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~星になれたら~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第23話(2期10話)「シャイニーを探して」

皆様こんにちは。或いはこんばんは。

今回もお時間があれば、お付き合い頂ければ幸いです。

さて、今回は第10話「シャイニーを探して」に関する妄想をお届けします。

一見分かりやすそうな回でありながら、物語終盤の展開とその意図を読み解くには、これまでの「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語そのものの構造を読み解く必要がありそうな回。

久々に酒井監督らしさが出ていて、変な意味で安心してしまいましたが。(笑)

正直、今回も考察するのは野暮であることは確か。それぞれが受け取ったものが正解で良いとは思いますが、一応「受け取った一人」として、そのワンダーを一旦形にさせていただきたく思います。

色々な切り取り方が存在すると思いますが、私は「旧Aqoursに焦点を置いて考えてみたいなと思います。

更にその中で重要な要素となる「流れ星」「星」「車」などの意図を「個人的な見解」で読み解きながら、全体の構成に関して考えていけたら良いなと思っております。

もちろん毎度おなじみですが、これは私個人の「妄想」にすぎません。「正解」ではないので、その辺はお含みおきのうえ、可能性の一つとして楽しんで頂けたら幸いです。

また、意図や意味に関しては、ぜひ皆様からもご意見を頂戴し一緒に考えていけたら楽しいなと思います。

それでは参りましょう。#10「シャイニーを探して」です。

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■必然の「流れ星」

物語の冒頭は幼少期の幼馴染3人組の回想から。

屋敷を抜け出した鞠莉を探す小原家の人々。その喧騒の最中、鞠莉・ダイヤ・果南の3人が目指すのは山頂。乗っているロープウェイは伊豆の国パノラマパークのもののようです。

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鞠莉の家のある淡島ホテルからはバスで約30分。徒歩では1時間弱。と決して遠くにある場所では無いですが、当時の彼女達にとってはそれなりの「冒険」でもあります。

3人が必死に「見たがっているもの」。それはどうやら「流星群」のように思えます。

「流れ星に祈れば願いが叶う」。

誰に教えられるというわけでもなく、自然に知ることになる「おまじない」の一種。しかしふと夜空を見上げて、流れ星をドンピシャで見つけるのは難しい。仮に見つけたとしても、瞬時にお祈りを捧げるのは更に難しい。

となれば、流れ星が大量に現れる「流星群」を狙って、願いをかければよいのでは?

想像ですが、この時の3人の思惑とはこれだったのでは?と思えます。

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彼女たちが星に願うのは「ずっと一緒にいられますように」という願い。しかし、その「願い」以前に「曇天」という「神様の思し召し」によって「星」も「空」も見えず、目論見は「阻止」されてしまいます。

親に内緒で家を飛び出す。それは子供にとっては大冒険です。それだけのリスクを背負ってまで祈りたかった「願い」。それを阻止されてしまったことで、鞠莉の心は折れかけます。

その時鞠莉を救ったのは果南でした。

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「泣かないで!」

「ほら!これで大丈夫!!」

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ラブライブ!」では何度となく登場する「雨」。自分たちで操作することの出来ない「天候」。それもまた「偶然」に支配された「世界」そのものの象徴でもあります。

そんな「偶然」が支配する世界に飲み込まれそうになった時。果南が鞠莉に与えたのは「手書きの流れ星」でした。

空から偶発的に降ってくる「本物の流れ星」ではなく、人の手によって「必然的」に生み出された「手書きの流れ星」。

この日、この「人の手によって必然的に生み出された流れ星」が、3人の願いをかける「対象」になりました。

3人の「願い」を叶えるために、必然的に生み出された「流れ星」。

今回はこの「流れ星」が持つ「意味」が物語終盤に至るまでに、幾たびも「更新」されていきます。

その意図とは「流れ星」の持つ本質的な意味と、その変遷に、今回の物語の持つ「意味」を反映させようとしているからなのでは?と私は感じました。

それだけに「流れ星」は、今回の物語において重要な「パーツ」であるように思えます。

であれば、まずはこの「流れ星」がどういった「存在」として配置されているのか。それを読み解いてみる必要があるように思います。

 

■流れ星の意図

一般的に「流れ星」が持つ意図とは何か。それは幼少期の鞠莉たちが信じたような「人の願いを叶える願望器」としての「おまじないの対象」でしょうか。

自らの「願い」や「夢」を「願掛けする」対象としての「存在」。

もちろん「願い」や「夢」の成就を保証する存在ではありませんが、そこに「願い」を「願掛けする」行為は、その人にとっての「願い」や「夢」を、その人自身の内面に「顕在化」させる行為でもあります。

