただけに過ぎず、それほど「大きな事件ではない」のです。

しかし、この構成では「怪我自体が大事件」のように見えてしまい、それが「プロット自体の邪魔」をもしているように見えてしまいました。

個人的には、非常にもったいないなぁと思う部分ではありました。

 

■3年生組の関係性=「ことほのうみ」のリブート?

 前作での2年生トリオのように、幼少時代からの幼馴染である3年生組

その関係性には、どうしても「ことほのうみ(ことり・穂乃果・海未)」の3人を重ねてしまいます。

物語中何度か断片的に登場する「過去の3人」の姿。

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(険しい表情の鞠莉。引っ越しを繰り返してきたであろう過去。金髪・碧眼故にクラスになじめなかったであろう過去がこの1枚から伝わります)

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(妹と同じ動作をする姉)

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(懐中電灯を振る…という合図)

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そこには「3人」がいかにして「親友」になったのかに関しての詳しい説明はありません。

これは尺の都合上「そこに時間を割けない」という大人の事情もあるのかもしれません。

しかし、それ以上に「断片的にイメージを差し込む」ことで、逆説的に「3人の関係の強さ・深さ」「その時間の長さ」「濃密に伝える」効果が生み出せているように思えます。

そしてこの手法自体、前作「ラブライブ!」で「ことほのうみの関係性」にも使用していたものであり、やはり前述した通り「ことほのうみ」との親和性を感じてしまいます。

その親和性の高さから、「ことほのうみ」のifを「サンシャイン」の3年生組を利用して表現し、その関係性を「リブート」しようとしているのでは?とも思えてきます。

 

■「ことり留学プロット」の「失敗」と「やり直し」。その「真意」とは。

前作「ラブライブ!」で多くの人を困惑させたNO BRAND GIRLS失敗」から「ことり留学」に至るプロット。

それまで、なんだかんだと「ほんわか」していた物語の中で唐突に突きつけられる「シリアス」で「バッド」な雰囲気に戸惑った視聴者が多かった…というだけでなく、

「知らない話題が急にぶち込まれた」

 挙句、

「それを穂乃果がほぼなし崩しに解決」「ことりも穂乃果にほだされて帰ってきたように見える」展開に乗れない視聴者が続出

結果的にこのプロットを「呑み込めるか」「呑み込めないか」で、その後のラブライブ!」を楽しめるか否かを図る「試金石」にまでなってしまいました

またこの展開を「呑み込んだ」人でも、このプロットを特に意識せず「スルーしてしまっている」か、

プロットの持つ意味や意図を「理解していない」方が大半。

(ただし理解していないのが悪いのではなく、本編内での説明方法が悪いから仕方ないのです。視聴者が悪いわけではありません。)

なおかつそれを解説する媒体も皆無という現状が、今なお続いています。

実は私自身、このプロットの持つ意図が分からず、「困惑したうちの一人」でした。

ただ、「このプロットって何のためにあるんだろう?」と考えたのが、

ラブライブ!」を分析し始めるきっかけになり、

ひいてはこのBlogを作るきっかけにもなったわけで、

個人的には「非常に思い入れの強い」プロットの一つとなっています。

 

そんなわけで今回「鞠莉が留学していた」という情報が出た段階でなんとなく

「花田さん(シリーズ構成・脚本)はことり留学プロットをリブートしようとしているのではないか?」

とピンと来たわけです。

そして、「サンシャイン」9話では、私の予想の通りに、その「リブート」が行われました。

 さてでは「ことり留学プロット」とはどういった意図を以て作られたのでしょうか?

実はこのあたり9話放送直後に自分のTwitterで振り返っているので、それをまんま掲載しますw

・・・・長くなりましたが、概ね以上が「ことり留学プロット」の狙いと、今回リブートをした意図となります。

以上のツイートでほぼ全てなのですがw 

せっかくなので「かなまりの描写」に関して少し追記します。

 

■伝えたいことは「ちゃんと伝える」という視点。

ダイヤに「真相」を聞いた鞠莉は、「果南をブッ飛ばす!」と言って黒澤家を飛び出します。それは「大事なことを自分に伝えなかった」果南が許せないから

しかし、ダイヤは果南が鞠莉に「気持ちを伝えていたこと」「それに鞠莉が気付かなかったこと」を教えます。

その答えは「ホワイトボード」にあります。

9話冒頭映るホワイトボードの歌詞。

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この時部室で3人が話しているのは「スクールアイドルを解散する」という話。

しかしそんな話題をしながら果南は「ホワイトボードに歌詞を書き続けて」います。

この歌詞は「未熟DREAMER」の未完成版。

そしてここに書かれた内容こそが、「果南が鞠莉に伝えていた本音」ということになります。

ここから伝わるのは「スクールアイドルへの未練」

しかし、鞠莉はその表現にはまるで気づきませんでした。

そして、その事実をダイヤから教わったからこそ、鞠莉は「浦の星へ走っていく」わけです。

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見た人全ては絶賛する鞠莉の疾走シーン。TVアニメの枠を超えた「気合の入ったシーン」でした。

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2年経っても完璧には消えていなかった「ホワイトボード」の歌詞。

そこに残された歌詞を読むことで、鞠莉は2年越しに果南の真意を知ることになります。

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再び浦の星で対峙する二人。

二人は「お互いを思いやる」あまり「決定的にすれ違って」いました。

そしてその「すれ違い」を生んだ要因は、お互いの関係に慣れ親しんだ結果=「言わなくても本心が伝わるはず」という相手への過剰な期待だったことが分かります。

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鞠莉の気持ちを聞かずに決定を下したことに対する、報復としての「平手打ち」。

しかしそれは、「本音を言ってくれなかったこと」への非難でもあります。

その意図が分かるからこそ、果南も鞠莉に「本音をぶつけます」

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果南は鞠莉を「スクールアイドルに巻き込んだ」という負い目があります。

だからこそ鞠莉の口から自主的に「スクールアイドルをやりたい!」という言葉が聞きたかった。

しかし鞠莉の口から出るのは、「リベンジ」「次は負けられない」というグループ全体としての責任感から発せられる言葉ばかり。

「自分が悔しいからもう一度やりたい」「スクールアイドルを続けたい」という意志表示が無かった。

だから果南は「スクールアイドルという重荷」から「鞠莉を解放する」ために「決断をした」と鞠莉に告げます。

果南を非難した以上、鞠莉も「自分の罪」には気づいています。

それ故に自分の「左ほほ」を差し出すわけですね。

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平手打ちを通して、「贖罪」と「和解」を試みる鞠莉。

しかし果南が下した結論は「ハグ」でした。

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ここでも「ハグ」が二人にとってどういった意味を持つのか、は説明されません。

ただし、二人の(厳密には3人の)初邂逅のシーンをフラッシュバックさせることで、

「この二人は、大事な場面では必ずハグによって、問題を解決をしてきたのだな」ということが伝わるようになっています。

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本編ではじめに「ハグ」を試みたのは鞠莉でした。

そこから分かるのは「ハグ」が二人にとって「仲直り」を超えた「リセット」の意味合いを持つ動作である、ということ。

はじめこれを拒絶した果南から、改めて鞠莉に「ハグ」を求めるという行為は、鞠莉だけでなく、視聴者である我々にも「言葉以上の意味」を伝える動作となります。

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崩壊する鞠莉。

それを受け止める果南。

本音を語り合えた二人は、「ハグ」を通して、ようやく「元の幼馴染」の二人に戻ることが出来ました。

「お互いを思いあうが故にこんがらがってしまう人たち」ばかりが登場する「サンシャイン」。

鞠莉と果南もそんな関係の二人なのでした。

 

黒澤ダイヤ

鞠莉を学校に誘い、その後果南を学校に入れてあげるために「鍵」まで開けた生徒会長=黒澤ダイヤ

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彼女は二人の「こじれ」を最も理解していた存在であり、だからこそ板挟みになり苦しんでいた人物でもありました。

