皆様。おはようございますorおやすみなさん!(うそうそ寝ないで!)。
今回は早くも佳境。私の推し国木田花丸編をお届けします。
え?推し花丸なの?ですって??
そうなんです(迫真)。
2期という物語単体で考えると少し難しい存在でもある花丸。
今回はそんな彼女のバックボーンを妄想しながら、物語全体での花丸像みたいなものをなんとなーく考えてみたいなと思います。
(こちらは公式ではなく、ワタクシの妄想が多分に入ったものですので、予めご注意願います)
■国木田花丸の「役割」
前回取り上げた鞠莉と違って、二期において花丸がどのような活躍をしたか...というのは一言では説明しきれないと思います。なにより恐らく具体的なエピソードが浮かばないはず。
というのも、鞠莉は2期において物語全体とも関連するプロットを、自身の問題としても抱えていたため(統廃合問題・旧Aqoursの問題)彼女の「情動」や「行動」そのものが物語全体においても機能していました。いわば「動」のキャラクターとして機能した鞠莉。
反面2期での花丸の行動は物語の中心線とはそれほど関連しないものが多い。どちらかといえばメインプロットにおいてはトリックスター的な動き方や、サブプロット(ルビィの課題克服)を動かすための機能をもたらされることが多かった。「動」に対してそれを受けて活動するいわば「受」の性格を持ったキャラクターであったように思います(同様の機能をもったキャラは曜でしょうか)。
人によっては「推しが冷遇された」と言う方もいるかもしれません。しかし「ラブライブ!」というアニメシリーズではメインに「物語」があり、キャラクターはその「物語」を描く為の「語り部」に過ぎない...という使用法が前作から継続して為されています。それ故に物語の構成的に「余計な要素」となり得るようなサブエピソードは極力避けられる傾向にあるのです。(じゃあダイヤのエピソードは必要なのか??という議論に関しては、ダイヤ編にて書かせて頂きます)
もちろんその作劇の良し悪しというものはあると思いますが、それに関しての議論もここでは必要ないので除外します(因みに私はその作劇に関して特に異論を感じておりません)。
ただしあくまでもこのバランスで作劇をしていく場合に必要となる「受」のキャラクターとしての「機能」が、花丸というキャラクターにはとても合致していたのでは?とも思うのです。それは恐らく花丸というキャラクターそのものの「在り方」にも関与しているのではと思えます。
※ここからは国木田花丸というキャラクターのバックボーンについて考えます。2期考察とは少し離れてしまいますが何卒ご容赦を。。
■国木田花丸と「無」
実存主義の記事でも触れた花丸と「無」に関するお話。
2期2話で花丸が歌詞の題材として主張した「無」という概念。上記記事ではここから「実存主義」にまで枝葉を伸ばして「ラブライブ!サンシャイン!!」との関連性を深読みしました。とはいえ、この記事に対してのご指摘としてもあった通り、花丸は本来「寺の娘」。宗派は不明ですが彼女の出自を考えれば、この発言の根幹にあるのは仏教哲学。具体的には「般若心経」における「空即是色」であると思えます。
「空即是色」の説明をここから始めてしまうと凄まじい勢いで脱線していきそうなのでアレなのですが、とはいえ説明しないわけにもいかないので少しだけ。。
★「空即是色」とは?
