Love Live!Aftertalk!

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~みんなで歌う消えない「夢」~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第24話(2期11話)「浦の星女学院」

 皆様こんにちは、そしてこんばんは。

前書き面倒くさいのと、本文長くなるので、今日は挨拶にとどめたいと思いますw

早速参りましょう。

#11「浦の星女学院」です。

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閉校祭 変化するモチーフの使用法

2期11話という話数。これは無印「ラブライブ!」において酒井監督が演出を担当された、「私たちが決めたこと」と同じ話数。同監督の名声を高めた回だけに、恐らく監督にとっても思い入れのある回。それだけになんらかの「仕掛け」があるのでは?と考えた方も多かったかもしれません。

結果的に、その思惑は部分的にではありますが当たったのかもしれません。今回のお話と「ラブライブ!」2期11話には共通したモチーフがあります。

それは言わずもがな「終わり」というモチーフです。どちらの回でも「終わり」が描かれ、それが物語内で重要な「要素」となりました。しかし注目したいのは、その「使い方」です。

#11「私たちが決めたこと」で穂乃果たちが決めた「μ'sのこれから」。この回では、それを告げるために用意された「ただの一日」が、「終わり」の「宣言」をきっかけに「特別な一日」へと「変化」していきます。そして結末に訪れる「爆発的なエモーション=悲しみ」に、物語最大の盛り上がりが集約されていく構成となっていました。いわば終盤に向けて「ただの一日」が「終わりを告げるため」のある種の「祭り」へと変わっていくのが「私たちが決めたこと」という物語の「キモ」だったように思えます。

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反面今回の#11「浦の星女学院」では、初めから「終わりを告げるための祭り」が舞台として「設定」されています。

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Aqoursのメンバーでなく、浦の星女学院の生徒たちが考えた「閉校祭」という名の「祭り」。それは「終わり」を「悲しむ」のではなくて、「バーッと盛り上げる!」即ち「盛大に祝う」ための「祭り」です。

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「終わり」をある種「悲劇的」に描いた「私たちが決めたこと」とは真逆の意味合いを持って設定された「閉校祭」。

今回は「私たちが決めたこと」をなぞる「構成」を使用しながらも、まるで違う結末へと物語を導いていく、両方の作品に携わる「酒井監督にしか出来ないリブート」が為されているように思えます。どのあたりが「リブート」なのかに関しては、おいおい触れていくことといたしましょう。


物語のモチーフ

「閉校祭」の目玉。それは、生徒それぞれが「学校でやりたいこと」をやること。それは理事長だろうと、生徒会長だろうと変わらない。あるいは在校生でなくても良い。卒業生でも良い。とにかく浦の星に関わる「全ての人」が、学校で「やりたいこと」をする。

それが「閉校祭」という祭りの「主な狙い」なのです。

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で、早速ここが「私たちが決めたこと」と共通するポイント

「私たちが決めた事」では、「何をするか」のあてもなく集まったμ'sの9人が、それぞれ「やりたいこと」を言う物のまとまらず、結論として「全員のやりたいこと」を「一日でやりきる」ということになります。

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このお話と今回の「浦の星女学院」とは外観こそ違えど共通するモチーフに彩られています。

「限られた1日」の中で、「やりたいこと」を「全部やる」。

その中で「限られた一日」の「価値を知る」。そんな物語だからです。

また、このように物語の骨組みを理解することで、物語同士の「比較」も容易になります。

「私たちが決めたこと」は、「μ's9人」を主役とし、彼女達9人がそれぞれの「やりたいこと」を「9人全員」で行う中で、「ただの一日」の「価値」を理解していくお話でした。

今回の物語をこの枠組みに当てはめてみましょう。

そうすることで、この二つの回を別ける「大きな要素」が見えてきます。

それは「私たちが決めたこと」での主役は、あくまでも「μ's」であったのに対し、今回の物語の主役が「主人公=Aqours」ではなく浦の星女学院の生徒」および「学院に関わる全ての人」へと置き換えられている...ということです。

