※今回は思いつきで書いている、いつにも増してどうでもいい戯言なので、適当に読み流してくださいw
※ちょっと宗教的な要素が濃い~ですが、自分はどこの会派にも所属しない、めっちゃフラットな日本人ですので、ご安心くださいw
※強いて言うなら「空飛ぶスパゲッティモンスター教」信者ですので。
そもそもの発端は映画「沈黙~サイレンス~」を見たことに始まる。
本作は遠藤周作による原作を、巨匠(という呼び方に違和感半端ないが)マーティン・スコセッシが映画化に約28年間を費やし、ようやく実現した映画、というわけで公開前から(言うなれば製作開始時期から)映画好きの間では話題になっていた。
そもそもこの前の作品が「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で、これは
「あなたはゴミみたいな株を人に売りつけてお金を儲けるのが大好きなフレンズなんだね」
というスコセッシの王道を行く「たのしー♪」映画だっただけに、そのギャップに皆興味津々だったわけだ(ものすごく雑に流行りネタをぶっこみつつ)。
そもそも何故スコセッシがこの原作を映画化することに拘ったのか...というのは、彼の出自とかに関係してくるので、とても一言では言い表せないし、そもそもこの稿の本題と離れていくので割愛させていただく。恐らくWikipediaとか読めば分かると思うので、興味のある方は調べて頂ければと思う。
あるいは町山智浩さんの著書や、有料コンテンツではあるが「映画ムダ話」シリーズの「沈黙」を聴いて頂けると分かりやすいかもしれない。こちらも興味のある方はどうぞ。
※映画に興味のある方は読むと勉強になるし、そんなに難しい本ではないのでお勧め。
映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)
- 作者: 町山智浩
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※映画そのものだけでなく、何の為にスコセッシが撮ったのかまでズッシリと解説してくれています。これで216円は安いと思う。
...ここから「沈黙」に関してのネタバレを含みつつの記事になるので、「映画見るからネタバレすんな!」とか「原作読んでるから(以下同文)」という方は引き返していただけるとありがたいです。
...さて、では何故急にこの「スコセッシの個人的な思い」と「信仰に対しての問いかけ」をテーマにした深淵な作品が貴様の中で「ラブライブ!サンシャイン」と結びついたのだ、この変態め!!というお話なのだけど。
そもそもは「良い映画だったなぁ」などと思いつつ、スクフェスをポチポチ遊んでいたことに始まる。聖歌隊衣装のSSR国木田花丸が絆MAXになった。
するとストーリーが解放され、そこで花丸が語った宗教観が、不思議と「沈黙」の世界にマッチングしたのである。
カトリック系の女子高に通い、なおかつ聖歌隊にまで所属するお寺の娘の成熟した宗教感に、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙~サイレンス~」でフェレイラ師が語る「日本にキリスト教が根付かない理由」への近似を感じざるを得ない(違う)。 pic.twitter.com/syvJToUooW
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) February 6, 2017
「日本人は優秀なキリスト教徒になれると私も思っていた...。しかしそれは思い違いだったんだ!彼らは何も信じていない!なぜなら彼らの神はあれだから!」って言って太陽指差して絶望してたからな、あのポルトガル人。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) February 6, 2017
この呟きの意図を説明するには、流石に「沈黙」に関しても少し説明する必要があるだろう。
「沈黙」という物語は「イエズス会のポルトガル人宣教師=ロドリゴが、自分をキリスト教徒へと導いてくれた師=フェレイラ師が、江戸幕府による苛烈な弾圧によってキリスト教を棄てさせられた、という噂を耳にし、それを確かめると共に師匠を救出するため日本へと向かうが...」というお話。
ロドリゴは偉大だった師が、キリストの教えを棄てるなどにわかには信じられない。しかし、その思いは見事に裏切られる。フェレイラという名前を棄て『沢野忠庵』と名乗るかつての師は、とうとうと「日本にキリスト教が根付かない理由」を語る。それが上の言葉である(要約ではあるけど)。
半ばやけくそになって言ったような言葉ではあるのだけども、しかし花丸のセリフは、なんとなしにそれを肯定している感じもする。
そもそも国木田花丸というのが、日本における「宗教観」をまざまざと感じさせるキャラクターでもある。