仏教では「物体」のことを「色(しき)」と呼びます。
我々が「物体」として認識するあらゆるもの(例えばそこにあるボールペンから道端に転がっている石ころにいたるまで)全てを「色」と呼びます。それは我々自身の「肉体」も同じ。「物体」として認識できるもの全てを「色」と呼んだわけです。
しかし仏教ではこの「色」は全て「空(くう)」なのだと定義します。
「空」とはそのものずばり「実体が無い」ということ。
具体例を挙げるのならたとえば「車」。
あれは我々が「車」であると認識するから初めて「車」になるのであって、その実態は様々なパーツの寄せ集めに過ぎません。そのパーツも元は様々な「元素」によって作られたものであり、パーツとしての実体も無い。
そうやって極限までその物体を「ミクロ化」してみると、そのものには実は我々が定義するような「実体」がないことが分かっていく。
これが所謂「色即是空」です。
とはいえ我々にはその「空」の集まりを「車」である!と認識することが出来ます。即ち我々が本来「空」であるものに「意味」を定義することで、そこにはにわかに「色」が立ち上がっていく。これが「空即是色」という概念です。
「すなわち『無』というのは、『全てが無い』のではなく『無』という『状態がある』という事ずら。それこそまさに『無』!」
2期2話「雨の音」より
どうでしょう。
花丸の発言は「空即是色」についての物であることが分かると思います。
「般若心経」の根幹となる「大乗仏教」では、世界そのものの本質は「空」であり、我々の見ている世界は「色即是空 空即是色」の「繰り返し」の「合間」に過ぎない。我々が「空」を「色」として認識している「今」がそこにあるだけで、そこには連続性はない。即ち「過去」も「未来」もなく「今」だけが連続しているのだ...という思考になっていくわけですが、ここはハッキリとサンシャイン2期のストーリーとも関連していると思います。
イマはイマで昨日と違うよ
明日への途中じゃなく イマはイマだね
この瞬間のことが 重なっては消えてく
心に刻むんだ WATER BLUE
「WATER BLUE NEW WORLD」
「般若心経」と「サンシャイン2期」の関連のお話となると完全に脱線していくので、それはまた別の機会としますが、ここでお伝えしたいのは、花丸の根幹にある「般若心経」的な思想というものは、Aqoursが2期12話でたどり着いた思想とほぼ一致している...ということです。
ただし、花丸がこの「無」に関する概念を取り出したのは2期2話です。即ち花丸は2期の初めから、Aqoursがたどり着く結論をある程度「予測できていた」と考えてもおかしくないわけです。
そう考えると、国木田花丸というキャラクターが抱える「深遠さ」みたいなものも見えてくるように思えるのです。
■国木田花丸と「図書室」
花丸といえば「図書室」。子供の頃から運動が苦手で、引っ込み思案。友達も多くなかった花丸が唯一の心の拠り所とした場所。それが「図書室」でした。即ち幼い花丸が心の「平穏」を求めてたどり着いた場所が「図書室」だったとも考えられるわけです。
また仏教の話に戻ってしまって恐縮なのですが。
仏教の根幹には「心の平穏を求める人が辿りつく宗教」という側面があります。それは釈迦が提唱した仏教の定義とも関係しています。
仏教の開祖である釈迦は人生を「苦に満ちたもの=一切皆苦」と定義し、その苦しみの第1を「無知であること」=「無明」と定義しました。釈迦はこの「無明」を筆頭に人生は12の苦しみに満ちている(十二支縁起)と定義し、この12の苦しみを己の「修行」を以て乗り越えることによって「悟り」の道が開き、それによって「苦しみからも解放される」と語りました。そんな背景もあって、仏教は「心に苦しみを抱える人」が救いを求める宗教として成立していったわけです。
その「修行」の第1として、釈迦は「知識をつけること」を提唱しました。それはもちろん第1の苦「無明」が「無知」故に起こる苦しみだからです。とはいえその「知識」をつける修行というのはかなりストイックなもの。周囲から断絶された場所で、ただひたすらに勉強に励む。それが釈迦が推奨したものなのです。
さて、なんでこんな話をしたかというと、これってまんま過去の花丸の状況と同じだと思えたからです。
花丸は親しい友人を作らずただひたすらに「図書室」で本を読み漁ることを小学校から続けていました。これはいわば「修行」に等しい行為に映ります。
「知識」を身に着け、迷いを捨てることで、「心の平穏」を得ようとした。また「物語」の世界に身を置くことに集中し、その世界に没入していくことは、どこか「瞑想」にも似た行為のように感じられます。
彼女がこういった行為に没頭できたのは、この時点ではそれ以外に「やりたいこと」が無かったからなのでしょう。
ここから感じるのは花丸という人のちょっとした「独自性」です。
世の雑多な出来事には興味を持たず、ひたすら「知識」と「心の平穏」を得るために書物を読み漁る。それに疑問も感じない。そこからはどこか超然とした人物像が見えてくるのです。