仮に「流れ星」へのお祈りが「成功した」場合。それはその人個人にとって「夢」や「願い」が「かなうかもしれない」可能性を「得る」行為となる。

それは即ち「生きる希望」を生み出す行為にもなり得るのです。

 

反面「流れ星」には「死の象徴」という面もあります。

同じくサンライズ製作のアニメーション作品、カウボーイビバップ第13話では「流れ星」に関してこんなやり取りがあります。

既に荒廃した地球。そこで暮らすネイティブアメリカンの一族。ブルはその族長のような存在です。ある時ネイティブアメリカンの子供がブルに尋ねます。

「ブル?星が落ちたよ」

子供は流星を初めて見たのか、その物の持つ「意図」をブルに尋ねたのです。

するとブルはこう答えます。

「あれはただの星ではない。戦士の涙だ。この星のどこかで戦い、果てたもの。

 グレートスピリッツを信じられなかった、哀れな魂...。」

「グレートスピリッツ」とはネイティブアメリカンの文脈でいわば「自然の理」の意。ラブライブ文脈に落とし込めば「世界が持つ偶然性」と同意義のものです。

その摂理を信じず、曲げようとしたものが敗れ、戦い果てた末の「哀れな魂」。

ビバップの13話そのものの話でもあります。完全に余談ですが、筆者はビバップのエピソードではこの12話13話の前後編はたまに見返すくらい好きな回です。)

即ち「流れ星」は「死」の象徴でもあるのです。

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これと同じくヨーロッパの一部地域では、「流れ星」を「人がいなくなる瞬間に流れるもの」と定義することもあります。

「人それぞれの頭上に必ず一つ星があり、流れ星はその人が死んだ時に流れるその人の頭上の星である」という考え方です。

また、物理的には「流れ星」は宇宙に漂う石やチリが、地球の引力に引き寄せられ、その途中で燃え尽きる瞬間に生み出されるもの。

つまりおまじない的な意味を除けば総じて「流れ星」とは「死」することでもあるわけです。

ここから理解出来るのは、「流れ星」とは「生」と「死」両方の概念を併せ持った存在である、ということです。

「流れ星」が発生する瞬間。そこには厳然たる「死」の「現実」があります。

ただし人間はその「死」の瞬間に自らの「願いを託す」こともある。

すると「死」していくはずの「流れ星」に対して、人間は「希望=願い=生」という「概念」が与えることになる。

即ち「流れ星」が「死んでいった」としても、そこに託した人間の「願い」や「希望」というものは「生」として残っていくわけです。

 

では今回の物語では、この「流れ星」に対して、どんなメタファーを込めているのか。それを時系列的に考えていくことで、お話の構造自体も噛み砕くことが出来るのではないか。そんな風に考えています。

 

■果南・鞠莉・ダイヤにとっての「流れ星」

果南、鞠莉、ダイヤの3人が流れ星に託した「願い」。それは3人が「ずっと一緒にいられますように」というものでした。

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この時点でこの星座早見表に書かれた「流れ星」は「3人が一緒にいられること」を「実現する」為の「願望器」としての役割を与えられています。

現実的に考えれば、「友人3人でずっと一緒にいられること」は不可能に近い事でしょう。大人になるにつれ、それぞれにとっての新たな人間関係が生まれ、やがてこれまでよりはどことなく疎遠になっていく。幼少期の友人というのは総じてそういうもののように思えます。

しかし、彼女たちはそうならなかった。同じ小学校を卒業し、当たり前のように同じ高校に入学。もちろん内浦という狭いコミュニティで暮らすからこそなのかもしれませんが、ここまで彼女たちを「一緒にいさせた」のは「流れ星」が持つ不思議な「引力」とそこにかけた「願い」故なのかもとも思えてきます。

しかし、いよいよ高校を卒業してしまえば、その「願い」が反故にされる可能性も格段に高まる。となれば、3人が「ずっと一緒にいる」ための「新しい選択肢」が必要です。

そこで用意されたのが「スクールアイドル」だったのかもしれません。

本来「スクールアイドル」とは、学生だけがでなれる3年間限定の「魔法」のような存在。

ただし「人気者」であればその限りではない。

無印「ラブライブ!」において、A-RISEが「前例」を作ったように、「スクールアイドル」の頂点へと昇りつめれば、その先には「プロ」としての未来も見えてくる。

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即ち「プロ」の「アイドルグループ」として、高校卒業後に至っても「3人一緒にいられる」ということにもなるわけです。

もちろん、「未来への展望」としては、あまりにも「甘い考え」です。そんな「トップオブトップ」に登りつめられるアイドルなどほんの一握りであることも当然分かっていたでしょう。

それでもその「甘美な可能性」に鞠莉たちは「無意識に賭けてしまった」のでは?

