Love Live!Aftertalk!

妄想をただ書き連ねる覚書。更新情報等はTwitterにてお知らせしております。

5th前日だから「ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow」の話をもう一度したい という記事。

f:id:ishidamashii:20190607145548j:plain

          

              ~余談に始まり余談に終わる

 

5thに向けてなんかやれることはなかろうかと思いながら、特段思いつかないままここまで来た。

なんか動画とか作っちゃう!?とか思ったけど、しっくりこないうえに物理的な時間もない。

となるともはや僕に出来ることは、おブを書くこと以外に無いので、こうしてあてどもない劇場版の総括記事なんかを書き始めているのだ。

やはりおブが一番楽。(思考停止)

 

 

個人的に今回の劇場版に関して白眉だったのは、この劇場版がTV版において拾い損ねた要素を「掬い上げる」ことに注力して作られていたことだったように思う。

前作「劇場版ラブライブ!The School Idol Movie」が「ミニマルな結論に終着したTVアニメにおける物語」に対して、その物語の先にある「スクールアイドルの未来」を描き切ったことである種「神話的」な手応えを視聴者に与えたとすれば、

本作はそんな前作とは対照的に、本編において拾い損ねた様々な「要素」や「モチーフ」を回収していくことで、かえってとても「ミニマル」な物語に着地した印象がある。この辺の差異は各作品それぞれの個性にも直結しているようで、少し面白い。

 

 

まっすぐに夢を見て、夢を追いかけることの価値を問うた「ラブライブ!」と比べると、「ラブライブ!サンシャイン!!」は夢を追いかけることの「リスク」のようなものに、よりフォーカスを当てた作品だった。

「夢」を持って、「願い」を持って生きることは、とても重要。

けれども「願った夢」は叶わなかった時には「呪い」へと変わることもある。

その「呪い」は自分で解かない限り、その人を呪縛し続けるものにすらなる。

「夢の持つ呪い性」はモチーフとして物語にたびたび登場し、Aqoursを苦しめ、いたぶった。

しかしそれでもAqoursは立ち止まらない。

「呪い」を解く。

解けない「呪い」に関しては、再び「夢」へと向かうための「糧」として消化しながら、是が非でも”先”へと向かう。

”君は何度も立ち上がれるかい?”

デビュー曲「君のこころは輝いてるかい?」の歌詞にある通り、Aqoursはどれだけ傷ついても、その傷をある種抱えたまま立ち上がり、ボロボロになりながらでも前へ前へと進んでいく。

”夢は夢のように過ごすだけじゃなくて 痛み抱えながら求めるものさ”

傷だらけになりながら、栄光へと手を伸ばす。

Aqoursラブライブ大会を制する際に披露した楽曲「WATER BLUE NEW WORLD」。この曲には、そんな彼女たちのアイデンティティが歌詞となってしっかり刻まれている。

そうやって「楽しいこと」も「苦しいこと」も、起こること全てを受け入れて、糧として進んでいくこと、あるいはひっくり返そうと「足掻く」ことでしか、時代や世界に「選ばれなかった者たち」は「夢へと手を伸ばせない」。

「夢」と共にある「リスク」をハッキリと明文化したことが、「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語をより「現実」に近づけ、それがこの作品独自の「ビター」な味わいにも繋がっている。

「夢」を目指せ。もちろん「夢」は叶わないことの方が多い。傷つくこともあるだろう。それでも「夢」を追いかけろ。

 

ラブライブ!サンシャイン!!」が示すそんな「人生観」。

それは2期放送終了から3rd終了直後にかけて僕らに向けて投げかけられたものでもある。

だからこそその「価値観」に乗っ取って、自らの生き方そのものを変えていった人も沢山いる。僕の周りにもいる。

今までと人生をまるっきり切り替えて「夢」へと舵を切った人も大勢いるだろう。

その「夢」に向かう最中で、もがき苦しんでいる人も沢山いるはずだ。

「今やっていることが全く認められていない人」「自分の選んだ道程が正しいのかどうかわからなくなっている人」。

そういった人々が佇んでいる「足踏みの現状」。

例えその「足踏み」が無駄ではない、と思っていても、それでも「先に進めない現状」は心を蝕んでいく。

だからこそその「足踏み」が「意味のあるもの」になるはずだと、改めてしつこいくらいに「肯定」していくシーンを連続して描く。

本映画のそんな構成は「ラブライブ!サンシャイン!!」というTVアニメシリーズが投げかけた「価値観」に対しての「救済」として機能しているようにも見える。

 

例えば物語前半の中心として描かれる「鞠莉と母親の対立」。

浦の星を救う為に海外での学位取得を棄権し、日本へと舞い戻った鞠莉。

しかし結果として鞠莉は浦の星を救えず、海外での学位取得もできなくなってしまった。

もちろんAqoursとして「ラブライブ」で優勝した。

けれども彼女が選んだ「選択」そのものが、彼女自身の人生において、「正」だったのか「負」だったのか。そこに関してはTVシリーズだけでは有耶無耶になっている印象もあった。