今回の物語における主役は「Aqours」だけではなく、「Aqours」を含めた「浦の星女学院に関わる人々」全員である。

この前提を念頭に置いておくと、よりその後の物語全体の構成や意図も呑み込みやすくなるような気がします。

 

それぞれがやりたいこと

「私たちが決めたこと」に倣って構成されている今回のお話。だからこそAqoursのメンバーも「自分達がやりたいこと」をこの一日で目いっぱい「楽しもう」とします。

鞠莉の「やりたいこと」は「シャイ煮プレミアム」の完成とそれを振る舞うこと。

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ダイヤは「浦の星女学院の生徒会長」としては決して見せなかった彼女自身の「本質」=「スクールアイドルマニア」としての矜持を示す催し=「ラブライブクイズ」を...。

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ルビィは「姉と一緒に姉の大好きな事をする」という「願い」を叶えていきます。

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ルビィは人気者。衣装面では2年生の催しのお手伝い。

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和カフェの衣装に身を包んだ梨子。

函館でも鹿角姉妹の衣装にいたく感動していた梨子。彼女の「趣味の真相」は不明ですが(笑)、どうやらこれは「梨子がやりたいこと」なのかもしれませんね。

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(参考資料from梨子)

ルビィに振られた格好の善子。彼女がやりたいのは「占いの館」のようです。

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思えば一度「披露した」ものの、同級生に全力で「ひかれた」ために、あれ以降披露していない「占い」。彼女はこのタイミングで、あの時の「リベンジ」を期しているのかもしれません。やはりどこまで行っても「あきらめが悪い」のが善子。そこが彼女の魅力でもあるのですが。

そんな善子に付き合う花丸。彼女自身の「やりたいこと」は何なのか。その辺はまた後程という感じでしょうか。

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揉めつつも、淡々と準備を進める花丸と善子。もはや名コンビ感すらある二人。もう少しこの二人のサイドストーリーも見てみたかったですね~。

花丸が目線を上げた瞬間に見かけた「怪しい影」。

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廊下を疾走する二体の「まるふわな物体」。彼ら(彼女ら?)が向かう先へと導かれるメンバーたち。そこで出会う「者たち」にも、なんらかの意図があるような、無いような。そんな予感だけはします。

折角なので、ここに関してもちょっとこじつけてみましょうか(笑)。 

 

新旧うちっちーとしいたけと資料室と。

千歌たちが追いかける「まるふわな物体」。それは「初代うちっちー」と「現うちっちー」の着ぐるみ二人です。

 「うちっちー」といえば曜という位、結びつきの深い両者。

となれば「現うちっちー」の中身は曜?

だとすれば「初代うちっちー」の中身は一体誰??

そんな疑問をもとに二体を追いかける千歌たち。

しかし、千歌の呼びかけにも一向に答えない二体。「中の人」が分からないからこそ、ちょっぴり「不気味」でもあります。

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二体に導かれて千歌たちがやってきたのは、謎の部屋。

ダンボールだらけの様子から、どうやら「資料室」のようにも見えますが...。

そこに入っていった「白い影」。その正体を探るべく、千歌・梨子・花丸の3名が資料室内へと入っていきます。

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闇の中でうごめく「白い影」。その場所を突き止める梨子。

誰もが恐れるその「白い影」に勇猛果敢に立ち向かうのは、やはり千歌。

覆いかぶさった白い布をはぎ取ると!!!

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....まぁ、なんとなく分かっていましたけど「しいたけ」でした。

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何故だか学園にもぐりこんだしいたけ。「幽霊の正体みたり~」ではないですが、ホッとする一同。そんな一同の背景に佇む「まるふわ」な「アイツら」。

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ビックリして声を上げたルビィと善子に驚いたしいたけは、暴走。

なんと「閉校祭」のアーチを「押し倒してしまう」のでした。あらあら。

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アーチの倒壊によって元から押していた準備が、「決定的」に押すことになってしまいました。ということで「閉校祭」の準備は一夜がかりに。

...さて、こうしてシーンを振り返ってみるといよいよもって「このシーンなんの意味があんねん??」としか思えない一連のシーンなのですが(笑)。折角だから考えてみましょう。もちろん、僕の「妄想」です(笑)。

