Love Live!Aftertalk!

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~ダイヤ「を」救うもの。ダイヤ「が」救うもの。~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第17話「ダイヤさんと呼ばないで」

皆様こんにちは。そしてこんばんは。

毎度おなじみLoveLive! Aftertalk!です。

今回は2期初のキャラクターピックアップ回。しかもその対象がダイヤということで、放送前から非常に盛り上がっておりました。

本放送はその期待に応えるかのような、楽しくワチャワチャした回で、1~3話の重苦しさに耐えかねたライバーたちにとっては一服の清涼剤となったようです。「ラブライブ!」を「萌えアニメ」として捉えた場合、そんな事態ってどうなんだ?というは問題もあるのでしょうが、それはこの際置いておきましょう。そもそもこの作品「萌えアニメ」ではなく「燃えアニメ」ですし。

さて、実は今回「物語の構造を分解していく」従来の流れとは少し変えて語っていこうと思います。というのも、歴史を辿ると今回のお話に似通った回が何話もあり、なおかつ物語の構造やテーマの概要に関しても、ほぼ同じ。狙いに関しても同じということで、改めて構造のお話をしてもどうなんだろう??と感じたからです。

故に書き始めるまでに少し時間がかかったわけですが...。

今回のお話を、ざっくりとまとめてしまえば、「他人の評価する自分」「自分自身が改めて認める」ことで、「自分自身の持つ価値を再認識する」という物語。

これは「ラブライブ!」2期5話の「新しいわたし」。「ラブライブ!サンシャイン!!」1期5話のヨハネ堕天」と共通するテーマ。

つまり「ラブライブ」というシリーズ全体を通じて語られてきた「普遍的なテーマ」の一つでもあります。

故に「物語構造」に関しては、過去の記事と大部分重複してしまうわけです。


ishidamashii.hatenablog.com

 では、今回の物語のどこが上記2話と違うのか。

と考えた場合出てくるトピックスは、やはり黒澤ダイヤ」という存在なのかなと思います。

ですので、今回は物語の全体像を追う...というよりも「黒澤ダイヤ」という人に焦点をあてつつ、彼女の存在がどのようなフックとなって、お話が展開されていったのか。それがどういった部分でこれまでの類似するお話との「違い」を生み出していったのか。

そういった部分を考えていければと思います。

※本考察はテレビアニメ版の黒澤ダイヤを下敷きとした考察です。

また、あくまでも私の主観が多分に入ったものですので、皆様との認識に齟齬は発生する可能性は十分にございます。もしかしたらダイヤが大好きな人にとっては拒絶反応を与える可能性もございます。その点も予め考慮のうえ、ご一読頂ければ幸いです。

さて、前置きが長くなりましたが、参りましょう。

第17話「ダイヤさんと呼ばないで」です。

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■千歌の自信と「自己の他有化」

物語の始まりは、「ラブライブ地区予選の結果発表」の場から。

緊張の面持ちのメンバーとは対照的にリラックスした様子の千歌。その背景には「聖良からのお墨付き」があるようです。

「私が見る限り、恐らくトップ通過ね」

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同世代のスクールアイドルであり、凌ぎを削るライバルでありながら、どこか縁のあるSaint snowAqours。そのリーダー同士である千歌と聖良は、自然とコミニケーションを取る機会が増えているようです。知らない間にスカイプ通話までしている(しかも初めてではなさそう)というのは驚きましたが。この辺りは千歌の人柄ゆえかもしれませんね。

また、この「聖良からのお墨付き」は、千歌が自ら彼女に提案し「引き出した解答」のように思えます。

東京であれだけボロクソに言われた相手に対して、改めて自分達の評価を確認する...というのはそれなりの覚悟が必要な行為。しかし今それが出来るのは、千歌にも千歌なりの自分達の活動に対しての「自負」が芽生えてきているからなのかもしれません。

※作劇的には「相手が誰であれ、率直な評価を相手に与える存在」として聖良が設定されていることが視聴者の頭には入っているため、逆説的に聖良の高評価が「正しい意見である」ことが伝わる構造になっています。この辺は上手いと思いました。

「あれだけのパフォーマンスが出来た」と千歌自身が評価する予選でのパフォーマンス。第8話「くやしくないの?」では「今の私達の精いっぱいが表現できただけで満足」と語っていた時代からすると(これは多分にやせ我慢込みの発言ではありましたが)大きな成長であると同時に、スクールアイドルとしての活動に彼女なりの「欲」も出てきているのかな?と感じられます。

また、このように「自分の価値」を、信頼できる「他者」に「評価してもらう」ことは、「自信を深める」という点においても重要なことだと思います。

こういった千歌の行動からも分かる通り、今回の物語のテーマは「自己の他有化」にあります。

「自分自身」を一旦「他人に受け渡す=他有化する」ことで、相手からの「評価」を得る。それを「自分自身の価値」として受け入れることで、「成長していく」

「自分とはいったい何者なのか」という「アイデンティティ」確立の過程においても、必ず入ってくる「自己の他有化」という要素。

人間は「自分のことは自分が一番よく知っている」はずなのに、時折その「自己評価」に疑問を持たざるを得なくなる瞬間があります。そんな時には「他者から見た自分」=「まなざし」というものが一つの目安になる時もあるのです。

また、「自己評価」が「自己に対する過剰な信頼=傲慢さ」に繋がったり、逆に「自己に対する過剰な低評価=卑下」にも繋がったりしてしまいがち。それゆえに他者からの「まなざし」というのは、「アイデンティティ」の確立という面だけでなく、生きていくうえでも結構重要なのです。

 

「予選通過」の結果をもって、盛り上がるAqoursメンバー。その中で1年生の花丸は「果南ちゃん!」と3年生の果南に飛びつき喜びを表現。

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同じく1年生の善子も「マリー!」と3年生の鞠莉を呼び捨てして、喜びのポーズを決めるなど、

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「学年」という垣根を越えた「アイドルチーム」としての関係の深さを感じさせる場面が続きます。

そんな様子に違和感を感じるのが、今回の主役となるダイヤ。

彼女は同級生であり、親友でもある鞠莉と果南以外からは「呼び捨て」で呼ばれることがありません。これまではさして気にも留めなかったそんな事実が、気付いた途端に気になって仕方なくなる。

「私ってもしかして、このグループの中で浮いてない??」

そんなダイヤの悩みが引き起こすドタバタが今回の物語のメインとなっていきます。

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 ダイヤはなぜ「呼び捨て」でも「ちゃん付け」でも呼ばれないのか。そこにこの物語のメインテーマが眠っているわけですが。

とはいえ、ここから彼女の「アイデンティティクライシス」と、その「解決」が描かれていきます。

今回のお話、先ほど語った通り、物語の構造や狙いに関しては「新しいわたし」や「ヨハネ堕天」とほぼ同じ要素をもったもの。

しかし、これらと少しだけ違う要素があるようにも思えます。

その要因がどこにあるのかといえば、それはもちろん「黒澤ダイヤ」という人のパーソナリティにあるのでしょう。

 

黒澤ダイヤの矛盾

 

個人的に...ですが、黒澤ダイヤという人は1期の物語を通してだと、掴みどころのない「謎の人物」という印象を受けました。

表面的には「生徒会長」という役職が示すところのステレオタイプなキャラクター(マジメ・融通が利かない・指導力がある)でありながら、時折それを「平然」と覆す要素がある。

特に「謎」なのは、行動言動の「矛盾」が多いところでしょうか。

1話・2話から「スクールアイドルを認めない」立場にも関わらず、「聞かれてもいないスクールアイドルの知識をベラベラしゃべる」という矛盾に満ちた行動をし...

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3話ではあれだけ反対していたAqoursのライブが、停電というアクシデントで中止に!?という事態に陥った時には、シレっと予備電源を持ってきてライブ継続への手助けをしました。

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かと思えばライブ成功直後のAqoursには、「この成功は、街の人や、これまでのスクールアイドルの努力があってこその成功なのだ」と「自分の協力」を排除した理論で釘を刺す。

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ルビィのAqours加入を反対していたにも関わらず、いざ加入が決まると喜びを隠せず、それを鞠莉に指摘されたり...

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東京で敗れ傷付いたAqoursのメンバーに、自分達の「過去」と「失敗」を語ることで癒しを与えた...

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と思いきや、その「失敗」の内容が後から「全く別の内容」にシレっと変わったり...

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とにもかくにも「矛盾」に満ち溢れた行動や言動を繰り広げたのが、1期での黒澤ダイヤという人物でした。

これを「シナリオにおける狂言回しとして使われた弊害」と捉えてしまうのも、確かに理解できるのですが、僕はもう少しこの現象を「豊か」に捉えてみたいと思いました。

もしかしたらこの「矛盾」にこそ、黒澤ダイヤという人物を読み解く上での大事な要素が詰め込まれているのかも?と思ったからです。

ここから先はなんの確信もない妄想なので、そのつもりでお読みください(笑)。

■惑わない人、黒澤ダイヤ

実のところ、ここまで矛盾ばかりが目立ったダイヤの行動ですが、一点「一貫している」部分もあるのです。それはこれらの言動や行動を選択する際の彼女の「姿勢」です。ダイヤはこれらの言動行動をする際に「惑い」というものが一切無いのです。

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 本来自分の行動や言動に「矛盾」があれば、自ずとそれに気づくもの。どうしてもそれを選択する前に動揺や逡巡が出てしまうこともあるはずです。

にも関わらず、彼女にはその気配がない。彼女の、行動や言動は「矛盾」して「一貫性を欠く」にも関わらず、こと「行動選択」には一貫して「惑い」が無い。とすれば彼女はこれらの言動行動を

①「ほぼ『無意識』に『自動的に』ないしは『本能的に』選択しているのではないか?」

または

②「非常に計画的に選んでいるのではないか?」

という二つの案が浮かび上がってくるのです。

しかし、1期で起きた物事の関連性を見ると、意図的には起こし得ない因果関係も含まれます。となると、①が正解のようにも思えるのです。

となると彼女の言動や行動が「矛盾」しているのにも納得がいきます。なぜなら「理屈」をもっての発言や行動ではないのですから。自ずと齟齬が生まれて当然です。しかしダイヤはそんな一つ一つの行動や言動が起こす「齟齬」など気にしない。

それは何故か?

恐らく彼女は「齟齬」のもっと先にある「未来」を、初めから見据えているからなのでは?と思えるのです。しかも「本能的」に。

 

彼女が1期における「矛盾に満ちた」言動や行動で成し遂げた「未来」とは何か。

それはAqours」の再結成です。

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彼女が願う最高の未来とは「果南・鞠莉と再びスクールアイドルをやる」ということ。そこに最大の願いでもある「ルビィも一緒にスクールアイドルをやる」を加えた、彼女が願う中では「最高の形」となった9話での「Aqours再結成」。

もちろん千歌たちの「スクールアイドル活動」が発端として無ければ成し遂げられなかった「未来」ではあります。しかし、結果的には「そこ」にたどり着いてしまった。そしてその成立の根幹には間違いなく黒澤ダイヤの言動と行動が影響を与えていました。

9話EDで果南はこう語りました。

「千歌たちも、私も鞠莉も、きっとまんまと乗せられたんだよ。誰かさんに。」

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このように果南が語り、鞠莉がそれに静かに頷くのは、やはりダイヤには昔からそういった「能力」があることを、二人は認識しているからなのではないでしょうか。

起きている現象や状況を巧みに操り、自らの理想とする「形」へと、自然にまとめてしまう能力。これはある種の「異能」でもあります。そしてこの「異能」にこそ黒澤ダイヤという人のパーソナリティが隠されているのでは?と思えるのです。


■神童としてのダイヤ

「真面目でちゃんとしてて、頭が良くてお嬢様で、頼り甲斐はあるけど、どこか雲の上の存在で、みんなそう思うからダイヤもそう振舞わなきゃって、どんどん距離を取っていって」

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17話において果南と鞠莉が語る幼少期からのダイヤの印象。この一遍からだけでは伝わらないですが、私は彼女がある種の「神童」なのでは?と感じました。

子供のころから様々なことをすぐに理解し、実践できる。人間としても良く出来た人物で、あらゆる人から尊敬を得る存在。それは、生まれついての「指導者」でもあります。

 おそらく幼少のころから、何か「簡単には解決できない問題」を、有耶無耶のうちに整理し、「あるべき形に収める」という行動を彼女が繰り返してきたのでは?ということがこの1幕から想像できます。

とはいえこういったある種の「天才」には「孤独」がつきもの。私がダイヤのパーソナリティを通して類似性を見出したのは、同じく「ラブライブ!」の登場人物である西木野真姫でした。

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彼女は「指導者」ではなく「芸術家」ではありますが、「天才」ゆえの「孤独」を常に抱えてきた人物でした。家柄・美貌・そして音楽家としての能力。それら「生まれついての能力」を持ったが故に「他人」と距離感が生まれ「孤独」を抱え続けていた真姫。「ラブライブ!」はそんな「孤独な魂」が「救われていく」物語でもありました。

「才能」を持ちながら、その才能自体が「孤独」によって消し去られそうになっていたところを、「孤独な魂」を繋げる存在である「穂乃果」や「μ's」や「アイドル」の存在によって救われた真姫。

しかし、もしもこれらの出会いがなければ、真姫も「孤独」から脱却できずに、「自らの存在価値」と「現実」との間に翻弄されるままだったかもしれません。現実の「神童たち」の多くが実際には「孤独」を拗らせて辛い人生を送っているように。

幼少のころから「孤独」であり続けたが故に、μ'sとの出会いまで「孤独」を拗らせてしまった真姫。

しかしダイヤは真姫とは少し違います。

彼女には果南と鞠莉という「親友」にして「理解者」がいるからです。

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二人はダイヤという人のパーソナリティを知った上で、それでも「一緒に居続けた」「無二の親友」です。彼女達はダイヤを「孤独」から救う存在であり、ダイヤの価値を「肯定する」存在でもあります。故にダイヤは「天才」でありながら、「孤独」に悩むことなく「まっすぐ」と育っていったのでは?と思えるのです。

ところが逆に、それ故に本人が見過ごしてしまった、「自分自身の本質」というものもあります。それは鞠莉と果南は理解しているのに、本人は「理解していない」もの。

果南が「本当は凄い寂しがり屋なのにね」と語るダイヤの本質。

しかしダイヤはそれを「自分の本質」として「把握できていない」のです。

その理由は彼女自身がその事実に「気づくタイミングがなかったから」でしょう。

自分の「あり方」を果南と鞠莉という存在を通して「肯定」されてきたダイヤ。反面そのありがたい存在が、ダイヤを「自分自身と向き合う」時間から「遠ざける要因」にもなってしまっていたわけです。

高校3年生の秋、人生において初めて「自分という存在」と向き合うことになった「異能」の「神童」。そんなある種の「歪さ」が黒澤ダイヤという人のパーソナリティであり、面白さなのかもしれません。

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■ダイヤの迷いとアイデンティティクライシス

ダイヤの迷いの根幹にあるのは「自分だけが果南や鞠莉と違って敬語で呼ばれる」ことであり、ひいては「自分だけがちゃん付けや呼び捨てされない」こと。それによって「メンバーと自分との間に距離感が生まれているのでは?」という悩みです。

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とはいえこういった「悩み」をなぜ今まで一度も感じたことがなかったのか。というとやはり彼女が「異能」の「天才」だったからなのでしょう。

これまでは鞠莉と果南以外には特に「親しい人間」を必要としてこなかった彼女にとって、「交友関係」は非常に「狭いもの」でした。3人だけで完結する関係が幼少期から現在に至るまで延々と続いてきたことで、その枠からはみ出すことがなかった。