そんな風に感じられるのです。

この時点で3人にとっての「流れ星」はAqours」という「スクールアイドル」に形を変化させました。即ち「Aqours」とは元来、彼女たちの願望を叶えるための「願望器」として誕生したグループなのでは、という推測も生まれてくるわけです。

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■1年生時の流れ星~一度途絶えた星~

かくしてスタートした「Aqours」の活動。μ'sに憧れスクールアイドルを目指した果南とダイヤにとっては学校の「統廃合危機」という状況も、彼女たちを燃えさせる一因となりました。

「スクールアイドルとして成功し、学校を廃校から救う」

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その願いは、千歌と同じく「μ's神話」の下敷きがあるからこその願い。

本来因果関係の無いものに因果を求めてしまう。だからこそ「傷ついて」しまう。

「スクールアイドルの難しさ」。

それは1期で果南やダイヤが何度となく語ったもの。

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1年生時の「初代Aqours」にどのような「困難」が襲いかかったのか。

それは断片的な情報でしか我々には分からない物ですが、恐らく千歌が後々経験する挫折や葛藤やジレンマは、この時の果南・鞠莉・ダイヤの3人が漏れなく「経験したもの」なのでは?と想像できます。

沼津の内浦という場所で「アイドル」をすることの難しさ。

その上での「地元の人々」の「暖かさ」。

それでも思うように上がらない全国的な「知名度」と「人気」。

一時的に人気が上がったとしても、飽きられてしまう要素。

多すぎる競技人口と差別化の難しさ。

「挫折」。

そして、自分たちがどれだけ頑張っても覆せない「統廃合」という現実。

そこから発生するいらだち。焦り。それを発端として起きる諍い。

彼女たちが笑顔で夢見た「ずっと一緒にいること」とは少し違った、厳しい現実。

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その果てで起きた鞠莉のケガ。

きっかけとしては些細なものだったかもしれません。

ただその「些細なきっかけ」はこの状況を「クリア」にするには十分なきっかけ。

もしかしたら、果南は当に限界を迎えていたのかもしれません。

あの日願った無邪気な「願い」とは重ならない日々。

このままでは根本的に「壊れてしまうかもしれない」自分たちの関係。

だとすれば、それは一回「捨てる」しかない。

もちろん、想像に過ぎませんが果南の唐突な「解散宣言」には、そんな思いも下敷きにあるのではと思えてきます。

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かくして第1次「Aqours」は瓦解しました。

「幼馴染3人」の根本的な「関係性」を守るために、その関係性から切り離された「Aqours」。

「関係性を守る」ために選ばれたその選択肢は、しかして果南の絶対的な「説明下手」が原因となって、本来守るべきその「関係性」すらも「破壊」してしまいました。

しかしそれは実のところ当然でもあるのかな?と思えます。

本来であればとっくに「疎遠」になっていたはずの彼女たちの「関係性」を繋ぐ要因となっていたのは、そのものズバリAqours」という存在だったわけですから。

「スクールアイドル」「Aqours」としてなんとか結びついていた彼女たちの関係性は、そのつながりが無くなったとたんにバラけていく。

海外に本拠地を持つ父に従って、海外へと転校していく鞠莉。

黒澤家という「網元の名家」を継ぐ者として、それに恥じぬ存在となるべく勉学はもとより習い事、生徒会活動に勤しむようになったダイヤ。

そして実家のダイビングショップを手伝うという「生活」部分に重点を置くようになった果南。

そもそもとして彼女たちは生活環境自体がバラバラでした。

子供自体には顕在化しなかったその違いは、もはや「高校生」という「大人」になった時点ではっきりと顕在化していた。けれどその顕在化によって「離れ離れになる」という要素を「スクールアイドル=Aqours」が繋ぎとめていた。

そんな風に感じられるのです。

 

「夢は呪いに似ている」という言葉があります。この文脈に照らせばAqoursという夢」もどこか「呪い」に似ているのかもしれません。

「3人がずっと一緒にいるため」の「願望器」として作動し続けた「Aqours」は、その「夢」が「成就しなかった」途端に、根底にある「願い」をも「破壊」してしまったわけですから。