とはいえ花丸のバックボーンには「寺生まれ」という厳然たる事実があります。そう思うとこの花丸の「在り方」のようなものは、生まれつき自然と身についていたものなのかな?という気もします。幼いころから繰り返し教えられてきた「釈迦の仏教」。
その中にある十二支縁起を自然と実践してしまっていた...という可能性も捨てきれません。となるとこの「行動」も、彼女が生来繰り返し与えられた「習性」に従っての物?という理解も出来ます。
根本に「釈迦の仏教」に基づく思想を宿しながら、様々な「知識」へと触れて行った花丸。
そんな日々の中で恐らく「般若心経」にも触れ、それもまた「知識」の一つとしてストックされていったのでは?とも想像できます。
■国木田花丸と「変化」
「無明」を無くしていくことで「悟り」へと近づいていく花丸。しかしそれが「花丸の本質」と一致しているのか??というのがポイントなのかな?と思います。
花丸が「修行場=図書室」で出会うのは黒澤ルビィ。引っ込み思案で、友人が少ないという点において共通点のあった二人は意気投合します。仲良くなり会話するうちにルビィの中に眠る「輝き」に気付く花丸。他者と密に接することが無かった花丸にとって、他者が持つ「その人にしかない輝き」に触れることは、とても刺激的だったはずです。いつしか花丸はその「輝き」を解き放つことを「自分の願い」として持つようになります。
ひたすら「自分の心の平穏を獲得する」という「願い」しかもたなかった花丸が、初めて「他人のため」に「願い」を持つ。ここには明確な「変化」が見えます。
で、また仏教の話に戻って本当に恐縮なのですけど(苦笑)。
「釈迦の仏教」では「他者に干渉し、悪い事をすること」だけでなく「善いことをすること」も等しく「悟りから遠のく」ため「悪」とされています。この理由を書き始めるとまたムダに記事が長くなるので、理由は各自お調べください(ひどい)。
なにはともあれ「自分自身の救済」を目的とする「釈迦の仏教」においては「他者」すらも「切り捨てなければいけないもの」なのです。とはいえ、その教えに殉じるのは難しいですし、なによりもそれでは大抵の人は「救われません」。そんな中「もっと大勢の人を救い上げる方法は無いか」という思案の末に生まれたのが「大乗仏教」なのです。
「大乗仏教」では釈迦が禁止した「他者のために善行を積む」ことも推奨されました。「良いことをすれば自ずと極楽浄土に近づける」というのは、今の日本社会でもなんとなく浸透している考え方ですが、これは日本が「大乗仏教」の影響下にある国家だから...という関係性があります。
で、これが花丸とどう関係あるかというと。
この「ルビィ」との出会いによって花丸の中での「宗教観」のようなものにも「変化」が起きたのかなと思えるのです。
花丸が仏教と関係が深いのは、出自からして致し方ないこと。そんな中で自然と慣れ親しんできた「釈迦の仏教」ではなく、より自分の在り方に近い「大乗仏教」とその根幹にまつわる「般若心経」的な思考に自分を「寄せて行った」。
これは「個人的」かつ「小規模」な「変化」ではありますが、花丸にとっては決定的な変化です。これまでの「在り方」は「自分自身で獲得したもの」ではなく「親から与えられたもの」だった花丸。
しかし「ルビィとの出会い」によって「心が動き」、自らの「願い」を手にする。
そしてその「願い」を叶えるために、自分の「思考方法」を、より合うものに「変更」させていく。
そうすることで「自分自身の在り方」を「自分自身で選ぶ」ことに成功する。
そこからは「本当の自分」を獲得していく過程も垣間見えると思うのです。
(そしてこの自分自身の意志で「本当の自分」を獲得していく...というのは善子とも同じケースです。故に花丸は善子がヨハネであろうとすることを支援し続けるのかな?とも思えるのです。)
■国木田花丸と「空(くう)」
以上のようなバックボーン予想を元に、国木田花丸という人の人物像を組み立てると、彼女の思想面には「仏教的な『空(くう)』の思想がDNAレベルで刻み付けられている」という予想が生まれます。
そうすると国木田花丸という人の「本質的な部分」に関しても、なんとなく予想が出来るような気がします。
仏教では「世界とは空である」と語ります。
自分の「肉体」を含めた、今「目に見えているもの=色」全てに、実は「本質」はない。自らの感覚を通して認知するからこそそれは「色」として認識されるのであって、どんな物でもその本質は「空」に過ぎないのであると。
更に「般若心経」ではその「感覚」そのものも「空」であると語る。要するに「生きる」という事自体が「空」であると定義されてしまうのです。
そんな思想が「DNAレベル」に刻み付けられている...というのはどんな感覚でしょうか。
確かに「過去」の過ちは振り返らなくなるかもしれませんが、「未来」への「企て」のような欲望が浮かんでこなくなるかもしれません。
