読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Love Live!Aftertalk

妄想をただ書き連ねる覚書。

細かくて長い...。「ラブライブ!The school idol MOVIE!」考察

アニメ ラブライブ 劇場版 考察

ようやくできたー!!!

でもほぼテキストだけなのに、26000字もあるんだって~ こわ~い。。(自分が)

・・・すみません、読む前に「長い」ということだけ含み置きくださいませ。。

 

f:id:ishidamashii:20161020010155j:plain

■はじめに

TVアニメ「ラブライブ!」の劇場版作品である「LoveLive! The School idol movie」は難解な作品です。

起きている「出来事」。そこから派生した「物語」。至る「結末」。

全て見ていれば「物語自体」は確かに分かります。

反面細かな事象や出来事に対しての説明は全て省略されています。

それはこの作品が

「TVアニメ」ではなく「映画」として作られているからでもあります。

 

ベキ論として捉えてほしくはないのですが、

「映画」というのは、視聴者に「疑問」を与え、「答え」や「テーマ」を「考えさせる」作劇が好まれます。

作品の中で「全ての答えを示さない」ことが、作品を見たものに「映画ならでは」の「余韻」を与え、それが濃厚な「映画体験」に繋がると考えるから、でもあります。

(もちろん全ての映画がその文法に乗っ取って作劇されているわけではありません。

 あくまでも一般的なお話です)

 

ラブライブ」はTVアニメ時代からこの「映画的」な作劇法に乗っ取って作られてきました

本作もその流れを汲んでいるわけです。

とはいえ私自身、初めてこの映画を見た際には、頭にはてなマーク」が10個以上浮かんでいました(笑)。

その疑問点をまるで解決できずにいたこともあって、最初の段階では「80点くらいの映画」という過小評価を下しました。

しかし疑問点の解決をする為、劇場に通ううち段々とこの「映画」の本質が分かってきました。

「シナリオの意図は?」「NYに行く意味って?」
「穂乃果が一人迷子になるのはなぜ?」「穂乃果が出会う女性の正体は?」
「女性シンガーが歌っている曲の意味は?」「劇中曲の役割とは?」
「穂乃果が渡されるマイクって何?」「SUNNY DAY SONGってなんなの?」

それらの疑問は劇場に通うたびに解消され、その度にドンドン映画の評価が上がっていきました。

気が付くと2015年に見た全ての映画の中で年間ベストに選ぶくらいの入れ込みようでした。

それだけにこの作品がきちんと「解説されずにいる」ことに歯がゆさを覚え続けていました

ラブライブ!という作品のテーマを咀嚼し、理解するためにはこの映画が一番大事なのに、なぜ誰もきちんと評価・考察しないのか!」と。

しかし、今現在に至ってもその「解説」は行われないまま(していらっしゃる方もいるとは思いますが、私が拝見した中では見つかりませんでした)。

しかも世間一般では・・・

「よく分からない映画」「キャラクターの関係に萌えるだけのスカスカ映画」
「曲は良いけど、全くストーリーがない映画」「本編でやっている話を蒸し返しているだけ」....

など、不当な評価を受けています。

そしてその弊害がダイレクトに現れたのが、今回の「ラブライブ!サンシャイン」第13話を叩く流れです。

私がTwitterや当blogで再三申し上げてきた通り、

「サンシャイン」という作品は、「劇場版LoveLive」の延長線上にある作品として作劇されています

それは「サンシャイン」というタイトルからも、「きみのこころは輝いてるかい?」というデビュー曲からも明らかなはず。

つまり「ラブライブ!サンシャイン!!」は、

「劇場版」が示した「テーマ」を内包したうえで物語が作られているわけです。

(それはラブライブシリーズ全ての構成と脚本を花田十輝氏一人が担っている以上当然とも思えます)

恐らく、「劇場版」の持つ意図をしっかりと把握している方にとっては、13話の作劇にそこまでの不満点を持たなかったはず。

しかしながら、大勢の視聴者にその「意図」が「理解されない」理由は「劇場版」の解説を怠ってきたから...とも思うのです。

そこで13話の考察を書く前に、イレギュラーではありますが「劇場版」の考察をしっかりと済ませておく必要があると思い、この記事を書いている次第であります。

 

...とはいえ、本稿での「劇場版」解説は、あくまでも「私個人」の考察です。

つまり「これが正解」というわけではありません

(正解となるはずの、劇場版のファンブックは発売延期になったまま…)

→※追記:2017年無事発売されましたね!なんでこのタイミングだったのかは分からないですが。映画の内容とかシナリオの狙いに関する正解は残念ながら記載されていませんが、「ラブライブプロジェクト」を知る上でのサブテキストとしては非常に良く出来た書籍でした!花田さんのインタビューは特に必読かと!

 

本稿の役割とは「正解を探す」というよりは、「劇場版」を「違う視点」で捉えて頂くことで、「劇場版」の見方、ひいては「サンシャイン13話」の見方に少しでも変化を与えられれば…というもの。

なにも本稿の解説を盲信いただく必要などありません

まずは構えず「ほー、こいつ色々考えるな。暇なんだなー。(鼻ホジー)」程度に読んでいただければ幸いです。

 

...さて、前回2015年時点での劇場版解説のあとがきには、

「ディティールを中心に解説していく」

 と書きましたが、

それでは散漫になってしまうので、物語を追いながらその都度分かりづらいポイントを解説していこうと思います。

※注意
本項はテキストベースの長文です。
また、多々読みづらい、分かりづらい表現もあると思います。
都度更新し、変化させては参りますが、何卒ご了承のうえお読みください。

※注意②
当然ですが、本稿は劇場版「ラブライブ」のネタバレを多分に含みます。
既に映画をご覧になっているか「ネタバレしてもいいや」という寛大な心をお持ちの方のみお読みください。

※注意③
先ほども書きました通り本文は筆者の「妄想」がメインです。
解釈の違いなど、当然あると思いますがどれもこれも「妄想」に過ぎませんので、
こちらも寛大な心で許容して頂ければ幸いですm(__)m

 

■大前提に関する注意書き

そういえば大切なことをお伝えし忘れていました。
ラブライブ!」という作品を理解する上での「大前提」のお話。

まず「ラブライブ!」という作品が「虚実」入り混じる作品である、ということを忘れてはいけません。

突然校舎の真ん前で唄い出して、交差点に飛び出したり、誰が準備したのか分からないセットの中で踊ったり…。

そういった「虚」が平然と「日常シーン」に入り込んでくるのが「ラブライブ」という作品です。
なぜ「ラブライブ」がそういう作劇を採られているのか、に関しては後述するようにいたしますが…。
なんにせよ、そこを「受け入れられない」という方は、

まずは「ラブライブ!」という作品が「そういう作品である」ことをご理解頂ければと思います。

 

■冒頭

本作は幼少時の穂乃果が「大きな水たまり」を飛び越すべく「チャレンジ」を繰り返すシーンから始まります。

何度も「チャレンジ」し、失敗を繰り返す穂乃果。しかし彼女は諦めません。

その行動を止めようとすることり、ただ見ている事しかできない海未。

これまで、それほど描かれなかった「幼少時の3人」が描かれます。

失敗を続ける穂乃果は跳べないことで、少し「ムキ」になっていきます。

「負」の感情に支配されかけた穂乃果...。

その時耳に「あるメロディー」が聞こえてきます。

心地よいメロディーに身を任せた穂乃果は、見事水たまりを飛び越えます。


...さて、「2期」最終シーンでは「ある連絡」を受けた花陽が穂乃果を再び部室へと引っ張っていく…という「思わせぶり」なシーンで終了しました。

ただし、それを入れている以上、そのシーンから映画本編を始めても良いはず。

....にも関わらず、TVアニメには「無い」、しかもそれほど語られなかった「幼少時代の穂乃果」たちを冒頭で見せた理由とは何なのでしょうか。

それはもちろんこのシーン自体が「映画のテーマ」に関係しているからです。

映画の劇中何度も登場する「跳べる」というフレーズ。

穂乃果はTVシリーズに限らず、事あるごとに「跳んで」きたキャラクターです。

デビューシングル「僕らのLIVE、君とのLIFE」は、冒頭穂乃果のジャンプシーンを印象的に見せます。

TVアニメ第1話冒頭シーンも、それに倣うかのように「穂乃果のジャンプシーン」から物語が始まります。

あるいは「穂乃果」という人物そのものを考えた場合にはどうでしょう。

彼女の特性とは「考える前に物事に取り組む(飛び込む)積極性」にあります。

即ち、この「幼少時」のシーンは、いかにして穂乃果が「跳べる」人物になったのか。

その「あらまし」を示すために存在しているのでしょう。

また彼女が他人に「無理」と言われても決して諦めない、「不屈の人」であることもここで示されます。

そんな穂乃果の「姿勢」そのものが、本作と「ラブライブ!」そのものの「メインテーマ」にも重なってくるのです。

つまり、このファーストシークエンスは「ラブライブ!」シリーズの「総括」を目的とした本映画では、非常に「重要なシーン」となっているわけです。

...さて、では物語を振り返りつつ、各パートのディティールに触れていきましょう

 

