Love Live!Aftertalk!

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「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター編⑧ 桜内梨子】

皆様こんにちは、こんばんは。

今回はキャラクターコラム「桜内梨子編」をお送りして参ります。

2期考察では梨子に触れる機会も多く、もはや「やりつくした感」もあるのですが...。

とはいえ、今一度これまでの記事の内容などを踏まえつつ、私なりに「桜内梨子というキャラクター」と「2期の物語」の「相関」を総括してみたいなと思います。

毎度毎度ではございますが、本稿は筆者の妄想に近いものであり、公式の設定等ではございません。予めご了承の上でお楽しみ頂ければと思います。

それでは参りましょう、桜内梨子編です。

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桜内梨子と1期

1期においては千歌と共に物語の「根幹」を担う存在だった梨子。

「スクールアイドルは自分でオリジナル楽曲を作曲しなくてはならない」

そんな高いハードルを突破するために舞い降りた「奇跡」。彼女の存在が無ければ、「新Aqours」の物語は動き出すことが出来ませんでした。

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しかし当時の彼女は「音楽を作り出すことが出来ない」状態。

音ノ木坂学院に「音楽特待生」として入学しながら、コンクールで良い結果を出すことが出来ず。その中で次第にスランプに陥り。課題曲「海に還るもの」の作曲が進まない中で、音楽コンクールでは「ピアノが弾けなくなる」という事態に。遂に決定的に「音楽が楽しめなくなった」彼女が逃げるようにしてやってきた場所が浦の星女学院。それが1期1話での彼女の現状。

つまり1期第1話の彼女は、正しくそのスランプの「まっ只中」にいたことになります。

千歌の執拗なスクールアイドルへの誘いにも応じず(というよりもスランプまっただ中の彼女には応じる余裕もなく)逃げ続ける日々。その中で千歌から教えられた楽曲「ユメノトビラ」が、彼女と「スクールアイドル」との「懸け橋」になります。

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音ノ木坂学院に在校しながら、μ'sのことを「丸で知らない」彼女。それだけ「ピアノ」へと真剣に打ち込んできた時間が長いことを示すと同時に、彼女が「新しい物事」に対して、ほんの少しだけ「臆病な人」であることを示すエピソードのように思えます。

そこで初めて触れた「スクールアイドルの音楽」が、彼女にとっての「音楽体験の原初」即ち「音を楽しむことが出来ていた日々」を思い起こさせます。

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いつしか「コンクールでの失敗」以降触れることの出来なかった鍵盤に向かう梨子。「ユメノトビラ」を弾くことで蘇る「音を楽しむ感覚」。「ユメノトビラ」を演奏する彼女はまさしく「音を楽しむ」ことが出来ていました。

それを聞いていた千歌から改めて送られる「スクールアイドル加入」への「ラブコール」。(「ピアノが弾けないこと」が彼女が「スクールアイドル入りを拒んでいた理由」の一つでもありました。)

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しかし彼女にとって一番大事なものはあくまでも「ピアノ」。そんな自分が軽い気持ちで「スクールアイドル」になって良いものか。真面目で臆病な梨子故の悩みを、千歌は「ピアノを捨てる必要はない」「またピアノを楽しめるようになった時には、ピアノに戻れば良い」と説き伏せ、手を差し伸べます。

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これまでの人生で「ピアノ」とだけ向き合い続けた梨子に与えられる「ピアノ以外の選択肢」という「可能性」。それは、これまで梨子が「考えもしなかった」事であるのと同時に、「臆病故に向き合えなかった」要素でもあるもの。

「少しでもやってみたいという気持ちがあるのなら、思い切って手を伸ばして良い。」

1期2話ラストシークエンスにおいて、千歌が梨子に向けて手を伸ばすのは、その「可能性」を肯定する為であり、梨子がその手に触れようと必死に腕を伸ばすのは「届かないであろうもの=千歌の手」に「触れようと試みて、実際に触れること」こそが「可能性の肯定」の「第一歩」だからでもあります。

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「可能性を信じるもの(千歌)」と「可能性を信じたいと願ったもの(梨子)」。

二人の指先が触れ合うことによって果たされた「可能性を願う事」と「願いが結実する事」の「肯定」によって、「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語は大きく動き始めます。

思えばこの時点で梨子というキャラクターの要素は確定しているようにも思えます。

千歌が「可能性を信じる人=未来を信じる人」であるのと対照的に、梨子は「可能性を信じたい」けれども「根本的には未来に対して臆病な人」である...ということです。

千歌がどれだけ傷付いたとしても、真っ直ぐに「未来」を信じて、突き進もうとする人であるのと対照的に、梨子は「信じた未来」に「手が届かない」場合には、ほんの少し「未来を懐疑的」に見てしまう、ある種「現実的な人」でもある。

この差異を念頭に置いた上で梨子の物語を読み解いてみると、彼女にとっての「2期の物語」がどういうものなのかが、更に見えてくるように思えるのです。

 

桜内梨子と1期終盤~2期序盤

Aqoursとして活動する中で、「ピアノコンクール」と「海に還るもの」という二つの「カセ」をクリアすることが出来た梨子。

それはAqoursとしての活動および千歌の後押しがあったからこそ。そんな感謝を伝えるために「海に還るもの」を編曲し「想いよひとつになれ」という楽曲へ変え、Aqoursへと渡した梨子。

Aqoursは8人でのパフォーマンスというハンデを抱えながら、本楽曲の力もあって見事地方予選を突破しました。

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更にそれまで行くことが出来なかった母校=音ノ木坂へ赴き、感謝を告げることで改めて「自分達だけの道」を走ることの意味に気付き、その思いを「MIRAI TICKET」へと託し、東海地区予選へと挑む。

しかしながら、東海地区予選では惜敗。Aqoursの「ラブライブ優勝」への道は一旦閉ざされてしまいます。

そんな中でも1期13話で願った「説明会応募生徒を0から1にする」ことは達成。「叶えたい未来」を小規模ながら叶えていく事で、自らが望む「未来」そしてその先にある「輝き」へとほんの少しだけ近づいている。そんな実感がAqoursの推進力にもなっていました。

しかし、そんな中明らかになる浦の星女学院の統廃合問題」

間もなく「学校が無くなってしまう」という事実。

1期で約半年をかけてようやく「0名」から「1名」に増やした新入学候補生。その努力と成果を一瞬で「ひっくり返してしまう」ような出来事。

東海地区予選敗北で「強く願ったとしても、必ずしも望んだ未来に手が届くとは限らない」ことを実感していたとはいえ、更に追い打ちをかけるようなこの一件。さしもの千歌が打ちのめされる中で、梨子は当然「未来に対して臆病」な一面を表出させます。

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「どうすればいいのか分からないの」

 

梨子の本質は「未来に対して臆病な人」である。けれども彼女は千歌のように「未来=可能性を信じる人」になりたいと思っている。しかしながら「現実」がその「意志」に「歯止め」をかけてくる。

梨子の内面に起きた「自問自答」。それは2期1話以降時折顔を出すようになります。

特に象徴的なのは2期3話。

「学校説明会と地方予選、どちらを取るべきか」という局面で、「チームを二手に分ける」ことを立案。「これで本当に良かったのかな?」と問う千歌と曜に対し...

「良くはない。けど最善の策を取るしかない。」

「私たちは奇跡は起こせないもの。」

「この前のラブライブの予備予選の時も、学校の統廃合の時も...」

「だからその時の一番いいと思う方法で精いっぱい頑張る。」

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「可能性を信じること」を「肯定したいから」こそ、「全ての可能性」が「達成されうる」「現実的な最善策」を取ろうとする。

しかし本当は「両方が大事」なのだから、「両方を成立させる」「理想的な方法」を取りたい、とも思っている。けれども梨子にはその「理想」を「追いかける」勇気がない。

そんなジレンマがこの一連のセリフから滲み出ているように思えます。

とはいえ、梨子自身はこの選択肢を「良くはない」と断言しており、そこからは梨子自身が本質的には「どのような考え方を理想としているのか」に関しての回答が示されているようにも思えます。

 結果的に梨子のこの「決定」の善し悪しは、「学校説明会組」が「地区予選組」に合流してしまったこと。更には「千歌の足掻き」によって「両ライブに9人で主演する」という「奇跡が達成されてしまった」ことによって、有耶無耶になってしまうわけですが...。

とはいえ、梨子自身はなんともいえない「モヤモヤ」を抱えたままこの後の日々を過ごしていくわけです。

しかしその「モヤモヤ」がとある「出会い」とそれを巡る「出来事」によって解決されていく。

その転換点となるのが2期5話「犬を拾う」なのだと思います。

 

 ■桜内梨子と「必然」

善子が拾った犬「ライラプス」a.k.a「ノクターン」。

ちょっとした「偶然」から、一時的にこの「犬」を預かることになる梨子。

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※犬が「苦手」な梨子。何故彼女が「犬を苦手なのか」に関しては具体的な説明は為されませんでした。

(梨子と犬に関する「ちょっとぶっ飛んだ考察」に関しては2期5話記事でかまさせて頂いたので、ここでは触れずに参ります。興味がおありの方は是非下記をご一読くださいませ。)

この回において「犬」と「梨子」の関係はとても重要なのですが、もう一つ重要なのは梨子が「善子の思考に触れた」事なのだと思います。

ライラプス」a.k.a「ノクターン」こと「あんこ」を巡る一連の出来事の中で梨子が知ったのは、善子の「過去」と「ヨハネ」という存在の持つ意味。そして善子自身の「人生観」でした。

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子供の頃から「不運」に見舞われ続けた善子。しかしその「不運」を「善子」という人が「不幸」だからこそ起きうる「運命」なのだと捉えたくない。

それでは「津島善子」という人物は「運命に翻弄される」「不運なだけの人間」になってしまう。それを受け入れることを善子は「拒絶」しました。

故に善子は「堕天使ヨハネ」という自分の「別人格」を設定し、その「人格」が「不運に愛された存在」だからこそ自分は「不運」なのだと捉えなおす。

即ち自らの身に起きる「偶然」を「偶然」として受け入れず、自らの在り方に基づく「必然」なのだと捉え直すことにしたわけです。

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こう捉えなおすことで、善子は「自分の身に起きる全て」を「必然」なのだと捉えなおすことが出来るようになる。それは「未来」に関しても同じで。

つまり仮に「今」は「失敗」に見える「結果」でも、「未来」においてなにかを「成功」へと導くための「必然」なのだ...と捉えなおせるようになったわけです。

「良いこと」も「悪いこと」も、全てに「意味」がある。だからそれらを全て「受け入れて」生きる

とてつもない「ポジティブ思考」ではありますが(笑)、とはいえこれが梨子にとっては福音となります。

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「可能性を信じる人になりたい」けれども根本的には「可能性を信じられない」梨子にとっては、「結果の決まっていない未来」を闇雲に信じることが出来ない