とてつもない「平穏」にある代わりに、人生への「欲望」や「欲求」が生まれてこない。もしかしたら花丸は平常時にはこういったある種の「虚無感」のような感覚を感じているのでは?とも思えるのです。
けれども彼女は日々その「虚無感」と必死に戦っているようにも思えます。先ほどのルビィの願いを叶えることを筆頭に、彼女は毎日を「虚無」にしないため、「自分に出来る範囲」での「生きがい」を見出そうとしているようにも思えるのです。
※以上がAqoursに至るまでの花丸のバックボーン妄想です。ここからが物語のお話。
■国木田花丸と「食」
1期終盤から狂ったように「のっぽパン」を食べ始めただけでなく、2期ではすっかり食いしん坊キャラに変貌した花丸。
これは完全に思い込みの妄想ですが(笑)。
食というのは比喩でもなんでもなく「生きる」ことと直結した行為です。人間は「食わねば」死んでしまう。当たり前の摂理です。だからこそ花丸は「食べる」ことで「生きていること」を実感している...とも考えられます。
また人間とは本質的に「何か」を口にすれば良いのではなく、「おいしいもの」を食べることに執心します。この「人間にしか価値を感じられないもの」という考え方は前段の「空即是色」とも繋がります。本質的には「意味がなかったり」「意味を必要としないもの」に「意味を見出す」。それこそが「空しい世界」の中での「生きがい」になる。花丸が「食」というものにある種の「こだわり」を見出すのは、そこに「生きがい」をも見出しているからとも考えられないでしょうか。
とはいえ2期で明かされたように、花丸は「食事」をすることで「太ったりしない」。即ちどれだけそのものに「意味」を見出そうとしたところで、結局本質が「空」であるものの影響を受けない...というところに彼女の悲しさもまた感じてしまうのです。
■国木田花丸と「利他性」
劇中において花丸が「夢」を語ったのは1期4話のみ。それ以外で花丸が自分自身の「夢」を語った記憶はありません。彼女はいつだって「他者のため」に動くことを良しとします。
1期4話でルビィの背中を押すだけでなく、1期5話では善子を救うきっかけとなる一言を発したりもします。
花丸のその「特性」は2期においてより極まっていきます。2期3話では善子をじゃんけんで勝たせるためにちょっとした「手助け」を。
2期8話ではルビィの「願いの意図」を全く聞かず「面白そう」という理由だけで彼女に手助けを申し出ます。
2期11話では皆が「自分のやりたいこと」をやる中で花丸は「善子のやりたいこと」を「手伝うこと」を優先します。
また劇中何度となく善子のことを「ヨハネ」ではなく「善子ちゃん」とわざと呼ぶのも、彼女が「ヨハネ!」と言い返すこと、即ち彼女が「ヨハネであり続ける事」を「支援したいからの行動」のようにも思えるのです。
ことほど左様に花丸が「利他的」であるのは、いや「利他的であろうとする」のは、それは「利他的であること」が彼女自分が選んだ「自分自身の在り方」そのものだからなのでは?と思えるのです。
一見「自分の願い」のようなものが無いように見える彼女の「願い」とは、もしかしたら「誰かのために何かをする」ことなのでは。そしてそれをしている限り彼女の「願い」は「現在進行形で叶っているのでは?」。
ちょっと妄想がすぎますが、これまでの論拠をもとに考えれば、そんな風にも感じられるのです。
■国木田花丸と「文学」
2期BD特典曲「おやすみなさん!」は国木田花丸初のソロ曲でした。そこには彼女がことさらに明かさない「内面」のようなものも描かれていて、我々花丸推しとしては捨て置けない楽曲でした。
実は今回の考察を完成させる前に「おやすみなさん!」の記事を準備していたのですが、この記事を書くこととなったので慌てて封印した経緯があります。理由としてはその歌詞に「花丸の本質」を理解するためのヒントが詰まっていたからです。
例えば冒頭。
特別なことじゃなくて そばで毎日笑いあえる
わりとこれ難しいと 少し分った最近かも
言葉には出来ないような 悲しみたち知った時
無力な自分悔しいと 涙ポロリ落ちる
これを逆説的に考えると、花丸は最近まで「誰かと毎日笑いあうことの価値も、言葉に出来ないような悲しみも感じたことも無かった」ということになります。
また中盤。
幸運はまず笑顔から
始まってゆく気がして
ああ無理に ほっぺたを
上げてみる鏡
妙な自分の表情で
見事笑えたよ
ここから分かるのは、花丸はいつも「頑張って」笑顔を作っているということ。それは「笑顔が幸せを連れてくる」と信じているからであって、彼女の本質は「ニコニコ笑顔でいる人」ではないということが分かるのです。
これは前段の「花丸は根本的にはどこか虚無感を感じながら生きている」という考え方とどこか近似性を持っているような気がするのです。
けれどもこの楽曲の結びではこう語ります。
ひとり笑顔で 明日の
ちょっとしたお楽しみ
考えてたら
晴れるよ 胸の空は
いつも 幸せを望んでるから
なんて文学的な
気分で眠ろうか
おやすみなさん!