■NYプロットを読み解く

・・・部室に戻った穂乃果たちを待ち構えていたのは「NY」からの招待状。

「NY」は穂乃果たちにとって「異国」にして「異郷」。

いまだ足をふみいれたことのない「未知」の場所です。

 

☆謎①「なぜNYに行くのか?」

「自分たちが知らない場所(領域)」に踏み込んでいく…という描写は、これまで作品内で何度も描かれてきました。

「スクールアイドル」という未知に挑み、「客のいない」のライブに挑み、「ラブライブ大会」に挑み、「廃校阻止」に挑み、「A-RISE」に挑み・・・。

μ'sの歴史は「挑戦」の歴史。

そしてそれはラブライブ!」という作品の「歴史」でもあります。

「NY」からの「招待状」もその「延長線上」にあるもの。

このプロットはそんな「μ'sの歴史」「作品のテーマ」に倣って作られているわけです

「未知」に挑戦し、それを「克服」してきたのが「μ'sの歴史」。

となれば、ここでもその歴史がなぞられます。

 

・NYプロットを読み解く

ポイント①「NYでの洗礼」と「視点の変化」という観点。

「NY」という「未知の場所」で洗礼を浴びるメンバー。

海未は、元々不信感を抱いていたタクシーに宿泊予定のホテルとは別のホテルへ案内され、恐怖を覚えます

それ以降、街に出ること自体を恐れるようにもなってしまいます。

花陽は「NY」という場所に「遠いところに来ちゃった」と寂しさを滲ませます

また「白米ロス」をきっかけに、精神的にも参ってしまいます

これらの描写は「和み描写」や「ギャグ描写」として消化されがちですが、

「NY」という「未知の場所」での彼女たちの「困惑」を示すシーンでもあります。

彼女達がなぜ「NY」に来たのか。

それは彼女達が「スクールアイドルの代表として認められたから」です。

かつては追う存在だったA-RISEが「NY」には呼ばれないように、もはや「μ'sのみ」がこの「領域」にたどり着いてしまいました

スクールアイドルを始めた時には想像もつかなかった場所=領域に来てしまったμ's。

しかし彼女たち自身はその領域に自分たちがいる、という事実を受け入れきれていません

「NY」という場所はそんな彼女たちの「困惑」を象徴する「場所」でもあるのです。

そんな中、NYでのライブに備え、またライブ場所の下見も兼ねてジョギングに繰り出すμ's。

そこで「目にし」「触れる」ものが、彼女達の認識を変えていきます

「大都会」のど真ん中にある「自然あふれる公園」(=セントラルパーク)。

μ'sと同じようにジョギングをしている人たち。

朝から公園で和む人たち。

商売をしている人たち。

そこには「異界」の住人に過ぎなかった「NY市民」の「日常」があります。

ジョギングをしながら気さくに話しかけてくるニューヨーカー。

ステージに上がったμ'sに興味を持ち話しかけてくる女性3人組。

彼ら・彼女らは「言葉が通じない」にも関わらず、自分たちを「好意的に受け入れてくれる人々」です。

それらはμ'sが「NY」という「未知」に対して勝手に持っていた「一面的な印象」(ないしはある種の偏見)を「覆す存在」でもあります

「異界」だと思うことで、自然とバイアスをかけていた「NY」という街。

しかしその対象の「日常」を見る事、あるいは恐れていた対象から「好意的に受け入れられること」によって、彼女達は「視点を変化」させ、対象の「本質」を見つめることができるようになります。

この「視点の変化」は、「ラブライブ!」という作品では度々登場するモチーフ

「対象を恐れて避ける」のではなく「対象に触れ、理解を深めること」で「自分の内面」に「ポジティブな変化」を起こす。

その変化こそ「大切なものである」という考え方です。

「視点が変化」することによって、「NY」という「未知の場所」を恐れていた海未の心境にも変化が生じます。

「せっかく来たんだから、色んなところを観て、楽しんでほしい」

そんな外国人女性の言葉を肯定する希と絵里へ

「そうかもしれませんね」と同意できるようにもなるわけです。

ここで登場する「新しい場所を楽しむ」という言葉も、映画の中で大きな意味を持つ言葉ですね。

 

・NYプロットを読み解く
ポイント②凛が語る「NYとアキバは似ている」という言葉の真意。

「視点が変化」したことで「NY」を満喫できるようになったμ's。
「NY巡り」を一通り終えたメンバーたちは、感想を語り合います。
その中で凛は「NYはアキバに似ている」と話します。

ここを「突っ込みどころ」とする方も少なくありませんでした。

「NYとアキバは全然違う」など。

しかし「視点の変化」という観点と、凛のセリフを「きちんと聞く」という2点に留意すれば、その発言の真意が分かると思います。

凛が告げる「NY」と「アキバ」の似ているところ。

それは「日々新しいものを吸収」し「変化していく所」です。

決して「街の見た目」ではありません

街そのものの「見た目」ではなく、「精神性」に類似点を見出した凛

それは「見た目」に囚われず「中身」を理解することによって「本質」を知ることが出来る、という「視点の変化」から生まれた発想です。

その視点に真っ先に「同意」を示すのは、ことり

彼女は「アキバ」という「日々新しいものを吸収し、変化していく場所」=「ワンダーゾーン」において救われた人物でもあります

南ことり」にとっての「もう一つの人格」といえる「ミナリンスキー」をメンバーへは頑なに隠していたことり。

そんな「ミナリンスキー」もまた「南ことりの一部である」と、「ことり自身の持つ多様性を認めてくれた」場所こそが「アキバ」でした。

そんな事情から、ことりは「アキバ」の「精神性」を理解し信奉している人物でもあるわけです。

翻って「NY」は、多民族国家でありながら「差別意識が根強い」アメリカという国の中でも最も「都会」であり、「多様性を認める」街でもあります。
(ゲイへの偏見などは未だに根強いようですが…。南部に比べれば俄然薄いようです)

そんな「NY」の「精神性」「多様な価値観を認める」という部分において、確かに「アキバ」と「類似点がある」ように思えます。

このプロットでは、そんな「NYとアキバ」の類似性を、凛とことりの気づきを通して示しています。

そして一つ忘れてはいけない視点。

μ'sにとっての「日常」もまた「アキバ」にあるということです。

彼女たちの通う音乃木坂は秋葉原近くにある学校ですし、彼女達が放課後を過ごす憩の場もアキバです。

すなわち彼女たちにとってのアキバは「日々進化していく場所」であり、「日常」を表す場所でもあるわけです。

その2面性は、まさしく「NY」と同じ。

だからこそ彼女たちは「NY」を身近な存在として捉えるに至るわけです。

 

・NYプロットを読み解く

ポイント③「Angelic Angel

「日々変化していく都会」としての「NY」を代表する場所であるタイムズスクエア
その「タイムズスクエア」の近郊にあり、ニューヨーカーの「日常」を代表する場所である「セントラルパーク」

「NYのどこを舞台に歌うか」で悩んでいたμ'sですが、彼女たちの結論はその両方を「クロスオーバー」させ「それをバックに歌う」というものでした。

ではこのPVの意図も分析してみましょう。

前述した通り「タイムズスクエア」は「日々変化するもの」の象徴
となるとこれは文字通り「変化」のメタファーと考えられます。

反対にセントラルパークは「変化とは関係のないもの」の象徴。
すなわち「常態」のメタファーともとれます。

「変化」と「常態」、それはそれぞれ「時間(時代)」と「日常」という置き換え方もできます。

「時間」は誰にでも共通に存在し、常に「止まらず流れていくもの」です。

それと共に「時代」も移り変わっていきます

反面そこに根差す「日常」は、どんな「時代」においても大きく変化しません

例えば「誰かを愛し、子を為し、家族を築いていく」ことは、人間にとっての「根源的な欲求であり、そこに根差した「日常」があります。

それは「時代」に影響を受けるものではありません

それと同じく「自分の未来を信じ」「希望を持って生きる」ことも「人間の根源的な欲求でしょう。

このように理解すればPVの意味や「AngelicAngel」の歌詞の意図も自然と見えてきます。

二つの風景がオーバーラップしながら進むPVは「進んでいく時間」「変化しない日常」を交互に移すことによって、「流れていく時代」を表現しています

その中で「踊り続ける」μ'sは、「日常に根差す」「人間の根源的な欲求」を表現する存在です。

それはたとえ「時代が流れても変化しないもの」

だからこそ、μ'sは「背景の映像」「なんの影響も受けない」わけです。

そしてこの曲ではそんなμ'sのあり方を「肯定」しています。

そんな観点を以てPVの意味を理解できれば、一見「意味不明」なこの曲の歌詞も理解できるはずです

”Ah!「もしも」は欲しくないのさ
 「もっと」が好きAngel
 翼をただの飾りにはしない
 Ah!「もしも」は欲しくないけど
 「もっと」は好きAngel
 明日じゃない
 大事なときは今なんだと気がついて
 こころの羽ばたきはとまらない”