彼女が「スクールアイドル部」を認めなかった理由は「自分たち自身が夢半ば」のまま宙ぶらりんになっており「スクールアイドルへの気持ちに踏ん切りをつけられていなかった」から。

それ故に「他人がスクールアイドルをやる」ことを認められなかったのでしょう。

しかし「鞠莉の復帰」と、その鞠莉が「Aqoursの活動に前向きであること」を知る事によって「鞠莉自身のスクールアイドルへの思い」を確認した彼女は、「自分自身のスクールアイドルへの想い」をも再燃させていきます。

結果鞠莉を上手く操りながら、果南を刺激し、千歌たちを厳しく教育し、結果としてAqoursの結成を成立させてみせました

μ'sを結成に導いた希よりも更に困難なミッションを成立させた、ダイヤという人物。

只者ではないな…と思います。。

そんなわけで、もはや「スクールアイドル活動」になんの支障もきたさなくなったダイヤ。

元々どのメンバーよりも「スクールアイドルを知り、愛する」人物である彼女が加入することで、遂にAqours「パーフェクトナイン」となります。

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9話で9人が揃う、というお約束を守りつつ!

いよいよAqours」が完成しました!

そんな彼女達の門出を祝う歌は、花火大会に向けて準備をしながらも未完成のまま披露できなかった「あの曲」です。

 

未熟DREAMER

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この楽曲に関しては、語るのは野暮…というくらいPVが素晴らしい出来です。

また、これまでの物語を「総括」するような歌詞も素晴らしい。

こちらに関してもCD発売後に思わず興奮してツイートしてしまったものがありますので、そちらを貼りますねw

 ・・・ちょっと言葉足らずの部分を補足しますと、

サビ前の「力をあわせて 夢の海を泳いで行こうよ」は3年生3人ではなく、千歌以外の全員が歌唱しています。

ただし、この部分の詞を作ったのは「1年生時の果南・ダイヤ・鞠莉」なのです。

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(8話で1年生時の果南が作詞しているシーンがあります。)

その歌詞に、9人となったAqoursが「今日の海を」と加え、それを千歌がソロで引き継ぐからこそ、「過去から今へ」引き継がれたバトンを強く実感できるわけです。

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作詞を通して、「止まっていた時間」を動かし始めた3年生ズ。

「本音をぶつけ合えた」今だからこそ、あの時願った「楽しくなるはず」「未来」信じることが出来る。

未熟DREAMER」という楽曲がただの挿入曲としてではなく、物語を形作るための「大切な一部」として機能しているのも、この回の素晴らしさの一つですね。

 

・・・というわけで書いた自分が引くほど長くなった9話振り返りでございました。。

次回10話・11話はまたしてもニコイチで更新する予定。

その後12話と13話のハイライトが終わりますと、

今度は「サンシャインの総括」をしつつ、

ラブライブ劇場版の詳細解説」を「ラブライブ1期および2期の解説」もしていこうかな?と勝手に青写真を描いております。

相変わらず自分の文章力の低さに悲しさしかないですが、今後も精進して参りますので、何卒引き続きよろしくお願いいたしますm(__)m

という、ビジネス文章を最後に、また次回!!

 

 神曲is here!

 予約しまんた。

ラブライブ!サンシャインハイライト 第7話「TOKYO」&第8話「くやしくないの?」

※9/13筆

ちょっと眠すぎて表現が拙かったり、足りない部分があったので大幅に加筆修正しました。

よろしくお願いいたしますm(__)m

またまた空いてしまいました。サーセン(白目)。

さて、いよいよ大事な回7話と8話に突入します。

この2つは2個でセット。

いわばオデュッセイアとかスタンド・バイ・ミーとか「マッドマックス 怒りのデスロード」のような行きて帰りし物語ですので、一緒にやってしまうのがベスト。

決して「ちんたらやってると追いつかないから」ではないですよ。

ええ本当に。。(すっとぼけ)

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■「憧れの場所」であり「相対化される場所」である「TOKYO」へ

 前回発表した楽曲「夢で夜空を照らしたい」はPVの視覚的工夫が受け好評。

スクールアイドルランキングでは99位

急上昇ランキングではトップと、目に見える結果を生みました。

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 そんな上昇気流のAqoursに舞い込んだのはラブライブのスピンオフイベント(?)「東京スクールアイドルワールド」への誘いでした。

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一気の知名度アップを狙うAqoursにとっては「渡りに船」ともいえるこのお誘い。

当然メンバーは参戦へ前向きです。

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しかし「東京」で「他のスクールアイドルと合同のライブイベント」に参加するということは、Aqoursとして初めて静岡県外」に出て、「相対化される」ということ。

イヤでも不穏な空気が漂います。

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「東京憧れギャグ」を炸裂させる「非東京メンバー」のわちゃわちゃが挟まれることで和みをアピールしつつ。。

東京に向かうルビィに、姉ダイヤが託したのは「気持ちを強く持て」というメッセージ。

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言葉の意図が分からないルビィは、思い悩みますが・・・。

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(同じタイミングでリーダーの千歌は、自分の家の近所の景色を見て喜んでいました。アホの子なのかw)

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まぁ、この千歌の表情は「東京」への憧れを示している…のだとは思いますが。。

 

ただし千歌が「東京」に特別な思いを持つのは、単純な「都会への憧れ」だけではなく、そこが「μ'sの聖地」でもあるからです。

■「彼女たちが知っていること」「私たちが知っていること」

「μ's」の聖地を巡る。

それは千歌にとって、今回の「旅」の動機の一つになっています。

しかしここで分かるのは、

「彼女たちが知っていること」と「私たちが知っていること」が違うという事実です。

彼女たちが向かうのは、

μ'sが練習で何度も登った階段。

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神田明神

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万世橋

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そしてUTX高校(秋葉原UDX)。

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などのメジャー所。

「サンシャイン」の世界で「μ's」の物語がどのように語り継がれているのか、今一つ分からないのですが、第3話で2年生の3人が「School idol movie!」での穂乃果の言葉を引用したように(スクールアイドルはこれからも広がっていく~というもの)、それなりの密度で共有されていると考えても良いのでしょう。

ただし、今回登場する「聖地」の中で唯一Aqoursの面々が寄らなかった場所があります。

それは、μ'sが解散を宣言したのち、全員で号泣したあの「駅のホーム」です。

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μ'sのファンであれば、一度は立ち寄ってみたいと思う「あの場所」をあっさりとスルーした、ということはAqoursのメンバーはこの場所の存在自体を「知らない」と考えるのが自然でしょう。

作劇的に考えた場合にも、敢えてここを「出した」にも関わらず、メンバーを立ち寄らせなかった理由は「この場所を知っているのはμ'sと視聴者である我々だけなのである」という事実を明文化させるためでしょう。

ま、そこまでの意味はない、単なるファンサービスの可能性もありますけどね(笑)。

 

■梨子が「まだ戻れない場所」

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神田近くに宿泊するAqours

どうしてもシリアスになりがちな「サンシャイン」では、和ませるためにメンバーのわちゃわちゃをよく利用しますね。

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神田の近く、ということは「音乃木坂の近く」ということ。

となれば「μ's」に憧れるメンバーは「行ってみたい」と考えるのが自然です。

しかし、一人浮かない顔なのは、「音乃木坂から転校してきた」梨子。

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中学時代に、ピアノの実績を買われ音乃木坂に入学した梨子。

(音乃木坂が元々音楽学校だったという、忘れていた設定!)

