本当はセンター選挙の応援記事を書く予定だったし、書くつもりだったんだけど、どうにも筆も気持ちも乗らないままここまで来てしまった。
だから、これは応援記事では無い。(というか選挙期間は終わった)
つまり、いつものごとき妄想の類。
だから重要視してもらう必要も、信じてもらう必要もない。
劇場版以降、僕が降国木田花丸に関して考えた、ちょっとしたお話。
2期13話。
国木田花丸(と善子およびルビィ)が図書室の扉を閉める時、僕は胸に強烈な痛みを感じる。
普段マイペースな花丸が、2期の劇中において感情を露わにする数少ないシーンだから、そこに感情を揺さぶられる?それも当然ある。
あるいは国木田花丸は図書委員でもある。本を愛する彼女にとって図書室はそういった役割を除いてなお聖域でもある。だからこそこの場所を「閉じる」という事実に痛みを感じる?それもまぁ分かる。
けれど、それだけでは説明できない、不思議な感覚がこのシーンにはある。
「閉めるずら!」
このシーンで描かれる「痛み」は、もっともっと「切実」な「何か」に映る。何か「失ってはいけない大切なもの」を失うような。体の一部が引き千切られていくような「切実な痛み」がある。それを説明するのに「図書委員だから」「本が好きだから」だけでは、少し足りないような気がしていた。
けれどその解答を得るためのエビデンスは特別描かれない。だからこれは妄想だ。
「今までマルたちを守ってくれてありがとう」
彼女達を「守る」存在としての「図書室」。実のところ、このセリフを聞くずっと前から、国木田花丸と「図書室」の関係性に関して、ぼんやりと考えていたことがある。
始めて「それ」が頭をよぎったのは、1期4話の冒頭だ。
運動が苦手で、家庭環境も特殊で(祖父母と暮らしている)、言葉づかいも変わっていて、機械を始めとする文明の利器にてんで疎い美少女。そんな「特殊性」を持った女の子は、周囲から「浮いて」しまうであろうことは想像に難くない。
自分の今いる場所の中に、自分の「居場所」を見いだせない。
だから、花丸は「図書室」に通い、本の「世界」に身を置いた。
自分の周りと異なる「世界観」の中に佇むことで、ひと時自分の今いる「現状」から自分自身を切り離すことができるから。
そしてその世界の中に自分の「居場所」を見出すことが出来たから。
「図書館はいつしかマルの居場所となり、そこで読む本の中で、いつも空想を膨らませていた。」
「読み終わった時ちょっぴり寂しかったけど、それでも本があればダイジョウブだと、思った。」
1期4話のこのモノローグを聞いた時、あるブログのエントリが頭をよぎった。
それは「図書室に通学する子」に関する、下記イシゲスズコさんの記事だ。
(本文省略)
そんなときに私が足を向けたのが、図書室でした。
休み時間になると図書室に行き本を借り、図書室や中庭の隅でずっと本を読み続けました。純文学やミステリー、科学や伝記や、とにかく手当たりしだい何でも読みました。
休みの日は区の図書館に1日篭ったり、大きな本屋さんをうろうろして少ないお小遣いでちまちまと新書や文庫を買ったりもしていました。
狭い教室、狭い寮のなかでどこにも自分の逃げ場なんかないと思って苦しくて、そしてこの狭い世界の中でうまく対応できていない自分はダメな人間なのだと思いまた苦しくて、16年そこそこしか生きてない自分のつたない脳みそはパンク寸前でした。今になってみれば卒業まで耐えればいいだけだとか、誰かに相談すればよかったのにとか思えるのですが、当時の私にはそんなこと考えることも出来ませんでした。とにかく、今ここ、それが世界のすべてで、そこが安らかな場でないことが苦しくて仕方なかった。
私にとって、本を読むことはその、ちっぽけな世界から一瞬抜け出せる体験でもありました。読書に没頭することで、そこに違う世界が見えました。自分がいる今ここだけが世界じゃないということが見えてきた瞬間でもありました。
(本文より抜粋)
現実社会において「居場所を見いだせない人」にとって、「図書室」こそが「居場所」になることもある。