たとえば1番のサビとなるこの部分。
「もしも」を否定し、「もっと」を肯定しています。
「もしも」は現状に対する「否定」ないしは「仮定」です。
主にもはや「覆らない決定」を振り返る、あるいは「叶っていない未来」を想定する場合に使います。
この二つに共通しているのは「今を見ようとしていない」ということ。

反面「もっと」は現状を肯定し、さらに求める言葉

それは「今」を肯定する言葉でもあります。

これらの表現から分かるのは

"「流れていく時間」を受け入れずに「もしも」を願うのではなく、
「今ある現状を」認めた上で「もっと」と願う事の方が大事。"

ということです。

そしてその「今」を追い求める欲求は、

「人間の中にある根源的な欲望」に即して発生するものだ

ということを「こころの羽ばたきはとまらない」という歌詞で表現しているわけです。

ここでの歌詞が持つ意味や「考え方」は映画のテーマにも深く根ざしています

それはこの映画の主題歌であるSUNNY DAY SONGと裏主題歌である「As time goes byにも共通して含まれるテーマだからです。

このあたりに関しては、後述するようにいたします。


☆謎②「Hello,星を数えて」の持つ意味とシーンの意図とは。

凛の「NY=アキバ論」をμ'sが共有するのと同時に降り始める「雨」。

それを打ち破るように唐突に始まる「Hello,星を数えて」という楽曲。

それまで割と平坦だった物語を大きく「動かす」のがHello,星を数えてです。

「日常」描写の延長に唐突に挟み込まれる「ミュージカルシーン」

それは見る人を一番最初に驚かせる「仕掛け」にもなっています。

とはいえ、この楽曲が持つ役割も何も解説をされていません。

本項ではその役割を考察してみましょう。

 

・NYプロットを読み解く
ハロ星の意図①「映画ジャンルの確定」

「ミュージカルシーン」が「映画」に登場する意図。

それは説明するまでもなくこの映画が「ミュージカル映画」であることを示すものです

すなわち製作者側から「これはミュージカル映画なので、そのつもりで見てね~」という合図でもあるわけです。

ところでこれはラブライブ!」シリーズ全体が常に使用してきた技法でもあります。

第1話で穂乃果が「ススメ→トゥモロウ」を唐突に歌い始めるのも、
2期第1話で「これまでのラブライブ!」をミュージカル調に説明するのも、
2期最終話で「HAPPY MAKER」を歌って「大団円」するのも、
全て「ミュージカル作品」だからです。

その方式は続編である「サンシャイン」にも当然ながら引き継がれています
第1話で千歌たち2年生が「決めたよHandinHand」を唐突に歌い始めるのも、明確にシリーズの影響下にあるからです。

故に「サンシャイン」13話で千歌たちが「ミュージカル」を演じることにも、なんら違和感は無いはずなのですが。

・・・すみません、少し脱線しました。

この「Hello,星を数えて」という楽曲は、その狙いをより明確に見せるために、PV内にもさまざまな仕掛けを施しています。

例えば凛が早着替えする衣装は、往年の名作ミュージカル映画フレッド・アステアジーン・ケリーなどが着ていた衣装を彷彿とさせます。

真姫が乗っているタクシーはこちらも往年のミュージカル作品踊る大紐育(ニューヨーク)」を意識させますし、凛がポールをくるっと回るシーンなどは雨に唄えばを思い起こさせます。

舞台装置として登場する「傘」ももちろん「雨に唄えば」を思い出させますし、その傘の多様性は同じくミュージカル映画であるシェルブールの雨傘も想定させますね(こちらはハリウッド映画ではありませんが)。

ことほどさように、様々な「ミュージカル映画」の「シーン」や「衣装」「舞台装置」を使用して、「この映画はミュージカル映画です」ということを表現しようとしているわけです。

 

・NYプロットを読み解く
ハロ星の意図②凛が雨の中に「大丈夫」と飛び出す理由。

唐突に降り始めた雨に、表情が陰るμ'sのメンバー。

NY巡りを途中で止めてホテルへ戻る、という選択肢に穂乃果は「寂しいな」と告げます。

その言葉に対して凛が「ダイジョブにゃ~」と飛び出すのが「Hello,星を数えて」への転換地点となります。

ところでこの「大丈夫」は、何に対しての「大丈夫」なのか説明がありません

意味を考えてみましょう。

先ほど触れた「視点の変化」という観点。

この楽曲もまた、それを「強調」する役割を持っています。

この曲は「雨」が降り出し、それを穂乃果が「寂しい=ネガティブな感情」として受け止めることが始まりの「きっかけ」となります。

こちらも度々blogなどで触れている通り、「雨」は「停滞」を象徴するもの

それはハリウッドを中心とした「映画」の文法で長らく使用されてきた表現技法でもありました。
(悲しいシーンになると雨が降り出すという表現。登場人物を泣かせるのではなく、雨を降らすことで心象風景としての悲しみを示す、映画的な表現です)

故に穂乃果の反応も「至極当然」な反応と言えます。

しかし、その「表現」を「真っ向から否定したミュージカル映画があります。
それこそ先ほど登場した雨に唄えばです。

雨に唄えば」では、恋をした主人公(=ジーン・ケリー)が、「雨の中」傘もささず「楽しげに歌い踊ります」。

「雨=悲しいシーン」という文脈が今よりもはっきりと共有されていた時代。

この「逆転の表現」は「新しいもの」として驚きを与えました

「雨」という「停滞」すら「楽しく感じさせる」もの。

それは「恋をした」時に感じるような「嬉しい」「楽しい」といった「自分の内面におこる」「感情」です。

「自分の見方」や「感じ方」次第で、人は「困難」を「喜び」に変化させることができる。

これはまさしく先ほどお話した「視点の変化」でもありますね。

雨に唄えば」が採用した、この「逆説的な話法」は当時のハリウッドの中でも「革新的」なものでした。
経営学者のジョーン・マルケス
「困難な時期をすばらしい経験に変えることが人生での大切な技術かもしれない。雨を嫌うか、雨の中で踊るか、私たちは選択することができる」
と「雨に唄えば」を解説しています。


Singing In The Rain - Singing In The Rain (Gene Kelly) [HD Widescreen]

ついでですがGleeにおける、

リアーナの「Umbrella」とのマッシュアップパフォーマンスも素敵なので、是非。


GLEE - Singing In The Rain/Umbrella (Full Performance) (Official Music Video)

 

Hello,星を数えて」では、

「流れるひとの波」や「知らない言葉のメロディー」という

「知らない物事」=「ネガティブ要素」

「応えてみたら きっと一歩ずつ世界広がるよ」と

自分」の視点を変えることで「ポジティブ」に捉えなおす歌詞構造になっています。

これはまさしく「NYでμ'sが経験したこと」を総括している内容でもあるわけです。

一見なんの役割を持っているのか分からない楽曲「Hello、星を数えて」は

①映画ジャンルの説明
②NYパート前半部分でのシナリオの意味

の2つを説明していた、ということが分かるわけです。

 