しかし高校入学後には思ったような結果が出せず、逃げるように浦の星へと流れ着いた梨子にとって、音乃木坂はまだ「戻れない場所」です。

夜中、眠れずにいた梨子が千歌だけに語った「音乃木坂」と「ピアノ」への思い。

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梨子にとって「自信を喪失した場所」へと戻るのには、まだ時間が必要です。

それは彼女がまだ「トラウマを克服できていない」からです。

彼女が音乃木坂に戻る時、それはドラマが大きく動く時なのでしょう。

 

また、この想いを千歌とだけ、共有したことが後々の伏線へとなっていくわけですが、それはまた別の話。

そしてもう一点。

「ピアノが弾けるようになった」梨子は「音乃木坂」に「戻る」日が来るのでしょうか?

このあたりは2期以降の物語になりそうですね。

 

■「saint snow」という存在と意味。

物語の時間軸が前後してすみません。。

とはいえ、saint snow7話と8話を繋ぐブリッジですので、このタイミングまで待ちました。

千歌にとって「希望」の象徴である「μ'sが練習していた階段」。

そこを登りきった先には「希望」が待っているはず。

しかし待っていたのは、彼女たちの行く手を塞ぐ「カタキ=ライバル」でした。

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アカペラでのハモリというド迫力な登場演出。

そこには「歌唱力」という部分での「Aqours」とのクオリティの差別化が為されています。

更に全力疾走からの・・・

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跳躍・・・!!

こ、こいつ、ムダに身体能力の高さまでアピールしてきやがった!!!

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ニヤリ(ドヤァ)

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(鹿角姉妹はクールに去るぜ。)

 

というわけで強烈に自意識過剰個性あふれる自己紹介をかまして去っていくsaint snowのお二人。

「優しいラブライブ世界」においては珍しく「ヒール感」溢れるキャラでございます。

再登場はいつなのか・・・!

と思っていたら凄まじく直近

なんとAqoursと共に前座として呼ばれた2組のうちの1組がsaint snow」だったのです。

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・・・ほんとどうでもいいんだけど、この二人なんとなくガンダムXの「変態兄弟感」がありますよね。ほんとどうでもいいけど。

ガンダムXのフロスト兄弟)

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「観ていて!私たちSaint snowのステージを!」と高らかに宣言しステージに向かう二人。

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(出崎演出みたいになってる!)

披露した曲はSELF CONTROL!!」

まずアニメの動き、スゴイです。

「静止画にするために作ってない」のがキャプチャ取ってると良く分かる。

あくまでも「動かす」ために作ってるので、良いキャプチャが取れないこと。

しかし、だからこそ、凄いグルーブ感と躍動感を生む歌唱シーンになっていますね。

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確かな歌唱力、そして表現力

「二人しかいない」からこそ手が抜けないという緊迫感

そしてその緊迫感が生み出す精緻なパフォーマンス

間違いなく現時点ではAqours」を凌駕した存在として映ります。

非の打ちどころがない、まさしく「パーフェクト」。

反面、歌詞に視線を向けてみると、彼女たちがまだ「未熟」であることが際立ちます。

 

 歌詞を読み解くと

「最高だと認められたい」

「認められるためには、遊びではなく真剣でなくてはダメ」

「真剣だと認めさせるためには、弱い自分の影に打ち勝たなくてはならない」

「最高だと言われるために自制(self control)しなければならない」

となんだかライザップみたいな歌詞になっています。


Saint Snow - Self Control Lyrics

このblogでは再三言っていますが、「ラブライブ!」という作品が「ミュージカル作品」である以上、歌が出てきた場合にはきちんと物語上意味があって登場しています。

ということは、この歌詞もまた「彼女たちの現状」を表現していると考えるのが自然でしょう。

一見Aqoursよりもはるか高みにいるように見える彼女たちもまた「模索の途中」にいるAqoursと変わらぬ存在」なのです。

放送直後にはこのsaint snowへの非難が相次ぎましたが、私にはちょっとよく分からない現象でした。

それは歌詞を読み解くことで、彼女たちの役割が分かっていたからでもありますが。

8話序盤、涙目で「ラブライブを馬鹿にしないで!」と詰め寄る姿から、彼女たちの現状は分かるはずなのですが。

 

さて、「SELF CONTROL!!」の歌詞から感じるのはsaint snowを動かしている動機が強烈な「承認欲求だということ。

なぜそんなカルマを背負っているのかは現時点では分かりませんが、「誰かに自分を認めてもらうために頑張る」というのは、Aqoursとは真逆のアプローチです。

何故ならそれはμ'sのアプローチとも真逆だからです。

ラブライブ!シリーズのテーマの一つが「他人など気にせず、自分を愛する(誇る)」ことであり、μ'sはアニメ2期で何度もそのテーマを反復したにも関わらず、saint snowの動機はそれとはずれています

となれば「テーマ」を描くために「物語」があるラブライブ!」では彼女達もまた変化していくはず。

今後Aqoursと戦うなかで彼女たちはどう変わっていくのでしょうか。

こちらも楽しみです。

 

■μ'sも真っ青な負けっぷり。しかしそれは予想の範囲内。娯楽作品故の「敗北」とは。

とはいえ歌詞の中身と関係なく、周囲のアイドルとAqoursのクオリティの差は歴然

Aqoursのメンバーはひどく打ちのめされます。

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(せっかくの東京でも、どこか心ここにあらず)

これまで第3話では挫折しかけるも「友人や家族の協力」を得て乗り切り、なんだかんだ順風満開にやってきたAqours

そんな彼女たちにとって初めての挫折

とはいえ、この敗北はこちらには予想済みです。

というのも、「ラブライブ!」という作品は非常にスタンダードな作劇に従って作られている作品だからです。

ハリウッド的(というか日本映画でも同じ)作劇の決まりとして

「まず少し勝つ、その後めちゃくちゃ負ける、そしてそこから這い上がって勝利する」というのが、「娯楽作品」の基本

ラブライブ!」はそれを忠実に守って作劇しているわけです。

前作「ラブライブ!」でも基本それに従っていましたが、ちょっと上手くいかなかった部分もありました。

ま、だからこそ今回は更にブラッシュアップしてくるだろうなと予感して見ていました。

そんな期待に応えるかのように(?)Aqoursには追い打ちが。

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「はっちゃけお姉さん(俺命名)」に呼び出されて渡されたのは、イベント参加ユニット全ての人気投票結果

今回はこの結果をもって入賞者を決める…というイベントだったのです。

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(前作から唯一の継続登場人物 はっちゃけお姉さん=俺命名)

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「渡すかどうか迷った」…というその結果。

その言葉だけで不安を増すメンバーたち(と視聴者)。

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結果は30組中30位。得票数0という、驚異的な「負けっぷり」

「負ける時はとことん負ける」というのはラブライブ!」の伝統。

とはいえ、「これはあり得ないだろう!」と怒っている人も見かけたんですが、「ラブライブ!」って作劇としては「寓話」に近いものがあるので、こういった部分での「リアリティバランス」みたいなものって全然取らないんですよね。

あくまでも「伝えたいこと」のために「表現」がある。

「物語」のために「キャラクター」がいる。

というバランス構成なので、ここは呑んでいただくしかない。

(ま、そういうバランスだからアニメそんなに見ない僕でも大好きなんですけどね。)

 

とはいえ、ここまで「負ける」というのは私も予想外ではありました。

さて、いよいよ「決定的に負けた」Aqours

ここから彼女たちの物語は急激に動き出します

 

■「敗北」の受け入れ方。曜と千歌。

「決定的な敗北」はいつも明るいAqoursのメンバーにも影を落とします。

その中で必死に「頑張ったからこれで良い」とメンバーを鼓舞する千歌

しかしその笑顔はどこか堅苦しいものです。

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そんな千歌に真っ向から問いかける曜。

「千歌ちゃんは、くやしくないの?」

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そんな曜の「直球」にぎょっとするメンバー。

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それに対してしどろもどろになって返す千歌。

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しかし、本音は聞けず。

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帰り際。

千歌が迷った時に必ず問いかけてきた「スクールアイドル止める?」という問いかけ。

しかしこれにも千歌は答えず

二人の間には溝が生まれてしまいます

 

