Love Live!Aftertalk!

妄想をただ書き連ねる覚書。更新情報等はTwitterにてお知らせしております。

「光」と「音」で紡がれる、永遠に続く「夢」の物語~ラブライブ!サンシャイン!! The school idol Movie Over the Rainbowインプレッション~

素晴らしい映画だった。

それ故に苦しい。書かないと苦しすぎる。

だから今日ここで「ラブライブ!サンシャイン!! The school idol Movie Over the Rainbow」の初回を見た感想を、アウトプットしようと思う。

「この映画の素晴らしさをあまねく全ての人に伝えたいから」などという高尚な理由ではない。ただただ書かないと苦しいから書くだけだ。

つまり自慰行為に等しい何かなので、お見苦しい部分も多分にある。

まだ2回しか見ていないので、不十分な部分もあると思う。

記憶違いもあるだろう。

それでもよければ、ほんの少しだけお付き合いいただけると幸いだ。

※当然ですが、本記事はラブライブ!サンシャイン!! The school idol Movie Over the Rainbowのネタバレを壮大に含みます。読む前にネタバレをしたくない場合には、必ず劇場で映画を鑑賞後読んで下さると幸いです。ネタバレだろうが構わんという方はどうぞご自身の責任のもとご一読ください。

f:id:ishidamashii:20190104163901p:plain

 

 ■夢

ラブライブ!サンシャイン!!」という物語では「夢」が大きなキーワードになっていると思う。

TVシリーズでは「夢」とどのように向き合うか。それが度々問われ、その度にAqoursのメンバーが煩悶し、自ら問い、その回答を得て行った。その「足掻き」こそが、「Aqours」のひいては「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品の「物語」だった。だからこそ、今回の劇場版でも「夢」にまつわる物語が繰り返されたのは、ある種宿命だったように思う。

同じ話をやっている??良いじゃないか。これが「ラブライブ!サンシャイン!!」なんだから。

 

鞠莉は母親から「スクールアイドル」という「夢」についての問いかけをダイレクトに食らう。

「スクールアイドル」をやった結果「外国での学位取得は出来ず」「学校は救えなかった」。

事実を羅列する鞠莉の母親の言葉はきっと正しい。鞠莉やAqoursのメンバーもそれに反証は出来ない。けれど「なんの得にもならなかった」「スクールアイドルなんかくだらない」という言葉にだけは意を反す。

彼女達は「得になるから」「スクールアイドル」をやっていたわけではない。

「楽しい」から。

それがあることで「生きている実感を得ることが出来る」から、「スクールアイドル」をやろうと決めた。だからこそ鞠莉とAqoursは鞠莉の母親へ向けて「スクールアイドルをやることの意味」を歌った「HOP!STOP?Nonstop!」を聞かせる。「ワクワクしたくて」そして誰かの心をワクワク「させたくて」スクールアイドルをやる。それが「楽しい」から、「こんな素敵なこと止められないから」続けてきた。

「学校を救う為」でもなく「得になるから」でもなく、「楽しいから」やる。

なぜ「スクールアイドルをやるのか」。鞠莉によるその問いへの反証によって、千歌たちは最も根本的な事実を、「夢の正体」を、イタリアで再発見するに至る。

 

一方で「叶わなかった夢」の持つ「呪い」性にもまた目を向ける。

「夢は呪いに似ている」「叶わなかった夢は呪いになる」

かつて千歌が「廃校阻止」という「夢」を「呪い」に変化させてしまいそうになったように、「夢」は叶わなかった場合にその人を縛り付ける「呪い」にもなり得る。

 

 映画では理亞がその「呪い」の呪縛を受けてしまう。

Saint Aqours Snowによって救われたと思われていた理亞だが、やはり「かなわなかった夢」からそう簡単に逃れることは出来ない。

 

「叶わなかった夢は叶えない限り呪いとなってしまう」。

「夢の持つ二面性」に再度目線を向けた上で、それでも「消えてくれない夢」の持つ痛みや重みを描く。「夢」はきらきらした「楽しいもの」だけではなくて「痛みを抱えながら求めるもの」でもある。これもまた「ラブライブ!サンシャイン!!」で何度も描かれてきたテーマだ。

けれども「ラブライブ!サンシャイン!!」は「夢」を決して「呪い」のままにして終わらせることを良しとはしない。

「叶わなかった夢は叶えない限り呪いとなってしまう」のであれば、それに対する答えはシンプル。

その「夢」を叶えてしまえば「呪い」は解けるのだから。

 