ここまで読んでいただけば分かる通り、

μ'sが登場するパートでは「徹頭徹尾」同じテーマを表現していることがお分かり頂けたと思います。

それはすなわち「視点の変化の重要性」という「テーマ」です。

一見「ネガティブ」としか取れない要素を「視点を変化」させることで「ポジティブ」な要素に変えていく

それは、この後μ'sが実際に「行う」ことでもあります。

また、それはTVシリーズ「2期」の段階では「表現しきれなかった部分」でもあるのです。

TVシリーズ「2期」は、「卒業」を大きなテーマとして扱いました。

「スクールアイドル」であるμ'sは3年生の卒業という、大きな転換点に差し掛かります。

そこで彼女達が思い悩み、下す結論に「2期全体」の「ドラマ性」を集約させました。

彼女たちが全員で決めた「解散」という結論。

それは作品内ではなんとなく「ポジティブ」なものとして収束されてはいますが、決して「前向き」な結論とはいえません

「9人」でなければμ'sではない。

だからこそ3人が抜けるタイミングでμ'sは解散しなければならない。

それは「9人」でいる「今」を「固定」するためには必要な判断ではあります。

しかし、一度「今」に「固定」されてしまったものに「未来」は存在しません

すなわち2期終了時点のμ'sは「未来に何も託さずに終了する存在」になってしまっていたわけです

しかし現実的にμ'sは「未来に何も託さずに終了する存在」でいて良いのでしょうか。

彼女たちが残したメッセージ。

伝えたかった思い。

それらは「未来へ引き継がれるに値する」物なはずです。

2期最終回は「卒業」を以て感傷的に終了することを選ばず、「新たなスタート=Happy maker」で終わりました。

それは「ミュージカル作品ならではの大団円を演出するため」と同時に、「表現しきれなかった部分」としての「μ's解散後の未来」に対しての「未練」でもあるわけです。

故に本映画はその「未練」を晴らす舞台にもなっているわけですね。

だからこそ本映画が「2期と同じ話を繰り返している」という意見には、賛同いたしかねる、というのが私の見解です。


さて、μ'sが積極的に関わるNYプロットはここまで。
これまでを便宜上「NYパート前半部」と呼ぶことにします。
となればご推察のとおり、この後は「NYパート後半部」へと入っていきます。

ここから先はμ'sではなく穂乃果にとっての「NYプロット」へ変化します。

この転換点も非常にあいまいなので分かりづらいのですが、具体的には「地下鉄に乗る」ところからが転換点となります

 

■ブロードウェイに迷い込む穂乃果。

NYパートにおける難問の一つ

それが「ブロードウェイに迷い込む穂乃果」のくだりです。

多くの憶測を呼んだこの一連のシーンですが、一つの観点を以て見れば、それほど難しくないと思います。

その観点とは「地下鉄に乗り、μ'sメンバーの元へ戻ってくるまでの一連の物語」は「全て穂乃果の心象風景」を「メタ的に表現したもの」である、ということです。

ここも順序立てて考察してみましょう。

「GOHAN-YA」での食事を終えた帰り道、穂乃果だけが地下鉄で他のメンバーとはぐれ、逆方面の電車に乗ってしまいます。
たどり着いた駅をあてもなく出ていく穂乃果。
冷静に考えればまずこの行動自体が現実的ではありません
普通であれば駅にとどまり対処法を考えるでしょう。
にも関わらず穂乃果がトボトボと街に出て行ってしまうのは、「彼女が街をさまよう」こと自体に「意味がある」からでしょう。

NYに放り出された穂乃果は様々な人種、年代の人々が集う街中で埋もれてしまいます。
ラブライブ!」という作品の中では、ほとんど「神様」のような存在感を発揮する穂乃果ですが、この街では「一介の少女」に過ぎません。

その姿は意図して「弱弱しく」描かれているようにも見えます。
(通り過ぎる外国人少女とは体格に違いがありません。こういった描写も敢えて穂乃果を弱弱しく見せるための描写のように見えます)

あてもなく街をさまよう穂乃果の耳に「ある歌」が聞こえてきます。
その「歌」に導かれるようにたどり着いた場所は「ブロードウェイ」の路地裏。
そこには古いヒット曲「as time goes byを歌う女性シンガーの姿があります。
見事な歌唱に魅せられた穂乃果は彼女に精いっぱいの拍手を送り、結果として彼女との出会いが穂乃果を「ホテル(μ'sの元)へと戻す」要因となるわけです。

 

☆謎③なぜ穂乃果ひとりが迷い込むのか。

さて、まずは何故「穂乃果だけ」が迷い込むのかを考えてみましょう。

「NYに来る」という行動自体が、「未知の存在に挑んできたμ'sの行動」に倣ったもの、というのは前述した通り。

そもそも「NYに行く」という行為自体が「メタ構造」を含んだ行動なわけです。

となると、ここで「穂乃果だけ」が「未知の場所に迷い込む」という表現も、この後「穂乃果がなんらかの迷いに直面する」というストーリーをメタ的に再現している、と考えられます。

とはいえ、ここは作劇的にはあまり「上手くない」部類に入るものだと思います。。
というのも、メタ構造の作劇内に更にメタ構造を重ねる、というのは一般的には「悪手」と認識されているからです。

例えば、夢の中で夢を見る…といったメタにメタを重ねる作劇をしたとします。
すると視聴者は「じゃあどこまでが本当なんだよ!」と混乱し、やがて「物語そのもの」への「興味を失っていく」危険性を秘めているからです。
(これをやってしまった映画で有名なのはプレステージという映画ですね。。)

とはいえこの独特な作劇が「どこまでが現実で、どこまでが夢なのか」を曖昧にさせ、映画になんともいえない深みをもたらせているので、個人的には嫌いではないのですが。。

☆謎④穂乃果が「謎の女性」と出会い、帰ってくるというプロットの持つ意図。

穂乃果が迷い、その先で「謎の女性シンガー」と出会い、ホテルに戻ってくる…というプロットは何を意味しているのか。
それは、分析するまでもなく「そのまま」の意味です。

上の流れをもう少し大枠にしてみれば分かりやすくなるかもしれません。

『穂乃果が迷い、「何か」と出会うことで、「μ's」のもとに戻ってくる。』

どうでしょう。こうすると少し分かり易くなります。

ここから分かるのは、このプロット自体が「帰国後の穂乃果の行動」と一致しているということです。

即ち

「周りの反応に戸惑った穂乃果がμ'sの今後の活動に迷う」も、

「迷いの中で得た答え」を胸に、

「改めてμ'sはスクールアイドルとして終了する」ことを決断する、というお話になりますよ!

...ということを、この一連のプロットで表現しているわけです。

至ってシンプル!

また、上に当てはめることで散々議論された「謎の女性シンガー」の正体も、ぼんやりと分かるはずです。

 

☆謎⑤謎の女性シンガーとは何者か?

まずはじめに断っておきますが、この「女性シンガー」の正体は「SF的ななにか」などではありません

さも正解のように語られている「未来の穂乃果が会いに来た」説ですが、その説には賛同しかねます

では彼女の正体とはなんなのか。
先ほども触れたように、この一連のプロット自体が「穂乃果の心象風景」と考えれば、彼女の正体はもっと「概念的」なものだと思えてきます。

穂乃果が迷いの中で出会う概念...と考えれば、その正体の一つは「願い」とも考えられます。

それは穂乃果の深層心理の中にある「願い」

例えばμ'sを「解散せずに続けた場合の自分」であったり、「解散後にも歌を続けて、歌手となった自分」も「願い」の一部に含まれます。

とはいえそれはあくまでも「願望」。
今の時点では「実現性の低い」「空想」に近いものです。

あるいはその「願い」に対する「真実」とも思えます。

TVシリーズ2期10話で、穂乃果は「スクールアイドル」の「真価」にいち早く気付き、μ'sがなぜA-RISEに勝てたのかも、最初に気付きました。

その穂乃果が、「スクールアイドルを続ける」という選択肢を現実的に持っているとは考えづらいのです。

そんな彼女の最も理性的で、聡い部分も「女性シンガー」は引き継いでいます。

だからこそ彼女はまだ穂乃果が気付かないふりをしている「答え」を知っていますし、その「答え」のヒントを与えるだけに留まるのでしょう。

なんにせよ「女性シンガー」は穂乃果のうちに存在する様々な要素を触媒とした「概念」が、具現化された存在と思えるわけです。

ただ、こう考えれば「女性シンガー」が穂乃果に「そっくり」であることにも理由が付きます。
理由はもちろん彼女が「穂乃果の内に存在する物」の影響を受けているからです。

こういった「もう一人の自分」と「対面する物語」が描かれる作品は数多あります。

それらは、一般的にドッペルゲンガー(もう一人の自分)もの」と呼ばれます

ここで具体名を挙げてしまうと、それだけで「ネタバレ」になってしまうので、具体例を出すのは避けます!

