Love Live!Aftertalk!

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もっともっと先へ。~ Aqours 3rd LoveLive! Tour ~WONDERFUL STORIES 埼玉公演を見終えて~

 

 

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何故、僕は彼女たちを”みくびって”しまうのだろう。

 

ライブに参加するたびに同じことを思う。TVアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語を文脈から読み解くオタクだからなのか。僕はどうしても「物語」を重視してしまう。そして結果的にその「物語」に視界を支配されてしまう。

「物語」が素晴らしいからこそ、その「物語」よりも「素晴らしいものが無い」かのような”錯覚”を無意識に得ていて、それに常に支配されている。

だからこそ、彼女達のライブに参加すると横っ面を張り倒されたような衝撃を受ける。

そうやって初めてその”錯覚”から目を覚まされる。

そうして気付く。僕が彼女達を見くびってしまっている事実を。

 

実のところ。

TVアニメ2期を終えた直後のライブだから、きっと2期の文脈をふんだんに使った構成になるのだろうと。そう思っていた。

 

例えば2期7話。

あの回の演出をキャスト達が再現したらどうか。

よいつむちゃんが。そして名もなき音ノ木坂の生徒たちが登場して、Aqoursに「輝いて!」と告げたらどうか。そこに僕たちが参加したらどうか。などと考えた。

 

例えば2期11話。

ここでも浦の星の生徒たちが。そしてAqoursメンバーの家族たちが実際に登場し、共に「Aqoursコール」をしたらどうか。そしてその流れで「勇気はどこに?君の胸に!」を合唱したらどうか。などと考えた。

 

或いは2期13話。

「WONDERFUL STORIES」に至る流れを、伊波杏樹さんを中心に再現しつつ、楽曲に突入したらどうか、などとも考えた。

そのどれもがきっと間違いなく、胸を打たれ、興奮と感動を得る演出だったかもしれない。

 

けれどもAqoursと「ラブライブ!サンシャイン!!」のスタッフは、そんなもの採用しなかった。

何故なら、それは既に「物語の文脈」において「保障」された「感動」だからだ。

それを見たいのなら、別に「ライブ」でなくても良い。

なんなら家でアニメを見返していればよいのだ。

けれど埼玉のメットライフドームに用意された舞台は「ライブ」。

「アニメ」ではなく「ライブ」をお客さんは見に来ている。

だとすれば、「ライブ」では「ライブ」でしか起こし得ない「何か」を見せる必要がある。

その為に彼女達は日々「挑戦」を繰り返している。

1stでそれを思い知ったのに。僕はまたその事実を忘れていたわけだ。

 

「アニメ」には「現実を超越した何か」を、易々と表現してみせる「力」が備わっている。それがあるからこそ「アニメ」という表現には価値があり、意味があるのだとも思う。そしてそこにこそ「アニメ」の魅力があるのだと、僕は思う。

だからこそその「アニメ」によって表現されたものを「現実」が超越していくには、並大抵の「表現」では足らない。

「現実」を超越した「超現実」を実際に目の前で見せる。それがどれだけの「努力」と「工夫」を必要とするものか。その実質的な作業量と苦労を僕は知らない。

けれども、埼玉公演の二日間で彼女達が見せてくれたものは、正しく「超現実」では無かったか。二日間を終えた今、本当にそう思う。

 

例えば「Awaken the power」はどうだっただろうか。

アニメでは11人の「Saint Aqours Snow」が放つ美しいハーモニーも印象的だったけれど、「ライブ」ではそれ以上に11人でしか出せない、強烈な「パワー」と「一体感」を感じた。11人が舞台で見せる振り付けには、現実でしか出せない説得力があった。

 

或いは「WATER BLUE NEW WORLD」はどうだっただろうか。

アニメでしか表現不可能だと思われた、「衣装チェンジ」と「羽根が舞い散る」演出を、早着替え・モニター演出・舞台演出を総動員して、見事に「現実」に再現してみせた。アニメと現実とが完全に同化していく瞬間がそこにはあった。

 

そして「MIRACLE WAVE」だ。

大勢の方が指摘している通り、伊波杏樹さんはロンダートの流れからのバク天ではなく、ロンダートした後「止まって」からのバク天という技を使った。

ロンダートによる勢いを完全に殺してからのバク天。しかも明確に「自分のバク天を待つ会場の緊張感」に包まれるというプレッシャー込み。それを「現実」において「成功」させることがどれだけの「説得力」を生み出すか。

そこには「アニメの文脈」を超越した「ライブでしか起こしえない何か」が明確に存在していた。それはまさに「超現実」だったはずだ。

 