生粋の「スポーツ少女」として育った曜。

彼女が選んだのは「個人競技」である「水泳」でした。

そんな彼女の日常は「自分との闘い」の連続のはず。

勝利のために分析と練習を怠らず、結果的に「勝利し続けてきた」曜。

結果として「飛び込みの能力はインターナショナル選手レベル」というアスリートに成長した曜。

そんな彼女には「敗北する人」の気持ちが、もっといえば「凡人」の気持ちが分かりません。

だから、千歌の気持ちを今一つ理解しきれないし、千歌を上手く励ますことも出来ない。

しかし、彼女自身はホントはそれを「分かりたい」

その痛みを千歌と「共有したい」

でも「分からない」

そんな曜のジレンマがこのシーンには集約されています。

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結果的にこの溝が後々の伏線となるわけですが、それもまた別のお話。

 

■「千歌以外」が見つめる「月」。千歌が掴もうとする「太陽」

帰宅後、物思いにふけるAqoursメンバー。

彼女たちが共通して見つめるものが「月」でした。

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2話のハイライトでも書きましたが「月」は自ら輝けない星です。

故に輝くために「太陽」が必要

しかし、現在のAqoursは絶対的な「太陽」だったはずの千歌を失った状態です。

このシーンは、そんな千歌以外のメンバーの現状を「月」に見立てて表現している、いわばメタファーの表現となっています

続く曜と梨子のシーンではそれがもっと分かりやすく示されます。

曜は千歌とのやりとりを思い出し、上手く励ませない自分に歯がゆさを感じ、思い悩んでいます。

その際見ているものは「千歌=太陽」の写真です。

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梨子はベランダから千歌の部屋をただ見つめます。

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このベランダは、第2話で梨子が「千歌=太陽」と出会うことで「希望を手に入れた」象徴的な場所です(詳しくは2話ハイライトをお読みください。)

すなわち、二人も自分自身を月になぞらえ、「千歌=太陽」の復活を願っている、という状態なわけです。

しかし、誰もが「太陽」としての役割を期待している千歌自身は、一人部屋に籠り、寝転がり、ふさぎ込んでいます。

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そんな状態の彼女が手を伸ばすのはμ'sのポスター

前作「ラブライブ!」の劇場版作品「School idol movie!」が本作「ラブライブ!サンシャイン」に大きく影響を与えているのは何度か指摘させていただきました。

その劇場版のストーリーとは、

μ'sはスクールアイドル達とSUNNY DAY SONGを共作し、SUNNY DAY SONG」を「スクールアイドル」のアンセムとすることで、μ'sが解散したとしてもSUNNY DAY SONG」が「μ's=スクールアイドルの意志や希望」を伝え続ける故にμ'sが解散したとしても「大丈夫なのだ」という物語でした。

しかし、千歌はこの文脈を把握していません。

彼女はμ'sに「太陽」を見ており、それ故にその「太陽」を掴もうと手を伸ばします。

(ここの手の動きもまた、映画での穂乃果の手の動きを意識したものですね)

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しかし千歌は、その太陽をつかまえることができません。

なぜならμ'sもまた既に「太陽」としての役割を終えているからです。

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ここで一つ千歌というキャラクターの前提が覆されます。

すなわち「太陽」思われていた千歌もまた「月」であったということを示すシーンなのです。

ここは非常にアッサリと描かれていますが、作品にとっては「非常に重要なシーン」だと思います。

なぜならこここそ「μ's」と「Aqours」を分ける、

或いは、

穂乃果と千歌を分ける、

決定的な違いだからです。

 

■「海」に入る千歌とその意味。

朝、梨子がふと目覚めて外を見ると千歌が海に向かって歩いていきます。

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なんとなく胸騒ぎがして、千歌を追いかける梨子。

千歌はそのまま海に入水していきます。

「まさかそこまで絶望していたとは!」と焦る梨子。

必死に呼びかけると、意外にもあっさりと千歌が海から顔を出します。

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「心配した!」と告げる梨子に対して

「海の音を聞いてみたかった」と告げる千歌。

ここは1話・2話での二人のやりとりを反転させている描写ですね。

何故千歌は「海に入ったのか」。

それは千歌が「希望を見失ってしまったから」です。

 

ここでもう一度、第2話における「海もぐり」のシーンとその意味を考えてみましょう。

詳しくは2話のハイライトを参照頂きたいですが、あのシーン自体が

「迷いの中にいる梨子とそれを解決に導く千歌と曜」

「梨子に希望を与えるもの=太陽=スクールアイドルという存在」

という二つの要素を視覚的に表現したメタファーのシーンとなっています。

 

これを念頭に入れて考えれば、「何故千歌が海に潜ったのか」が分かります。

2話では、千歌もまた梨子・曜と一緒に「海の音」を聴くことで、「太陽の光=希望」を手に入れた、ということになっています。

一見、「梨子だけが救われた」ようにみえるあのシーンですが、実は千歌と曜も「内心半信半疑だったスクールアイドルの活動に活路を見出した=希望を見つけた」というシーンだったわけです。

だからこそ、千歌は第2話での行動を繰り返すことで、もう一度「太陽の光=希望」を手に入れたいと考えたのです。

しかし結果的に、一人では「海の音」を聴くことも「太陽の光」も見ることはできませんでした。

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千歌がどちらも得られなかったのには、二つ理由があります。

一つは「一人だったから」

そして二つ目は「再生を済ませていないから」です。

 

■「くやしくないの?」

「海に入る」というのは、非常に分かりやすい「再生」のメタファーです。

映画にはよく「一度子宮のような場所に入る→そこから出ることで産まれ直す=再生する」という復活の過程が描かれることがあります。

「海」は「万物が生まれた場所」と表現されるほど、生命の誕生と関係の深い場所でもあります。

そこに一度「潜る」ことで、「再生」するというのは、とても分かりやすい表現だと思います。

「海に潜った」千歌は、「再生へのきっかけ」を得ました。

だからこそここから「本音」をさらけ出すわけです。

その「本音」とは至極まっとうなもの。

「自分が率先して始めた以上、自分が負けたことを気にし過ぎていたら、周りにもそれが伝染してしまう」

「自分がショックを受けたら、皆が嫌になる。だから努めて明るく振舞っていたこと」

そして

「一生懸命頑張ったのに、それが認めてもらえなくて悔しいこと」

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6話「PVを作ろう」で鞠莉が言った言葉、

「努力の量と結果は比例しない」

その事実をまざまざと見せられた千歌。

その理不尽さは、誰しも感じたことのあるもののはずです。

 

1人で責任を背負い、苦しんでいた千歌。

ようやく素直になれた千歌に、梨子は告げます。

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「バカね、みんな千歌ちゃんのためにスクールアイドルになったんじゃないの」

「自分で決めたのよ」

 

ここは非常に素晴らしいシーンですね。

曜が千歌の苦しみを共有できないのとは逆に、梨子には千歌の痛みが良く分かります

それは、梨子も同じ痛みを抱えてきたから。

学校や親からの期待に過剰に反応し、委縮し、いつしか「全てがつまらなくなってしまった」梨子。

そんな彼女を救ったのが千歌でした。

だからこそ、今度は梨子が千歌を救う。

千歌が梨子に寄り添ったように、梨子も千歌に寄り添うことで救う

素敵なシーンです。

 