しかし「ラブライブ!サンシャイン!!」では「夢」を「呪い」のままにして終わらせません。

 彼女達が「Aqours」から離れることで、必然的に生まれた「別離」。

それによってそれぞれが向き合うことになった「自分」という存在。

そして彼女達が客観的に見た「Aqours」というものの存在価値。

「別離」によって「変化」していくもの。そしてそこから得るもの。見えるもの。

その「得たもの」が「救うもの」。

そういった諸々に、「ラブライブ!サンシャイン!!」ならではの「テーマ性」のようなものも見えてくるのです。

 

■ダイヤが「新Aqours」に託した「願い」。

果南の判断によって「活動休止」となった「Aqours」。

いわば作り手たちから「切り離された」結果「空中浮遊」することになった「Aqours」という存在。

しかし、それは意外な人物によって「再始動」されることになります。

その存在とはもちろん千歌。

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東京への旅行中、偶然出会った「μ's」。

自分と同じような「普通の女の子たち」が「キラキラ輝いて見えた」。もしかしたら自分も彼女たちのように「キラキラ」できるかもしれない。

「"普通"の私の日常に舞い降りた奇跡。」

幼馴染である曜、作曲の出来る転校生=梨子。

二人の中に眠っていた「輝きたい」という願望を、自らが感じた「奇跡」を通じて呼び起こした千歌は「スクールアイドル」としての目標に「まっしぐら」に突き進んでいきます。

 始めは千歌たちの「スクールアイドルへの不理解」や「不誠実さ」(とダイヤが感じていたもの)に嫌悪感を感じていたダイヤ。しかし、3話では彼女達がまっすぐに語る「輝きたい」という願望に心打たれます。

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「スクールアイドル」として活動する中で「現実」に打ちのめされ、いつの間にかダイヤ自身が失ってしまったもの。

Aqours」を始めたときに胸に芽生えた根本的な「ワクワク」や「ときめき」。

それは、「統廃合を阻止しなければならない」とか「ラブライブで優勝しなくてはいけない」という「使命感」の陰でだんだんと薄れていってしまったもの。

はじまった時の ときめきずっと大事にね(青空Jumping Heart

その「ときめき」を、再び千歌たちの存在が呼び起こしていくのです。

 

...とはいえ、ダイヤは3話の物語以前に、ある種直感的に「千歌たちが自分達を救う存在になるのでは?」と気付いていた可能性もあります。

Aqours」が幼馴染3人にとっての「夢を叶える願望器」として誕生したのでは?という仮説は前段の通り。

しかしながらこの「願望器」は、3人の「願い」に対してのある種の「限界」を露呈させたうえで、一旦停止してしまいました。

しかし、千歌たちがスクールアイドル活動を開始する中で、再びその「願い」を繋げていく可能性が生まれた。

「3人がずっと一緒にいる」という「願い」に対する「ある一つの方法」は「行き詰ってしまった」。とはいえ、その「結論」に辿りつく方法は決して「一つ」だけではないはず。

離れて過ごす時間の中でダイヤが得た一つの「気づき」。ダイヤはその「気づき」を新たな「願い」に変えて「新Aqours」に託したのでは、と思えるのです。

「3人が現実的にずっと一緒にいる」ことは出来ない。

であれば、「3人が一緒にいた証」を「Aqours」というグループに刻み付ける。

そしてその活動の歴史をラブライブ」という大会の歴史に刻み付ける。

それを実現することが出来れば、「3人が一緒にいた証」は永遠に「Aqours」の名前と共に刻まれる。

即ち3人はAqours」と共に「永遠に一緒」に「存在し続ける」ことが可能になるわけです。

ダイヤにとって千歌たちは「流れ星」に等しい存在。

「行き詰る選択肢」を選んでしまった結果、一旦途絶えてしまった「夢」や「願い」。その「夢」や願い」を再度別の「方法」で「託す」ための存在にもなり得るもの。

だからこそ、ダイヤは敢えて千歌達のグループ名に「Aqours」の名前を受け継がせたのでは?とも推測できるのです。

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ダイヤが「新Aqours」に託した「新たな願い」。

それが叶えば、例え離れ離れになってしまったとしても、いつか「Aqours」の名のもとに3人が同じ場所に集う日が来る「未来の可能性」をも残せる。

それは「過去」や「今」を「固定するための存在」だった「Aqours」が、「未来」への「可能性」即ち「開かれた存在」へと「変化」したという事実にも繋がっていくのでは、と思えます。