彼女達は凄まじかった。

2nd最終公演で伊波杏樹さんが語った「ビックリさせる」というのは、こういうことだったのかと改めて思い知った。

 

だからこそ。

彼女達が「アニメ」を超越したものを見せてくれるたびに「2期の物語」に踏みとどまっている自分が恥ずかしくなっていく感覚を得た。

「2期に合わせた演出でエモくなりたい」なんて思っていた自分が恥ずかしい。

「こんなに自分を高めるべく努力している人たちを、僕は無邪気に消費しようとしていたのか」。そんな風に感じてしまうほどに。

 

ラブライブ!サンシャイン!!」の「進み方」はとても速い。

1期終わりから2期スタート、そして2期の終わりまでのスピードが尋常ではない。

だからこそキャラクターは、キャストの成長を待たずにドンドン先へと進んでいく。

降幡愛さんも「自分を置いてドンドン変化し、進化していくルビィに付いていくのに必死だった」と仰っていたけれど、恐らくそれは全員に共通してある認識だったのではないかなと思う。

でも、だからこそ、キャストの皆さんはキャラクターに置いてかれまいと、常に「進化」を続けてきた。キャラクターが急ピッチで成長を続ける中、それに続こうと「進化」を続けてきた彼女達。

今はもはや「アニメ2期」という時期を終え、4thライブ・さらには劇場版へと歩みを進めるべく「進化」を続けているわけだ。

そりゃあ「2期」に踏みとどまっていたら、置いていかれるに決まっている。

彼女達の目線はもはや「そこ」には無いのだから。

 

にも関わらず、3rdライブにおいて、彼女達は僕らを過剰なまでに「仲間」として受け入れようとしてくれていた。

青空Jumping Heartへの入りでは「特別映像」が用意された。

そこではアニメでは描かれなかった「ラブライブ優勝」から「アンコール」に至るまでの彼女達の「気持ち」が語られた。

そしてその流れで、アニメ内の「アンコール会場」と、実際の「メットライフドーム」とが時空の壁を越えて繋がる。

この演出によって、メットライフドームにいる僕らは、彼女達を後押しし、優勝へと導いた「劇中の観客」と「一体化」していく。「淡島からの脱出ゲーム」から連なる、僕らを同じ世界の「仲間」として受け入れていく演出に心底震えた。

 

「Landing action yeah!」から勇気はどこに?君の胸に!そして「WONDERFUL STORIES」に至るまで。ラストの3曲は全て「合唱曲」として用意された。

「WONDERFUL STORIES」に至っては、アニメ内の演出から楽曲に繋げていくという構成を一切使用しなかった。

つまり「アニメ内の文脈」に楽曲を当て込むのではなくて、「ライブ」で「皆と一緒に歌う曲」としての使用を「優先」したわけだ。

どこまでもライブに参加する「仲間」を大切にした演出が採られていた、という事実をここからも感じる。

 

だからこそ。

そうやって彼女達がなんのてらいもなく、僕を「仲間」に引き寄せてくれようとするたびに、僕は「罪悪感」に苛まれた。

2期に「立ち止まっているやつ」が、彼女達の「仲間」になっていいのだろうかと。

彼女達が「進化」を止めないのに、「立ち止まっているやつ」がここで暢気に仲間面していて良いのだろうかと。

そう思うと、不思議と「興奮」や「感動」といった感情は生まれなくなっていった。当然「涙」を出すこともなくなった。

 

代わりに「決意」が胸に満ち溢れた。

「止まってられないぞ」と。

彼女達は自分を高めながら、先に先に進んでいく。

その先でまた僕を「仲間」として受け入れてくれるのであれば、僕は「仲間」としての「自分」を誇りをもって受け止められる人にならなくてはいけない。

その為に何をすれば良いのか。

具体的な行動はすぐには思いつかないけれど。

でもまずは、今の自分をしっかりと受け入れた上で、日々を頑張って「生きる」。

そうやって「頑張った」先で、彼女達が発する輝きを受けたとて、負けない自分になれるように。

前回の記事でも言ったけれど、やはり彼女達の信じた「在り方」を肯定することこそが、「ラブライブ!」に肯定された僕らが唯一できる「作品を肯定する行為」であるのならば。

とにかくそれを信じて突き進むしかない。

いつか来るであろう彼女達の「終着」を、笑って見守れる人になれるように。

 

だから、僕は明日も足掻くよ。

自分の力で、自分の明日を輝かせられる人になれるように。

明日も頑張って生きる。