初期Aqoursにしてもこの「幼馴染3人」で結成されたグループであり、いかに「アイドルグループ」という枠組みがあるとはいえ、「幼馴染」という関係性の延長線上に過ぎなかったわけです。

しかし「新Aqours」は年齢も育った環境も異なるメンバーが加わっています。するとその間では新たな交友関係が発生する。ダイヤもその「一員」である以上、いやでも新たな「枠」へと身を投じなくてはいけなくなる。故にこれまで感じたことの無かった「悩み」にぶつかることになった...と考えられます。

とはいえ、本当に「普通の人」であれば、学校のクラスなどで嫌でも実感せざるを得ない悩みともいえます。それだけに、それを今まで感じてこなかったダイヤが少し「異質」な存在にも思えるのです。

反面、そんな「異質」なダイヤが、ある種「普通の悩み」を感じることが出来るのも「Aqours」というグループに所属しているからでもあり、そういう意味では「Aqours」もまた果南や鞠莉と同じく、ダイヤを「救う存在」になっているのかもしれません。


■ダイヤが「持っているもの」と「欲しいもの」

ダイヤが欲しいもの。それは「親しみやすさ」です。故にAqoursメンバーに不可思議な接触を繰り返す。しかしAqoursメンバーはそんなダイヤの意図がついぞ理解できません。

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メンバーと同じ視線で会話しようと試みるダイヤ。しかしその度にメンバーのフワっとした解答や雰囲気に我慢がならず、「適切な指導」や「ツッコミ」を入れてしまいます。

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その見事な指摘に頷くばかりのメンバー。彼女達はより一層ダイヤへの「尊敬心」を高めていくわけですが、これはダイヤの本意ではない。彼女が欲しいのは「尊敬」ではなく「親しみやすさ」なのです。

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とはいえ「尊敬心」というのは決してネガティブなものではありません。「親しみやすさ」とは少し異なりますが、その人に対してのポジティブな心の動きに他ならないのですから。しかしダイヤにはその真意は伝わりません。

先ほど書いた通り「親しみやすさ」と「尊敬心」は本来同じ「ベクトル」にあるもの。

しかし究極の部分では交わらない要素でもあります。

「尊厳」という字の通り、「尊敬」を受ける人物には同じく「一定の厳しさ」もあります。人にも自分にも「厳しく」出来る人物でなくては「尊敬」を受けることが出来ない。そして「厳しさ」と「親しみやすさ」は相反する要素でもあります。故に両方を得ようとするのは無理がある。とすれば、どちらかに思いっきり振り切るしかないけれども、ダイヤはどうしても本来の「厳しさ」が顔を出してしまい、「親しみやすさ」に振り切れません。

ダイヤは既に持っている「尊厳」ではなく、「親しみやすさ」を得ようと画策している。しかしその両者は共有し辛い要素を持っている。しかも自分の「本質」がそれをことさら邪魔する。それ故にかなり無理な状況へと自分を追い込んでいる...ということが、なんとなく見えてきます。

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既に持っているものと、欲しているものが一致しない状況。そしてその状況に陥っている原因を把握できているのは「自分だけ」であり、メンバーはそんな状況をまるで理解できていないという所は、第11話「友情ヨーソロー」での曜を思い出させます。

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曜の場合にも、今回のダイヤの場合にも共通しているのは、彼女達の悩みが「一人相撲」であるという点でしょう。

周りのメンバーも彼女達の異変には気付くものの、その「真意」にはなかなか気づけないし、解決法を提示することもできない。あくまでも「本人の気づき」と「理解」だけが「問題解決の糸口になる」という点でも、この2つの回は似た回なのかもしれません。

曜が梨子によって気づきを与えられ、その気づきを千歌によって「承認」されることで悩みから脱却したように、ダイヤもまた似た手順でこの「悩み」を解決していくことになります。

 

■自分自身の可能性との邂逅。ダイヤだから救えるもの。

底を突き始めたAqoursの活動資金。親に頼ることが出来ないAqoursは自らの力で活動資金をねん出することに。この辺りは「真姫資金」に頼り続けたμ'sへのアンチテーゼとなっているのかもしれません(笑)。

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(神様に頼っても何ももらえないAqours。もちろん5円が500円にもなりません。。)

見つけたバイト先は伊豆三津シーパラダイス。「恋になりたいAQUARIUM」PVの舞台ともなった水族館ですね。

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千歌宅や千歌と梨子がよく語り合う海岸、松月さんなど「ラブライブ!サンシャイン!!」のロケ地は近接していますが、三津シーもそのすぐ近く。内浦に行かれた際にはぜひお立ち寄りください。

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うちっちーもいるよ!(実物の中身は渡辺曜さんではありませんが...えっ?中身などいない??その通り!!)

バイトを通じてメンバーと仲良くなろうと画策するダイヤ。しかし先ほども書いた通り自分の本質と「相反するもの」を手に入れようと画策している以上、その目論みは上手くいきません。

アシカに襲われる(?)ルビィと梨子を救うなど、相変わらず意図せず、メンバー内での「尊敬」を高めていくダイヤ。

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思うようにいかない計画。そんなダイヤの「攻撃」を受けるメンバーもダイヤの様子に困惑。遂に唯一ダイヤの「真意」を聞いていた鞠莉と果南によってダイヤの行動の謎が種明かしされることになるのですが...。

対するダイヤは1人物思いに耽っています。「ただ仲良くなりたいだけなのに...。」

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この段になっても、ダイヤは物事の本質(一人相撲)に気付く様子を見せません。

そんな中、三津シーを訪れていた園児たちが制御できずに園内を暴れ回る事態に発展。

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ロス・インゴ・ベルナーブレス(制御不能)な事態にてんてこまいになるメンバーたち。そんな園児の中で一人、事態を納めようと試みる女の子がいました。

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前髪ぱっつん気味のちょっと吊目な彼女。どことなく幼少期のダイヤを思わせる風貌です。「みんな!ちゃんとしてよ!!」必死に制止しようとする彼女の声を、しかし誰も聞いていません。

そんな彼女の言葉から、何かを感じ取ったダイヤ。

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「みんなー!スタジアムにあつまれー!」

機転を利かし、飛び込み台の上で注目を集めるダイヤ。

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まるで子供番組の歌のお姉さんのような仕草で、子供たちを自分のもとに引き寄せます。

「園児のみんな 走ったり大声を出すのは、他の人の迷惑になるから ブッブーですわ♪」

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お馴染みのセリフを使いながら注意を促すダイヤ。

「みんな、ちゃんとしましょうね♪」

あの女の子が言っても、一向に聞く様子の無かった言葉に「はーい」と返事を返す園児たち。ダイヤは事態を収拾するだけでなく、事態収拾に女の子の言葉を用いることで、女の子のこともまた「救って」みせました。

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映画文法的に解釈すると、この小さな女の子は、ダイヤにとっての「ドッペルゲンガー」的な存在と思えます。

また、この女の子の周りには彼女の「理解者」がいないことを考えると、この少女は近くに果南と鞠莉が「いなかった場合」のダイヤの「if」としてのメタファーなのでは?とも想像できます。

「真面目でちゃんとしてて、頭が良くてお嬢様で、頼り甲斐はあるけど、どこか雲の上の存在」だったダイヤが、もしも自分の「あり方」を肯定してくれる存在と出会えなかったら。もしかしたらこの女の子のように「孤独」に打ち震えていたかもしれません。「正しさ」をひたすらに主張する事しかできず、それが受け入れられず泣いていたかもしれません。

しかし、ダイヤは違います。彼女には自分の価値を認めてくれる存在がいます。そしてそれに加えて彼女には「音楽」が「アイドル」が「心の支え」として存在しています。

1期ED曲「ユメ語るよりユメ歌おう」内の

「ユメを語る言葉より ユメを語る歌にしよう それならば今を 伝えられる気がするから」

という歌詞の通り、歌は本来「メッセージ」をより普遍的に多くの人に伝えるために発生したものです。

劇中では歌っているわけではありませんが、音楽に合わせ楽しげに踊りながら発せられる言葉は、正しく「歌」に等しい存在だと思います。

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ダイヤが「歌う」ことが出来るのは、彼女もまた歌を武器として生きる「アイドル」だからです。

「真面目でちゃんとしてて、頭が良くてお嬢様で、頼り甲斐はあるけど、どこか雲の上の存在」だけど「アイドル」でもある。

そんな黒澤ダイヤならではのアイデンティティを与えてくれているのは、鞠莉や果南であり、「Aqours」という居場所なのです。

そして、それこそが黒澤ダイヤという人の「アイデンティティ」でもあるのです。

ダイヤはこの女の子を通して、「過去の自分」や「自分の可能性」を疑似視し、改めて自分自身の在り方を再度発見するに至ったのでしょう。

そして「過去の自分」を「今の自分」が救うために、「ダイヤなりのやり方」で女の子を救うのではないでしょうか。このシーンにはそんな意図を感じてしまいました。

そして、ダイヤとの出会いは、この女の子にとっても大きな「出会い」となりました。

自分に良く似た存在であるダイヤの「あり方」が、彼女にとっても「自らが目指す指標」になっていくと思えるからです。

ダイヤがμ'sという「アイドル」の存在によって「救い」を得たように、この女の子も「Aqours黒澤ダイヤ」という「アイドル」との出会いが、人生における「大きな出会い」であり「救い」になったはず。

なんでもない人生の、なんでもない一瞬に「輝き」や「ワクワク」を与える。そしてそれがその人にとって「重要な要素になっていく」「生きる糧になっていく」。それは永遠にリンクしていく。「だからアイドルは最高なのよ」と語った矢澤パイセンの声が思い出されます。


■ダイヤらしさとは。

ドタバタの末(ほとんどが一人相撲でしたが)「結局私は私でしかないのですわね」と結論付けたダイヤ。

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そんなダイヤの独り言に千歌は「それでいいと思います」と答えます。

「確かに果南ちゃんや鞠莉ちゃんと違ってふざけたり冗談言ったりできないなって思うこともあるけど...」

ダイヤが望んできたことへの明確な「拒絶」を伝えられ、悲しげに顔をゆがめるダイヤ。

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「でもダイヤさんはいざとなった時には頼りになって、だらけている時には叱ってくれる。」

「ちゃんとしてるんです!」

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自らが少女を鼓舞するために使った言葉は、ここではダイヤの在り方そのものを「肯定する」言葉として自分に跳ね返ってくる。ここはシナリオ上の上手さだなと思いました。

「だからみんな安心できるし、そんなダイヤさんが大好きです

「だからこれからもずっと ダイヤさんでいてください!」

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ダイヤが「ダイヤさん」と呼ばれることを嫌ったのは、メンバーとの間に見えない壁があるように思えたから。それは「グループ内における自分の存在意義に対する疑問」でもあったのでしょう。そのあたりはやはり11話の曜に近いものがあります。

しかし、千歌はそんなダイヤの悩みの本質を見抜いたうえで、ダイヤが何故「Aqoursに必要なのか」「なぜダイヤさんと尊称で呼ぶのか」を本人にしっかりと伝えることに務めました。

「自分たちには無い要素をダイヤが持っていること」。「指導者としてのダイヤが自分達には必要なこと」。そんなダイヤを皆が「尊敬していること」。そして「みんなダイヤのことが大好きなこと」

その事実は「ちゃん付けで呼ぶとか呼ばないとか」という問題を大きく凌駕した「Aqoursにおけるダイヤの存在意義」を「肯定」する言葉でもあるのです。

「他人の評価する自分」「自分自身が改めて認める」ことで、「自分自身の持つ価値を再認識する」という物語として作劇されている今回。

ダイヤもまた「自分自身では理解しきれていなかった自分自身の価値」を「他者から肯定される」ことでその価値を「再認識」することができたのでした。

そして「ダイヤさん」と呼ばれることにも、「価値」を見出すことが出来るようになったのです。

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とはいえ、「ちゃん付け」で呼ばれてみたいことはそれとは別の意味で事実。だってダイヤは「寂しがり屋」なのですから。

そんな意図も汲み取っているからこそ、Aqoursは最後にダイヤを「ダイヤちゃん」と呼ぶ。それはAqoursによる「ダイヤの本質への受け入れ作業」でもあるのです。

ダイヤもその意図をなんとなく察しているから困ったような、嬉しいような笑顔で答える。

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どこかミステリアスだったダイヤをAqoursメンバーがより「身近な存在」として受け入れられた日。そしてダイヤもまた「自らの存在意義」をキチンと把握できたこの日。Aqoursはまた「チーム」としての結束力を高めたように思えるのです。

 

■余談「黒子から黒澤ダイヤを考える」

ここからは余談ですが、ダイヤの黒子(ホクロ)に関してのお話。

ダイヤのチャームポイントであり、今回も「本音をごまかす際に掻く場所」として登場したホクロ。

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多分気になって調べている方は多いと思いますが、この位置に存在する黒子がどんな意味を持つのかヤホーで調べてみました。

 

 

口の下の位置を、「地閣」といいます。
物質に関してあまり恵まれていないため、貪欲に働きます。働き者のほくろです。陰ひなたのない働き者ですので、人の信頼を受けます。特に年下から慕われるでしょう。部下の協力で繁栄します。中年期以降にいろいろなことが実を結びます。愛情深い面と、嫉妬深い面があります。

口元・口周りのほくろの意味と運勢[人相学占い] | Spicomi

 なるほど「物質面で恵まれない」という要素を除けば、ほぼダイヤのことを示しているような近似性です。キャラクターデザインの際には、こういった部分も見ているのでしょうね。

またダイヤと同じく口元にホクロを持つ「中の人」こと小宮有紗嬢ですが、ダイヤとは若干黒子の位置が異なります。

唇左端ですな。ここはどんな評価なのでしょうか。

 

 

口角の近くにほくろがある人は、おしゃべりな人が多いです。言葉巧みで、頭の回転も速くてセールスマンに向きます。しかし、余計な一言で人間関係を崩さないように注意してください。言葉にトゲのある人もいます。

俗にいう「おしゃべりほくろ」なのです。軽率なことを言ってしまい、秘密もすぐ他言してしまいがちです。

女性は、うわさ話を吹聴して、人間関係のトラブルを助長してしまいます。男性では、大事な仕事の機密をうっかりしゃべってしまうミスも考えられます。しゃべりすぎに注意が必要です。

口元・口周りのほくろの意味と運勢[人相学占い] | Spicomi

 ……えっと....こんなのなんの当てにもなりませんからね!!気にしなくてよし!!!

 

というオチもついたところで、第17話考察でございました。

ちょっと分かり辛い内容になっている自覚はあるので、適宜手直しをしていくと思います。乱文悪文で大変恐縮ですが、何卒よろしくお願いいたします。

次回はみなさん待望の犬主役回ですね。わたあめちゃんとしいたけの活躍が楽しみです(違う)。

それではまた次回お会いしましょう。長々とすみませんでした!!!

 

~I live I live Love Live! days!!~「未来の僕らは知ってるよ」インプレッションメモ

フルVer聞きました!

いや、凄かった!