また、前作「ラブライブ!」が抱えていた問題の一つが

「μ'sのメンバーが穂乃果に依存し過ぎ、穂乃果もそれに応えすぎる」

という問題でした。

この問題は「ことり留学プロット」(9話振り返りで解説します)の際に肥大化し、最終的には穂乃果が「神」に近い存在となるまでに拡大化していってしまいました

結果として「ラブライブ!」は「神話」のような物語になり、まぁそれはそれで良かったわけですがw

とはいえ、それを繰り返してしまうとラブライブ!」という作品が伝えたいテーマから離れていってしまう、という懸念がありました。

そこで今回はその課題を作品内で「相対化」することで、問題を解決に導いたわけです。

それは「一人」ではなく「全員」で「痛み」をシェアし、先に進むということ。

千歌は抱えていた「悩み」や「苦しみ」をメンバー全員とシェアすることで、救われました。

それは穂乃果が発生した問題を「自分一人で考え、自分だけで解決した」のとは真逆のアプローチです(もちろんそこにメンバーの手助けはありましたが)。

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千歌が「神格化」されず、「メンバーの一人=神ではない普通の人」として認められる。

そうすることで本来「チームもの」の作品が持つ「全員で戦う」というジャンルそのものの魅力がしっかりと描かれるわけです。

そしてそれは、「ラブライブ!」が意外にも「見落としていた」視点の一つなのです。

 まさしく

「負け犬たちのワンスアゲイン」作品としての産声を高らかに上げ、

「この作品はμ'sの物語とは違う!」

という自己主張を強烈に発した、大事な回となりました。

全ての「平凡な人々」の「希望の物語」として、「ラブライブ!サンシャイン」がより大好きになった回でしたね。

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(痛みをシェアしたからこそ、彼女たちには希望の光=太陽の光が与えられます)

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「STEP ZERO to ONE」

「冒険に出るんだ  最初はひとり
 やがてみんなと めぐり逢えるかも
 ゼロから一歩は 勇気が必要 変わりたい Step! All right!!」

「変われそうで 変われない時だって感じてるから 今度こそ 今度こそ 0から1の扉を開けよう 変わりたい時なんだ たぶんこの先の未来は謎のままだね 

 ZERO to ONE ZERO to ONE ZERO to ONE ...STEP! 

    ZERO to ONE steppin'my HEART!」

 

彼女たちの「冒険の物語」に、まだまだ胸を熱くできそうです。

というわけで7話8話まとめて考察でした。

次回9話!!

神回だけに長くなりそうだなぁ。。

 「step zero to one」はこのシングルに入ってまっせ!

 

ラブライブ!サンシャインハイライト 第6話「PVを作ろう」

いやぁ、9話最高でしたね(しみじみ)。

そんな「もはや何周遅れか計算するのすら億劫」になってきた分析ブログがこちらです(白目)。

さて、もはや”遠い昔”のような気すらしてくる第6話「PVを作ろう」を振り返りましょう。

この回はいつもよりはコンパクトに行けそうです??

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■「統廃合」という課題。

前回5話のラストシークエンスは鞠莉に詰め寄るダイヤ、という不穏な形で終わりました。その内容に関して様々な憶測がありましたが、おおよその予想通り「廃校」に関してでしたね。

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生徒会長であるダイヤはもちろん知っていたようですが。

それだけでなく、彼女たちが1年生の時からほぼ「確定事項」としてあったことが、二人の会話からうかがい知れます。

となればμ'sを崇拝するダイヤであれば「スクールアイドルになって学校を廃校から救おうとした」というストーリーラインも容易に想像が出来てしまいますね。

ではなぜその計画が「頓挫したのか?」というのがこの後の重要なストーリーラインとなっていくのでしょう。

 

さて、「統廃合」というのは前作「ラブライブ!」の「廃校」をどうしても意識してしまう設定です。

個人的には「今回(サンシャイン)では廃校プロットは使えないと思うけど、どう物語を展開するのかな?」と思っていたので、このプロットには少しがっかりしたところもありました(もちろん前回と違う活用法をして、物語を豊かに展開していただけるのであれば、なにも不満はありませんが)。

とはいえ、「沼津の内浦の女子高」が「統廃合の危機に陥る」というのは、「都内の国立の女子高の廃校」よりもずっと説得力があります

余談ですが、この間休暇を利用して内浦を訪ねさせていただきました。

非常に豊かで良い場所であるのはもちろんなのですが、やはり「沼津市に高校があった場合」の対抗馬としては厳しい場所という感覚は否めません。

それこそ千歌のように「家が近い」などの理由の子しか通わなくなるのでしょう。

実際、物語上では入学希望者自体が年々凄まじい勢いで落ちています。

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「人口減少に伴う学校の統廃合」というのは、地方では実際に起きている現象なので、「物語を陳腐にしない」効果も生まれています。

 

それでは前作「ラブライブ!」では「廃校問題」がどのように扱われたかを改めて振り返っておきましょう。

ラブライブ!」では「学校の廃校危機」を知った穂乃果が

「スクールアイドルになって活躍し、学校の知名度を上げる」=「学校を廃校から救う」

ことを目標とする、ことから物語がスタートします。

すなわち「廃校危機」は「スクールアイドルを始める動機」として機能しました(物語序盤)。

しかし、μ'sが順調に知名度を上げ、最後まで「スクールアイドル活動を通じての廃校阻止」に「反対」していた絵里をメンバーに迎えると、唐突に「廃校は中止」となります。

「何故廃校が中止になったのか」に関して物語上では具体的な説明が為されません。(μ'sの活躍によって入学志望者が増えたという旨の説明はあった気がしますが)

「ここで物語が終わってしまった場合」には現代作劇で嫌われる「デウスエクスマキナ」に当たる為悪手となります。

しかし「ラブライブ!」の場合ここで話が終わりません

 

物語は「これまでμ'sを引っ張ってきた穂乃果の脱落」から「ことりの留学」というプロットを通じて、「本当に語りたいテーマ」に移行していきます。

ここで挟まれる「ことり留学」プロットに関しては、「ラブライブを受け入れられる人」と「拒絶する人」を図る試金石になるくらい、物語上の「ノイズ」となってしまっています。

※この記事は「サンシャイン9話」放映後に書いているので、「ことり留学プロット」の意図に関してはTwitterで説明させていただきました。詳しい内容は是非そちらを読んでいただけるとありがたいです。(全部貼り付けると9話のネタバレも含んでしまうので…)

「ことり留学」プロットの目的とは何か。

端的に説明しますと、「留学」という事象を通して「不変なものなど無いこと」を端的に表現すること。

その出来事を通して「今を大切にする」という「本当に語りたいテーマ」を表現することでした。

すなわち「最初は物語の主軸」として登場しながら、結果として

「メインテーマを描くための目くらまし」として「廃校問題」があった

ことが分かるわけです。

※これをマクガフィンと呼びます。

この辺の作劇に関しても説明している方が少ないので、ピンと来ていない方も多い気がしますが…。

何はともあれ、このようにラブライブ1期作劇場の重要なトリック」として使用されていたため、「サンシャインでは同じものは使えない」と私は思っていたわけです。

実際この「廃校問題」を「ラブライブ!」と同じような扱い方をしてしまうと、物語自体が陳腐になってしまいます。

何故なら視聴者である我々は「どうせそれは免れるんだろ?」と心のどこかで思ってしまっているからです。

その理由は「ラブライブ!」で同じストーリーをやってしまっているから。

観客である我々はその「緊張」を心の底から信じることはできません。

では、「サンシャイン」では「廃校」をどのように扱ったのでしょうか。

■「廃校」の客観化。

「統廃合」の噂を聞きつけたのはルビィでした。

彼女の情報を聞かされるスクールアイドル部の面々は俯き悲しげ…

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かと思いきや、

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千歌は嬉しげです。

それは「動機」を得たから。

これまで「μ'sに憧れ」てスクールアイドルを始めた彼女には、「憧れ」以外に「スクールアイドルをやる」具体的な動機がありませんでした。

しかし「廃校」という問題は、彼女が憧れる「μ's」の物語をなぞること。

千歌は「μ'sのフォロワー」として、その事実に無邪気に喜んでいるわけです。

 