ただ、それこそ過去から現在に至るまで、何度となく同じテーマで「映画」が作られているような「定番」の「テーマ設定」となっています。

一般的な「ドッペルゲンガーもの」では「自分の理想」「希望」「闇の部分」「もう一人の自分」として登場し、「主人公になんらかの影響を与える」という物語が描かれます。

大概の「ドッペルゲンガー」は「主人公の負の部分」を背負って登場し、主人公に害をもたらす存在として描かれるため、
ドッペルゲンガーもの」の映画はホラーやサスペンスとして作劇されることが多いのですが、その根底には「自分と向き合うことの意味」という哲学的なテーマが内包されています。

そして「内面への気づき」によって「主人公が解放される」というのもドッペルゲンガーもの」の流れであり、よくある結末でもあります。

そう考えれば「女性シンガー」も「穂乃果が迷いの中で自分自身に問いかけた」中で現れた「もう一人の自分」と考えても良いのではないでしょうか。

とはいえこの「女性シンガー」の場合には、「穂乃果に助言するために登場したもの」なので、従来の「ドッペルゲンガー」とは少し違う存在かもしれませんが。

さて「女性シンガー」を「穂乃果の内部にいるもう一人の穂乃果」として理解すれば、劇中での様々な謎も解けていきます

例えば、他のμ'sメンバーが「女性シンガー」を「認識できない」理由

それは「女性シンガー」が「穂乃果の内面にしか存在しない」からです。

道端を歩いて帰ってきた穂乃果が「実はもう一人」と告げるものの、誰もその存在を感知していません

メンバーから見れば、穂乃果は一人で歩いて帰ってきたようにしか見えていません

穂乃果が「誰かと話しながら帰ってきた」ように表現されているシーンは、穂乃果が「自問自答」しながら歩いていることのメタ表現に過ぎないわけです。

だからこそ「女性シンガー」と出会えるのは(出会っているのは)、唯一「穂乃果だけ」なのです

或いは地下鉄で「マイク忘れた!?」と焦る姿。

そのマイクを 実は脇に抱えていたという「ドジさ」。

それをごまかす仕草なども「穂乃果にそっくり」です。

これらも彼女が「穂乃果の一部」と考えれば納得できます。

またこの「謎の女性シンガー」は穂乃果にとっての「夢」を象徴する人物とも捉えられます。

1期最終回で海未に語った通り、スクールアイドルを始めるまで「何もなかった」穂乃果は、スクールアイドルを始めることで「歌う喜び」に出会いました
その思いは活動を続ける中で大きくなり、最終的には「歌」が「自分にとって一番大事な存在」にまで成長しました。
穂乃果にとっての「希望」は「歌」であり、「歌を歌い続ける自分」でもあるわけです。

「女性シンガー」が果たす役割をそのようにとらえる事が出来れば、クライマックスに至る結論の意味も分かってくるはずです。

そしてここで示される「結論」が「サンシャイン」の世界観に、とてつもなく大きな影響を与えているのです。

■帰国後のプロットを読み解く。

・・・NYから帰ったμ'sを待ち構えるのは「大ブレイク」とその余波。

今まで「学校を救うため」「自分たちが楽しむため」にスクールアイドルをやってきた穂乃果たち。

明確な「人気」を受け止める日が来るとは考えてもいませんでした

また「解散」をあくまでも「個人的な事柄」と捉えていたμ'sにとって、その「解散」が「個人的ではない」事柄に変貌する事も予想外でした。

理事長から告げられる「スクールアイドルの人気維持のためにμ'sを続けてほしい」という要請。
「A-RISE」から受ける「共にプロになってほしい」との願い。

そして「解散」に関して意見が分かれるμ's内部

その結論を託される穂乃果

平穏な序盤に対比するかのように様々な問題が同時並行で発生します。

それを解決していくのが「帰国後プロット」の役割となります。

 

・帰国後のプロットを読み解く。

ポイント①「μ'sとはどのような存在か」

このパートではNYパートで準備してきた布石が活かされるように、穂乃果たちに様々な「課題=カセ」が襲い掛かります

しかしここで明らかになる「カセ」はTVアニメ2期で「敢えて無視してきた要素」でもあります。

「大ブレイク」を果たした先に当然ある「プロ」という視点
「スクールアイドル」である以上は3年生の引退をもって解散せざるを得ないμ's。
しかし「プロ」になってしまえばその限りではありません
真姫が言うように皆にとっては「μ'sがスクールアイドルかどうかはそれほど重要じゃない」のです。

仮に「プロとして」μ'sが継続できれば、「解散」する理由の一つは消えます
「自分たちが決めたこと」の先にある「みんなからの要望」という観点。
とはいえ、いかに「みんなからの要望」があろうともTVシリーズ2期であれだけ揉めた末に「全員で下した結論」を覆す理由としては「弱い」ように感じます。
にも関わらず穂乃果が思い悩む理由とはなんなのでしょうか

それは彼女たちが「みんなの支持」によって「成功」を納めてきたアイドルだから、という背景があります。

μ’sのライバルであるA-RISEはμ'sよりも「歌やダンスでは優れた存在」として作劇されてきました。
故にμ'sはそんな「雲の上の存在」であるA-RISEを倒すため、思い悩み、試行錯誤を繰り返しました。

「変化」「CHANGE」インパクト」

そんなお題目をテーマに、メンバーが苦労する回がTVシリーズ2期では何度となく描かれました。
反面、毎回その努力は徒労に終わります

その都度、テーマとして描かれたのは「外面を変えることではなく」「自分自身の内面を変化させていくこと」の重要性でした。

「外面」ではない「内面」の進化は楽曲にも反映され、
結果としてμ'sの楽曲はA-RISEにはない「思想性」を持ったものになりました。

「START=DASH!」「ススメ→トゥモロウ」「これからのSomeday」「No Brand Girls」「ユメノトビラ」「Snow halation」「KiRa KiRa sensation」「僕らは今のなかで...。
これらの楽曲は誰もが抱える普遍的な悩みをテーマにし、作詞されています

その歌詞がμ'sと同じ悩みを持ち、μ'sの思想に共感する「みんな」の支持を得る事になり、大きく受け入れられたのです。(これは現実ともリンクしていますね)

そしてそんな「みんな」の支持が

、μ'sに「スクールアイドル」としての「栄光」をもたらし、

結果としてA-RISEに対して「勝利」を納める原動力にもなったのです。

それを象徴するのが「皆で叶える物語」というキャッチコピーであり、

「皆の思いが導いた場所なんだ」という「Kira Kira sensation」の歌詞でもあるわけです。

すなわちμ'sがA-RISEに勝てたのは「みんな」の力があったからこそなわけです。
それ故に「みんな」からの「辞めないでほしい」という要望に「揺れ動く」わけですね。

 

・帰国後のプロットを読み解く。
ポイント②どこからが穂乃果の「夢」なのか?

思い悩む穂乃果
様々な人の意見を聴き、その結論を託されたことで穂乃果は混乱の極致に陥ります
A-RISEとのドライブを終え、家に戻ってくる穂乃果。
すると「雨」が降り出します
先ほども言ったとおり「雨」は「停滞」の象徴。
穂乃果が迷っているため、物語も「停滞」してしまっていることを表しています。
雨の中、今度は制服姿で思い悩む穂乃果は、またしても「as time goes by」を耳にします。
歌のする場所に行くと、なんとNYで出会ったあの「女性シンガー」がいるではありませんか。
しかし彼女は、穂乃果が預かったまま返しそびれていたはずの「マイクスタンド」を所持しています
そのことには特に疑問を感じず「うちにも同じのあるので返します」と強引に自分の家に「女性シンガー」を連れて行く穂乃果。
しかし「女性シンガー」は家の目前まで行くものの、家に寄る事を拒みます。
「せっかく再開できたのに」と引き留める穂乃果に「答えは見つかった?」と全く別の問いかけをする「女性シンガー」。
「答え?」と聞き返す穂乃果。
すると強風が吹き、傘が吹き飛ばされ、雨も「止みます」
穂乃果が目を開けると、目前には「大きな湖」が現れます。
それはどこか「この世」ではないような雰囲気を漂わす場所です。


・・・さてここで視聴者を混乱させるのは、「どこまでが現実で、どこからが夢なの?」ということです。

どんな人でも「この世」ならぬ場所に穂乃果が誘われた瞬間「これは夢だな」と気づくもの。

とはいえ、どこでそれが「切り替わっているのか」が分かりづらいと思うのです。

明確な転換地点は「雨」が降り出すところ。

途中でμ'sメンバーが映し出されるため混乱しますが、傘をさして制服で登場する穂乃果は、「彼女自身の夢の中にいる穂乃果」です。

夢とは「深層心理」に影響されるものフロイト談)。

先ほど書いた通り「女性シンガー」は穂乃果の「深層心理」を触媒として登場する存在

だからこそ、夢の中で穂乃果は「女性シンガー」と「再開」するわけです。

 

☆謎⑥「マイクスタンド」の持つ意味とは?