彼女の根本には「虚無」が潜んでいて、彼女一人の力では明日には「希望」を感じられない。そんな時彼女を後押しするものが「文学」なのです。
あの時一人「心の平穏」を得るために逃げ込んだ図書室と、そこで読み漁った書物、その中でも「文学」が、彼女に「未来」を信じる「希望」を与えてくれているのです。
「文学」は人が作った作り物です。ある種「あってもなくても良い」もの。けれどもそれもまた「空即是色」を体現するもの。「あってもなくても良い」けどもそれがあることで「空しい世界」に「意味」を見出すことが出来る、心の支えになるもの。
花丸は常にそういった「空即是色」に「意味」を見出しながら、この「つまらない世の中」を「面白くしたい」と願いながら、生きている人なのではないかなと僕は思うのです。
ということで、花丸論でしたが、ちょっと脱線しすぎましたね。ガチで反省しております(笑)。
ちょっと分かり辛いところもあるとは思いますが、適宜修正して参ります。
推しって難しい。。
追記:
本稿校了後、「おやすみなさん!」における「文学的な気分」とは具体的にどういったものなのか??に関して、改めて考察してみました。
こちらTwitterに掲載しましたので、それをそのまま転載させて頂きます。
改めて「おやすみなさん!」における「文学的な気分」に関してのインプレッションをば。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) 2018年2月9日
とはいえ、そんな長い話ではないけども。
「文学的」の反対語みたいなものを想定すると、恐らく「写実的」という表現になるのかもしれない。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) 2018年2月9日
現実に照らし合わせ、そこにあるもの、起こりうるものを淡々と描き出す表現法。それは一つの表現法としては当然ありだし、突き詰めれば素晴らしいものになるけども、ただし現実を越えてはいかない。
「現実」を越えていけないとなると、我々は現実に束縛されてしまう。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) 2018年2月9日
すると可能性を見いだしづらくなる。
「おやすみなさん!」の歌詞でも、「現実」に打ちのめされる花丸が描写されている。
「言葉には出来ないような 悲しみたち知ったとき 無力な自分悔しいと 涙ポロリ落ちる」
はその例。
そういった「現実」を超越していくのが「芸術」。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) 2018年2月9日
「現実」には起こり得ない出来事を様々な表現を用いて実現させていく。
そうすることで「可能性」を提示する。
もちろんそれがあることで現実は変わらない。
けれども現実を生きる我々の心には変化が生まれる。
「クソみたいな人生」だったとしても、「映画」や「音楽」や「絵画」や様々な「芸術」がその人の人生に彩りを与えていく。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) 2018年2月9日
その「芸術」が、その人の人生観を変え、やがて人生そのものをも変えていく。
そんな可能性を秘めているものが「芸術」なのだと思う。
「文学的な気分で眠る」のは、通常の気分では「明日やってくる現実」を受け入れがたいから。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) 2018年2月9日
「現実」というのは花丸にとっては至極味気ないものなのだろう。
けれど「文学的な気分」で眠ることで「明日へのお楽しみ」が生まれてくる。それを思いながら眠ることで明日への期待が沸いてくる。
即ち「文学的な気分」というのは「味気ない現実を超越するための気持ちの持ち方」に関する一種のメタファーなのかしら?と考えました。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) 2018年2月9日
了
スクールアイドルだってあっても無くても同じ。
— 魂@lovelive!aftertalk (@tamashiill) 2018年2月9日
でもある世界の方が楽しい。
つまりそういうお話なんだなぁ。
たまお
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