こういった「たどり着く方法は一つではない」という考え方もまた、2期では繰り返し描かれたものですね。

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また、「流れ星」のはずの「Aqours」がなぜ再び蘇るのか?というのも同じように「繰り返し描かれたモチーフ」の再現でしょう。

普通の流れ星であれば、「生まれた瞬間に消えてしまう」ものですが、果南が書いた流れ星は「人の手によって生み出されたもの」。

そして「人の手によって生み出された流れ星」が象徴するものこそ「Aqours」でもある。故に決して「消えること」はなく、人の意志さえあればそれは「何度でも蘇る」のではないでしょうか。

このように、人の「意志」によって生み出される「必然」を信じる...というような「モチーフ」も「ラブライブ!サンシャイン!!」では度々登場するもの。

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前回もこれまでの物語を総括するようなモチーフが多数登場しましたが、今回も数多登場しているわけですね。

とはいえ、そんな事実はいよいよ物語が「佳境を迎えている」ということも実感させて、寂しく思えるわけですが。。

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■「夢の海」と「不滅の流れ星」

かくしてダイヤにとっての新たな「流れ星=願望器」となった「新Aqours」は、紆余曲折を経て第9話の物語へとたどり着き...。

その中心にいる千歌が、果南・鞠莉・ダイヤの「ほつれた糸」を半ば強引に「振りほどく」ことになります。

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そこで語られたのは、「旧Aqours」の挫折。鞠莉のケガによって途絶えた「ラブライブへの夢」。そして出場を前にして叶わなかった「花火大会でのライブ」。

神の采配なのか。或いはダイヤの思惑通りなのか。綺麗に結びついた「旧Aqours」の「停止の日」と、「新Aqours」による「再生の萌芽」。

ここぞとばかりにダイヤによって明かされる「鞠莉と果南のすれ違い」のあらまし。それによって再開する「幼馴染3人」の「物語」。

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こうしてダイヤによって託された「新たな願望」は、「新Aqours」という名の「願望器」によって「成就」されました。

ここにその「成就」の象徴として、9人の「Aqours」が誕生するのです。

9人の「Aqours」が一番最初に歌う曲は未熟DREAMER

それはかつて「旧Aqours」が「花火大会」に向けて準備しながらも歌うことが叶わなかった楽曲。果南・鞠莉・ダイヤが「スクールアイドル」「Aqours」に対して込めた「夢」や「願い」の全てが込められた楽曲でした。

「旧Aqours」の夢が途絶えた場所から、再スタートする「新Aqours」。

見事に時間を超えて、2つの「Aqours」が繋がっていくのです。

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 9話考察でも触れた通り、この楽曲の歌詞は1年生時の果南・鞠莉・ダイヤの気持ちを現1年生・2年生メンバーが「救っていく」歌詞構成になっています。

ishidamashii.hatenablog.com

 そこには「新Aqours」によって「旧Aquors」が「救われていく」過程が、メタ的に象徴されているわけですが...。

ただし、9話の時点ではその意図が100%分からない歌詞も数点存在していました。その一つはラストサビ前に3年生3人だけで歌う

このまま一緒に 夢の海を泳いで行こうよ

でしょうか。

ただし、この歌詞の意図も、今であればなんとなく理解できます。

彼女達が「Aqours」に託した「ずっと一緒にいる」という願い。それは「現実的」には厳しいものですが、「Aqours」という枠組みの中であれば「叶えられる」願いでもあります。

Aqours」とは、もとより彼女達が書いた「手書きの流れ星」を具現化させた存在です。

「流れ星」が存在する場所とは、無限に広がる「宇宙」。

よく「宇宙」は「星の海」などと例えられますが、ここで語られる「夢の海」とは、「流れ星」が存在する「宇宙」のことなのかな?と思えるのです。

現実世界で「ずっと一緒にいる」ことは出来ない。けれども「Aqours」としてならば、この広い宇宙の中で「永遠に輝く星」になることが出来る。そんな3人の「気づき」がこの歌詞には込められているのは?などと妄想することが出来るのです。

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「手書きで書かれた流れ星」は「普通の流れ星」と違って、決して「流れて行かない」。つまり「不滅」の存在である。

あの日「本物の流れ星」に出会えなかったからこそ生まれた「手書きの流れ星」。しかしその事実は、却って「不滅の流れ星=Aqours」を生み出すことになった。

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「全てに意味がある。」

これもまた、「ラブライブ!サンシャイン!!」2期において、非常に重要な考え方ですが、ここでもそれが反復される。

見られなかった「本物の流れ星」。泣きそうな鞠莉を慰めるために苦肉の策で産まれた「手書きの流れ星」。実らなかった最初の「願い」。その過程で瓦解した「旧Aqours」。