新入生である1年生勢も

「都会」に無邪気な憧れを抱く花丸は「統廃合」に賛成。

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元々沼津市内から内浦に通っている善子も、特に困ることはないようです。

(中学の友達には会いたくないそうですが)

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…と、こういった表現から分かるように彼女たちは「統廃合」をことさら「重要な出来事」とは捉えていません

ラブライブ!」での穂乃果の場合、第1話で学校を隅々まで周り、改めて「この学校が好きだ」ということを自覚し、「廃校阻止」に向けて気持ちを固めましたが、今回Aqoursの面々にはそういった描写もありませんでした

ここから感じるのは、今回は「廃校」を前作と同じアプローチでは使わないよ、という製作者サイドの意志表示です。

今後「統廃合」がどのように物語に絡んでくるのか分かりませんが、個人的には「もはや覆らない決定事項」として機能する可能性を感じています。

彼女たちが「今は」無邪気にはしゃぐ道具にしている「統廃合」。

しかしそれが「現実」として眼前に迫るとき、彼女たちはどんな反応をするのでしょうか。

けいおん」以降様々な形の「青春」を描き続けている花田十輝氏ならではの「胸を締め付けられるような」シナリオに今から期待が膨らみます。

■PVを作ろう!

ラブライブ!」1期6話と同じく、今回は自分たちの「PVを作る」というお話でした。

Aqoursが「PVを作ろう」としたきっかけは「廃校阻止を達成したμ'sが一番最初にしたこと」だったから。

やはりここにも「μ'sのフォロワー」としての側面が出てきます。

ただしμ'sがあくまでも「学校」をアピールするため「これからのSomeday」を校内で撮影したのとは違い、Aqoursは「内浦」をどのようにしてアピールするか、を思い悩みます。

この「学校という狭いエリア」でなく「地域を巻き込む」という視点が今作「サンシャイン」独自のポイントでしょうか。

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内浦のアピールを試みるも、やはり「あるもの以上」のものは出せず、さっそく手詰まりに。

そこで「内浦近郊」まで範囲を広げてアピールを試みますが、

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伝わるのは「田舎」故の不便さや大変さばかり。

「都会」に憧れる彼女たち(梨子を除き)は、地元「内浦」の魅力を今一つ理解出来ていません。

結果として地方自治体が作った観光PRビデオのような内容になってしまい、

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思わず理事長もウトウトするくらい「退屈」な内容に。

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あまりの不甲斐ない内容に鞠莉も「このトゥエイタラークですか!」と失望。

思わず反論するメンバーには「努力の量と結果は比例しまセーン!」というごもっともなご指摘

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鞠莉がこの内容に怒っている理由は千歌たちが「内浦の魅力」を「理解出来ていないから」

今回のテーマとは千歌たちが「内浦を知る」ことであることがここから分かりますね。

内浦の魅力とはなんなのか?鞠莉は答えを知っているようですが、敢えて千歌はそれを聞きませんでした。

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千歌宅で答えを探るAqours

しかし話し合いではその結論が出ません。

そんな中、内浦の海開きが行われます。

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近隣の人々が皆「海開き」という目的のために、早起きし、提灯を持って海岸の整備をする。

都会育ちの梨子には、その「田舎ならではのコミュニティ」が新鮮に映ります。

そして朝の闇の中、無数に灯る提灯の暖かな光に梨子は「可能性」を見出します。

「これなんじゃないかな? この町や学校の良いところって」

そんな言葉に千歌もようやく気づきます。

「海」「空」それを照らす「無数の光」

それは無意識に排除していた「内浦の持つ魅力」でした。

「ここには何もない」「誰か助けて」

そんな思いが千歌の目を曇らせ、「内浦が本来持っていた魅力」を隠していたのです。

そしてその魅力に梨子が気付けたのは、彼女が「外様」だから。

それは鞠莉と梨子に共通する要素でもあります。

これにインスピレーションを受けた千歌は、楽曲PVの構想を話し、人々に協力を仰ぎます。

夢で夜空を照らしたい

楽曲PVの構想とは、「海岸に集まった無数の提灯を空に打ち上げる」ことでした。

それは「視覚的な美しさ」だけではなく、文脈的な意味も持っています。

ミュージカル作品である以上、歌詞を読めば分かりますが

気持ちだけ 他に何も無い

 違うんだよ こっち来て心の目で見たら

 誰の胸にも 願いがある

 大切な この場所で 感じてみよう

 波が映した 星の輝き  遠いあこがれの色
 いつか 叶うことを 信じれば
 明日への道が多分 分かるんだ

 それは階段? それとも扉?
 夢のカタチは いろいろあるんだろう
 そしてつながれ  みんなつながれ
 夜空を 照らしにいこう

 消えない 消えない 消えないのは今まで自分を育てた景色
 消さない 消さない 消さないようにここから始まろう
 次は飛びだそう
 それは階段なのか  それとも扉か
 “確かめたい夢に出会えて よかったね”って つぶやいたよ」

 

 ラストシークエンスで千歌が独白するように、千歌はずっと内浦という場所を

「ここには何もない」と思って暮らしていました。

ただしそれは一方的な思い込みで、この内浦にも「無数の人」が暮らしていて、その人たちも「無数の夢」を持ちながら暮らしている。

そしてそんな人たちの「無数の夢」が「自分の育った土地=内浦」を照らし続けるおかげで、自分が今ここにいられる。

その事実に千歌もようやく気付けたわけです。

だからこそ「無数の夢」を「スカイランタン」に見立て、それを空に打ち上げ、夜空を照らしだすことで、「内浦が大勢の夢によって照らされた美しい場所」であることを視覚的に表現しているということですね。

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千歌が最後に告げる”宣言”

「この場所から始めよう」

が感動的に響くのは、そんな千歌の成長が背景にあるから。

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この日、どんなシチュエーションでもVTRカメラのレンズから目を外さなかった曜が、思わずレンズを下に向けたのは、「この景色をレンズを通さず目に焼き付けたい」と思ったからでしょう。

歌の内容も含め、非常に感動的な回でした。

…さて、というわけで第6回の考察でした。

今回は割とまとまった気もする。

いや気のせいか。

2回とか3回がちょっとうまくまとまっていないので、機を見て書き直します。。

※ただ今バンダイチャンネルさんのyoutubeチャンネルで、再放送がご覧いただけます!不正な視聴をせずとも見られますので、是非振り返りにご利用ください!!

 

 

ラブライブ!サンシャインハイライト 第5話「ヨハネ堕天」

もはやリアルタイム放送に追いつく気迫すら見せない考察blogがこちらです(白目)。

というわけで5話「ヨハネ堕天」DEATH☆ZE!