かくして劇中で問われた「夢」に関する「二面的」な問いかけが、「架空のラブライブ!決勝」での2組のスクールアイドルの「ラストライブ」という一つの事象によって同時に「解決」していくことになる。

この構成は映画としてとてもシンプルかつ巧みでもあると感じた。

「楽しくって、ちょっぴり辛くって、それでもやめられないくらい楽しいもの」

それが「ラブライブ!サンシャイン!!」が提示する「夢」の形なんだろう。

 

■永遠に残るもの

時は留まることなく流れ続けて、日々移ろっていく。その事実を「ラブライブ!サンシャイン!!」は肯定し続けてきた。

「この瞬間のことが重なって消えていく」からこそ、その「今」を「心に刻む」。それは「WATER BLUE NEW WORLD」でも紡がれたAqoursアイデンティティでもある。

だからこそ彼女達は「変化していってしまう」ことも「自らが変わっていくこと」も恐れない。

イタリアでもただぼんやりと旅行をするのではなくて、梨子は音楽を聞きに、花丸とルビィは新しい衣装の生地を探しに、善子と曜は新しい振り付けを会得しに、それぞれ動く。いつだって「新しい自分」になりたい。そう願って行動する。そこがAqoursAqoursたる由縁だ。

時が進んでいって、何もかもが変わっていく。それは止めようのない事実で、我々の力では制御しきれない。仕方ないと受け入れるほかない。

けれども郷愁に陥ることは多々ある。

馴染みの景色も、場所も、人も、やがて消えてなくなっていく。それはやはり悲しい。

しかし本作ではそれらは「消えない」のだと語られる。

全て「胸に残り続ける」。寂しくなったら「胸」に問いかければ、いつだって出会える。だから「消えない」のだと彼女達は語る。

けれど僕は思う。「消さない」方法はもう一つある。

それこそが今見ているこの「映画」だ。

終盤千歌が語る「消えないもの」とそれに合わせて描かれる沼津の場所場所。

それは沼津に、内浦に、足しげく通う我々と、そこに住まう人々にとってはまさに今現在そこにある「景色」でもある。けれどもきっと、いや間違いなく、これらの景色も変化していく。あったはずのものが無くなり、いたはずの人たちがいなくなる。それは避けようがない。

けれどもこの映画の中に「2019年1月」の沼津が刻み付けられたことで、この景色は決して「消えない景色」になったのではないか、と思うのだ。

懐かしくて会いたくなったら、いつでもこの映画を「再生」すればいい。そうすれば、会いたい「沼津」に、会いたい「内浦」に、会いたい「人」に出会えるかもしれない。

「映画は光で描かれた永遠の物語」なのだと誰かが言っていた。僕はその言葉が大好きだ。

ついこの間「オズの魔法使」を再生した。鮮やかな映像も、人々の動きも、今そこで全てが現在進行形で生きているかのように動き始めた。

この映画は1939年の作品で、僕はまだこの世に生を受けていない。主演のジュディ・カーランドも1969年に亡くなってもはやこの世の人ではない。けれどもこの映画が再生され続ける限りこの世界に息づく「消えない景色」はいつでも甦る。これを「光で描かれた永遠の物語」と言わずしてなんと呼べば良いのか、と思う。

千歌の言葉を、「映画」であるこの作品が肯定し、実現していくとき、僕は「あぁ...これがこの作品が映画作品になった意味だったんだ」と強く実感した。

この「映画」を再生した瞬間に、2019年の「沼津」「内浦」が、そして「スクールアイドルAqours」が願った「夢」と「彼女達が提示した夢の形」そのものが時代を飛び越え、普遍的に「動き出す」。それはまさに「映画」だからこそ起こせる「奇跡」なんだ。

「光」と「歌」で紡がれる永遠に続く「夢」の物語。

かつて一組のスクールアイドルが「歌」に「永遠」を託した作品が「School idol Movie」と名付けられたように。

再び一組のスクールアイドルが「光と音」に「永遠」を託したこの作品は、やはり「School idol Movie」と呼ばれるに相応しいと思う。

素晴らしい作品を生み出してくださったスタッフの皆様、沼津・内浦の皆様に心から感謝を。

「映画」が、「ラブライブ!サンシャイン!!」が好きで、本当に良かった。

 

※今回はインプレッションですが、いつかガッツリ映画の記事は書くつもりでおりますので、その時にはまたお会いしましょう。