凄かったので、考察とかではなくインプレッションのしかもメモ書きのようなものだけ上げておきます。(後で修正するかも)

【Amazon.co.jp限定】 『ラブライブ! サンシャイン!!』TVアニメ2期オープニング主題歌「未来の僕らは知ってるよ」 (オリジナル特典:デカジャケット付)

 

■「未来の僕らは知ってるよ」インプレッション的メモ

・1番の歌詞が楽曲における「取っ掛かり」とすれば、2番以降になんらかの「仕掛け」を用意してくるのがこれまでの定例。今回もその例に洩れず。やってくれた。

 

・実は今回は、10代リスナーの多いFMラジオ番組にて先に全貌を明らかにする(歌詞は未公開の上でのフルコーラス演奏)という離れ業を決めてはいた。

しかし、今回の「仕掛け」の凄いところは、「2期3話」を見る前と見た後とではまるで歌詞から受ける「インプレッションが変わる」という1点につきる。そしてこれがド級の「必殺パンチ」だった。

 

・とはいえ、いきなり核心に入るのは難なので、1番から考えてみよう。

ラブライブ文脈では、楽曲冒頭の入りは、常に「テーマ」を端的に現す言葉が入りがち。

青空jumping heartでは

「見たことない 夢の軌道 追いかけて」
 

それは僕たちの奇跡では

「さぁ夢を叶えるのは みんなの勇気 負けない(こころで) 明日へ駈けて行こう」

と、楽曲におけるテーマ性とパンチラインがバシっとここで表明されるのも、ラブライブ!楽曲の特徴。

 

・今回「未来の僕らは知ってるよ」では

「ホンキをぶつけ合って 手に入れよう 未来を!」。

 ここでピックアップしたいのは、「手に入れよう」という単語。ここがこの楽曲のキモであり、「サンシャイン!!」二期のテーマでもあるように思える。

「未来」を「夢」と置き換えれば、これは「夢を手に入れる」という宣言となり、「叶え!みんなの夢」と語ったμ'sとは少し趣が異なる。

Aqoursにとって夢は「叶える」ものではなく「手に入れるもの」である。これが、キーポイントだろう。

 

・個人的に1番の歌詞で気になるのは、サビ直前の(ずっと一緒にいこう)という所。

 これはメンバーに対しての問いかけか?個人的には、違うような気がする。

 この歌詞に入る直前の歌詞を読み解くと、この対象は「希望でいっぱいの今日」か。

 となると、ここは「希望を胸に抱いた今」という状態を、今後の人生においても「ずっと」持ち続けよう。そういう「意思」に捉えられる。

 そしてその「意思」を「共有しよう」という我々への問いかけにも感じられる。


・2番以降はより具体的な舞台設定が描かれる。

 「雨に濡れながら 『ぜったい晴れる!』と信じてるんだよ」

 という部分は、明確に3話でのラストシーンを想起させる。

 雨の中、それでも「奇跡」をかなえるために走り続けた姿が嫌が応にも浮かび上がる。

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「進化したいから すぐできないこと ひとつひとつ 乗り越えて」

 ここは、簡単に乗り越えられない困難にぶつかりながら、目の前の「出来ること」をしっかりとクリアしていこうとするAqoursの姿に重なる。

 そしてこの考え方はやはり3話で梨子が語った「私たちのやり方」と同じだ。

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「雲の間に間に あたらしい青空が 待ってるよ 待ってるよ!」

 天気雨の中、木陰の隙間から見える太陽の光に。

 そして雲の切れ間にかすかに見える青空に。

 そこにかかる大きな虹に。

 希望を託したAqoursの姿が、嫌でも瞼の裏によみがえる。

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 やはり、3話あってのこの歌詞なのである。

 「期待ではじけ飛ぼう!!」

 という歌詞は、「虹」を見つけて、空高く飛んだ千歌の姿を想起させる。

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・ここまでが3話の物語とすれば、これ以降は「その先の物語」なのだろうか。

「期待が僕たちへ たくさん合図くれるから 逃さないで チャンスをつかまえて」

 今は「小さな勝利」と「達成」をとにかく積み重ねているAqours。その姿は、まるでガードの固い相手にジャブを繰り返し放ちながら、チャンスを窺うボクサーのよう。

「小さな勝利」の積み重ねの中から、ほんの一瞬の隙間に現れる「チャンスの可能性」。それを逃さず「捕まえる」。そこには堅実でありながら、攻撃的な姿勢が垣間見える。

 Aqoursの戦い方は、着実でありながら、どこまでも「能動的」で「主体的」。そこが魅力。

 

「I live Ilive LoveLive! days!!」 ここにはとにかく喰らわされた。

 「私は生きる!」という強い宣言。その生きる対象はラブライブ!の日々」であるということ。

 Aqoursは決して「ラブライブ!」を生みだしたわけではない。

 彼女たちは予め「ラブライブ!」がある「世界」に生まれて、その物語の「続編」の「主役」となることを担わされた存在。

 だからこそ、強烈な重圧に晒されてきたし、今なお晒されている。

 しかし、Aqoursはここでその「重圧」を引き受けたうえで、それでもなおその「日々」を「生きる」のだと力強く宣言しているわけだ。

 その中でしか描けない「自分たちの物語」があることを、

 また、それが描けるのは「自分たちだけ」であることを正面切って主張しているわけだ。

 これってやはり「我々と同じ」だ。

 生まれた瞬間にはとっくに「全てのイノベーション」が終わっていて、

 考えたものも思いついたものも全てが「既にあるもののニセモノ」だったり「パクリ」だと言われる時代。

 それでも、そんな時代に生まれてしまったのだから、その中でなんとか生きていくしかない。

 例えどんな「誹り」や「嘲り」を受けようとも、正面切って立ち向かうしかない。

 それが「今」を「生きる」ということだから。

 Aqoursはやはり我々と視線を同じくして生きる存在なのだと、この歌詞から強烈なインプレッションを受けた。

 そしてより彼女たちの物語である「サンシャイン!!」が大好きになった。

 

・1番では「泣いたり 笑ったり」しながら進むと決めたAqours

 2番では「泣いても 笑っても」進むと語る。

 どんな「状況」になろうとも、「進む」という力強い「意思」をここでも感じる。

 

・「We got dream」に関して。

 指摘されている方もいるが、ここは「過去形」。

 すなわち歌の冒頭最初から後半にいたるまで「現在進行形」で「未来」を求め続けたAqoursが最後の最後でようやく「未来」に「到達」し、その「結果」を「過去形」であらわしている。とも捉えられる。

 あるいは、まだ手に入れていないけれども「確信」をもって「過去形」としているのか。

 そのどちらかは分からないけれども、一つはっきりしているのは、Aqours夢を「叶えた」のではなく「手にした」と表現していること。

2期3話ラストで千歌がギュッと拳を握りしめたのは、何かを具体的に「掴む」行為に見える。

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冒頭で「手に入れよう」と誓った「未来」を、最後には「手に入れた」と宣言する。

1曲の中で一つの物語が始まり、完結しているという面では「僕らは今の中で」と構造を同じくするのだけど、かの曲が「輝きを待っていた」のに対して、この曲は「輝きを掴まえる」という点で、やはりAqoursならではのメッセージソングとして完結しているように思える。

そして、その姿勢こそがAqoursの、「サンシャイン」の「物語」なのではと思える。

~「未来は僕らの手の中」~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第16話「虹」

皆様、こんばんは&こんにちは。

今回は時間かかるだろうと思ったら、書き始めたらすんなり行ってしまったので、早々に第16話のハイライトをお届けさせていただきます。

当然ですが、ネタバレバリバリですので、予めご理解のうえ、ご一読ください。

と、いうことで御託は良いので参りましょう。第16話(2期3話)「虹」です。

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■雨が呼ぶもの

前回「雨」がきっかけとなって新曲案と自分達のアイデンティティを見出したAqours。しかしその雨が原因で学校説明会が翌週に延期。一見問題は無さそうですが。。

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明らかになるのは「学校説明会」が1週間延期となったことで、ラブライブ地区予選」と日程が被ってしまうという事実なのでした。

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物語において、救いを与えたり、課題を与えたりする「雨」。

しかし、それは実のところ捉える側の「主観」の問題に過ぎません。実際は、「雨」はただ意味もなく降るのみの存在。

前回の「Dig」における「ラブライブ!サンシャイン!!」と実存主義考察を踏まえれば、雨自体には「本質」がありません。

ishidamashii.hatenablog.com

 そこには「実存」があるのみなのです。

これは前回、花丸が話した「無」と概念を同じくした存在です。

すなわち主観者の捉え方次第で、その「本質」を様々な形へと変えていく存在。それが「雨」です。

前回から重要な要素として物語に登場してきた「雨」。今回の16話でも「雨」は意味を変化させながら、様々な場面に登場します。

16話を理解する上で非常に重要な存在となる「雨」。今回はこの「雨」の意味を踏まえつつ、考察を進めていけたらと思います。

 

■自力で道を切り開く

なんとかして「両方」に出ようと目論むAqoursの面々。しかし鞠莉は空路の使用を否定

「自分達の力だけで入学希望者を集める」と啖呵を吐いた以上父親を頼るわけにはいきません

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他にも海路を含め様々な可能性が検討されますが、それらは全て「学校関係者以外の誰か」ないしは「大人」を頼る選択肢です。

こちらも「Dig」で考察した通り、Aqoursの物語には「自らの意志」で「自らの未来」を切り開くというテーマが隠されています。

と、なると自分達以外の力はなるべく借りられない。特に自分達とは目線の異なる「大人」の力を借りられない。なんとかして「自分達だけの力」で道を切り開こうと足掻く。ここにもAqoursの物語ならではの視線が隠されているように思えます。

また、そう考えれば「姉」や「家族」を頼らなくとも、「学校の同級生」には助けを求めた今回の千歌たちの判断基準も少し見えてきます。学校の生徒は千歌たちにとっては「夢を同じくする」「仲間」。ここは13話・14話から継続されている要素ですね。

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■未来を変えること

両方に出場するための案その1。

ダイヤが示した解決策は、抽選会で1番手としての出演順を引き当てる事でした。

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ラブライブイベント名物はっちゃけお姉さんもいますよ(この人ラブライブ関係の営業で食ってる感じが凄いリアルだよ、ホント)。

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抽選会はデジタル方式に。出演者もこれまでの何倍もの規模に。嫌が応にも時代の変化とスクールアイドルがはっきりと「人気ジャンル化」した空気を感じ取れます。

この抽選会に今後の命運がかかってくるAqours。くじを引く人選もまた、非常に重要となります。

いつもならば真っ先にくじを引く候補になるはずのリーダー高海千歌

しかし、この日の運勢が最悪。

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消去法&「なんか運良さそう」という曖昧な理由で初期メンバーから曜が選出されそうになるのですが、ここで意外な人物からクジ引き係への名乗りが。
その人物とは善子でした。

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とはいえ、普段から「不運」であることを身を以て証明し続けている善子。当然メンバー全員から「拒否」されてしまいます。

にも関わらず頑なに「抽選」に参加することを諦めない善子。なぜここまで「抽選」参加に拘るのか、メンバーにも視聴者にも分かりません。

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理由を考えてみます...。

まず、Aqoursの物語は「自らの未来」を「自らの力」で切り開く「人間」の物語なのでは?というのは、再三主張させて頂いている通り。

その文脈から捉えると、善子もまた「不運」「自分の運命」「自分自身の力」「乗り越えよう」としているのかな?とも思えます。

「自分自身の意志」で選んだ勝負で、もしも「勝利」という「結果」を得る事が出来るとすれば、善子は自らに課せられた「不運」という「運命」を乗り越えることが出来る。

そうすればこれまで自分が背負わされてきたある種の「カルマ」を乗り越え、新しい「自分」を獲得できる。そんな風に感じて立候補をしているのかな、と想像できます。

前回の「Dig」に照らし合わせれば「未来」への「投企」をしている状態にある善子。今回はこの「投企」という考え方も、物語のあらゆる場所に登場してきます。

 ...ちなみに、善子というキャラクターは元より「自分自身の本質」「疑問」を抱き続けているキャラクターです。

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津島善子」というアイデンティティを認められない善子。

彼女は「津島善子」という名前を筆頭に、自らに与えられている「先天的な要素」を自ら「否定」する人物です。

津島善子としての「人格」は、「自らが生み出した人格ではない」。

そう思うからこそ、ヨハネという別の人格を生み出し、「ヨハネ」として生きようとする。そう思えるのです。

ヨハネ」という人格は、善子自身が0から作り出した「オリジナルの人格」。即ち「善子自らが生み出した自分の可能性」そのものです。

そういった善子のあり方は、幼少の頃からずっと変わらない、彼女自身の在り方です。

そして花丸はそんな善子に理解と憧れを感じ続けています。

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「自分の物語」よりも「人の物語」を大事にしてしまう花丸にとって、「自分の物語を力強く描ける善子」は、自分とはまるで違う存在。

だからこそ花丸は「黄昏の理解者」であり続けるのではないかと思います。

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今回もそんな善子の「力強い意志」に瞳を輝かせる花丸。それ故に彼女は善子に、ほんの少しだけ「助力」をするのです。

善子が抽選に参加するためには、この日「超大吉」のダイヤをじゃんけんで負かす必要があります。

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勝負の瞬間!

本来であればチョキを出しそうになっていた善子のお尻をポンとはたく花丸。

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その瞬間善子の妙な形のチョキは崩れパーになる。

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結果じゃんけんにも勝利するのです。

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「善子ちゃんがパーで勝ったずら!」

善子の勝利を自分のことのように喜ぶ花丸。

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じゃんけんに勝ったからといって、なんなんだと思われるかもしれません。

しかし、この瞬間善子は自分が抱えていた「カルマ」を一つだけ、超越することが出来ました

超越することのきっかけは善子自身が「自分の運命」を乗り越えようとした...という動機。

花丸はその動機に惹かれ、力を貸すことでほんの小さな「奇跡」を起こすことに成功しました。

じゃんけんが「勝敗に因果の無い偶然性が支配する勝負」だとすれば、その勝負の行方もまた「神」が支配しているもの、とも捉えられます。

花丸はそんな「偶然性」の勝負に、自らの意志で「意図的」に「介入」をすることで、結果を「変化」させてしまいました。

言ってしまえばギリギリ「インチキ」に当たるような行為かもしれません。しかし、なんにせよその「介入」が、「偶然」を「必然」へと「変化」させた。そして満に一つも「勝てないだろう」と思われていた勝負を「勝利」へと変化させた。これはある意味では「神」の引き起こす「偶然性」に対する「人間」としての「小さな勝利」であり、小さな「奇跡」だとも言えるのです。

そして、この小さな「奇跡」もまた、「自らの力」で「自らの未来を切り開いた」成功体験に他なりません。

今回の16話で大事な視点となる「自らの力」で「自らの未来」を切り開くことに関して。そして「神」に対して「小さな勝利」を得る事に関して。

このシーンでもその意味と意図がしっかりと描かれていることに非常に好感を覚えました。


■くじの結果

しかしながら抽選の結果は24。

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24(ふし)=フェニックスと言うセンスは、厨二病というよりも、小学生っぽいですが...。真ん中ら辺という中途半端さで、やはりそうそう上手くはいきません。

じゃんけんのように「人間の力」が介入しうる「偶然性」もあれば、くじのようにどうにもならない「偶然性が支配する世界」もまたある。こういった世界をある種「冷静な視線で見つめる」感じは、なんとも「デウスエクスマキナ」を否定する「サンシャイン!!」らしいなと思います。

 

■伸ばした手

くじの結果を持って、いよいよ「学校説明会」か「ラブライブ地区予選」かを選ばねばならない状況に。

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集計をとる果南。しかし当然ながら誰もどちらに参加するのかを決定できません

「学校」も「ラブライブ」も両方取る。例え無理だとしても、両方取ることを目指す。そう誓ったばかりのAqours。そんな彼女達にとってこの選択肢はあまりにも辛くて難しいものです。