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前回から引き続き「新メンバー加入回」...と見せかけて若干複雑なテーマにも取り組んだ意欲回なので、意外と難関なんです。

まぁどの程度そこに切り込むか、その深度によって書く量も変わるのですが。

とりあえず試し試しやってみましょう。

ラブライブ!2期6話「ハッピーハロウィン」との関係

前回4話が2期5話「新しい私」の新解釈だったように、今回は2期6話「ハッピーハロウィン」のリブートに近い内容になっています。

全体として「ワチャワチャのコメディ回」が多い(と思われている)ラブライブ2期の中でも特筆して「コメディに振り切った」という印象が強い「ハッピーハロウィン」。

確かに仮装をしまくったりメンバー同士がお互いになりきったりとやっていることは「コメディ」そのものなんですが、テーマ自体はラブライブ!」という作品が示すテーマの根底を為すものだったり、2期全体のテーマを握っていたりと、結構大切な回です。

というか、5話「新しい私」と6話「ハッピーハロウィン」は同じテーマを持っています。

※もっと言えば2話「優勝目指して」や7話「なんとかしなきゃ!」も同じテーマですね。

もったいぶってもしょうがないので、テーマとはなんぞや?と言いますと、

「自分を愛せ!」ということですね。

6話「ハッピーハロウィン」では「今までの自分たちのパフォーマンスではA-RISEに適わない!」と感じたμ'sのメンバーが「A-RISEに勝てるスタイル」を作る為試行錯誤する物語です。

その中で自分たちにそぐわない「スタイル」「キャラ付け」をしてみたり、「自分じゃない誰か」になってみたりするわけですが、どうにもシックリこない

結局色々と試した結果「自分たちはもともと個性的だった」と気づいたメンバーが「いつも通りのμ's」でLIVEに挑む...という物語でした。

これは物語の内容こそ違えど5話「新しい私」と同じテーマです。

「新しい私」では「周囲に期待される自分」「自分本来の理想としての自分」に思い悩む凛を「自分がなりたい自分になって良い」と肯定する物語でした。

どちらも共通しているのは「取ってつけたようなものや、押し付けられたもので自分を飾るよりも、まずは自分自身を信じて愛してみれば?」という事。

そしてこれ自体が「ラブライブ!」という作品全体が示しているテーマでもあります。

※だからこそ何度も「同じテーマ」で話を作る必要があるのです。

また、サンシャイン4話「ふたりのキモチ」も同様のテーマ設定ですね。

ルビィは姉ダイヤという「他者」の視線や気持ちを気にし過ぎて「自分本位」になれずにいるキャラクターでした。

花丸も「本の物語」「ルビィ」を気にし過ぎて「自分自身」の物語に無頓着な人物です。

そんな二人が「スクールアイドル」をきっかけにお互いの背中を押しあい、それぞれ「自分自身を信じることが出来るようになる」というお話でした。

こうして列挙していくと「全部同じ話」なのが良く分かりますね(笑)。

ことほど左様に「ラブライブ!」という作品は「一つのテーマ」を表現する為に作られている作品なのです。

※ただしこれは全く悪いことなどではありません。全ての「作家性が強い作品」が「同じテーマを繰り返し示す」ように、「ラブライブ」もまた「作家性の強い作品」ということです。その「作家性」をプロジェクト全員が共有しているのが、大変素晴らしいのですが。

余談が長くなりましたが、ここまで読めば明らかな通り、第5話も「同じテーマ」を描くために作られた物語となります。

では少し細かいディティールにも触れていきましょう。

■「仮装」の持つ意味。

「ハッピーハロウィン」と共通する要素としてメンバーの「仮装」があります。

とはいえその見た目には大分差がありますがw

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とはいえ、この「仮装」が孕む問題は共通です。

μ'sがK〇SSもどきの仮装をした理由は「見た目のインパクトが欲しかったから」という理由でした。

Aqoursが善子のゴスファッションと堕天使キャラを採用した理由は「他に堕天使アイドルがいないから目立てる」という理由。

どちらにも共通しているのは「対象に対しての誠実さが無い」ということです。

例えばK〇SSもどきをやるのならば、本家に対してのリスペクトが無ければなりません。

不誠実な理由から採用されたものは「パクリ」に過ぎず、本家にも失礼なだけでなく、本家のファンに対しても不誠実でだからです。

反面その対象に惚れ込んだ上で愛情表現としての「まね」であれば「オマージュ」として受け取られる可能性もあります。

しかしどちらにせよ「自分でない他人の個性を真似たもの」に過ぎない以上、限界があるように思えます。

Aqouesの場合にも同じで、「目立てる」という理由での採用には「対象に対しての誠実さ」が無いですし、その程度の認識で付けた「キャラ」など「すぐに見破られてしまう」でしょう。

実際のところスクールアイドルマニアのダイヤ会長にはその人気が「一時的なもの」であることを瞬時に指摘されましたし、実際に瞬間的に上がったランキングは一気に落ちていきました。

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何度聞いても「ohープリティボンバヘッ(ド)!」に聞こえる。(正解を教えて)

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ではどのように戦えば良いのか…という回等は次回「PVを作ろう」に引き継がれていきます。

このゴス衣装や堕天使キャラへの「不誠実な接し方」は、結果としてコンセプトの持ち主である善子をも傷つけてしまいます

津島善子

津島善子というキャラクターは、二次元世界には多いものの、ラブライブ世界線では非常に珍しいキャラクターです。

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オカルト的なものを愛し、自分自身を「堕天使」と信じ、痛々しい発言を繰り返す。

こういったいわゆる(本来の意味とは離れた)「厨二病的」なキャラクター造形は、個人的な体験では田中ロミオ氏の「AURA~魔竜院光牙最後の戦い~」(傑作!)を筆頭に「厨二病でも恋がしたい」などに引き継がれ、そののちは様々な作品に登場するようになりました。

ラブライブと何かと比較される「アイドルマスター シンデレラガールズ」にも同様のコンセプトキャラクターが登場しますね。

※僕はあちらのアニメに関しては....ですが(余談)。

言ってしまえば「流行り」の枠組みに入るキャラクターに当たるわけで、いわゆる「普通の女の子」を売りにしてきた(実際は普通のやつなど一人もいないけどw)ラブライブでは異質な存在になります。

今回のサンシャインではこの善子を筆頭に「ロリ枠のルビィ」や「金髪の明るい外人枠=マリー」など「コテコテ」なキャラクターを敢えて登場させているのが新しい取り組みですね。

※まぁこういったキャラクターを調理するのはお茶の子さいさいなのが花田十輝氏ですから、チーム内にもシナリオライターへのしっかりとした信頼感があるのが伺えます。

類型化された「厨二病的キャラクター」が共通して持っているのが「自分自身のあり方を客観的に見て、これで良いのか迷っている」というところ。

この「ブレ」がもたらす「おかしみ」や「かなしさ」がキャラクターの魅力を表現する際に有効かつ安易に働くため、「厨二病キャラ」が世の中に氾濫したともいえます。

そんな「分かりやすすぎるコンセプト」を背負ったキャラクターが「ラブライブ世界」でどのような役割を果たすのか、というのはアニメ放送開始前から興味深かったポイントの一つでした。

■「厨二病」の捉え方

元々は伊集院光氏が「ちょうど中学生二年生くらいの時期にある、自意識を持て余した結果起こしてしまいがちな失敗」をラジオ番組内で共有する際に定義として発明した「中二病」という言葉。

現在の認識では「オタク文化に埋没した結果、その境目を見失い、現実で痛々しい発言をしてしまう人物」というような扱われ方に変化しています。

それまでは「思春期」と同じように「大人になるとやがて卒業する病」として扱われてきたものでした。(だからこそ振り返って気恥ずかしい思いをしたりする)

しかし前述の「AURA~」以降「無理に卒業するのではなく、性質として取り入れ、周囲と共通理解のもと継続していくことも出来る」という回答を示す作品が増えていきました。

こういった結論が増えた要因の一つには「性別選択の自由」のように「多様な価値観を認めるべき」という機運が高まってきた時期だったから、と言えるのでしょう。

「AURA~」が発行されたのは2008年。

ラブライブにも深い影響を与え、「性別選択の自由」など10代の若者が抱える社会的な話題を積極的なテーマとして捉えて大ヒットしたドラマ「glee」が本国アメリカで放送開始したのは2009年。

時期的にも近いですね。

そんな観点から「厨二病」もまた不思議と「卒業するもの」では無くなっていきました。

今回の善子の物語にもそういった「新しい視点」が取り入れられていました。

■「卒業できること」と「できないこと」

Aqoursによってある種安易に「模倣」された「堕天使キャラ」と「ゴスファッション」は一時的にAqouesの人気上昇に貢献しますが、そのブーストも一瞬で終わり、あっという間に順位が落ちていきます。