まず校内を走り回る「新旧うちっちー」は何なのか。

後々中身の正体が明らかになるわけですけども、この時点では「中の人の人格」が極力「見えない」ように描かれています。

これは、恐らく「中の人」と関係なく、「新旧うちっちー」がこのシーンにおいて、「何らかの意図」を持った「モチーフ」として起用されているためなのでは?と思えます。

じゃあ「なんのモチーフやねん?」と言われれば、恐らくそのままで。

「過去」と「現在」を象徴する「モチーフ」なのかしら、と思えます。

なんで学校の中を「過去」と「現在」を象徴する存在が「走り回っている」のかと言えば、それはまさしく「閉校祭」がそういった「催し」だからではないでしょうか。

浦の星女学院」の「過去」に携わった人々と、「現在」に携わっている生徒たちが、この1日の中で学校内外において動き、交錯する。その中で浦の星女学院の価値」を見つけていく。そしてこの催しを通して見つけた「価値」を「未来へと継承していく」。「閉校祭」という祭りには、そんな「願い」も込められています。

 校内を走り回る「新旧うちっちー」は、一つの学校の中で巡りあう「新旧の価値観」を視覚的に表現したもの...という風にも考えられるのです。

となるとこの2体が「資料室」へと千歌たちを誘い、そこで「白い影」と出会わせるのにも、なんらかの「意図」があるのかも?と思えてきます。

「現在」と「過去」というモチーフに当てはめれば、「千歌たち」は「現在」であり、「資料室」は「過去」である。

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(実際、資料室に迷い込む5人は1年生と2年生のみ。既に「未来」を見据えている3年生は含まれていません。)

即ち「資料室に迷い込む千歌たち」という状況は、「過去」と「現在」とか交錯している状態になっているわけです。

では、この「交錯」した状態から、彼女達が「出会うもの」とは何か。

それは先ほど考えた通り「未来へと継承していく価値観」なのではないでしょうか。

このブログではたびたび「犬」というモチーフを真剣に考えたきたわけですが(笑)、今回もしいたけには何らかの「役割」が課せられているように思えます。

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これまでも「運命」としての役割を託されてきた(と僕が勝手に考えている)しいたけ。今回もそれと近い役割を与えられているように思えます。

「過去」と「現在」とが巡りあう中で、千歌たちがつかまえたように思えた「未来」。あるいは「運命」。しかし「過去」と「現在」とが重なる刹那に、掴まえたかのように思えた”それ”は千歌たちの手をすり抜け、意図せぬ方向へと走り出します。

それは恐らくこの時点では、千歌たちが「未来」を手にする「準備」が整っていなかったからではないでしょうか。

それぞれが「やりたいこと」を見つける中で、その「やりたいこと」を表明できていない人がいる。だからこそこのタイミングでは「未来」は掴めない。

その代わり逃げ出した「運命」の思し召しによって、与えられた「追加の時間」。それによって「やりたいこと」を表明できていない人へ、それを「表明する」時間が与えられる。

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ここでしいたけが果たす役割とは、その「時間」を与えるための天使的な役割なのかな、とか妄想できるわけです。

 

みかんについて

 今回不思議と登場する回数の多かったものといえば「みかん」

しいたけ暴走の原因となった美渡から振舞われるのはみかん鍋

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(どうやら本当にある鍋のようですね。静岡ではなく九州エリアの名物のようですが)

そして閉校祭を訪れた志満と美渡によって振舞われている焼きみかん

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この二つがどういった意図を以て用意されているのか、というと恐らく「可能性」に関するモチーフなのかな?と感じました。

「みかん」そのものはアレンジする必要が無いほどに「確固たる価値観」を持っている存在です。もはや「進化する可能性」を考えづらいもの。そんなものでも「様々な可能性」を秘めている。その「可能性」を象徴するのが今回の「みかん鍋」であり「焼きみかん」なのかなと感じました。

また「みかん」は作品内では千歌を象徴するものです。

となれば、これらは「千歌の未来に対しての可能性」のメタファーであるようにも思えます。

「みかん」のように「固定化されて変化しようがないもの」は、千歌が語る「普通」に近しいものかもしれません。

しかし、そんな「みかん」にでも「無限の可能性がある」。そしてその「可能性」を目視化するのが、千歌にとっての親族である志満と美渡である...というのも象徴的です。

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二人が信じる「千歌の可能性」と「千歌が作り出す未来への期待」が、実は「みかん」に象徴されているのかも?という仮説はどうでしょうか?