さてここでまたしても謎が発生します。それは「マイクスタンド」です。

NYの地下鉄でなし崩し的に穂乃果が持ち運び、途中で「女性シンガー」が消えてしまった為、穂乃果が持ったままになっていた「マイクスタンド」。

しかし、アキバでの再開時、返すべきそれを「女性シンガー」は所持しています

また「返す」という穂乃果の申し出を彼女はやんわりと拒否します。

果たしてこの「マイクスタンド」は何を示しているのでしょうか。

先ほど考察した通り「女性シンガー」は穂乃果にとっての「夢」や「願い」を具現化した存在です

そう考えれば「女性シンガー」から託される「マイクスタンド」もまた「夢」や「希望」を象徴する存在と思えます。

彼女が「マイクスタンド」の回収を拒むのは、それは既に穂乃果に「託したもの」だから

そしてそれを彼女が「複数所持している」のは、彼女がそれ=(夢や願い)を様々な人に「渡す役割」をもった存在だからなのでしょう。

しつこいようですが「女性シンガー」は穂乃果の中で具現化した姿。

彼女は穂乃果の深層心理に触れる形で「女性シンガー」の姿で具現化していますが、本来は「その人の内面」によって「形を変えて」いきます。

それと同じように託される「希望」の形も受け取る人によって変わるはず

今回「マイクスタンド」としてその姿を具現化させたのは、穂乃果にとっての「希望」が「歌う」ことだからでしょう。

その「希望」が「形になりそう」な結論に穂乃果が到達したからこそ、穂乃果の家にある「マイクスタンド」は消えずにいると考えられます。

 

■「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く。

さて、ストーリーに戻りましょう。
「この世」では無い場所で「女性シンガー」が告げる「跳べるよ」という言葉。
その言葉に後押しされるように、穂乃果は目の前に現れた湖を飛び越そうと試みます。
すると同じタイミングで3年生を代表して絵里から「今後のμ'sに関しての3年生組の意見」が届きます。
その結論とは、「やはり卒業と同時にμ'sの活動は終了としたい」というもの。

「μ'sはこの9人でなければいけない」しかし「μ'sはスクールアイドルだからこそ輝く」のだと告げる絵里。

そして自分自身「スクールアイドルであるμ'sが好き」なのだと語ります。

だからこそ「μ'sは解散しなければならない」という思い。

絵里たちが協議して得た結論は、穂乃果が出した結論と同じものでした。

夢から目を覚ました穂乃果は、いよいよ結論を固めます。

その結論とは、「NY」に行く前と同じく、「3月一杯」をもって「μ'sは活動を終える」というもの。

しかし自問自答の中、「スクールアイドルの魅力」に改めて気付いた穂乃果は、
「μ'sの活動終了をネガティブな要素」にしないため再度「スクールアイドルの魅力」をアピールする方法を思いつきます

それは「活動休止」までの限られた時間の中で、もう一度「ライブ」をするというもの

そしてそのライブを開催する場所は「アキバ」

ただし、その「ライブ」とは「μ's」の解散を伝えるライブではなく、「スクールアイドルの魅力を全国に伝える」ためのライブ

μ’sの活動休止をもって「スクールアイドルの火」が消えてしまわぬよう
「μ's」や「A-RISE」が凄いのではなく、「スクールアイドル」全体が素晴らしいのだと伝える「ライブ」をしたい。

そのためには「全国のスクールアイドルに参加してほしい」
そんな穂乃果の無茶な考えに騒然とするμ'sメンバーですが、彼女たちは常に「無茶」や「無謀」と戦ってきた人たち。
「もしそんなライブが実現できたら、それは今までで一番楽しいライブになる!」
俄然盛り上がるμ'sメンバー。

とはいえ残された時間はわずか。
メールや電話ではレスポンスに時間がかかることを苦慮した穂乃果は、全国のスクールアイドルに直に「参加を要請する」ことを思いつきます。
「一番楽しいライブ」を作るため、μ'sの「新たな挑戦」が始まります。

 

・「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く。
ポイント①穂乃果と絵里が共通に「気付いたこと」は、μ'sメンバー全員が「気づいたこと」。

映画の中盤以降、穂乃果の「自問自答」が中心に描かれます

結果としてその穂乃果の気づきによって、物語が展開していくように描かれていますが、この「自問自答」は、μ'sメンバー全員が各自行っていたものでもあります。

穂乃果が「夢」の中に入り込むきっかけとなる、「A-RISEと別れた後に降り出す雨のシーン」
この導入部分では、μ'sメンバーそれぞれの様子がカットバックとして入ります。
非常に分かりづらいですが、このシーンが現すのは、全員が穂乃果と同じような「自問自答の状態に入っています」という合図なわけです。

だからこそ穂乃果が結論を出して向かった学校の屋上には、μ'sメンバーが勢ぞろいしています。
そこで真姫が告げる「めんどくさいわよね。ずっと一緒にいると、何も言わなくても伝わるようになっちゃって」という言葉から、
メンバー全員が穂乃果のような「自問自答」を通して、それぞれの結論に行き着き、その結論が同じであった…ということが示されているわけです。
う~ん、ここは分かりづらいですね。。w

 

・「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く。
ポイント②「限られた時間の中で輝く」ものとは?

さて、彼女達が共通して気付いたのは「μ'sはやはりスクールアイドルとして終わるべき」ということだけではありません。
なぜμ'sが「スクールアイドルでなくてはいけないのか」
それを問い直す中で気付いたのは「スクールアイドル」そのものが持つ「魅力」でした。

「高校3年間」という「限られた時間」の中でしかできない「もの」。
その「限られた時間」があるからこそ輝きを放つもの、というのは確かにあります。

たとえば「部活動」がそうです。
「甲子園」に出場できるのは「高校野球」のチームだけのように。
あるいは「全国高校サッカー選手権」に出場できるのが「高校サッカー」チームだけのように。
ここに出場し、輝いた選手が全員「プロ」になるわけではない。
しかしここで「輝いた」選手は、いつまでも人々の「記憶に残る」選手になる。
それはまさしく「限られた時間の中で輝く」ということです。

また「アイドル」というものも同じです。
主に10代前半~後半という「限られた年代」の「少年・少女」だけが名乗ることを許される「アイドル」という存在。(最近は50近くでもアイドルを名のる方もいますがw)

長い人生の中で考えれば「ほんの一瞬」の限られた時間に、全てをかけて「輝こう」とするからこそ、彼ら、彼女らは一際「輝く」わけです

ラブライブ」という作品が初めて持ち込んだ「スクールアイドル」という概念。
しかしてそれは「アイドル」「高校における部活動」という「10代の少年少女」だけが体験できる「限られた時間の中で輝く」ものの「縮図」になっているわけです。

 

・「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く。
ポイント③穂乃果を「跳ばせる」要因とは何か。

夢の中で見事湖を飛び越せた(ように見える)穂乃果。
そのきっかけを作ったのは、「女性シンガー」の「跳べるよ!あの頃のように」という言葉でした。

ここで彼女が言う「あの頃のように」とは、映画冒頭に映る幼少期の穂乃果のこと。
なぜ「女性シンガー」が幼少期の、しかも穂乃果含め3名しか目撃者がいない出来事を知っているのか
それはやはり彼女が「穂乃果の内面に存在しているもの」だからでしょう。

更に言うなれば「女性シンガー」が「希望」を象徴する存在だから、でもあります。

幼少機に穂乃果の耳に聞こえてきた「歌」

それを聞くことで穂乃果は「楽しい気持ち」になり、「跳ぶ」ことが出来ました。

その「歌」はまさに「希望」そのもの

「女性シンガー」が穂乃果が「跳べた」ことを知っているのは、

水たまりを跳ぶため、穂乃果の耳に「歌」を届けたのも、彼女の「仕事だったから」とも取れます。

さて、ではその時聞こえてきた「歌」とはなんだったでしょうか

そこを頭の中でリンクさせることで、その「楽曲」がもつ「意味」や「メッセージ」もより深く理解できるはずです

 

・「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く。
ポイント④地方のスクールアイドルに「会いに行く」意味と、彼女達の存在意義。

ここは改めて説明するまでも無いですが、一応書いておきますw
μ'sが「全国のスクールアイドルに会いに行く」のは、そのまま全国で実施した「ファンミーティングツアー」をなぞっています