だからどうしても、目先の「過程」や「結果」が気になってしまう。また一度の失敗に深く落ち込んでしまったりもする。

けれどもそうではなくて、「トライした結果」は「良い結果」だろうと「悪い結果」だろうと、必ず「未来」へと繋がる「必然」になるのだと捉えなおす。

そうすることで自分の「行動」そのものを「肯定」出来るようにもなる。

仮に「悪い結果」が起きたとしても、それを「自分が信じて選んだ上での結果」なのだと考える。

すると「悪い結果」が「悪い結果」としての意味だけでなく、「自分が望んだ未来」へと繋がっていく「必然」としての意味を持つ存在に変わっていく

自分の「決定」をそう捉えなおすことが出来れば、自分が「叶えたい」「可能性」へと、真っ直ぐに向かって行ける。

憧れた「千歌の在り方」と、過程は違えど繋がっていく「思考方法」。

それを手に入れたことで、梨子は大きく成長を果たしていくことになります。

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2期5話において「それどういうオチやねん!」などと突っ込まれた「梨子が犬に触る」というラストシークエンス。

しかしここには、善子の「思考」に触れることで、「今」の自分の「在り方」を「変える」ことが出来た梨子の「変化」が象徴されています。

これまで逃げ続けた対象に、自ら「腕を伸ばす」。そこには「無謀な可能性」へと踏み込めなかった梨子の、彼女なりの「小規模ながら大きな成長」が示されているのだと思うのです。

 

桜内梨子と「全てに意味がある」

2期5話で印象的に語られた「全てに意味がある」という言葉。これは2期における梨子の「キーワード」へと変わっていきます。

自分が選ぶこと、選んだこと、その全てを「必然」なのだと捉えなおすことが出来るようになった梨子。彼女が「肯定」出来るようになったのは「可能性=未来」だけでなく、これまでの「結果=過去」でもあります

1期物語終盤において「海に還るもの」を完成させ、「ピアノコンクールでの優勝」も果たした梨子。私は2期予想記事において「もはや梨子が浦の星に居続ける必要性は無くなった」と書きました。

結果として2期で梨子が「音ノ木坂に復帰する」という物語は描かれませんでした。しかしながら梨子の内面には少なからず「このまま浦の星にいることが自分にとってプラスになるのか」という葛藤もあったのだと思うのです。

もちろん「Aqours」としての活動も、「浦の星女学院の仲間と過ごす時間」も尊い

けれども第1項で書かせて頂いた通り、彼女にとって最も大事なものは「ピアノ」である。これはいかに様々な出会いを経たとしても変わらないもの。

だとすればこの1年を浦の星で過ごす...ということが「ピアノを専攻する」うえで「マイナス」にはならずとも「プラス」にはならない。

冷静でリアリスティックな梨子であれば、頭の片隅でそんな風に感じてしまうのではないかな?とも思うのです。

しかし2期5話で「必然」の意味を知り、その中で「自分の過去」および「これから自分が選んでいく選択肢」全てに「意味がある」のだと悟った梨子は、自らの直観を信じて「スクールアイドル」として、「Aqours」として、「浦の星女学院の生徒」として過ごす「今」を「選ぶ」。

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これまでは選べなかった「自らが信じる理想」に殉じるという「選択」。

それは「過去」を肯定できるようになったからこそ選べる「今」でもあるように思えます。

「千歌」や「スクールアイドル」との出会いがあったからこそ、もう一度「ピアノ」と向き合えている「今」があること。

それだけでなく、「音ノ木坂での葛藤の時間」や「東京から内浦に逃げるようにやってきた時間」といった「辛い過去」があったからこそ、「千歌たちと出会えた」「今」があること。

「良い過去」も「辛い過去」も、その全てを「今に繋がる必然」なのだと捉える。そうすることで自分の「今」をも「全力で肯定する」ことが出来るようになる

その集大成が2期12話での独白なのだと思います。

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選んだ「今」を「必然」に変える為に。

「自分の選んだ道」が「間違いではなかったこと」を証明する為に。

「ピアニスト」を目指す上では回り道になったはずの「スクールアイドル」としての時間に「未来への必然」としての「意味」を与える為に。

全ての「過去」の着陸先としての「今」を、そして自らが選んだ「未来」を、全力で「肯定する」ために。

ラブライブ」で「勝つ事」。「スクールアイドル」を「全力で楽しむこと」を宣言する。

 

「だから勝ちたい...。」「ラブライブで勝ちたい!」

「この道で良かったんだって証明したい!」「”今”を、精いっぱい全力で!」

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「心から...スクールアイドルをやりたい!」

そう宣言する。

 

「理想の在り方」と「現実性」との間で悩み続けた梨子がたどり着いた「自らの今」に対する全力の「自己肯定」。

この台詞からは、2期における梨子の「成長」の全てを実感することが出来ます。

 

「過去」を見つめ、「今」を見つめることで、「未来」を描くことが出来る。

決戦の曲「WATER BLUE NEW WORLD」にも通底する世界観。

「イマを重ね そして 未来へ向かおう」

そんな楽曲のメッセージと、梨子の「進化」とは決して無関係では無いと思うのです。

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ということで、2期総括桜内梨子編でした。

正直網羅しきれていない部分もありますが、他の梨子に関する要素は下記に書かせていただきましたので、是非こちらにも目を通して頂ければと思います。

さて、長く続いてきたキャラクター編もいよいよ次回がラスト(?)。

大好きな高海千歌編です!

1期でも2期でも常に千歌が中心にいた「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語。2期では特に彼女の「人間味」が溢れ出て、結果的に千歌を「苦手」に感じる人も出てしまったようですが、僕は彼女の「そんな所」こそが魅力なのだと感じています。

その辺しっかりお話できればと思っておりますので、是非次回もお付き合い頂ければ幸いです。

今回も長々とおつきあい有難うございました!

 

 

 

 

μ'sの話をしようじゃないか。~青春を呼び起こす「神話」或いは「寓話」としての「ラブライブ!」~

今年の4月1日で「μ's Final LoveLive!〜μ’sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪〜」開催から丸二年になる。

ということで、トリスさん(a.k.a生春さん)主催の企画が勃発したので、僕も乗っからさせてもらう。

 

 

ちょっとした昔話をしよう。

ハッキリ言って自分語りだ。

自分で後から読み返しても、恐らく「こりゃどうなんだ?」と思う内容だ。

だから興味の無い方はそっとブラウザのバックボタンを押してもらって構わない。

何の話かと言えば、主にμ'sと僕とのとても個人的なお話。

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今から3~4年前。

僕は転職の結果、某ゲームメーカーの営業マンをやっていた。

子供の頃から大好きだったメーカーで仕事をする。

やる気とやり甲斐に満ち溢れた時期。

反面大学時代にアニメ・マンガから縁遠くなっていた自分には、難しい局面もあった。

特にアニメを見なくなって久しく。

「この作品はこのアニメの声優さんを起用しているんです!」というセールストークが理解は出来ても、自分の体に染みこんでいかない。

それ故に営業トークを上手く展開出来ない悩みも抱えていた。

そんなまんじりともしない時期、僕の会社が関わる作品の声優に「ラブライブ!でお馴染みの声優さん」が起用される...というプレゼンがあった。

正直なところ、その頃まで「ラブライブ!」という作品の存在は知っていても、なんの興味も持っていなかった。

持っていたのは「女児向けのアイドルアニメ?」くらいのヌルっとした印象だけ(本当にスミマセン)。

しかし同時に「ラブライブ!」が「人気のある作品」であることも理解していた。

それはなぜかと言うと、当時商品会議の為に秋葉原に通う機会が多く、街中には「ラブライブ!」と「μ's」が溢れていたからだ。

「オタク世界の潮流を知るのならまずアキバの街を見るべし」というのは、その頃からの座右の銘だけども、この時期のアキバは間違いなく「ラブライブ!」と「μ's」に支配されていた。

お客さんに説明するには、まず自分に情報を落とし込まなければ納得のいくレベルの話は出来ない。

そんな仕事上の使命やら前段のモヤモヤ込みで、僕はまず「ラブライブ!」を勉強しようと心に決めたわけだ。

いや....もちろん...それだけではなくて、単純な興味もあって。

というのも「その時流行っているものには、必ずなんらかの理由がある。だとすればそれは探るべき価値がある」と思っていたから(これは今でもそう思っている)。

なにはともあれ、僕が「ラブライブ!」を見るきっかけは、そんな些細な出来事だった。

 

「見るのならしっかり見よう」ということで、DVD(1期)を全巻レンタルし、夜10時くらいからボンヤリと見始めた。

第1話の軽妙な語り口、シンプルな設定説明、キャラクター紹介に引き込まれた。

キャラクターデザインが極めて美麗だったり、特徴的なわけでもない。

その性格にも特殊性があるわけでもないけれど、それ故に生まれる彼女たちの「身近さ」が心地よかった。

そして、第1話の「終わり方」。

唐突に始まる「ミュージカル」。道路に飛び出して歌い踊る穂乃果たち。その表現の爆発力。

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「ミュージカル作品」では度々見かけるものの、「アニメ」ではあまり見た記憶の無いもの。

「理解しなくても良い!感じてくれ!!」と言わんばかりの大胆な手法。

その表現に、グっと心を掴まれた。

「この作品。まだよく分からないけど、只者ではないな...。そして単純に好きだな。」

そう感じた。

 

そして第3話だ。

それまでなんだかんだ「まぁ、このリアリティラインのアニメですよねー」くらいの軽い気持ちで見ていた自分をグッと「現実」へと引き戻した「観客0」。

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あんまりだ。

10代の少女たちがこんな仕打ちを受けて良いのか。

確かに「廃校」がささやかれるような現状で、生徒数も減っている。それは分かる。

それにしたって、もう少しなんとかなったって良いじゃないか。いくらなんでも「0」は無いだろうよ...と。

もちろん現実的に考えれば「0」という局面は想像しづらい。

普通だったらパラパラとでも人はいて良いはずだ。

だとすれば、これは「作劇」において、局面を際立たせる為の演出である。

もちろん、そんなことは初見でも分かっていた。それでも感情が納得しない。

穂乃果、ことり、海未の3人にすっかり入れ込んでいた自分には、あまりにも彼女たちに突き付けられた「現実」が残酷すぎた。

そして残酷過ぎるが故に「なんて素晴らしい作品なのだ」とも感じてしまった。

おためごかしの「甘やかし」はなく。

ただただ「厳しい現実」そのものをダイレクトに突きつけて、その上で「それを超えていこうとする」「勇気ある人々」の物語を描こうとしている。

その「妥協の無い物語作り」を前に、僕はいよいよ「ラブライブ!」を舐めるのを止めた。

僕と「ラブライブ!」の日々が、こうして始まった。

 

3話を境に歯止めがきかなくなった。

最終回13話までを夜中の内にぶっ続けで見た。

花陽の決意に涙し、にこの苦悶に涙し、希の思いに涙し、絵里のやるせなさに涙した。

No brand girls」の熱さに狂喜し、「僕らのLIVE 君とのLIFE」の登場に歓喜した。

9人で歌う「START=DASH!」に号泣した。

ことりの決意と穂乃果の激情に戸惑いつつも、それでも見事に「ほんのちょっとの達成と進歩」を描き切った物語に感動した。

気付くと空は白み、朝になりつつあった。

アニメを見て徹夜するなんて、本当に久々だったけども、後悔はなく、ただただ達成感しかなかった。

時計は早朝5時を指していた。

僕はアイドル好きの友人数名にこの興奮をLINEした。

「おい!ラブライブ!が凄いぞ!!」と。

「とりあえず騙されたと思って3話まで見てくれと!」と。

そんな内容の長文LINEを送りつけた。

とんだ迷惑だっただろう。しかし情熱とは大概ほとばしるもので、頭の中は冷静でも、行動を止めるリミットが働かなくなるものだ。

とはいえ、結果的にその時連絡したうちの1名が「ラブライブ沼」にどっぷり浸かり、今でも一緒にライブに行ったり、沼津に行ったりしている。僕のあの時の「間違った情熱」は伝播されてしまった。恐らく似たケースが日本中の、あるいは世界中のそこらかしこにあったのではないか。時空も時間も飛び越えて。