空(カラ)のうちっちーと曜の「夢」

 深夜にまで及ぶ「閉校祭」の準備作業。しかし誰もが皆楽しそうに作業をこなしています。「終わり」のための祭りなのに、誰もがそこに「悲しみ」だけを感じているわけではなく、明日開催される「お祭り」への期待感を感じている。

「終わっていくこと」を「楽しむ」。これは今回の物語のキーになっていく考え方ですね。

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みかん鍋が振舞われる中で明らかになるうちっちーの「正体」。

やはり「初代うちっちー」の中身は果南でした。

海キ〇ガイである果南の「やりたいこと」は、自分が心の底から愛する「内浦の海」を校内で再現すること。実に果南らしい思惑でした。

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となれば当然「現うちっちー」の中身は曜...のはず。

しかし声をかけても「現うちっちー」は何も答えず。業を煮やした善子が手をかけるとグラッとふらつき、倒れてしまいました。

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中に誰もいませんよ...?状態)

中にいたはずの曜はここにはいない。ではどこに行ってしまったのでしょう。

さっきまでは「過去」と「現在」を象徴していた「新旧うちっちー」は、この時点でそのモチーフとしての役割を終え、このタイミングでは「果南の夢=内浦の海を浦の星に再現する」を象徴する存在へと変化したように思えます。

だからこそ果南は「うちっちーと同化した状態」でその「やりたいこと」を口にしている。しかし曜はうちっちーの「中にはいない」。

これは即ち、この「やりたいこと」は果南にとっての「やりたいこと」であって、曜はそれを「手伝っているだけ」に過ぎず、曜の「やりたいこと」はそれとは「別にあること」を示しているのかなと考えられます。

曜の不在に「何か」を感じ取った千歌。曜を探しに行きます。

かくいう曜は一人で入場アーチを修繕していました。

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アーチの倒壊によって引き伸ばされた「一日」。

であれば、それを修繕している人物こそがその「引き伸ばされた時間」によって「救い」を得る人物なのかもしれません。

校門近くに置かれた寿太郎みかんの箱。ラブライブ!サンシャイン!!を追いかけ続けた人であれば、誰もがピンと来るシチュエーション。

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キョロキョロと辺りを見回し、箱に乗っかる曜。彼女が「再現」するシーン。

それは「スクールアイドル部の募集」でした。

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「あなたも!あなたも!あなたも!!スクールアイドルはじめませんかー!!」

第1話。スクールアイドル部員募集を呼びかける千歌をただ横で見ていた曜が、この時初めて「千歌と同じ目線に立つ」。そこにどれだけの「意味」があるのでしょうか。

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第1話の千歌と同じ行動をとる。そこに曜が「託した思い」。この後のシーンで曜本人の口からも明言されますが、彼女の「願い」とは「千歌と同じ目線を手に入れる」ということでした。

曜と千歌の「これまで」の物語は、想像の域を出ないもの。故に具体的な明言は何もできません。ただ「曜が千歌と同じことをしたい」と思いながらも、その「願い」はなかなか「成就」してこなかった事実は、これまでも語られてきました。

けれどそんな曜が千歌と「同じ目線」を手に入れることが出来たのは「スクールアイドル」というフィルターを通したからこそ、でした。

「なんでもできる」曜が、唯一「想い通りにならないもの」を感じることが出来たのは「スクールアイドル」としての活動を通してのもの。

「勝てない悔しさ」も、「叶わぬ願い」も、そこから生まれる「新しい願い」も、そして全員で手にする「一つの得難い達成」も。全て「スクールアイドル」が曜に与えてくれたものです。

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そしてそんな「スクールアイドルとして過ごす日々」が結果として曜に「千歌と同じ目線」を与えるに至りました。