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落ち込むメンバー。

そんな中で善子は「自分のキャラクターのせい」とメンバーに告げます。

「高校生にもなって堕天使はない」「ようやく普通の高校生になれる」と告げる彼女は、同時に「スクールアイドル部」にも別れを告げます。

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彼女がそれまで大切にしてきた「何か」を手放す、それを暗示するように「善子」を「ヨハネ」へと変えるカラスの羽根が空に飛んでいきます。

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幼稚園時代からの友人である花丸は「善子が幼稚園時代から自分は元々天使で、やがて空に還るのだ」と話していたことを仲間たちに教えます。

注)ここでの花丸の善子解釈が物語を考察する上でちょっとノイズとなってしまうので、個人的には「この回を難解にしている要因」だと思うのですが、

好意的に解釈すれば「物語を切実にさせ過ぎないために監督や脚本家がバランスを取った」ようにも思えます。

それを分かった上で、ここからは独自の解釈を書きますので、人によっては不快に感じられることもあるかもしれません。

予めご了承願います。

「普通の高校生になる」ということを「躊躇したうえで選択する」というのは、少し普通ではありません。

それは本来ならば「別にそこまで悩む必要がないこと」だからです。

自分が「大好きだったもの」を捨ててまで「普通」になることが、果たして「良い事」なのか。

すこし穿った見方をしているのは承知のうえですが、やはり自分にはこの描写は「セクシャルマイノリティ」を匂わす描写に見えました。

映画「ブロークバックマウンテン」で描かれたことをきっかけに、社会には自分の「性的志向」を隠して生きている人が多数いるのだ、という事実が明るみに出ました。

そうした悩みを抱えた人の多くが、一度は「普通になろう」と思い、「自分の性的志向を捨てたり」「隠したり」した結果、やはりその重圧に負けて自殺してしまったり、ということがアメリカではかなりの数起きていたそうです。

結果として「性別選択の自由」を巡る事象が社会問題として取り上げられる機会が増えた、とも聞きます。

glee」でもゲイの少年であるカートと、彼を巡る「セクシャルマイノリティ」の物語が軸として描かれました。

カートも同じように「普通」になろうとして、それまでの自分を封印しようと試みたことがあります。

しかし結論として、仲間や家族に「本来の自分」をカミングアウトし、「認めてもらう」ことで「自分のままでいる」ことを選びました。

カートと同じように

善子はこれまでの自分を形作っていたものを「封印する」ことを選びます。

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しかしそこに「堕天使ファッション」に身を包んだAqoursのメンバーが現れ、再び善子をスクールアイドルに誘います。

※ここでメンバーがゴス服を着てきたのは前回不誠実に「善子の世界」を利用しようとした贖罪としてなのでしょうが、自分のテーマ設定ではここも「ノイズ」になってしまいました。これは自分の見方のせいなので、製作者サイドに責任はありません。

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逃げる善子と追う千歌たち。

切実なテーマなのにもかかわらず、意図して「コメディ」的に仕上げているようにも見えます。

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追いかける千歌が語りかけます。

「私ね!μ'sがどうして伝説を作れたのか、考えてみて分かったんだ」

「ステージの上で自分の好きを迷わずに見せる事」

「お客さんにどう思われるかとか、人気がどうとかじゃない」

「自分が一番好きな姿を、輝いている姿を見せること」

「だから善子ちゃんは捨てちゃダメなんだよ!」

「自分が堕天使を好きな限り!」

そんな千歌の言葉に振り返った善子。

「リトルデーモンになれっ!っていうかも」

と問いかけます。

その問いかけに

「それは・・・でも嫌だったら嫌だって言う!」

と答える千歌。

 

ここにはっきりと既視感を覚えました。

ここってちょっと会話の文脈として変なんですよね。

少なくとも、受け答えとして正解という風には思えないわけです。

今回散々出して恐縮なのですが、前述「glee」に全く同じようなやり取りのシーンがあります。

それはゲイの少年であるカートが、主人公のフィン(異性愛者)と友情を築くシーン。

元々フィンに惚れていたカートと、それを知っていたフィン。

カートの想いには答えられないが、友人になろうと提案するフィンに、カートが投げかけた問いに「時々襲おうとしちゃうかもしれないけどいい?」というものがありました(大分前に見たので、問いかけが違うかもしれませんが)。

それに対してのフィンの答えが

「それはアレだけど・・・でも、嫌だったら嫌だって言う」

というものだったんですよね。

性的志向」を乗り越えたうえでの友情関係の構築というシーンがあまりにも新しかったもので、そこは強烈に覚えていました。

今回のシナリオは、明確にこのシーンを意識して書かれているように見えました。

ただそれを「分かりやすく」描いているわけではなかったので、自分にとってはこの回は難解だったわけです。

正直この解釈は穿った見方過ぎるとも思いますしね。

ただし自分の解釈を信じるのならば、なんとなく批判の多いこの回のシナリオをはっきりと肯定することができます。

批判の中で多かったのは「せっかく善子が普通になろうとしているのを、千歌たちの勝手で引き留め、それにほだされているように見える」というものでした。

しかしシナリオの狙いから考えれば善子は「普通」になってはダメなのです。

最初に触れた通り「自分を愛す!」ことがシナリオのテーマなので、「善子」ではない「普通の人」になるのは、正解ではありません。

また、「善子」も「ヨハネ」もひっくるめた上での「可能性」としての善子を信じ、仲間として迎えてくれる存在が出来た以上、「善子」は「普通の高校生」になる必要はないわけです

ラブライブ」という作品上「性的志向」としての表現は出来ませんでしたが、「自分と違った世界観を持った人」と共存していく世界の大切さを語った、という意味で非常にエポックメイキングな回になったと個人的には思った次第です。

こうして「自分を丸ごと」認めてもらえたからこそ、善子はこの後のストーリーでも大きくは揺らがないのです。

彼女ほど自分に対して「自信」があるキャラクターはAqoursにはいないので、今後はμ'sにおける矢澤にこのような「精神的支柱」としての活躍が期待できるように思います。

なにはともあれ難解な回でしたが、これまた「ラブライブ!」の世界をより深くする見事な回だったと思います。

最後まで読んで下さった奇特な方。

ありがとうございました。

また次回お会いいたしましょう。

 

(最後にノイズになるので後述にした「ゴス」に関する諸々)

今回善子は「厨二病キャラ」として設定されていますが、厳密にはアメリカにおける「ゴス」に近いキャラクターだと思います。

※日本におけるゴスロリとはまた違う存在です。

アメリカでの「ゴス」はスクールカーストがハッキリとある学校内において、オタクを意味する「ギーク」の中に入り、その中でも「最下層」にあたる位置に入るそうです。

アメリカのスクールカースト最上位にあたるのは「アメフト部」などの「体育会系」に所属する「ジョック」で、女子はこのアメフト部を応援する「チアリーダー」が最上位に当たります。(このあたりに詳しくなりたい方は是非「glee」をご覧ください。日本では「仮面ライダー フォーゼ」がこの仕組みを取り組んだ物語作りをしています。こちらも是非!)

日本よりも「多様で自由」な印象があるアメリカですが、考え方が発展しているのはNYなどの都会だけで、地方(特に南部)に行けば行くほど「WASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタントの略)」が幅を利かせ、「自分と違う存在」を排除しようとしている…という現実があります。

そんな考え方を持つ人々からすれば「異様な黒づくめの恰好」をし「キリスト教を信仰」しない「ゴス」は異端に映り、排除の対象となりやすいのです。

実際「glee」にもアジア系(韓国系でしたが)でゴスファッションをしたティナというキャラクターが主役勢の一人として登場していました。

※こちらのティナは差別から逃れ「自分の居場所」を求めるため吃音のフリをしたり、ゴスファッションに身を包み「人との接触を避けてきた」キャラクターでした。そんな理由から「人との信頼関係を築けた」結果「ゴスファッションを卒業」しました。