それらは一般的には「敗北」や「実らなかった願い」を象徴するものかもしれません。しかしそれらにも全て「意味があった」と考える。

「手書きの流れ星」が「Aqours」を生み出し、「旧Aqours」の「敗北」が「ダイヤの願い」を生み出し、それが「新Aqours」の「結実」に繋がっていく。

全部が全部思い通りになったわけではない。けれども、その「過程」が全て「今」に繋がって、「未来」にも繋がっていく。

その考え方が「正解」かどうかも分からない。けれども「全てに意味があった」と考えれば、どれだけ辛い「現実」があったとしても、常に「前向き」に生きていくことが出来る。その「在り方」を信じる。そこに「ラブライブ!サンシャイン!!」が持つ「普遍的なテーマ」を感じ取れるのです。

2期10話において千歌のセリフとして引用される「未熟DREAMER」ですが、千歌の語る「晴れるまで遊ぼう!」という言葉は、先ほどの「このまま一緒に~」に続く歌詞部分です。

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前後するシーンと併せて、ここは意識的にこの台詞を選んでいるのではないかなと、ここに関しては割と確信的に感じております。

 

■それぞれの「星」

ほとんど2期10話の話に触れないまま、ここまで来たわけですけども(笑)。

ここまでお話させて頂いた通りに果南・鞠莉・ダイヤの心境を整理すれば、淡島遊歩トンネルでの3人の会話シーンもより理解できる気がします。

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鞠莉が決めた「イタリア留学」。それは果南とダイヤには全く相談をせずに決めたものでした。

つまり「3人がずっと一緒にいる」という願いごとを反故する行為でもあるわけです。しかし果南もダイヤもその「決定」に対して何も反論をしません。

「1年前なら止めていたかも」という果南の言葉。これは「旧Aqours」が「停止せず」に活動していた場合に「if」と捉えられます。

即ち「停止期間」が無ければ、果南は鞠莉の「決定」を「尊重できなかった」かもしれないわけです。

では、なぜ今はその決定を尊重できるのか、といえば、彼女達には「停止期間」があったからでしょう。

Aqours」と離れて、「自分」と向き合う時間。それは物理的に親友二人とも「離れる」時間になりました。

その「孤独」に「自問自答」する時間の中で見えてきた「自分自身」。そして「自分がやりたいこと」「やるべきこと」。その「気づき」は、自分の「未来予想図」をも「明瞭」にする時間になったのです。

そして「停止期間」をそのように使用したのは決して鞠莉だけではなかった。果南もダイヤも「停止期間」に己の夢や目標に向き合った。そして自分の「在り方」を見出すに至った。二人からその事実が鞠莉に明かされるように、「停止期間」は決して「停滞期間」ではなかった。その事がこの場面ではハッキリと描かれます。

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幼少期に願った「ずっと一緒にいること」。それは確かに大切な「願い」でもあったかもしれない。けれどもそれはやはり「幼少時代」だからこその「願い」でもあるのです。

こんなことを言うと寂しいかもしれませんが、人間とは究極的には「一人」なのです。

いずれは、家族とも、友人とも離れ、自分自身の「生きる意味」や「生きがい」を自分一人で見出して、ただ一人で生きていく必要があるのです。

(これは2期8話でダイヤとルビィの関係に焦点を当てて描かれたものでもあります。)

けれどもそれは決して「悪いこと」ではない。

大人になるにつれ生まれる「自分自身の願い」。

「こうしたい」「こうなりたい」という「欲」が人生を豊かにしていきます。

そして大人は、その「自己実現」をするための「自由」が保証されている。かつてはちょっとした遠出をしただけで「探し回られ」、果南とダイヤと遊ぶことにも制限を設けられた鞠莉。

そんな「不自由」の最中に「自由」であることの価値と意味を知ったからこそ、今はその「自由」を謳歌することをためらわない。

そしてその「自由」の価値を教えてくれたことに対して、果南とダイヤへの感謝を口にする。

もはや、あの頃とは違う、自分1人の「星」を手に入れている3人。

だからこそ、あの頃の「ずっと一緒にいる」という願いは、もはや「過去」のものでしかないのです。

それがはっきり言わずとも、分かってしまえるくらいに「大人」になってしまった自分達。その事実に対して、寂しいような、嬉しいような、複雑な表情を浮かべる3人。その頭上にはそれぞれの「色」に縁どられた「星」が浮かんでいます。