 

そこから間もなく2期を見終え。

そのタイミングでようやく「プロジェクトラブライブ!」の現行タイムラインに追いついた。

「劇場版」の公開日には初回上映を予約し、IMAX2D版をほぼ最前で鑑賞した。

正直に言うと期待していた内容とは少し違った。

初っ端の映画に対する自分の評価は「80点」だった。

とはいえ、どことなく真価を理解出来ていない気がして、その不明点を解明しなくてはいけない気になった。(これは映画好き故かもしれない)

結局、それを解明するために劇場に9回も通った。見れば見るほど分かってくる内容に興奮し、初めはピンとこなかった物語が自分なりに理解できた。

それにつれて「SUNNY DAY SONG」が大好きになっていった。

本格的にラブライブ!に魅了されたのは、この「劇場版」があったからこそなのかもしれない。

だからこそ僕にとってはこの「劇場版Love Live! The school idol movie」はとても思い入れのある作品と言える。

気付くとその年の年間ベスト映画に選ぶ入れ込みようだったけれども、反面ネット上での評判の悪さが気になって仕方なかった。「いつかラブライブ!専用のブログを作ってそこで反証してやる」そんな暗い野望が、このブログの出発点にもなっていたりする。

 そんなこんなで今に至り、僕は今でもラブライブ!について、あーでもない、こーでもないと妄想を垂れ流している。

その原点はもちろん「μ's」であり彼女達の物語である「ラブライブ!」という作品にある。

 

                 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪

 

μ'sの物語が何のために存在するのか。

「夢は願えば実現する」「だから夢見ることを止めるな」

何故2013年という時期に、こんな「普遍的」で「今更感」すらあるテーマをもった作品が作られたのか。

そんなことをボンヤリ考えることもある。

個人的に感じるのは、恐らく僕らには(いや、僕らよりも若い人たちには)ある種の「神話」や「寓話」が必要だったのだ...ということだ。

何をしても褒められず、全てのイノベーションは終わり、夢を語れば「現実を見なさい」と言われる。

「現実的」という名の「ニヒリズム」が支配する世の中で「夢」を叫ぶことは、そして「夢は願えば叶う」と「叫ぶ」ことは、とても勇気がいるはずだ。

「夢」を声高に叫ぶやつは「バカ」だとさげすまれ、陰口をたたかれる。

特に2011年の震災以降、その風潮は更に増した体感がある。

とんでもない「現実」を突き付けられた時、人はどうしても「現実的」にならざるを得なくなる。それは分かる。僕もそうだった。

でも、そんな世の中じゃ、なんの「望み」も湧いてこないじゃないか。

だからこそ、現実を超越する為の、ちょっとした「うつつ」が必要だったのだ。

「夢は持つものだ」「夢は願うものだ」そして「夢は願わない限り叶わないのだ」。

そんな「当たり前」を「断言」し、「肯定」してくれる「うつつ」を時代が求めていたのではないか。

もちろん「大抵の夢は叶わない」し、「願いもかなわない」。

それでも「夢」を叫ばなければ、「夢を叶える」一歩目にも立てない。

「うつつ」を抜かすものは確かに愚かかもしれないが、彼らが「うつつ」を抜かす対象は「夢」だ。だとしたら「夢を見ない現実主義者」よりも「夢にうつつをぬかす愚か者」の方が、より多くの「可能性」を秘めているのではないか。

もちろん、それが「正解」かは分からない。

しかし、少なくともラブライブ!」はその「可能性」を「肯定」した。

そしてその「可能性」を信じる「勇気ある人々」を「肯定」した。

だからこそ、ここまで多くの「若者」に受け入れられたのではないか。

そう思える。

ラブライブ!」が続編である「サンシャイン!!」と比べると、どこか「教義的」なのは、この物語が「願いを肯定する神話ないしは寓話」として作劇されているからだ。

彼女達は等身大の我々と同じ「迷える人間」で、だからこそとても俗な悩みをもったり、行動をしたり、それによって過ちを犯してしまったりはする。

けれども最終的に彼女たちが「敗れる」物語は描かれない。

それは、彼女たちが「勝つ」ことでしか「可能性の肯定」は果たせないから。

「夢を願って」「夢に突き進んだ人」はかならず「夢を実現させる」。

その「あらまし」を、彼女達の物語は描く必要があったから。

そこが「μ'sの物語」の特徴であり、「μ'sの物語」である「ラブライブ!」が「神話的」ないしは「寓話的」であると僕が感じる所以だ。

もちろん、僕個人の感じ方なのだけど。

 

                ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

 

「終わらない青春はここにある」とμ'sは言った。

それはμ'sの物語が「青春」を呼び起こすトリガーとなり得るからなのだと僕は思う。

「今」夢見ることを、「今」夢を叫ぶことを恐れている若者だけではなくて。

「かつて」「夢を見ることを規制された人」や「夢を見る余地も無かった人」や「夢に一度敗れてしまった人」が、「ラブライブ!」と「μ's」の物語と出会うことで、今一度「青春」と出会うことが出来る。

 

「青春」とはつまり「無謀」であること。

ニヒリズム」に負けずに「夢に向かって、バカ正直に突っ走ること」。

彼女たちの「寓話」が、「神話」がそこにあり続ける限り、いつでも「誰か」の「青春=無謀」を喚起させることが出来る。だからこそ「終わらない青春はここにある」と彼女たちは言う。

高坂穂乃果を演じた、新田恵海ラブライブと出会った瞬間が、その人にとってのラブライブの始まりである」と語ったように。

 

 「大好き」なものがあることは、実人生においても「エネルギー」となり得る。

諸々の事情はありつつだが、より自分自身の人生を「豊か」にするために、僕はもう一度転職した。おかげさまで健康的な生活を送れるようになったし、趣味に使える時間が格段に増えた。僕には仕事のやりがいプラス、やはりこの「時間」が必要なのだった。

 

ちょっぴり余裕が出来たので「Love live!After talk!」というブログを始めた。

ただただ「ラブライブ!」のことを「好きだ」と言うだけの特化型ブログ。おかげさまでこのブログの更新は、僕の人生においてはちょっとした「生きがい」になっている。

「Love Live」即ち「人生を愛せ」とラブライブは語る。

だとすれば、僕は「ラブライブ!」と出会ったことでその価値を見つめ直せた。そしてブログを通して、その「願い」を実践できている。そんな気がする。

 

あの東京ドームから丁度2年の時が経ち、改めて自分と「ラブライブ!」との関係を見つめるなかで、とても当たり前のことを思い出した。

僕は「μ's」が、「ラブライブ!」が大好きであるということ。

彼女達の物語に胸を熱くし、思いを馳せた期間は決して「過去」なのではなくて、今なお息づいているという事実。

それを思い出すきっかけを与えてくれた本企画に心から感謝を。

そして、

ありがとうμ's。ありがとうラブライブ!

これからもずっとよろしく。

 

2018年 4月1日 

「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター編⑦ 松浦果南】

皆様こんにちはorこんばんは。

今回もキャラクター編を引き続きお送りして参ります。

このキャラ特化篇もそろそろクライマックス。残り3名となってきました。

今回は2期における「もう一人の主人公」と呼んで差支えない人物、松浦果南編です。

1期では物語に絡むタイミングが遅く、彼女のパーソナリティが語られる回数は決して多くありませんでした。それは総じて果南が物語に絡むということは「旧Aqours」の物語と無関係ではいられなくなるから...という理由もあったわけですが。

反面2期では「旧Aqours」(3年生組)の物語が積極的に語られていく中で、「過去」と「今」が交錯していく物語が語られました。その中で果南という人の「パーソナリティ」も部分的にではありますが、描かれていきました。

今回は2期における果南を巡る「過去」の物語を紐解きながら、彼女にとっての「2期の物語」の「意味」みたいなものを考えてみたいなと思います。

毎度の如く私個人の思考に過ぎませんが、ぜひお時間が許せばお付き合い頂ければ幸いです。

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松浦果南と「カセ」

Aqoursの発起人の一人である果南。

AqoursAqoursでしか無いのですが、同じ名前で表記すると混乱するので、果南たちが作ったAqoursを「旧」、千歌が結成したAqoursを「新」と呼びます。他意はございません。)

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本質的な発起人はダイヤなのかもしれませんが、実質的な「スクールアイドル活動」においては、果南が「センター」を務め、パフォーマンスやフォーメーションの立案なども行っていた事実を踏まえると、活動の中心にいたのは果南である...と考えて問題ないでしょう。

残念ながら「旧Aqours」がどのような楽曲を披露し、どのようなパフォーマンスを見せていたのか...に関しては、最後まで具体的なシーンは描写されませんでした。

ただし、2期6話ではかつての「フォーメーションノート」が登場。その「難解」なパフォーマンスを達成するために、鞠莉が「ケガをしてしまった」という事実も明らかになったように、「旧Aqours」は相当「意識の高いグループ」であったことは想定できます。

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反面果南はそんな「意識の高さ」と「ハイパフォーマンス」を誇った「旧Aqours」という「過去」をあまり快くは感じていません。

1期12話ではライバルグループである「Saint snow」を「1年の頃の私みたい」と評して軽い嫌悪感を示し、2期6話でも同グループの話題が出ると苦い表情をして練習部屋を出て行ってしまいます。

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また同じく2期6話では、予選突破に有効となるはずのフォーメーションノートを忌み嫌い、最終的には海に投げ込んでしまいます。

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こういった一連の彼女の反応や行動から感じるのは、果南が「過去」を「疎んじていて」「今から切り離したい」と思っているという事実です。

ここから分かるのは、彼女の物語にとっての「カセ」とは、この「疎ましく感じている過去」であること。

そして彼女個人の「達成」とは、果南がいかにしてこの「過去」を「受け入れて」「前へ進んでいくか」という事である...ということが分かります。

つまり、この道筋を辿っていけば、自ずと2期における「果南の物語」の「本質」も見えてくるということになります。

となると、まずは「何故果南が過去を疎ましいもの」と感じるようになったのか。その理由を紐解かねばならないかもしれません。

 

松浦果南と「過去」

元々「竹を割ったような性格」で「細かいことを気にしない」はずの果南。幼少期の描写からもその片鱗が伺えます。

裏表の無い性格...というだけでなく、人見知りせず、誰とでも仲良くなろうとする。身体能力が高く人望もあるが、それをひけらかさず、ダイヤとは違う意味で人を導いていけるリーダー。それが果南です。

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細かいことは気にせず、「楽しいと思う」ことには積極的に飛び込んでいく。ダイヤが発想した「スクールアイドル」に挑戦したのも、深い意図はなく「楽しそうだったから」というだけなのでしょう。

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親友3人で取り組む「楽しいこと」の延長線にあった「スクールアイドル」。初めは興味を示さなかった鞠莉を半ば強引に加入させたように、果南は「スクールアイドル」の「楽しい面」だけを見つめていました。

しかし「スクールアイドル」全体のレベルが上がったことで、思うようにいかない活動の中、徐々にAqoursは「果南の身体能力に合わせた」「ハイパフォーマンス」を志向する、「意識の高いグループ」へと変化。それを追求する中で、いつしか「楽しいこと」という要素は消え失せて行ったのではないでしょうか。