とはいえ、このシーンはそんな「ファンサービス」だけのための描写ではありません。

μ'sが会いに行く「全国のスクールアイドル」とは、何を示しているのか

それは「日本全国にいるμ'sのファン」そのものです

すなわち「私たちそのもの」なわけです。

ここから分かるのは、μ'sが招集しようとしている「全国のスクールアイドル」とは、ラブライブを愛し、その考えに賛同する我々ファン」のメタ表現である、ということです。

この認識をもって「SUNNY DAY SONG」を見れば、あのライブシーンが持つ意味合いの捉え方も少し変化するかと思います。

■「SUNNY DAY SONG」を読み解く。

着実に「一番楽しいライブ」実現に近づくμ's。
そんな中、3月一杯までは「スクールアイドル」である「A-RISE」にも協力を仰ぎます。
穂乃果の要望に快く答えるツバサ
(彼女がなぜ穂乃果に賛同するのかは、私のblogでのサンシャイン第12話考察をご一読いただけると幸いです。)
しかしツバサは「ある条件」を穂乃果に突きつけます。

それは「μ'sにスクールアイドルのための曲を作ってほしい」という要望。

「アキバでのライブはスクールアイドル全員の可能性を讃えるライブになるはず」
「だとすれば、スクールアイドルの素晴らしさを伝える曲を、スクールアイドル全員で歌いたい」
「そしてそれをスクールアイドルの代表である、μ'sに作ってほしい」というもの。

その思いに賛同した穂乃果は、楽曲作りとそれに付随する歌詞づくり、衣装づくりに奔走します(というか海未とことりが奔走しますw)。

いよいよ「アキバ」に集まった全国のスクールアイドルたち
彼女たちの助けを得て、初めて「スクールアイドル主催」のライブの準備が進みます。

「全国から集まった歌詞」「全員で作った衣装」「真姫とツバサが合作した曲」...。

それらが揃う楽曲を披露する場所は、まさしく「これまでのスクールアイドル」を総括する一大プロジェクトです。

なんとか間に合った準備。
そこでμ'sは自分たちが解散することを告げます
ショッキングなニュースに落ち込む「スクールアイドル」たち。
しかし穂乃果は皆の前で、この「ライブ」を「自分たちのためのライブ」にはせず「スクールアイドルのためのライブ」にすることを宣言します

ライブ当日A-RISEを含む「全国のスクールアイドル」はこの日のために用意した「衣装」を着こんでμ'sを待ち受けます。

A-RISEが告げる「我々はひとつ」という言葉。

それはμ'sの「願い」や「想い」を受け止め、同じ気持ちを共有した事を示す行為です。

また「スクールアイドル」の中にはまだ入学していない「雪穂」や「亜里沙」がいます。
そして、μ'sのピンチを度々救った「神モブ」こと「ヒ・フ・ミ」の3人もいます。

いわゆる「スクールアイドル」ではない人々も、自分の思いに賛同し、集まってくれている。

その「思い」に気付いた穂乃果は目を潤ませます。

そこに「たとえ自分たちがいなくなったとしても、輝き続ける希望」を見出したからです。

穂乃果は力強く宣言します。

「これからもスクールアイドルは続いていく 今の私たちならどこへだって行ける どんなことだって乗り越えられる」と。

いよいよクライマックス

スクールアイドルの「アンセムSUNNY DAY SONGが、世界中に向けて「鳴り響きます」

・・・本映画のハイライトになっているように「SUNNY DAY SONG」が映画内で果たす役割は非常に大きいものです。

この項ではそんな「SUNNY DAY SONG」を分解して読み解いてみましょう。

 

・「SUNNY DAY SONG」を読み解く。
ポイント①披露する舞台が持つ意味。

まずは「SUNNY DAY SONG」を披露する舞台。

映画をご覧になった方なら分かる通り、

SUNNY DAY SONG」は「アキバ」で披露されました

その理由は何でしょう。

本項前半「Angelic Angel」の項で触れた通り、「アキバ」は「NY」と同じ要素を持った街です。

そしてその街の風景をバックに披露された「Angelic Angel」が、映画の「根本的なテーマ」にも触れているとも書きました。

さらにここで披露するSUNNY DAY SONG」もまた「Angelic Angel」と「同じ精神性」を持った曲である、とも説明させていただきました。

となれば、「アキバ」で「SUNNY DAY SONG」を歌う意味は明らかです。
これは前半の「NY」でのライブを、劇中で「再現」しようとしているわけです。

しかしここには「NY」でのライブとは「決定的に違う」要素も含まれています。
それは「全国から集まったスクールアイドル」の存在です。

 

ポイント②「Angelic Angel」と「SUNNY DAY SONG」の相違点

こちらも「Angelic Angel」の項で説明させていただいた通り、

Angelic Angel」と「SUNNY DAY SONG」が持つ「根本的」なテーマは同じです。
しかし決定的に異なっているのは、「発信者の視点」です。

Angelic angel」の発信者は、ひたすらに「自分」のことを語っています
「もしも」を否定し、「もっと」を肯定するのも「自分の為」ですし、

「心の羽ばたき」を止められないのも「自分」

徹頭徹尾「個人的な感情」を歌詞にしたのが「Angelic angelです。

ただし、これはNYから帰国する前の「μ's」の視点。

この時には「μ's」はあくまでもこの「9人」で終わる…という「閉じた世界観」の中にいたからです。

しかし帰国後にμ'sを待っていたのは「大ブレイク」。

そんなブレイクの最中、「解散する」というある種の「わがまま」を通したことで、

μ'sは後に続く者への「メッセージ」を残す必要が出てきました。

だからこそ「SUNNY DAY SONG」では「後継者」へ「メッセージを呼びかける」ような歌詞が続きます。

「受け止めてあげる ここで 最初は少しためらっても
 受け止める 場所があるって もっともっと知ってほしくなるよ」

「自分から 手を伸ばしたら もっともっと面白くなるよ」

など、その歌詞のほとんどが、

「希望」を胸に秘めながら、「第一歩を踏み出せない人」への「応援歌」に変化しているわけです。

またその相違点を視覚的にも表現しているのが、「全国から集まったスクールアイドル」です。

彼女たちはμ'sの考えに賛同し、アキバに集った「フォロワー」でもあります。

その「フォロワー」たちと一緒に踊る、というシーンは「9人だけで踊った」「Angelic angel」とは大きく異なります

そこには大勢の賛同者がいるからです。

「全国からスクールアイドルが集まる」というシーンは、こういった意図を視覚効果を通して伝えるためでもあるわけです。

ポイント③「SUNNY DAY SONG」とはなにか。

先ほども書いた通り、「SUNNY DAY SONG」には「応援歌」としての側面があります。
自分自身も「輝きたい」。でも「何の根拠もないし、自信もない。」

そんな人たちへ「最初の一歩を踏み出す勇気」を与える曲になっています。

「根拠も自信もなくていい。まずは胸に芽生えた希望に従って行動することが大事」

そんなテーマを教えてくれるのが「SUNNY DAY SONG」です。

1期第8話で「μ'sを生み出した女神」である希が言った通り。

「特に理由なんか必要ない。やりたいからやってみる。」
「本当にやりたいことって...そんな感じで始まるんやない?」

それを肯定し、後に続くものたちへその「メッセージを伝える」

それがSUNNY DAY SONG」に課された役割なわけです。

どうでしょう。
こう書けばいかにこの劇場版ラブライブと「サンシャイン」が密接につながった作品かが分かるはずです。

ポイント④そして「SUNNY DAY SONG」は「希望」になる。

”・「一番楽しいライブ」へのプロットを読み解く。

 ポイント③穂乃果を「跳ばせる」要因とは何か。”

で触れた通り、映画冒頭「水たまり跳び」に挑む穂乃果の耳に聞こえてきた曲。
それはSUNNY DAY SONG」でした
映画終盤に生まれたはずの曲が、幼少期の主人公の耳に聞こえる。
明らかな「ねじれ」現象でありますが、それはこの「SUNNY DAY SONG」という曲が持つ「役割」に原因があります。