曜が「千歌の行動」を再現する。それはあの日「同じ目線に立ちたい」と願いながらも立てなかった自分自身を「救う」行為のように思えるのです。

 

二人の「やりたいこと」

曜の呼びかけに答えるようにして現れる千歌。二人が語るのは「閉校祭の準備に沸き立つ学校」に関して。

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「閉校祭」という「終わり」へと向かう準備をしているにも関わらず「活気に溢れている校内」。そこには「終わり」を見つめるからこそ生まれる「輝き」があります。

「外は普通なのに、学校の中はみんなの夢でわくわくしている。

 時が過ぎるのも忘れていて。好きだな、そういうの。

 ずっとこのままだったらいいのにね。明日も明後日もずーっと。

 そしたら...そしたら。」

 

「ずっと終わらないでほしい」。そう思えるくらいに「楽しい時間」。けれども時間は絶対的に有限で。必ず明日はやってくる。だからこそ人は「時の有限性」と「その時の大切さ」を知る。「二度とない時間」だからこそ、その日を「精いっぱい生きよう」とする。

一見「後ろ向き」にも聞こえる千歌の言葉ですが、その背景にはここまでの物語を通じた「彼女自身の気づき」が裏付けとしてあります。だからこそ「彼女自身が紡ぐ言葉」と「真意」とは「別である」ことが私達にも曜にも分かるのです。

もしかしたらこれは、これまでの曜だったら気づけなかったことなのかもしれません。けれど今の曜ならば気付ける。だからこそ笑顔を見せる。

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「私ね...千歌ちゃんに憧れてたんだ」

「千歌ちゃんが見ているものが見たいんだって」

「ずっと同じ景色を見てたいんだって」

「このまま皆で、お婆ちゃんになるまでやろっか?」

「千歌の見ている景色」が自分にも理解出来るようになったからこそ、曜から千歌へ告げられる曜自身の「やりたかったこと」。

曜の言葉をそのまま解釈すると「閉校祭をお婆ちゃんになるまで続ける」という意味不明な解釈になってしまいますが、これも一種のメタ的な表現で。

その真意とは「今日を最後の一日だと思って生きる」ということなのかなと思います。

「閉校祭」を前にして皆が活き活きとしているのは、それが予め「終わる」ことを運命づけられた「祭り」だからです。

即ち「終わる」ことが分かっているからこそ、「終わらないでほしい」という願いが生まれ、それが「祭り」そのものの「輝き」にもつながっていく。

これは実のところ人生にも繋がるのではないでしょうか。

「今日」をただ漠然と過ごすのではなくって、「二度とない今日」だと思って生きれば、その一日にも「輝き」が生まれる。自分の「毎日」を「愛する」ことで、生まれる「輝き」。それが連続していくことによって「人生」そのものが「輝き」だす。

曜が「お婆ちゃんになるまで続けよう」と言っているのは、即ちそんな「生き方」そのものに関してなのかもしれません。

「人生を愛せ」

それは「ラブライブ!」のタイトルそのものでもあります。無印「ラブライブ!」は確かにその名の通りの「人間賛歌」でもありました。

ただし「ラブライブ!サンシャイン!!」はその「先」のメッセージを描こうとしているのかもしれません。ただ「人生を愛す」だけではなくて、主体性をもって「人生を輝かせる」。

「輝きを待っていた」「ラブライブ!」と違って、「私たち輝きたい!」と願う人々の物語、それが「ラブライブ!サンシャイン!!」です。

二人が「終わり」を見つめる祭りの中で見出した「願い=やりたいこと」には、そんな「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語そのものの「テーマ性」すらも内包されているように感じられます。

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善子が「見通せるもの」

 いよいよ開催される「閉校祭」。賑わう催し物をよそに一向に盛り上がっていない催しが。

それは善子の「占い部屋」でした。

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花丸の必死の勧誘によって無理やり占われることになる千歌(笑)。