そんな中パフォーマンス途中で鞠莉がケガ。更に鞠莉が「スクールアイドル」としての活動を優先するあまり「留学」という「自分の可能性」をも捨て去ろうとしていたことを知ってしまいます。

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自分の思いを優先させるあまり、それが誰かの可能性を「阻害」したり、大切な人を「傷つけてしまう」こと。それを知ったことで、果南は自らの「スクールアイドル」としての取り組みを「憎む」ようになっていき、その帰結として「旧Aqours」の活動は停止していく。

そしてその決断が結果として親友3人の「関係性」をも「破壊」していく。

1期では最終的に千歌、そしてダイヤの取り組みのおかげで、果南と鞠莉のすれ違いは解決。1年のブランクを経てAqoursは「再始動」したわけですが、果南にとって「旧Aqours」とそれに「関連するもの」は、「過去に鞠莉を傷つけた」存在として、二度と触れたくない「トラウマ」へと変化していったのではないでしょうか。そしてそれは2期開始後にも解決していない「シコリ」として果南の心には残っている。そしてそれこそが果南の「カセ」になっているのだと思えます。

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また果南にとってはもう一つ「過去」と関連する「カセ」があります。

それは果南が過去に影響を与えた鞠莉以外の「もう一人の人物」に関して。

つまり千歌の「在り方」に関してです。

幼少期、何をするにも臆病だった千歌に、「挑戦すること」の「意味」と「価値」を伝えたのは果南でした。

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浅瀬にすら飛び込むことを躊躇っていた千歌に、勇気を持って飛び込むべきだと語ったのは幼少期の果南。

「今やらないと後悔する」

その言葉に従うように、海へと飛び込んだ千歌。それ以降、千歌は「何事にも挑戦する人」へと変わっていきます。

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そんな「普通」の千歌に「勇気」を与えたきっかけとなったのは、他ならぬ果南なのです。

とはいえ、その後の千歌がどうなったか。

家族や曜が証言するように「あらゆることに挑戦する」けども「上手くいかず」「途中であきらめる」という過程を経て、いつしか「飽きっぽい」というレッテルを張られるに至ってしまいました(曜はその認識を否定していましたが)。

また、「様々なこと」に挑戦しながらも、常に「敗れ去り」「傷付く」千歌を、恐らく果南も見つめてきたはず。故にそんな千歌の在り方を、どこか「痛々しく」感じていたのではないかなとも想像できるのです。

つまり2期において果南が抱えている「過去にまつわるカセ」とは「旧Aqoursであり「千歌の在り方」である...とも考えられるわけです。

 

松浦果南の「罪」

上記二つの「過去にまつわるカセ」とは、言い換えれば果南にとっての「罪」でもある。

自らの配慮の足りなさ(と果南が感じている要素)が生み出した「カセ」であり、それが千歌、鞠莉にとっての「呪い」のようなものになってしまっている。そして結果的にそれを二人に与えてしまったことが果南にとっても「罪」になっている...という風に捉えられるからです。

しかし2期6話では、地方予選突破のために、「旧Aqours」のフォーメーションノートを「千歌」に渡す...というミッションが発生する。

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これは即ち「旧Aqours」と「千歌」とが重なり合うことになる。

つまり果南が抱える「カセ」2つが重なり合うことにもなるわけです。

そうなると果南が抱える「罪」もまた重なり合い、果南はそれと「向き合う」必要が生まれてしまうわけです。

「新Aqours」加入後から、なるべく直視せず、避けようとしてきた「自らの罪」を、「直視」せざるを得なくなる。これはなかなかに「キツい」状況といえます。

Aqoursが勝利するために「必要」なものを、何故果南が「頑なに拒むのか」。

2期6話を見ただけでは掴めないその理由も、果南の「過去」を遡って考えてみることで、少し分かってくるように思えるのです。

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物語において発生している「カセ」は、なんらかの行動をもって「回収」されていく。これはあらゆる「物語」の基本です。2期6話は、そんな果南の「カセ」を「回収」するために用意された回でもあるのです。

 

松浦果南と「救い」

千歌の挑戦と数多の失敗を見つめる果南。その視線がどことなく冷やかなのは、やはり千歌の姿に自らの「罪」を重ねてしまうから...なのかもしれません。

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自分が千歌の「在り方」を決定づけてしまったから、千歌は永遠に「挑戦」を止めようとしない。「出来ること」と「出来ないこと」の境目が分からず、「出来ないこと」の前に敗れて「傷付き」続ける。そんな千歌を形作ったのは少なくとも自分にも原因がある。そんな風に感じていたのかもしれません。

しかしここで初めて曜と梨子から「普通怪獣」という単語とその説明を聞くことで、果南に一つの「変化」が訪れます。

「普通怪獣」とは、「普通の自分」というものを十分に「理解」したうえで、それでも「挑戦すること」を止められない「怪獣」であり、千歌はそれを「自称」している。

即ち千歌は「出来ること」と「出来ないこと」をある程度理解しながらも、「出来ないであろうこと」にも「果敢に挑む人」なのである...ということをようやく「理解」するに至るわけです。

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ここで果南に訪れる心的変化とは、自らが千歌にかけていた「バイアス」に関してのものでしょう。

果南は千歌が「出来る事と出来ない事が分からない」のに、「挑戦し続けて」「敗れて」「傷付いている」と思っていた。即ちそれは、千歌の「能力」を「下に見ていた」とも言えるわけです。

けれども本当は、千歌は「そんなことは理解したうえ」で、それでも「自分の可能性を信じて」「挑戦する人」であったことを理解する。

ここで果南は自らの千歌に対しての「不理解」を恥じると共に、自らが千歌に感じていた「罪」もまた「誤解」であったことを思い知るのではないかな?と思えます。

千歌に対する果南の「意識付け」は確かに作用しているけども、それが千歌自身の「思惑」を凌駕するようなものではないこと。

それはつまり、果南にとって「自意識過剰」を正す効果ももたらしたかもしれません。

果南から千歌に告げられる「タイムリミット」。何故急にそんな宣告が為されるのかと言えば、その方が「千歌が燃えるから」にほかありません。

これはかつて曜が言っていたことと同じ理屈。即ちこの時点で果南は千歌を「舐めていた」自分を改め、千歌の可能性を「信じる」方向へとシフトチェンジした。

その宣言こそが「タイムリミット」なのではないかなと思えるわけです。

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翌朝。果南の前で見事にパフォーマンスを成功させる千歌。

その千歌に対して「ありがとう。千歌」と語りかけるのは、「千歌」の行動そのものが果南を救ってくれたから...にほかありません。

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「旧Aqours」を崩壊させた原因だと果南が思っていた「難解なパフォーマンス」。しかし、それは「果南でなくては出来ない」パフォーマンスなのだと、果南自身が「思い込んでいた」から。それもまた「自らの能力」を過信したうえでの「思い上がり」でもあったわけです。

けれども、それを「普通」の存在である千歌が、「努力」と「意志」を以て達成していく。そしてその「努力」と「意志」の根底には、果南が与えた「きっかけ」がある。

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即ち、千歌がこのパフォーマンスを「成立」させることは、果南を縛っている「カセ」から「解放」する行為であると同時に、果南が拒否していた「過去」を一部「肯定する」意味をももたらせるわけです。

要するにこの「成立」を以て、果南は明確に「救われていく」。だからこそ、その「救い」を与えてくれた千歌に、「ありがとう」と告げるわけです。

また、このパフォーマンスの成立は同時に、今まで分断されていた「旧Aqours」と「新Aqours」とが「繋がっていく」きっかけにもなる。

結果としてこのパフォーマンスが2つのAqoursを「繋げた」ことで、Aqours前回超えられなかった「地方予選」という大きな壁をも超えていくわけです。

果南の「カセ」が解決する...ということは、分断されていた2つの「Aqours」が繋がり、一つになることも意味する。

故に果南の物語とは、2期において非常に重要であり、だからこそ果南は2期での「もう一人の主人公」に相応しいと感じるわけですね。

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松浦果南と「今」

2期6話をきっかけに自らを縛っていた「過去」から解放された果南。

彼女にとっての「スクールアイドル」としての物語は、実のところここで一旦の「終了」を迎えているのかもしれません。

かつて「面白そう」という理由で始めたように、果南にとって「スクールアイドル」という存在は「友人と一緒に楽しむもの」であって、それ以上の存在ではない。

12話で千歌に「ようやく終わると思うとせいせいする」と語ったのは衝撃的ではありましたけども、それは果南にとっては偽らざる本音の「一つ」なのかもなと思います。

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「友人と一緒に楽しんで」「学生時代にしか出来ないもの」。

「スクールアイドル」とはそういう存在であり、そこに「永遠」を見出さない。

もちろん「ずっとここにいたい」とは思う。けれど「終わっていくこと」を知っている。だからこそ「この今」を「全力で楽しみたい」と語る。

12話で果南が語る「スクールアイドル観」。

それはどこか達観したものではありますが、そんな「今」を「愛せるようになった」のは、「過去」を受け入れる2期の物語があったからこそなのだと思えるのです。

 

ということで、松浦果南編でした。

正直かなり僕独自の見方が入ってしまっているので異論はあるとは存じます。その辺はぜひTwitter等でぶつけて頂ければと思います。

とはいえ、僕も正解は持っていないので議論するほか無いのですけども(笑)。

 

残りは二人。

次回梨子はもはや語り尽くした感すらありますけど、もう少し考えてみようかなと思います。今回も長々とありがとうございました!

 

 

 

「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター編⑥ 黒澤ダイヤ】

皆様。こんにちはorこんばんは。

今回はキャラクター編⑥黒澤ダイヤ編をお送りします。

色々な捉え方が出来る良い意味で面白いキャラクターで、彼女に関してはそれこそ様々な解釈があると思います。

それ故に読み解くのが難しいキャラクターでもありますが、今回は僕なりの解釈で彼女を紐解いてみたいなと思います。

少し解釈が異なる部分もあるとは思いますが、これは私なりの「主観」に基づくものですので、予めご了承くださいませm(__)m

 2期4話では「ダイヤさんと呼ばないで」というそのものズバリな主役回も与えられたダイヤ。彼女のパーソナリティを知る上では非常に重要な回だっただけでなく、2期における「3年生の関係性」を考えるうえでも重要なエピソードでもありました。

そんな2期4話に関しては下記にて書かせていただきましたので、是非お時間が許せば、ご一読頂ければと思います。

ishidamashii.hatenablog.com

今回は上記内容も踏まえつつ、シリーズ通しての黒澤ダイヤを考え、自分なりに総括してみたいなと思います。

どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

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黒澤ダイヤと「ちゃんとしている」

2期4話でようやくクローズアップされた黒澤ダイヤというキャラクター。

「生徒会長キャラ」というステレオタイプに当てはまらない独特の魅力を感じさせるキャラクターながら、その内面が掘り下げられなかったために今一つ理解が進んでいなかった彼女の「特性」。それが2期4話を通じてかなり明らかになったように思えます。

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2期4話では「呼ばれ方」をきっかけに、9人となったAqoursというグループの中での自分の立ち位置をダイヤが初めて「客観視」することから物語が始まります。