その夜、方向性に関して語り合うお隣同士の千歌と梨子。

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どうしたいのか尋ねる千歌。

しかし、梨子はまだどちらを選ぶべきか、自分の中で答えが出ていません。

屋上からふと手を伸ばす千歌。それにつられるように手を伸ばす梨子。

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このシーンは一目見て分かるように、明確に1期2話のやり直しをしているように見えます。

1期2話では、希望を見失った梨子に、希望を語る千歌が必死に手を伸ばしました。それは「本気で願えばかなわないことはないはずだ」という気持ちを梨子に伝えるために取った行動でした。

物理的に考えれば、本来は触れ合わないはずの二人の指先。

そして触れ合ったとて、何も起こらないし、何も変わらない。全く持って無意味な行動。しかし、梨子はその一見無意味な行動に、それこそ縋るように必死で腕を伸ばしました。

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精一杯まで伸ばした腕と腕。その結果触れ合う二人の指。

なんの意味もない結実。

しかし二人はその「小さな結実」の中にに「大きな希望」を見出しました

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思えばこれは、前段の善子と花丸の「じゃんけん」と同じモチーフなのかもしれません。

僅かな成功体験から、大きな希望を見出す。そこに価値を見つける。

「結果」よりも「過程」。

そしてその「過程」において生まれる「希望」を信じる。そんな視点を感じます。

ところで、今回は二人の指は触れ合うことはありません。

むしろ二人も「触れ合わそう」とも考えていない。

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それは、千歌も梨子も既にあの頃とは違う。

縋りつきたくなるような「成功体験」をもはや求めていないのでしょう。

二人の結びつきがAqoursを生み、そして仲間と共に「希望」を胸に歩みを進めてきました。あの頃と決定的に違うのは、心の中に確固たる「希望」が既にあるということです。だからこそ、無理に指を合わす必要はない。そんなことをせずとも、二人の「想い」も「心」も一緒で、繋がっている。そんな強い信頼関係を感じさせるシーンでした。

また、梨子の手の伸ばし方は、遠く東京で一人、ピアノコンクールに立ち向かい、演奏を終えた後に手を伸ばしたあの姿勢に近いものを感じます。

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1期11話で披露された想いよひとつになれには

「何かを掴む為に 何かをあきらめない」という一節があります。

梨子は今回の物語においては、なにかと「現実的な判断」を提案する側になるわけですが、その実彼女もまた「二つを諦められない」という気持ちを心の内に秘めているということが、このシーンでは暗喩されているのかもしれません。

故に後々の千歌のある種無謀な判断にも従うし、それを肯定し、実現しようとするのでは。このシーンからはそんなインプレッションを受けました。

 

■チームを分けること

両方に出場するための案その2。

それはAqoursを5人と4人のチームに分け、それぞれ「学校説明会」と「ラブライブ地区予選」に出場するというものでした。

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考え得る中では最善の判断。しかしメンバーの中にはどうにもその決定を呑み込めない気持ちがあります。

過去に一度、梨子を除いた8人で地区予選を突破したAqours。しかし、あの時には梨子のトラウマを克服させるために強い意志を持って彼女を「東京」に送り出した8人と、梨子本人との強い絆が楽曲とパフォーマンスにも反映され、それが突破の引き金となりました。要するに「ポジティブな視点」を持って「分業制」を選んだあの11話での選択と、今回「そうするしかない」という「ネガティブな視点」で選ばれた「分業制」とでは、意味が丸で違ってきてしまうのでしょう。

それ故にみんなどこか不安そうであり、鞠莉もハッキリと「突破できないのでは」と不安を口にするのかもしれません。

とはいえ、「どちらも諦めない」ことを選んだAqours。結局全員がしぶしぶと分業制に納得します。

その判断に関して梨子は「ベストではないがベターな判断である」と語ります。

そして「私たちは奇跡を起こせない」からこそ「その時最善の方法をとって行く必要がある」「それが私達だと思う」とも語ります。

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この辺は「神」ではなく「人間」が「闘う物語」としてこの作品を見ている自分には、非常に納得のいく言葉でした。

「神が奇跡を与えてくれない」のならば、その時出来る「最善」を取って、確実に「一歩一歩進んでいく」しかない。

梨子の言葉に理解を示す千歌と曜。とはいえ、やはり「両方をなんとかしたい」千歌。みかん畑のトラクターから、何かを思いついたようですが...。

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■9人

チーム分けのおかげで学校でもライブが出来るようになったAqours。ライブ効果か、校舎には多数の来場者が。

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ラブライブ予選会場も大勢のアイドルがいます。やはりスクールアイドルの幅が広がっている。

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今回の衣装デザインは全面的にルビィが担当。

姉の衣装着用姿を見て涙ぐむルビィ。「ずっと似合うと思ってた」と感想を述べます。

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もしかしたら、この衣装デザインの基本は、ルビィが姉と二人で「スクールアイドル」をやろうと考えていた、遥か昔から存在するデザインなのかもしれません。

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それが旧Aqoursの結成・解散を通じて日の目を見ることがなくなり。

姉がスクールアイドルを忌避する日々の中で風化していき。

そうして今何年かぶりに結実した。しかも姉妹がセンターの楽曲で。

そう想像すると、なかなかにグっときます。

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千歌・梨子・曜・ルビィ・ダイヤの5人編成で戦うことになった「ラブライブ予選」。

心細そうなルビィを、親友である花丸の真似をしておどけることで緊張を解こうとする曜。

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2期に入ってからどうにも影は薄いですが、チームの調整役として、やはりここでも機能しています。

5人で舞台に上がると、自分達を応援してくれる声はまばら。普段は応援に駆けつける生徒や、身内の人々も今回は学校説明会の方に足を運んでいるようです。

途端に不安に襲われる5人。

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そんな時舞台袖から声がかかります。
「勘違いしないように!」

1期3話での「ダイヤ」の言葉を流用して登場したのは鞠莉。そしてもちろん他の3人もそこにはいます。

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「やっぱりAqoursは9人じゃないと」。

前回15話において「まるで違う人間である」ことを互いに認識し、それを理解したうえで相互理解を深めました。

前回考察ではそんな相互理解をAqoursという人格が立ち上がる過程をメタ的に表現した物語なのでは?」と考察させていただきました。

1期から確実に進化し、成長を遂げたAqoursの人格」。その結実として生み出されたのが今回の楽曲です。その背景をもって考えれば、この曲は5人だけで披露してはいけない。やはり9人いなければいけない。そう思えます。

 

■MY舞☆TONIGHT

披露された「MY舞☆TONIGHT」はAqoursにとっては初となる「和ロック」でした。

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前回ダイヤや鞠莉が求めた要素(ギターロックやお琴)が加えられた音は、ダイナミックでありながら繊細。そしてダンサブルな仕上がりで、非常に完成度の高い楽曲になりました。

また音だけでなく、歌詞には、しっかりとこれまでの物語が反映されています。

まだ小さく燃えてる まだ小さな焔が 

一つになれば 「希望」が生まれ

この世界はいつも 諦めない心に 

答えじゃなく 道を探す 手がかりをくれるから 

最後まで強気でいこう

これは前回15話の物語を反映するだけでなく、花丸が加えたがった「無」の概念、その元となる実存主義」における「投企」の概念を想定させます。。

「答え」は示さないけれど、その「答え」に行き着く「道を探す手がかり」をくれる「焔(ほむら)」。この場合の「焔」は「希望」と同義語と考えてよいでしょう。

即ち「行き着く先はわからなくとも、胸に宿る希望を燃やして生きよ」

そんなメッセージがこの曲のテーマになっているように思えるのです。

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そしてそれは何度もお話しているように、「投企」という概念の考え方と同じ。

「答えは分からなくとも、希望を持ち、その希望を元に強く生きろ」というものです。

実は、今回はこの「投企」に関するテーマを持つ楽曲がもう一つ登場するわけですが...それは後程触れさせて頂きます。

踊れ 踊れ 熱くなる為 人は生まれてきたの
踊れ 踊れ きっとそうだよ だから夢みて踊ろう

「踊れ」は「楽しむ」事の同義語に感じられます。

「輝く」ことは「楽しむこと」だと千歌が語ったように、踊りながら希望を見つけ、それを燃やす

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その先に夢が生まれる。それが生きる事である。そんな思想をこの楽曲からはひしひしと感じます。

そしてこの曲は「最高の今日にしよう」という言葉で締めくくられます。

「明日」でも「未来」でもなく、まずは最高の「今日」を作る。

これって「僕たちはひとつの光」における「今が最高!」と同じものです。

そして、OPテーマ「未来の僕らは知ってるよ」における

(希望でいっぱいの)今日が明日を引き寄せるんだと

という歌詞にも表現されています。

実のところ、「未来の僕らは~」もこの楽曲と同じく「投企」の概念をモチーフに作られた楽曲です。

そう考えれば、この概念自体が「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語において、非常に大きな影響力を持っている概念なのでは、と改めて感じられると思います。

9人での完璧なパフォーマンスによって、ラブライブ予選での高評価を得たAqours

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今回は学校説明会に全校生徒がいる都合上、これまでの予選のどれとも違う完全アウェイという状態でした。故にその壁を乗り越えたことが、Aqoursにとっても大きな自信になった。彼女達はまた一つ壁を乗り越えた。そんな気がします。

 

■走れ!

予選を終えた瞬間に会場から出ていく2年生ズ。どうやら彼女達は9人での学校説明会ライブを諦めていないようです。その目論見はあくまでも、2年生間だけで練っていた物。戸惑う6人を尻目に、千歌たちは走り出します

比喩ではなく、そのままの意味において

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このシーン、個人的な、しかもボンクラな感想で恐縮なのですが、とにかく非常に感動してしまいました

前回、前々回から考察している通り、「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語は、「人間」が「人間」として「現実」に挑む物語なのだと、私は考えています。

故に理屈ではなく、とにかく「走る」という、非常に「人間的な行動」をもって「現実」を超越しようとする姿はとても感動的に映ります。

結果的に走るだけではさすがに間に合わず、みかん収穫トラックを利用しての時短も試みるわけですが(このシーンはシリアスになりがちな今回のお話の中では良いカンフル剤になっていたように思います)。

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最終的にはやはり走る。

走って、走って走りまくる。

「奇跡」を掴むために、そして「軌跡」を描くために、ただ走り続ける。

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一団から遅れてしまう花丸。

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これはリアルの合宿でも高槻さんがランニング遅れてしまっていた事へのメタでしょうか。

しかしそんな花丸の背中を支え、再び押すのが、ルビィと善子なのもまた良い。

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花丸に背中を押されスクールアイドルになることを決めたルビィ。

幼少期からの理解者であり、今回の物語の中でカルマを乗り越えるために、背中を押された善子。

そんな花丸によって救われてきた二人が、今度は花丸を支え、背中を押す

なんともはや、1年生の絆を感じざるを得ません。

それを立ち止まって待つ千歌も良い。

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やはりAqoursは「誰かが立ち止まったらみんなで止まる」。

そして「再び全員で足並みそろえて走り出す」。そんなチームなのです。

ちょっとしたシーンですが、ここにもAqoursAqoursたる由縁と、その個性がハッキリと描かれた非常に重要なシーンでした。

 

■雨...そして虹

もう間もなくゴール。そんな最中天気雨Aqoursを襲います。

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これまでなら物語が停滞してしまう要素になるはずの「雨」。

しかAqoursは「雨」の中でも立ち止まりません

前回「雨」の中で物語が進んだように、ここでもAqours「雨」の中を走り続けます。

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突然モノローグのような台詞を話し始めるAqours。これはラブライブ名物、「場面の舞台化」でしょう。

ラブライブは元来より「ミュージカル作品」として作劇されています。それ故にキャラクターの「心の動き」や、「感じたこと」などが急に詞的に表現されたりします。

或いは物語の文脈を歌に寄せて説明したりするシーンも登場します。それもこれも「ラブライブ!」は基本的に「ミュージカル作品」だからにほかありません。

このモノローグもまた、その演出に寄せてのものだと思われます。

メンバーが語り合うのは「奇跡」について。

「奇跡は叶うのかな」「やっぱりムリなのかな」

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走りながら、学校にたどり着けるのか、この「奇跡」を叶えられるのか不安に駆られるメンバー。

そんなメンバーに千歌は語りかけます。

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「私思うんだ。奇跡を最初から起こそうなんて人、いないと思う。」

「ただ一生懸命、夢中になって、何かをしようとしている。なんとかしたい!何かを変えたい!それだけの事かもしれない!」

「だから!」

「起こせるよ!奇跡!私達にも!!」

 この千歌の考え方は、これまた前段でお話した「投企」と同じものです。

「確定した未来」はなく「何かを起こそうとする意志」を重視した「投企」

「起こそうとした意志」は「必然的」に「未来」となって、自ずとなんらかの「結果」を与える。結果はどちらにせよ与えられる。

だとすれば、「結果」を求めるのではなく「行動する」ことの方が大事である。

これが「投企」の概念です。ここでの千歌の言葉も、その概念を具現化したものに思えます。

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森の切れ目からは太陽の光。雨は降り続いているけれども、晴れ間が見えます。

こういった天気雨が作品内で登場したのは、私の記憶ではシリーズ初だと思います。

「雨」という「良くないことが起こる」メタファーの中で「光が差す」。そこには、やはり既存の「メタファー表現」を超越した世界があります。

なんとなく見えてきた、ぼんやりとした「希望」。それによって弱気になっていた梨子の心にも、再び「希望」が宿ります。

「起こるかな?奇跡...!」

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梨子の問いかけに答える千歌。

「起こるよ!だって....」

だって虹がかかったもん!!!」

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 私は前回の「Dig」で「サンシャイン!!」には実存主義が大きな影響を与えているとお話しました。

この「虹」に対する捉え方は、まさしく「実存主義的」だと思います。

「虹」は本来なんの意図も持たず存在するもの。すなわち「実存」だけがある物です。しかし千歌はその「実存」しかない存在に「希望の象徴」としての「本質」を与えました。

本来はただの化学現象にすぎない「虹」を「希望の象徴」として捉えなおす。これは我々人間にしか出来ない事です。

また、この「虹」への「認識変化」は、「雨」に対する「認識変化」にも繋がっていきます。

物語の文脈上では「良くない事が起こる象徴」だったり「物語が停滞する象徴」として使われがちな雨。しかし千歌は「雨」が降ったおかけで「虹」に出会えたのだと、「雨」の存在そのものを「ポジティブ」に捉えなおしたのです。

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結果これまでのシリーズで使われてきた「雨」の概念すら覆してみせた千歌。

その事実は「神」に対する確かな抵抗であり、ちょっとした「勝利」でもあるのです。

そしてそれは「人間」でしか果たせない勝利

「無慈悲」な「神」に対して「人間が挑む物語」として描かれている「サンシャイン!!」の物語。

今回の16話では「2つのライブを両立する」という大きな戦い(実際の意味では小さな戦いだとは思いますが)を軸に、様々な場所で「神」と「人間」の闘いを描き、それに「人間が勝利する」過程を描きました。

一つ一つは小さな「勝利」ですが、そのどれもが「勝利」という結果にほかならない

これは梨子が語った「Aqoursの戦い方」と全く共通するもの。

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「神」の前に為す術もなく敗れてきたAqours。そんなAqoursが遂に神に対して勝利し始めた今回。

このちょっとした勝利の積み重ねが、やがて大きな勝利に繋がるのだと信じる。信じたいと願う「我々の物語」。

そんな「人間」の物語が、今回も描かれていたように感じます。

 

■きみの心は輝いてるかい?