しかし、善子の占いは案の定「丸で」当たりません。だから閑古鳥が鳴いているのですね....。

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2期5話記事でも触れた通り善子...もといヨハネとは、「ヨハネであり続けるために、運命や見えない力を肯定し続けなければいけない運命を背負った」存在です。

ishidamashii.hatenablog.com

「自らの手によって必然を手繰り寄せる」。それは「占い」にも共通する要素かもしれません。ただしAqoursのメンバー内で誰よりも「現実的」な善子...もといヨハネには「不向き」なものでもあります。

そんなヨハネの「願い」を叶えようとするのは花丸。

2期3話でもヨハネに「じゃんけんでの勝利」をもたらせたように、ここでも「ヨハネの願い」を達成できるように見守っています。

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ここまで明らかにされていない花丸の「やりたいこと」。それはどうやら「善子の願いを叶えること」なのかもしれません。

2期3話記事でも触れた通り、「自らの物語」を描くことが不得手な花丸にとって、自分と似た存在ながら躊躇せずに「自らの物語」を描いていく善子は「応援の対象」。それは1期時点でのルビィと同じ。「自分の殻を破ろうともがいている存在」を「応援」することこそが「花丸がやりたいこと」なのでしょう。

以前は理解者が花丸しかいなかった善子...もといヨハネ

しかし2期5話を通して新たな「理解者」を得ました。それこそ梨子...もといリリーです。

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千歌の示す「夢へ向かう方法」をいま一つ理解しきれなかった梨子が、「自分のやり方でも良いのだ」と理解し、救われることとなったキッカケ。それは「犬を巡って」善子と過ごした数日間の物語でした。

「善子ちゃんの夢を叶えてあげたい」

そんな二人の願いは、そのまま自分にも跳ね返ってくる願いでもあります。

それを理解してか、千歌が善子に依頼する「占い」は「Aqoursの未来」に関して。

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「自らの手で掴み取る必然」を信じる彼女達に、千歌から与えられる「自らの手で掴み取り得る必然」の可能性。

違う方向から「夢」を追いかけた両者が、ここで重なり合い、同じ「未来」へと歩みを進めていく。

個人的に2期5話を深く思考した身として、その思いが結実したような気がしたシーンでした。

 

バルーンアート~空へとばらまかれる夢~

 456の3人によって用意された「サプライズ」。それは浦女の名前をあしらったバルーンアートでした。

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これは明確に「劇場版ラブライブ!」での「SDS」のシーンを想像させるものでした。

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劇場版では、空へと舞いあがる無数のバルーンに、μ'sがつなげた「スクールアイドルの未来」が重ねられていたように、この日浦の星女学院の屋上から舞い上がった無数のバルーンには「浦女から旅立つ生徒たち」の「未来」が重ねられているように感じられました。

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「終わり」に「希望」を乗せる描写。やはり「劇場版ラブライブ!」との強い関係性をここからも感じますね。

 

■終わりと始まり

 バルーンシーンに続いて始まるモノローグ。要はここを聞いてしまえば、今回の物語そのものが全て理解できる。そんな素晴らしいシーンでした。

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楽しい時間というのはいつもあっという間で。

そこにいるだれもが、この時間がずーっと続けばいいのにと思ってるのに。

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でもやっぱり終わりは来て。

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時が戻らない事、もう一度同じ時間を繰り返せないことが、とてもさみしく思えるけど。

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同時にどうなるのか分からない明日の方が、ちょっぴり楽しみでもあって。

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あぁ、これが時が進んでいく...ってことなんだなって、実感できるずら。

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そして気付く。きっと二度と同じ「時」は無いから。この時が楽しいって思えるのかな。

今こうしていることがたった一度きりだって分かっているから、全力になれる。

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いつか終わりが来ることを、皆が知っているから。終わりが来てもまた、明日が来ることを知っているから。

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未来に向けて、歩き出さなきゃいけないから...。

皆笑うのだろう...!