同級生であり、親友でもある果南・鞠莉と自分の扱われ方が「違う」ことから、彼女が「アイデンティティクライシス」に陥る。

 「自分はひょっとしてAqoursというグループの中で浮いているのでは??」そんな疑問が彼女の中で肥大化し、壮大な自問自答へと迷い込んでいく。

「ダイヤちゃん」と呼ばれたい。それは額面通りの意味以上に、自分もまた「Aqours」というアイデンティティの中に同化したい...という願いでもありました。

しかし結果としてそんな「同化」の願いは、千歌を始めとしたメンバーによって「非承認」されます。

「ダイヤさんは私たちと違って、”ちゃんとしている”」「そこがダイヤさんの良い所」「だからこれからも”ダイヤさん”と呼ばせてほしい」

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ダイヤを「ダイヤちゃん」としてAqoursという「アイドルグループ」に「同化」させることは容易。

けれどもそれが本当に幸福なことなのか。「ダイヤちゃん」としてアイデンティファイされたダイヤは、もはや元の「ダイヤさん」ではなくなってしまうのではないか。

そうではなくて、ダイヤの持つ「良い所」を「個性」として「承認」し受け入れていく。

ダイヤを「ダイヤさん」と呼ぶのは、決して距離感を感じているからではなく、ダイヤの「ちゃんとしているところ」を誰もが「尊敬している」からこそ。黒澤ダイヤそのものの「個性」を尊重しているからこそ。それを本人に伝え、ダイヤ自身にも「ダイヤさん」と呼ばれることの「意味」を理解してもらう。

「同化」しなくて良い。「個性」を持った9人が集まり、それぞれの「個性」を尊重しながらチームになっていく。それが「Aqours」というグループである。

2期4話は、2期2話から繋がる「多様性に関する許容」の物語でもあったと思います。

2期4話ではダイヤの「願い」が叶わなかったことに関して「ダイヤがかわいそうなのでは?」という意見も見かけました。しかし私はむしろ逆だと考えています。

ダイヤ自身が全く自覚していなかった「個性」であり「良い所」である「ちゃんとしている」ことを、彼女自身が初めて「理解」する。

そうすることでダイヤの「これまで」が「肯定」され、それに伴い「過去」までもが「肯定」されていく。

「ダイヤさん」と呼ばれることにも、きちんとした「意味」が付随されていく。

それこそがダイヤにとっての「救い」であると思えるからです。

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さて2期4話で改めて明らかになったダイヤの個性=「ちゃんとしている」こと。

とはいえ、それは視聴者である我々にはある程度分かっていた事です。

ここで重要になる気付きとは、我々がダイヤの特性を知ること...ではなく、ダイヤ自身が自分自身の「良い所」をこの時初めて「理解した」という事実なのかもしれません。

「自分に対しての客観的評価」が為されていない...ということは、自分自身をアイデンティファイ出来ていないということにも繋がります。

即ちダイヤはこれまで「ちゃんとした人」になりたいと念じて「ちゃんとしていた」のではなくて、ほぼ無意識に...なるべくして「ちゃんとした」人物になっていた...ということ。

そんなダイヤの在り方そのものが「TVアニメ2期におけるダイヤ」を考える上では重要なのかもしれません。

 

黒澤ダイヤと「努力」

ダイヤにとっての特性であり長所でもある「ちゃんとしている」こと。

しかしダイヤ自身はそんな自分の長所に関して「無自覚」だったのでは?と前項では考えました。

その理由とは、即ち「ちゃんとしている」ことは彼女にとって「当たり前」のことであり、特別なことではなかったから...と考えるのが自然でしょう。

これはやはり彼女の生い立ちと無関係では無いはずです。

黒澤家という網元の家庭で長女として生まれ、家を継ぐ存在としての期待をかけられる中で彼女の人格を形作っていったのは「黒澤家の長女」としての心構えでしょう。

「常に黒澤家の人間としての自覚を持って生きる」。それはダイヤのDNAレベルに刻み付けられたある種の宿命であり、「運命」でもあります。

幼少の頃から「真面目でちゃんとしてて、頭が良くてお嬢様で、頼り甲斐はあるけど、どこか雲の上の存在」だったのも、そんな「黒澤家の長女」としての「在り方」を体現していたに過ぎないわけです。

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しかしそれ故に見過ごされてきたものもあります。

それは彼女自身の「努力」です。

どんな物事においても「模範」となる為には、絶えず「努力」し続け、それを「成果」として示し続ける必要があります。そこには並々ならぬ「努力」が必要です。

俗な例えですが、いかなる天才でも「1%のひらめきと99%の努力」が必要。そしてダイヤはその「努力」を絶えず惜しまず続けてきた人、だとも思えるのです。

「努力する」こと、「頑張る」ことは彼女にとって「当たり前の在り方」であって、それがことさら「評価されるべきもの」とは考えていない。

彼女にとって重要なのは「努力した過程」ではなく「努力の末の結果」である。

けれど、それ故に「努力」の限界もまた、彼女は理解しているのでは?と思えます。

「努力することは当然」だが「努力だけでは越えられない壁」もまたある。

ひょっとしたら彼女がそんな「壁」を感じていたものは浦の星の「統廃合問題」だったかもしれません。

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1期2期通して、ダイヤは「統廃合問題」に関してはどこか冷静な立場を貫きました。それは彼女自身がこの問題について「努力だけでは越えられない壁」を実感していたからなのかもしれません。

しかしだからといってダイヤが「統廃合阻止に本気で無かった」とも思いません。彼女はこの問題に関して「努力だけでは越えられない壁」があることを重々承知している。だからこそ「自分達に出来る最善」を尽くそうとしたようにも思えるのです。

 

「統廃合問題」に関してはダイヤたちが1年生の頃から既に話題になっていたことが明らかにされています。そんな中当時1年生のダイヤが「統廃合阻止」のための案としてひねり出したのは「スクールアイドルを結成し、学校の名前を広める」というものでした。

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1期の段階では、「μ'sに憧れた末の甘い考え」と思われたこの案。しかし「ちゃんとしている」というダイヤのバックボーンを含めて考えれば、これはなにも闇雲な案では無かったのかも?とも思えるのです。

過疎化が進み、年々人口も減っている内浦という場所において、「地道に生徒数を増やす施策」などもはや有効ではない。

だとすれば、沼津市外だけでなく、県外からも人を「引き寄せる」力をもった施策が必要。

それこそが「スクールアイドル」である。そんな風にダイヤが考えた可能性もあるのではないかな、と思えるのです。

1期・2期を通してダイヤが「スクールアイドル=Aqours」の「再結成」に並々ならぬ意欲を示し、それを達成するため行動していた...という事実が明らかになりました。

それはもちろん果南・鞠莉との「消えない絆」を繋ぎとめるための存在として大事にしたかった...という要素もあったかもしれませんが、それ以上に「浦の星女学院」を守るための、彼女なりの「最善の努力」だった可能性もあるような気がするのです。

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結果として彼女の「努力」は実ることはありませんでした。しかし「努力では越えられない壁」があることを知りながら、その中でも常に「闘う意志」を失わず、最後まで「諦めずに立ち向かい」「努力し続ける」。そんな強固で「不屈な魂」こそ、黒澤ダイヤという人物を語るうえで、最も重要な要素なのでは?とも思えてきます。

 

黒澤ダイヤと「頑張ることの価値」

黒澤ダイヤにとって当たり前だった「努力する」ということ。そして、それに伴う「ちゃんとしている」という価値観。

前段でもお話した通り、そんなダイヤにとっての「当たり前」が、大切な「個性」として「肯定」される物語。それが2期4話でした。

人によっては、なんのためにあるのか分からないとも感じたかもしれないこの2期4話。しかしこの話を起点として、2期そのものの「テーマ」も紡がれていきました。

1期では「今」を肯定出来ない千歌が、紆余曲折を経て「今」の価値を知り、その意味を認めることで、ようやく「未来」へと踏み出す物語が描かれました。しかしその中で抜け落ちたのが「過去」に関する視点でした。

「今」が「未来」へと繋がっていくように、「今」は「過去」とも繋がっている。

そして「過去」と繋がった先に「未来」もある。

そんな「過去」の意味を語っていくのが、2期の物語であり、その中心にいたのがダイヤ・果南・鞠莉の「旧Aqours」でした。

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彼女たちが生み出した「旧Aqours」は決して「失敗作」なんかではない。

ダイヤ・果南・鞠莉が描いた「未来」の先に、千歌たち「新Aqours」の「今」があって、その二つが重なることで本当の意味での「未来」を紡ぐことが出来る。

だからこそ「過去」を「無意味なものにはしない」。2期4話以降、そんなテーマをもって物語が紡がれていきました。

「過去を無意味なものにしない」。

それは、ダイヤが重要視していなかった「努力する過程」や「ちゃんとしている」という彼女自身の「特性」にも係っていき、もちろん彼女自身の「在り方」ひいては「過去」にも係っていくものです。

それを千歌たち「他者」が「肯定」し「評価」する。その「評価」をダイヤ自身が受け入れていく。

それは即ち、ダイヤが自分自身の「過去」を「肯定していく」ことにも繋がっていくのです。

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2期12話挿入歌である「WATER BLUE NEW WORLD」。

2期のメインテーマと言っても差し支えないテーマ性を持った楽曲ですが、この楽曲の2番でのダイヤのパートはとても印象深いもの。

それまで自分の「努力の過程」をことさら意識もしてこなかった彼女が

たくさん 頑張ってきた時間が愛しい

 と、心に渦巻く切なさを吐き出すように歌い切る。

このたった1行に、2期における黒澤ダイヤの物語のほとんど全てが詰め込まれているような気すらします。

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「既存の在り方」という「運命」や「宿命」にがんじがらめにされていた一人の少女が、Aqoursとの出会いによって「救われていく」。

自分のことを、世界のことを「少しだけ好きになれる」。

一つの完成された世界を既に持っている少女が得た、ほんの少しの「成長と達成の物語」。

そこに僕はどうしても心打たれてしまうのです。

 

...ということで、黒澤ダイヤ編でした。

本当はもう少し詰め込みたい要素もあったのですが、それを入れると主題がブレる...ということで泣く泣くお蔵入りさせました。。

それは主に「必然」と「ダイヤ」に関するお話だったのですけど、この辺はまた機会があればどこかで披露したいなと思います。

いや、しかし様々な人を魅了する黒澤ダイヤという人物。彼女のもつ大きな魅力が僕にもほんの少しだけ理解できたかもしれません。僕が感じた魅力を上手く伝えられたかは分かりませんけども。。

さて、次回は果南編。

1期では複雑なキャラクターでしたが、2期では影の主人公と呼んでも差し支えなかった存在だけに、書くのが楽しみです。

今回も悪文・雑文の妄想にお付き合い頂きありがとうございましたm(__)m

 

追記:

黒澤ダイヤと統廃合問題に関しては、瀬口ねるさんのこちらの記事が非常に素晴らしいので是非ご一読くださいませ♪

segnel.hatenablog.jp

 

 

 

~pianoforte four hands~「Pianoforte Monologue」に寄せてのインプレッション

「Pianoforte Monologue」の話がしたい!!