今回のタイトルとなった「虹」や、「学校説明会が舞台」ということで、この楽曲が登場するのでは?と予想されていた方は多かったと思います。

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私も前回の「Dig」において予想した通り、この楽曲が登場してくれたので、半ばホッといたしました(笑)。

Aqoursにとってのデビュー曲である「君の心は輝いてるかい?」。

今回は既存のPVをそのまま使うのではなく、絶妙にモデリング調整を行うなど、かなり丁寧な仕事をされていたのが印象的でした。

特にラストの決めポーズでは、アニメ版のキャラ設定をしっかり生かした新たな表情付けがされていて、驚嘆いたしました。良い仕事...。

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 この楽曲、「Dig」記事でも書いた通り、「未来の僕らは知ってるよ」や「MY舞☆TONIGHT」と同じく「投企」をテーマに作詞が為されている楽曲です。

Aメロの

きっかけはなんでもいいから 

いっしょにトキメキを探そうよ

から

ちっぽけな自分が どこへ飛び出せるかな
分からない 分からないままで (なんとかなるさと)さぁ始めよう!

へとつながり、そしてサビの

 君は何度も立ち上がれるかい?

胸に手を当てYES!と笑うんだよ

に至るまで、はっきりと「投企」の概念が反映された歌詞になっています。

2期において急激に立ち上がった「実存主義」や「投企」というテーマ...と勝手に考えていましたが、「ラブライブ!サンシャイン!!」はその実、立ち上がりからしてこれらのテーマを内包した作品だったのですね。

学校説明会ライブは見事に大成功。メンバーに千歌は声をかけます。

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「どっちにするかなんて、選べないし」

「どっちも叶えたいんだよ」

空へと舞いあがるシャボン玉

このシャボン玉も「人」が主体となり「人が美しいと感じる概念」が「形になった」「物」です。天然自然のものではなく「人が作ったもの」であると同時に、やはり「人」の「感性」が生み出した「人」でしか作れない「美」を象徴するものなのかもしれません。

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またこういった存在は、14話やOPに登場する紙飛行機と同じく「神が作りし物」「対峙する存在」

そしてそれが空を、学校を彩る。なんとも象徴的です。

「だから行くよ...」

「諦めず”心”が輝く方へ!」

改めて自らの「心」と「自らが決めた意志」によって「未来を切り開く」ことを誓った千歌。そしてAqours

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ラスト。太陽に向かっていつもと同じく手を伸ばす千歌。

しかし今度は掌を太陽に被せるのではなく、しっかり自分の拳を握りしめます

そのぎゅっと結ばれた拳の中には、しっかりと「未来」が握られているように思います。

 

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「人間の運命は、人間の手中にある」

それは「投企」の概念を広めたサルトルの言葉です。

いつものように太陽に掌を重ねるのではなく、自らの運命を握りしめ、太陽を睨みつけるように佇む千歌。

「人間」が「人間」によって成し遂げられる「奇跡」を求める旅。

そしてそれを巡る「軌跡」が、この日もまた描かれたのでした。

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....ということで16話(2期3話)の考察でございました。

いやはやおなかいっぱいだけど、とてもさわやかな後味の回でございました。

2期は1話~3話までが一繋ぎの物語として作られているように思います。

もし色々と違和感を感じている方は、今一度1話から見返してみると、意外とすんなりと呑み込めるかもしれません。

今回はここまで!

またまた長文失礼いたしました。

また、この考察はあくまでも私個人のものですので、誤解なきようお受け止め頂ければと思います。

次回は遂にダイヤ様回だってよ!

楽しみ!!

※10/24説明不足要素等追記いたしました。

 

ラブライブ!サンシャイン!!深読みコーナー「Dig」① ~ラブライブ!サンシャイン!!と実存主義の冒険~

皆様こんにちは&こんばんは。

前日に引き続き、ラブライブ!サンシャイン!!の記事を投稿させていただきます。

今回は前回15話考察ではどうにも踏み込めなかった領域。

いわゆる「こいつホントおかしいんじゃねえのか?」系のヤツをお見舞いしようと思います(笑)。

予めお伝えしておくと、とても一般受けするとは思えない内容です。

 

ただ、ここは自分のブログですし、せっかく思いついちゃったのに書かないというのももったいないので、一応アーカイブとして残しておきます。

また、悪文乱文となっている可能性があると思います。事実認識が個人的見解のため間違っている可能性もございます。それらは適宜修正をさせていただきます。

誤字脱字に関しても適宜訂正させていただきます。

ただし、基本的な内容に関しては「仕様」でございますので、何卒ご了承願いますm(__)m

 

さて、前置きはこんなもんでよろしいでしょうか。

ではボチボチ行かせていただきます。。

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■神との対峙
前回14話考察で考えた通り、Aqoursにはデウスエクスマキナというものがありません。

デウスエクスマキナ」とは「機械仕掛けの神」という舞台用語。

どうしようもない悲劇に見舞われた主人公。にっちもさっちもいかない状況で、空から「神」が現れ「救い」を与えます。舞台に登場する「神」は、空からヒモでつりさげられています。この舞台上に登場する神の姿を「機械仕掛けの神」即ち「デウスエクスマキナ」と表現しました。(この言葉時代はギリシャ時代からあったそうです)

そして、その「神」の出現によって物語は「急激に」展開し...今まであった伏線や悲劇などを全て「まるっと」解決してしまう。つまり、総じてハッピーエンドを迎える。

そんな「大どんでん返し」が起きる演出そのものを転じて「デウスエクスマキナ」と呼ぶようになりました。(類する「夢オチ」なども、この「デウスエクスマキナ」に含まれます)

μ'sの物語では「廃校問題」を解決し、「雨止め~!」と叫んだ穂乃果の願いを叶え、「雪」を通じて「神曲」誕生への天啓を与えるなど、「デウスエクスマキナ」によって様々な問題を解決してみせた「神」。

ところが、そんな万能の「奇跡」を起こす「神」が、Aqoursの元には訪れません

「0」を突き付けられた際にも、「輝き」の意味を追い求めた際にも、彼女達を救う存在は現れませんでした。いわゆる「物言わぬ神」という状態。

それは彼女たちにとっての信仰の対象であり、もう一つの「神」ともいえる「μ's」に関しても同じ。

千歌が輝きを追い求める「きっかけ」となった「μ's」ですが、「輝くために何を為せば良いのか」という答えそのものに関しては、具体的な解答を示してはくれませんでした。

迷い悩む中、12話において遂に「神=μ's」の在り方を追うことを止め、「自分自身」を信じて進むことを決めたAqours

そして「輝きは心から溢れ出す」のだと、「輝く」ことの意味に対する「自分なりの解答」を得たAqours(13話)。その「輝き」に向かって走り出すのですが...。

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そんな矢先、今度は「神が救いを与えない世界=現実」が彼女たちの前に立ちはだかります(14話)。

「予選敗退」そして「学校の統廃合決定」。自分達の「願い」だけでは越えられない「現実」という「壁」が彼女達の前に立ちはだかるのです。

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「圧倒的な現実」の前に立ち止まりそうになるAqours

しかし、彼女たちはそんな「現実」を突き破るため。今一度「自分の意思」で「未来を選択していくこと」。そこから発生する「希望」によって「現実を乗り越えていくこと」を選択します。

それはいわば「神のいない世界」への挑戦です

また、それと同時に、「神が救いを与えてくれる世界」へのアンチテーゼの物語としてこの「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品の物語が描かれているのでは?という仮説が浮かび上がってくるのです。

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そんなわけでAqoursは、常に「自ら運命を切り開かなければならない」存在

常に「自分」と向き合い、「自分の意志」で「未来」を決め、「運命」を「自分の手で切り開く」。そうやって生きていく「必要性」が彼女達にはあるのです。

 この物語構成には、そんな「ラブライブ!サンシャイン!!」ならではの精神性が根底にあるのでは。そしてそれが「ラブライブ!サンシャイン!!」独自の「個性」なのでは。物語を追いかける中で、そんな風に感じるのです。

一期そして、前回14話をもって、その考えはいよいよ確信へと変わったのですが、今回15話では千歌の「私の中の私に問いかけた」というような言葉や、花丸の「無」に対する考え方など、更なる「ヒント」が与えられました。

特に花丸が語る「無」に関する考え方は、「ラブライブ!サンシャイン!!」の精神性に大きな影響を与えている「ある存在」に対する気づきを、私に与えてくれました。

今回はそんな「ある存在」に関して、お話させて頂ければと思います。 

 

■花丸の「無」

歌詞の内容を決める際、花丸が持ち出した「無」に対する概念。その概念はなんとも「難解」なものではありました。

彼女はこのように語りました。

「すなわち『無』というのは、全てが無いのではなく『無』という状態がある、という事ずら。それこそまさに『無』!」

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僕がこれを聞いた瞬間に発想したのは「これって実存主義的思考かな?」というものでした。

 

となるとそもそも「実存主義的思考」とは。或いは「実存主義」とはなんぞや?というお話になっていくわけですが...。

少しややこしいのですが、まずはここについてお話せねばなりません。

(そんなもん常識だろ!という方は読み飛ばして頂いてかまいません)

 

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実存主義」とはフランスの哲学者兼文学者、ジャン・ポール=サルトルが「確立」した思想と言われています。

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ジャン・ポール=サルトル(1905年6月21日 - 1980年4月15日)


(元を正せばニーチェキルケゴールなども実存主義者に含まれるそうですが、ここでは必要のない情報なので、割愛します。)

実存主義」は、第2次世界大戦後「人間中心主義」すなわちヒューマニズム思想」を体現する「思想」として、広く愛されました。その影響力は日本にも波及し、一定の世代にとってサルトルの哲学とは「一般教養」であり「知らぬ人はいない」「哲学」でもありました。実存主義に関して書かれた著書「存在と無」は日本でも300万部のベストセラーとか)

 

実存主義」の基本的な概念として「実存は本質に先立つ」という言葉があります。

この概念を理解できれば、「実存主義」に関しては分かったような物。ちょっと頭が痛いかもしれませんが、お付き合いくださいませ(笑)。

サルトルはこの言葉の意味を「ペーパーナイフ」に例えて説明しました。

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「ペーパーナイフ」は、作られる段階で「紙を切る道具」として人間が作成するものです。

つまり作られる前に、まず「役割」がある。

この「役割」「本質」と呼びます。

その「本質」をもって「ペーパーナイフという物体」が作られます

この「ペーパーナイフという物体」そのものを「実存」と呼びます。「実存」とは「実体存在」の略と言われており、即ち「物体」そのもののことを示します。

まとめると、ペーパーナイフとは、作られる前から「紙を切る道具」としての「本質」を持って生まれてくる存在で、それは「実存」よりも「先にある概念」ということになります

つまり「本質が実存に先立っている」状態ですが、これがペーパーナイフという物の在り方です。

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対照的に「人間」は生まれてくる段階では「なにをすべき存在なのか」という「役割」即ち「本質」を持っていない(と、サルトルは定義しました)。

人間には生まれた瞬間には「本質」はなく、ただ「実存」だけがある。

何故なら「人間」には産まれる前段階で、そこに産まれる事の「目的」が無いのです。故に「本質」が無い状態。

即ち「本質」よりも前に「実存」がある状態なのです。

この状態をサルトル「実存は本質に先立つ」と表現し、「人間は生まれ持った本質が無い。だからこそ本質を自らの意志で作っていくのである」と主張したのです。

この「実存は本質に先立つ」という思想を根底とし、あらゆる事柄を考えていくこと(本来の意味では人間について考えていく主義)が実存主義であり実存主義的思考」と定義される。

まずはそういった理解を持っていただければ、この記事の意図も伝わるのかなと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、ここで話を15話に戻しましょう。

花丸が語った「無」に関する概念。

一応上の概念を念頭に置いてもう一度読んでみましょう。

「すなわち『無』というのは、『全てが無い』のではなく『無』という『状態がある』という事ずら。それこそまさに『無』!」

この考え方は非常に実存主義的思考」だなと思います。

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例えば「無」というものに「本質」があると定義すれば、その本質は「何も無い」という状態です。要するに「無」というものの性質は、本来は「本質」が先にあるもの

というよりも定義さえしなければ、「本質しか無いもの」とも考えられます。

そうなると本来であれば、我々はそれを「無」としてすら認識できないはずです。

 

しかし、我々人間は能動的に、何も無い場所を「無」として定義することが出来ます。

するとそこに俄かに「無」というものの「実存」が立ち上がります

 

本来は「何も無い」ので認知すら出来ない場所を、「無という状態(実存)がある場所」として認識できてしまう...というパラドックスが生じるのです。

またこの事実は、「本来は本質のみがある」ものに対して、「実存が本質に先立つ」状態を、意図して付与させる(あくまで概念としてですが)...ということが可能なのだ、という我々「人間」の持つ自在性をも証明する「事実」となり得るわけです。

 

こういった「自由な発想」を用いて物事を解釈する能力を含め、サルトル

「人間には予め決められた性質や未来などない」

「人間とは元来自由な存在である」

と定義しました。

ちょいとややこしいですが、それほど複雑な概念では無いと思います。

要するにサルトルは人間が持つ「自由意思」に「理屈」を付けて「証明」しただけに他ならないわけです。

ただしサルトルは、人間が持つこの「自由」について

「人間は自由の刑に処されている」

と少し変わった表現を使って、語りました。

「自由の刑」というのは、どういう意味なのでしょうか。


■「自由」とは

サルトルが何故「自由」を「刑」と表現したのか。

それは前段の通り、サルトルの考えでは人間だけが「実存が本質に先立つ」存在であり、その事実を「自覚できる」存在だから、です。

人間には「本質」が無い。すなわち生きていくうえでの「あり方」そのものが無い。故に人間には「定められた未来」が無い。

となると人間は生まれた瞬間から常に「自由」であり、「自由」の中で生きざるを得ない生き物なのだ...とサルトルは考えたのです。

本来「自由」とは、「何をしてもいい」と捉えられがちです。

しかし「何をしてもいい」という事実は、反面その生き方を難しくもします。

「自分が何をするのか」「何をしたいのか」「どのようにして生きていくのか」

我々は常に、そういった「未来」「自分の意志」で決めていく必要があるわけです。

ただ、もしもこれらが予め決まっていれば、確かに「楽」であることは否めません。

また何もせずに「ボーっと」していても、生きて行けるのであればそれもまた「楽」です。

しかし大概の人間においてはそんな状況はありえない。「不確定な未来」を背負い、その「未来」を自分で作っていかなければいけない。

即ち全てを「自分の意志」で決めて行かなくてはいけないわけです。

そのある種「不自由」な状態を、サルトルは「自由の刑」という言葉に現したわけですね。

元来「自由」な生き物、故に「自由に縛られる」人間の生き方。

不思議なパラドックスではあります。

とはいえ、これをなにも悲観的に捉える必要は無いのでは?と思います。

実際、サルトルもこの状況に関してはオプティミズム的に考えていました。

人間は常に「自由」である。

それ故に自らの「あり方」も「行く末」も「生き方」も、自分の「裁量」で選び、進むことが出来る

即ち「未来」とは常に「自分の手の中」にあり、その「可能性」は常に「開かれている」

そしてそのように、自分の「人生」を、自分の「意志」を持って能動的に作っていくことが出来る生物、それもまた我々人間だけなのです。

サルトルの提唱した「実存主義」が「ヒューマニズム思想」の中心として受け入れられた理由は、こういった「人間は本来自由である」という思考が、根底にあるからこそなわけです。