しかし本劇場版ではその事実を追求する鞠莉の母に対して、鞠莉とAqoursが「スクールアイドルをやった意味」を”楽曲”という形で明快に突きつけることで、反証してみせる。

f:id:ishidamashii:20190607150021j:plain

「スクールアイドル」は鞠莉という人間を成長させ、今の鞠莉という人間を形成する上で絶対に必要なものだったのだ、と証明してみせる。それを鞠莉の母親に認めさせる。そうして鞠莉というキャラクターが選んだ道程そのものを改めて「全肯定」してみせる。

こういったキャラクターそれぞれの抱えているカセの回収と、「肯定」を丹念に行っていくことが、この映画の大きな軸になっていく。

 鞠莉の事例のように、「肯定」が分かりやすく表現されるものもあれば、とてもシンプルに(悪く言うとわかりづらく)表現されているものもある。

その一例が前回の記事における「図書室に置かれた一つの椅子」と「国木田花丸」の肯定かもしれない。

ishidamashii.hatenablog.com

 ボッと見ているだけではわからない。けれどもハッキリとしたモチーフを”意図的”に一瞬映し出すことで、対象を「肯定」してみせる。

 

実は同じことを果南に関しても行っている

花丸の「椅子」が差し込まれるのと同じタイミングで現れる「弁天島」の一枚絵。この場所も作品本編においてとりわけピックアップされる場所ではない。

では何故このタイミングで差し込まれるのか、というとここが「果南が一人でダンス練習をしていた場所だから」に他ならないだろう。

自らの意地で解散を決めた旧Aqours

しかし果南自身、本当に「スクールアイドルが嫌になった」わけではなかった。

そんな彼女が捨てきれない「スクールアイドルへの未練」を晴らすために通い続けた場所が「弁天島」と「弁天神社」だった。

(1期9話において”日課になっている”と発言している以上、果南は毎日ここに通っていたということだろう。)

自らの頑さ故に捨ててしまったものと、本当は捨てたくないものとの間に挟まれ過ごした「無為な時間」とその舞台となった場所。

そんな場所であっても、果南にとっての「かけがえのない時間」として「肯定」する。

そうすることで果南という人の「足踏み」も「肯定」してみせる。

 この1カットからはそんな「感情」を読み取ることが出来る。

 

「肯定」と同時に「救い」もある。

Saint snowのラストライブを行えなかったことで未来へ踏み出せなくなっている理亞を、「架空のラブライブ決勝」という舞台設定をすることで「救っていく」。

f:id:ishidamashii:20190607165044j:plain

同時にAqoursが披露した「Brightest Melody」では、夜明けと同時に「朝焼けのように輝く渡辺曜」をいとこである渡辺月が観測する。

その神々しさに、思わずカメラのレンズから目を離し、肉眼で対象をとらえようとするシーンは、1期6話における千歌を見つめる曜の「再現」を思わせる。

それまでどうしても”観測者”や”応援者”としての側面が描かれがちで、自身が放つ”輝き”へ焦点が当たらなかった曜を、”観測される側=独り立ちしたスクールアイドル”として描いて見せることは、渡辺曜が「スクールアイドルをやったことの意味」に関しての「救済」にもなっているように思える。

千歌を見つめ、応援することを糧にして、自らが輝くことにそれほど興味をもたなかった少女が文字通り「太陽」のように眩い輝きを放つ。このシーンもまた渡辺曜という人物に対する「肯定」であり「救済」でもあった。

f:id:ishidamashii:20190607145634j:plain

ことほど左様に大なり小なり彼女たちが過ごした「道程」の全てが「肯定」されていくのが、この映画の構造になっているわけだ。

 また、こうして丹念に、それでいて徹底的に繰り返される「肯定」と「救済」が、「Aqoursと同じ道を歩むことを決めた仲間たち=我々」への「救済」としても機能しているように感じる。

 

ここでこの映画の初期キャッチコピーに立ち戻ってみる。

「明日もきっと、輝いている」

「明日も輝いている」という断定系ではなくて「きっと」という言葉を付け加えたのは、「明日が輝いている」かどうかは不確定だからだろう。

ではどうすれば「明日を輝かせる」ことができるのか。

それは常に「希望を持ち続けること」なのかもしれない。

どれだけ今がうまくいかなくても。

どれだけ挫けそうになっても。

もう無理だと諦めそうになっても。

それでも「希望」を捨てずに、明日へと進む。

進む為に「自分の今」も「過去」も「未来」も。

その「全て」を「肯定」していく。

そうすることが出来れば「きっと」「明日は輝く」。

つまりそういうことなんだろう。

 3rd以降、まだ「何者にもなれていない」人はどれだけいるんだろう。

僕もそうだ。

でも大丈夫。

「自分を信じて」。「自分を肯定してくれる作品」を信じて。

今日も明日も、その先も。

ずっと一緒に。

 

「終わらない夢見よう」

f:id:ishidamashii:20190607145758j:plain