先ほども説明した通り「SUNNY DAY SONG」は「最初の一歩を踏み出す勇気」を与える曲です。
それはまさしく「希望」を象徴するもの

ここから分かるのはSUNNY DAY SONG」そのものが「希望」を象徴するもの、になったという事です

SUNNY DAY SONG」が「希望」そのものだからこそ、幼少期の穂乃果の耳にも聞こえてきたわけです。

「歌」を超えてある種の「概念」となった「SUNNY DAY SONG

それはこの曲が持つ「哲学」が「人間の根源」に基づくものだからです。

「願えばどんな夢だって叶う」と「信じたい」という「欲求」。

それは誰の胸にもかならず宿る「願い」です。

そしてそんな「願い」や「欲求」は「時代」に左右されるものではないのです。

例えμ'sが解散し、その存在を人々が忘れてしまったとしても、

一つの「歌」が「彼女達が伝えたかった願い」を「思い出させてくれる」。

「何もないはずなのに、いつも胸に宿る光」

「私たち、Aqoursはそこから生まれてきた」

「サンシャイン」13話のエピローグで千歌が語ったもの。

そんな「根拠のない希望」を思い起こさせる「願い」。

それこそがSUNNY DAY SONGであり、

だからこそ「サンシャイン」と「劇場版」は「一繋ぎの物語」になっているわけです。

 

■追記①「SUNNY DAY SONG」と「ラブライブ!サンシャイン!!」の明確な接点。

すみません。

本稿読み直しつつ、「この表現はあかんな...。」などと余裕かましつつ修正していたところ、とても大事な解説を忘れておりました。。

それはSUNNY DAY SONGが「哲学」としてだけでなく、「直接的=物理表現」的にも「サンシャイン!!」に深く関与しているというお話。

 

ラブライブ!」において「雨は停滞を意味する」というのは本稿含め何度も触れている通り。

...雨が降ると...

f:id:ishidamashii:20161026234513j:plain

f:id:ishidamashii:20161026234552j:plain

「物語」か「人物の心理状態」が「停滞する」予兆。

f:id:ishidamashii:20161026234604j:plain

(雪もあったり)

これはサンシャインにも引き継がれていて、

f:id:ishidamashii:20161026234742j:plain

f:id:ishidamashii:20161026234752j:plain

f:id:ishidamashii:20161026234800j:plain

「雨」が降るとなにか「良からぬこと」や「悲しい状況」が起きます。

そして、問題が解決した際には、「晴れ」の日がやってきます(必ずどのシーンにもある、というわけではないですけど)。

f:id:ishidamashii:20161026235902j:plain

f:id:ishidamashii:20161026235912j:plain

f:id:ishidamashii:20161026235924j:plain

f:id:ishidamashii:20161026235934j:plain

SUNNY DAY SONG」とは「希望そのもの」である、と前項にて書かせて頂きましたが、逆もまた然り。

「希望」のあるところに「SUNNY DAY SONG」も現れる。

SUNNY DAY SONG」とは直訳すれば「晴れの日の歌」となります。

「雨」の中で「停滞していた」人の気持ちに、「希望」が宿った瞬間、空もまた「晴れ」になる。

そして「晴れの日」には「SUNNY DAY SONG」が聞こえてくる。

歌詞の中に

SUNNY DAY SONG

 SUNNY DAY SONG

口ずさむ時は 明日への 

期待がふくらんで いい気持ち"

と、ある通り、「晴れ」と「希望」が直接的な因果関係を以て語られているのが「SUNNY DAY SONG」なわけです。

...さて、では「晴れ」をもっと大枠に捉え直してみるとどうでしょうか。

「太陽」が出ている日を「晴れの日」と言う、と考えれば「晴れの日」=「太陽」とも捉えられます。

また「太陽の光=サンシャイン」でもあります。

つまり「ラブライブ!サンシャイン!!」が「SUNNY DAY SONG」に密接な関係があるということは、こんな部分からも明らかなわけです。

 

またAqoursのデビューシングル君のこころは輝いてるかい?についてはどうでしょう。

同曲はそのタイトルからも明らかな通り、「SUNNY DAY SONG」のアンサーソングとして作られています。

"SUNNY DAY LIFE

 SUNNY DAY LIFE

輝きになろう"

という「SUNNY DAY SONG」からのメッセージは、

"君のこころは輝いているかい?"

というAqoursへの「問いかけ」に変化しています。

また、「SUNNY DAY SONG」は自分自身の胸の内に起こる「希望」を体現するものでもあるので、その「問いかけ」は「自分自身への問いかけ」でもあります。

故にその「問いかけ」への答えを、

"胸に聞いたら YES!と答えるさ"

という歌詞にして表現しているわけです。

 

"この出会いがみんなを変えるかな”

における出会いとは、もちろん「Aqoursメンバー同士の出会い」を示してはいますが、それだけでなく「スクールアイドル」ひいては「SUNNY DAY SONG」との出会いも表現しています。

だからこそ、このフレーズ全体は

"今日も太陽は照らしてる 僕らの夢"

と結ばれるのでしょう。

...というわけで、ことほどさように「SUNNY DAY SONG」と「ラブライブ!サンシャイン!!」の結びつきが強いというお話でした。

ただ、ここが分かれば13話における千歌のモノローグ(ラストシーンでの独り言)の意味も分かるはずですし、あの言葉に感動できると思うのです。

ここはまた13話解説で触れることにします。

 

■裏主題歌としての「As time goes by

さて、ここからはおまけに近いお話。
映画内で唯一2回登場する楽曲。それが「As time goes by」です。
これほど意味深に登場する曲にも関わらず、この楽曲に関して触れる方は少ないです。
ここではこの楽曲がもつ意味も説明しましょう。

1942年の映画「カサブランカ」の主題歌として知られるこの曲。
しかし元々はそれ以前の1931年にブロードウェイミュージカル「エブリバディズ・ウェルカム」のために描き下ろされ、ヒットした曲でした。

すなわち、この曲自体1942年の段階で「過去のヒット曲」として使用されていたわけです。

この辺り「文脈と関係なく」「時代を超えて」愛されてきた楽曲であるという点で、映画のテーマとも関係していますね。

ちなみに「As time goes by」は2014年の映画「はじまりのうた(BEGIN AGAIN)」でも重要なシーンで引用されましたね。

(3:13秒ころから)


Headphone Splitter Scene

(この映画自体非常に優れた作品なので、超お勧めです)


...「As time goes by」とは「時がすぎゆくままに」などと訳されることが多いタイトルですが、実際には「時が過ぎたとしても」と訳すのが正しいとのこと。
ここでピンときた方はいらっしゃるでしょうが、まさしくこの映画の「テーマ」そのままの曲なわけです。

この曲のポイントはもちろん歌詞。
以前にも載せましたが、再度掲載しますね。

<歌詞>
You must remember
this A kiss is just a kiss,
a sigh is just a sigh.
The fundamental things apply
As time goes by.

And when two lovers woo
They still say, "I love you."
On that you can rely
No matter what the future brings
As time goes by.

Moonlight and love songs
Never out of date.
Hearts full of passion Jealousy and hate.
Woman needs man And man must have his mate
That no one can deny.

It's still the same old story
A fight for love and glory
A case of do or die.

The world will always welcome lovers
As time goes by.


<和訳>
これだけは心に留めていて欲しい
キスはキスであり、ため息はため息
恋の基本はどの時代でもあてはまる
いくら時が流れようとも

恋人たちが恋をすると
やはり「愛してる」とささやく
これだけは間違いがない。
この先何があろうとも
いくら時が流れようとも

月の光とラブソング
すたれることなどない
人々はいつでも嫉妬と憎しみで激情に駆られる
女は男を求め
男は女を求める
誰も否定することの出来ない永遠の真理

いつの時代にも存在する物語
栄光と愛への戦い
生きるか死ぬかのせめぎあい

恋する者たちを世界は優しく受け入れる
いくら時が流れようとも


Frank Sinatra - As Time Goes By (Casablanca)


・・・どうでしょうか。
和訳詞を読んでいただければ一目瞭然。
これまで私がダラダラと書き連ねてきたお話が、この歌詞に集約されています。

どれだけ時代が過ぎたとしても、人間の根源的な欲求に変わりはない。

そんなことを示した歌詞になっています。

「いつの時代にも存在する物語 栄光と愛への戦い」なんてまさしくラブライブ!」そのものですよね。

・・・というわけで、「劇場版ラブライブ」の考察でした。

いや、改めて解説するとエライ情報量に度肝抜かれます。。
長文をここまでお読みくださったあなたは凄い!と手前味噌ですが賞賛の言葉をお送りさせていただきますw

さて、これを理解できれば、「サンシャイン」13話など、赤子の手をひねるようなもの。

いざ、クライマックス「サンシャイン」13話考察に参りましょう!!!!

・・・・でもその前に少し休憩させてください。スミマセン。。

 

ラブライブ! The School Idol Movie (特装限定版) [Blu-ray]

広告を非表示にする