そして、この「自らの運命を自らの手で切り開く人間」という思考は、「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語が持つ姿勢ともぴったり合致すると思うのです。

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無神論実存主義

サルトルは「人間の成り立ち」において、「本質」を否定しました。これは結果としてキリスト教的な「神」そのものを「否定する」ことにも繋がりました。

キリスト教では、「神」が人間を作り、それぞれになんらかのメッセージすなわち「本質」を与えたと考えます(いわゆる原罪でしょうか)。そして人間はその「本質」を知り「原罪」を贖うために「神」への「忠誠」を誓い、「教え」と「救い」を請う。来世では救われることを願う。それが「キリスト教」的視点での「人間」の捉え方です。

即ち「人間」に関して、「実存」よりも先に「本質」があるのがキリスト教的な思考なわけです。

 しかしサルトル「人間が生まれることに理由も意味も無ければ、同じく死にもなんの意味も無い」と説きました。それはすなわち「神」の存在そのものが「無いのだ」と説くことと同じ意味を持ちました。

どこまでも「人間」の可能性を希求し、その結果「神」をも否定したサルトル

彼は「人間が自らの手で行先を決め、道を切り開いていく」ことにこそ、「人間が人間として生まれてきた意味」があるのだと、信じていました。

図らずもその思想は「神の存在を否定」し、「真っ向から現実へと挑み」「自らの力と意志で、自分達の未来を切り開こうとする」Aqoursの姿にも重なります。

もっと言うなれば、ここまでの「2期」の物語そのものにも重なるのでは?と思えるのです。

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アンガージュマン

サルトルは、人間は生きる上で常に「自分を未来へ投企しなければならない」と語りました。

「投企する」とは、「project」すなわち「前に向かって投げる」ことを意味します。これはもちろん比喩で、本質的には「未来に向かって行動を起こせ」という意味を示します。

人間には「定められた本質」は無い。それ故に「自らの未来を自らの意志で決めていかねばならない」。これは前段において書かせていただいた通りです。

その為には、常に社会に対して自らの存在を「投げ入れ」、その「価値」を問う必要がある。社会とは「他者」に見られ「他者」に評価されることでもある。

サルトルは「他者」を「地獄」と評するほど、「他者との接触」を恐れた人物でもありました。それでも敢えてその「恐れるべき」「他者」の群れである「社会」に「自分を投げ入れること」の価値を説いた。

そうして「社会」と密接に関わり、繋がらなければ「人間は生きていけない」のだとサルトルは考えていたからです。

こういった「社会への参加」行動自体を、サルトルアンガージュマンと呼びました。「アンガージュ」とは「束縛」というような意味を持つフランス語です。「アンガージュマン」はそれを発展させ「束縛させる」というような意味を持つ言葉になります。「アンガージュ」は英語では「エンゲージ」、あの「エンゲージリング」の「エンゲージ」と同義の言葉です。

「束縛させる」とは何に対してか。というと「自分の未来」を「束縛させる」という意味になります。これまで書いてきた通り、サルトルの考えでは常に「未来は不確定」です。それゆえに「未来」を自分で「作っていく必要」があります。

故に「自分自身がどうしたいのか」という「意志」を、「社会」という場所に「投企」することで、「自分の在り方」を作り、行先を「自分の中において」確定させる。そして、その「道」に向かって歩みを進める、という行動が必要だと説いたのです。

「不確定な未来」を肯定するのに、なぜ自分主導で「自らの未来」を「束縛する」必要があるのか。そう思われるかもしれません。

前段の通り、人間は常に「自分の生き方」を「自分で決めなければならない」。しかし何の「希望」も無ければ進むべく「未来」すら描けない。だとすればその「未来」の図を自分で作る。そしてそこに進むべき「動機」を「希望」として作り続けなければならないサルトルにはそのような思いがあったようです。

サルトル「希望」を持つ事こそが、結果よりも重要なのだ、と晩年には説き続けました。

こういった「目的」よりも「過程」を重視する思想も、「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語との近似性を強く感じる部分です。

彼女達にとって「ラブライブで優勝する」ことも「学校の廃校を阻止すること」も「生きる上での目的」です。それは彼女達にとっての「希望」にほかなりません。

しかしその果ての「結果」は、実のところそこまで重要な物ではないのです。

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(もちろん過程の果てに目的を果たせれば、それに越したことはないですが)

 「ラブライブで優勝」を目指し、「学校の廃校阻止」を「希望」として標榜し、活動するなかで「どのような輝き」を残すことが出来るのか。

それが「ラブライブ!サンシャイン!!」という物語の主軸になっていくのでは。そんな予感がするのです。

また「アンガージュマン」の思想の原点には「物言わぬ存在になるな」という物もあります。

「不満や不平を感じていても、行動せず、何も言わないのであればそれは何もしていないのと同じ。すなわち死んでいるのと同じ」
「成し遂げたいことがあるのなら、結果のことなど置いておいて、まずは行動せよ。参加せよ。」

サルトルは説きました。

「まずサイを投げよ。さすれば自ずと結果は示される」

とも言いました。

「輝きたい」

そう願いながら、何をすれば良いのか分からなかったAqours

そんな彼女達が「スクールアイドル」という「可能性」と「未来」へ「自らを投企」する。そうやってまず「サイを投げる」ことで、自らの「未来」を作って行こうとする。

そんな行動からは、やはりこの「アンガージュマン」の思想への近似性を感じざるを得ないのです。

 

 ■「投企」と「未来の僕らは知ってるよ

上記の「投企」を頭の中に収めると、不思議とAqoursの楽曲との結びつきも感じられるようになります。

例えば2期OP「未来の僕らは知ってるよ」のAパート。

遠くへ遠くへ声が届くように

もっと大きくユメを叫ぼうか

 という歌詞が登場しますが、これは正しく「未来」へ向けて「希望」を「投企する」行為そのものに思えます。

(希望でいっぱいの)

今日が明日を引き寄せるんだと

という歌詞も「今行動を起こす」ことで「不確定の未来」を「自分のもの」として引き寄せる...という「投企」の概念に当てはまります。

サビの

未来をどうしようかな

と言う言葉からは「未来を自らの意志でどうとでも変えられる」という強い意志を感じます。これもまた「投企」の概念と同じものです。

主題歌とは、その物語全体のテーマを示すものです。そう考えれば「投企」もまた「ラブライブ!サンシャイン!!」のテーマを語る上で外せない概念であるように思えてきますね。

実はこの「投企」をテーマとして明確に持った楽曲がもう一つあるのですが。それは恐らく16話(2期3話)での「キー」となる楽曲のような気がするので、その際にお話するようにいたします。

 

■いま希望とは

サルトルが残した最後の言葉。

それは「人間の運命は、人間の手中にある」というものでした。

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人間は本来自由である。しかし自由であるということは同時に「刑」でもある。ただ傍観しているだけでは、人間は「自由」に「殺されている」のと同じ。だからこそ「戦って」「自由」を「自分のもの」にする。「未来」を自分手動で作り上げていく。

その「あり方」を決めるのは、常に「人間なのだ」と、最後まで「ヒューマニズム」を信じる言葉を残しました。

そして「戦うため」に「自由」を感じるためには、常に「希望」が必要だとも語りました。

どれだけひどい状況で、絶望しかなかったとしても、それでも人間は「未来」を生きていかざるを得ない。その為にはほんの少しの「希望」。まやかしでも、ごまかしでも構わないからちょっとした「希望」を常に主体的に「作りつづけなければならない」。

サルトルは最後まで「希望」という概念を大切にしていました。

ラブライブ!サンシャイン!!」は「人間たちの物語」なのではないか。以前僕はTwitterでそんな風に書きました。

「神」の救いがなくとも、「人」が「人の力」を信じ、「希望」を持って、「現実」と戦い続ける物語それが「ラブライブ!サンシャイン!!」なのではないかと。

そして、この記事を書く最中で、やはりその感覚は間違いでは無いのかなと感じています。

何故なら、サルトルが提唱したのは「人間中心主義」、即ち「人間が主役となる世界」のことであり、「ラブライブ!サンシャイン!!」はそんなサルトルの思想と強く共鳴し合った「人間が主役」の物語なのですから。

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最後に、死に際したサルトルのメッセージを書かせていただきます。サルトルはこの言葉を残した1週間後に亡くなった...と言われています。

「世界は醜く、不正で、希望が無いようにみえる」

といったことが、こうした世界で死のうとしている老人の静かな絶望だ。

だがまさしく、私はこれに抵抗し、

自分では分かっているのだが、希望の中で死んでいく。

ただ、この希望。これを作り出さねばならない。

現実に深く絶望しながらも、そしてその現実から間もなく自分が「いなくなる」ことを実感しながらも、それでも「希望」を信じ、「希望を作り出さねばならない」と、未来に「投企」し続ける。

そんな彼の姿勢は、とても美しく感じられます。

どうしようもない「現実」に打ちのめされても、とても覆せぬ「絶望」が待ち受けていようとも、その対象と「戦う」。「自由」を謳歌するために「戦い続ける」。

「戦った先」で「結果を残せなかった」としても、そこに「未来へと続く希望」を作り出す。「戦い続けるための「希望」を生み出す。

そんな「希望」を作り続ける「人々」の戦いを描いた「物語」

それがAqoursの、「ラブライブ!サンシャイン!!」の物語なのかもしれない。今はそんな風に感じられるのです。

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 ということで、サンシャインとサルトル実存主義に関するお話なのでした。

長々とすみませんでした!

今後もこの「Dig」は続けていきたいなぁと思いますので、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

 ※説明不足多数のため加筆いたしました。(2017年10月21日)

実存主義とは何か

実存主義とは何か

 
サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)

サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)

 

 

~Aqoursという「人格」~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 第15話「雨の音」

皆様こんにちは&こんばんは。

今回は15話「雨の音」のハイライトをお届けしようと思います。

今回ちょいと時間がかかったのは、物語を表面的にとらえると非常に簡易な内容になってしまいそうで。とはいえ、お話自体には、もっと「深い」何かがありそうな、掘り甲斐がありそうだなぁと感じ、掘り続けてしまったせいです(笑)。

結果、内容に煩悶し、自問自答する...という今回のお話そのものの状態になってしまいました。

結果、得たインプレッションで説明しづらい要素のものに関しては、更なる深堀りカテゴリー「Dig」を用意し、そちらにて披露させて頂こうという結論に至りました。

ですので、こちらの「ハイライト」に関しては、通常通りのテンションで行きたいと思います。

お待たせした割には平易な内容で恐縮ですが、もっとややこしいものは、そちらの「深掘り=Dig」カテゴリーをお楽しみくださいませ。

 

それでは参りましょう。15話(2話)「雨の音」です。

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■条件

0に戻ったとしても。続ける意味すら無いとしても。

それでも進むと決めた千歌。そしてAqoursのメンバー。

鞠莉はもう一度父親に掛け合うことに。

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食い下がった結果出された条件は、「100人の入学希望者を集める」こと。10人集めるのにも四苦八苦したにも関わらず、その10倍を集めるというのはとんでもない条件。

鞠莉の父も、鞠莉に根負けし、「話を終わらせるため」に出した条件のようにも映りますが...。

とはいえ、本当は「終わっていたはずのもの」を蘇らせたAqours

そしてその成果はメンバーによる「粘り」が生んだもの。このように「運命」を「自らの手」で「力づく」で切り開いていくのが、Aqoursの物語。

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確かな目標の一つである「入学希望者」という数字を取り戻し、Aqoursは再び走り始めます。

 

■曲作り

とはいえ、学校説明会もラブライブ地区予選もすぐに始まってしまいます。

ラブライブ予選では「新曲」こそが参加の条件。

また入学説明会参加者にインパクトを与える」ためにも、新曲が必須と言う状況。

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現状楽曲および衣装を担当しているのは、2年生の3人。

故に短期間での楽曲作りは、明確に彼女達のウェイトとなるものです。

この問題をAqours」全体で解消する必要が出てきました。

 

■2年生以外

過去に、「Aqours」と名乗りスクールアイドル活動をしていた3年生3人(以後旧Aqours)。

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以前には3人がそれぞれ役割分担し、楽曲製作も担っていました。

その中で産まれた楽曲未熟DREAMERは、1期のハイライトとなる第9話で登場し、物語上でも非常に重要な役割を果たしました。

また、この楽曲の完成度を以てすれば、Aqours内の「第2の製作部隊」として、しっかりとした仕事がこなせそうな気もします。

そんな中明かされるのは、ルビィが旧Aqoursにおいても、衣装担当補助として活動していたという事実。

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その事実が閃きを与えたのか、鞠莉の発案によりAqours「2年生チーム」「3年生+1年生チーム」の分業体制で、今回の楽曲作りを行うこととなります。

このシナリオ構成の狙いとは、明確に「1期で描き損ねた要素の補てん」ならびに、「Aqoursがチームとして連携していく必然性の補てん」という2点の「補てん」にあるのでしょう。

1期では新Aqoursを担う2年生3人と、旧Aqoursの中心であった3年生3人の物語を同時並行的に描きつつ、両者が「交わる」ことを物語のハイライトとして設定しました。

その物語はとても魅力的で、感動的でもあったのですが、反面各キャラクターそれぞれの内面や個性を描く時間が足らない!という現象が起きてしまいました。

特にその影響をうけてしまったのは「1年生3人」で、序盤に主役回があったものの、後半では「賑やかし役」に徹している感は否めないものがありました。

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また、1年生と3年生の絡みもほぼ皆無

ラブライブ!は「チームもの」である以上、メンバーそれぞれの結びつきと信頼関係の成熟を描くことが大切になっていきます。

※1期10話は合宿回ではありましたが、物語の焦点はどちらかといえば、チームの連帯というよりも、2年生3人の物語のフックとして利用された感があります。

そう考えれば今回の物語は、本家「ラブライブ!」における「1期10話」や、「2期2話」のような「チームとしての成熟」についての物語が描かれる回となったのかもしれません。

とはいえ、その視点はあくまでも「サンシャイン」独自のもの。本家とは少し「異なるもの」になりました。

どこがどう「異なる」のか、というのは後述するようにいたします。

■鞠莉宅にて

鞠莉宅でのあれこれは、合宿回故のサービスシーンでしょうか。

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とはいえ、自由奔放な果南や、知られざる鞠莉邸の実態など、これまで描かれなかったキャラクターの側面やバックボーンが描かれたのはとても興味深い部分でした。

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この像は、親バカ故なのでしょうか。
それとも鞠莉そっくりなだけで、実は鞠莉の母君がモデルだったりするのでしょうか。

 

■ぶつかり合う個性

楽しく豊かな鞠莉宅での時間。

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反面、全く作業が進まなくなり、「中間」をとって以後黒澤家で作業継続することとなった6人。曲のアイデアを出しあうことに。

花丸が提示したのは「無」。
「無とはすなわち無にあらず。何故なら無という言葉がある時点で無という意味が”存在”してしまっている。」

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この極めて「哲学的」なテーマに賛同を示すのは善子。

厨二病と哲学の相性は抜群なのです。

ラブライブと哲学を巡る冒険に関しては「Dig」にて書かせていただきます。

反面意味をさっぱり呑み込めない鞠莉と果南。

「もっと分かりやすいもの」ということで、鞠莉は書き溜めていた楽曲を披露することに。

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「披露するのは、ニネンブゥリデスネー」オゥオゥオゥオゥオゥオーオゥ