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「終わり」のモチーフとなるキャンプファイヤー。それを囲んでもなお、笑顔を絶やさない浦の星の生徒たち。

名もない生徒が全開の笑顔でキャンプファイヤーを廻るとき。その笑顔が屈託がないほど、こちらの胸が締め付けられるような切なさを感じます。

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「終わり」を「終わり」として受け止めるのではなくて、「新しい始まり」として受け取る。これは正しく「HAPPY PARTY TRAIN」と世界観を一致するものです。

楽曲PVで果南が座っていた「祭りの後」の教室。あれこそまさに「閉校祭」へと繋がるモチーフだったのだな、と今点と点が繋がる思いでいるファンも多いことでしょう。

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こうして空へと放たれたバルーンと同じく、彼女たちの「願い」もまた「HAPPY PARTY TRAIN」に載せられて、はるか未来へと運ばれていくのでしょうね。

 

■鞠莉の謝罪

 祭りの終わりを締めるのは、理事長の言葉。

今日1日を通して、鞠莉が実感したもの。それは「この学校がいかにこの地域に愛されていたか。そしてどれだけ大事な存在だったか」ということです。

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それはこの日参加した誰もが実感したこと。ただし理事長である鞠莉にとっては、また違う受け止め方をせざるを得ないものでもあります。

「ごめんなさい」

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深く頭を垂れる鞠莉。その謝罪は理事長として「学校を存続させられなかった」ことへの謝罪の言葉です。

もちろん、物語を通して見てきた我々にとって、鞠莉一人にその責任があるとは到底考えられません。

学校の財政状況だけでなく、地域の過疎、減り続ける子供、学校の所在地の通いづらさなど複合的な要素があるもの。その責任を鞠莉一人が背負いきれるものでもありません。

しかし、鞠莉はどうしても「謝罪」したかったのだと思います。

それは彼女がこの学校の「理事長」だからです。もちろん父親が管理している学校だから可能となった「ウルトラC人事」でもありますが、それでも彼女が自らの責任において、この職務を歴任することとなったのは、彼女自身の希望でもあります。

そこには当然「責任」も含まれる。彼女はそこの「重さ」をきちんと理解している。

だからこそ、鞠莉は「謝罪」するのだと思います。

確かにシナリオ上、彼女にここまでの「苦しみ」を与えるべきなのか。それは分かりません。ただ、小原鞠莉という人は、こういった問題を「しょうがないよね!」と済ませられない人なのです。

彼女は本気で「学校を救いたかった」。それは2期10話で語られた通り、この地域とそこで出会った人々が「小原鞠莉」という人格形成に大きく寄与しているから。

そしてなによりも彼女がこの場所を「愛しているから」にほかありません。

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「愛するもの」を守るため、誇りもなにもかも捨てて走り回り、その達成だけを目指しながら、その本質は常に他人には見せない。

「強い意地」と「プライド」を持ちながらも、その「努力の形跡」は人には決して見せたがらない。

そんな「矜持を持った人物」だからこそ、この場面では「謝りたかったのだろう」と考えれば、きっとこのシーンを介して、小原鞠莉というキャラクターがもっと好きになれるような気がするのです。

 

Aqoursに託されるもの

 鞠莉の謝罪。それは「皆にとって大事な思い出や夢の拠点」である「学校」を救えなかったことに対する謝罪。

即ち鞠莉の謝罪を受け入れるということは、「学校が無くなった時」には「夢や思い出」も「消えてしまう」ということを受け入れることにもなってしまいます。

だからこそ、生徒たちは鞠莉の謝罪を「受け入れない」。

その代わりに彼女達が挙げるシュプレヒコールは「Aqours」の名前です。

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なぜ「Aqours」の名前を叫ぶのか。それは「Aqours」こそが「浦の星女学院」の「名前」も、「歴史」も、「思い出」も、その他諸々全てを、次代へと「伝えていく」「可能性」だからです。

「学校」の建物も、名前も消えてしまったとしても、決して消えない「希望」。それを浦の星の生徒たちは「Aqours」へと既に託している。だからこそ「学校がなくなること」への「謝罪」は受け入れない。