そうは言うものの、Twitterでやると誰かの思考の妨げになりそう...ということで記事にしちゃいました。。

丁度1stLIVEで逢田さんが「想いよひとつになれ」を披露してから約1年となる節目の日でもありますし、今回の楽曲との関係も含めて考えてみるには良い日かもしれません。

※インプレッションなので纏まりの無い散文です。また、私の脳内妄想によって構成された記事ですので、予めご容赦くださいませ。

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・今回のソロ楽曲シリーズは、どこかキャストとキャラクターがオーバーラップしていく楽曲が多い印象だが、この楽曲はそれを特に強く感じる。

桜内梨子のソロ曲ではあるものの、彼女を演じる逢田梨香子の視点や現状とも多分に重なり合う。その境目が非常に曖昧になっていく所にとても魅力を感じる。この辺は後述できれば。

私の中 流れ出した
音がたくさんあるの
綺麗なだけじゃなくて
でもね どこか優しい音が

 ・1期1話で語られた通り彼女は音ノ木坂に在校しながら「スクールアイドル」にも「μ's」にも詳しくなかった。当時はその設定が「あり得ない」と批判されたが、今にして思えばやはり彼女の「背景」を語る上では欠かせない設定だったようにも思える。

幼少期からピアノに夢中で、そのピアノによって認められ音ノ木坂へと入学した梨子。そんな彼女にとって大事なものはピアノだけで、他の物には目もくれる理由も余裕も無かった。それだけ彼女にとって「ピアノ」というものは「絶対的な存在」だった。

ピアノを専攻する人間の多くが「クラシックピアノ」一本に挑むように、梨子もまたそうだった。それ故に彼女は他ジャンルの音楽にはそれほど詳しくない。そして彼女には「クラシックピアノ」の「音」のみが身体に流れている。それが内浦に来る前までの梨子の「状況」とも考えられる。だからこそ「スクールアイドル」の音楽にはまるで触れていない。そんな設定が生きてくるように思える。

・一つの「音」しか知らず、それのみに拘ってきたからこそ、その「音」が聞こえなくなった途端に「スランプ」に陥ってしまう。だからこそ「音」を聞くために「海に飛び込む」なんていう突飛な行動を取ろうともしてしまう。そんな梨子に「たくさんの音」を与えるきっかけになったのは、触れずにきた「スクールアイドル」の曲であり、「μ'sの曲」であった。「ユメノトビラ」との出会いによって彼女の中に流れ出した「たくさんの音」。

決して「綺麗」なだけではなく、どこか「雑多」な音だとしても、自分に「新たな気づき」と「音楽の喜び」を取り戻させてくれる音。それを総じて「優しい音」と表現するのかもしれない。

新しい 夢と涙
溶け合った コンチェルト
ずっとずっと 眠ってたの
心の熱い願い

目覚めてって あの日きっと
呼ばれてから 気がついた

 ・音ノ木坂に在校しながら「μ's」を知らないというのは、しかしどうにも「人間味」を欠く存在でもある。「ピアノ」に夢中であるあまりに失っていた人間性を、梨子は「スクールアイドル」として活動する中で獲得していく。

Aqours」としての目標は彼女に「ピアノ」以外での「新しい夢」を与え、その中で産まれる人間関係、達成、そして挫折が彼女の中に眠っていた「熱い願い」=「輝きたいという思い」を呼び起こしていく。そしてその「願い」が失っていた「音楽への渇望」と「音楽を楽しむ気持ち」を呼び起こし、結果として失っていた「ピアノを弾く喜び」をも思い出させていく。そうして梨子は救われていく。

その感情の「動き」もまた、「私の中流れ出した音」として表現されているように感じる。

一人で向かう 鍵盤だけど
感じる 一人じゃない
気持ちは いつも 繋がってるね
信じることができるから
なんでも恐れず やってみようと 決められる
強くなれるの

震えるほど 緊張しても
私を待つ 場所へ
向かおうと 息吸ってから
大きく 踏み出した

 ・歌詞ブックレットのイラストからも明らかな通り、ここからは1期11話「友情ヨーソロー」における「想いよひとつになれ」へ繋がる場面がイメージされる。それと同時にやはり1stLIVEでの「想いよひとつになれ」披露場面もクロスオーバーする。

元々ピアノ経験者では無い逢田さんが万単位の観客の前でピアノ演奏を披露するというのは、どれだけのプレッシャーか。想像も出来ないが、1日目では見事にそのプレッシャーを克服してみせた。ただし2日目ではミスタッチからバランスを崩し、演奏を止めてしまう事態に。しかしそんな時にAqoursのメンバーが声をかけ事態を収拾し、結果として逢田さんは再度ピアノに向かい、更にプレッシャーのかかる「再演奏」を達成してみせた。1stLIVEを語る上で欠かせない場面ながら、Aqoursの絆とチームとしての「強さ」を実感した場面でもあった。「信じられる繋がり」があるから「なんでも恐れずやってみよう」と思える。ここにはキャラとキャストのオーバーラップを強く感じる。

そっとそっと あやすように
指先 動かしたら
微笑んで アルペジオ
さあ自由になれる

あなたを音で 抱きしめたいの
受け取って この想い
ありがとうって声 届けたくて
弾いてるつもり このメロディー
なんて 大げさに 聞こえるかな でも本当よ
忘れないでね

 ・実際のライブでは「微笑む」シーンは無かったから、ここは梨子視点で描かれている印象が強い。「あなた」が誰なのか。複合的な見方が出来ると思う。

1期10話を文脈として捉えれば「千歌」と考えられる。梨子にとっての「ピアノの価値」をきちんと評価し、「Aqours」よりも「ピアノ」を選ぶことを支持する。そんな簡単ではない選択肢を躊躇うことなく選べる千歌は、やはり梨子にとっては恩人といえる。自分を「スクールアイドル」に引きずり込み、結果的に救ってくれた存在である千歌への感謝は必ずあるはずだ。

・とはいえ千歌だけでなく、その決定を受け入れるAqoursメンバーも、そして自分を変えるきっかけとなった「Aqours」というグループも、その根幹となる「浦の星女学院」の仲間たちも、更には「内浦の人々」も、「あなた」に含まれているように感じる。

ピアノなら 伝えられそう
みんなには 感謝してること
だから だから 何度でも弾きたい
喜びの調べを

 ・自分を救ってくれた存在全てに「ありがとう」と伝えたい。けれども梨子は多弁な人ではない。だからこそ「音」で、「ピアノ」で、「感謝」を伝える。そんな不器用さは梨子には「ピアノしかない」事実を改めて浮き彫りにするし、そんな彼女が「ピアノを失いかけていた」事実の「重要性」も伝えてくれているように感じる。「Aqours」は彼女にとって「人生そのもの」を救った救世主であり、だからこそ、梨子は多大な感謝をAqoursそのものに感じているはずだ。

・ピアノでしか「感謝」を伝えられないから、自分にとって一番大事な楽曲である「海に還るもの」を「想いよひとつになれ」という楽曲へ変えてAqoursに「渡す」。

この楽曲はそんな「楽曲に込めた心境を歌った楽曲」というちょっと複雑な構成になっている。故にこの「Pianoforte Monologue」は「モノローグ=独り言」であり、この楽曲そのものは誰の耳に届くものでもない。そしてそここそがこの楽曲の「キモ」なのだと個人的に感じている。

・ラストサビ後。後奏で、部分的だが通常の伴奏に合わせてピアノソロが加わる。それは丸で梨子の伴奏に逢田さんがピアノソロを加えているような、あるいはその逆のような印象を与える。

ここから感じるのは、ラストのみ入る歌詞に関して。

出会えて 嬉しくて 本当なの
忘れないでね

 これは「逢田さんから梨子への、そして梨子から逢田さんへのメッセージ」なのでは?ということ。

そしてその感謝の気持ちを裏付けるために互いの「気持ち=ピアノ」を重ね、「連弾」を作り出す、という演出が為されているのでは?ということ。

お互いに感謝の思いを「ピアノ」でしか伝えられないから、「ピアノの音を重ねる」。「梨子と梨香子」は「キャラ」と「中の人」ではあるが、「同一人物」でもある。多くの人への「感謝の歌」でありながら、究極的には「自分に向けて」の「感謝の歌」でもある。だからこそこの楽曲のタイトルは「モノローグ=独り言」なのでは?とも思える。

逢田さんによって息を吹き込まれたことで存在している梨子と、梨子という存在のおかげで「挑戦する」ことの価値を知った逢田さん。そんな二人の、互いにとっての「ラブソング」としても「成立」している。

いつか「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品が終わり、二人に別れが訪れるとしても、この楽曲が互いへの「思い」を「刻み続ける」。いつでも「思い起こさせる」トリガーとなる。だからこそ「出会えて嬉しくて...本当なの 忘れないでね」と語る。

そんな「音楽のもつ力」を感じさせるのは、正しく「音楽の力」によって現状を打破しようとする「桜内梨子」というキャラクターとも繋がっていて。

故にこの楽曲が「桜内梨子」のソロ曲として非常に魅力的且つ優秀なのだとも感じる。

・3rdLIVEで恐らく披露されるであろうこの楽曲だけども、ひょっとしたらまたしても逢田さんがピアノに向かうのかもしれない。

バックに流れる梨子のピアノ演奏シーンと「Pianoforte Monologue」の伴奏に併せて、逢田さんがピアノソロを弾くとすれば、それは「桜内梨子」というキャラクターの「ソロ曲披露シーン」として、とても幸福なシーンになるように思えるのだけど。

そんな勝手な妄想をしながら、今一度1stLIVEの「想いよひとつになれ」を見返そうかなとか考えている。

 

「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター編⑤ 渡辺曜】

皆さんこんにちはorこんばんは。

さて、今回記事を書くにあたって予めお断りさせて頂きますが、キャラクター総括記事でありながら今回は「総括にならない」可能性を秘めております。

なぜなら今回扱う渡辺曜は、2期最大のブラックホールと呼んで良い存在だと思うからです。

一応1期キャラ総括でも曜に関しては触れましたが、そこではある程度彼女のことを総括出来た気がしておりました。

ishidamashii.hatenablog.com

 とはいえそれは11話「友情ヨーソロー」あってこそのもの。

あの回が無ければ、曜自身の「内面」が描かれること無く、ついぞ「理解」の端っこにすら立てなかったことでしょう。

しかし、2期ではついに彼女の内面が「ほぼ描かれる事」がありませんでした。

となると、彼女のことを考えるのには「妄想」をフル活用するしかありません!!

(普段から妄想しかしてない!というツッコミは重々承知!)