ということで、披露される鞠莉作曲の楽曲。

その曲調はなんとハードロック。そしてヘビメタ。

そういえばロック好きという設定ありましたよね。ということで、忘れていた設定がここでしっかりと発掘されました。

ノリノリの鞠莉と、理解を示す3年生二人。

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反面拒絶反応を示す1年生3人。

特に花丸が「雑音」とまで呼んで忌み嫌うのは、ちょっと意外でした。

(この辺の元ネタなんとなく想像が付いているので、どこかで披露したいところ)

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■本家への「オマージュ」とその「目線」

どうにもすれ違ってしまう花丸&善子と果南&鞠莉。とはいえ作曲は共同作業。仲良くなるきっかけが欲しいのですが。

そんな中、仲良くなる為には「遊んで」仲良くなる!脳筋的な発想の果南が選んだのはドッチボール。

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これには鞠莉もノリノリです。

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ここでドッヂボールという「ボールをぶつけ合うだけ」の競技が選ばれたのは、本家「ラブライブ!」の1期10話「先輩禁止!」におけるまくら投げへのオマージュにも思えます。

μ'sは「まくら投げ」という理屈の無い遊びに、「理屈」に拘って壁を越えられないでいた真姫を巻き込むことで、チームへの同化を促しました。

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しかし、Aqoursの場合には、そう単純には済みません。
元々インドアで運動が苦手な1年生チーム。
ゲームが成立する前に、あっさり「負けて」しまいます。

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ドッヂボールでは「同化」することが出来なかったAqours

今度は1年生チームのホームへ。

場所は図書館。

花丸とルビィの最初の出会いが図書室であったように、インドア派の1年生にとって、図書館は憩いの場所です。

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しかし、ここでは生来のアウトドア派である果南と鞠莉が馴染めない...。

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両者の本質の違いを読み取ったダイヤが提案したのは、「裸の付き合い」

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これまたμ'sの合宿回ではなじみ深い場所ですね。

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μ'sは裸になって本音を語り合うことで相互理解を深めましたが、Aqoursはここでも理解しあえません。

すぐに風呂から出たがる果南と鞠莉。温泉を楽しむ花丸とルビィ。

両者は理解しあう様子すらみせないのです。

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ここから考えられるのは、これらのシーンが徹底して、μ'sが用いた「相互理解」のモチーフを否定しているということ。
とはいえ別にμ'sを否定しているわけではありません

あくまでもAqours」というチームが「μ's」というチームとは「別」の存在であること。それ故に相互理解の方法も異なることを明文化する為の演出という気がします。

そしてそれは次のシーンでも継続されます。

 

■雨の中進む物語

突如降り始める雨。

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これまでのラブライブ!の文脈でいえば「良くないこと」「物語が停滞する」ことを象徴する「雨」。

ルビィもそんな雰囲気に当てられてか「なんにも進んでないのかも」と弱音を吐きます。
しかし、今回はこの「雨」の中で、停滞していた物語が「動き出す」のです。

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雨宿りの場所として選ばれた花丸の知り合いの「お寺」。

そこで6人は、チームとしての「連帯」を手に入れることになるのですから。

こういった描写からも、これまでの「ラブライブ!」の物語を逆説的に捉える視線というものを感じますね。

 

■相互不理解

何もいないお堂の中。

特にすることもないので、作曲作業を継続しようとするメンバー。

善子の作詞ノートを見つけた花丸たちはその内容を読みますが、あまりにも独特な内容でやはりだれも理解が出来ません。

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「決定的に理解しあえない自分達」

お互いのことを知れば、仲良くなれる。そうすれば自ずとチームとしての連帯が生まれ、作曲もできるはず。

そう信じていたにも関わらず、お互いを知れば知るほど、その「溝」が大きくなって行くように感じてしまいます。

「ルビィたち、そんなに違うのかな」

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そんな弱気な言葉に、正しく水が刺されます。

 

■雨音

黒澤姉妹に浴びせられる「冷や水」

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その正体は古いお堂の「雨漏り」でした。
雨漏りを防ぐため、お寺のあちこちからお皿やお椀、お盆など「雨を受け止める容器」を持ち寄るメンバー。

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そこで思いもよらぬ出来事が。

雨を受け止める様々な形の容器が、様々な音色を紡ぎだし、それが不思議なアンサンブルとなって「音楽」を紡ぎ出したのです。

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それはAqoursに天啓を与えました。
同じ雨でも、雨漏りの穴の大きさや、受け止める容器によって、別々の音を出す。

それは自分達も同じ。

同じ人間でも、育った環境や、性格によって、様々な個性を持つ。

決して「均等」ではない「個性」を持った自分達。

しかし、それらが重なったとしても、決して「不快な音」にはならない。

かえって、別々のリズムや音色が重なった方が、味わい深い「音楽」を生み出す

雨音から「楽曲」のインスピレーションを受けただけでなく、「自分の在り方」そして「自分達の在り方」に関しての気付きを得た6人。ようやく、今回の物語の「答え」を得るに至ったのです。

■装置としての仏像と「半眼」

今回重要なシーンで意味ありげに登場した「お寺」と「仏像」というモチーフ。

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これらが存在する場所で、6人がある種の閃きを手にする...というストーリーは「神」を否定する「ラブライブ!サンシャイン!!」という作品には似つかわしくないなぁ...と、個人的に少し混乱しました。

しかし、これらの存在、特に「仏像」を「神」のメタファーではなく「仏像そのもの」として認識すれば、これ自体が今回の物語を現す上での「舞台装置」として用意されていたのだ...となんとなく腑に落ちました。

やたら「顔」をアップされることが多かった仏像。

仏像にも様々な特徴があるのですが、今回において特徴的に使用されたのは「半眼」という要素でしょうか。

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仏像における「半眼」の意味は下記のように説明されています。

お釈迦さまの目は、半眼であったと言われております。
目を半分くらい閉じておられたということは、自分の心を、内面を常に見つめておられたということです。
人の心の中にあることは、自分の心にもあるのだ、と内省されていたのであります。
この内省を欠いてしまうと、私たちの目は外の物事に向いてしまって、外が悪い、他が悪い、あいつが悪い、という方向に行きがちです。
ですが、そうではなくて、自分を見つめていく。
それが人と仲良くしていく一番大事な点です。
これはもう、夫婦とか親子とか、あらゆる関係の中にあてはまることなのです。

他者の振る舞いを見て、その「良くないところ」にだけ目を付けるのではなく、
その「在り方」を通して、改めて客観的に「自分の内面」を見つめ直す。
そうすることで改めて「他者の在り方」とその「価値観」を「理解する」ことが出来る。
「他者を知る事」とは「自分を知る事」であり、「自分を知る事」もまた「他者を知る事」に繋がる。

そんな今回の物語のテーマに対する「モチーフ」として、仏像も用意されたのかもしれない。

そう思えるのです。

 

■私の中の私

朝。

屋根に上がって朝日を見つめる千歌。

どうやら千歌も作詞が完了したようです。

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「輝き」とはなにか。

その答えを「私の中の私が教えてくれた」。

これもまた前述したような「自分を見つめる」すなわち「自問自答」に通ずる意味合いの言葉です。

 

今回の物語をマクロ的に読み解いてみると、Aqoursという「一つの人格」内で行われた「自問自答」をメタ的に描いた物語なのかな?と思えます。

「遊び」や「体を動かす」という「アクティブな衝動」に駆られる果南と鞠莉は人格内での「煩悩」を示すもの。

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逆に「「知的欲求」を高め「精神的に満たされたい」と考える花丸と善子は「悟り」を示すもの。

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ダイヤとルビィはその両者に理解を示しながら揺れ動く「理性」

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それぞれがぶつかり、煩悶する中でAqoursとは何なのか」という答えを追い求め、その答えを得る。
そうすることで、ようやくAqours」という「チーム」の一つの「人格」が生まれていく

「チームとしての結託」と「個性の獲得」を、「μ'sとは違う」「Aqoursならではの視点」で描いた物語という意味で、今回もまた「ラブライブ!サンシャイン!!」らしい意欲的な回だったな!と思う次第であります。

 

ということで、15話のハイライトでした。ホントはもう少し深い視点での見方があるのですが、そこをこのハイライトに加えるとグチャグチャになるので避けた次第です。そちらはただでさえ一般受けしない当Blogで、より一般受けを避けたような内容になると思います。ホントに興味のある方だけお読み頂ければと思います(笑)。

あぁ、大変だった。

ということで、今回もお付き合いいただき、ありがとうございました!

 

~なぜしいたけは吠えたのか~ラブライブ!サンシャイン!!2期14話(1話)無駄話(これがホントの無駄話)

注意:本稿はどうでも良い与太話です。

 

■しいたけ

ラブライブ!サンシャイン!!2期第1話(このブログでは14話と表現しますが)を見ているなかで、どうにも理屈が分からないシーンが「しいたけの一連の登場シーン」とその「意図」で。

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高海家の愛犬、しいたけ。

今回主要人物(動物?)というわけではないのに、やたらと登場シーンが多かったですよね。

そんな中でも、ファーストシークエンスとラストシークエンスでの登場は非常に印象的で。にも関わらずその「意図」が不明なのが、地味にモヤっていたのです。

(そもそもそんな重要な意図なんざないよ!という突っ込みはこの際置いておいてくださいw)

 

■「犬」が「吠える」お話。

そもそもモヤモヤする要因は「犬」が物語における重要なパーツとして存在し、それが「大事な場面で吠える」物語が、頭の隅っこでなんだか思い当るものがあり。それがなんなのかが「ハッキリと思い出せなかった」からでもあるのですが。

その正体をふとした拍子に思い出した瞬間に、この「しょうもない記事」の着想が浮かんだのです。

さて、その「物語」の正体はと言いますと、「人類は衰退しましたというライトノベル作品なのでした。

元々はエロゲ作家として「加奈~妹~」「家族計画」「CROSS+CHANEEL」などの名作、話題作、問題作を生み出していた田中ロミオ氏(旧名山田一氏)。そんな同氏が初めて挑戦した「ライトノベル」。それが「人類は衰退しました」です。

一見児童文学のような絵や暢気な物語に反比例して、この物語の世界では「人類が緩やかに衰退を迎え」「もう間もなく滅ぶ」というなんともディストピアな世界観で、(その代わりに人類として台頭しているのが妖精さんなのです)とにもかくにも意欲的かつ最高に面白いお話なので、興味のある方は是非読んでみてほしいのですが(アニメ化もしてますよ)。

             

                 ~閑話休題

 

 この小説の原作では2巻、アニメでは7・8話にあたるエピソード「じかんかつようじゅつ」。細かい内容はこんな狭いスペースで書けるほど単純でも、分かりやすくもないので、是非原作を読んでいただきたいのですが。

このエピソードでは「タイムトラベル」とそれによって引き起こるタイムパラドックスに関する独自の考察が描かれます。

その中で一つ基本的な知識として持っておきたい「タイムトラベル」に関する考え方が、「犬の尻尾理論」ですね。

この考え方「タイムトラベルが現実的には実施不可能であることを証明する」理論の基本的なものとして有名だそうです。

その考え方とは...

「一人の男が、自らの親を殺すことで、自分の存在を抹消しようとする」

→「過去に移動した男は、自分の親を殺そうとする」

→「しかしなにをしても親を殺すことだけはできない」

→「それは未来に存在するはずの自分が、自らの存在自体を抹消しようとする行為そのものに矛盾が発生しているから」

→「すなわち、既に確定している未来は、過去をどう変えようとも変化しない」

よって、この「矛盾」を解決できない時点で、「タイムトラベル」そのものも実施不可能である...という理屈です。

この「未来を変えようと思い、過去を変えるものの、それがいつまでたっても未来への影響を与えない」という状態が、「自分の尻尾を永遠に追いかけ続ける犬」に似ていることから、この考えは「犬の尻尾理論」と名付けられたわけです。

とはいえ、この考え方にもさまざまな矛盾や、突っ込みどころが存在し、それについての議論も多々あります。

この「人類は衰退しました。」でのエピソードも、その矛盾点を突く...というかおちょくるような物語でした。

「過去の改変」が「未来に影響を与えない」というのならば、「過去を変えようとして起こしたほんの少しの変更点」そのものは、「未来においてどう消化されるのか」。「人類は衰退しました。」では、その「ほんの少しだけ変わった未来」がどんどん蓄積されていくことで、結果として「未来が改変されてしまう」という「タイムパラドックス」が起きていました。

その「タイムパラドックス」、即ち「タイムトラベル」を引き起こすきっかけが「犬が吠える」というもので。

これは「タイムパラドックス」と「ドッグ=犬」を絡めたダジャレというだけではなくて、本来「未来の改変を否定する」象徴である「犬の尻尾理論」の主役である「犬」が「タイムパラドックス」を引き起こす「きっかけ」になる...という意味での二重ギャグにもなっていたのでした。なんと分かり辛い。

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まずい、ここまでの話、今回の本筋と「そんなには」関係ないのです(笑)。

要は何が説明したかったか、というと「犬」という記号が「表すもの」ってなんなのかという話で。

それって恐らく「犬の尻尾理論」の根底にある「過去を変えることで、未来を変えられるのでは?」という「願望」なのかなぁということなのです。

そしてその「犬が吠える」という表現は、「過去を変えたいという願望」のメタファーなのかなぁ...みたいなぼんやりした考えなのです。

 

■しいたけが吠えるポイント

ようやくサンシャインに話が戻るのですけど。物語冒頭、しいたけが吠えます。これはおそらく千歌の夢の中で。

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この時、千歌は夢の中で「変えられなかった過去」を悔いています。要するに「過去に引っ張られた状態」であること。だからそれを指し示すように「犬」が吠える。「過去を変えたいよ!」と。

しいたけは、「過去に引きずられた千歌」の精神状態を現す、「装置」としてこの回では存在しているのかなぁ...と思えてくるのです。

ただし、この時点での千歌にはまだ「希望」がありました。それは「入学希望者の増」という情報です。だからこの「過去」に執拗には引きずられない。しかし、その「希望」が途絶えた瞬間、千歌は一気に「過去」へと引きずられていきます。

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ラブライブの予選に勝って、本大会に出場出来てたら運命は変わっていたのかな」

この発言はまさしく「犬の尻尾理論」の根底となるもの。「過去を変えれば、未来が変わったのでは?」という考え方です。

千歌が「過去」に引きずられていることに気付くから、しいたけはまた「吠える」。

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しかし、千歌は梨子の言葉や、それぞれの出来事から頭を切り替える。いや、むしろ無理やり前向きになろうとする。

早朝、何かを思いついたように走り出す千歌。

その背中にひと吠えしたあと、しいたけは千歌に続いて駆け出します。

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千歌はそんなしいたけに一目もくれず走る。むしろ、しいたけを振り切ろうとしているようにすら見えます。そんな千歌にまたしても吠えるしいたけ。しいたけが「吠える」のは、千歌の中にまだ「過去を変えたい」という願望があるから。しかし千歌はいよいよ、しいたけを振り切って校庭へと駆け込みます。

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このシーンは「過去を変えれば未来は変わったのでは?」という「幻想」を、千歌自身が必死に払いのけようとして、そして遂に振り切った...という状況へのメタファーに映るのです。

しいたけを振り切ったと同時に、「もう泣かない」「泣くもんか!」と誓う千歌。それは「変えられるはずのない過去を変えられたら」というような、自らの心に巣食う「弱さ」とそれがもたらす「幻想」への決別宣言。そしてまっすぐに「現実」と、これから自分の力で変えていく「未来」を見据える。この一連のシーンには、そんな意図もあるのかなぁと思えるのです。

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しいたけにとってはちょっと損な役回りですけど、これも彼が「犬」故の役回りだったと思ってもらうしかないのかもしれませんね(笑)。

 

というわけで、どうしようもない戯言なのでした。

一つ誤解なきようお伝えすれば、しいたけが元々作品において「そういう役回りをもって登場しているキャラクター」とは考えていません。あくまでも「今回のお話での役回り」のことですので、誤解なきよう。

あとしつこいようですが、これかなりの極論なので、その程度のものだと思って読んでくださいませね。

「見方は自由」で「無限大」であるというお話でした。

それではまた!