代わりに「Aqours」の名前を叫ぶ。

Aqours」が叶えていく「未来」と、伝えていく「希望」に、自分達の「想い」をも乗せていく。

そしてその「声」が、鞠莉を救っていく。

「責任」を前に立ち止まっていた鞠莉。物理的にその背中を押したのはダイヤでしたが、彼女がそこから一歩踏み出すきっかけをあたえたのは、浦の星の生徒たちの声でした。

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「浦の星」に関わる全ての人々の後押しを受けて、鞠莉もまた、自らの「カセ」を一つ、乗り越えたのかもしれません。

 

■みんなで歌う「消えない夢」

このまま終わると見せかけて、視聴者を驚かせた最後の仕掛け。

波に流され消えていく「Aqours」の文字。

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そこに重なるのは、祭りに参加した全ての人で歌う「勇気はどこに?君の胸に!」でした。

「やりのこしたことなど ない 

 そう言いたいね いつの日にか

 そこまでは まだ遠いよ」

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「浦の星」の「想い」を救うのは、「Aqours」がラブライブで優勝すること。

だからこそ、その「願い」を込めて、「挑戦」することの意味を「全員」で歌う。

「だから僕らは 頑張って挑戦だよね」

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波にのまれて消えていくAqoursの文字と同じように、終わっていくものたち。

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閉校祭は終わり、歌も終わり、キャンプファイヤーも消えていく。

そしてやがてラブライブも終わり、Aqoursも活動を終え、学校そのものも無くなって行く。

それでも「消えない」ものもある。

それは、この日この場所で歌に託した「夢」であり、「願い」でしょう。

例えその「存在」が消えたとしても、それを信じた人たちの胸に残っていく「夢」や「願い」が、新たな「夢」を作り出す。

それが続く限り「夢は消えない」。

砂浜に書かれた「Aqours」の文字が消えてしまうのは、確かに悲しいことです。

しかし、「Aqours」に夢を託す人がいる限り、砂浜の文字はきっと何度でも蘇る。あの日砂浜に「Aqours」と書いて、千歌たちに「夢を託した」ダイヤがそうだったように。

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例え「Aqours」が終わってしまったとしても、その思いを受け継いだ人たちが、自分なりのやり方で新しい「輝き」を追い求める限り、「Aqours」は消えません。

何故ならその夢を受け継いだ人の「心の中」で、いつまでも「光り輝き続ける」からです。

つまり「消えない夢」というのは、そういうものなのかもしれません。

 

■千歌の「やりたいこと」

ここは余談ですが。

今回無印2期11話に沿った構成を取ったために、それぞれの「やりたいこと」を叶えていくのが、メインストーリーとして展開されていきましたが、千歌が「やりたかったこと」というのが、最後まで分かり辛かったように思います。

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2期1話から千歌が悔やみ続けたのは、「MIRAI TICKET」を「生徒全員で歌えなかったこと」でした。

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あと一歩届かなかった「輝き」。その要因の一つとして千歌が思っていた「無念」がそれだったように思えます。

Aqoursはあくまでも「9人」のアイドルグループなのだと捉えてしまう我々と違って、千歌は常にAqoursとは「浦の星女学院の生徒全員」なのだと考えてきた人です。

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そんな千歌が未だに叶えられていない「やりたいこと」。それは「生徒全員でAqoursの曲を歌うこと」だったのかなと思います。

あの日届かなかった「輝き」に対する「無念」。その「無念」を払しょくし、「ラブライブ」本選へと臨むこと。発端は生徒たちであり、鞠莉の呼びかけでもありましたが、結果的に今回のEDによって、千歌の「やりたいこと」も叶ったのかな?という風に感じました。

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「やりたいこと」を叶えた末に、「終了」というエモーションへとたどり着く「私たちが決めたこと」に対して、「終了」という発端から、「千歌のやりたいこと」へとたどり着くという構成になっていた「浦の星女学院」。

いわば逆回しで物語を紡いだ格好になります。

こんなところにも脚本上のテクニカルな面が見えて、対比させる意味でも面白い回でしたね。

 

と、いうことで#11「浦の星女学院」でした。

ちょっと触れなければいけない要素が多すぎて、書いてて頭痛くなってきたくらいなので、後々推敲して大幅に直すかもしれませんが、とりあえずはこれが精いっぱいです(笑)。

次回「光の海」!!どうなる!!!?