もはやほぼほぼ私の「妄想」でしか語られない今回の記事となりますので、予めご理解ご了承の上、気が向いたら読んでいただければ幸いでございますm(__)m

という逃げ口上もほどほどに。参りましょう、渡辺曜編です。

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渡辺曜と「バランサー」

渡辺曜という人を考えるうえで、真っ先に思い浮かぶ単語は「バランサー」というもの。

常にグループを俯瞰して見つつ、盛り上げるべき時には流れに乗り、脱線しそうな時には調整したり、場合によってはそれに迎合したり。

シリアスな場面では落ち着いて見せたりと、場面場面で常に「状況をしっかりと把握」し「落ち着かせる」役割を担っていたのが渡辺曜という人物だと、私は考えます。

そんな「曜らしさ」を思い起こさせる回といえば、やはり1期10話「シャイ煮はじめました」でしょうか。

海の家の調理担当を鞠莉、善子というクセのある二人と共に任せられた曜。

鞠莉と善子が文字通り「クセのある一品」を作り出すのを尻目に、曜が作ったのは「ヨキソバ」。

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オムソバという海の家でも特に「外れない」メニューチョイスだけでなく、再現性の高さも含めて非常に「バランス感覚の高いチョイス」です。

活躍はそれだけにとどまらず。

売れ残ってしまった鞠莉の「シャイ煮」と善子の「堕天使の涙」を引き取って、「海軍カレー」として「再構築する」という技まで披露しました。

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「カレーにしてしまえばなんでも旨くなる」という暴言至言もある通り、この再構築は大成功。見事「シャイ煮」と「堕天使の涙」を救うに至りました。

「クセが強くて単品ではどうにも扱い辛いもの」でも「組み合わせ次第では素晴らしい一品になる」。

私は1期10話考察記事内で、このシーンを「メンバーの個性がAqoursというグループに構成されていくある種のメタシーンである」と読み解きましたが、その中心にいたのが渡辺曜ということになります。

その後の曜の「Aqoursというグループ内」での立ち回りは先ほど書かせて頂いた通り。彼女は常にグループのかじ取り役を担っていたと思いますが、それはこんなどうでもいい1シーンからも明らかだと思うのです。

そもそもとして、彼女自身がとても「バランスのとれた人物」です。

将来の夢が「父親の船を引き継いで船長になる」という、正に「かじ取り役」を目指しているというだけでなく。

文武両道を地で行くスーパーウーマンであり、会う人とはすぐに打ち解ける人の好さを持つ。

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更には誰もが認める美少女でもあり、裏表のない品行方正な性格。とはいえ糞真面目というわけでもなく、冗談も通じる。

なんというか、「バランスが取れている」というよりも「完璧超人」といって良い存在かもしれません。

そんな存在が常に近くにいたこともまた、千歌が自分を「普通星人」だと思い込んでしまった要因なのかもと思わせます。

とはいえ、私はそんな曜にも「苦手なもの」があるのだと思うのです。

 

渡辺曜と「苦手なもの」

やることなすこと、なんとなくこなせるのが曜。

趣味で始めた飛び込みで、気付けば「インターナショナル級の実力」を身に着けてしまったように、なんとなくでも「抜きんでて才能を発揮してしまう人」が、曜なのかもしれません。

しかしそれ故に抱えるジレンマもまた、あるのだと思うのです。

「なんとなくでこなせるもの」ではなく、彼女自身にも「夢」がある。

それは「幼馴染の千歌と、一緒に何か夢中になれるものを見つけて、それを一緒にやること」

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思えば極めて「欲の無い」人である曜にとっての唯一の「願い」がこれでした。

しかし、我々からすれば決して難しく無さそうなこの「願い」が曜にとっては難しかった。

曜が「なんとなく」で行けてしまう場所は、千歌にとっては簡単な場所ではなく。

二人は同じものをやっても「並び立つ事」が出来なかった。

次第に曜との距離を開けていく千歌。しかしそれは曜にとっては不本意である。

どうすれば「千歌と同じことをする」という自分の「願い」を叶える事ができるのか。

そんな迷いの中で千歌が見つけてきたものが「スクールアイドル」でした。

千歌にとっては「普通の自分でもキラキラ出来る可能性を秘めたもの」である「スクールアイドル」。それは当然なんでも抜きんでてしまう曜にとっては、「余裕でこなせるもの」でなくてはいけなかった。

ただしこれが曜にとって初めての「難しいもの」でした。

そもそも個人競技ばかりやってきた曜にとって、「スクールアイドル」は初めての団体競技でもありました。

それまでは個人の成績の良し悪しだけの世界で生きてきた曜にとって、勝負の結果は「自分が出来たか、出来なかったか」だけだった。けれども「スクールアイドル」が団体競技である以上、そうはいかない。常に「チームとしてのパフォーマンス」を求められ、「チームとしての成績」が「結果」として下される。

恐らく1期7話「TOKYO」8話「くやしくないの?」での敗北は、曜にとってはそれほど「ショッキング」な結果ではなかったのかもしれません。

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「自分達の能力が至らなかったから敗れた」。勝負というのは「そういうもの」なのだと、常に「勝負の世界」に身を置いてきた曜にとって、その帰結は「当たり前のもの」だった。

だからこそその結果を受け止めた上で、千歌に「どうする?辞める?」と発破をかけた...つもりだった(当然辞めない!と返ってくると想定していた)。

けれども、千歌やその他のメンバーは、そこまで割り切れなかった。

結果として、Aqoursというグループの中で、自分の「価値観」だけが浮いてしまい、それが「千歌との間」にも「壁を作ってしまった」。

「千歌と同じことをしたくて」、「千歌と同じ視界を得たくて」始めたはずのスクールアイドル。しかし、曜はついぞ千歌の「視点」を共有できません。

それは本当に千歌の感覚が「理解が出来ない」から。だからこそ曜はこの日を境に一つの「迷い」を胸に抱え込んでしまうのだと思うのです(その一旦の爆発が11話「友情ヨーソロー」なのだと思います)。

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「何でもできる」はずの少女が初めて感じた「苦手なもの」。その一つが「スクールアイドル」なのだと思うのです。

また、これをきっかけに曜はもう一つの「苦手なもの」とも向き合うことになります。それは「嫉妬心」でしょうか。

自分が理解できなかった千歌の心情を一番最初に汲み取ったのは、東京からの転校生桜内梨子でした。

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「頑張って努力すれば、やがて結果が付いてくる」のが曜の世界観だとすれば、梨子は「頑張っても頑張っても、それが結果として帰ってくるとは限らない」ことをこの時点で身を以て知っている人です。

ピアノ特待生として音ノ木坂に招かれた彼女。初めはコンクールで優勝するべく努力するも上手くいかず。努力に努力を重ね、失敗するうちにピアノを弾くことすら「出来なくなってしまい」、その結果として内浦へ引っ越してきたのが梨子という人物です。

だからこそ彼女には「努力をして、それが実らないことの辛さ」が理解できる。「その痛みをすぐに捨てて、次に進めない人の気持ち」が分かる。それは梨子の現状が「そうだったから」なのでしょう。

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曜が持つ唯一の願いである「千歌と同じことをする。同じ視野を持つ。」ことを、特段努力せずに「実現してしまう」存在である梨子は、曜にとって明確に「嫉妬の対象」となっていく。

それはひょっとしたら、曜にとっては「初めての感情」だったかもしれません。

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公明正大で裏表なく、誰とでも仲良くなれる曜にとって、「自分と他人とを比べる」という行為自体が似つかわしくないもの。

故に彼女は誰かへの「嫉妬心」のようなものすら感じたことが無かったかもしれません。だからこそ、その「感情」にどう対処していくべきなのかが「分からない」。その「分からなさ」が積もり積もって「爆発」したのが、1期11話「友情ヨーソロー」なのだと考えています。

1期11話では、梨子と千歌によってその悩みが「一人相撲」であったことが明かされ、一旦の決着を見せるわけですが、彼女にとってはこの「嫉妬心」にどのように「決着をつけるか」がその後の物語における、ある種の「裏テーマ」にもなっていったように思えるのです。

 

渡辺曜と「出来るようになること」

曜にとっての2期の物語とは、これら1期で抱えた「苦手なもの」という名の「カセ」を克服していく物語だったのかもしれません。

その為に曜もこれまでとは「視点を変化させる」。

「千歌と同じことをする」というエゴを一旦捨て、「Aqours」というグループを第一に考えるようにする。「スクールアイドル」というものがあくまでも「千歌と同じことをする」ための「手段」でしかなかった曜が「Aqours」を理解するなかで、「スクールアイドル」のことも理解していく。その中で「スクールアイドル」としての活動を「好き」になっていく。

するとバランサーとしての「素質」がより花開くだけでなく、時には「バランスを欠いた行為」も選べるようになる。

その際たる象徴が2期12話でのまくら投げだと考えます。

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「勝負」に拘ってがんじがらめになってしまったメンバーを「勝敗の無い戦い」へと引きずり込むことで、その緊張を「ほぐす」。

これはそれまでの「勝負」の世界に身を置いていた頃の曜には出来ない行為でしょう。

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ちょっとしたお笑いシーンでもあるこのシーンですが、そこには明確に曜の「成長」が描かれているように思えます。

 

渡辺曜と「好きになるということ」

2期の物語が、曜にとっては「苦手なものを克服し、好きになる」物語なのだと考えることで、2期における「曜の物語」がほんの少しだけ見えてくる気がします。

2期11話「浦の星女学院」では、メンバー各々が「学校でやりたいこと」を実践していく中、曜が選んだ「やりたいこと」は1期1話での千歌の行動を「再現する」ことでした。

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1期の時点では、曜にとって「千歌と一緒にできること」に過ぎなかった「スクールアイドル」。そこには曜個人の「スクールアイドル」への思い入れはありませんでした。だからこそ彼女はこのみかん箱の上にのって部員募集を呼び掛けることが出来なかった。

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しかし2期の物語を通じて彼女は「スクールアイドル」活動そのものに「意味」と「楽しさ」を見出せた。だからこそ、ここで初めて自分から、見えない誰かに向かって、自信を以て「スクールアイドル活動」への「勧誘」をすることが出来るようになる。

そしてそれが彼女にとっての「一番やりたいこと」にもなる。

彼女が告白する「千歌ちゃんと同じものが見たかった」という願い。しかしこのシーンでは彼女にとって2つの「やりたいこと」が叶っているのだと思えるのです。そしてそれは「スクールアイドル」そのものに本気で取り組み、その結果として得られた「成果」だとも思うのです。

「スクールアイドルを好きになれた」からこそ「千歌と同じ視野を持てるようになれた」。

やはりここにも「全てに意味があり」「全てが繋がっている」という2期のテーマ性そのものが現れているように感じます。

「苦手なもの」と向き合って、それを「克服する」。それは「嫉妬心」も同じ。

2期13話で曜から梨子へ告げられる「告白」。

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唐突なシーンではありましたが、やはりそれは彼女が1期から抱え続けた「苦手なもの」への「解答」でもあります。

本来彼女が感じたことのなかった「嫉妬心」という感情。それと向き合い、克服していく中で、曜は「千歌の心情を前よりももっと理解できるようになった」。だとすればこの「嫉妬心」もまた、「成長」のために必要なものだった。これもまた「全てに意味がある」の実践でもあります。

それをはっきりと「明文化」するために、敢えて一時期梨子に対して「嫉妬心」を持っていたことを認めたうえで、その感情が「大好き」へと変換されたことを宣言するのかもしれません。

もちろん、梨子にはその意図は100%伝わってはいないですし、伝える必要も無いのかもしれない。それでも自分自身のケジメのために、敢えて「言葉にする」。

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そんなところも曜の曜たる「魅力」なのかもしれません。

 

ということで、渡辺曜2期総括記事でした。

正直うまく解読できたとは1ミリも思っていませんが、僕にとっては今はこれが限界です。是非とも渡辺曜推しの皆様にとっての「曜論」をお聞かせいただければ幸いです。

今回も悪文を最後までお読み頂きありがとうございました。

次回黒澤ダイヤ編...!

知り合いのダイヤ推しの皆様のプレッシャーがパないですが(勝手に)、自分なりのダイヤ様への愛ぶつけてみせます!!

次回もどうぞよろしく!!!

