いよいよ次回から「ラブライブ!2期」の考察を始めていこうと思います。そこで今回は前説といいますか、開始する前に、私自身の二期に対するインプレッションみたいなものを簡単にまとめておこうと思います。まぁ、言うなれば書き始める前の準備というか、思いだし作業に近いものです(笑)。気楽にご一読頂ければ幸いです。
「ラブライブ2期」に関して。実のところ自分のファーストインプレッションは決して良いものではありませんでした。その理由はまちまちです。「毎回同じ話を繰り返しているように見える」「登場人物たちのわちゃわちゃ話ばかりで話が進行していかない」「μ'sがA-RISEに勝つロジックが分かり辛い」そして「μ'sが下す結論が理解できない」等々。上げ始めるとかなりの量の不満がありました。
しかしながら、ラブライブを1期・2期通して、それこそ5週6週と繰り返し見るうちに、徐々に評価は変化していきました。それにつれて不満点も無くなって行きました。
そしていつしか気づきました。「同じ話」を、「同じテーマ」を繰り返すことに、大きな意味があったことに。
「ラブライブ2期」を見る時に思い描く映画監督がいます。
リチャード・リンクレイターです。リンクレイターは「スクール・オブ・ロック」で一躍世間に名を知られた監督ではありますが、実際はあのような正統コメディ映画とは少し毛色の違う、独特な作風を「ライフワーク」にしている監督でもあります。
「バッドチューニング」、「ビフォア」3部作、「6才のボクが大人になるまで」、「エブリバディ・ウオンツ・サム!」など、氏の作品に共通してあるのは「過ぎ去っていく時間」を「そのまま描く」事で、「その瞬間が持つ価値」を鮮烈に「フィルムに刻み付ける」...というものです。
中でも「バッドチューニング」とそのリブート作品に近い「エブリバディ~」は、もはや「劇映画と呼んでいいのか、これは?」と思えてくるほど「劇的な事件」が発生しません。代わりに登場人物たちのちょっとした日常や、どうしようもない会話などが、ただただ淡々と描かれるのです。なんの変哲もない会話に意外な伏線やどんでん返しへの布石が仕込まれている....ということはもちろんなし。ただちょっと面白い会話が続くだけ。しかしリンクレイターはその「なんの意味も無い会話」にこそ「価値がある」と信じているようなのです。
「6才のボク~」ではラストシーンにその思考を具現化するかのような台詞が登場します。
「なぜ人は、”その瞬間を大切にしろ”なんて言うのかしら」「人生はその”瞬間”の連続なのに」と。
僕らが暮らす日常。その中で友人や家族と過ごし、語らう時間はなんの変哲もない「特別ではない時間」です。しかし、そんな「特別ではない時間」にも、必ず「終わり」があります。引っ越しなどの物理的な別離。進学などの環境変化。そして「死別」。「別れ」は常に我々の生活の中に区切りとして存在します。その中には「事件」や「事故」による突拍子もない「別れ」だって含まれます。だとすれば、この「なんの変哲もない日常」だって、「かけがえのない日々」であるはず。リンクレイターは、その「なんの変哲もない日常」を「視覚化」し、その「価値」を問いかけることをライフワークにしている監督でもあるわけです。
「ラブライブ2期」において、繰り広げられるドタバタ喜劇。なんの変哲もなく、なんの意味もない「日常」ですが、そこに「卒業」というフィルターが通されただけで、その「意味のない日々」が、とても「かけがえのない日々」へと変化していく。繰り返し視聴することで改めて気づく、その「反転」こそが「ラブライブ2期」の「キモ」でもあります。
「2期」の物語を通して「今」の価値を知ったからこそ、劇場版では「今が最高!」なのだと主張する。そこに至るまでの長いようで短い13話を、是非もう一度一緒に振り返って頂ければ幸いです。