それは彼女達が既に手にしている「自分の星」を象徴するものなのでしょう。

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「嬉しい」けど「寂しい」。「楽しい」けど「悲しい」。

そんなどうしようもない感情を整理するために、「ハグ」を申し入れる果南。

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かつて僕は果南の「ハグ」には「リセット」の意味が込められているのかな?と考えましたが、ここでもそういった意図で使われているように思います。

グチャグチャになった感情を「整理」し、一旦「落ち着かせる」ために。そしていつもの「3人」に戻るために。

そして過去の「願い=ずっと一緒にいよう」を「リセット」する。

ダイヤがルビィを送り出すために与えた「優しい断絶」。

このハグシーンにも、同じような意図を感じました。

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■自分達だけの「星」

トンネルでの会話の後、果南たちがもう一度探しに行こうと語る「私達だけの星」。

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ここから後のシーンは、いわゆる「メタ」演出になっているのだと思います。

「3人だけ」では見つけられなかった「流れ星」。そして手に入れられなかった「自分達だけの星」。それを「9人」で探しに行こうとする。

果南たちにとっての「Aqours」=「旧Aqours」は、「ラブライブ出場を果たせず」に「停止」してしまった存在。すなわち「星を見ようとする前段階で、曇天に邪魔された幼少期」と同じ状態でもあるわけです。

また幼少期に「流れ星」に託した「願い」は先ほどの「ハグ」を通して「リセット」されました。故に今は「新しい願い」を「流れ星=Aqours」に託すことが出来るのです。

だからこそ「3人では見られなかったけど、今は9人いる」と語る。

ダイヤが「新Aqours」にかけた「願い」とは、「Aqours」を再始動すること。本質的にはその先まで見据えていたかもしれませんが、まずはそこまででした。けれども果南はその先を見に行こうと語る。「3人」では手に入れられなかった「輝き」を、「9人」で「手に入れる」。

それは「ラブライブで優勝する」ことであり、その結果として「自分達の名前をAqoursと共に、永遠に刻み付ける」ことでもあります。

一度は挫折した「願い」。それを「新しい願い」として再生させる。ここに「ラブライブ!」シリーズならではの「不屈」の魂を感じました。

鞠莉が運転する車。その助手席に座る果南。

「まさか鞠莉の運転する車の助手席に座る日が来るなんてね」

「それは私のセリフ。まさか果南乗せて走る日が来るなんて」

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二人が語るのは「大人になった」ことに対する実感。

かつては手に入れられなかった「自由」。昔はバスで30分の場所に行くのでも大冒険でした。しかし今は自分の力だけで、好きな場所に行ける。どこまでだって走っていける。

「大人」になることによって、手に入る「自由」。

「車」が象徴するのは、そんな「自由」であることの「価値」と「意味」なのではないでしょうか。

「こうして時って進んでいく。」

そんな鞠莉のセリフを裏付けるようなシーンであり、じんわりと感動させる名シーンでもありました。

「3年生が運転する車」が象徴するものは、それはもちろん「旧Aqours」でしょう。

「本当は3人だけの予定だったんだけど」

「9人がいいって」

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最初は「3人」だった。それだけで良いはずだった。

けれども今は「9人」いて、そうじゃなくちゃいけない。

この「9人」でその先の「願い」を成就させたい。

かつては「3人」だけの閉じた「願い」を成就させるための「願望器」に過ぎなかった「Aqours」。今はその役割を変化させ、「9人」全員の「未来」を「照らすため」の「輝き」になろうとしている。

かつて「流れ星」だったそれは、今は「スクールアイドル」という宇宙で「永遠に輝く星」になろうとしている。

この会話シーンでは、そんな役割の「変化」が描かれているのではないでしょうか。

空へと飛び立つ車。

この回のリアリティラインを大きく超越したシーンで、見る人の多くをビックリさせたシーンでしょう。もちろん、これはメタファーでしょうが(笑)。

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「3人」では「曇天」に邪魔されて見られなかった「星」。その代わりに果南は星座早見表の上に「手書きの星」を書きました。