本人は「お寺(空海を崇拝しているから真言宗=密教?)」の娘でありながら、カトリック系の学校(浦の星)に通い、なおかつ聖歌隊に参加して歌っているという凄まじい矛盾を抱えた存在である(笑)。
上のイベントではそんな矛盾に花丸自身が「お寺の子がミッションスクールで、それも聖歌隊に入るってどうなんだろう....って不安に思ったこともあったけど....(原文ママ)」と疑問を投げかけたうえで、先ほどの画像の通りの解を示している。
「日本には八百万の神」がいて「みんなの心の中にそれぞれが描く神様がいる」というのは、「沈黙」の劇中において「切支丹狩り」を断行する役人たちも持っていたロジックと同じだ。
彼らは決して「キリスト教」を信じる事自体は否定しない。「君らがそれを信じるのは勝手だ」という立場だ。「しかしそれを広めてくれるな」と主張する。その背景には江戸幕府の「政府としての思惑があった」ことは皆知っている事だ。故にキリスト教を棄てさせようとする彼らの行動そのものも非常に「お役所的」である。彼らは信念に基づいて行動しているのではなく、あくまでも「実務をこなしている」に過ぎないからだ。
故に棄教を迫る手段も非常にロジカルで、マニュアル化している(これはマニュアル自体が本当に文献として残っているのだそうだ)。彼らはロジカル故に「キリスト教(カトリック)」の教義の矛盾点をズバズバと突いていく。
その矛盾点の一つが「沈黙」だ。
尋常ではない、苛烈な弾圧が日本人切支丹に与えられる度に主人公であるロドリゴは神に祈るしかできない。しかし神は彼の願いにも応えないし、解決も示さない。ただただ黙って事態を傍観しているばかりなのだ。
浅野忠信演じる通辞はその度にロドリゴの心へ揺さぶりを掛ける。
「何故このような事態になっているのに、お前たちの神は救いを与えないんだ?それは神様なんていないからじゃないのか?」
「あいつら(日本人切支丹)が殺されるのは、神のためじゃない。お前のせいだ!お前が彼らを救おうとしないからだ!」
そんな揺さぶりに対して、ロドリゴはうろたえ、まともな返答を返すことが出来ない。それはロドリゴも徐々に神の「沈黙」に耐えられなくなっていくからだ。
「信仰する対象」からの「沈黙」。個人的に「サンシャイン」の物語との共通点を見出したのはこの部分だ。
「ラブライブ!サンシャイン!!」第8話「くやしくないの」では、それぞれが「信仰」の対象へと「問いかける」ものの、その誰もが対象からは「解答をもらえない」物語である。
東京でのライブ参加の結果、自分たちの歌唱が誰からも評価されない、という厳しすぎる現実を突き付けられたAqours。今後の活動に光を見いだせない中で、それぞれがそれぞれの「信仰」すべき対象に「救い」を求める。
曜は千歌に「くやしくないの?」と問う。それは悔しさを隠し、明るく振舞う千歌の「本音」を引き出す為でもあるけれど、同時に「これから進むべき道」をAqoursの発起人=千歌に求めているという行為でもある。しかし千歌はそれに応えられない。
曜の行為は、Aqoursメンバー全員の思いの代行でもある。花丸も、ルビィも、善子も、梨子も千歌の言葉を待っているが、当事者たる千歌は「沈黙」しているしかない。
この時の千歌は、日本人切支丹から救いの言葉を求められ、明確に答えを示せないロドリゴに近い。彼らは見えない神ではなく、その代弁者であるロドリゴを「信仰」の対象としたが、結果ロドリゴも彼らを励ますことしか出来なかった。それはロドリゴもまた「神」による救いの言葉を待ちながら、その「沈黙」に苦しむ「信仰者」に過ぎなかったからだ。
千歌が信じる「神」は「μ's」だ。
自室でグッとμ'sのポスターに手を伸ばす千歌は、何度も頭の中にあるキリストの肖像画に救いを求めるロドリゴにリンクする。
しかし、「μ's」は千歌に救いを与えない。あるのは「沈黙」だけだ。
悩みの規模だとか、救いのレベルだとか、そこには凄まじいレベルの違いがあるけれども、構造自体は同じだと思う。
「μ's」からの解答を得られない千歌は、別の方法でその答えを見つけようとする。千歌が海に潜ったのは、第2話において「希望」を見出した場所が海だったから。
第2話では「海の音を聞きたい」と願う梨子の思いに応えるように、曜を含めた3人で海に入る。はじめはただ真っ暗だった海だが、そこに「太陽」の光が差し込むことで、3人はようやく「海の音」を聴くことが出来る。
このシーンは「先の見えないアイドル活動」や、「行き詰っていた音楽作り」といった悩みも、思い切ってその対象に飛び込んでみることで「希望」を見出せる、という事へのメタファーでもある。
その成功体験があったからこそ、千歌は海に飛び込んだのだが、それだけでは「救い」を得ることが出来なかった。