つまり彼女にとって「図書室」とは、名前通りの存在ではなく、とても大切な「居場所」だったのかもしれないと思えてくる。
「本」が彼女の心を守り、「本のある場所」である「図書室」が彼女が「存在して良い場所」となって、彼女そのものを守ったのだから。
また、「本」に救われ、「本」によって「人格」を形作られていった花丸にとって、「図書室」とは「自分を育てた場所」そのものでもある。
そう考えると、「図書室」は彼女の心と体を守った場所であるのと同時に、彼女の「アイデンティティ」そのものでもあるように思えてくる。
「図書室」というものそのものに、「国木田花丸」を構成する要素が凝縮されている。つまり「図書室」とは「国木田花丸の過去」と「今」そのものであるようにも思えてくるのだ。
そう考えると、ようやく2期13話における花丸の「切実」さの意味が理解できる。
「図書室」とは「国木田花丸の過去と現在」そのものの「メタファー」である。
しかし花丸はその「図書室」を「空っぽ」にし、「ドア」を閉めようとする。
つまり、幼少期から今に至るまでの自分の「これまで」を「切り捨て」、「新しい場所」「新しい自分」へと踏み出すための「通過儀礼」を行っているように見えてくるのだ。
「子供だった自分」を捨て「大人」へと変わっていくための通過儀礼。
その為に「過去」を全て捨て去ろうとする。
そう見えるからこそこのシーンは「痛い」のだ。胸が張り裂けそうになるのだ。彼女が彼女にとって大事なものを「無理やり手放そう」とするから。
それが痛くて苦しいのだ。
一人ではその「痛み」「苦しみ」を乗り越えられないから、自分を「外の世界」へと連れ出してくれた二人に、いつもよりも強い語気で力を貸してくれるように求める。
未来へと無理にでも歩を進めなければいけないから。
けれど、ふと思うのだ。
花丸は「未来へ進むため」に「過去を切り捨てる必要」があったのかと。
ひとりぼっちの「図書室」ではなく、多種多様な人々がいる「世界」へと足を踏み出す。大人になっていく。それは確かに必要なことだ。それこそ正に「成長」だ。
確かにそこから考えれば、「図書室」に籠って誰とも接さず過ごした時間は「恥ずべき過去」なのかもしれない。
それでもだ。
それでも「図書室」で一人「本」と戯れ、「物語」に没入し、その世界に身を置くことで「想像の羽を広げた時間」は決して「無駄な時間」ではなかったはずだ。
その過去が、今の国木田花丸を形作っているから、というだけでなく。
そんな時間だって、二度とはない、決して長くはない人生におけるかけがえのない時間だったはずだから。
だからこそ、今回図書室に椅子が1つポツンと置かれたシーンに、僕は救いを感じてしまった。
千歌が語る「全てが0になった気がしていたけど、そうじゃなかった。」というモノローグ。それに呼応する形で「空っぽになったはず」の図書室に置かれる「1つ」の椅子。
それが示す意図とは、つまりシンプルに「0ではなく1」ということなのだと思う。
国木田花丸が「新しい自分」になるために、「新しい未来」へと踏み出すために、切り捨てた「過去」。
世界に居場所を見出せなくて。自分を肯定してくれるものがなくって。その救いを求めて通い続けた図書室。そしてそこで過ごした時間の全て。
その過去がこのシーンで「肯定」されていく。
だからこそ花丸が「空っぽ=0」にしたはずの図書室に「1つの椅子=1」が置かれる。
彼女が図書室で一人座って、本と共に過ごした時間を肯定するように。
ポツンと置かれたこの椅子が、その事実を無言で語っているように思えるのだ。
具体的な言葉ではなく、ほんの一瞬しか映らない景色で国木田花丸の「過去」を全て「肯定」してみせる。
ラブライブ!サンシャイン!!は「肯定の物語」であると皆が言う。
その通りだ。
ここにも「肯定」がある。
PS:本来であれば何故「マルたち」なのか、まで思考(1年生が抱える生きづらさに関しての思考)したいのですが、今回はここまでにします。