この時の「曇天」は「3人」の「Aqours」では越えられなかった「壁」を象徴するメタファーでもあります。

「9人」の「Aqours」ならば、そんな「曇天」などあっさり突き抜けて、星の海に辿りつける。

これは「9人」の「Aqours」が「ラブライブ出場」を果たしたことへの「メタファー」なのだと考えます。

輝きを放ちながら、広大な星空へと飛んでいく「車」。これは明確に「HAPPY PARTY TRAIN」と対になる表現です。

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HAPPY PARTY TRAIN」のPVにどのような意図が込められているのか。これに関しては以前書かせていただきましたので、そちらをご参考いただきたいのですが。

ishidamashii.hatenablog.com

 「過去」や「運命」に縛られず、「自由」に「空」へと飛んでいく電車に、「運命からの飛躍」を意味づけたのでは?というのが、私の「HPT」への考え方だったわけですが、今回の「車」にも似た印象を受けました。

果南・鞠莉・ダイヤにとって 「決して叶わない願い」や「思うようにいかなかった過去」を象徴する存在でもあった「Aqours」が、千歌たちによって引き継がれることでそれらの「運命」や「過去」を更新していく。

「3人だけの閉じた世界を叶えるための願望器」だった「Aqours」が、「9人」だけでなく、「浦の星や内浦の人々」「沼津の人々」そして多くの「Aqoursを応援する人々」を救うための「願望器」へと変化していく。

「失敗」や「思うようにいかない運命」を「そのままのもの」として捉えるのではなく、次に「跳ぶ」ための「バネ」へと捉え、意味を変化させていく。

そんな「運命からの飛躍」と「発展的な意味の変化」がこの「車」とその「飛躍シーン」には込められているように思えるのです。

 

■星になれたら

「9人のAqours」が目指すのは、「自分だけの輝き」を手に入れること。

ラブライブで優勝」して「浦の星女学院」の名前を、ラブライブの歴史に刻むこと。

「数多の星が輝く宇宙」=「スクールアイドル界」の中で、「一際輝く星」になる。

それが今の千歌たちの願いです。

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千歌が「今は考えないようにしている」と語ったAqoursの「未来」。しかしそれは3年生の卒業と共に、やはり「終わっていく」運命にあるように思えます。

「人の手によって描かれた流れ星」は消えないけれど、それでも「スクールアイドル」自体は「3年」という時間を以て終わっていく。

そして「浦の星女学院」も、3月いっぱいで無くなってしまう。

それらはやはり「流れ星」と同じく「消えゆくもの」であり、人の力では操作できない「運命」そのものでもある。

しかし、それでも人はそんな「どうしようもない」「運命」そのものを、「自分自身の意志」で乗りこなすこともできる。できるはずなのだと信じようとする。そんな「気持ち」。

それがあるからこそ人は「生きていける」。その「不屈」の価値と、それを信じる人の「意志」を尊重してきたのも、「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品の特長です。

だからこそ千歌は鞠莉が諦めかけた「もう一度に一緒になる」という願いも肯定するのではないでしょうか。

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また、千歌の視点そのものは「HPT」の世界とも強い近似性を持っていると思います。

「別れ」や「終わり」を後ろ向きに捉えるのではなく、それらを「新たな未来」への「始まり」なのだと考える。

そうすることで、人は「未来」への選択を「前向き」に選んでいくことが出来る。

さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束

 なんて歌がありますが、正しくその通りで。

別れを後ろ向きに捉えるのではなくて、自分が成長するための「バネ」なのだと考える。

Aqours」は「スクールアイドル」の歴史に名前を刻めるかもしれない。けれども物理的には「Aqours」は3年生の卒業と同時に終わっていく。だとしたら千歌たちは「Aqours」という「流れ星」が生み出した「願い」や「希望」を、自分だけの「星」を見つけるための「動機」へと変えていく必要があります。

Aqours」としての活動と、その「停止」を通して「自分達の星」を見つけた果南・鞠莉・ダイヤと同じように。

「見つかりますように。輝きが。私達だけの輝きが見つかりますように」

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早見表に書き足された「星」を、千歌たちがどのように手にするのか。

それはまた、別のお話...なのかもしれません。

さようなら 会えなくなるけど

さみしくなんかないよ

そのうちきっと 大きな声で

笑える日がくるから

動き出した 僕の夢

高い山超えて

星になれたらいいな

虹になれたらいいな 

 

『星になれたら』

 お後がよろしいようで。


Mr.children-星になれたら-

 

 

 

※今回は特に10話と関係ない記事になってしまったので、反省中ですw

恐らく拾っていない部分は分かり手ブロガーの皆様が書いてくださるはずなので、この記事はそういう「読み物」としてなんとかお納めくださいませ。。

また、「ここってどう思う??」とかのご質問はどうぞご随意に。

「妄想」でしかありませんが、自分なりの考えはお答えするようにいたしますので。

 

それでは次回!「浦の星女学院」でお会いしましょう!

この回キツそう....。