 

 

「ラブライブ!サンシャイン!!」2期総括コラム【キャラクター編④ 津島善子】

皆様こんにちはorこんばんは。

今回もキャラクター編をお送りしていきます。

こちらのシリーズもいよいよ折り返し。

今回は津島善子...もといヨハネ編をお送りします。

2期5話では梨子とW主役。

この回が「2期を語るうえで重要な回」だっただけに、そこからは「特段物語内において重要な行動」をしたわけでもないのに、「物語における重要なキャラクター」として存在感を発揮し続けた彼女。

そんな彼女のパーソナリティに関しては、2期5話記事にてかなり詳細に追ったので、もはや語り尽くした感もあるのですけども...。

ishidamashii.hatenablog.com

さらにそこから派生して「Day dream warrior」と善子に関する記事も書いてしまったりしましたな...。

ishidamashii.hatenablog.com

 とはいえ今回は自分なりの「復習」も込めつつ、改めて2期における善子を考えてみたいと思います。

※お察しの通り2期5話記事と重複する部分が多いと思われますので、予めご了承願いますm(__)m

 ※また、今回も本ブログ独自の観点であり公式に基づくものではございません。そちらも併せてご了承のうえご一読願います。

 

津島善子と「厨二病

津島善子を語る上で外せない要素である「厨二病」要素。

自分を「津島善子」ではなく「堕天使ヨハネ」なのだと名乗るパーソナリティは、「厨二病キャラ」としては「典型的な味付け」です。

実のところこういったキャラは、現在のアニメ・マンガではありふれています。

それ故、最初期に彼女の設定を見た際には「このキャラをストーリー重視のアニメ版ラブライブ世界でどう動かしていくのかしら?」と懐疑的な気持ちを持っていました。

しかしながら善子は私のそんな「懐疑的な視線」を良い意味で裏切ってくれました。

アニメ内において彼女の「厨二病」的要素は「安易な味付け」として「消費されてしまうキャラ」とは設定されず。

「自らの在り方を自らの意志で決める」「彼女自身の在り方」なのだと設定されました。

 この設定によって彼女自身のキャラクターに「深み」が生まれただけでなく、「彼女の在り方」そのものが、物語内においても作用するようになったように思えます。

その代表的な帰結が2期5話「犬を拾う。」であったように感じるのです。

 善子の中の「ヨハネ」という存在の「必然性」が、物語全体の「動線」とも結びついていく。すると最初は「堕天使w」と若干舐めた見方をしていた我々も、彼女の在り方を肯定せざるを得なくなる。

物語においてもキャラクターにおいても「ヨハネ」という「厨二病」設定がしっかりと機能していく。そこには見事な「機能美」を感じてしまうのです。

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津島善子と「善子」

2期5話で明かされたパーソナリティ。そこでは善子本人にとっての「善子観」も語られました。

幼少の頃から何かと「運が悪かった」善子。

何もないところで転ぶ。遠足の前日には熱を出す。

そんな「不運」に見舞われる機会が多かった。

いわば起こる「偶然」と、それに紐付く「現実」に為す術もなく「翻弄されていた」日々。

「この世にはどれだけ願っても覆らない現実がある」。

彼女にとっての「津島善子」とは、そんな「偶然性に支配された現実」を嫌が応にも「肯定させられてしまう象徴」のようなものなのかもしれません。

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ヨハネ」を演じる「合間」にも度々表出する「現実的な感性」は、やはり幼少期の体験から植えつけられた感覚でもあり、それこそがひょっとしたら「津島善子」という人の「本質」なのかもしれません。

ただし、善子本人はそれを「是」としなかった。

「自分の在り方」が「偶然」という要素によって「左右」されていることを認めたくなかった。「自分の在り方」は「自分自身」で決めたかった。

だからこそ「自分が不運」であることにも「必然性」を見出したかった。

そうして生まれたのが「ヨハネ」という存在なのです。

 

津島善子と「ヨハネ

ヨハネとは「堕天使」である。元は天使であったが、闇に魅入られた結果堕天し、その因果として「不運」に常に見舞われている。

自分の真名は「津島善子」ではなく「ヨハネ」である。

自分が不運に見舞われているのは「偶然」ではなく、「堕天使」としての「必然」なのである。

そう捉えなおすことで、善子は自らの在り方そのものを「自分で決定していく」。そうすることで自分自身を「肯定していく」ことが出来るようになりました。

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もちろん理屈としては相当オリジナリティに溢れた「俺設定」ですし、他人からすれば「知らんがな」と思われても仕方ないもの。

とはいえ、そんな「俺設定」が津島善子という人を「救った」こともまた事実なのです。

この世界を「現実的」に見据え過ぎてしまうと、どうしても「夢」や「希望」や「未来」が描けない。

「どうせ何やったって変わらない」「結局運でしょ」などとひねた考え方をしてしまっては、何も行動が起こせなくなってしまうのです。

そして善子はそうなる「危険性」を秘めていた。けれど彼女はそうなることを自らの意志で「拒否」しました。

津島善子」の身に降りかかる「不運」は「偶然」だけれども、「ヨハネ」の身に降りかかる「不運」は「必然」である。

その感覚を常に持つ事で、彼女は自らの「世界」を「偶然性に支配された世界」ではなく、「全てに因果がある」「必然性に支配された世界」へと捉えなおしたのです。

ただし、これは相当心が強くないと「受け入れがたい世界」でもあります。

もちろんこの心構えを持つ事でいつでも「ポジティブ」でいられるかもしれません。

けれども、もしかしたら、自分にはなんの責任も無い「不運」が起きたとしても、それを「自分の責任である」と受け入れなくてはならない局面が出てきてしまうかもしれないわけです。それを受け止めるには相当な「タフさ」が求められます。

また、とにかく「独自性」に富んだこの「ヨハネ」という世界観を、「他者との関わり合い」によって成り立っているこの「社会」の中で保ち続けることにもそれなりの「タフさ」が求められます。

「自分を肯定する」ために始めた「ヨハネ」という「特性」。

それは「心と体の成長」と、それによって変化していく「環境」の中で、どんどんと扱い辛くなっていく。

 中学時代から次第に「ヨハネ」を続けていくことの「厳しさ」を実感していた善子。その「厳しさ」が頂点に達したのが「高校での挨拶失敗」でした。

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自分でも薄々感じていた「ヨハネ」という世界観を「共有していく」難しさ。その事実が白日のもとに晒された結果、彼女は「学校に行けなくなってしまう」。

ここで彼女が選ばされる「ヨハネを捨てるか否か」という選択肢。

その過程において彼女にとって大事な存在となるのが「Aqours」です。

 

津島善子と「Aqours

紆余曲折の果てに「ヨハネ」を捨てるという選択肢を取った善子。しかし千歌を中心とするAqoursはその決定を「否定」します。

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正直なところ1期5話の時点では、この千歌の選択肢はとても分かり辛いものでした。

しかし2期まで終わった今であれば、その意図が分かります。

善子にとっての「ヨハネ」とは、「偶然に支配された世界」を「否定」し、自らの「在り方」を「自らで決定していく」ために生まれた存在。

それは「自らの未来」を「自らの選択・行動」によって「掴み取っていく行為」と似ています。そしてその行為は「千歌がAqoursを結成した理由」とも同じなのです。

「普通の自分」を、「このまま何もしないで終わっていく人生」を否定したくて始めた「スクールアイドル=Aqours」。

その発祥の根幹に強い近似性がある。だからこそ千歌は「善子ちゃんは捨てちゃダメなんだよ!自分が堕天使を好きである限り!」と善子に語りかけ、「ヨハネ」を含めた善子の在り方そのものを「Aqours」へと迎え入れるのだと思うのです。

Aqours」という居場所を得たことで継続していくこととなった「ヨハネ」。しかし「ヨハネ」とは善子にとって「捨てても良い」ものではなかった。

善子は「ヨハネ」という存在が無ければ「この世界の現実性に負けてしまう」弱さを抱えた人物でもあります。

結果的にAqoursは「ヨハネ」だけでなく、津島善子という人そのものを「救った」。

だからこそ善子は我々が思う以上に「Aqours」というグループを大事に思っているのではないかな?と思えるのです。

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津島善子と「見えない力」

1期終了後のキャラクター総括で私は善子にこんなことを期待しました。

いつか彼女の「不屈」にして「気高い精神」と、「Aqoursへの強い愛情」が、Aqoursのピンチを救う時が来るのではないかと、今は密かに期待しているのです。

ラブライブ!サンシャイン!!  1stライブの前に総括してみましょう企画 【キャラクター編 其の六 津島善子】 - Love Live!Aftertalk!

 少し形は違いますが、その結実が2期5話「犬を拾う。」なのかな?と思えます。

2期開始当初、梨子は「現実的な要素」に翻弄されている人物でした。

MIRAI TICKET」を以てしても突破出来なかった地方予選。

その中でいよいよ現実味を帯びてきた学校の「統廃合問題」。

次々と重なる「現実の厳しさ」。

それでも必死に前を向いてもがこうとする千歌の思想に「共鳴したい」のに、自分自身の中の「現実的な思考」が邪魔をして、どうにも「共鳴できない」。

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2期開始当初の梨子からはそんな「ジレンマ」を感じ取れました。

 そんな梨子に「ヒント」を与えたのは、善子でした。

「現実」を直視しながら、それでもその事実に抗い、「見えない力」を信じても良い。

善子は自らの「在り方」をもって、それを梨子に伝えました。

結果としてその思考は梨子を「ジレンマ」から救い出し、大きな成長を与えるきっかけにもなりました。

成長を果たした梨子は、千歌に追随するのではなく、「Aqoursのメンバーの一人」として、千歌を支える存在として独り立ちしました。

そしてそんな彼女が作り出した楽曲(WATER BLUE NEW WORLD)が、2期の物語そのものを総括する「大事な楽曲」として物語に彩りを与えていく。

「全てに意味があり」「全てが繋がっていく」。

そんな2期そのものの「テーマ」をも象徴させる物語が2期5話であり、その中心にいたのが善子でした。

また、私は善子の在り方そのものが、「花丸の未来を愛する感性」にも影響を与えていると考えています。

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元来花丸は「未来に期待を持てない人物なのでは?」というのは、前回のキャラクター総括コラム「国木田花丸編」でお話したこと。

ishidamashii.hatenablog.com

そんな花丸に「未来を信じる意味」を伝えたのは、善子なのでは?と思うのです。だからこそ花丸は善子にとっての「ヨハネ」をことさら守ろうとする。

(わざと善子と呼んで、ヨハネと言い返させるのはその一環だと思っています)

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そうして「未来を信じる」「自分の可能性を信じる」ことの価値を教わった花丸が、今度はルビィの背中を押す。

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「善子の在り方」が元となって、それが様々な人の「背中を押す力」へと変わっていく。これは正しく善子の語る「見えない力」なのかもしれません。

 だからこそ2期12話で花丸とルビィは善子に「感謝」を告げるのだと思うのです。

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善子自身は半ば半信半疑に感じている「見えない力」。

でもそれは善子が無自覚なところで明確に作用している。

こうして善子の信じる「全てに意味がある」という考え方が、繋がり、結実していく。

2期の物語とは、津島善子にとっての大きな「救いの物語」だと思えるのです。

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ということで、津島善子編でした。

やはり僕は善子結構好きだよなぁ...と改めて思ってしまいました。

特典曲「in this unstable world」も楽しみ!!

 

次回はサンシャイン!!における最大のブラックホール渡辺曜編。

どうまとめたものか、今から頭を悩ませていますが頑張ります。。

今回もご一読頂きありがとうございました!