もはや打つ手なしの千歌は、いよいよもって自らの想いを独白し、「弱さ」を露呈する。「自分がAqoursを結成したことに対する責任感」それ故に「負けて悔しいと簡単に口にできなかったこと」「本当は悔しくてたまらないこと」。
自らの立場に「責任感」を感じ、その職務を全うしようと思うがあまりがんじがらめになっていく構造もまた、「沈黙」におけるロドリゴに非常に近い。千歌もロドリゴも自らの「弱さ」を認められないが故に、追い込まれてしまう。
だからこそ、自らの「弱さ」を認めた瞬間に共に救いが与えられる。
千歌の場合は「悔しさを露わにすること」。ロドリゴの場合は「踏絵を踏むこと」。
これらの行動によって、二人は「神の代弁者」であることから解放され、「一人の人」として初めて救いを得ることが出来る構造になっている。
特に梨子は千歌の悩みへの回答を明確な言葉で伝えてくれる。
「皆千歌ちゃんのためにスクールアイドルをやってるんじゃないの」「皆自分のためにやってるのよ」と。
ここで印象的なのは、千歌に赦しを与えるのが「太陽」であることだ。
千歌が「神の代弁者」を辞めることで、雨が止み、太陽がAqoursを照らす。
「ラブライブ!」ではシリーズを通して同じような演出が採られるが、それらは全て「登場人物たちが正しい結論に達した際の赦し」として使用されている印象がある。
ということは、「ラブライブ!」はシリーズを通して、「太陽」という存在に「神的な要素」を付与し続けているとも言える。となると千歌は「μ'sへの信仰」から解放される必然性がある。
ここで話をフェレイラ師が語る「日本にキリスト教が根付かない理由」に戻してみる。
するとフェレイラ師ははっきりとこう主張している。
「私も最初は日本人は優秀なキリスト教徒になれると思っていた。だが違ったんだ!彼らは何も信じてなんていない!彼らにとっての神とは、あれだ!」
そういってフェレイラ師が指差すのは「太陽」なのである。
なんとも不思議なことに「ラブライブ!」における「太陽」の「神化」と、「沈黙」とが結びついていく。
とはいえ、ラブライブは「宗教作品」ではないので、千歌が「太陽信仰」に目覚めたり...という事はない(笑)。あくまでも「希望」と「赦し」を与えてくれる象徴として登場するにとどめている。またそれも「太陽」を「神」として讃えるのではなく、あくまでも「アミニズム的」な視点における「シンボル」として成立させているに過ぎない、ということは併記しておきたい。
ただこの「太陽」に対する考え方を理解すると、「ラブライブ!サンシャイン!!」というタイトルであったり、その根っことなる劇場版ラブライブ!の主題歌「SUNNY DAY SONG」の意図なんかも見えてきて、なんとも面白い。
「μ's」を信仰する対象から外した千歌は、その後もう一度秋葉原へと出かける。
μ'sの足跡を辿る中で、彼女達の「行動」ではなく、「意志」そのものを引き継ぐことで、Aqoursはいよいよμ'sの庇護から外れていく。
そしてそれを象徴するように、部屋にずっと貼っていたμ'sのポスターを外すに至る(12話)。
「サンシャイン」を唯一前作と結びつけていた要素であるポスターが外されることに動揺を感じた視聴者も多かったかもしれない。しかし、これは何も「μ'sとの別離」を象徴した演出ではないと思う。
Aqoursが一連の行動を通して気付いたのは、「μ's」が輝いていた理由。
それは「今を全力で楽しんで」「自ら輝こうとしていた」から。その「真理」に気付いた。そしてAqoursもその意思を引き継いで、「全力で輝く」ことを目指し始めた。
故にμ'sは信仰の対象ではなく、同じ目標を掲げる「隣人」になった。もはや「仰ぎ見る事」はなく、常に「心の中にいる存在」になったからこそ、ポスターを外すことができたのではないか、と思う。
物語のほとんどを主人公:ロドリゴのモノローグによって進めていく「沈黙」だが、彼が「踏絵」を踏んで以降は別のオランダ人商人の視点へと切り替わり物語が進む。その中でロドリゴは第3者の目線を通して描かれる存在となり、傍からは完全に「信仰を棄て」「日本人となった」姿が描かれる。それこそまさにロドリゴが「沈黙」を貫く様子が淡々と描かれるのだ。
「沈黙」を貫くロドリゴの心境は計り知れない。しかし映画では最後にスコセッシがちょっとした救いを用意している。それは是非映画館で(あるいはビデオリリースされた後に)本編を見て頂きたいのだけど、その緩やかで優しいエンディングには、μ'sを「隣人」として迎え入れられた千歌と同じ心境に達した男の最後が描かれている。
こと「宗教」であったり「信仰」であったりで世界はわちゃわちゃ騒がしいわけだけど、本来それらが「何のために存在しているのか」を、改めて認識するのはとても大事だ。
そしてそれを教えてくれるのは、何も宗教映画だけではないのだぜ、というまとまりのないお話。
原作。
日本版。かなりオチが違うぞ!気をつけろ!