 

 

~世界の片隅で「がおー」と叫んだ普通怪獣(けもの)~ラブライブ!サンシャイン!!2期ハイライト 14話「ネクストステップ」

皆様こんばんは、或いはこんにちは。

ようやく今日からラブライブ!サンシャイン!!2期のハイライトをお送りできることを嬉しく思います。これから毎週皆様と「泣いたり笑ったり」を繰り返していけたらいいなぁと思う所存です。よろしくお願いします。

さて、2期ハイライトを始めるにあたって当Blogに関して改めて説明を。

当Blogは私、魂が自らのインプレッションを発露する場所であり、決してこの考察が正解だとか、そういう風に捉えて頂きたいわけではありません。私、1ファンに過ぎず、関係者からの言質が取れるわけでもございませんので。

また基本的に本Blogは物語に関して「肯定的」な意見を述べる部分が多いと思います。というのも筆者が「基本ネガティブなことはあまり書きたくない」という人なので。そういう批評をご希望の方は、ワタクシのBlogはあまり合わないだろうなと存じます。。何卒ご容赦を。

どちらかといえば「こいつ色々考えるな、そういう考え方もあるんか、ほーん」くらいのテンションで読んでいただきたいブログであり、そういうテンションで書いているということだけ予めご理解のうえご一読頂ければと存じます。何卒よろしくお願いします。

...などという自己防衛を挟みつつ(笑)早速参りましょう。第14話「ネクストステップ」です。

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■迷い

前回ラスト自分なりの「輝き」の正体に気付いたはずの千歌。それなのに再び「輝き」の正体に惑い、迷います。

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それは信じたはずの「輝く」方法で「次に進めなかったから」
自分の中にある「輝き」を信じて進めば、結果は後からついてくる。
そう信じて挑んだはずの東海地区予選で惜しくも敗退。本選には進めず。

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それでも「0」だった入学希望者は「1」に。さらに増えて「1」から「10」に。

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ラブライブ本選に進む」

その目標を具現化できなかった彼女達にとって、着実な「実績」として視覚化できる「入学希望者の増」はスクールアイドルを続ける中での目標となり、モチベーションとなるもの
そして発表される「次のラブライブ」。
ほんの少しの差で届かなかったものを、しっかりとした「形」にするために、千歌たちは、もう一度走り出すことを誓う!

...のですが。


■沼津へ

秋になり終バスの数も減る内浦。

沼津市在住の善子は早めの帰宅を余儀なくされることに。とはいえ、「ラブライブ」という目標の為に練習は必須。どうしたものか。

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内浦で遅くまで練習できないのなら、逆に沼津で練習してはどうか。(沼津→内浦のバスは割とあるという)

Aqoursは練習拠点を沼津駅近郊に移すことになります。

沼津の内浦を拠点とするアイドルが、更に大きなエリアで、より大勢の「味方」を見つけていく。
「みんな」の絶対数を増やすことは、「スクールアイドル」の祭典「LoveLive」で勝ち抜くためには必須の行動。
意図的ではないにせよ、この練習場所の変化は後々に影響を与えそうな気はします。

 

■統廃合決定

次なるラブライブに向けて準備を進めるAqours
そこで明かされるのは、小原父からの「統廃合決定」の通達です。

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これまでも目に見えないところで、「統廃合阻止」に向けて奔走してきた鞠莉。
そんな鞠莉の制止が遂に利かなくなったリミット発令。

この「現実」はAqours明確な「ダメージ」を与えます。

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彼女達が「ラブライブ」出場以外で手に入れられる「進んでいること」の証。それは「入学希望者を増やすこと」でした。

そんな数少ない、いやもはや彼女達を繋ぎとめる「唯一」の「希望」が目の前で「無」になる。暗中模索の活動の中で、ようやく目視できる目標を見定めていたにも関わらず、それがあっけなく「0」に戻ってしまったのですから。

そのダメージはやはりとてつもないものなのでは、と想像できます。

「統廃合が既に確定路線だったのにショックを受けるのは違和感を感じる」という意見ももちろん理解できます。しかし、それはあくまでも「メタ的」な視点をもった我々の意見のような気がして。
当事者たる彼女達は、そんな現実をあっさりと受け入れられない。
あまつさえ、「0」を「1」にすることですら、彼女達にとってはとても重要な出来事だったのですから。

またあくまでも「スクールアイドル」である彼女たちにとって、やはり学校はとても大切な場所。この学校が無ければ「出会えなかった仲間たち」がいる。その拠点となる場所が「無くなる」という事実は、そう簡単に受け入れられることでは無いはずです。

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■大人は敵ではない

鞠莉が闘ってきた強大な敵。しかし、その敵の正体とは決して=「鞠莉の父親」ではないはずです。
地方の学校の統廃合と、東京の学校の廃校問題はやはり同じベクトルでは測れない。そこには複雑な、一筋縄ではいかない事情が明確にあるはずです。

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そもそも鞠莉の父親は、娘のわがままに応じて、彼女を理事長代理に就かせることまで許容するような「大きな人物」です。そんな人物が下す「どうしようもない」という結論。それはある程度尊重すべき結論です。
鞠莉の父親と戦うことでは解決は見いだせない。だからこそ、その対決は描かない。

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この辺りはラブライブが一貫して大切にしている「大人を敵として設定しない」が守られているなと思った部分ですね。
では、彼女たちが戦う敵とは「何」なのか。そのあたりがこの回のポイントなのかなと思えます。

 

■鞠莉の「テヘペロ」と千歌の「そうじゃない」

鞠莉のテヘペロはもはや、「どうしようもない現実」を明確に感じさせる、辛い心情表現だなと思います。

泣き叫ぶわけでもなく、思いきりおどけるのでもなく、自分らしくただ素直に「ごめんね」と謝罪する。そこにほんの少しだけ鞠莉のエッセンスを加える。どうにも「大人」な謝罪。

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その対応に「違う、そうじゃない」と答える千歌。千歌のそうじゃない、は鞠莉の態度に対してのもの。

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千歌は鞠莉にそんな「大人な対応」で答えてほしくない。
物わかり良い大人みたいな「諦めた」対応をしてほしくない。最後まで「戦ってほしい」。自分と同じく立ち向かってほしい。

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でも戦う相手は「鞠莉の父親ではない」ことも、この時点で千歌は気づいている。だから自分の感情に整理がつかない。そんな自分の感情の混乱も含めて「そんなんじゃない」と呟くのかなと、そう感じました。

 

■廃校阻止

ラブライブの予選に勝って、本大会に出場出来てたら運命は変わっていたのかな」

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サンシャイン世界では「学校を廃校から救った」ことになっているμ's。

しかしこの「学校を廃校から救った」というのは、ラブライブ世界線において最も「嘘」に近い部分のような気がしています。

実際のアニメではμ'sは具体的には「学校を廃校から」救って「いない」からです。

アニメでは廃校問題そのものはマクガフィンとして扱われ、その問題自体もデウスエクスマキナ的にあっさりと解決してしまいました。
それ故に、実際にμ'sの活動と廃校阻止にどの程度の因果関係があるのかは、不明なままなのです。

ただし、千歌はそれを知らないからこそ、思い悩む。

μ'sが「自分を信じて」「楽しんで」「大きな輝きを手にしたように」、自分達も同じように「自分を信じて、楽しめば、結果はついてくる」はず。

そのはずなのに「自分達は全然思惑通りに進めない」

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あの日掴んだはずの「輝き」が雲散霧消していくような気持ち。

ここから感じるのは、Aqoursの物語には「デウスエクスマキナ」はないということ。彼女たちには、ただただ「現実」が立ちはだかる。

その「現実」はやはり重石となって彼女を苦しめます。


ラブライブに出ること

「輝くこと」の意味に再び迷う千歌。

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信じたはずのものが足元から崩れていく。どうしても自分自身に対して疑心暗鬼になっていく。

なぜラブライブに出るのか。

なぜスクールアイドルを続けるのか。

そして、どうしたら「輝ける」のか。

答えを見失う千歌。

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そんな千歌を励ますのは、梨子です。

 

■梨子の言葉

「私ね...こうなったのはもちろん残念だけど」
「ここまで頑張ってこれて良かった...って思ってる。」
「東京とは違ってこんな小さな海辺の私達が、ここまでよくやってこれたなって。」

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梨子が語る言葉は8話「くやしくないの?」で千歌が全員に向けて言った言葉をわざと模倣したもののように思えます。

8話での千歌の言葉

「私は良かったと思うけどな」
「精一杯やったんだもん。努力して頑張って東京に呼ばれたんだよ。それだけで凄いことだと思う。でしょ?」「だから胸張って良いと思う。今の私達の精いっぱいが出来たんだから。」「満足だよ。みんなであそこに立てて。私は嬉しかった」

 それは多分に「ウソ」の混じった言葉。

わざとそんな言葉を発するのは、千歌を発奮させるため。

そして自分の傷付きをごまかすため。そんな風に感じられます。

しかし千歌はその言葉の意図も、そして過去の自分の言葉を模倣していることにも気づきません。そして梨子の言葉に本気で怒りを感じます。

「それ本気で言ってる?」

「それ本気で言ってるんだったら、私、梨子ちゃんのこと....軽蔑する」

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梨子は、これを見て千歌が思った以上に余裕がなくなっていることに気付いたのでしょう。
方向性を変えて、今度は自分と初めて会った日に千歌が登場させたあの「怪獣」を出現させます。

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「がおー!」「普通怪獣りこっぴーだぞー!」

恐らく、梨子が「東京」から来た自分を「上」に置いて発言していると感じ取ったから「軽蔑する」と言った千歌。
その意図を機敏に感じ取ったから、自分もまた千歌と同じ「普通怪獣」であることを表明する梨子。

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「やっと笑った」

「...私だってAqoursのメンバーよ」

「これでいいなんて思うわけない」

「どうすればいいか分からないの」

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千歌を発奮させれば、また何か新しい方向性を示してくれるのでは。

梨子はそう期待していただけで、梨子の中にも明確な答えは無かったこと、梨子もまた千歌と同じく傷付き迷っていたことが明らかになります。


■雨降らず

迷いの中に佇む千歌。

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ここで印象的なのは、今までだったら降るはずの雨が降らない所でしょうか。
ネガティブな状況では必ず降る雨。その雨が止むことで答えを見出すというのが、「ラブライブ」の基本的な流れ。しかしここではその「雨」が降りません。

例えばラブライブ!2期第1話では、穂乃果は「雨」を自らの「意志」で止ませます。それはラブライブ世界を超越した、超常的な力でした。不可能を可能にする強烈な力を「登場人物」に持たせた「ラブライブ!」。

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しかし、サンシャインではそのきっかけになる「雨」すら降らない。これは「ラブライブ!」と「ラブライブ!サンシャイン!!」とを比較する意味でも非常に象徴的な出来事だなと思うのです。

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朝、太陽へと向かう紙飛行機のイメージを夢見る千歌。何かの暗示を得たようにハタと跳ね起き、ある場所を目指します。

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「紙飛行機」は多層なイメージを与える存在ですね。

この文脈でとらえた場合、非常に抽象的にとらえるのが正解なのかもしれません。「紙飛行機」とは、人が作った最も原始的な「空を飛ぶもの」。
それは「自然」に空を飛ぶことを許された「神の造形物(鳥や虫)」に対する「人間の挑戦」の象徴でもあります。即ち「神」への挑戦の象徴でもあると思うのです。

Aqoursにはμ'sのような「デウスエクスマキナ」は無い。神様は彼女達に救いを与えてはくれないのです。

だからこそ、彼女達は自分の中にある「希望」に従って、走るしかない。胸の中にある「やりたい」「やらなきゃ」という「思い」を振り絞って戦うしかない。

「戦う」相手とは「何」か。

それはままならぬこの「現実」です。そして定められた「運命」です。

「やっても意味がないから」とか「統廃合になってしまうから」とか、そんなこととは関係なく「やりたい」のだから「やる」。そうしなければ自らの「運命」を切り開くことが出来ないから。それは「運命」への小さな「抗い」でもあると思うのです。

 

■世界の片隅で「がおー」と叫んだ怪獣(けもの)

沼津の、内浦の小さな学校の校庭で「がおー!」と「叫ぶ」千歌。

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全く無意味な行動。そして叫び。

でも、それは「普通怪獣」の、この無慈悲な世界への小さな「挑戦表明」でもあります。そこには「普通怪獣」の「普通怪獣」たる矜持があるように思えます。
そして同じく「普通怪獣」たちが、同じ意志を持って、同じ場所へ集まる。

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「諦めたくない」

「まだ何もしてないのに」

「負けてしまうこと」「認めたくない」。

「普通怪獣たち」が集まって、「無慈悲な現実」への挑戦を堂々と誓う。

「ムダかもしれない」「無理かもしれない」

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それでも「足掻いて」「キセキ」を手にする。

手にしたいと願う。

決して文字通り、「統廃合を阻止」することだけが目的ではないのです。

「統廃合」と「それを阻止できない」という「事実」は、この世界に数多とある「現実」や「運命」を「象徴するもの」に過ぎないように思います。

でも、それに唯々諾々と従うのでは、生きている意味がない。「戦う」。「戦って」「生きている意味を証明する」。

もちろん「勝てる」確証はない。それでもそこに「挑む」ことに意味がある。

「輝き」とは「待つだけでは得られない」。

挑むことこそが「輝く事」だと、そう主張しているように感じるのです。


■キセキとは

放送直後、キャストの皆さんは「キセキ」とカタカナで表記していました。

これは恐らく「キセキ」を「奇跡」という意味だけに限定したくないからなのではと想像できます。

かつて「ラブライブ!2期OP」である「それは僕たちの奇跡」のタイトルにおける「奇跡」とは、「軌跡」にもかけられたダブルミーニングなのでは、と考えたことがありました。 

それは僕たちの奇跡

それは僕たちの奇跡

 

” これは僕たち=μ'sの「奇跡」であり「軌跡」なのだから、君たちは君たちの「軌跡」を描いてほしい。”そんな意味があるのかな?と捉えたからです。

Aqoursはまさしくこの「軌跡」をここから描いていくのではないでしょうか。

何度倒れても、諦めず戦うこと。そんな「不屈の魂」とその「道程」を描く物語。

それがAqours「軌跡」

とても身勝手なことを言えば、彼女達の行く先を私も信じたいのです。

無慈悲な世界に産まれた「人間」の一人として。

「夢は消えない」物語を。その結実を。信じたいのです。

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...ということで、暑苦しいですが、第14話(2期1話)のハイライトでした。

ちょっとテンションあがって書いているので、こっぱずかしい文章になっている気がするけど(゚ε゚)キニシナイ!!

(誤字脱字は訂正しますけどね...)

さて、今回「雨降らず」なんて書いたのに、次回は雨の足音しちゃうんだってさ。どうなるんだろうね。。

今回も悪文を最後までご一読頂きありがとうございました。

またお会いいたしましょう♪